・ ある傭兵隊長のお話と、 名画に描かれた、または 名画の謎

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  今回は、15~16世紀の画家ジョルジョーネ・Giorgione
  の名画 「テンペスタ・Tempesta・嵐
  に描かれた人物についてと、

  別の作品、作者と描かれた人物がいささか不明な、
  通常ジョルジョーネ作と言われている作品、

  そしてもう一枚、ジョヴァンニ・ベッリーニ作とされる人物像。

  これら3点の作品から浮かび上がる一人の人物
  15~16世紀の傭兵隊長についてのお話を。


  まず最初にこの傭兵隊長の名を申し上げておきますと、
  バルトロメーオ・ダルヴィアーノ・Bartolomeo d’Alviano
  (1455-1515)

  ウンブリア州トーディ・Todiの生まれと言われますが、
  姓の通り、ウンブリアはアルヴィアーノの領主の子として生誕。


  どのようにお話をと思いつつ・・、
  まずは上のジョルジョーネの「テンペスタ・Tempesta」をどうぞ。
       
  ヴェネツィアのアカデミア美術館に収蔵の名品、
  キャンバス地に油彩 82x73cm
  1502-1503年に掛けて描かれたとされる作品ですが、

  雰囲気、登場人物などの不思議さはすぐ目に付きますが、
  それ以上にこの作品は大変謎の多い作品とされていて、
  それについての本も出版されていて、
  こちらの写真が多いサイトで、大体の感じは窺えると思います。


  学者さん達の難しい推理は、単純shinkaiには余り向きではなく、
  絵を見ていて単純に、ここはどうなっているのだろうと思う一つは、
  右で授乳中の母子像です。

  子供は女性の右脚の外に座り、お母さんの右の乳房と思うのですが、
  左腕の付け根の問題なのか、左の肘が見える辺りの位置なのか、
  はたまた肩に掛かる白い布の腕の線を示す襞と、
  乳房を隠す線のせいなのか・・、

  彼女の左の乳房はどうなっているの?!と、
  この絵を見るたびにshinkaiは思うのです・・。




  まぁ、こんな詮索はさておき、

  左下の男性、これは絵の主題とどんな関係かと思うのですが・・、

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  この男性は「バルトロメオ・ダルヴィアーノ」とされている、という事で、

  その理由は?と聞かないでくだしゃんせぇ!
  shinkaiにも分かりませんが、その様な説明でして・・、へへ。

      
  ジョルジョーネ(1478頃-1510)はヴェネト・カステルフランコ出身で、
  ヴェネツィア共和国の元でも働いていましたから、

  バルトロメーオ・ダルヴィアーノがやはりヴェネツィア共和国の為に
  働いていた後年には出会った事があるのかも知れませんが、
  その時にはバルトロメーオは既に50歳を過ぎている事になり、
  勿論画家が人物を若く描く事はできるでしょうが、
  この辺りもshinkaiには分かりませんです。

  ジョルジョーネの生地カステル・フランコで開催されたジョルジョーネ展





  こちらはジョルジョーネの自画像と言われているもので、
  甲冑をつけ、ダヴィデ像に見立てたもので、1509年作、
  彼独特の少し憂愁に満ちた瞳を投げかけているもの。

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  これは「従者と一緒の、戦士の肖像」 1502-1510頃の作
  キャンバスに油彩  90x73cm   ウフィッツィ収蔵

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  こちらを見ている縮れ髪の若い戦士、少し放心した目で見つめ、
  後ろには少し口を開けた少年の従者が従い、 という画面で、

  ジョルジョーネの作品、そして描かれた人物は
  やはりヴェネツィア共和国の下で傭兵隊長として働いていた
  通称ガッタメラータ・Gattamerata、
  ウンブリアはナルニ出身のエラーズモ・ダ・ナルニ。

  この絵をパドヴァで開催されたピエトロ・ベンボ展で見ており、
  他にもジョルジョーネの作品が来ておりましたので、こちらを。

  ナルニの町のご案内は





  こちらがドナテッロ作で有名な、ガッタメラータ将軍騎馬像
  これはパドヴァのサン・タントーニオ聖堂前にあるもの。

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  傭兵隊長、という言葉の響きにはどこか惹きつけられますが、
  中世・ルネッサンス期には多くの有名な傭兵隊長が存在し、

  マルケ州ウルビーノフェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロも勿論、

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  彼とは宿敵の関係にあったリミニ
  シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタもおり、
  上下2点とも、ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品。

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  フィレンツェのサンタ・マリーア大聖堂の壁画にある
  ジョン・ホークウッドも、パオロ・ウッチェロ作

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  同じくフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂前の、
  ジョヴァンニ・デ・メディチ像も。 ジュゼッペ・デル・ロッソ作

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  ヴェネツィアのサンティッシミ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂前の、
  バルトロメーオ・コッレオーニも、 ヴェロッキオ作

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  これらはたちまちに名が挙がる有名な傭兵隊長で、
  それぞれ国に尽くした功績により、
  有名画家、彫刻家による肖像作品が今に残るわけですね。

  今回そういえばと気がついた興味深い事では、
  傭兵隊長と言うのは、悪くいうと「金で動く」、
  つまり報酬によってどちら側で働くか決めて戦争するわけで、

  その点ヴェネツィア共和国は、いつもきちんと支払い、
  その額も高かった、というのですね。
  でヴェネツィア共和国で働いた傭兵隊長、
  ガッタメラータも、バルトロメーオ・コッレオーニも、
  今回の主人公バルトロメーオ・ダルヴィアーノも、
  終生忠実であったと!

  まぁ、それこそ自分の命をかけて働く、戦うわけで、
  支払いを渋られたり、ケチったりされると、
  嫌気が指すのも当然よね、と、ははは。




  これが今回の我が主人公、バルトロメーロ・ダルヴィアーノ
  肖像とされるもので、1495-1500年 ジョヴァンニ・ベッリーニ作 
  ワシントン・ナショナル・ギャラリー収蔵

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  アルヴィアーノ公爵でもあり、ヴェネツィア共和国の下で
  オーストリアはハプスブルグ家のマキシミリアン1世との戦いに勝ち、
  フリウリのポルデノーネの領主にも。


  一族全員が戦いを仕事にする中で育ち、若くから彼も従事し、
  人文学者を師に学問をし文学を愛し、
  と共に武器や要塞、城の建設に関心を持ち、大変に優秀、
  後にパドヴァの城壁も彼が築いたのだそう。

  従兄弟であったピティリアーノ公爵ヴィルジーニオ・オルシーニの
  従姉妹バルトロメーアと最初の結婚をし、
  彼女の姉妹クラリーチェはロレンツォ・デ・メディチの妻、
  妻の死後ペルージャのジャンパオロ・バリオーニ(傭兵隊長)の
  妹ペンテシレーアと2度めの結婚を。

  彼について読んでいて、とても興味深かったのは、
  バルトロメーオは体格が細身で、多分背も低かったと思いますが、

  鍛錬された体を持ち、どのような活動も出来、気短で
  すぐに怒る性格を持っていたものの、直に自分で正す事ができ、
  品行方正、自尊心高く、純粋に思った事を口に態度にも出し、
  女が好きで、が特に溺れることはなく、宗教心は特別に強くはなく、
  芸に優れた者を高く評価し、自身も洗練された才人であり、
  頭脳的にも技術的にも優秀、とりわけ文学と武器を愛した、と。
       
  傭兵隊長として各地で戦い働いたのちヴェネツィア共和国の
  下で働き、最後はブレーシャでの戦闘中に病気、
  ヘルニア(閉塞の悪化?)で亡くなりますが、
  人柄、業績によって、大変にヴェネツィア人にも愛されており、
  遺骸はヴェネツィアに運ばれ、荘重な葬儀の下、
  今もサント・ステーファノ教会に埋葬と。

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  ベッリーニの描いたバルトロメーオの肖像では
  大変に厳しい顔をした中年後期の男性の顔ですが、
  性格などの記述に「女が好き、でも溺れることなく・・」とあるのに、

