
今回は、15~16世紀の画家ジョルジョーネ・Giorgione
の名画 「テンペスタ・Tempesta・嵐」
に描かれた人物についてと、
別の作品、作者と描かれた人物がいささか不明な、
通常ジョルジョーネ作と言われている作品、
そしてもう一枚、ジョヴァンニ・ベッリーニ作とされる人物像。
これら3点の作品から浮かび上がる一人の人物、
15~16世紀の傭兵隊長についてのお話を。
まず最初にこの傭兵隊長の名を申し上げておきますと、
バルトロメーオ・ダルヴィアーノ・Bartolomeo d’Alviano
(1455-1515)
ウンブリア州トーディ・Todiの生まれと言われますが、
姓の通り、ウンブリアはアルヴィアーノの領主の子として生誕。
どのようにお話をと思いつつ・・、
まずは上のジョルジョーネの「テンペスタ・Tempesta」をどうぞ。
ヴェネツィアのアカデミア美術館に収蔵の名品、
キャンバス地に油彩 82x73cm
1502-1503年に掛けて描かれたとされる作品ですが、
雰囲気、登場人物などの不思議さはすぐ目に付きますが、
それ以上にこの作品は大変謎の多い作品とされていて、
それについての本も出版されていて、
こちらの写真が多いサイトで、大体の感じは窺えると思います。
学者さん達の難しい推理は、単純shinkaiには余り向きではなく、
絵を見ていて単純に、ここはどうなっているのだろうと思う一つは、
右で授乳中の母子像です。
子供は女性の右脚の外に座り、お母さんの右の乳房と思うのですが、
左腕の付け根の問題なのか、左の肘が見える辺りの位置なのか、
はたまた肩に掛かる白い布の腕の線を示す襞と、
乳房を隠す線のせいなのか・・、
彼女の左の乳房はどうなっているの?!と、
この絵を見るたびにshinkaiは思うのです・・。
まぁ、こんな詮索はさておき、
左下の男性、これは絵の主題とどんな関係かと思うのですが・・、

この男性は「バルトロメオ・ダルヴィアーノ」とされている、という事で、
その理由は?と聞かないでくだしゃんせぇ!
shinkaiにも分かりませんが、その様な説明でして・・、へへ。
ジョルジョーネ(1478頃-1510)はヴェネト・カステルフランコ出身で、
ヴェネツィア共和国の元でも働いていましたから、
バルトロメーオ・ダルヴィアーノがやはりヴェネツィア共和国の為に
働いていた後年には出会った事があるのかも知れませんが、
その時にはバルトロメーオは既に50歳を過ぎている事になり、
勿論画家が人物を若く描く事はできるでしょうが、
この辺りもshinkaiには分かりませんです。
ジョルジョーネの生地カステル・フランコで開催されたジョルジョーネ展
こちらはジョルジョーネの自画像と言われているもので、
甲冑をつけ、ダヴィデ像に見立てたもので、1509年作、
彼独特の少し憂愁に満ちた瞳を投げかけているもの。

これは「従者と一緒の、戦士の肖像」 1502-1510頃の作
キャンバスに油彩 90x73cm ウフィッツィ収蔵

こちらを見ている縮れ髪の若い戦士、少し放心した目で見つめ、
後ろには少し口を開けた少年の従者が従い、 という画面で、
ジョルジョーネの作品、そして描かれた人物は、
やはりヴェネツィア共和国の下で傭兵隊長として働いていた
通称ガッタメラータ・Gattamerata、
ウンブリアはナルニ出身のエラーズモ・ダ・ナルニ。
この絵をパドヴァで開催されたピエトロ・ベンボ展で見ており、
他にもジョルジョーネの作品が来ておりましたので、こちらを。
ナルニの町のご案内は
こちらがドナテッロ作で有名な、ガッタメラータ将軍騎馬像。
これはパドヴァのサン・タントーニオ聖堂前にあるもの。

