・ アルトゥーロ・トスカニーニの生家 ・ 20世紀の偉大なる指揮者

今日のご案内は、9月末にパルマに行った時に訪ねた、20世紀前半における
偉大なる指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニ・Arturo Toscaniniの生家見学に
刺激され、あれこれ探し出した写真も交えての様子をご覧下さいね。

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「指揮者トスカニーニ」の名はまだ若い頃に知り、と言っても特別に音楽を聴き
好きだったのではなく、その逸話を読み名前を憶えていたという程度ですが、

こちらコネリアーノに住むようになって、トスカニーニがこのコネリアーノで結婚、
というのを知り、一層の親近感を、と言うと如何にもミーハーですが、はは、
第一、今どきの日本にまだ「ミーハー」なる言葉が残っている物かどうか、はは、
でもなんでコネリアーノで結婚した?というのは調べもせずで・・。

なので今回パルマに行く前に、彼の生家があるというのを知り、これは見たい!と。



パルマの地図をどうぞ。
川を挟んで右にパルマの中心地が広がり、現在博物館、美術館、劇場などを
含むファルネーゼ家のピロッタ邸・Pilottaから橋を渡ると、
大きなドゥカーレ庭園があり、

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その横を通り過ぎ西に入った、いわゆる川向こうの下町に、
生家博物館があります。



橋を渡った西側から見たピロッタ邸、素晴らしく広く、大きな建築物群!

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道を辿り、ほどなく見えて来るかっての町の門。 ここを出た所で右に。

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じきに右側に見える、アルトゥーロ・トスカニーニ生家博物館。

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CASA MUSEO ARTURO TOSCANINI
住所 Borgo R. Tanzi, 13, Parma
   Telefono: 0521 285 499
時間 火曜日9時から13時 水曜から土曜9時から13時 14時から18時
   日曜10時から18時  入場無料


shinkaiは美術館などを見てから、まだ大丈夫かと閉館間際に行き入れて貰い、
係りの方が付き切りでかなり急いで説明しつつ見せてくれたので、部屋全体の
写真も撮っておらず、説明文を読む暇もなくの見物で、少し残念でした。

が今回かなりあれこれ読み、写真も探しましたが、有り難い事に
この偉大な指揮者の晩年の録音や撮影もあり、声も、リハーサル時の怒鳴り声
も聞け、ははは、あれこれ知る手掛かりとなった、というか、興味深かったです。

写真にブログ名がないのが、サイトから拝借したもので、

こちらが、博物館入り口を入った所の部屋で、かっての父親の仕事場だったと。
写真では広く見えますが、全体にどの部屋も小部屋で、

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右の壁にあった家族の写真。 真ん中父親クラウディオ・Claudio、1833年
生まれの仕立物師、母親パオラも裁縫をし、2人でこの1階に店を持っていて、

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現在建物すべてが博物館になっていますが、他の階には他の家族が
住んでいたそうで、つまり貧しい一家だったのが分かります。

父親クラウディオが来ている赤いシャツ、これは彼が大変な愛国者で、
イタリア国建立の大立者ガリバルディに従って戦った事もあるのだそうで、
その赤シャツなのですと。

この愛国者精神は息子のアルトゥーロにもしっかり根付き、
後の彼の生き方にも強く現れます。

ちなみに父親クラウディオは1906年に亡くなり、埋葬にはお気に入りの
赤シャツで葬られたそう。



こちらが出生証明書で、左から父親クラウディオ、母親パオリーナ・Paolina、
アルトゥーロ、そして彼の後に生まれた妹3人のが並びますが、

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余りにも筆跡が美しいので、彼の分をアップして見ました。
トスカニーニ・アルトゥーロ と一番上に名があり、普通は名前が先、姓が後に
なりますが、公式書類ではやはり姓が先になります。

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母親の名がパロリーナとなっているのを消し、パオリーナとしているのが可笑しく、
アルトゥーロ、 パルマ 1867年3月29日生まれ。
下の欄の筆跡が違うのと、父親、母親の出生証明書の字も美しいので、
役所としても出生証明には敬意を払い、特別な字体で書いたのでしょうか?