  それもイタリア語で「淫蕩」と言う様な言葉で書かれていたのが、
  あれこれ調べたくなった原因の一つでもあるのですが、ははは、
  友人のジュリアーノにも原稿を送り、
  言葉の意味を取り違え無いよう読みましたです。

       


  彼の本拠地のアルヴィアーノはどこにあるかですが、
  ウンブリアのテルニ県に含まれ、
  海抜251mの高所に1500人程の住民。

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  周囲にオルヴィエート・Orvieto、 
  チヴィタ・ディ・バーニョレージョ・Civita di Bagnoregio        
  スポレート・Sporeto などなど。





  そしてこの小さな町、というより村に近い大きさですが、
  バルトロメーオが1495年以降に築いた素晴らしい要塞があり、
  学んだ建築技術や経験、また当時の万能の才人でもあった
  レオン・バティスタ・アルベルティからアイディアを受けたのが
  実践されたものと。

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  短い休暇期間をバルトロメーオはこの城に戻り休息しており、
  この部屋もと思うのですが、フリウリから呼んで装飾させたという
  通称ポルデノーネ・Pordenoneの壁画の残る部屋も幾つかと。

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  ポルデノーネの作品は、フリウリ、ヴェネトの各地に広がっていて、
  バルトロメーオはポルデノーネの領主であり、画家を知り、
  自分の城に壁画を描かせたのでしょう。     
  
  現在なら車で半日の距離ですが、当時の画家や彫刻家、
  工事職人たちは本当に遠くまで仕事に出かけたのだと
  いう事も改めて考えました。     


  彼の没後、跡を継いだ息子が22年後に没し男子の後継無く、
  この城は教皇パオロ3世(アレッサンドロ・ファルネーゼ)が
  いわば没収した形で、ファルネーゼ家のものとなり、
  のち持ち主が変遷していきますが、
  バルトロメーオの2番めの妻との間に生まれた娘達は
  それぞれに結婚させられ、5世紀間続いたアルヴィアーノ家も
  姓をリヴィアーニ・Livianiと変えたと。


  ですが、城要塞自体は現在も見事に存在し、
  内部も改装されたのでしょう、
  バルトロメーオ・ダルヴィアーノで検索を掛けると、
  上に見て頂いた様に素晴らしい威容の城が見れ、

  城内には、傭兵隊長・カピターニ・ディ・ヴェントゥーラ達の
  当時の歴史様子を知るための、
  最新技術を駆使した博物館が設けられており、

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  なんと一番驚いたのは、
  バルトロメーロ・ダルヴィアーノの没後500年を記念した
  記念行事のあれこれが、2015年に催された様子!で、

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  遅れて参上のshinkaiも驚くやら喜ぶやらの、ははは、
  彼の業績、生き様が地元に定着している様子なのでした。



  今回はひょんなことから名前を知った傭兵隊長が、
  次々と絵画世界に姿を表した事から
  人物追跡が始まったのでしたが、
       
  今回最後に知った事も、追加して置きませんと。
  というのも、
  ジョルジョーネ作として知られている「若い戦士とその従者」の
  絵の作者は、実はジョルジョーネではなく、

  パオロ・モラルド・Paolo Moraldo、通称カヴァッツォーラ・
  Cavazzola (1486-1522)と呼ばれる作家のもの、
  というウフィッツィ美術館の記事を見つけました。

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  ルネッサンス期ヴェローナの画家で、スタイルはどちらかと言うと
  ヴェネツィア派のベッリーニやジョルジョーネと似ており、
  マンテーニャやラッファエッロからの影響も見られる、との事。

  ウフィッツィ美術館では、
  ベッリーニとジョルジョーネの部屋に彼の作品が置かれており、
  彼自身の作品は残っているのが大変に少ないそうですが、
  一時ジョルジョーネの後期の作品とされていた事、

  またガッタメラータを描いたものと考えられていたのも
  現在はそうでない、という記事でした。

  そう言われてみると、
  ジョルジョーネにしては細部が強い印象も受けますが、
  まぁ、そのあたりは専門家の評価におまかせです。


  2年前アッシジに行った時、アルヴィアーノに寄れるなと
  地図を調べたのでしたが、やはりかなり遠くなるので断念。
  が、またいつかチャンスを見つけることに致します。
  と、ヴェネツィアのサント・ステーファノ教会にも




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・ 古城ホテルへの滞在はいかが?!  n.2


  城館ホテルの その2を続けます。  どうぞ!


  カステッロ・バンフィ と 村       
  
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  この城の名は、モンタルチーノの夜レストランで食べていた時、
  前の席の青年から教えてもらったもので、懐かしく思い出し・・。





  地図をどうぞ
  赤い太めの線で囲ったモンタルチーノ・Montalcinoの南西に、
  約20kmにカステッロ・バンフィがあり、

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  この辺りはあちこちと何度も行き、季節毎に思い出が蘇る土地!
  ピエンツァ・Pienza、 モンティッキエッロ・Monticchiello、
  サン・クイリコ・ドルチャ・San Quirico d’Orcia、 
  バーニョ・ヴィニョーニ・Bagno Vignoni、
  カスティリオーネ・ドルチャ・Castiglione d'Orcia、
  右下に切れているRadi・・は、ラディコーファニ・Radicofani





  城の威容! 素晴らしい!!

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  1700年建設の城で、城の名に並び「村・ボルゴ・borgo」
  とあるのは、村自体も城壁に囲まれているのだろうと。





  サロンの一つでしょうね。

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  食堂、レストラン。  さすがワインが豊富!

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  元々が、バンフィ・Banfiという名のカンティーナで、
  サンジョジョヴェーゼと、ブルネッロと。

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  レストランも勿論有り、どうやら料理教室も開かれる様子で、
  今回のサイトの中では唯一、料理写真が見つかったもので、
  う~ん、タルトゥッフォ・トリフが乗っているよぉ!

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  スウィート・デラックスのお部屋

5-8-castello-banfi-il-borgo_suite deluxe_GF.jpg

  この大きさのお城で部屋は全部で14室、スウィートが5部屋、
  だそうですから、
  それぞれがかなりのデラックス版ということでしょうか?!

  ここも11月の半ばから閉め3月末に開くそうで、
  動物連れはダメと。




  お城ではなく、塔がホテルになっている
  トッレ・アルモンテ、往時の住まい

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  トーディの周囲にはたくさんの要塞化された村があり、
  これもその一つのようで、12世紀建設の24mの高さの塔

  1954年まで保護状態だったとありますから、それ以降に
  持ち主が変わり修復され、現在の姿、ということでしょうか。





  地図をどうぞ
  ウンブリア州のトーディ・Todiから北東に10k程、
  車で17分ほどの位置。

6-2_GF.jpg                                          
  中世に大繁栄したトーディの町の周囲には、たくさんの要塞地が
  あったと上記しましたが、
  町の南にイッツァリーニ・Izzaliniという名が見え、懐かしく!

  ここはトーディに行った時、古い土地が好きなら行ってみたら、
  と宿の主人に勧められ訪ねましたが、
  後にヴェネトの13世紀、残虐でもあり、また一種のヒーローでも
  あったエッツェリーノ・ダ・ロマーノに所縁の地と読み驚いたのでした。
  写真を撮ったままになっておりますが、・・整理してみようかな。





  この部屋はアッパルタメント・台所付きの意、とありますが、
  ご覧のようにモダン意匠に改修されており、

6-3-residenza-depoca-torre-almonte_appartamento_GF.jpg




  台所もご覧の通り

6-4-residenza-depoca-torre-almonte__GF.jpg




  塔の1階に食堂があり、塔5階分に2つのスウィートと、
  2つのアッパルタメントのみで、       

  こちらはスウィートのお部屋

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  塔の上からの眺め!

