・ ブレンタ川沿いの、ヴィッラ・ヴェネタ  ほんの少し  n.2


  ブレンタ川沿いのヴィッラのご案内、その2をどうぞ!


  次はこちら、母屋らしき建物と、右にかなり壮大な門があり、
  左奥にもあれこれ細々と続くヴィッラ・ヴェッツィ・Vezzi.

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  こちらが母屋右手前の門と、

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  母屋の入り口部。 
  斜め前からなのは、正面の道からだと木が邪魔でして・・。

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  がこれは上に書いたヴィッラ・ヴェッツィとは名前、持ち主が違い、
  パラツェット・モリン・ティート・Palazetto Molin Titoと判明。

  パラツェットというのは、邸宅をパラッツォと言いますが、
  それよりも小さいという意味で、この辺りは大きなのが並びますので・・!

  1797年パドヴァの記録にマルコ・モリン・Marco Molinの名で載っており、
  母屋と納屋、教会、建設は1780年から1797年だろうと。
  ここにヴェネツィアのアッカデミアで学んだ画家エットーレ・ティート・
  Ettore Titoが借家775リーレで住んだのだそう。
       
              



  長く次々とあるので、shinkaiは別のヴィッラが並んでいると思わず
  こちらではどうやら細部を撮るのに興味を持ったようで・・。

  次にあった母屋上部の像と鐘。

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  扉と、その上の飾り像。

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  煙突もちょっと変わって繊細で、はは、

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  これは礼拝堂上部の飾り、天使像。

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  そして、牡丹、かな。

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  で、最初に上のヴィッラの名を間違えてヴェッツィと書きましたが、
  これは礼拝堂の前の説明文にあった名前の中の最初の名を、
  自分の写真のフォルダ名に勝手につけていたのでしたが、
  それをすっかり忘れ、はは、今回ヴィッラの説明を探すのに往生し・・、

  探し出した名は、ヴィッラ・バッフォ・ヴェッツィ・アヴォガドゥロ・ヴェッルーティ・
  Villa Baffo Vezzi Avogadro Velluti.

  一見長く続いていると思った上のパラツェット・モリン・ティートとは別物、
  と分かったのが、
  今までご説明のヴィッラの殆どが、ドーロのコムーネ内のサンブルソン・
  Sambrusonという所にあり、そのサイトからなのでした。

  サンブルソンにある他のたくさんのヴィッラの写真も見れます、どうぞ。
      

  で、ヴィッラの名にあるヴェネツィア貴族バッフォが建設したのが1661年、
  そしてやはりヴェネツィア貴族のヴェッツィに1704年に。
  1797年にアヴォガドゥロに渡り、最後が現在の持ち主でもあるヴェッルーティ。

  サイトで見つけたヴィッラ全体の写真がこれです。
  真ん中に母屋部分があり、左右にバルケッセ・納屋部が広がる形。

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  この一帯にヴィッラをヴェネツィア貴族が持ったのは、長らく地中海貿易、
  中近東一帯の貿易で栄えたヴェネツィアが、内陸部に土地を持ちはじめ、
  それの管理も勿論ですが、日曜とか夏に出かける別荘でもあったのですね。
  とりわけこのブレンタ一帯はヴェネツィアから近く船で来れますし、
  便利だったのでしょう。

  ヴィッラ・フォスカリ、または、ラ・マルコンテンタ のご案内
       




  所で、このヴィッラの事を調べていて見つかった意外な人物!
  はい、最後の所有者ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴェッルーティ・
  Giovanni Battista Velluti.

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  1780年マルケ州の現在コッリドーニア・Corridonia生まれ、
  1861年このヴィッラで亡くなった、
  最後の偉大なカストラート・去勢ソプラノ歌手、の一人と見なされる人物。
   
  本当の姓はStracciavellutiと長く、後半部分を芸名としたもので、
  去勢手術を受けたというよりは、多分医者の間違いの結果だったようで、
  本来は軍人になる筈だったのだそう!

  フォルリで1800年にデヴュー、ローマでも長く活躍し、作曲家たちの
  お気に入りにもなるほどの大変に優れた歌手であったようで、
  聞きに来る貴族階層やファンへの対応も見事、
  ナポレオンやロッシーニなども通ってきたそうで・・!

  その上、彼の身体条件にも関わらず、たくさんのエロチックな冒険談もで、
  1809年にはミラノの貴族階級の女性とのスキャンダルも。
  ええ、この目つき!! ははは。

  ババーリア、ウィーン、そしてサン・ピエトロブルゴにも公演に赴き、
  ここではロマノフ家の大公爵夫人の愛人となったと、きゃはぁ、凄い!
  ・・ブログアップした後に、年代から誰だったのかを調べてみよう。

  まるで映画「カストラート」を地で行ったような方ですが、ははは、

  1825年になり、24年ぶりにイギリスに行きロンドンで公演。
  最初は既に趣向が変わっている聴衆と対立、が最後は大喝采を。

  歴史考察にのっとった衣装にも留意した最初の公演もしますが、
  年齢からくる声量の衰えがあり、観客からの罵声も出るようになり、
  1829年ロンドンから去り、その後はごくまれに歌い、遂には引退。

  既に1822年に購入してあったこのヴィッラに引きこもり、
  一緒に購入していた土地で、新しい農業のやり方に興味を持ち、
  少数の友人やロッシーニとは文通を続けたものの、世間から引きこもり、

  1861年に80歳で亡くなった時、知らせを聞いた人々は
  まだ生きていたのかと驚いたそうで、既に遠い過去となった、
  音楽史上のカストラート歌手存在のシンボルだったと。

  カストラート歌手が17~18世紀に持て囃された背後には、
  彼らの声がボーイ・ソプラノのままで、それに加え男性の胸郭による
  声量の大きさが加わり、女性ソプラノとは違う素晴らしさと、当時の
  教会内では女性は歌う事が出来なかったという理由もあったと。
      
  ちなみに、この場面の中で失神する紳士はヘンデルです。


  いやぁ、こんな人物が出て来るとは思いもかけず、
  ブログをしているお陰でshinkaiは、様々な探検冒険を味わっている
  ようなもので・・、
  お陰様で、有難うございます! です。





  ブレンタ川は町脇を通り抜け、船の通行に橋が回る場所もあり、

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  いくつもの名も知らないヴィッラが点在しますが、

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  この写真の奥のヴィッラ、

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  このヴィッラ・フランチェスキ・Francheschiは、現在はホテルで、

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  レストランもあり、結婚式なども出来るという、サイトはこちらに。





  川は何度もあちこちでゆっくりと蛇行しつつ、       

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  これはドーロの東、ミーラ・Miraの市役所だったと思いますが、
  これもかってのヴィッラでしょうね。

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  翌日もブレンタ川に沿って行ききし、ヴィッラの写真を撮っていて、

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  今回の最後、ヴェネトのヴィッラの女王と呼ばれ、現在国の博物館、
  ブレンタ川の西の端ストラにあるヴィッラ・ピサーニ・Pissani.

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  素晴らしく壮大なヴィッラで、初めてブレンタ川沿いに見た時には
  本当に、わぁ~~お!!という驚きの美しさでした。
       
  2度訪問しているのですが、内部は写真禁止でご案内してませんが、
  あれこれ調べ、写真も集められましたら次回にでも、と意欲が。
  はぁい、うまく行きますように!




 *****

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・ ブレンタ川沿いの、ヴィッラ・ヴェネタ  ほんの少し  n.1

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  先日ヴェネトのブレンタ川・Brenta沿いの写真の欲しいのを
  思い出し、探していて、そういえばこれはまだご案内していなかったっけ、
  という事で、はい。

  ブレンタ川というのは、アルトアディジェ州のトレント辺りから流れ下り、
  バッサーノ・デル・グラッパからヴェネト州に入り、
  このヴェネトの平野を流れる頃にはゆっくりと、そしてヴェネツィア湾に。

  かってはヴェネツィアからパドヴァへの連絡の船が通っていて、
  現在は観光客用の船が夏の間運行中。

  というのも平野の眺めも美しいのですが、その中に点在する
  ヴェネツィア貴族の館、別荘が色を添え
  長閑で大変美しい趣なのですね。

       
  今回ご覧頂くのは7年前の、へへ、ちょうど5月のもので、
  あれこれご案内して来たのの落穂拾いとも言えますが、ははは、
  美しい川の流れ、周辺のヴィッラの様子をごゆっくりどうぞ!

  トップは釣り人、そしてイタ鴨の家族。





  今回の写真は殆どドーロ・Dolo周辺ブレンタ川沿いですが、
  地図をどうぞ。
  ドーロは赤く囲った位置にあり、西に見えるストゥラ・Straから
  続く細い水色の線、これがブレンタ川で、ミーラ・Mila、
  オリアーゴ・Oriago、マルコンテンタ・Malcontentaを通り、
  矢印を付けた先、フジーナ・Fusinaでヴェネツィア湾に。

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  パドヴァ、ヴェネツィアどちらからも観光船が出ており、
  途中こんな風にレストランで昼食をする場合もあり、
  船での昼食もあります。

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  ヴェネツィアからのブレンタ川遊覧船の様子。 その1と2

  ドーロの骨董市





  川の幅はそう広くはなく、とても穏やか。

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  ちょうど長男の家に遊びに行き、お昼ご飯を食べに出た時、
  この辺りにたくさんヴィッラがあるから、とぐるっと一回りを。
  で、その時に見た内から3つご案内です。

  ヴェネト各地に点在するヴィッラの数は一致幾つあるのか! 
  ですが、有名なパッラーディオのヴィッラ、そしてその壮大さでは
  群を抜くと思われるのもいくつかあるのですが、

  今回ご覧頂くのは、そんなに有名なのではありませんが、
       
  まずヴィッラ・フェッレッティ・アンジェリ・Villa Ferretti Angeli.
  我々は背後から近づいたので、こんなトウモロコシ畑も見え、はは、

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  正面はこういう感じで、

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  上部、タンパンの装飾。

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  こちらは横に続く倉庫部で、

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  正面部とはこういう感じでつながっており、

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  横には、こんな広い庭園が広がります。

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  ヴィッラを造ったのは、ヴェネツィア貴族の分枝ヴィチェンツァの
  フェッレッティ家で、
  その後リゴーニ・Rigoni、アンジェリ・Angeli家を経て、
  19世紀にはモチェニーゴ・Mocenigo家のものに。   
  で、正式のヴィッラ名はヴィッラ・フェッレッティ・アンジェリ・モチェニーゴ!
    
