・ ガエータ・要塞化し繁栄した、陽光明るい海辺の町 n.2


  ガエータのご案内 その2を続けます、どうぞ!  


  聖堂内の床の一部に残るコジマ式モザイクですが、
  ここのは黄色が多く、少し派手目かなと。

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  これは円柱のように太く、全面にキリストの生涯と、
  サンテラーズモの生涯の浮き彫りの入った蝋燭立て
  チェーロ・パスクワーレ・cero pasqualeと呼ばれる、
  復活祭の前夜に灯される蝋燭立てで、
  キリストの復活を祝うシンボル的なものなのだそう。

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  高い祭壇脇から階段を降り、スッコルポ・succorpoと
  呼ばれる、礼拝堂というか、聖人達の聖遺物を収める場所に。
  上の内陣後陣は、このスッコルポのために
  17世紀に高く建設されたのだそう。

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  各地でお目にかかるクリプタ・cripta・地下礼拝堂
  同じなのでしょうが、何とも絢爛豪華で派手な装飾!

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  フレスコ画と大理石、とあるのですが、
  この天井部分は漆喰ではないのかなぁ・・、
  大理石だと重くなりすぎと思うのですが。


  それにしても、正面の祭壇画の聖人はどなたか、
  絵の部分をアップして眺めましたら、
  なんとお腹を切り開かれており・・!





  半地下の豪華絢爛たる礼拝堂から上がって来ると、
  ははは、ワンちゃんがおりまして・・。
  いつもの事ながら教会内のワン君には、
  可笑しいながら異質感を持ちますです、はい。

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  ガイドさんの話では、近年この聖堂は修復が済んだ所で、
  なんと修復代が見積もりよりもかなり安く上り、
  イタリアにしては大変珍しいお話です、と! ははは。

  脇から聖堂を出たのだったか、教会正面を見ておらず!
  まぁ、1903年のもので、
  ネオゴシック調の煉瓦と明るい色石のもの、とあるので、
  ガイドさんも飛ばしたのかもしれませんね、はい。




  さて町中を見物しながら通りますが、
  これは天然の岩を利用し、隙間にレンガや石を詰め
  城壁代わりにしている場所で、

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  隙間から水が漏れ出すのもそのままに、植物が茂っており!





  こちらは上の写真の右側で、岩の裂け目がこんな風に!
  夏など天然の自然風で、涼しかったりして・・!

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  ガエータには紀元前10~11世紀には既に移植民が
  いたのが、ローマの下に紀元前4世紀には皆滅ぼされ、

  ローマ期にこの地は別荘地として大変に持て囃され、
  皇帝を始めとして裕福な貴族、執政官、議員達が通い、
  その為にアッピア街道よりも短く連絡するフラッカ街道
  Via Flaccaが造られたのだそう! やりますねぇ、ははは。

  町の地図で見て頂いた、現在の公園オルランド山の頂上に
  ある聖廟、というのも、ローマ期のルーチョ・ムナツィオ・プランコ・
  Lucio Munazio Planco、軍人、政治家、執政官、
  ガエータで紀元1年に亡くなった彼のもので、
  ジュリオ・チェーザレの将軍でもあったそう。
       
       
  ローマ帝国の滅びた後は暗黒の変遷時代の始まりで、
  はじめは蛮族の襲撃、略奪、そしてトルコ人と続き、
  半島の先っちょ、自然な土地柄と
  防御がし易い事から、城塞都市と変わっていったと。

  「中世の区画・ボルゴ・メディエオヴァーレ」と呼ばれる
  古い小高い部分は城壁で囲まれ、要塞城も築かれ、
  近隣からも城壁内に移住してきたのだそう。

  最初の城は6世紀、ゴート人との戦いの物で、
  後の確かなものは12世紀とあり、
  この間9~12世紀に掛け、町もビザンティン皇帝から
  自治権を獲得し、ガエータ公国となり、
  その独立を徐々に強固に、自国の貨幣フォッラーロ・
  follaroも鋳造、海洋通商の豊かな繁栄も遂げます。