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  最後はロンバルディアはミラノの東、
  ヴィスコンティの要塞

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  地図をどうぞ
  ミラノから東に30kmほど、車で約50分程。

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  カッサーノ・ダッダ・Cassano d'Adda、アッダ河沿いに於ける
  ヴィスコンティ家の護りの要塞だったのが分かりますが、
                                     
  この地では1259年ヴェネトを拠点にしていた皇帝派の
  エッツェリーノ・ダ・ロマーノ3世が、残虐非道な治世でも知られた男
  でもありましたが、ミラノを目指す最後の戦いに破れ
  重傷を負いソンチーノで没という、
  まずそれを思い出したshinkaiですが、

  も少し東にはカラヴァッジョ・Caravaggioの地名が見え、
  ここがかの16世紀から17世紀にかけて活躍の画家  
  カラヴァッジョの、両親はここの出身だったそうですし、

  西にはゴルゴンゾーラ・Gorgonzola、はい、
  あの美味しいブルーチーズの一種であるチーズが
  15世紀にここで生まれた、という地の名も見えます。





  大広間

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  この城要塞は、まさにロンバルディアのミラノ公国と、
  ヴェネトのヴェネツィア共和国を分ける自然な国境
  ともいうべきアッダ河沿いに、
  1261年から95年にオットーネ・ヴィスコンティ・
  Ottone Viscontiによって建設され、

  軍勢の守備隊地、通商交易の取締、領主の住まい、
  平和時にはお遊びの地でもあり、土地の治世事務所でもあり、
  法廷、監獄と、様々な要素を含んでの要塞なんだそうで、
  15世紀には素晴らしい城壁も出来、城塞としては完璧な形に。

  ルドヴィーコ・イル・モーロの時代に、レオナルド・ダ・ヴィンチも訪れ
  ここの塔の上から、鳥の羽を模した空を飛ぶ研究の一端もしたと。

  後の世紀に衰退したのを、漸くに1960年代に修復が始まり、
  当時の姿が蘇り、装飾なども修復されたのだそう。
       




  食堂、レストラン

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  この色使いと、装飾の形!

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  でも、他はわりとシンプルでモダンで

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  中庭の夜

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  他にもたくさんのお泊りできる城が各地にありますので、
  皆様も旅の思い出にいかがでしょうか。


       
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・ 古城ホテルへの滞在はいかが?!  n.1

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  暫く前に、イタリアには一体いくつのお城があるんだろ? 
  と疑問がわき検索を掛けましたら、 
  へへ、いくつあると思し召す?
  なんと、全部で3177!!

  この数は城も要塞も含めてで、美しいのもそうでないのも、
  堀のあるもの無いもの、城壁に囲まれたもの、
  古い村の小高い頂上にあるもの、などなど、

  近年になり、博物館やホテルに様変わりしたのも、
  また観光客の訪れない土地にあるもの、未だその貴族の子孫や、
  はたまた趣味が高じての方の持ち物となったもの様々ですが、

  2007年の調査によると、
  歴史的また高雅な貴族の城や邸宅に住む家族は
  2404に及ぶそうで・・!

  詳しくお知りになりたい方は www.icastelli.it に、とあり、


  のこのこ訪問したshinkaiは、そこでサイトの一つのテーマ、
  トップの写真にある「城に滞在する」というのに出会いました。

  ふ~んとあれこれ眺めていて、知っている城が見つかったり、
  わぁ~お!というのがあったりで、
  では皆さんにもほんの少しご案内をと、ここに。

  サイトで紹介されているホテルとなっている城や要塞、塔は、
  ざっと数えても90以上あり、イタリア全土に渡りますので、
  興味のお有りの方はサイトをご覧頂くともっと写真も多く、
  ホテルの直接のサイトにも行けますので、どうぞそちらから。



  今回、とにかく最初に目を惹かれたのが、これ、

  オルシーニの城ホテル ネローラ

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  ローマから北東に50kmほど、車で1時間程の距離にあり、

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  ネローラ・Nerola村の頂上に君臨するオルシーニ・Orsiniの城

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  詳しい資料は無く、10~11世紀の城と想定され、
  オルシーニ家の物となったのが1235年、塔を嵩上げし、
  城壁で囲んだ城にしたのだそう。

  オルシーニ家と言うのは、教皇を2名も輩出したほどの古く著名な
  ローマ貴族ですが、ブラッチャーノ公爵でもあったフォラーヴィオ・
  Flavio Orsiniの没後1698年は、彼の直系は子孫がなく
  途絶え、分枝であるデッラ・ローヴェレ家のものに。

  その後も持ち主は変わったものの、20世紀になってCA.DI.というのが
  買い取り修復、現在に至っているそう。
       




  こんなプールも有り

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  食堂、レストランか、これは結婚式の披露宴会場と。

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  ローヤル・スウィートのお部屋!
  上の会場にしろ、この部屋にしろ、
  何とも石壁の威圧感がすごく・・!

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  こちらはスウィートのお部屋

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  へへへ、シングルのお部屋も見つかりましたが・・!

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  全部で50室あるそうで、
  ホテルのサイトは 





  北イタリアはボルツァーノから電車で30分程の
  メラーノ・Meranoの山奥にある、

  ホテル・カステル・フラウスブルグ

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  地図をどうぞ

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  こんな朝の光を見れる高所に在るようで、

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  ここは対ナポレオン戦の英雄でもあったアンドレアス・ホーファー・
  Andreas Hoferが、
  1624年に狩猟用に建てたものだったそうで、
  1954年に現在の持ち主Ortner家に、ホテルに改築改装、
  このタイプのものとしては唯一の5つ星と。





  北の香り、ティロルの香りというのか、

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  緑に囲まれた食卓

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  こんなテラスでの体操も出来

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  スウィートのお部屋

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  11月から4月の初め、つまり復活祭前まではお休みと。

  他にもそのお知らせの在るホテルがありましたので、
  もしお泊りご希望の方は、ご留意を。





  カステルブランド、 ヴェネトの我が家の近く。

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  地図をどうぞ

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  いつも歩いているカルページカ・Carpesicaも、オリアーノ・
  Oglianoも載っているのに、我がスコミーゴ・Scomigoがない! 
  悔しいので、ははは、赤点を打ちましたぁ。





  かってはここまで馬車で乗り入れた、というフロント前、

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  右に見える大階段は、





  この様に一番上まで続きますが、横に各階に連絡

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  食堂・レストラン

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  ローヤル・スウィートのお部屋

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  城は一度訪問見学した事があり、こちらに。





  あれっ、あそこの城だ、と懐かしかったのが、
  カステッロ・ディ・レオニーナ・ルレ

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  地図をどうぞ
  シエナの東南から、シエナのクレーターと呼ばれる侵蝕地を
  アシャーノに向かう途中、細い地道が続いているのを見て、
  どんなのかと辿ってみた村にあったのでした。

4-1_GF.jpg


  その時の様子はこちらに。
       
  地図に見えるアシャーノ・Ascianoから地道を
  Monte Sante Marie, Torre a Castello
  と辿った様子は、





  表から中をそっとしか覗けず、元修道院かと思ったのでしたが、

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  村の名の通りカステッロ・城、村、というより要塞が
  シエナによって築かれたのが中世で、
  1234年には、ここはシエナとオルヴィエートの領界争いの
  戦闘の舞台となり、破壊が酷く打ち壊すしか無かったそうで、

  15世紀になり、同じ場所にルネッサンス様式で建設されたのが
  現在の元になるもので、
  その後徐々に持ち主の農家が要塞化したものだそう。

  20世紀になり、荒廃していたのが元のように修復され、
  2003年から現在の姿と。





  食堂、レストラン

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  そう、ここは土地が高く、眺めも素敵なんですよね!

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  ただ、サイトの写真には小さなまやかしがありましてぇ、
  サン・クイリコ・ドルチャの東の有名な眺めの写真が使ってあり、
  それはまぁ、車で行くと50k足らずの行程で、
  1時間ほどで行けますがぁ・・・!