管理の女性が案内してくれ最初に言ったのは、アルトゥーロはこの家に
生まれたが、家族はここに1年程しか住んでいなかった、という事と、
アルトゥーロの死後、彼の息子がこの家を買い取り博物館にした、と。

息子がこの家を買い取り博物館にしたのは、アルトゥーロの生誕100年記念に
際してで、後2005年に閉じられていたのが、2年後の没50年祭にオープンと。

この家には1年ほどしかいなかった、というのは気になったのですが、彼はパルマの
音楽院を出ていますし、パルマ内に住んでいたんであろう、と考えていましたが、
偶然見つかった英語サイトで分かったのは、

良い仕事を探してジェノヴァに移ったのが、アルトゥーロの健康状態が悪く、
母親は、母方の祖母に預けに戻ったのだそう。

彼の幼年時の経験に、父親はオペラのアーリアの大ファンで、パルマの歌劇場に
通い、戻って来ると友人たちと一緒に歌ったりした、というのがありますから、
その後またパルマに戻ったのかも知れずで、
一方、幼い頃からのこの父親の熱情、体験はアルトゥーロに深く浸透したのでしょう。

彼の音楽への才能を見つけたのは父親ではなく、先生のヴェルノーニ・Vernoniで、
詩を一度聞くとすぐ覚える記憶力に驚き、彼女は無料で読譜唱法とピアノの
レッスンを施したのだそう。

彼のこの超記憶力というのは大変有名で、しかも何百曲もの総譜をすべてそらんじ、
指揮の時にも譜面なしで指揮した、というのですね。

単にメロディーとか、自分のパートを記憶、というのではなく、オーケストラ全ての
演奏楽器の総譜、というのですから、それも何百曲もですから、凄い!!

彼は極度の近視で、それで総譜を暗譜した、と書いてあるのを読みましたが、
理由があってでなく幼い時からの記憶形態の様で、近視の為だけではないと。

その後9歳から奨学金を受け音楽学校に通いチェロと作曲を勉強、13歳の時に
1年間チェロ奏者としてパルマのテアトロ・レージョで演奏、18歳で際立った成績で、
賞金を受け卒業。



ずっと以前TV放映された「若きトスカニーニ」という映画の幾シーンが記憶にあり、
探しましたら見つかりました、これです。
フランコ・ゼッフィレッリ監督、1988年作、トスカニーニがブラジル・ツァーで
一躍指揮者として成功し、世界舞台に登場するまでを描いたものでした。

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この中に、18歳でミラノ・スカラ座のチェロ奏者に応募するものの、審査の年寄り達の
昼行燈ぶりに反発、19歳でブラジル・ツァーに参加。 がブラジルでの公演が始まって
すぐに指揮者が逃げ、彼が「アイーダ」をスコア・総譜なしで指揮する、
という様子が描かれており、

その時のソプラノ歌手を、マエストロ・トスカニーニはスコアをすべて知っている、と
推薦する歌手をエリザベス・テイラーが演じており、これは記憶に強く残り。

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博物館での写真は年代順にはなっておりませんで、説明を聞き、興味を持って
撮った順に、ここでもご覧頂きますが、

これはエンリコ・カルーゾ・Entrico Caruzo(1873-1921)というイタリアの歌手、
幅広くオペラのアーリアからイタリア民謡なども歌って大人気の歌手、アメリカでも
活躍、が描いた、マエストロ・トスカニーニの戯画。 ははは、よく似ていてますよね、

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昨年2017年はトスカニーニの生誕150年祭で、その時にシンボルに使われ。

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こちらがカルーゾ。 若くして亡くなったのですね。

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そしてたくさんの指揮棒。  彼は性格が激しく頑固で、リハーサルの時など
怒り狂って指揮棒を折ったり、叩きつけたりしたそうで、

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最後の写真には、ワーグナーの顔も見えますが、お気に入りの作曲家の1人で。
他にはもちろんヴェルディがいて、プッチーニも好き、彼とは友人でもあった様で。