  20世紀初めに戦争の影響で衰退があり、がその後修復され、
  現在の持ち主はヴェネツィア県なんだそうで、
  ENAIP Venetoという事務所が使っている様子ですが、
  何の関係なのか、はぁ、読んでもさっぱりわかりませんで、ははは。
  ・・と笑いでごまかす。





  ぐるっと横から回り込むと、こんな風に先程の倉庫部があり、

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  きちんと正面から撮ると、こんな感じで、

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  今回これを書くのに調べ、なんとヴィンチェンツォ・スカモッツィ
  Vincenzo Scamozzi 1596年の作、と知りました!

  スカモッツィはヴィチェンツァ生まれで、パッラーディオが手掛け、
  彼の死で中途になったテアトロ・オリンピコ・Teatro Olinpico
  なども彼が仕上げたことで有名ですし、

  パッラーディオより40歳若かった彼は、パッラーディオの弟子の
  様にみなされ、偉大な名を遺した先輩パッラーディオの陰に
  半ば隠れていますが、実際は大変博識な勉強家であり、
  真のルネッサンスの建築家であったと言われます。
       
  最初の建築依頼がヴィチェンツァの貴族ですので、
  その関係もあったのかもですが、
  当時のヴェネトの第一級の建築家の彼に依頼というのは、
  やはり裕福な貴族であったのでしょう。





  shinkaiが撮ったのは、前庭がかなり広いでしょう?
  がサイトで、ブレンタ川からこんな風に見える写真を見つけ、

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  えっ、ひょっとして別棟があった?!と焦って平面図を探し!
  が、そうか望遠で撮ったか、と気が付き、ほっとした事でしたぁ。





  そして2番目のヴィッラは、やや小ぶりですが、こちらです。

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  これを撮るのに、目いっぱいに下がっておりまして、





  屋敷の門はこんな風にブレンタ川に面していて、
  今はちょうど門の前を通っている道も、当時は無かったかも・・。

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  門の両脇柱上の立像。

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  こちらが脇にあった門の彫像と、ヴィッラの名前。
  ヴィッラ・バドエル・ファットレット・Baroer Fattoretto.

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  隙間から覗くお屋敷。 
  一見手前は小さそうですが、奥は建て増しが見え広そう。

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  ヴィッラは名前にもある様に、著名なヴェネツィア貴族バドエル家、
  14世紀の初め頃からこの一帯に土地を持ち、その管理の為の
  田舎風館があったのだろうと考えられ、
  現在の形になったのは18世紀になってからの事と。

  左に見えるのが多分バルケッセ・barchesseと呼ばれる倉庫・
  納屋部分で、他に管理人の住居もあるそうで、
  1846年バドエル家はここを売り払い、その後数回持ち主が変わり、
      
  第2次大戦中にはドイツ軍の軍病院、その後英軍の倉庫となり、
  かなりの変革があった様子で、

  1945年にここを買い取ったのが現在の持ち主、門柱に
  名の見えたファットレット・Fattoretto、
  ワイン醸造業という事で、サイトを見つけました。


  サイトの最初のページに2つ項目があり、左がワイン醸造で、
  右がヴィッラのページに。
  ワインは特別高級ワインではなく、一般向け赤の様ですが、

  右のヴィッラのページからMUSEO・博物館に行くと、
  ヴィッラ内にある、土地とかっての農民文化、職人道具の
  大コレクションのVillano・ヴィッラーノ博物館の様子も見れます。

       
  奥は広大な庭園で、そうそう、持ち主があれこれ変わった内に、
  1903年に買い取った男爵シャンタール・Chantalが
  掘った池があるそうで、というのも、何世紀も前に
  僧侶たちが隠した宝物があるというので掘ったのだそう!
  見つかったどうかは・・、書いてありませんでしたぁ、ははは。


  サイトによると、ヴィッラとお庭、博物館の見学はガイド付きで、
  4月、5月、6月、9月、10月の祭日、15時、16時半、18時に。

  グループ10人以上は、予約すると年間を通してOK、
  予約すると、ここのワインとおつまみのサーヴィスも、という事で~す。





  前から見る庭園の奥、 木陰にはあれこれ隠れた像も見え、

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  という、ヴィッラ・バドエル・ファットレットでした。





  長閑なブレンタの流れを愉しんで頂き、

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  続きは、その2の方でご案内を。



 *****


  水彩+色鉛筆画ブログには、
  アップしています。    
  見てやってくださ~い!    



 *****        


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・ オアジ・チェルヴァーラ ・ シーレ河の自然公園  n.2


  オアジ・チェルヴァーラのご案内、その2を続けます、 どうぞ!


  一見野原に見えるのですが、地面が柔らかく、
  上で少し飛び上がると、揺れるのです!!      
  やはり湿気が多く、とても寒い、との事でした。

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  向こう岸に固まって咲いている黄色い花、 

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  そしてこんなに太い幹! ちょっと恐ろしいほど・・。

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  この表示の横に、夜行性猛禽類の飛行場。

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  木製のベンチが階段状に設えられ、ぐるっと囲われており、
  立ち上がらない事、袋から食物を取り出さない、大きな声で喋らない、
  を注意され、 もちろんワン君はダメ!
       
  当日ジョヴァンニから少し離れて座っていたshinkaiにまで、
  彼の新しいカメラの連続シャッター音がパシャパシャパシャと聞こえていて、
  うまく撮れた?
  ブログに載せても良かったら、一番良く撮れたのを(一枚)送ってくれない?
  と書きましたら、軽~くOK! と7枚送ってくれましたので、ははは、

  ここからは鳥ごとに、ジョヴァンニの写真を最初に載せますね。





  ジョヴァンニ・Giovanniの写真で、まずはメンフクロウを2枚。
  
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  下の写真に写っているのが、ステファーニア・Stefaniaで、
  彼女と夫のジャンフランコ・Gianfrancoがこのオアジの責任者。

  メンフクロウはイタリア語でバルバジャンニ・barbagianniと呼びますが、
  一度ジャンバルジャンと間違えましたっけ、ははは。





  そしてshinkaiの。 ネーヴェ・雪ちゃんとステファーニアは呼んでましたが、
  一番従順そうで、何度もあちこち飛んで見せてくれたので、写真が多く、

  正面の顔、

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  横面、 ほら、嘴の上の羽は上向きなんですね!

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  背中の、小紋柄のような美しい模様!

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  2人が観客の間を移動しながら、距離を取ったり縮めたり、
  一度飛ぶと食べ物を貰え、それで飛ぶのだそうですが、ははは、

  だからと言って、名前を呼ばれたからと言って即飛ぶのではなく、
  周囲を見回し確認しながら、自分の意思で飛びます。
  重量を尋ねましたら250gくらいと。
  夜行性と言いますが、昼間もちゃんと見えるのですね。

  肉を貰っているというのは分かるものの、何の肉かと思っていたら、
     
  あっちゃぁ、さすが猛禽類! この顔で、小さな足の見えるのをね!

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  飛び立つ姿。

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  お次はトラフズク。 
  ジョヴァンニの写真を1枚・una foto di Giovanni.

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  この子はかなり神経質で、あっちを見、こっちを見、なかなかで、
  shinkaiのは飛んでるのは良いのがなく、
  羽根色も地味加減で2枚だけ。

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  そしてフクロウの中でも大型の、王様フクロウという種。
  迫力あるジョヴァンニの写真を! 
  4 foto bellissime di Giovanni.

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  とりわけ最初の2枚、凄いでしょう?!
  こんな目つきで、この大きさ、羽を広げると1,5mほどのが
  自分の方に飛んで来たら、それだけでビビりそう!!
              
  観客の間を移動しながら飛ばせるのは、羽音やその空気を
  感じさせるためなのでしょうが、この大きさで、この爪だとね、
  大丈夫と分かっていても、ね、ははは。





  ではshinkaiのを。
  この耳みたいにピッと飛び出しているのは、眉毛なんだそうで!
  耳は羽根の中に隠れているんですよね。
  こういう艶やかな羽根を見ると触ってみたくてたまりません!

  前からと後姿。

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  ブレ加減ながら、飛んでいる姿を。  綺麗ですねぇ!!

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  ここのオアジには現在7羽ほどいるそうですが、皆オスで、
  というのも、メスが混じるとどうしても繁殖期の問題が出てきて、
  そうそう、ははは、
  大変神経質になるし争い事も起り、こういうショウは出来なくなると。
       
  メスはオスよりも1,5倍ほども体が大きいそうですから、
  飛ぶ姿はもっと見事でしょうねぇ!





  どう、みんなぁ、俺の飛ぶ姿を見てくれたかい?!

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  という、オアジ・チェルヴァーラの訪問記でした。



 *****        
       

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・ オアジ・チェルヴァーラ ・ シーレ河の自然公園  n.1

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  先日出かけて来たオアジ・チェルヴァーラ・Oasi Cervara、
  シーレ河・Sile沿いにある自然公園でもありますが、
   
  古くからの水車小屋も残り、水辺や沼地に住む動物たちの保護地
   でもあり、コウノトリ・Cicognaの休憩繁殖地を目指すプロジェクトも
   進んでおり、フクロウの飛ぶのも見れる、というので嬉しく見物に!

  上は入り口前の大きな写真で、「コウノトリのための巣」と。





  「オアジ」というのは、「オアシス」の意ですが、
  ここでは日本で言う「野鳥の楽園」的な意味も含まれており、

  今回出かけたのはトゥレヴィーゾの西にある、
  クイント・ディ・トゥレヴィーゾ・Quinto di Trevizoのコムーネに
  含まれるサンタ・クリスティーナ・Santa Cristinaにあり、
      
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  シーレ河にピオヴェーガ・Piovegaという流れが合流する場所。

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  地図の中にたくさんの水車の図が見えますが、かってはたくさん
  稼働していた様子で、上記した様にこのオアジの中にも残っています。
       
  水車小屋については、絵のブログの方でご案内を。

   
  所でシーレ河は、ここから西に遡っていくと地図上から消えます、
  というよりも、ずっと山から流れてくる川ではなく、一旦地下水となり、
  それが湧き出す地点がシーレ河の水源で、
  カステル・フランコ・ヴェネトとトゥレヴィーゾの中間点位に。





  入口を入ってきた所にある建物2つ、左が水車小屋で、
  右が母屋、現在はバールにもなっている建物。

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  水車小屋の前から見る流れ。 あいにくの曇り空で残念。

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  仲間の一人が、ほら、小鳥がいるよ!と。
  小鳥というより雛で、皆が入れ替わり立ち代わり見に近寄るので、
  そのうちに隠れてしまい・・!