  スイートのお部屋

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  壁に、シエナのパラッツォ・プッブリコ・現市役所にある、
  シモーネ・マルティーニ作の「グイド・リッチョ将軍」の絵が
  見えますが、彼に関係のある戦だったのかどうか、調べてみよう。




  という所で、その1を終え、次回に続けます。


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・ ガエータ・要塞化し繁栄した、陽光明るい海辺の町 n.2


  ガエータのご案内 その2を続けます、どうぞ!  


  聖堂内の床の一部に残るコジマ式モザイクですが、
  ここのは黄色が多く、少し派手目かなと。

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  これは円柱のように太く、全面にキリストの生涯と、
  サンテラーズモの生涯の浮き彫りの入った蝋燭立て
  チェーロ・パスクワーレ・cero pasqualeと呼ばれる、
  復活祭の前夜に灯される蝋燭立てで、
  キリストの復活を祝うシンボル的なものなのだそう。

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  高い祭壇脇から階段を降り、スッコルポ・succorpoと
  呼ばれる、礼拝堂というか、聖人達の聖遺物を収める場所に。
  上の内陣後陣は、このスッコルポのために
  17世紀に高く建設されたのだそう。

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  各地でお目にかかるクリプタ・cripta・地下礼拝堂
  同じなのでしょうが、何とも絢爛豪華で派手な装飾!

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  フレスコ画と大理石、とあるのですが、
  この天井部分は漆喰ではないのかなぁ・・、
  大理石だと重くなりすぎと思うのですが。


  それにしても、正面の祭壇画の聖人はどなたか、
  絵の部分をアップして眺めましたら、
  なんとお腹を切り開かれており・・!





  半地下の豪華絢爛たる礼拝堂から上がって来ると、
  ははは、ワンちゃんがおりまして・・。
  いつもの事ながら教会内のワン君には、
  可笑しいながら異質感を持ちますです、はい。

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  ガイドさんの話では、近年この聖堂は修復が済んだ所で、
  なんと修復代が見積もりよりもかなり安く上り、
  イタリアにしては大変珍しいお話です、と! ははは。

  脇から聖堂を出たのだったか、教会正面を見ておらず!
  まぁ、1903年のもので、
  ネオゴシック調の煉瓦と明るい色石のもの、とあるので、
  ガイドさんも飛ばしたのかもしれませんね、はい。




  さて町中を見物しながら通りますが、
  これは天然の岩を利用し、隙間にレンガや石を詰め
  城壁代わりにしている場所で、

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  隙間から水が漏れ出すのもそのままに、植物が茂っており!





  こちらは上の写真の右側で、岩の裂け目がこんな風に!
  夏など天然の自然風で、涼しかったりして・・!

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  ガエータには紀元前10~11世紀には既に移植民が
  いたのが、ローマの下に紀元前4世紀には皆滅ぼされ、

  ローマ期にこの地は別荘地として大変に持て囃され、
  皇帝を始めとして裕福な貴族、執政官、議員達が通い、
  その為にアッピア街道よりも短く連絡するフラッカ街道
  Via Flaccaが造られたのだそう! やりますねぇ、ははは。

  町の地図で見て頂いた、現在の公園オルランド山の頂上に
  ある聖廟、というのも、ローマ期のルーチョ・ムナツィオ・プランコ・
  Lucio Munazio Planco、軍人、政治家、執政官、
  ガエータで紀元1年に亡くなった彼のもので、
  ジュリオ・チェーザレの将軍でもあったそう。
       
       
  ローマ帝国の滅びた後は暗黒の変遷時代の始まりで、
  はじめは蛮族の襲撃、略奪、そしてトルコ人と続き、
  半島の先っちょ、自然な土地柄と
  防御がし易い事から、城塞都市と変わっていったと。

  「中世の区画・ボルゴ・メディエオヴァーレ」と呼ばれる
  古い小高い部分は城壁で囲まれ、要塞城も築かれ、
  近隣からも城壁内に移住してきたのだそう。

  最初の城は6世紀、ゴート人との戦いの物で、
  後の確かなものは12世紀とあり、
  この間9~12世紀に掛け、町もビザンティン皇帝から
  自治権を獲得し、ガエータ公国となり、
  その独立を徐々に強固に、自国の貨幣フォッラーロ・
  follaroも鋳造、海洋通商の豊かな繁栄も遂げます。

  海洋国と認められ、アマルフィ、ナポリ、ソッレントと連盟を結び、
  ローマに襲撃を掛けようとしたトルコ軍を相手にした849年の
  「オスティアの戦い」では、トルコ軍を総崩れにし敗走させ、
       
  915年にはやはり「ガリリアーノの戦い」でトルコ軍相手に勝ち、
  中央イタリアからアラブ人を決定的に退ける事となり、
  その後12世紀末、シチリア王国のもとに約7世紀間の併合を。

  この間13世紀末から15世紀かけフランスのアンジュー家の
  支配があり、16~7世紀をスペインの元に、
  そして18世紀の短い期間オーストリアの元にと変遷をし、
  最後イタリア王国に。

  読んでいて、1571年対トルコとの最終戦「レパントの戦い」
  のキリスト教国側の艦隊が、ここガエータの港に集結したと読み、
  この戦いにはヴェネツィア艦隊も参加し、勝利していますので、
  単純shinkaiはなんとなしこの町に親近感を感じ・・、ははは。

       
  そうなんですね、海岸続きの近くではありますが、
  近くのスペルロンガとは違う趣は明らかで、
  スペルロンガは貧しい漁村であったのが、
  こちらはトルコの海賊と戦って勝ちもし、
  海洋通商で繁栄した歴史を持っているのですね。

  アマルフィのご案内

  アマルフィの聖堂

  ナポリのご案内 周遊バスで

  ソッレントのご案内





  町の通りも並行して上下が重なり

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  小さな広場では、そろそろレストランが昼の準備で、

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  既に仲間が写真を撮っている姿が写っていますが、
  スピリト・ディ・ヴィーノ・ワインの精神
  ファルマチーア・デイ・サーニ・健康薬局  
  とあり、ははは、飲み屋で~す。

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  通り抜けていく道脇に咲く鉢植えの花々

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  そして、サンティッシマ・アンヌンツィアータ
  Santissima Annunziata・お告げの聖母マリーア教会。

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  建設は1321年から、1352年に聖別、
  17世紀にバロック様式に改築、現在見るのはその形で、
  一番上に小さな帆型の鐘楼、マヨリカ焼きの時計が見え、
  大きなゴシック様式の鐘楼も後陣右脇に。




       
  内部は細めの一廊式なのですが、
  ご覧のようにここも豪華なもので、

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  祭壇の大理石装飾と、

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  床の柄

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  17世紀のパイプ・オルガンの席

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  一旦教会を出て、別の棟にある礼拝堂に行く時に、
  これ、何かわかりますか? 捨て子を入れる場所
  赤ちゃんを入れぐるっと回すと、建物内で受けれるように。

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  繁栄の時代を迎えた町でも、やはり貧しくて生まれた子を
  育てられず、捨て子に来た親がいたのですね。

  この教会は、受胎の聖母マリーアの名に因み、病院施設も
  あったそうで、捨て子を受ける場所も備えていたのでしょう。
       




  かと思うと、こちらの棟の「黄金の礼拝堂・カッペッラ・ドーロ・
  Cappella d'Oro」 天井は木製彫刻の金塗りで、
  周囲に19枚の油彩「キリストと聖母の生涯」を描いたもの。

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  何とも豪華ですが、装飾も絵もまるで趣味が違いまして・・!




  小さな中庭に出てきて、
  この黄土色と小さな井戸、敷石の模様にホッとし、

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  教会の高い脇壁の道に戻りますが、かっての町の城壁は、
  唯一、この教会の入口辺りに門があったのだとか。

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  やっとお昼ご飯だ!と喜んで歩きます、ははは。



       
  最後はサイトで見つけた写真で、

  オルランド山の公園から見たガエータの夜景を。
  この角度だと、城のある位置が良く分かりますねし、
  これは如何に屈強なトルコ海賊でも攻められませんよね?!       
  う~ん、ここは見たかったなぁ!!