こちらはトスカニーニの妻となったカルラ・デ・マルティーニ・Carla De Martiniが
結婚式に着た衣装だそう。 如何にも嫋やかで繊細な、時代のお召し物ですねぇ。

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はい、上記した1897年6月21日に我が町コネリアーノでの結婚式ですが、
トスカニーニが30歳、カルラは1877年生まれの20歳、で、
当時指揮をしていたトリノから汽車でコネリアーノに到着したのだそう。

彼は既に有名人ですし、騒がれる事を望まず、秘密に結婚したく、それで
コネリアーノの知人のヴィッラで披露宴をするのを選んだのだと。

所がなんと秘密は洩れ、ははは、駅には市長を始めとする大勢がお出迎え、
コネリアーノの音楽愛好家のバンドまで!! それはもう、迎える側にしたら、
町での大指揮者の結婚式なんぞは、光栄の至りですものね。

が、ひっそりとした結婚式を望んでいた気性の激しい癇癪持ちのマエストラは
大憤激、一日中部屋の隅で腕組みをしたまま、秘密漏洩に怒り、
一言もしゃべらずだったそうで、ははは。

まぁそれでも最後には皆の歓迎に怒りもさり、博物館には結婚式の写真もある、
というのですがぁ、残念、見ておらず、今回あれこれ探しましたが見つからず・・。



こちらは第一次大戦のヴェネトのイゾンツォ川での戦闘勝利に、無料で公演を
した時の物で、愛国者だった父親同様、彼も赤十字などに貢献する働きを、と。

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そしてムッソリーニがイタリアで台頭し始めると、彼は断然対立する立場をとり、
1931年にはボローニャでの公演で、ファッシスト党の党歌の演奏をする事を拒み、
党員たちに劇場前で襲われ、殴打されるという事件もあり、

これを機に、ファッシストがイタリアにある限り指揮はしない、とアメリカに去り、
かの地での演奏活動が続きます。



1936年には、ナチから、ヨーロッパから逃れて来た演奏家達で作られたオーケストラ、
現在のイスラエル・フィラルモニカ・オーケストラが結成されたのを機に、
テル・アヴィヴに自費で赴き、無償で指揮をし、 これはその時の感謝状。

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こちらはアルベルト・アインシュタインからの手紙と、訳の幾らかで、

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素晴らしいマエストロ!  
どんなに貴方を愛し、崇拝しているかをお伝えする必要を感じています。 
貴方は単に比類のない世界的な音楽の演奏者であるだけでなく、
最大の称賛を得るのに値します。 貴方は対ファシストとの戦いの中で、
人間として最大の尊厳を見せられました。 そしてまた新しいパレスティーナの
オーケストラの設立に対し、計り知れない貴重な希望を与えて下さったことにも
深い感謝の念をお伝えしたいと思います。




そして第2次大戦中に爆撃を受けたミラノのスカラ座が、

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戦後いち早く復興した1946年5月11日、再開記念のコンサートの指揮で、
79歳になったマエストロが、イタリアに戻って来ます。

スカラ座は信じられない程の超満員となり、その時の最初の曲はロッシーニの
「泥棒カササギ」の序曲。

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博物館内には長い長いマエストロの、音楽一筋の生涯を物語るもの、
写真で溢れており、

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衣服の左は演奏会の時の物で、右はリハーサルの時の、動きやすいものだそうで、
小柄な方で、身長は160センチに満たなかったのではないかと聞きました。


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プッチーニの作品も好きで、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でも
指揮をしており、

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パリでの「マノンレスコー」公演での二人と。

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勿論ヴェルディのオペラもお気に入り、ヴェルディも彼を気に入ってたそうですが、
ヴェルディのお葬式の際には、長い間演奏されなかった「ナブッコ」の
「行け、我が想いよ、黄金の翼にのって」を指揮したそう。

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この曲は、イタリアが共和国になった時に国歌として選ばれるか、という曲で、
が、これを一般国民が歌うのは難しいでしょうねぇ! 素晴らしい曲ですが、
選ばれずに良かったと、はは。
https://youtu.be/FQnjvjPoWvc?list=RDFQnjvjPoWvc