傭兵隊長、という言葉の響きにはどこか惹きつけられますが、
中世・ルネッサンス期には多くの有名な傭兵隊長が存在し、
マルケ州ウルビーノのフェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロも勿論、

彼とは宿敵の関係にあったリミニの
シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタもおり、
上下2点とも、ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品。

フィレンツェのサンタ・マリーア大聖堂の壁画にある
ジョン・ホークウッドも、パオロ・ウッチェロ作

同じくフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂前の、
ジョヴァンニ・デ・メディチ像も。 ジュゼッペ・デル・ロッソ作

ヴェネツィアのサンティッシミ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂前の、
バルトロメーオ・コッレオーニも、 ヴェロッキオ作

これらはたちまちに名が挙がる有名な傭兵隊長で、
それぞれ国に尽くした功績により、
有名画家、彫刻家による肖像作品が今に残るわけですね。
今回そういえばと気がついた興味深い事では、
傭兵隊長と言うのは、悪くいうと「金で動く」、
つまり報酬によってどちら側で働くか決めて戦争するわけで、
その点ヴェネツィア共和国は、いつもきちんと支払い、
その額も高かった、というのですね。
でヴェネツィア共和国で働いた傭兵隊長、
ガッタメラータも、バルトロメーオ・コッレオーニも、
今回の主人公バルトロメーオ・ダルヴィアーノも、
終生忠実であったと!
まぁ、それこそ自分の命をかけて働く、戦うわけで、
支払いを渋られたり、ケチったりされると、
嫌気が指すのも当然よね、と、ははは。
これが今回の我が主人公、バルトロメーロ・ダルヴィアーノの
肖像とされるもので、1495-1500年 ジョヴァンニ・ベッリーニ作
ワシントン・ナショナル・ギャラリー収蔵

アルヴィアーノ公爵でもあり、ヴェネツィア共和国の下で
オーストリアはハプスブルグ家のマキシミリアン1世との戦いに勝ち、
フリウリのポルデノーネの領主にも。
一族全員が戦いを仕事にする中で育ち、若くから彼も従事し、
人文学者を師に学問をし文学を愛し、
と共に武器や要塞、城の建設に関心を持ち、大変に優秀、
後にパドヴァの城壁も彼が築いたのだそう。
従兄弟であったピティリアーノ公爵ヴィルジーニオ・オルシーニの
従姉妹バルトロメーアと最初の結婚をし、
彼女の姉妹クラリーチェはロレンツォ・デ・メディチの妻、
妻の死後ペルージャのジャンパオロ・バリオーニ(傭兵隊長)の
妹ペンテシレーアと2度めの結婚を。
彼について読んでいて、とても興味深かったのは、
バルトロメーオは体格が細身で、多分背も低かったと思いますが、
鍛錬された体を持ち、どのような活動も出来、気短で
すぐに怒る性格を持っていたものの、直に自分で正す事ができ、
品行方正、自尊心高く、純粋に思った事を口に態度にも出し、
女が好きで、が特に溺れることはなく、宗教心は特別に強くはなく、
芸に優れた者を高く評価し、自身も洗練された才人であり、
頭脳的にも技術的にも優秀、とりわけ文学と武器を愛した、と。
傭兵隊長として各地で戦い働いたのちヴェネツィア共和国の
下で働き、最後はブレーシャでの戦闘中に病気、
ヘルニア(閉塞の悪化?)で亡くなりますが、
人柄、業績によって、大変にヴェネツィア人にも愛されており、
遺骸はヴェネツィアに運ばれ、荘重な葬儀の下、
今もサント・ステーファノ教会に埋葬と。

ベッリーニの描いたバルトロメーオの肖像では、
大変に厳しい顔をした中年後期の男性の顔ですが、
性格などの記述に「女が好き、でも溺れることなく・・」とあるのに、
それもイタリア語で「淫蕩」と言う様な言葉で書かれていたのが、
あれこれ調べたくなった原因の一つでもあるのですが、ははは、
友人のジュリアーノにも原稿を送り、
言葉の意味を取り違え無いよう読みましたです。
彼の本拠地のアルヴィアーノはどこにあるかですが、
ウンブリアのテルニ県に含まれ、
海抜251mの高所に1500人程の住民。