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  長いご案内にお付き合い、有難うございましたぁ!!
       


 *****        
       

  いつもブログご訪問、有難うございます!    







・ ガエータ・要塞化し繁栄した、陽光明るい海辺の町 n.1

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  昨年春の南ラツィオの旅の、
  今回は最後のご案内になるガエータ・Gaetaを。

  この地には昔から思い入れがありまして、
  というのもず~っと昔見たガイドブックに
  浜辺にそってパステル・カラーの低い家並みの続く写真
  「ガエタ」が1枚あり、
  当時のshinkaiにはとても魅力的に見え!
  いつか行ってみたいと思っていたのでした。

  さて実際に、長い年月の後に訪問してみると、
  やはり思い込みとは大違いで、ははは、写真を整理しつつ、
  この町の一番の印象は何だったろう、と考えました。

  古いガイドブックの「貧しい海辺の町」ではまるでなく、
  多分ここより西の「スペルロンガ」と混同しているのかも・・。

  ローマから南に120km,ナポリから北西に80kmの距離、
  長い紀元前からの歴史を持ち、港を持った繁栄の地であり、
  何度も異民族に襲撃されながらも、城壁を築き
  町全体を要塞化して備え、現在は明るい陽光のもとに、
  海辺の小さな町の良さを満喫している、とでも・・?!
       
  そんな町の印象がお伝えできますかどうか・・。
  と、今回の写真は何故か呆けピンが多く! 馬鹿がぁ、
  必死に修正しましたが、
  どうぞその辺りはご容赦下さいますように。

  今回も写真の数が多くなりましたが・・、
  なかなかこの辺りまで行かれる方は少ないであろう、
  ・・でも、shinkaiのブログはそういう方にも、
  旅の、町の雰囲気を味わって頂いている筈と、
  ははは、そう考えてご案内しておりますので、
  ごゆっくり楽しんで頂けますように!
       
       
  上の写真は町の中程の海辺沿いでバスを降り、
  港の南方面を見た所で、





  角度を少し変え、海岸沿いの続きはこんな様子
  高い鐘楼が見えますが、これがガエータの聖堂。

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  ガエータ湾をはさみ北東方面
  山上に見える町はマラノーラ・Maranolaと。

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  南ラツィオのご案内全体は、こちらからも。




  ガエータの町の位置と、中心部の地図をどうぞ。

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  町は湾を挟み北西にも伸び、南の浜辺も含まれますが、
  右に突き出した半島の先っちょ、
  色が少し濃くなった辺りが旧市街の位置。

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  訪問した教会、聖堂2つの位置と、
  町の上に見える城の位置を示しましたが、


  実は中心街に行く前、左下に囲ったサンティッシマ・トゥリニタ
  SS.ma Trinità という聖所を訪れ、教会や、
  岩山の裂け目にある礼拝堂などを拝見し、はぁ、

  ついでに右下に赤丸で囲んだ「トルコ人の洞窟」なるもの、
  なに、トルコの海賊たちが隠れ家にしていた深い洞窟で、
  shinkaiはお金を払ってまで階段を下る気はなく、はは、
  そんなあれこれと、
  そして南の海岸沿いの浜辺のパノラマを見たりしました。

  ついでに町との間に挟まる
  山上のオルランド自然公園に赤丸も打ちましたが、
  この辺りにはローマ期の貴族の聖廟もあり、
  ここからの町の旧市街の様子が絶景!の様
  我らは行きませんでしたが、
  本日最後にここからの様子をお目に入れますです。




  という事で、上の地図の海辺に沿った位置、
  2つの教会に挟まれた真ん中辺、緑色が駐車場兼公園で、

  この辺りからの眺めが上の海岸沿いの写真であり、

  右手の上に見えるのが、このサン・フランチェスコ教会

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  ここには行きませんでしたが、1222年聖フランチェスコが
  ガエータに滞在した折に基礎をした教会で、
  14世紀に再建築、19世紀に上部を追加という形だそう。




  そしてそれより北、海岸沿いに近い低所にあるのが、
  サンティッシマ・アンヌンツィアータ・SS.ma Annunziata、
  ここも聖所、教会。

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  手前に高い城壁が一部残っているのが見えますね。
  現在は中心の方のは無くなっているようですが、
  かっての海賊、蛮族襲撃に備えて要塞化された町の名残。
       
  ここは後ほどご案内を。





  そしてちょうど真上辺りに見えるのが、町の城・要塞
  四角い城を左右2つ繋いだ形に見えますが、時代が違い、
  右の少し低い方が、13世紀フランスのアンジュー家
  占領していた時代ので、
  左の高い方が、16世紀スペインのアラゴン家
  カルロ5世が拡張したもので、

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  カステッロ・アンジョイーノ-アラゴネーゼ
  Castello angioino-aragoneseと呼ばれ、
  広さは1万4千平米に及ぶ広いもの。

  アンジュー家の方は近年まで監獄に使われており、
  現在は市の持ち物で、未来は海洋大学となる予定と。
  アラゴン家の方は戦前はカラビニエーリ
  (かっての国王警備から派生したイタリア警察、軍隊組織を
  持ち、イタリア警察とは別組織)の学校だったのが、
  現在は経済警察(フィナンツァ)の海洋学校が入っているそう。

  こうして見て頂くと、海岸沿いからの天然の地形を活かし、
  階段状に町が高く重なるのが良くお分かり頂けると。





  町の聖堂に向いつつ、
  真ん中に見えるのが教会サン・ジョヴァンニ・ア・マーレ
  San Giovanni a Mare・海のサン・ジョヴァンニ教会

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  クーポラの形がアラブ式になっていて、
  きっとかっての漁民たちの守護教会でもあったのでしょう、
  海に面していて、10世紀建設を
  1213年の地震の後に再建したものだそう。

  今は無くなったものの城壁の外、海のすぐ傍にあるため
  高潮の時に海水が内部まで入り込むのが流れ出るよう、
  床は微かに傾斜していると。
       




  海岸沿いを行きますが、
  大きな建物のこんな形は、今は住居とは言え、
  以前は何だったのかと思うほどで、

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  こちらナポリを思い出す造りで、
  生活が窺えるでしょう?!

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  道であったワンちゃん。  
  あんたのお父さんは、お猿さん?! ははは。

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  遥か彼方からも素敵な威容が見えた町の聖堂の鐘楼
  こちらが脇、祭壇の脇に出る、の入り口。

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  鐘楼は12世紀、ニコロ・デッランジェロ・
  Nicolo dell'Angeloの作で、彼はスートゥリ・Sutriや、
  ローマのサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ教会の仕事も。





  美しい鐘楼の細部をどうぞ
  アラブ・ノルマン形式の影響を受けたロマネスクで、3層、
  2つの窓で、一番上は8角形。

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  緑色の丸いお椀型や、平の四角形など、緑色濃淡の
  釉彩を使ったものがたくさんはめ込まれ、光を受けて輝きます。
  平らな薄目の煉瓦の組み方も工夫されているのが見え、
  白と黒の石をアクセントに、
  同じロマネスクとはいえやはり表現が違うなぁと・・。
       



    
  鐘楼の下に、聖堂への脇入り口の上り階段があり、

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  現在の聖堂は、7世紀の以前あった教会の後に建設された
  11世紀のもので、この入口はかっての教会の入口で、   
  聖堂の正式の名はサンティ・エラズモ・エ・マルチャーノ・
  Santi Erasmo e Marciano.





  アーチの左右にライオン像が見えますが、

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  向かって左側は正面から見た時、横向きの顔と思ったのが、
  何処かからライオン像だけ持ってきてはめ込んだのか、
  怖い顔して空飛ぶライオン、みたいで、思わず笑いましたぁ!

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  鐘楼の基礎部の石積み部分
  あっちこっちからのリサイクル利用の石が混じっていて楽しく!

