・コロナヴィールス ・ n.2 パオロ・ウッチェッロ 「サン・ロマーノの戦闘」  周辺あれこれ

◆ まずはイタリア旅行をお考えの方にも参考になる様、
現在のコロナヴィールスについての様子をお知らせしますね。

10日現在の様子
◆ 3月10日 朝のニュース ◆

昨日コンテ首相は記者会見を行い「もう猶予の時間はありません。
イタリアにレッド・ゾーンはなく、すべての州を保護地域に」とし、

イタリア全体に8日からのレッド・ゾーンと同じ措置が取られる事に
なりました。

「イタリアの未来は我々の手の中にある。 皆が一緒に何か全体の為に
自分の出来ることをしよう。
問題は我々の愛する人の健康であり、両親であり、息子であり、
祖父母なのです。 
今私は「自分は家に居ます」の通達にサインした所です」

という事で、4月3日まで全イタリアにおいて、美術博物館、文化施設、
劇場、映画館、ディスコテーカ、スポーツ施設、学校、教会が閉鎖されます。
スポーツ大会も中止になり、
移動も禁止になるので、仕事などで必要なのは書類が必要になりますが、
食料品等の買い物で出かけるのはOKです。

という、緊急事態になっております。
が、我が家の一帯は街中ではないので、いつも通り平静です。

昨夕発表の現在の感染者は7985人、前日に比べ +1797人、
死者 463人 +97人  治癒の方 724人 +102人。


昨日届いた日本の外務省のメールでは、ロンバルディーア州、エミーリア
ロマーニャ州、ピエモンテ州、ヴェネト州、マルケ州、サン・マリーノ国は
レベル3区域となり、渡航中止勧告となっており、

イタリア全土、ヴァティカン市国はレベル2の、不急不要の渡航は
おやめ下さい、という事でした。

はい、自分の出来る事は、つまり自分の健康に気を付け、家から出ない、
という事を守り、一日も早い終焉を願いましょう。


◆ 3月11日 朝のニュース ◆

昨日に続き、感染者、死者共に増えており、良いニュースは治癒者が増えた事位です。

10日夕時点の感染者数は8514人、+529人 という一方、10149人、1万人を超えた、
という数字も取り上げられており、死者631人 +168人、 治癒の方1004人。

オーストリア、スロヴェニアとの国境は閉鎖され、オーストリアからの国鉄、
飛行機ともなし、イギリスからの飛行機便も無しとなり、エール・フランスは
14日から止まるそうです。

ロンバルディーア州は依然として感染者数増加が止まらず、食料品、薬局は別とした
すべての店、事務所、地域交通機関も止めるように検討中との事。

ミラノの監獄を含め、感染を恐れ、一昨日からあちこちで収監者の反乱がおこり、
死者も12人、脱獄者19名という数字です。


ですが、私の住むヴェネト州トゥレヴィーゾ県のコネリアーノ、スコミーゴ村は
いたって平穏で、昨日電話で話した友人達もいつもの通りの元気で、
ただ暫くは家に居るのを多くし、本を読み、そして散歩すると言っていて、

ご心配下さる皆さま、お陰様で変わりなく元気で過ごしております。
と共に、世界中が戦っているこの戦争も、なるべく早く収束します様に!

日本にお住いの方々も、どうぞマスク、手洗いを実行され、
お元気でこの時期を乗り越えられます様、お願い致します。

という事で、暫く続けたこの速報も、次回3日後のブログ更新時に、と
いう事で、一旦お休みする事にしますね。

*****

◆ スマホで訪問して下さる皆さんにお願いを。

スマホ画面で見て頂くと、少し不都合が起こる場合もある様ですので、
一旦画面の下までスクロールし、PC版を見る、をクリックして頂けると、
ちゃんと見て頂けると思いますし、宣伝も少なくご覧頂けすので、
宜しくお願い致しま~す。

*********


先回はウッチェッロの著名な大3部作の「サン・ロマーノの戦闘図
の周辺事情、実際の戦闘が行われた場所や、絵の注文主、
そしてその後の変遷、現在の展示等についてお話しましたが、

さていよいよ、3枚の板絵それぞれの様子で、
まず一番左の場面に当たる戦闘開始場面
「ニコロ・ダ・トレンティーノ、フィレンツエ勢の先頭に」182x316cm
現在はロンドンのナショナル・ギャラリーにある作品ですね。