  海洋国と認められ、アマルフィ、ナポリ、ソッレントと連盟を結び、
  ローマに襲撃を掛けようとしたトルコ軍を相手にした849年の
  「オスティアの戦い」では、トルコ軍を総崩れにし敗走させ、
       
  915年にはやはり「ガリリアーノの戦い」でトルコ軍相手に勝ち、
  中央イタリアからアラブ人を決定的に退ける事となり、
  その後12世紀末、シチリア王国のもとに約7世紀間の併合を。

  この間13世紀末から15世紀かけフランスのアンジュー家の
  支配があり、16~7世紀をスペインの元に、
  そして18世紀の短い期間オーストリアの元にと変遷をし、
  最後イタリア王国に。

  読んでいて、1571年対トルコとの最終戦「レパントの戦い」
  のキリスト教国側の艦隊が、ここガエータの港に集結したと読み、
  この戦いにはヴェネツィア艦隊も参加し、勝利していますので、
  単純shinkaiはなんとなしこの町に親近感を感じ・・、ははは。

       
  そうなんですね、海岸続きの近くではありますが、
  近くのスペルロンガとは違う趣は明らかで、
  スペルロンガは貧しい漁村であったのが、
  こちらはトルコの海賊と戦って勝ちもし、
  海洋通商で繁栄した歴史を持っているのですね。

  アマルフィのご案内

  アマルフィの聖堂

  ナポリのご案内 周遊バスで

  ソッレントのご案内





  町の通りも並行して上下が重なり

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  小さな広場では、そろそろレストランが昼の準備で、

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  既に仲間が写真を撮っている姿が写っていますが、
  スピリト・ディ・ヴィーノ・ワインの精神
  ファルマチーア・デイ・サーニ・健康薬局  
  とあり、ははは、飲み屋で~す。

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  通り抜けていく道脇に咲く鉢植えの花々

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  そして、サンティッシマ・アンヌンツィアータ
  Santissima Annunziata・お告げの聖母マリーア教会。

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  建設は1321年から、1352年に聖別、
  17世紀にバロック様式に改築、現在見るのはその形で、
  一番上に小さな帆型の鐘楼、マヨリカ焼きの時計が見え、
  大きなゴシック様式の鐘楼も後陣右脇に。




       
  内部は細めの一廊式なのですが、
  ご覧のようにここも豪華なもので、

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  祭壇の大理石装飾と、

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  床の柄

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  17世紀のパイプ・オルガンの席

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  一旦教会を出て、別の棟にある礼拝堂に行く時に、
  これ、何かわかりますか? 捨て子を入れる場所
  赤ちゃんを入れぐるっと回すと、建物内で受けれるように。

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  繁栄の時代を迎えた町でも、やはり貧しくて生まれた子を
  育てられず、捨て子に来た親がいたのですね。

  この教会は、受胎の聖母マリーアの名に因み、病院施設も
  あったそうで、捨て子を受ける場所も備えていたのでしょう。
       




  かと思うと、こちらの棟の「黄金の礼拝堂・カッペッラ・ドーロ・
  Cappella d'Oro」 天井は木製彫刻の金塗りで、
  周囲に19枚の油彩「キリストと聖母の生涯」を描いたもの。

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  何とも豪華ですが、装飾も絵もまるで趣味が違いまして・・!




  小さな中庭に出てきて、
  この黄土色と小さな井戸、敷石の模様にホッとし、

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  教会の高い脇壁の道に戻りますが、かっての町の城壁は、
  唯一、この教会の入口辺りに門があったのだとか。

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  やっとお昼ご飯だ!と喜んで歩きます、ははは。



       
  最後はサイトで見つけた写真で、

  オルランド山の公園から見たガエータの夜景を。
  この角度だと、城のある位置が良く分かりますねし、
  これは如何に屈強なトルコ海賊でも攻められませんよね?!       
  う~ん、ここは見たかったなぁ!!

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  長いご案内にお付き合い、有難うございましたぁ!!
       


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