10月の下旬近く、チヴィダーレ・デル・フリウリ・Cividale del Fuliuri
に何度目かの再訪問を。
我が町コネリアーノからはまずウーディネ・Udine迄電車で約1時間、
そしてウーディネ鉄道に乗り換え約30分で到着ですが、
こちらがウーディネ駅のホームに入って来た電車、折り返し運転で、
2両ではなく1両の、ははは、でも新しくなった車両です。
両側に広がる平野の畑の中、ロマンツァッコ・Romanzacco とか、
モイマッコ・Moimaccoとか、語尾にッコと付く独特の地名を通りながら
チヴィダーレの駅に到着。
で、あれ、改装された?!という第一印象でホームに降り、どこか変、うん??
と思いつつ、新しいガラスの大きなドアを抜けた途端に浦島タロコ!!
まず駅の斜め向こうに見えたのがこれ! な、何、これ?!
後で分かったのは、これはフリウリ銀行だったかな、で、左手奥の方には
大手のスーパーも出来ており、めったやたらに広い駐車場が目についた
新しい駅前広場一帯。
shinkaiの頭に残っているチヴィダーレの駅は小さく古く、駅舎脇から抜けると
すぐ前は大きな木々のある公園で、そこから町の中心に行くには・・、
だったのですが、
なんと辺り一面大再開発で、どこもかしこが広々とし、新しい広い道が走り・・、
漸くに気を取り直し、ははは、広い道を横切り、駅舎を振り返って撮ったのがこれ。
ね、新しい、そっけない、はは、駅舎でしょう?!
ちょうど歩いて来た若い女性に、チェントロに行くには?と尋ね、
どうやら間違った町に来たのではないらしい、と確信し、ははは、
と共に、あの先に見える小さな建物が、元の駅舎らしい、と見当が付き、
有難いことに、この旧駅舎が残されていて、「第一次大戦博物館」と表に。
そうなんですね、この辺りはスロヴェニアの国境に近く、南へは約10k程の距離、
北東に車だと30分ほどの距離に、第一次大戦でイタリアが大敗した
カポレット・Caporettoが、という位置にあります。
いったいいつこの再開発があったのかと調べましたら、
新しい駅のオープンは2008年というので、ちょうどこの年の秋に
町の中心と、町の北にある国立農業学校を訪問しているのですね。
ただ午後の訪問で、駅近くには行っていないので見ていなかったのだと。
それ以前にも2度ブログに載せておりますが、写真は2006年以前の物で、
そして11年ぶりにもなる今回は残念ながら曇り日で、撮れなかった
良い色の風景が以前の分にありますので、どうぞご覧下さいませませ。
という事で、その後まるで地理が変わった事を知らずにおりましたので、
ご容赦頂き、ここに駅からの地図をご案内。
左に駅があり、赤点を打った辺りで東に進んで突き当りまで、この地図では
道が途切れておりますが、実際は単に道を横切ればOKでして、
広い整備された道を進み、中頃のちょっとした広場辺りから、左手に入る
古い道を辿って行くと・・、 はい、この辺りからshinkaiは漸くに感を取り戻し・・、
こんなカフェの席が並んだ広場に出て来て、
奥に見える広場も健在!
手前の広場の、カフェから真っ直ぐに南に下る道を辿ると、(写真は逆向き)
ずっと変わらずのチヴィダーレの旧市街の建物で、
市役所のロッジャの角に出て来ます。
旧石器、新石器時代からの歴史を持つこの地に、ヴェネト族、ケルト族と
続き、そして起源2世紀の中頃ローマ人がやって来て、
ジュリオ・チェーザレ(シーザー)がこの一帯の都と定めたのが、町の起こりと。
6世紀中頃にロンゴバルド族が到着、ここをイタリアで最初のロンゴバルド公国の
都と定めます。
その後北の蛮族の侵入もあり、奪略焼き討ちもあり、アクイレイア大司教が
ここに本拠を定めたり、・・到底shinkaiの頭には入りきれませんが・・、
8世紀には再びカロリンガとロンゴバルドの侵入があり・・、
11世紀には神聖ローマ帝国の自由都市となり、15世紀頃まで
フリウリ全体の広大な地域における政治と商業の中心地だったと。
で、この町に修道院や邸宅、塔など、フリウリ一帯における主要な一族の
住居なども集まったのだそうで、
その様子が今に残るこの小さな町のどっしり感、に繋がるのだと思います。
市役所の向かい側にあるチヴィダーレのドゥオーモ・
サンタ・マリーア・アッスンタ・Santa Maria Assunta.