8-Cattura .jpg

この作品が3連作の内一番保存が良くなかった作品だそうで、
画面左下側などに地塗りが見えている部分もあるそう。

で、中央の白馬に跨り、赤布に金の模様の大きな帽子をかぶり、
指揮棒を振っているのが、フィレンツエ側指揮官を務めた
ニコロ・ダ・トレンティーノ。



そうそう、先回地図に出てきた「ジューリアの塔」覚えておられますか?
あの塔に出していたフィレンツェ軍の斥候が知らせた敵軍の様子により、
ニコロは、急襲をかける事になったのだそうで。

地面に落ちている長い槍の折れた先がそれぞれ遠近感を強調し、
これがこの絵についてまず言われる事で、
馬の馬具も、騎士たちの装いも煌びやかで、まるで現実の戦闘というより、
何か競技大会を想像させる、というのですが、

これはもう、パオロ・ウッチェッロ自身がそんな現実的な迫力よりも、
注文主の記憶に残っている、勝利の鮮やかな印象を際立たせ、
一幅の煌びやかな絵画、を目指したからではないかと。

事実、闘いの行われている背後には、花が咲き、果樹のなる
生垣が見え、その奥の草原では若者たちが狩りをしているのが見えますね。



ニコロ・ダ・トレンティーノ・Niccolò da Tolentino(1350頃~1435)は、
この戦闘のフィレンツェ勢の指揮官を務めた傭兵隊長で、
名の示す通り、北イタリアのトレント周辺の名家出身、20歳頃より
家を出て、軍務につき生きて来た男。

9-Paolo_Uccello_035.jpg

もう1人フィレンツェ勢の指揮官がいて、彼は3枚目の絵に登場の
ミケロット・アッテンドロと言いますが、これはまた次々回に。

所でこれを読んで下さっている皆さんの内で、上に書いたニコロの
生没年から年を計算された方がお有りでしょうか?
そう、彼は85歳まで生き、このサン・ロマーノの戦いの時、なんと82歳!!

いつも歴史上の人物伝を読む時には年を計算し、あれこれ
想像するのですが、彼の年には本当に驚きました! が、
若い頃からずっと報酬の良い方に付いて戦場で闘い働き続け、
この年でもね!
まぁ、それだけ元気だった、という事でもありますね。


ウッチェッロのこの3枚の板絵はテンペラ画で、それも卵の黄身を使った
油脂分多めの処方で、騎士の甲冑や、馬具にも金や銀の薄片を使い、
今見える白馬の馬具も盛り上がって見えるのは、漆喰を使い盛り上げし、
上から絵全体にワニス・樹脂をかけたりもした様で、 
つまり徹底的に、華美で煌びやかな画面を意図したのが良く分かります。



所で長年傭兵隊長としてあちこちの側で働いた彼ですが、
1431年になりフィレンツェ共和国の軍長官に任ぜられ、
1432年にこのサン・ロマーノの戦いで、勝利をもたらし、
1435年の没後、フィレンツェのサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂の
壁にアンドレア・デル・カスターニョによって彼の肖像が描かれていて、
ご覧になった方も多い筈。

10-Andrea_del_castagno,_momumento_a_niccolò_da_tolentino.jpg

彼は1434年にヴィスコンティ軍に捕まり、懲罰で意図して崖から
突き落とされ、それが原因の大きな怪我により、翌年亡くなったと。
60年間戦場で生きて来た男の死に様というのか・・。



絵の細部をどうぞ。 
左端部分。 隊長の後ろに続く若者の従者・盾持ちも優雅な衣装で、
右手に持っているのは、メディチ家から大将ニコロに送られた兜だそう。

11-cb7b7bd606e641ffd92d972b22ad890.jpg

手前青黒い馬に跨る旗持ちの持つ閃く旗にちらっと見えるのは、
ソロモンの知恵の輪。 左奥に見えるラッパ手2人、今戦闘ラッパを吹き鳴らし、



地面に既に打倒された敵の死体。 これも遠近法に従い描かれていますが、
余りにも遠近に拘り、馬や人物の大きさと比べ、小さすぎで。

12-Cattura (3).jpg



大将ニコロの右奥の騎士。 甲冑の上から素晴らしい衣を纏い、槍を構え、
そんな戦闘場面のすぐ背後には、ほら、生垣に咲いているバラの花が。

13-maxresdefault.jpg



そして今の騎士から右に視線を写した場面で、こちらは右に
白馬のシエナ勢の騎士が、上のフィレンツエの騎士が突き出した槍をかわし、
もう1人の手前の騎士と剣を交え、既に戦いが始まっています。

