・ n.1 アルカ・ペトラルカ再訪 ・ 中世詩人の穏やかな地、家、骨董市


 少し長いお休みを頂きましたが、今回からまたブログ復帰しますので、
 宜しくお願い致します。

 日本から友人が来伊し、こちらの我が仲間とも一緒に、秋晴れの
 暖かな一日、パドヴァの南コッリ・エウガネイ・Colli Euganeiに位置する
 アルカ・ペトラルカ・Arquà Petrarcaに行って来ました。

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 確か私には3回目の訪問になりますが、「イタリアで一番美しい村々」の
 2017年版で第2位に選ばれた村でもあり、

 穏やかな気候温暖でも有名なコッリ・エウガネイの地にある、
 中世詩人、作家、哲学者のペトラルカが最晩年を過ごし亡くなった家が
 博物館として残されており、

 たまたまサイトで調べるとこの第3日曜には骨董市が開かれている、との
 ニュースもあり、ではと、日本からの友人、そしてこちらの友人2人も交えた
 4人で出かけ、大変に素晴らしく楽しい一日を過ごしましたので、
 その再訪記をご覧下さいね。

 上の写真は、村の下の大駐車場から見上げる教会サンタ・マリーア・アッスンタ・
 Santa Maria Assuntaで、この教会前にペトラルカのお墓があります。

 アルカ・ペトラルカ訪問については一度こちらでご案内を。




 アルカ・ペトラルカの村はどこにあるか、地図をどうぞ。
 パドヴァの中心からだと車で約40分、23Kmの位置。

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 近くにはモンセーリチェ・Monseliceや、エステ・Esteの町、
 そして地図からは外れましたが、エステの西にモンタニャーナ・Montagnana 
 またパドヴァからは南西の位置にあるプラーリア修道院・Abbazia di Praglia
 も、ここコッリ・エウガネイの温暖な土地に含まれます。




 駐車場から坂道、石段を辿り、教会前の広場にいたる道。

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 まずはバールに入り、カフェをし、一息いれます。
 ここアルカ・ペトラルカはジュッジョレ(複)・giuggiole・ナツメで有名で、
 そのソルベがあり味見を。

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 香りのよい美味しいソルベを味見し、写真を撮ろうとすると、
 バールの主人が隣にジュッジョレのブランデー漬けや、リキュールを並べてくれ、
 ははは、ではと、彼もいっしょに。

 それにしてもこの写真はどこにもピントが合っておらず、ははは。




 村の中は緩やかな坂道がず~っと続いており、閑静な村が山腹に広がります。

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 上の写真の坂道を上って来た所から見る、最初にご覧頂いた教会。
 つまり既にこれだけ上って来たことになりますが、はい、
 ここからまた坂道を辿り、ペトラルカの家に向かいます。

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 コネリアーノから高速を走って来た時はお天気だったのですが、
 パドヴァから南に下り高速を降りる頃から靄がかかり始め、運河沿いの国道、
 そして西に曲がって州道を通る頃には前方が真っ白になり、
 わぁ~お~! 忘れられないアルカ・ペトラルカになりそう! などと言いつつ
 先頭の車に続いてそろそろ走るうちに徐々に晴れてきて、
 町の標識が見える頃には太陽の光が眩しいほどのお天気になりました。

 が、まだこうして下の平野を見ると、遠方は靄で真っ白!




 見下ろす村の家並。

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 この日は「骨董市」が開かれている、というのでそれも楽しみにしていたのですが、
 家具などの骨董市ではなく、実質的に「職人仕事市」とでもいう様子で、

 これは椅子の座張りの仕事のシニョーレ。

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 たまたま手を休めた時に材質を聞きましたら、竹、という事で、
 イギリスやフランスでこの手の仕事をしているのが多い、と話してくれ、
 ついでにデザインの写真ブックも見せてくれました。

 それを見ていて、こういうデザインは元々はアラブから来たのか、と尋ねると、
 そうだ、との返事。
 材質の竹、という事から子供の頃小学校の帰り道に竹仕事の家があり、
 座って長い丸竹から次々に割って、細い竹にしていくのを飽かずに眺めた
 思い出も蘇り、そんな話をしながら、