周囲にオルヴィエート・Orvieto、
チヴィタ・ディ・バーニョレージョ・Civita di Bagnoregio
スポレート・Sporeto などなど。
そしてこの小さな町、というより村に近い大きさですが、
バルトロメーオが1495年以降に築いた素晴らしい要塞があり、
学んだ建築技術や経験、また当時の万能の才人でもあった
レオン・バティスタ・アルベルティからアイディアを受けたのが
実践されたものと。



短い休暇期間をバルトロメーオはこの城に戻り休息しており、
この部屋もと思うのですが、フリウリから呼んで装飾させたという
通称ポルデノーネ・Pordenoneの壁画の残る部屋も幾つかと。

ポルデノーネの作品は、フリウリ、ヴェネトの各地に広がっていて、
バルトロメーオはポルデノーネの領主であり、画家を知り、
自分の城に壁画を描かせたのでしょう。
現在なら車で半日の距離ですが、当時の画家や彫刻家、
工事職人たちは本当に遠くまで仕事に出かけたのだと
いう事も改めて考えました。
彼の没後、跡を継いだ息子が22年後に没し男子の後継無く、
この城は教皇パオロ3世(アレッサンドロ・ファルネーゼ)が
いわば没収した形で、ファルネーゼ家のものとなり、
のち持ち主が変遷していきますが、
バルトロメーオの2番めの妻との間に生まれた娘達は
それぞれに結婚させられ、5世紀間続いたアルヴィアーノ家も
姓をリヴィアーニ・Livianiと変えたと。
ですが、城要塞自体は現在も見事に存在し、
内部も改装されたのでしょう、
バルトロメーオ・ダルヴィアーノで検索を掛けると、
上に見て頂いた様に素晴らしい威容の城が見れ、
城内には、傭兵隊長・カピターニ・ディ・ヴェントゥーラ達の
当時の歴史様子を知るための、
最新技術を駆使した博物館が設けられており、

なんと一番驚いたのは、
バルトロメーロ・ダルヴィアーノの没後500年を記念した
記念行事のあれこれが、2015年に催された様子!で、

遅れて参上のshinkaiも驚くやら喜ぶやらの、ははは、
彼の業績、生き様が地元に定着している様子なのでした。
今回はひょんなことから名前を知った傭兵隊長が、
次々と絵画世界に姿を表した事から
人物追跡が始まったのでしたが、
今回最後に知った事も、追加して置きませんと。
というのも、
ジョルジョーネ作として知られている「若い戦士とその従者」の
絵の作者は、実はジョルジョーネではなく、
パオロ・モラルド・Paolo Moraldo、通称カヴァッツォーラ・
Cavazzola (1486-1522)と呼ばれる作家のもの、
というウフィッツィ美術館の記事を見つけました。

ルネッサンス期ヴェローナの画家で、スタイルはどちらかと言うと
ヴェネツィア派のベッリーニやジョルジョーネと似ており、
マンテーニャやラッファエッロからの影響も見られる、との事。
ウフィッツィ美術館では、
ベッリーニとジョルジョーネの部屋に彼の作品が置かれており、
彼自身の作品は残っているのが大変に少ないそうですが、
一時ジョルジョーネの後期の作品とされていた事、
またガッタメラータを描いたものと考えられていたのも、
現在はそうでない、という記事でした。
そう言われてみると、
ジョルジョーネにしては細部が強い印象も受けますが、
まぁ、そのあたりは専門家の評価におまかせです。
2年前アッシジに行った時、アルヴィアーノに寄れるなと
地図を調べたのでしたが、やはりかなり遠くなるので断念。
が、またいつかチャンスを見つけることに致します。
と、ヴェネツィアのサント・ステーファノ教会にも!
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アップしています。
見てやってくださ~い!
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いつもブログご訪問、有難うございます!