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  入口部分にも柄が入った石がいくつも見かけられ、

  これは階段途中、左右の壁にある石棺

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  ローマ期の物でしょうか、この波打つ柄は左右どちらにもで、
  実は後で見て頂く内陣の祭壇もこの柄なのです。

  海に近い土地柄なのか、何か理由があるのか、
  それともロンゴバルドの柄の影響なのか、
  どなたかご存知でしたら、お教え願います。

  と、上の竜に羽が生えた様な動物、左右に対でありますが、
  これは竜? それとも鯨?
  というのも、右側のは人間を(ヨナ?)を飲み込む柄かとも・・。





  内部全体を撮っておらず、これはサイトから拝借。

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  古いかっての円柱がはめ込まれた形で残っていて、

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  内陣と後陣部分が高い造りになっていて、
  その下に4福音者のシンボル像と、コジマ式装飾。

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  そして、波模様の石棺利用の祭壇と、
  脚代わりのライオン像。

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  という所で、その2に続けます。 



 *****

  水彩+色鉛筆画ブログには、
  アップしています。    
  見てやってくださ~い!    



 *****        
       
  いつもブログご訪問、有難うございます!     







・ テッラチーナ ・ ローマ期の遺跡と香りが色濃く残る街 n.2


  テッラチーナの旧市街、ご案内その2をどうぞ!


  さて聖堂内部を。 左の説教壇にご注目を。 
  と祭壇部分

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  ここの説教壇のコズマ式装飾が素晴らしく!!
  が、暗くてshinkaiの写真はピンぼけが多く・・、とほほ。

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  説教壇を支える者たち! 素敵ぃ!

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  古い起源の町ですから、残っていた遺跡群の中から
  リサイクル出来る物は皆再利用した様子でして、はい、
  これらライオン像もそうなのではないかと・・。

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  床のコズマ式装飾がまた素晴らしく!!

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  これは柱に残っていたもので、
  全盛期には柱にもすべてこれらの装飾が、多分!!

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  コズマ式装飾の素晴らしいのには、

  サレルノの聖堂でも出会い、

  アマルフィの聖堂でも
  http://italiashio.exblog.jp/15410032      
       




  さて聖堂から出まして、
  かってのローマ期のフォーロ広場の敷石

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  広場の東南側の端、3段の高台にも円柱が並ぶ部分が有り、
  ここも爆撃の跡から日の目を見たローマ期の遺跡部分で、
  その右奥に見えるのは、中世の塔の跡と。

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  何度か爆撃の跡から見つかった、明らかになった遺跡、
  と出てきますが、
  爆撃がなければ未だに立て込む家々に埋まり、、
  多分このあたりにある筈、というだけで見れなかった訳で、へへ、
  こういうのは、喜んでも良いですよね?!





  その前に見えているこれが、元のアッピア街道の敷石

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  ローマからテッラチーナまで約一直線に繋がる
  アッピア街道が建設されたのが、
  紀元前1世紀の末から紀元後1世紀の初めで、

  このテッラチーナから斜め東南にイタリア半島を横切り、
  アドリア海沿岸南のブリンディシまで連絡していた、
  いわばローマ帝国の大幹線道路だったわけですね。

  この古いアッピア街道は中世には廃れたのだそうですが、
  後に干拓事業がされ、16世紀頃から徐々に旧アッピア街道
  に沿って拡張工事が進み、
  

  いやぁ、それにしても、この地で
  こんなにしっかりした形で残るアッピア街道を見れるとは!

  フォーロ、かってのローマ期の市民広場、集会場であった
  フォーロの中を通り、大神殿横のアーチを潜り抜け、町を走り、
  通り抜けていったローマ期の軍勢、人々。
  そんな姿が彷彿とするアッピア街道の一大拠点が思い浮かびましたし、

  かなりの遺跡跡、美しい壁も見れ、
  テッラチーナの町を新しく知り、見直した事でした!!





  このアーチはかって4つあったそうですが、
  実はどの部分で見たのか記憶に残っておらず・・!
  市のサイトにはArco Onorario Via Appia
  アッピア街道の名誉門とあり、他のサイトの説明では、
  アッピア街道はこのアーチの下を通ってここから坂道を上る
  とあるので、

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  写真番号からも、中心広場から出ての下り道にあったのかも・・。





  上のアーチの脇に咲き誇るブーゲンビリアの赤い花。 
  やはりここは南国!

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  さて、聖堂の眺めにも別れを告げ

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  我らは坂道を下り、バスとの集合場所に向いますが、
  旧市街のある高さがお分かりでしょうか? 
  海がこんな風に見えるのです!

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  かなりの道のりの坂道をせっせと歩きながら、
  こんな街頭も眺めつつ、

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  車の陰で涼む猫ちゃんも撮り。 
  この隣に顔がクチャクチャのライオン像もあり・・。

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  トドみたいな、ははは、ライオン像も見かけ、
  サイトで同じライオン君の写真を見つけましたが、
  アルビーノ門の葬式のライオンと!
  ははぁ、どこかの墓所から持ってきたのでしょうね、きっと。

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  遂に坂道を下り、やはりまっすぐな松並木の道を見ながら、
  我らは右に曲がり、

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  暫く下の街の、こんなオレンジの並木道を歩き、
  バスとの待ち合わせ場所に。
       
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  そしてテッラチーナと、南ラツィオの街々と別れを告げ、
  一路ヴェネトの家に戻ったのでした。

  テッラチーナのご案内、お楽しみ頂けましたように!
  長いお付き合い、有難うございました。


  この時の旅行で訪れたガエータの街のご案内もまだで・・、
  は~い、頑張って写真整理もしませんと。



 *****        
       
  いつもブログご訪問、有難うございます! 







・ テッラチーナ ・ ローマ期の遺跡と香りが色濃く残る街 n.1 

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  今回のご案内はローマから南に110kmほど、
  車で1時間半程の距離にある
  テッラチーナ・Terracinaのご案内を。

  昨年春の南ラツィオの旅行では、ここの浜辺沿いの
  リゾート・ホテルを基地にしてあちこちに出かけましたが、
  テッラチーナの旧市街見学は最終日になっていたのですね。

  で5月の煌めくような朝早く、浜辺のホテルを後にし、
  一路こんなアッピア街道を模したような道を行きます。





  これは通りすがりに見えた町のローマ門。 
  ご丁寧にS.P.Q.Tと!
  S.P.Q.Rだと「元老院とローマの人民」となるので、
  どうやら「テッラチーナの人民」の意味を込めている様で、
  シャレというか、どこか親父ギャグみたいで、ははは。

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  ですが我々は一旦町を通り過ぎ、町外れの山上にある
  ジュピター・アンクール寺院の遺跡見学に先に行きます。

  これが港から見上げたジュピター・アンクール寺院
  Tempio di Giove Anxur。
  そうです、この高さに大きな寺院があったのですね。

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  ですが寺院遺跡のご案内は苦手の上長くなりすぎますので、
  写真で様子を見て頂けるよう、
  水彩ブログの方に載せましたので見てやって下さい。




  街の様子の地図をどうぞ
  街全体としては海辺沿いに細長く西に続きますが、
  ジュピター寺院の位置と旧市街、色がほんの少し濃い
  囲った部分が旧市街。 

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  テッラチーナと近くの街の関係地図は

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  現在のテッラチーナの街の人口は4万6千人程。
  これは小高い位置にある旧市街部分以外の、
  下の街と呼ばれる部分の方が大きいと思うのですが、

  バスで山の上のジュピター寺院を見に行く時に、
  かっての町の城壁が良く見えました。

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  テッラチーナは紀元前6世紀末に既にローマの勢力圏にあり、
  その後ウォルスキ族の下にもあったのが、再度ローマ人に、
  という様子が繰り返された後、
  紀元前312年にアッピア街道が通り、ローマ期が続きます。