14-1-Paolo Uccello - The Battle of San Romano c1450-60 tempera on panel .jpg

背後の平野での若者たちの仮の様子も良く見えますが、
左上に2人の騎士が走って行くのにご留意を。



で、右の白馬の騎士はフランチェスコ・ピッチニーニ・Francesco
Piccininiと(1407頃~1449)想定される、という説明に行き当たり、
フランチェスコはシエナ側の隊長、指揮官で、

ピッチニーニ? この名前は読んだ事があるぞ、から調べ、

辿り着いたのがこのデッサン。 はい、かの有名な「アンギアーリの戦い」の
レオナルド・ダ・ヴィンチの下描きを、後年ルーベンスが模写したという物ですね。

14-2-Peter_Paul_Ruben's_copy_of_the_lost_Battle_of_Anghiari.jpg

こちらはウッチェッロの牧歌的ともいえる戦闘図に比べ、激しい、激しすぎる程の
戦闘場面で、中央のこちら向きの騎士に対し、左右から2人の騎士が挑んでいて、
その左側がフランチェスコ・ピッチニーニで、右がニコロ・ピッチニーニと!

にゃに?! ニコロ・ピッチニーニ?! 知ってるぅ!! まるでガキで、ははは、

そう、1440年の「アンギアーリの戦い」で、ミラノ側の指揮官で働いたのが
父親のニコロ・ピッチニーニで、息子フランチェスコもミラノ側で戦ったのですね。

おまけに自分のブログを読み返し、「アンギアーリの戦い」の元となったのは
サン・セポルクロの領地に、フランチェスコがちゃっかりと入り込んでいたのが
原因だったと知りましたぁ、ははは。

おまけにこのデッサンの左下で、盾の陰に馬に踏みつけられるのを逃げている男、
これが誰だったかも分かり、ははは、今回の最後に出て参りますです。

「アンギアーリの戦い」始末記と、その周辺もろもろ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461130197.html


つまり「サン・ロマーノの戦い」も、8年後の「アンギアーリの戦い」も、
元々はヴェネツィア共和国と、ミラノ公国との国境をどこにするが原因の、
「ロンバルディーア戦争」、 1423~1454年の約30年に渡る一連の
戦闘の内に含まれれる「2つの戦闘」だった訳です。

ヴェネツィア共和国側に、ナポリ王国、1450年まではフィレンツェ共和国も!
サボイア公国などが付き、
一方ミラノ公国側には、ジェノヴァ共和国、フィレンツェは1450年から、
マントヴァ侯国、ルッカ共和国、シエナ共和国などが付き、

それぞれの国の思惑により、戦闘に参加したりしなかったりで、
この「サン・ロマーノの戦闘」にはミラノ側にシエナ共和国と
ルッカ共和国が付き、ルッカ公国の攻防戦だったという事で、
フィレンツェ側は自国のみの戦いでした。
但し、自分側についている国からは相応の援助金が届いている筈で!

で、この長い戦争は1454年に取り交わされた「ローディの和平」により、
国境はアッダ河とし、当時オスマン・トルコの脅威も迫っていたのに備え、
一応国内争闘は収まった、という事なのでした。
一体幾つの戦闘が行われたのか即数えられない程で、また時間がある時に!



こちらが画面左上に見えていた騎士2人で、戦闘が始まった事を
自軍に知らせに走っている所と。

15-Cattura (4).jpg

元々フィレンツエ側はミラノ勢に比べ、圧倒的に少ない勢力と言われ、
ミラノ側全体の数は分からずですが、フィレンツェ側は4000の騎士、
2000の兵だったという事で、いよいよ戦いは佳境に入ります。

という所で今回をお終いにし、次回に続きます。

何となし、子供の頃に見に通った紙芝居みたいですが、ははは。


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