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  ジョヴァンニにディスプレイを見せると、多分セキレイの子で、
  巣から落ちたんだろうと・・。
       




  沼沢地というのか、水の流れもあり、水草もたくさん生えていて、
  河骨も咲き始め。

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  白鳥も悠々と。 岸をつつき、何か口で取っては水の中でちゃちゃっと
  すすいで食べるのです、ミミズか何かかな?

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  少し先の、流れ越しにコウノトリの島となっている離れ地があり、
  まず目に入ったのは、その奥の高い送電線の上!!

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  手前で仲間達が高い棒の上に設えられた台上に巣を作っているのに、
  遠く高~い離れた場所を選ぶのもいるのですねぇ、ははは。





  コウノトリ・イタリア語ではチコーニャ・cicognaは、16世紀に
  イタリアでは絶滅、1985年から様々な再導入策がとられていると。

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  このオアジでは、まず大鳥舎の中に居住するコウノトリの一群を育て、
  それにつられて野生のコウノトリがアフリカと北ヨーロッパへの移動中に
  ここで休憩、繁殖することを願ったプロジェクトを立ち上げ、活動中。

  白コウノトリは沼地、または乾いた土地にいる小さな脊椎動物を食すので、
  コウノトリが自由に生殖しているというのは、その土地環境が良い事を示し、
  将来に向けての良い自然環境になるためへの、
  シンボルとしてのプロジェクトでもあると。

  ほら、西洋では赤ちゃん誕生を、コウノトリが赤ちゃんを運んでくる、と
  祝う、おめでたい絵柄もありますね。

  家の建設条件も違って来て、農薬も化学薬品を使うようになり、
  いったんはイタリアで途絶えたコウノトリの姿ですが、
  ぼちぼちと各地でコウノトリの巣、繁殖が見られている報告も。
       




  あの高い送電線の上のカップルの他に、3、4組ほど大鳥舎の外の
  棒杭の上の巣で抱卵中のや、巣作りが済んでカップリング中のがおり、

  ここのはすでに抱卵中で、もう一つの巣の上でも抱卵中でしたが、

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  ここは左がオス、フラッタリングと呼ぶ嘴をカタカタと鳴らす求愛をし、

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  と思ううち、そのお隣ではカップリングをして見せてくれ、ははは、

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  先程のカップルも負けじと始め、ははは、
  今日はサン・ヴァレンティーノの日だぁ!

  だって、イタリアではサン・ヴァレンティーノの日は、
  チョコレートの日ではなく、愛の日なんですもん!





  これが上で説明のあった大鳥舎の中で、ほら、子供のコウノトリも。

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  白に黒い羽根は、ちょっと見には、鶴を思い出させるのですが、

  羽根を広げたのを後ろから見ると、段だら縞!
  おお、おぬし、新選組にゆかりのお方かや?! あほ!

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  これは、うまく飛べない子がいた時にはここに連れてきて、
  ちゃんと飛べるようになるまで、飼育するのだそう。

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  サイトには、以前親に飼育拒否された子供を育てた、というのも
  記されておりました。

  サイトはこちら。 http://www.oasicervara.it/





  これがオアジ・チェルヴァーラの地図で、全体の広さは25平米。
  左下に見えるPの向かい側が入り口で、1が母屋、2に水車、
  その斜め上の島の3が、コウノトリの島。

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  我らは引き返し、2から見える左側の黄色のコースをたどり、
  野鳥の監視小屋や、亀達の囲いを見ましたが寒い日で誰も見えず!
  ぐるっと囲った7で、猛禽類の飛行を見て戻った、という行程。

  地図に水溜まりみたいに見えるのは、湧き水のある所。

  このオアジ自体の設備等は地元の銀行財団の資金で作られ、
  が運営は自営で、なかなか大変なんだそう。

  今回我々が行ったのは、我が写真仲間のジョヴァンニ・Giovanniの
  紹介で、彼は以前から何度もここに来て知っており、
  素晴らしいので皆にも、という事でしたが、
  子供達だけでなく、大人も楽しめる場所であったのは間違いないです!





  これはオアジを通り流れていく一部の流れで、この先まだ4か所程で
  合流し、滔々と流れていくシーレ河。

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  上の地図にも見えるクイント・ディ・トゥレヴィーゾでは、
  湖のように広いシーレ河も見ることが出来るのですよ。





  沼地の中を通る道は、こんな風に板が組まれており、

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  通り道の脇に咲いていた花々。

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  脇の流れに、乗り出す木々。

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  オオバンもいて、

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  奥には向こう岸に巣を作り、抱卵中のオオバンの奥方。

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  という所で、その2に続きます。


 *****


  水彩+色鉛筆画ブログには、
  アップしています。    
  見てやってくださ~い!    



 *****        
     
  
  いつもブログご訪問、有難うございます!     







・ 古きロンゴバルド教会と、 ティツィアーノの家始末記  N.2


  古い教会のご案内から、ティツィアーノの家に、 その2をどうぞ!

       
  所で同様のアーチの飾りがカステッロ・ローガンツゥオーロの教会
  そう、ティツィアーノの祭壇画を依頼した教会にもあった事を思い出し、

  そうだ、あの教会の前からだと、ティツィアーノの家も見えるかも、と
  解散後、まだ陽が高かったのもあり、寄ってみる気になりました。


  まずこの一帯の地図をどうぞ。
  薄いピンクで塗り分けられたのが、今回のカッペッラ・マッジョーレで、
  見学した教会は、東南端に近く、小さな赤丸のついた場所にあり、

27_GF.jpg

  北東にサルメデ・Sarmede、毎年国際児童絵本原画の展覧会が開催
  北西にヴィットリオ・ヴェネトがあり、http://italiashio.exblog.jp/i8/10/
  南に、我が村スコミーゴ、星のついている所に我が家、http://italiashio.exblog.jp/i12/
  そしてオリアーノ・Ogliano、http://italiashio.exblog.jp/23811624/
  一番下端にカステッロ・ローガンツゥオーロ http://italiashio.exblog.jp/9036585/





  これはオリアーノの丘の上、教会前から撮った
  カステッロ・ローガンツゥオーロの教会と鐘楼。

28-C12_8861_01_GF.jpg

  小高い丘の上に、こんな風に張り出した形ですから、ここからだと、
  例のティツィアーノの家が良く見えるかも、と思ったのでした。





  さて、カステッロ・ローガンツゥオーロの教会の、
  狭い入り口前の庭から見る、オリアーノの教会。

29-C12_8842_02_GF.jpg

  午後遅めの太陽光線が強く、逆光で色が良く見えませんが、





  高台にある教会の周囲から見るカステッロ・ローガンツウオーロの村は、
  新緑に彩られ、美しい畑、農家が広がります。

30-C12_8844_01_GF.jpg

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  で、確かこの方面と見るコル・ディ・マンツァ・Col di Manzaの
  ティツィアーノの家が見当たらず・・!

  で、たまたま通りかかったシニョーレに尋ねましたら、
  おお、よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりのうっぷん交じりに、

  北向きにこの風景の、右の大きな一群の建物

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  これ、屋根にあるパネルで、赤と青に見える屋根の建物ですが、

33-C12_8856_01_GF.jpg




  その奥に続く、家畜小屋といったか、これに遮られて、
  ティツィアーノの家が見えなくなったのだそう!!
  つまり、手前の長い屋根の奥に見える、
  茶の瓦葺きの屋根だけ見えるのがティツィアーノの家なんだそう!

34-C12_8858_01_GF.jpg

  いつから、と聞くと、大体20年かそこら前からで、農業関係組合か
  なにかの建物だそうで、本当に悔しそうに話してくれましたぁ!





  たまたまこの日の午後、教会でお葬式があったのを下の駐車場
  で見かけましたが、それの片づけでまだ教会が開いており、
  我々が話している所に出てきたシニョーラも加わり、

  幸運にも彼女はガイドをしている方の様で、
  例のティツァーノの絵のコピーが中にありますからどうぞ!と。
  
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  左の絵が見える礼拝堂にティツィアーノの祭壇画が。





  これがそう。 ヴィットリオ・ヴェネトのチェーネダの博物館にある
  修復画ではなく、これは修復画を基に近くの画家が描いたコピーで、
  額はこれがオリジナルなんだそう。

36-C12_8848_01_GF.jpg




  サイトで見た修復画の写真では良く分からなかった聖母の目元、
  肩の感じ、キリストの首の座り、なども、ああ、こういう感じなんだ、と。

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  右のサン・パオロ像は、多少はティツィアーノらしき面影があるように
  写真では見えたのですが、こうしてみると、
  ティツィアーノの男を描くときの鋭さは見えずで・・!

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  丁寧にあれこれ説明してくださったシニョーラによると、
  聖パオロが剣を持った形で描かれているのは、彼は大変舌鋒鋭く、
  言葉で人を切る、と言われたことの表現なんだそう。





  こちらは額の上部に取り付けられていた、蘇生するキリスト像。
  これもティツィアーノ作とは見えませんが、質問するのを忘れ・・、

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  これは上の絵の前にある、平常は閉じられている扉で、
  復活祭の時に開かれ、見ることが出来たのだと。

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  この絵と扉は、チェーネダの博物館にはない、というのをサイトで
  読んでおりましたので、ああ、これの事かと納得。


  ティツィアーノに払ったのは、記事に書いた契約の物品だけでなく、
  ニワトリや卵や野菜やと、とせっせと皆が運んだのだそうで、ははは、

  ティツィアーノの絵をオーストリア軍の略奪から守るために、
  巻いて天井裏に隠した当時の司祭さんは、絵の行方を尋ねられ、
  イタリアにある、とだけを答えたので、
  オーストリア軍人はローマにあるのかと、ローマまで調べに行き、
  見つからずまた戻り、司祭さんは監獄に入れられたとか。


  そんなにまでして描いて貰った、守った絵が修復しても元に戻らずで、

  その間に祭壇にあったフレスコ画、フランチェスコ・ダ・ミラーノの絵も
  綺麗に修復されたりで、

  結局、このフレスコ画のままが良い、という事になって、
  ははは、ある意味可笑しいでしょう?!
  ティツィアーノの絵は脇の礼拝堂に収まっている、
  という始末記でしたぁ!