  ビザンティンの時代を経て8世紀から9世紀は教皇領になり、
  中世にも、このローマに近いこの町は様々な変遷を経り、

  町の繁栄も衰退も何度もあった様子で、
  16世紀にはマラリアの蔓延で、
  町の人口はわずか150名にもなった事もあった様ですが、

  近代となり干拓事業も進み、新道路もつき、
  観光地として栄えている様子。



  さてジュピター寺院の見学から町に戻り、
  城壁の外でバスを降り、ガイドさんに連れられ細い道を下り、
  ローマ遺跡の中を通りますが、

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  位置としては、今見える鐘楼が現在の中心広場にある
  聖堂サン・チェザレーオ・San Cesareoで、
  正面の建物類は18世紀に増改築された聖堂部分。
       
  カピトリウム・Capitolium(ジュピター神殿のある聖地の意)
  と呼ばれるローマ遺跡群は、
  後にご覧頂く中心広場の北東、という事になります。
       
      



  まず驚いたのがこの美しい壁!! 
  斜め格子状に石を組むのはポンペイ遺跡でも、
  スペルロンガのティベリオの遺跡でも見ていますが、  
  ここのは凝灰岩の茶と石灰岩で格子柄に。

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  脇はこんな形で高台になっていて、角に、

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  角にこの円柱が1本残ります。

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  狭い場所でして、
  すぐ脇にはこんな風に家が立て込んでいて・・。

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  上の壁は、正面に回るとこの様に2重になっており、
  かっての仕切壁だったのが分かるのですが、

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  ここには、現在の聖堂に含まれた形になった大寺院
  とは別の小寺院があったのだそうで、これらはその遺跡で、
       
  つまりこの小寺院の中は3つに別れ、それぞれに
  ジュピター、ジュノー、ミネルヴァの3神が祀られていたと。

       



  上の写真にも見える、
  奥の家の壁に残る色付きの部分にご注目を。
      
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  屋根の形が分かるので、かってあった建物の壁を利用して、
  後に建て増しをされていた事も分かりますが、
  これが神殿を隠していたのだそう。

  実はこの一帯、第2次大戦時の爆撃で家々が被害を受け、
  それでかってのローマ遺跡が明らかになったのだそう・・!


  右手に見えるアーチの上にも、かっての壁跡が見えますし、

  我らは今回見なかったのですが、
  中央奥に見える小アーチの上に小路が見えますね、
      
  あれを左奥に行くと・・・、





  こんなテアトロ・劇場跡が4分の一程も見え、
  これも爆撃で明らかになったのだそう!
  他の部分は上に家々が立て込んでいるのだそうですが、
  近年の研究で分かったのは、
  劇場の直径が約72m、4000人ほどの観客収納数と。

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  脇道の角の家の上階の柱、これも明らかに神殿の柱を
  リサイクル利用していて、
  ここはどうやら現在の聖堂の一部の様子!

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  これは何だろ? 浴槽?

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  遺跡につきものの猫ちゃん。 少し痩せぎすね。

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  旧市街の中心広場、ローマ期のフォーロ・エミリアーノ
  Foro Emiliano、
  塔は聖堂の鐘楼と同じ時代12,3世紀、同じ高さ、
  とあるのですが探しても高さは見つからず、
  塔はフルメンターリア・frumentariaというので、穀物倉と。

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  塔の右手のモダンな建物と奥側ともに市役所だそうですが、




  ついでに塔の横階段の様子も見て頂き、

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  古い側の市役所の壁もご覧下さいね。 
  はい、かってのこの建物の壁も、2色の格子壁だった様!

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  広場の西を占める聖堂サン・チェザレーオ・San Cesareo.
  元々あったローマ期の大寺院を含み、大きくなり高台に。

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  聖堂の右の建物は、13世紀のパラッツォ・ヴェンディッティ
  Vendittiで、
  元々は市役所だったそうで、下に見えるアーチをくぐると、
  先に見て頂いたローマ遺跡に連絡し、
       
  このアーチの下をかってのアッピア街道が通っていたのですね。
       



  
  鐘楼、12~3世紀。 こちらも2色使いの素晴らしいもので、
  上階に行くごとに窓の幅が広くなりますが、
  これは重量を減らす工夫だったそう。

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  装飾にはめ込まれた色付きの丸い鉢のようなもの、
  お分かりでしょうか?
  彩りを添えますが、修復の際に取り替えられたものだそう。


  同じ彩色陶器を使う工夫がポンポーザの修道院にも。





  元々の教会はローマ期の寺院があった上に建てられた
  9世紀のものだそうですが、
  聖別は11世紀、鐘楼ともに内部の修復も12~3世紀と。

  教会前ロッジャ部分の、モザイクによる装飾は現在右側に
  しか残っておらず、何のモチーフか明らかではないそうですが、
  最初の十字軍遠征であろうかと・・。

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  軒下の装飾部分。 
  人物像は、玉座に座る人物で、その右が猿のようで・・!

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  入口前の円柱、下の飾り部分。 
  背を向けて座っている人物とライオンというのですが、
  残念ながら破損部分が大きく。

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  こちらは良く分かるライオン像

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  こちらのサイトに、聖堂装飾の詳細写真が。       



  という所で、次回のご案内に


 *****


  水彩+色鉛筆画ブログには、
  アップしています。    
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 ・ 15世紀 ミラノの貴族のお遊びは、 ボッロメーオ邸


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  先日ピサネッロの絵やデッサンをサイトで調べていた時、
  思いがけず、30年以上前にもなりますか、
  雑誌で見て忘れられずにいた絵に出会いました。

  「ミラノの古い貴族のお屋敷にあるピサネッロの壁画」とあり、
  当時初めてのイタリア旅行で見た、古い壁画や祭壇画の虜に
  なっていた私には、それはもう、
  「遥か遠い国、魅せられたイタリア」以外の何物でもなく、ははは、
  ましてピサネッロ、という名にも魔法をかけられ、
  大切に写真を取っていたのでした。

  その一連の絵に、長い年月の後再会できたのでしたが、

  今は有難い事にPCでその写真の出処にも行き着き、
  あれこれ調べる事も出来るので、
  これらの壁画はミラノのボッロメーオ邸・Palazzo Borromeo
  在ることも分かり、
  知らずにいた他の画面も知ることが出来ました。

  という事で、今日はこの壁画を通じて、
  15世紀ミラノの貴族の子弟のお遊びの姿をご覧下さいね。
  そして最後に、現在の貴族のご子孫達の様子もちょっぴりと。


  上の写真は、私の記憶に残っている写真の色に近い、壁画の部分。





  ミラノのボッローメオ邸はどこにあるか、地図をどうぞ。
  まさにミラノの中心、ミラノのドゥオーモから歩いて10分ほど、
  1kmにも満たない位置に。

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  ボッローメオ広場に面した入り口。  
  13世紀末の建設、四角い窓と、白と赤の大理石を使った
  入り口の大きなアーチ。

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  入り口アーチの上部にいる駱駝像と、植物柄

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  その後の改装で建物も大きくなったそうで、
  これは上空から見る建物の現在で、
  内庭を囲む建物が2つある形で、奥の内庭が広く、

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  5角形の角柱に支えられたアーチに囲まれた奥の内庭

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  奥の内庭は3面がアーチの回廊になっていて、
  残る一面に建物の壁があり、
  それには壁画と、陶板飾りの装飾のある窓があり、

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  こちらが上の写真の壁画で、
  王冠とボッローメオ家のモットーである
  Humilitas・ウミリタス・敬虔、謙遜、の文字。

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  この建物内の1階の広間に、今回ご案内する壁画があり、

  これです!!
  窓側になる手前部分には無く、もしくは失われたかで、
  3方の壁にこの様子で。
   
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  左側が「タロッキ・tarocchi・カード遊び
  中央が「パルマータ・palmata・名前当て、とでも」
  右が「パッラ・palla・ボール遊び





  まずは左側の壁画から、
  背後にザクロの木が3本ある庭で、
  男女5人がカード遊びをしていて、
  右背後には湖の風景も見え、

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  写真によってかなり色の出方が違いますが、
  15世紀半ばと見られる壁画に描かれた、
  貴族の子弟たちの服装、髪型も詳細

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  カード遊びというのは、現在も大変盛んですが、
  どこか秘密めき、瞑想的でもある
  この遊びの雰囲気がよく出ていると思われませんか?!