 手の指の中に刺さったりしないか、と聞くと、気が付かないうちに手首に細いのが
 10㎝ほども入っていた事があった、と左の手首の傷跡を見せてくれました。
 聞くだけでぶるっと身震いが来ますが、
 こういう仕事ぶりを見るのが大好きなshinkai。




 こちらはそのお隣の木工での趣味的な仕事を並べていた方で、
 真ん中の丸い穴の開いたのは、隣の窪みにスマートフォンを立てかける様
 にしていて、穴から音楽も聞こえる、というやつ。

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 穴の開いている位置により音楽の聞こえ方が違う、というのも見せてくれ、
 その横で見つけた梟の軽いイヤリングをジュリアーナと折半でお土産に。
 もうじき友人のルイーザのお誕生日があるので、プレゼントの一つにね。




 二人で話しながら買っていると、そこの若いお兄ちゃんが私に、
 おや、あんたはこの近くの人ね、と話しかけ、ははは、ついでに写真も。

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 その辺りからまたまた坂道を上って来た所。
 家の壁の角にあるサンタントーニオ・Sant'Atonioの祠の感じがとても良い場所
 なのですけど、
 前にある、あの赤丸に白の横線・進入禁止の標識が、本当に目ざわり!!

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 最後にかなりの急坂を上り小広場に出ますが、日曜とあって
 かなりの観光客で賑わっていて、

 こんな見事に熟れたザクロの実とか、

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 一番右端がここ特産のジュッジョレ・ナツメの実。

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 広場からペトラルカの家への小路を辿ると、この様に見事にカボチャが飾られ!

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 そしてペトラルカの家博物館。

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 この像は以前にもご覧頂いてますが、1階のアーチを入った所にあったと。
 古い像ではなく、博物館に置く為に、という像ですね。

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 1階部分は壁や陳列ケースに資料が置かれていて、
 古い家の中の様子をざっと見て回ったのみで、写真も以前のと重複するので
 省きましたが、

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 外階段から2階に上がり、この部屋はヴィデオを鑑賞できる部屋。

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 この西に開いた窓からは、周囲の穏やかな風景も望まれ、 

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 こちらは北側に開けたテラスで、見事な緑の庭。

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 そしてこの部屋はガラス戸で入れないようになっていましたが、
 箪笥と椅子の置かれた部分で、部屋の上部の飾り。

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 以前の記事にshinkaiめは、このタンスは衣装箪笥、と書いたと思いますが、
 今回また少し資料を読み、これは本箪笥、ではなかったかと思います。
 というのも、ペトラルカの持っていた蔵書類は大変なもので、
 個人としては当時ヨーロッパでも最高クラスだったそうですので。

 そしてこの写真では、格子目で隙間があるように見えるのですが、
 実際にはその格子の小間は細かい模様の入った木目で埋めれており、
 空気は通り、でもネズミなどは入り込めない、という様子なので、
 大事にしていた蔵書類の箪笥の一つではなかったかと。




 これは実際に彼が使ったのかどうか不明ですが、古く多分壊れていたのを、
 不足部分を新しく加え修復したと見られる、細かい装飾柄の入った椅子。
 素敵でしょう?!

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 これが古い時代の物と思われる像で、入り口の間のよりも素敵でしょ?!

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 フランチェスコ・ペトラルカ・Francesco Petrarca(1304-1374)は
 アレッツォ生まれ、両親に従って当時教皇庁が移っていたフランスの
 アヴィニョンにも行き、ボローニャで法学も学んでおりますが、
 次第に古典文学に傾斜し、ラテン語での文筆活動を始めた、という事ですが、
 この手の事は私目の手にお負えませんで・・。

 経済的な理由から書記の仕事もしたり、後に詩人として哲学者として
 名を立てた後は各地の賛美者から客人として招かれたりで、
 各地を旅行して過ごしますが、

 1361年の6月ミラノのガレアッツォ2世ヴィスコンティの世話になっていた
 ミラノから、ペストを逃れるためパドヴァに移り、
 やはり同じ理由で1362年にヴェネツィアに。

 既に彼は58歳、ヴェネツィア共和国は彼を迎え、スキアヴォーニ河岸にある
 パラッツォ・モリンを使う事を許可しますが、
 それは彼の蔵書類を、彼の死後共和国に譲る事が条件だったのだそう。