  こちらがグーグルの衛星地図で確かめた様子。
  右下に教会、左上にティツィアーノの家ヴィッラ・ファブリスがあり、
       
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  そうですね、確かに教会からだと前を塞ぐ形に、大きな建物があり!

  シニョーラも言われてましたが、現在は個人の所有のヴィッラで
  勝手に近寄れず、
  shinkaiが見たように、裏から見る姿しか見えない、という事で、

  リンク先に載せたウィキペディア・イタリア版の最初の写真も、
  何十年も前のもの!という事で。





  教会前からの長閑で美しい風景をもう一度。

42-C12_8859_01_GF.jpg


  ティツィアーノも愛で、欲しがったこの土地の美しさと便利さ。
  残された絵も今はこんな状態で、
  家も手前の家の大屋根の上に半分だけ見える、
  という・・、歴史の変遷のお話でしたぁ。

       

 *****        
     
  
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・ 古きロンゴバルド教会と、 ティツィアーノの家始末記  N.1

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  1週間前の快晴の午後のひと時、近くのカッペッラ・マッジョーレ
  ・Cappella Maggiore の町外れにある「ロンゴバルド教会」の
  見学会に出かけてきました。

  この教会があるのは既に20年ほど前から知っていましたが、
  殆ど放置された状態で閉じており内部が見れなかったのが、
  今回参加しているグループでの見学があるというので喜んで!

  ロンゴバルド時代の教会というと、この近くではフリウリ州の
  チヴィダーレの教会がとても美しくて有名ですし、期待して。
       




  カッペッラ・マッジョーレの町の中心はこんな感じですが、高台にあり、
  ここから更に奥高地の田舎への上り口、という感じの小さな町で、

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  訪問した教会は、左下に伸びる道を行き、坂を下った平野部に。





  車で動くようになってからは余り通らない道なので、
  すっかり整備修復されていたのも初めて知り!

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  これはトップで見て頂いた道端の標識を入ってきて、南側からの眺め、
  教会周囲もきちんと整備され、洗われた壁の白さがとても美しく。

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  扉は正面と脇に2か所、窓も正面扉上に一つ、南側壁に2つ、
  張り出した小さな聖具室部に一つ、そしてこの写真では見えませんが、
  内陣部の南に一つ。 が建物の東、北には一つもありません。





  脇扉の上に TRINO ET UNI と彫り込みが見え、三位一体の意、
  教会が奉納された正式名「サンティッシマ・トゥリニタ・Santissima Trinità」
  を示します。

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  最初に出た「ロンゴバルド教会」の名が一般に知られていると思いますが、
  その他にも「マッタレッラ教会・Mattarella」とも呼ばれていて、
  マッタレッラというのは、この土地の古い持ち主の名前からと。





  教会前にあった掲示板で、一番上の平面図に見える白い線が
  現在の教会の形で、緑の線がロンゴバルド時代にあった小さな教会。
   
6-C22_8787 - Copia_GF.jpg

  つまり8世紀から9世紀建設とみられる古い小さな教会を内に含み、
  14~15世紀に大きく拡張されたのが現在の教会、という訳。

  ピンクの線は壁画のある部分で、南に張り出している聖具室部分は
  17世紀のもの、教会上に見える小さな鐘楼もその時のものと。





  皆がぼちぼちと車に分乗して集まり、神父さんが来られ扉を開け、
  最初に扉の中に頭を突っ込み覗いたshinkaiが見たのがこれ!

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  もちろん神父さんに「写真を撮っても良いですか?」と尋ね、
  OKを頂いておりますです。

  正面の「最後の晩餐図」の左脇、上、右にも少し見える石の跡、
  これがロンゴバルド時代の小さな教会跡の壁なのです。
  きっと高さも低かった事でしょう!





  この壁画は蛮族-ビザンティン様式11世紀のもの、6x3mの大きさ
  から、最初の教会の大きさが分かりますね。

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  銀貨の入った袋を握ったユダはテーブルのこちら側に小さく光輪なしで、
  キリストにべったりと寄りかかる使徒ヨハネ、
  その肩越しにユダにパンを与えるキリスト。
      
  長いテーブルの上にはワインもパンも、木の実のような小さい丸いもの、
  果物かな、細長いものも見えますね。

      
  上に「蛮族-ビザンティン様式・barbarico-bizantino」と書きましたが、
  ここで蛮族というのは北から来た民であるロンゴバルド族を指します。
       
  イタリア語では北からの侵入民族をバールバロ・barbaroと言いますが、
  その語源は、何をバルバルしゃべっているのか分からない、から来ている
  という説明が、昔大いに勉強になった小学生向け図鑑に書いてあり・・!
  ほら、日本語で、ベラベラしゃべりやがって、というのと同じです、ははは。





  皆が入り込まないうちにと、大急ぎで撮っていきますが、
  上の「最後の晩餐図」以外は、時代が下り15世紀のもので、
  画家の名も判明、というのは、殆ど絵の下に書き入れがあるのです。
       
  隣の「ザクロの聖母子像」 アントネッロ・ダ・セッラヴァッレ作
  近隣ヴィットリオ・ヴェネトの画家で、聖母子の左足元に膝まづくのが寄進者。
    
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  いつもこういう訪問の際のガイド役、ソリゴン・Soligonという
  グループの講師・元学校の先生が到着し、皆も席に着き説明が始まると、
  入り口の扉を閉めたため暗くなり、それもあり、
  今回の写真はイマイチよく見えないをご容赦願います。       
  フレスコ画自体が損傷し、傍で見ても細部がはっきり見えないのも多いのですが・・。

  全体の様子と、内陣後陣の全体像。

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  「磔刑図」はベルガモ出身のアントニオ・ザーゴ・Antonio Zagoの作で、
  他にもう一人アントニオ・グネール?・Gnerという画家の名も。





  正面脇左下には聖母子像と、上に受胎告知の天使像。

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  聖母子像の顔細部が教会のパンフレットに載っていて、これです。
  達者な筆さばきでしょう?

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  同画面の下部にはこんな風な、右に切れて眠る女性の顔半分と、
  白い犬がいて・・、ちょっと判じ物風。
  講師ソリゴンによると、白い犬は彼女の処女性を示す、といい・・。

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  上部「受胎告知」の天使。 横割れの衣装から脚を大胆に見せた天使が
  口に百合の花を咥えて、というちょっと変わった構図で、はは、

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  右脇、下の絵はかなり薄れていますが、上部の「受胎告知」のマリア側。

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  写真が良くなくて、申し訳ないです!

  聖母は謙虚に描かれているのですが、左上の天使の目つきとか、
  聖母の右奥の天使の顔もちょっと変わっており、
  左の戸棚の中も、いかにも家庭内の戸棚の静物画の様で、ははは。
  画家の名が判明しませんが、面白いセンスを持っていると・・。





  後陣の「磔刑図」上部、キリストの顔ははっきりしませんが、

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  右の男はこんな風に描かれているのを、サイトで見つけました。

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  磔刑図の背景が壁になっている構図も初めて見ましたし、
  壁の上の三角風の飾り、これはヴェネツィアの大運河、リアルト橋横の
  新装なった元のドイツ商館の屋根飾りと同じ。 





  左下には心痛で気を失いかける聖母が抱えられており、  

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  右下のこの人物たち、これが良く分かりません。
  お分かりの方、お教えください! 

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  「磔刑図」を見ていて、中央のキリストは槍で心臓を突かれ、
  手足も釘付けですが、左右の二人は腕を横木に縛られ、
  脚も縛られた状態で、脚に傷を受けています。

  今までこんな風に描き分けられたのを見た記憶がなく、あったかな?
  この違いは何を意味するのかと、
  改めて「磔刑」についてちょっと読んでみました。   
  で、知ったのは、

  磔刑はバビロニア期から行われていた極刑で、
  ローマ期においてローマ市民に適用されることはなく、
  奴隷や破壊活動者、外国人に対してのみの刑で、
  磔刑の前に行われる鞭打ち、これはまさに酷い拷問であった様子。

  常に十字の形でなく、一本の木でも、逆さまVでも行われ、
  十字の場合、縦の木はすでに建てられており、
  横木を受刑者が運ばされたのだそう。

  脚に見える傷については、いつも、こん棒か槌で折られたのだそうで、
  つまり磔刑というのは、長いゆっくりの死の苦しみの後に来る、
  貧血、肋骨の圧縮による窒息、または心臓の血液循環の滞り、
  虚脱による死、なのだそう。 恐ろしい!!

  キケロは磔刑について、一番残酷な体刑であり、一番陰鬱なもの、と。
       




  内陣の天井図。

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  内陣、北側の壁、上部。 これはアントニオ・ザーゴ作。
       
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  アーチ部の飾り画。

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  という事で、ロンゴバルド期の教会の、どこかちょっと違った教会かと
  出かけましたが、
  教会自体が後世に改装され、内部のフレスコ画も後世の物でした。
   
  が、一風変わったフレスコ画で、修復されて見やすくなっており、
  色も鮮やかで素朴で、なかなか良いと満足でした。

  1936年この一帯に地震があり、今残っているフレスコ画はこの時
  助かったものというので、
  案外それ以前は教会全部の壁がフレスコ画で埋められていたかも・・。



  神父さんが仰ったのは、ここは博物館ではなく、毎週金曜日には
  ミサが行われる教会ですのでお出かけください、との事でした。


  という所で、ティツィアーノの家の話題、その2に続きます。



 *****        
       
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・ サンタンティモ修道院再訪 ・ Abbazia di Sant'Antimo n.2


  修道院のご案内を続けます、 その2をどうぞ!


  鐘楼部分。 かって鐘楼は古い教会とは離れていたのが、
  増設建築にあたり、現在は教会本体に食い込んだ形に。

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  鐘楼と教会の脇堺にいる動物、牛かな?