  実はこの壁画は長い歴史の中で塗りつぶされていて、
  第2次大戦の際に爆撃により被害を受け、
  戦後に行われた改修の際に見つかったのだそう。

  そしてこの赤っぽく見える色合いは実際の色ではなく、
  この上から画家はかなりオークル・黄土色系の色を、
  セッコ・乾いた状態で掛けているのが剥落し、
  湿度の問題もあり損傷が激しく、残念ながら、
  到底描かれていた当時の状態ではない、との事!

  ですがこれだけ素晴らしい雰囲気がわかるだけでも、
  有難いことですよね?!





  中央のパルマータ
  やはりここにも5人の男女が手を上げて遊んでいて、

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  パルマータと言うのは現在の遊びでいうと
  「スキアッフォ・デル・ソルダート・schiaffo del soldato」
  に似ている、というので友人のジュリアーナにも尋ね、
  教えて貰いました。

  グループでの遊びで、一人が壁に向い(目をつむり)、
  片手を背中に回し手のひらを上に向けて立つのに、
  皆が順に指で触って行き、
  済んだ所で皆が一斉に自分の指を上に上げて見せ、
  それで誰が触ったのかを当てるのだそう。

  元の名のスキアッフォ・デル・ソルダートと言うのは、
  兵士の平手打ち、の意ですから、
  元々は兵士が乱暴に遊んでいた事から来たのかもですが、      
  画面の中でも、手の平を打ち付けている様子が見えます。

  パルマータとか、次のパッラ・ボール遊びなどは、
  中世でも伝統的に長く楽しまれ、素朴で仲間と楽しくで、
  こういう遊びはいつの時代も変わりませんね。





  この中央に立つ女性の衣装も見事ですが、
  衣装とか髪型には金色の線が描かれていたがの分かるそうで、
  如何にも裕福なボッローメオ一族の子弟たちなのでしょう。

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  パッラ・ボール遊び
    
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  左の女性が棒を持ち、ボールを打つ所でしょうか?

  右奥背景の景色は、ラーゴ・マッジョーレ・マッジョーレ湖
  西岸に位置するアローナ・Aronaであろうと言い、   
  ここ一帯はボッローメオ家の領地であり、
  ボッローメオ国と呼ばれるほどのものだったと!

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  そして右側に並ぶ女性4人、これは当時の豪華な衣装、
  髪型で装った、まさに貴族女性のお披露目の様子で、
  色の損失、画面の損傷がとても残念。

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  これら一連のフレスコ画に登場する女性達のスタイルは、
  まさにピサネッロの絵に登場する女性たちを彷彿とさせ、
  私が昔見た雑誌でも当時はピサネッロの壁画、と
  説明されていたのでしたが、

  今回改めて再会し、いや、これはピサネッロではない、
  とすぐ思いましたし、調べてもピサネッロという名は出ませんで。
  shinkaiの思うピサネッロが描く人物は、
  女性はこういう目つきはしませんし、はは、
  雰囲気は似ていても、ピサネッロはもっと巧緻です、断然。
       

  このボッローメオ邸の壁画はガイド付きで見学出来ますが、
  所有者の関係で月曜から金曜日までのみで、写真も禁止。
  見学は約1時間半ほどで、予約が必要、料金は13エウロ。
  サイトは 





  壁画の作者として研究者達から名が上がっているのが、
  ミケリーノ・ダ・ベソッツォ・Michelino da Besozzo
  という事ですが、
  彼の描いた教会のヴォールトの絵はこんな様子で、

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  彼は細密画も描いていますが、同じような可愛い人物像で、
  彼がボッロメーオ邸の壁画の作者とは思えませんです。

       
  このボッローメオ邸は現在もボッローメオ家の持ち物ですが、
  オフィスに投資信託会社が使っているようで、
  住居にもなっているそう。





  所でボッローメオ家についてあれこれ読んでいて行き着いたのが、
       
  ラーゴ・マッジョーレの東岸にあるアンジェーラの要塞
  Rocca di Angera. 200mの崖状にあリ、
  元はロンゴバルドの10世紀の要塞だったのを、
  14世紀にヴィスコンティ家が現在の要塞の形にし、
  ボッローメオ家が増改築したものだそうで、
  現在もボッローメオ家の所有。

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  一連のフレスコ画の「ボール遊び」の中央に見えた湖は、
  この要塞の対岸の西にあるアローナという事でしたが、
  ここにもかって同様のボッローメオ家の要塞があり、
  マッジョーレ湖の船の往き来を見張り、税を取り、
  アルプス側からの敵の侵入にも備えていたと。

  マッジョーレ湖はかってミラノの街の建設資材、
  大理石類などを調達し運ぶ一大輸送地で、
  この税を免れた唯一は、ドゥオーモ建設の資材運搬船で、
  おまけに石材発掘も無料、運搬費も無料だったと!!
  どこかの国に「坊主丸儲け」という言葉が・・、はは、失礼!

  残念に、アローナの要塞はナポレオン軍が打ち壊したそうですが、

  アンジェーラの要塞は、大変良い保存状態で残っているそうで、





  ここにはイタリアで唯一の、「世界の人形」コレクションがあり、
  写真左に日本の武者人形も見えますが、
  お雛様のセットも見つけました。

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  お城の見学、人形博物館等は大体3月中頃~10月中頃迄、
  朝9時から17時半迄、休館無く開いている様子。
  アンジェーラの観光事務所の電話は(+39) 0331 960 207





  そしてこのお城では結婚式、披露宴も行われる様子。

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  所でご案内が後先になりましたが、
  ボッローメオ家・Borromeoは、ローマ出身でトスカーナに移住、
  13世紀ミラノに移ってきた裕福な商人、貴族。
  ミラノでヴィスコンティ家と縁戚となり、
  マッジョーレ湖一帯の領有、そして伯爵家となり、
  現在でも有数の子孫があり、繁栄存続している一族

  ボッローメオ家で検索を掛け最初に出た写真で、
  ああそうか、と思い出したのが、
  暫く前にTVニュースでも大々的に出た結婚式の模様でした。

  2015年の夏に行われた結婚式で、
  モナコで最初に行われた7月末公的役所での結婚式の、
  左が花嫁のベアトリーチェ・Beatrice・ボッローメオで、
  隣が証人のアンドレーア・カシラギ・Andrea Casiraghi、
  花婿の兄で、
  同じく証人のご夫婦ジョン・エルカン・John Elkann と、
  ラヴィーニア・ボッロメオ・Lavinia Borromeo

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  お分かりでしょうか、
  これらの人間関係から見える上流階級の模様が?!
  花婿はモナコのカロリーナ王女の3男、ピエール・カシラギ
  Pierre Cassiraghiで、
  花嫁の姉ラヴィーニアが、
  フィアット・クライスラーの会長ジョン・エルカンの妻、というわけ。

  花嫁はこの最初の結婚式では、
  ヴァレンティーノの衣装をお召だったそう。
     



  
  8月1日ロッカ・ディ・アンジェーラでカトリックの式典が行われ、
  要塞の下にお着きのお二人がボートから上がる所。
  右側では、お迎えの市長が写真を撮っているもんね、ははは。

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  こちらがエレガントなアルマーニの衣装をお召しの花嫁、花婿

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  はぁ、そうなんですねぇ、イタリアでは戦後共和国になり、
  貴族の称号は公的には無くなったのですが、
  報道される時はちゃんと称号付きですし、
  こういう様子を垣間見ると、
  上流階級、現在も延々と続く貴族階級が伺えますですね。
  ・・やはりパルマータとかボール遊びをされる事もあるんでしょうかぁ? 
  ははは。





  マッジョーレ湖、アンジェーラの要塞の夕日を最後に

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