・ ブレンタ川沿いの、ヴィッラ・ヴェネタ  ほんの少し  n.2


  ブレンタ川沿いのヴィッラのご案内、その2をどうぞ!


  次はこちら、母屋らしき建物と、右にかなり壮大な門があり、
  左奥にもあれこれ細々と続くヴィッラ・ヴェッツィ・Vezzi.

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  こちらが母屋右手前の門と、

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  母屋の入り口部。 
  斜め前からなのは、正面の道からだと木が邪魔でして・・。

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  がこれは上に書いたヴィッラ・ヴェッツィとは名前、持ち主が違い、
  パラツェット・モリン・ティート・Palazetto Molin Titoと判明。

  パラツェットというのは、邸宅をパラッツォと言いますが、
  それよりも小さいという意味で、この辺りは大きなのが並びますので・・!

  1797年パドヴァの記録にマルコ・モリン・Marco Molinの名で載っており、
  母屋と納屋、教会、建設は1780年から1797年だろうと。
  ここにヴェネツィアのアッカデミアで学んだ画家エットーレ・ティート・
  Ettore Titoが借家775リーレで住んだのだそう。
       
              



  長く次々とあるので、shinkaiは別のヴィッラが並んでいると思わず
  こちらではどうやら細部を撮るのに興味を持ったようで・・。

  次にあった母屋上部の像と鐘。

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  扉と、その上の飾り像。

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  煙突もちょっと変わって繊細で、はは、

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  これは礼拝堂上部の飾り、天使像。

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  そして、牡丹、かな。

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  で、最初に上のヴィッラの名を間違えてヴェッツィと書きましたが、
  これは礼拝堂の前の説明文にあった名前の中の最初の名を、
  自分の写真のフォルダ名に勝手につけていたのでしたが、
  それをすっかり忘れ、はは、今回ヴィッラの説明を探すのに往生し・・、

  探し出した名は、ヴィッラ・バッフォ・ヴェッツィ・アヴォガドゥロ・ヴェッルーティ・
  Villa Baffo Vezzi Avogadro Velluti.

  一見長く続いていると思った上のパラツェット・モリン・ティートとは別物、
  と分かったのが、
  今までご説明のヴィッラの殆どが、ドーロのコムーネ内のサンブルソン・
  Sambrusonという所にあり、そのサイトからなのでした。

  サンブルソンにある他のたくさんのヴィッラの写真も見れます、どうぞ。
      

  で、ヴィッラの名にあるヴェネツィア貴族バッフォが建設したのが1661年、
  そしてやはりヴェネツィア貴族のヴェッツィに1704年に。
  1797年にアヴォガドゥロに渡り、最後が現在の持ち主でもあるヴェッルーティ。

  サイトで見つけたヴィッラ全体の写真がこれです。
  真ん中に母屋部分があり、左右にバルケッセ・納屋部が広がる形。

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  この一帯にヴィッラをヴェネツィア貴族が持ったのは、長らく地中海貿易、
  中近東一帯の貿易で栄えたヴェネツィアが、内陸部に土地を持ちはじめ、
  それの管理も勿論ですが、日曜とか夏に出かける別荘でもあったのですね。
  とりわけこのブレンタ一帯はヴェネツィアから近く船で来れますし、
  便利だったのでしょう。

  ヴィッラ・フォスカリ、または、ラ・マルコンテンタ のご案内
       




  所で、このヴィッラの事を調べていて見つかった意外な人物!
  はい、最後の所有者ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴェッルーティ・
  Giovanni Battista Velluti.

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  1780年マルケ州の現在コッリドーニア・Corridonia生まれ、
  1861年このヴィッラで亡くなった、
  最後の偉大なカストラート・去勢ソプラノ歌手、の一人と見なされる人物。
   
  本当の姓はStracciavellutiと長く、後半部分を芸名としたもので、
  去勢手術を受けたというよりは、多分医者の間違いの結果だったようで、
  本来は軍人になる筈だったのだそう!

  フォルリで1800年にデヴュー、ローマでも長く活躍し、作曲家たちの
  お気に入りにもなるほどの大変に優れた歌手であったようで、
  聞きに来る貴族階層やファンへの対応も見事、
  ナポレオンやロッシーニなども通ってきたそうで・・!

  その上、彼の身体条件にも関わらず、たくさんのエロチックな冒険談もで、
  1809年にはミラノの貴族階級の女性とのスキャンダルも。
  ええ、この目つき!! ははは。

  ババーリア、ウィーン、そしてサン・ピエトロブルゴにも公演に赴き、
  ここではロマノフ家の大公爵夫人の愛人となったと、きゃはぁ、凄い!
  ・・ブログアップした後に、年代から誰だったのかを調べてみよう。

  まるで映画「カストラート」を地で行ったような方ですが、ははは、

  1825年になり、24年ぶりにイギリスに行きロンドンで公演。
  最初は既に趣向が変わっている聴衆と対立、が最後は大喝采を。

  歴史考察にのっとった衣装にも留意した最初の公演もしますが、
  年齢からくる声量の衰えがあり、観客からの罵声も出るようになり、
  1829年ロンドンから去り、その後はごくまれに歌い、遂には引退。

  既に1822年に購入してあったこのヴィッラに引きこもり、
  一緒に購入していた土地で、新しい農業のやり方に興味を持ち、
  少数の友人やロッシーニとは文通を続けたものの、世間から引きこもり、

  1861年に80歳で亡くなった時、知らせを聞いた人々は
  まだ生きていたのかと驚いたそうで、既に遠い過去となった、
  音楽史上のカストラート歌手存在のシンボルだったと。

  カストラート歌手が17~18世紀に持て囃された背後には、
  彼らの声がボーイ・ソプラノのままで、それに加え男性の胸郭による
  声量の大きさが加わり、女性ソプラノとは違う素晴らしさと、当時の
  教会内では女性は歌う事が出来なかったという理由もあったと。
      
  ちなみに、この場面の中で失神する紳士はヘンデルです。


  いやぁ、こんな人物が出て来るとは思いもかけず、
  ブログをしているお陰でshinkaiは、様々な探検冒険を味わっている
  ようなもので・・、
  お陰様で、有難うございます! です。





  ブレンタ川は町脇を通り抜け、船の通行に橋が回る場所もあり、

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  いくつもの名も知らないヴィッラが点在しますが、

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  この写真の奥のヴィッラ、

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  このヴィッラ・フランチェスキ・Francheschiは、現在はホテルで、

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  レストランもあり、結婚式なども出来るという、サイトはこちらに。





  川は何度もあちこちでゆっくりと蛇行しつつ、       

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  これはドーロの東、ミーラ・Miraの市役所だったと思いますが、
  これもかってのヴィッラでしょうね。

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  翌日もブレンタ川に沿って行ききし、ヴィッラの写真を撮っていて、

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  今回の最後、ヴェネトのヴィッラの女王と呼ばれ、現在国の博物館、
  ブレンタ川の西の端ストラにあるヴィッラ・ピサーニ・Pissani.

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  素晴らしく壮大なヴィッラで、初めてブレンタ川沿いに見た時には
  本当に、わぁ~~お!!という驚きの美しさでした。
       
  2度訪問しているのですが、内部は写真禁止でご案内してませんが、
  あれこれ調べ、写真も集められましたら次回にでも、と意欲が。
  はぁい、うまく行きますように!




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