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  1階部分は窓なしで、2階と3階には窓が一つですが、
  3階の方が大きく、そして4階の窓は2つ窓。 
  重量を減らす意味があったそう。

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  鐘楼のアーチ部から見つめる動物。

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  鐘楼の角から後陣部に
       
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  鐘楼の東向きの壁に碑がはめ込まれているのにご注目を。





  上部にはこの稚拙な聖母子像と天使、左には動物が上下に2頭。

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  右には翼と角を持った動物、しっぽの先が2つに分かれ・・!
  右の壁に見えるのは、頭が欠けたライオン像。
       
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  鐘楼と後陣の境にいるライオン像。 
  頭部が欠け残念ですが、見事なたてがみを持ち、ごつい手!

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  後陣の外に張り出す礼拝堂部分。 内部に祭壇がある礼拝堂は
  後陣から3つ張り出し、屋根の庇支えの動物と柄がそれぞれ見事!
       
  最初の張り出し部の右から左へ。

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  後陣の窓、隙間に咲く花。 サルビア種? 金魚草?

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  背後からの姿、鐘楼と内陣の高い部分と後陣。
  そして左に、古い教会部の名残部分。

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  ここは以前来た時見られなかった古い時代の教会部分ですが、
  9世紀カロリンガ期、後陣の張り出しの古い石組がなんとも良い趣!

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  庇の下にも、稚拙ながら何かの柄があったのが見て取れますね。





  後陣の真ん中と左の、礼拝堂張り出し部分の庇の下の柄。

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  長~い舌を出したあっかんべーが2か所あり、これが大好き!!





  後陣の上部の窓。 
  ここから、あのなんとも印象的な光が入るのですね。

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  南側からの眺めと、

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  鐘楼上部に見えた、鐘2つ!
  見る迄は、鐘楼には鐘がないのかと思っていましたが、あったぁ~!
  これも、アーケード式鐘楼というのでしょうか?

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  東にかけて広がる眺め。 
  上の写真の右中に見える道をやって来たのでした。

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  赤いヒナゲシもいくつか咲いていたのですが、金網があって。

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  突如と響く大型バイクの爆音! 
  こういうのはまるでこの場所に似合わないと思うのですが、
  しばらく後、また立ち去って行きました、やれやれ。

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  道脇の花を眺めながら、

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  漸くに射してきた陽に映える修道院を眺めながら、戻ります。       

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 *****

  モンタルチーノからのバス便が、やはり見つかりません。

◆ 追記 

  ブオンコンヴェントからモンタルチーノにバスがあり、
  モンタルチーノからカステルヌオーヴォ・アバーテ迄も連絡がある様子。
  詳しくは、moovit というサイトで、出発場所を打ち込むと、
  その都度の詳しい時間が分かります。
  moovit


  と、シエナからの半日ツァー、モンタルチーノの町と
  サンタンティモ修道院訪問、ワインの試飲込みで38エウロ 
  というのが見つかりました。
  イタリア語のみのサイトですが、お試しになりたい方こちらから。
  
       
  と、今まで修道院に住み祈りの生活と共に管理人でもあったフランス人
  修道僧たちが、36年間の共同生活体の後、南フランスはアヴィニョン
  近くの修道院に戻る、という2015年のニュースを見つけました。

  詳しい原因が出ませんが、どうやらイタリアの文化財保護管理事務所
  との関係、フランス側の母体派の問題もあるようで、
  2015年11月に立ち去り、

  というのでその後の経過を探しましたら、

  その後はモンテ・オリヴェート・マッジョーレのベネデッティーノ派修道院
  が引き継ぐ事になり、2016年1月から2人の僧侶が移殖すると。

  我ら凡人から見ると、平穏な祈りの生活に明け暮れているように
  思われる修道院生活、僧侶たちの日常ですが、
  今回はこんなニュースを見つけフ~ムと思い、
  まぁ、後継ぎが見つかって良かった、と思った事でした。

  という事で、これから行かれても大丈夫、
  修道院は12世紀間の歴史を紡ぎ続けて行く事でしょう。



 ***** 
       
  いつもブログご訪問、有難うございます!     







・ サンタンティモ修道院再訪 ・ Abbazia di Sant'Antimo n.1

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  トスカーナはオルチャの谷の西の山上にあるモンタルチーノの町。
  そこから南に9kmほどにあるサンタンティモ修道院

  9年前に訪問した時は修復の最中で、入り口脇、とりわけ後陣部分が
   覆われていて見ることが出来なかったのですが、
  3年前の春の再訪時は修復後で、じっくりと見ることが出来ました。

  今回はたくさん撮っていた写真を漸くに整理したので、細部をご覧下さい。

       
  トップは、モンタルチーノから朝早く出かけ、遠くに修道院が見えてきた所。




  隣接のカステルヌオーヴォ・デッラバーテ・Castelnuovo dell'Abateの村。

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  この村もサイトで見てなかなか良い趣の村で、見たいと思い寄ったのですが、
  村の下には駐車場があったのを、うっかり車で入り込み、何せ村の中も坂道!
  全然駐車できる隙間がなく、漸くにターンして村の下に戻り駐車。
  で、そのまま修道院の方に歩き、戻りには忘れており、へへへ、 
  通り過ぎただけ!という・・、に過ぎましたぁ。





  地図をどうぞ
  モンタルチーノ・Montalcinoの町から南に9kmほどで、

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  以前調べた時はカステルヌオーヴォ・デッラバーテまでバスの便があるのを
  見つけたのでしたが、今回はまるで時刻表が見つからず!!
  行ってご覧になりたい方、ご面倒でもどうぞお調べを!

  オルチャの谷の町ご案内、
  サン・クイリコ・ドルチャ・San Quirico d'Orcia
  バーニョ・ヴィニョーニ・Bagno Vignoni
  カスティリオーネ・ドルチャ・Castiglioe d’Orcia
  ピエンツァ・Pienza




  駐車場から舗装された道が遠回りに修道院を見る位置についており、
  様子を眺め楽しみながら、徐々に近づきます。

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  この道は以前は舗装されておらず、今回は道脇に駐車スペースも並び、
  多分観光客がかなり多くなっているのではないかと・・!

  以前の修道院訪問ご案内はこちらに。
  創設の由来、歴史の中での変遷等も書いてあります。





  行ったのは5月7日、朝の8時半頃で、まだ一人も見かけず、
  まだうす曇りの空で、それが少し残念でしたが、

  脇を通って、入り口前に来た所。

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  入口上部と、上部の2つ窓にはすでに鳩のカップル! 

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  入口向かって左脇、円柱状の動物。 先回は覆いがあって見えなかった、
  犬ではないと思うのですが、何の動物でしょうか?

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  そして今回は、向かって右脇の円柱状も見ていないのです!! あほ!
  サイトで見つけた写真には鳥のようなものが見えており・・。





  入口のごつい石組の張り出し部

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  扉上、まぐさ石の彫り模様と、

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  右側の飾り

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  脇にこんな表示がおいてあり、
   教会は終日開いています。
   教会すべての訪問はこの時間帯に、と。

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  となると、内部は写真禁止だし、祈りを捧げるわけでもないので・・、と
  大人しいshinkaiはつい入るのを躊躇い、表からこの1枚のみ!       

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  という事で、内部の写真はサイトで見つけたものを何枚か。
  光の入りようが大変美しい内部ですので、白黒写真2枚をまず。

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  脇廊上部はかっての婦人参拝客用・matroneo・マトゥロネーオと言い、
  そこからの内陣、後陣部分。

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  最初に建設されたのは8世紀頃とみられますが、12世紀に大きな繁栄期を。
  そして以前の小さな教会の周囲に一回り大きな教会が作られ
  その差が、珍しい内陣をめぐる通路に利用されているのも良く分かります。


◆ 追記 ◆
        
  ブログの引っ越しで頂いたコメントが消えてしまいましたので、
  のす爺ィ様、そしてクリスさんから教えて頂いた事も含め記します。

  かっての婦人参拝客用の側廊2階部分ですが、
  これはカトリックにおいては婦人席を分けるという事は余りなかった様子で、
  単に建築用語として残っている部分が多い、という事。


  そして「以前の小さな教会の周囲に、一回り大きな教会が造られ、
  その差が珍しい内陣を巡る周歩廊となった」に関しては、

  サンタンティモ修道院で買って戻ったガイドブックに図があり、
  修道院の発展過程が良く分かると思うので、どうぞご覧ください。

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16-3-img847 - Copia_GF.jpg

  外側のグレイの線は、現在の修道院の大きさ、形を示し、

  図1・水色の部分が一番最初の礼拝堂で、現在の祭壇の位置に。
  図2・赤色 現在も残るカロリンガ時代の教会、が加わり、
  図3・黄色 千年頃にベネデッティーノ派が造ったとみられる教会と鐘楼。
          これがちょうど現在の教会の周歩廊の内側の大きさで、
          鐘楼も今に残るもの。
  図4.黒色 鐘楼とカロリンガ期の教会を残し造られた、12世紀
          建設の現代の聖堂。

  という事から見て、前の教会をそのまま利用したというのではなく、
  大きさの差、そして周歩廊の建設アイディアが広まる事もあって、
  他にあまり類を見ない、(周歩廊を持つ教会はイタリアにも他に
  幾つかあるのですが、ここの様なすっきりのデザインではなく)、
  フランス風の素晴らしいデザインの周歩廊が出来たのでしょう。





  木製の十字架像のキリストのお顔

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  有名な円柱上の柱頭飾り。 ライオンに囲まれる預言者ダニエル。

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  クリスさんがコメントで、  
  カベスタニーの職人(巨匠)(Maître de Cabestany)。
  カタロニア、現在は仏領のペルピニャン近郊のカベスタニー工房の職人
  によるもの、と教えて下さいました。
  
  生没年不詳で、集団なのか個人なのかもはっきりしていないものの、
  ロマネスクの柱頭彫刻の中では異彩を放つ作品を残していると。





  他の柱頭飾り

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  クリプタ・地下礼拝堂の様子。

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  灯の灯った祭壇部。  美しい!

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  脇廊上部のマトゥロネーオからの写真といい、サイトでかなりの
  数の内部写真が見つかったので、確か写真禁止だった筈と 
  www.abbazia.com を見ましたら、
  写真は撮れるけれども、ミサの時はノー、とありました。 ん、もう!

  入口右脇の円柱上もですが、マトゥロネーオからの様子は見たいもの!
  カステルヌオーヴォ・デッラバーテの村も見残しだし・・、
  またのチャンスがありますように!
    




  中庭を挟んで見える奥の建物、修道僧たちの居住区と。

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  中庭の整理もされ、花も咲いていますが、
  以前はなかった柵が教会の横に出来ており、入れません!





