若きヘミングウェイの戦場体験、続けます。 どうぞ!
地図をどうぞ。
左下に見えるカジエール・Casierの上に小さな赤点をつけたのが、先回
見て頂いたヴィッラで、その下の川沿い風景はその東を流れるシーレ河と。
東側を流れるのがピアーヴェ河で、この河を挟んで北から南が
ずっと大激戦地で、上に見えるファガレ・Fagaréには、
第一次大戦戦死者の廟があり、
地図には見えませんが、ピアーヴェ河を北に遡った
ネルヴェーザ・デッラ・バッターリア・Nervesa della Battaglia、
我が町コネリアーノの西にもっと大きな戦没者の慰霊廟があります。
で、ヘミングウェイが負傷したのがフォッサルタ・ディ・ピアーヴェ、
右下に囲った、ピアーヴェ河が蛇行している所。
バスに乗り、こんな菜の花畑を見ながら進み、
ファガレの戦没者慰霊廟に。
葬られているのは、イタリア兵5191名、これは姓名判別の方で、
身元不明の死者5350名、アメリカ兵1名、オーストリア兵1名と。
この部屋は下段に遺留品の展示もありますが、
同じ形の、部屋内全面に四角い廟という部屋が殆ど。
管理の方から、なんとも物凄い話もお聞きしましたが、ここではパス。
フォッサルタ・ディ・ピアーヴェ。 この一帯が大激戦地だったのですね。
戦時中に破壊された教会、現在はきちんと修復されてますが、
その前にあったヘミングウェイの写真。
下に見える説明には、
一般にはヴォランティアには軍服とか火器は許されないが、
ここではベルサリエーレの自転車に乗り、銃も付けているし、
ポケットに手りゅう弾も。
なので多分フォッサルタでは小さな戦闘にも参加したのであろう。
こういうのは、どこでも行われていたと。
金属板の碑にあったこの一帯の地図。
真ん中辺りピアーヴェが湾曲している部分、彼が負傷した所で、
その下に橋が架かり、教会も見えますが、
橋はこれ。 多分私設の橋なのでしょう、
渡り賃を取る料金所が真ん中に。
ポー河の下流で一度船を繋いだ橋を渡ったことがあり、
やはり料金所があったのですが、知らずでそのまます~っと
渡ってしまった経験が! ははは。
土手にこの鋼鉄の碑。
この土手で、アーネスト・ヘミングウェイ、アメリカ赤十字の
ヴォランティアが、1918年7月8日の夜負傷した。
土手から見るピアーヴェ河湾曲部。
皆土手を下りて岸辺に、上から見つめる18歳のヘミングウェイ。
La guerra di Hemingway・ヘミングウェイの戦争。
ピアーヴェ河湾曲部の地図。 濃い赤色の線が塹壕で、
16の番号のある位置が、彼が負傷した場所。
ちょうどあの砂場が見えるあたりでしょうか。
1915年5月24日から始まったイタリアの第一次大戦。
1917年の10月頃までは外部にあったこの一帯が、
イタリア軍が現在のスロヴェニアのコバリード、カポレットの戦い
(10月24日から11月9日)で惨敗し退却した事から、
ピアーヴェ河を挟んでオーストリア軍と対戦することになり、
一転して最前線となったというのですね。
「武器よさらば」にも描かれているカポレットの惨敗、退却は
大変悲惨だったようで、
shinkaiも現在のコバリードに行き、博物館も見学しましたが、
なんとも・・!!
負けが込んでいたオーストリア軍がドイツ軍に応援を求め、
ついにドイツ軍が参加、毒ガスを用いたのも勝利につながったと
いうのですが、博物館での写真には、ものすごいのもありました・・。
そして1918年の夏、6月15日から23日にかけ、必死の反撃を
掛けたオーストリア軍がピアーヴェ河を渡ることに成功し、
フォッサルタの村は全破壊の状態にされたと。
家から家、1mそして1m、という記述があったことからご想像を!