 この家をペトラルカは大変好んだそうで、多分ここで最晩年を過ごす気で、
 当時としては個人蔵書としてはヨーロッパで最大の内、と言われる蔵書も
 自分の死後譲る気だったのでしょう。

 所が4年後にアヴェロエス説信奉者達から(と、読んだまま書いておりますが)
 非難とかなり暴力的な攻撃を受け、それに対するヴェネツィア人たちの無関心さ、
 冷淡さに苦い思いを味わい、ヴェネツィアを離れ、ヴェネツィア共和国との約束も
 ホゴにし、再度各地に短い旅に。

 そして彼を高く評価していた当時のパドヴァ領主フランチェスコ1世ダ・カッラーラ
 からパドヴァへの招待を受け、1368年春にパドヴァに。

 最初はドゥオーモの裏に家を与えられ、翌年にこのアルカの家も受けたのだそう。




 2階の部屋部屋に描かれた、彼の詩作の内で一番有名な「カンツォニエーレ・
 Canzoniere」をモチーフに描かれた物と、彼の顔。

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 そしてこちらは多分「アフリカの間」と呼ばれる、これも彼の詩作をモチーフの
 暖炉の上の絵は、クレオパトラが毒蛇に乳首をかませて死ぬ姿、
 右上は、死にゆくルクレーツィア。 

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 天井の格子柄。

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 という具合に、2階の部屋の方が如何にも「大詩人の住まい」としての趣が
 あるように思うのですが、
 実際は2階への外階段、そしてロッジャ、中の部屋々の壁画などなど、
 これは彼が亡くなった後に備えられ、描かれたもので、

 実際に彼と家族、庶子であった娘フランチェスカとその夫たちが住んだのは、
 建物の1階部分で、
 確かに、かなり痛んでいたらしいこの家に手を入れ、移り住んだのは
 1370年の3月の事、彼が66歳になった年なのですね。

 普通は1階部分は召使たちや倉庫などに使われ、2階が主人たち、というのが
 一般的なのですが、彼の年から考えても1階部分に住んだのでしょう。

 庭にも手を入れ、外で過ごすのを好み、パドヴァの家とも行き来し、
 このアルカの家に彼の知人、賛美者達の訪問を受けるのを喜び、
 今迄の詩作、とりわけ「カンツォニエーレ」には最後亡くなるまで手を入れたと。

 この家から遠出したのはただ一度、家を寄贈したフランチェスコ・ダ・カッラーラと
 ヴェネツィア共和国との調停役で出かけた時のみだそうで、
 人生の最後4年間をこの家で過ごし、

 1374年7月18~19にかけての夜、意識不明となり亡くなったそうで、
 70歳になる誕生日の前夜だったと。

 お葬式は7月24日に村の教会サンタ・マリーア・アッスンタにおいて、
 フランチェスコ・ダ・カッラーラをはじめ、たくさんの著名人や教会関係者の
 参列があったそう。

 お墓の中の調査では、本人の頭蓋骨ではなかった、とかもあるのですが、
 shinkai個人としては、
 旅から旅と過ごしてきた詩人が、この閑静で穏やかな土地で最晩年を過ごし、
 それも大変に喜ばしい時を過ごされ亡くなった様子に、
 こちらも単純に嬉しい満足感、親密感を受けます。

 彼が飼っていた猫ちゃんの事、管理人の方の話では、
 蔵書を齧るネズミたちを近寄らせず、またペトラルカの足を温めた、
 という猫ちゃんについて、
 彼が猫ちゃんの身になって書いた詩があるのを、

 アレッツォ生まれの著名人の生家

 に、ヴァザーリに続いて載せていますので、興味のある方どうぞ。




 2階のロッジャから見る家の庭と入り口部分。 

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 この方は入り口付近にいた管理人で、我らのペトラルカについての質問に
 いとも軽々と答えてくれた方で、ええ、中年のなかなかのハンサム殿、ははは。

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 我らはこの後、トラットリーアの庭の席で大変美味しいお昼も
 頂きましたが、
 それは次回のお楽しみという事で!


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