  教会から続く建物。 壁の石が様々な色、形。

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  北側の壁の様子。
  多分古い教会時の石が脇廊上部に使われたのではないかと。

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  この修道院の建設に使われている石は、近くのカステルヌオーヴォ・
  デッラバーテからの石で、これは石灰華の層にアラバスター・雪花石膏の
  層が石目、縞目に入る石で、
  艶があり、周囲の色や季節によりその色が反映し、変化するのだそう。

  というのを読み、光の強い夏の写真や朝の曇った光により、
  ずいぶんと色が違って写っているのも分った様な・・。。





  入口側から脇に回ってすぐの壁、左上のはローマ期の物のリサイクル!
  コルヌコピア・豊穣の角笛を抱えた、近くのローマ期のヴィッラの物だろうと。

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  内庭に面した教会脇扉には、素晴らしいロンゴバルドの彫りの
  施された扉飾りがあるようですが、今回も見られずで、

  こちら側のは片面の柱と、扉上部の飾りのみで、

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  右側の下部分と、

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  上部、まぐさ石の装飾。 
  右端に、飾りをかぷっと咥える動物がいて・・!

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  サンタンティモ修道院のサイトは、 http://www.antimo.it/

  という所で、ご案内の続きはその2に。



 *****


  水彩+色鉛筆画ブログには、
  花のカステルッチョ 途中経過と、 スコミーゴ村の花 を
  アップしています。    
  見てやってくださ~い!    


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・ 「武器よさらば」  若きヘミングウェイの戦場体験  n.2


  若きヘミングウェイの戦場体験、続けます。 どうぞ!


  地図をどうぞ
  左下に見えるカジエール・Casierの上に小さな赤点をつけたのが、先回
  見て頂いたヴィッラで、その下の川沿い風景はその東を流れるシーレ河と。

26- fossalta_GF.jpg

  東側を流れるのがピアーヴェ河で、この河を挟んで北から南が
  ずっと大激戦地で、上に見えるファガレ・Fagaréには、
  第一次大戦戦死者の廟があり、

  地図には見えませんが、ピアーヴェ河を北に遡った
  ネルヴェーザ・デッラ・バッターリア・Nervesa della Battaglia、
  我が町コネリアーノの西にもっと大きな戦没者の慰霊廟があります。
       
  で、ヘミングウェイが負傷したのがフォッサルタ・ディ・ピアーヴェ、
  右下に囲った、ピアーヴェ河が蛇行している所。





  バスに乗り、こんな菜の花畑を見ながら進み、

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  ファガレの戦没者慰霊廟に。

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  葬られているのは、イタリア兵5191名、これは姓名判別の方で、
  身元不明の死者5350名、アメリカ兵1名、オーストリア兵1名と。

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  この部屋は下段に遺留品の展示もありますが、
  同じ形の、部屋内全面に四角い廟という部屋が殆ど。
     
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  管理の方から、なんとも物凄い話もお聞きしましたが、ここではパス。





  フォッサルタ・ディ・ピアーヴェ。 この一帯が大激戦地だったのですね。

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  戦時中に破壊された教会、現在はきちんと修復されてますが、
  その前にあったヘミングウェイの写真

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  下に見える説明には、
  一般にはヴォランティアには軍服とか火器は許されないが、
  ここではベルサリエーレの自転車に乗り、銃も付けているし、
  ポケットに手りゅう弾も。
  なので多分フォッサルタでは小さな戦闘にも参加したのであろう。
  こういうのは、どこでも行われていたと。





  金属板の碑にあったこの一帯の地図
  真ん中辺りピアーヴェが湾曲している部分、彼が負傷した所で、
  その下に橋が架かり、教会も見えますが、

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  橋はこれ。 多分私設の橋なのでしょう、
  渡り賃を取る料金所が真ん中に。

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  やはり料金所があったのですが、知らずでそのまます~っと
  渡ってしまった経験が! ははは。
  





  土手にこの鋼鉄の碑
    この土手で、アーネスト・ヘミングウェイ、アメリカ赤十字の
    ヴォランティアが、1918年7月8日の夜負傷した。

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  土手から見るピアーヴェ河湾曲部

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  皆土手を下りて岸辺に、上から見つめる18歳のヘミングウェイ。
    La guerra di Hemingway・ヘミングウェイの戦争

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  ピアーヴェ河湾曲部の地図。 濃い赤色の線が塹壕で、
  16の番号のある位置が、彼が負傷した場所。

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  ちょうどあの砂場が見えるあたりでしょうか。

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  1915年5月24日から始まったイタリアの第一次大戦。
  1917年の10月頃までは外部にあったこの一帯が、
  イタリア軍が現在のスロヴェニアのコバリード、カポレットの戦い
  (10月24日から11月9日)で惨敗し退却した事から、
  ピアーヴェ河を挟んでオーストリア軍と対戦することになり、
  一転して最前線となったというのですね。

  「武器よさらば」にも描かれているカポレットの惨敗、退却
  大変悲惨だったようで、
  shinkaiも現在のコバリードに行き、博物館も見学しましたが、
  なんとも・・!!
  負けが込んでいたオーストリア軍がドイツ軍に応援を求め、
  ついにドイツ軍が参加、毒ガスを用いたのも勝利につながったと
  いうのですが、博物館での写真には、ものすごいのもありました・・。

      
  そして1918年の夏、6月15日から23日にかけ、必死の反撃を
  掛けたオーストリア軍がピアーヴェ河を渡ることに成功し、
  フォッサルタの村は全破壊の状態にされたと。
  家から家、1mそして1m、という記述があったことからご想像を!

  1918年7月8日の真夜中を過ぎた頃
  ブーゾ・ブラート・Buso Buratoと呼ばれたこの湾曲部で、
  オーストリア軍の手りゅう弾がヘミングウェイの近くで爆発、
  または迫撃砲が着弾し、それで手りゅう弾が爆発とも、
       
  近くのイタリア兵一人が死亡、ヘミングウェイも負傷するものの、
  もう一人の負傷したイタリア兵を敵弾の届かない場所まで
  背負って救助し、
  その後敵の機関銃弾が右足に当たり膝もやられますが、
  這いずりながら自分も助かり、

  ミラノの軍病院に運ばれ、12回にわたる手術を受け、
  227に及ぶ破片が取り出されたと!





  これはヘミングウェイが被っていた帽子と身分証? 
  ウィキペディアから拝借。

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  昔読んだ本の解説などでは、第一次大戦に従軍記者として参加、
  なぞと書かれていたと記憶しますが、
  アメリカ赤十字に所属する救急隊員の補助で、毎日塹壕をめぐり、
  兵士達にタバコとかチョコレートとかの援助物資を配る、
  という事だった様子。

  彼は、自分が負傷しながらもイタリア兵を救助した、という事で、
  イタリア国から軍の銀メダル、自国アメリカからも戦争十字を授かります。





  「武器よさらば」に登場するイギリス人看護婦キャサリンとの
  ロマンスですが、

  こちら、ドイツ系アメリカ人アグネス・フォン・クロウスキー・
  Agnes von Kurowskyが、ミラノのアメリカ軍病院入院中の
  ロマンスの相手だったようで、彼より8歳年上の女性。
     
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  彼にとってかなり真剣な恋だったようですが、何せまだ若い19歳。
  儚い3か月間のロマンスと入院が過ぎ、

  彼は一旦バッサーノ・デル・グラッパの戦場に戻りますが、
  部隊が動員解除となり、 近い将来の結婚約束を語りながら、
  翌年1919年1月21日にアメリカに戻ります。
  3月、アグネスからイタリア人将校との婚約を告げる手紙が。





  アメリカに戻った彼は新聞記者をしながら書き始め、
  1926年「日はまた昇る」を。

  1929年、イタリア戦線での経験を盛り込んだ「武器よさらば」。
  現在のモンダドーリ版の表紙には、入院中のヘミングウェイの笑顔

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  カポレットのイタリア軍の惨敗退却、そして脱走が描かれている内容から、
  第一次大戦後のファッシスト党ムッソリーニ政権下のイタリアでは
  出版が1945年まで禁止されていたそうで、

  ヘミングウェイの翻訳で有名なフェルナンダ・ピヴァーノ・
  Fernanda Pivanoにより、1943年に秘密裡に翻訳されたものの、
  彼女はその為に逮捕も。

       
  その後ヘミングウェイはスペインの人民戦争にも参加し、
  「誰がために鐘はなる」そして「老人と海」も。 
  1954年にはノーベル文学賞受賞。


  重傷を負ったフォッサルタ・ディ・ピアーヴェを、後年ヘミングウェイは
  再訪し、
  1950年に「川を渡って木立の中に」に当時の様子を
  描いているそうですが、これは読んでおりません。

       
  切れの良い簡潔な文章で語るストーリーは、アメリカの古典と称えられ、
  私は若い頃に熱中した上記の作品よりも、「海流の中の島々」が好き。
  自分が年を取ってから読んだことにも因るのかもしれませんが、
  なんとも心に染み入る優しさにあふれた作品と。       
  べたつかない、乾いた人間の感情、優しさが心地良いです。





  ガイドをして下さった歴史家は、フォッサルタの後まだ案内したい場所が
  あったようですが、我らは内容の重さに少々疲れ、日も暮れかけるので
  早く家に帰りたく、
  バスの中で採決しましたら、まだ行きたい挙手は2~3名で、ははは、

  夕暮れ近い川を渡り

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  落日近い平野を走り、

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  すでに暗くなったコネリアーノに戻った、
  「ヘミングウェイの古戦場巡り」でした。




 *****        
       
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・ 「武器よさらば」  若きヘミングウェイの戦場体験  n.1

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  ヘミングウェイの「武器よさらば」は皆さんよくご存じと思います。
  あの簡潔なヘミングウェイの文体も素晴らしいですし、
  映画にも2度なっていますので、そちらもご存知かと。

  第一次大戦のイタリアの戦場で脚を負傷し、ミラノの病院で手術。
  その病院で知り合った看護婦と恋に落ち、脱走し、
  マッジョーレ湖をボートで漕いでスイスに逃れ、
  そこで彼女は出産するも子供共に亡くなる、という粗筋。

  これはヘミングウェイのイタリアでの戦争体験が元に、
  というのも有名ですが、

  4年前の春、「ヘミングウェイのヴェネトでの足跡」を巡るツァーに参加。
  漸くにその時の写真を整理しましたので、へへ、ご覧ください。

  上はイタリア軍の軍服を着たヘミングウェイ、19歳(18歳)
  



       
  当日最初に行ったのが、トゥレヴィーゾ南にあるカジエール・Casier
  というコムーネに付属のドッソン・Dossonという町。
  そこにあるヴィッラ・デ・レアーリ・Villa de Reali、17世紀。

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  おっちょこちょいのshinkaiはバスから降り標識を見て、
  えっ、レアーレ?!(王室の?!)かと驚いたのですが、

  いいえの、デ・レアーリ・de Realiという姓のジュゼッペ・マリーア、
  当時の著名な政治家が、元々はベネデッティーノ派の修道院を
  改装したこのヴィッラを購入。
  その後、その息子のアントーニオ、上院議員、が大きく再建築し、
  13平米の庭を整備したものなんだそう。





  母屋の主体はこんな感じで、

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  庭の奥隅に礼拝堂も見えます。

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  ウィキペディアから拝借の写真で、
  礼拝堂の正面と建物の様子を。

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  翼側の建物

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  広大な庭園。 

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  が、どうも良く分からないまま、何となしに奥の方に行きそびれ、





  ちょっとした考古学博物館式になっているロッジャの下なぞや、

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  開いている窓から部屋の中を覗いたり・・!