1918年7月8日の真夜中を過ぎた頃、
ブーゾ・ブラート・Buso Buratoと呼ばれたこの湾曲部で、
オーストリア軍の手りゅう弾がヘミングウェイの近くで爆発、
または迫撃砲が着弾し、それで手りゅう弾が爆発とも、
近くのイタリア兵一人が死亡、ヘミングウェイも負傷するものの、
もう一人の負傷したイタリア兵を敵弾の届かない場所まで
背負って救助し、
その後敵の機関銃弾が右足に当たり膝もやられますが、
這いずりながら自分も助かり、
ミラノの軍病院に運ばれ、12回にわたる手術を受け、
227に及ぶ破片が取り出されたと!
これはヘミングウェイが被っていた帽子と身分証?
ウィキペディアから拝借。
昔読んだ本の解説などでは、第一次大戦に従軍記者として参加、
なぞと書かれていたと記憶しますが、
アメリカ赤十字に所属する救急隊員の補助で、毎日塹壕をめぐり、
兵士達にタバコとかチョコレートとかの援助物資を配る、
という事だった様子。
彼は、自分が負傷しながらもイタリア兵を救助した、という事で、
イタリア国から軍の銀メダル、自国アメリカからも戦争十字を授かります。
「武器よさらば」に登場するイギリス人看護婦キャサリンとの
ロマンスですが、
こちら、ドイツ系アメリカ人アグネス・フォン・クロウスキー・
Agnes von Kurowskyが、ミラノのアメリカ軍病院入院中の
ロマンスの相手だったようで、彼より8歳年上の女性。
彼にとってかなり真剣な恋だったようですが、何せまだ若い19歳。
儚い3か月間のロマンスと入院が過ぎ、
彼は一旦バッサーノ・デル・グラッパの戦場に戻りますが、
部隊が動員解除となり、 近い将来の結婚約束を語りながら、
翌年1919年1月21日にアメリカに戻ります。
3月、アグネスからイタリア人将校との婚約を告げる手紙が。
アメリカに戻った彼は新聞記者をしながら書き始め、
1926年「日はまた昇る」を。
1929年、イタリア戦線での経験を盛り込んだ「武器よさらば」。
現在のモンダドーリ版の表紙には、入院中のヘミングウェイの笑顔。
カポレットのイタリア軍の惨敗退却、そして脱走が描かれている内容から、
第一次大戦後のファッシスト党ムッソリーニ政権下のイタリアでは
出版が1945年まで禁止されていたそうで、
ヘミングウェイの翻訳で有名なフェルナンダ・ピヴァーノ・
Fernanda Pivanoにより、1943年に秘密裡に翻訳されたものの、
彼女はその為に逮捕も。
その後ヘミングウェイはスペインの人民戦争にも参加し、
「誰がために鐘はなる」そして「老人と海」も。
1954年にはノーベル文学賞受賞。
重傷を負ったフォッサルタ・ディ・ピアーヴェを、後年ヘミングウェイは
再訪し、
1950年に「川を渡って木立の中に」に当時の様子を
描いているそうですが、これは読んでおりません。
切れの良い簡潔な文章で語るストーリーは、アメリカの古典と称えられ、
私は若い頃に熱中した上記の作品よりも、「海流の中の島々」が好き。
自分が年を取ってから読んだことにも因るのかもしれませんが、
なんとも心に染み入る優しさにあふれた作品と。
べたつかない、乾いた人間の感情、優しさが心地良いです。
ガイドをして下さった歴史家は、フォッサルタの後まだ案内したい場所が
あったようですが、我らは内容の重さに少々疲れ、日も暮れかけるので
早く家に帰りたく、
バスの中で採決しましたら、まだ行きたい挙手は2~3名で、ははは、
夕暮れ近い川を渡り、
落日近い平野を走り、
すでに暗くなったコネリアーノに戻った、
「ヘミングウェイの古戦場巡り」でした。
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