これはミラノの、ヴェルディが設立した「カーザ・ヴェルディ」に因んだもので、
カーザ・ヴェルディというのは、音楽家として生涯を過ごした歌手、演奏家達、
晩年に貧しい音楽家たちの為の老人ホーム。

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私のオペラ(作品)で、私が一番好きなのは、年取ってお金に恵まれなかった
芸術歌手、または若い頃から貯蓄の長所を持っていなかった人の為に、
ミラノに建設させた家。
貧しく、愛しい、私の人生の仲間たち!
友よ、信じて、 あの家は本当に、私の作品で一番素晴らしい物だと。

昔「カーザ・ヴェルディ」という映画を、内容を知らずに見に行き、
そうなのか、と知った事を思い出します。
ヴェルディ自身も、敷地内の廟に妻と共に眠っているそうで。



こちらに、ミラノ・スカラ座の、アルトゥーロ・トスカニーニの生誕150年祭の
サイトがあり、イタリア語に吹き替えになっていますが、大変興味深かく、
様々な写真、映像、そして彼の声、とりわけリハーサル中の大声や、
怒鳴り声も聞けますので、どうぞ!

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トスカニーニの音楽について語る事は、トスカニーニについて語る事と同じ、から
始まり、9歳の時に音楽学校に入って後、優に80年にわたる生涯を
ただ音楽に献身した事、奉仕とむさぼり、だったと。
音楽に献身する気がないのなら、靴屋にでも薬屋にでもなれば良い、
作曲家の気持ちに近づき、密な関係となり、奉仕するのは演奏家の責任だ、と言い、
なので、歌手にもオーケストラにも大変厳しく注文を出し、妥協を許しません。

始まって直にリハーサルの声が聞こえますが、クラリネット、カンタ、カンタ、歌って! 
ノン・カピート・ニエンテ、ヴェルゴーニャ! 何にも分かっていない、恥だ!
カーヴォロ! なども聞こえます。

カーヴォロはキャベツの事で、辞書にはちくしょうと出ますが、馬鹿とかうすのろの
意味もあった気もしますし、ははは、
何年の録音か知りませんが、声の勢い、怒鳴り声の元気さに驚き、笑える程で。

そしてあれこれ聴いていて今回気が付いたのは、音楽のテンポの爽快さ、
と、大変メリハリの効いた音楽である事も。

当時のロマンチズモの音楽が主流を占めていた時に、彼の速いテンポ、そして
ワーグナーやヴェルディの強い音楽、その指揮ぶりは新しく、人々の心を掴んだのも
良く分かります。 今聞いても、まるで古い気がしませんものね。

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ニューヨーク1952年3月15日のNBCシンフォニー、「ウィリアム・テル」の序曲を。
https://youtu.be/t132rQ6i_zU


当時のオペラの観客達が、桟敷席をサロンの社交界と同じに考え振舞っていたのを、
遅刻入場はダメ、桟敷席での帽子はダメ、歌手の途中でのアンコールはダメ、
またスカラ座にオーケストラ・ボックス、ピットを作ったのも彼というのも知りました。

自分の音楽に対する力を知り、思う音楽を、自分の思う様に指揮する、
その為にはどんな事も乗り越えて、という気迫が伝わって来ます。

読んでいて笑ったのは、オーケストラのみでなく、歌手にも厳しく、彼のたくさんの
愛人の1人として名が挙がっているソプラノのジェラルディーン・ファッラール、彼女とは
妻も子も捨て一緒になる気だったのが、その直前にメトロポリタンの仕事をやめ、
イタリアに戻るので実現しなかったそうで・・。

彼女がリハーサル中のダメ押しに、マエストロ、私がスターであるのをお忘れなく!
当時はプリマの歌手など自分の好きなように歌えたのだそうで、
するとトスカニーニは自分を指さしながら、太陽の前には星は輝きを失います、って。
これには吹き出しましたが、ははは。

1932年から1954年まで存在したアメリカのNBCシンフォニー・オーケストラとの
ラジオを通じてのコンサート、後にはTV中継も、は大変有名で、トスカニーニの名を
世界に広める事にも貢献しましたが、