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  この日ガイドして下さった方は、地方歴史家というのか、
  第一次大戦におけるヴェネトの激戦地についてや、
  今回のヘミングウェイの足跡についての研究家の様子で、

    つまりこのヴィッラは特別ヘミングウェイに関係があるというのではなく、
  戦時中にここは兵隊の駐屯地にもなっていた様子で、
  その時に、彼もここに来て野営した、という関係だった様子・・!

  はぁ、まぁ、ヘミングウェイついでに、ヴィッラ拝見、とでも。





  漸くにヴィッラの中に入れ、お部屋を見れました。
   
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  古い貴族のお屋敷を拝見では、大抵懐かしい趣の写真があり、
  そんなのを見るのが好きですが、今回も美人さんがおられ、
  懐かしいジョヴァンニ・パオロ2世教皇のお顔も!

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  で、この方ではないと思いますが・・、

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  デ・レアーリ家の最後の後継者テレーザが、1900年に
  侯爵ジュゼッペ・ディ・カノッサ・Giuseppe di Canossaと結婚、
  1937年からこのお屋敷はカノッサ家の財産になっているのだそうで、
  現在の所有者はグアリエンティーナ・グアリエンティ・ディ・カノッサ・
  Guarientina Guarienti di Canossa.

  カノッサって、あのカノッサ?! と思われた方、
  はい、左様でございます。 
  あのカノッサ、10世紀からの貴族の家系、トスカーナ辺境伯、
  マティルデ女伯の下で「カノッサの屈辱」事件もあった、
  あのカノッサ家ですが、
  現在の上の麗々しいお名前の方はどの分枝か、存じませんです。


  「モンテクリスト伯」に、カヴァルカンティ・ディ・カヴァルカンティという
  イタリア貴族の騙りが登場しましたっけ、ぷっぷ。
        




  これは美しいお部屋でしょう?

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  でも、この小部屋の感じの方が好きだなぁ・・!

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  これは門扉の所にあった標示で、
  ほらね、「グアリエンティ・ディ・カノッサ」が見えるでしょ?!

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  見送って下さる管理人、掌に入るほどのチビわんこを抱いて、
  やれやれ、野蛮人どもが帰るわい、という所、ははは。

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  我らはそれからバスで少し走り、地図で見ると多分シーレ河
  Sileと思うのですが、その川岸を歩きながら、ガイドさんの説明を。

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  ですが、川岸の細い道でグループ全体が細い列になっていて、
  ガイドさんの声はまるで通らず、後ろから付いていく我ら不良どもは、
  ははは、好き好きに写真を撮り、時間の過ぎるのを待つばかり。





  多分、このあたりにも若きヘミングウェイが出没したのでしょうが・・!

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  そう、「若きヘミングウェイ」、本当に若かったのです!
       
  1899年7月21日、現在のシカゴ生まれ。 
  父親は医者、母親は元オペラ歌手志望。
  小学校へはあまり熱意なく通ったものの、ハイスクールで彼が
  文学に向いていることを発見した良き教師2人に出会い、
  彼らに励まされ、初めて学校新聞に発表。

  1917年卒業後大学には行かず、カンサス・シティでモダンで斬新、
  公平な記事を特徴とした地方紙「カンサス・シティ・スター」で働き始めますが、
       
  この年4月6日アメリカは第一次大戦に参戦、彼も仕事を捨て
  ヨーロッパでの戦いに志願するものの、視力の問題から、
  赤十字の救急車の運転手としてイタリアへの派遣が決まり、
  2週間の教練と10日間のニューヨーク滞在の後、1918年5月23日
  フランスのボルドー行きに乗船、5月29日上陸。
  ヘミングウェイ18歳!

  当時アメリカ側から参戦志願した若者たち、大学生の中には、
  ウィリアム・フォークナーやフランシス・スコット・フィッジェラルドなども。

  5月31日パリに。 ドイツの大砲で被害を受けた街並みを見た後、
  汽車でミラノに。
  何日かを緊急隊で働き、この時に近郊で、空爆を受けたくさんの
  女性工員が死んだ工場を見、
  彼にはこれが最初に直接に見た戦争での死者だったそう。

  そこからヴィチェンツァに、国際赤十字アメリカ部門のスキーオに
  配置されたものの、もっと戦争貢献と自分の記述のためを考え、
  短期間ながらもゴリーツィア、トリエステ近くのまさに最前線にも。

  が彼の所属していた部門はかなり平穏だったため、
  もっと実際の戦場に近い場所への配置転換を願い、
  こうしてピアーヴェ河の下流、フォッサルタ・ディ・ピアーヴェ
  Fossalta di Piaveの近くに、塹壕の補助員として配置に。



  という所で、その2に続けます。


*****


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・ ヴェネトの春、 そして ティツィアーノの家  n.2


  ヴェネトの春、ティツィアーノの家、 その2をどうぞ!


  さて戻ろうかと振り返る畑の脇道、と言っても麦が植わっていない端、
  という事でして・・!
  立木にも新緑の芽吹きの色が見え。

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  来る時は殆どヴィッラばかりを眺めて入り込んで来たのを、
  戻りは足元も見つつで、
  たくさん土筆もあるのに気が付き! 日本のよりずっと大きいのですよ。
    
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  後ろに濃いめの色で見えるのは、立木の向こうの溝で、
  湧き水が流れているのですね。





  これはなんという花でしたっけ?

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  葡萄畑の畝の先頭に、勢い良く新芽が伸びる薔薇の株

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  葡萄畑の薔薇の木は、何も美的要素の為ではなく、
  葡萄の木とよく性質が似ているので、葡萄の病気の早期発見に
  役立つのだそう。





  可愛い新芽が出てきていて、

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  葡萄の新芽を見ると、こちらも何となしに微笑みそうな可愛さ!





  辿ってきた道をもう一度

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  そして、タンポポの黄色、木々の新芽の色。

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  車に戻り、道がどこに出るのか分かっているのでそのまま進み、

  道幅が広くなった所で見つけたこの古い家
  奥には大きな新しい家が2棟あるのですが、これは前庭に。

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  下の写真が入口側で、
       




  脇には、藤が咲き始め

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  そして辿る道の名は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ通り

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  気候温暖なこの一帯、道脇にはオリーヴの畑

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  スコミーゴ村の上り坂の前まで戻ってきて、
  満開の白い花と、広がる葡萄畑

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  家に戻り、ヴィッラ・ファブリスへの接近方法を再検討、はは。

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  グーグルの衛星写真で確かめると、shinkaiが近づいた北東側は
  家の裏側で、やはり表側、南側には車寄せの前庭もあり、
  左に伸びる並木道が、一般道からヴィッラへの並木道で、
  他にはヴィッラへの接続道はなく、やはり近寄れないなぁ、との結論。





  所で、肝心のティツィアーノが描いた祭壇画ですが、これです。

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  最初見た時、えっ、何、これ?! と驚いたのですが、
  理由を知り、納得もいきましたので、ご説明を。

  聖母子と、左にサン・ピエトロ、右にサン・ピエトロ
  画布の大きさは、両聖人が190x57,190x70cm、
  聖母子部分が240x80cm。

  祭壇画は注文を受けた6年後の1543年に納められた後、
  ずっと教会にあった訳ですが、

  サンティ・ピエトロ・エ・パオロ教会と知り、教会は知っているけど
  えっ、絵は見てないよね、と少し泡を喰って、
  以前の教会内のブログ記事を見直したほどですが、ははは。

  第一次大戦の勃発で、当時の教会の司祭殿がオーストリア軍に
  奪われては大変と、画布を教会の天井の下に隠したのだそう。

  司祭は尋問を受け逮捕もされたのだそうですが、
  隠し場所は発見されず、無事に!

  終戦後、無事だった絵も天井下から運び出されたのですが、
  なんと湿気のため、絵の具が剥げ落ちた酷い状態になっており、
  修復しても取り戻せないほどの落剝ぶり!!

  で現在は教会にはなく、
  ヴィットリオ・ヴェネトのディオチェザーノ聖美術博物館にと。。

  何とかオーストリア軍の没収を逃れようと隠したものの、
  こういう結末になるとは?!

  本当に残念ながら、ティツィアーノらしい切れ味がまるで見られず、
  ぬるっとした肌合いの、そこらの地方画家の絵の出来具合の様で、
  本当に残念!
  最初はヴィットリオ・ヴェネト(チェーネダ)に見に行こうと考えましたが、
  これでは見に行くほどの魅力を感じませんで・・、失礼。
       
  あれほどの高価な祭壇画でしたのに、
  勿体無いというか、逆に可笑しくもあり・・!
       




  という所で気分を変え、
  お口直しにイタリアの白い桜をどうぞ! 美しいでしょう?!

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  いつもブログご訪問、有難うございます!     







・ ヴェネトの春、 そして ティツィアーノの家  n.1


  ここの所春めいた陽射しの日が続いている、
      こちら北イタリア、ヴェネトです。

1-DSC06137_GF.jpg

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  日曜にヴェネツィア・メストレに出かけるので、家に戻る前に
  以前から気にかかっていた「ティツィアーノの家」、
  近くのコッレ・ウンベルト辺りにあるらしい家を探そうと思いつき、
  土曜の夜調べましたら、何と近い! 
  では! と寄り道し、見つけました。

  今回はそのご報告と、ヴェネトの春の野ののどけさを!