このNBCシンフォニーとのカーネギー・ホールの、1954年4月4日の実況放送が、
68年に及ぶ経歴を持つ、87歳のトスカニーニの引退となりました。

この公演前に既に引退を決めていたというのですが、指揮の最中に衰え知らずの
総譜の暗記が一瞬途絶え、14秒間続いたのそうで・・。
それ以前から時にテンポが遅れたりで、自身で衰えを知り引退を考えたのでしょうね。

舞台を去って1956年12月、年齢からも衰弱し、自分でも最後と思ったのか、
大晦日を皆と過ごすつもりで、長男が家族友人集めてのパーティを計画、
真夜中にマエストロは以前の様に元気で朗らかに姿を見せ、皆を抱擁挨拶し、
2時にベッドに。
そして翌日1957年元旦の朝7時、浴室で血栓症に見舞われ、16日に死亡。89歳。

遺骸は翌日ローマに運ばれ、大群衆が出迎えの中をミラノに向かい、
スカラ座にてお通夜、そしてお葬式にも多数の人々が参加、屋根の上に
上って一目でもという様子も見られた程だそうで、ミラノの記念墓地の廟に。



という、素晴らしい、読む方も活力を貰える様な生涯を送ったマエストロでした。

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最後に、1944年のこちらもNBCシンフォニーの、ヴェルディの「運命の力」を。
https://youtu.be/bqmmTjC3ffk

あちこち蛇行したご案内でしたが、私が新しく、改めてマエストロを知り、
大変近しく感じた事を感じて頂けたら、とても嬉しいです!


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この記事へのコメント

  • シニョレッリ

    shinkaiさん、こんにちは。
    当博物館に入館したことがあります。フムフムと頷きながら、ざっと見て回っただけです。

    トスカニーニのレコードを数枚持ってますが、我家のコンポにレコードプレイヤーを入れなかったので、箪笥の肥やしになってます。モノラル録音のCDが発売されてますが、買ったことがありません。
    熱心なクラシックファンですが、トスカニーニは私と世代が違うので、歴史上の名指揮者と言う感じです。
    「世界の名指揮者」と言う本には、トスカニーニはミラノで結婚したと書かれてます。間違いですね。
    トスカニーニよりも下の世代では、カール・ベームの「後宮よりの逃走」をミュンヘンで、ジョージ・セルの演奏会を大阪万博の時に見ました。
    私が最高に好きだったのは、カルロス・クライバーでした。彼の指揮予定に合わせて日本は固よりミュンヘン、ウィーンなどに出張してました。
    私が好きだった指揮者はムーティを除いて全部亡くなってしまいました。年を取ると言うことはそういうことだと思う今日この頃です。
    2018年11月04日 16:35
  • shinkai

    ★シニョレッリさん、こんにちは! コメント有難うございます。

    ああ、やはり博物館にお出かけになられてましたね。物凄い量の写真で、所せまし、が過ぎて、展示物もちゃんと確かめられない程の様子に思いました。

    そうですね、私が最初にあれこれ読んだ、というのは、多分生誕100年祭の頃だったと思うのですが、それからしても既に50年が経ちましたから、まさに仰る通り過去の歴史上の名指揮者で、
    晩年の録音がCDになったりしているので、それでまだ彼の演奏が聴ける訳ですね。

    カール・ベーム、ジョージ・セル、カルロス・クライバー、懐かしい名前です。 それにしても指揮予定に合わせて外国にまで出張されて聴かれた、というのは凄いですね!

    そうですか、ムーティーもお好きなんですね。 指揮するときの様子など、まるで固い性格の方の様に思えますが、インタヴューを見ているとまるで違うので驚いた事もありましたが、そう、彼も既に77歳なんだそうで。

    本当に! 自分の若い頃からの周囲の人々も、ぼちぼちと欠けて行きます。 仕方がないものとも思いますが、やはり寂寞たる感じもします。
    シニョレッリさん、ご自愛願います!!



    2018年11月05日 01:23