   
  上は日曜の朝歩いた時に見た満開の八重桜と、藤の咲きかけ
  陽が昇った後じきの色です。





  さて、「ティツィアーノの家」と呼ばれるものですが、
  ウィキのイタリア版で見る写真はこれで、赤い矢印の家。
  背後の山並みから見て、これは南側から撮ったものですね。

3-Tiziano_caseta-freccia_GF.jpg

  「ティツィアーノ・Tiziano」という名前だけで通じる
  16世紀のイタリアの大画家。

  学び、工房と家を持っていたヴェネツィアが彼の本拠地だったわけですが、
  ちょうどヴェネツィアとカドーレの中間に当たるカステッロ・ローガンツゥオーロ
  Castello Roganzuooloにも家を持ち、
  旅の行き戻りに寄り、気候温暖なこの地で保養していた、というのですね。

  がその後に知った事は、この家はカステッロ・ローガンツゥオーロの
  教会の祭壇画を描き、その支払の一部として受け取った、というので、
  支払いの一部?! 家を?!と驚き、
  尚の事、どこにあるのか興味を持っていたのでした。





  家は、現在の持ち主から「ヴィッラ・ファブリス・Villa Fabris」と呼ばれ、
  グーグル地図で検索しましたら、何の事はない、簡単に即見つかりまして、       
  我が家(Casa)から車で8分! 歩いても行ける位置!

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  地図の右下、カステッロ・ローガンツゥオーロと赤線で囲った上に打った赤点、
  ここにティツィアーノが祭壇画を描いたという教会。


  コッレ・ウンベルトへの道を途中で曲がって、それから・・、と頭に入れ、
  木々や丘で隠れていないと良いけれど・・と願いつつ、出かけました。





  心配することは何もなく、田舎道をゆるゆると進むうち、
  進行方向右の丘の上に、あっ、あれだ!と見つかり、

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  間の木々が邪魔ですが、今はまだ殆ど枯れ木ですので良く見えます。





  同じ丘の上に並ぶ家、大きな農家もこんなふうに見え、

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  周囲は春爛漫という感じで、花が咲き乱れ、

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  道を挟んでの向こう側の葡萄畑の畝の間には、タンポポが満開!
  まさに春は黄色から!  

9-DSC06171_GF.jpg




  立木の上に見える泥棒カササギの巣。 

10-DSC06172_GF.jpg




  立木越しの姿以外には近寄る方法は無さそう、
  また出直してもと車に戻り、ほんの100~150m程行った所に
  ちょうどこのスペースが有り、ここから奥、畑の脇を通れそうな感じ! 

11-DSC06177_GF.jpg




  表示版があり、この辺りはハイキングコースとしても利用され、
  11~12kmのコースで水車があるとか、有名なヴィッラとか・・。   

12-DSC06178_GF.jpg




  立木の隙間から見る辿ってきた道。 のどかな風景でしょう?!
  右奥の大きな農家も、窓の作りなどから見て、古いかなりの農家。

13-DSC06180_GF.jpg

  ちょうど道のカーヴの所に白い標識が見えますね。
  あそこまでがコッレ・ウンベルトになり、今このshinkaiのいる場所は
  カステッロ・ローガンツゥオーロ。
  そして車を止めた道脇のすぐ先10mほどには、サン・フィオール・San Fiorと
  お隣のコムーネの標識が見え、
       
  このティツィアーノの家のある丘 コル・ディ・マンツァ・Col di Manzaは、
  コッレ・ウンベルトとサン・フィオールの隙間に細長く飛び出している位置。





  道の左側にも、古い農家が細長く続くのが見えます。

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  しめしめ、ここからだとよく見える、とヴィッラを目指し進みます。

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  同じ丘の並びの大きな農家も、この位置で見え、
  傾斜地には葡萄畑と、手前は麦畑。  

17-DSC06194_GF.jpg




  かなり歩いて、建物全部が見える奥まで入り込み、

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  左の大きなのが、多分最初に建てられたティツィアーノの家・ヴィッラで、
  右に続くのは後からの建て増し部分かも。
  一番右に離れて見えるのが、家の礼拝堂部分と。 

  どの窓も皆閉じられていて、右に見える入り口の張り出し屋根の上に
  一つだけ明り取りに細く開けられた鎧戸が見えるのみで、

  こういう感じではいくら厚かましくとも、丘を上る気にはなれませんね。
  まして、公開されているヴィッラではありませんので・・。    
    
  まぁ、長年気にかかっていたティツィアーノの家が見つかった、で納得



  上記した教会の祭壇画の支払いの一部としてこの家を、というのは、
  近年研究が進んで分ったそうで、詳細が見つかりましたのでご説明を。

  ティツィアーノの画料は大変高かった、というのはいささか承知でしたが、
  このカステッロ・ローガンツゥオーロの教会から依頼された
  この祭壇画の画料は200ドゥカート

  これが現在においてどの程度の価値になるのか、
  ご存知の方ぜひお教えくださいませ!!
  あれこれ探しては見ましたが分らずで、他の絵の画料についてでも
  宜しいので、教えていただけると有難いです!

 ***

  嬉しい事に、シニョレッリさんがコメントで教えて下さったので、
  忘れずにコピーしたのを、ここに掲載させて頂きます。

  ヴェネツィア金貨の価値ですが、手っ取り早い所では早稲田大学の
  林要一先生の「ルネサンス期の傭兵隊長」の論文が良いと思います。
  「林要一『ルネサンス期の傭兵隊長』」で検索すれば、そのpdfが
  ダウンロードできます。
  その中で6万円と記述されていますが、日伊の物価差を考えないといけないと
  書かれていたかと思います。
  私の友人の検討に拠れば、10万円と考えておけば間違いはないと言ってます。
  ティツィアーノの画料ですが、ヴェネツィア共和国から依頼された仕事の一部に
  付いては契約書が残っているそうで、肖像画で300ドゥカートだったとの記録が
  あるそうですが、原資料に当たる術がないので、お聞き流し願います。

  という事で、1ドゥカートが約10万円と考え、200ドゥカート、の
  代替の目安が付き、約2千万円ほどですか、
  これだと3階建てのヴィッラと土地、+アルファ、というのも納得ですね!

  シニョレッリさん、再度お礼を申し上げます

  ***


  祭壇画は1543年に注文、6年後の1549年に納入されましたが、
  これはティツィアーノが64歳の時で、
  すでにイタリアのみならず国際的にも名を成した画家が、
  ちょうどこの1543年に、この一帯から2枚の注文を受けていまして、


  カステッロ・ローガンツゥオーロよりも遅く1552,3年に納入された、
  ドゥオーモの大祭壇画が、 456x270cm、こちらです。

20-sTiziano_Vecellio_-_Pala_di_Serravalle_(1542-47)_GF.jpg

  ティツィアーノがこれら2件の絵画注文を受けた理由として
  3点考えられるそうで、

  セッラヴァッレのサルチネッリ家、コネリアーノにもサルチネッリ家の
  邸宅があり、現在は市の絵画展の催しに使われている邸宅で、
  つまりお金持ちの一族。
       
  で、このセッラヴァッレのサルチネッリ家・Sarcinelliに、
  ティツィアーノの愛娘ラヴィーニア・Laviniaが嫁いでおり、
  ここカステッロ・ローガンツゥオーロからだとほんの数キロの距離で、
  会いに行けるという理由、

  そしてヴェネツィアと生地カドーレとのちょうど中間地点、気候温暖、
  風光明媚のこの地の注文を受け、ここを基地にしようとした、という理由。

  基地というのは、画家ティツィアーノはここで保養しながら、

  その片割れの実業家ティツィアーノ、また彼の一族ヴェチェッリオの
  事業の中心管理事務所としての基地なのですね。

  すでに生地ピエーヴェ・ディ・カドーレから南に下ってきた所に
  一族が持つ製材所が2軒あり、、
  ここでの材木をヴェネツィアに運び販売するための管理。

  そしてこのカステル・ローガンツォーロの農製品、穀類、ワインを
  自家消費以外をヴェネツィアで販売する事、などなど。



  どうやら最初の契約では祭壇画の画料として、土地と家を、という事
  だった様ですが、
  大雑把だったのを、ティツィアーノにうまくやられたのではないかと・・!

  1554年8月祭壇画が納入された後、9月にも分割金も受け取らず、
  1556年に教会の管理者との支払いについての話し合いが漸くにつき、
  今後8年間に渡って支払う事、という物品明細があり、

  ・1スターロ・staro値8リーレの、穀物を5スターロ =416,585リットル
  ・1コンツゥオーリ.conzuoli値55リーレの、ワインを
   16コンツゥオーリ  =1248リットル
  ・建築のための資材をフレゴーナ・近くの石材のある所から運ぶのに、
   工人一日の賃金を4ソルドとして、各人に支払う事
       
  とあり、最後にティツィアーノへの支払額が26リーレ不足になり、
  支払われたと・・!!


  上記したスターロ、コンツゥオーロというのはいずれも計量の分量基準で、
  ローマ期からのものだそうで、
  スターロは町によって基準が変わり、ヴェネツィアでは83,317リットル、
  コンツゥオーロは約78リットルだそうで、 

  shinkaiが計算機を叩いて出た数字が、上の=で、これを8年分!!

  8年間というのは、ヴィッラ建設を8年間で、という事からの様ですが、

  それにしても、本当に、計算に強い!という気がしません?
  まさに、偉大な画家でありますが、頭の中の働きは実業家!

  こうして彼はこの後24年間を安楽に生き、86歳で亡くなります。
       
       



  丘の上のに広がる林、そして空と雲

21-DSC06203_GF.jpg

  大快晴の日のお昼時、逆光でコンパクト・カメラのディスプレイでは 
  何がどれくらい写っているのかも確認できないほど・・!

  う~ん、この雲はティツィアーノというよりは、ゴッホだなぁと、ははは。





  畑の向こう、葡萄畑越しに遥かに見えるオリアーノ村の教会と鐘楼

22-DSC06209_GF.jpg




  その右の奥には、はるかフォルメニーガの教会も。

23-DSC06210_GF.jpg



  という所で、その2に続きます。



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