1502年に以前の教会が崩壊し、その後に現在のルネッサンス様式で
再建築されたもの。
正面入り口の扉で、右脇の扉から入ります。
内部は3廊式の広い、堂々たるもので、
正面の高い祭壇の奥に、金色に光る碑が見えますが、
こちらがその、「ペッレグリーノ2世の祭壇画・浮彫・Pala di Pellegrino II」
と呼ばれるもので、1200年にアクイレイアの大司教ペッレグリーノ2世が
献呈したものと。
銀の板を打ち出して浮き彫りにしたものに金メッキの素晴らしいもので、
聖母子と両脇に大天使が従いますが、光輪部分に宝玉も使われていますね。
そしてラテン文字が打ち出しになっているのも見えますが、
これは一字づつの印字を打ち込んだ、活字印刷の初期の技術でもあり、
その意味からも、この祭壇浮彫画は、
絵画美術の歴史の見地からも、活版印刷歴史の面からも重要作品なんだと
いう事ですが、
そんな能書きに関わらず、一目でこれは見事なものと分かりますよね!
今迄何回かこのドゥオーモに入っているshinkaiですがぁ、
今回初めてこの作品の重要さを知りましてぇ・・、
少し高い遠い祭壇上ではありますが、次回のチャンスにはちゃんと拝見を、はい。
祭壇手前にあった古い美しいオルガンですが、
あれこれ探しても説明が見つからず、でした。
左側側廊にあったニコロ・ドナート大司教・Nicolò Donatoの記念墓碑
16世紀と、
残る壁画。
ですが、あるというパルマ・イル・ジョーヴァネ・Palma il Giovane17世紀や、
ポンポーネ・アマルテオ・Pompone Amalteo16世紀の絵は
まるで見ておらずです・・。
聖堂を出て脇に入り込むように曲がって行くと、博物館があり、
ここに素晴らしい祭壇、ラキス公の祭壇・duca Rachis があります。
正面側、玉座のキリストが両脇に大天使を従え、それを囲むアーモンド形を
4人の天使が支えているもの。
shinkaiはこの祭壇をずっと、石棺と思い込んでおりまして! ああ、もう・・。
両脇の天使とキリストの膝の辺りが濃く、何かの色が残っている様子ですが、
今回初めて見た新しい展示方法で、彩色されたのが写りまして、
これです!
驚きの色でしょう?! なんとも派手やかで、明るい彩色で!
上部にあるラテン語の文字もハッキリ見えますね。
そうなんだ、かっての人々はこんな色付きのを見ていたんですねぇ!
この「ラキス公の祭壇」と呼ばれるラキス公は、ロンゴバルドの王であり、
イタリア王でもあり、744~749年、756~757年、
この祭壇が737~744年に造られたものと分かり、
この時代ラキスがフリウリ公であった時代なのでそう呼ばれるものと。
祭壇の大きさは1,44x0,90x0,88m。
2側面 の片側は、3博士の礼拝で、
もう一面は、聖母マリーアが従妹のエリザベッタを訪問する図。
エリザベッタは洗礼者ヨハネの母、ザッカリーアの妻、ですね。
いずれの面も彫りの深い力強い作品で、稚拙ながら見事な物。
そして、こちらが背後側の装飾。
で、この博物館にあるもう一つの素晴らしいものは、この洗礼盤。
730~740年作の物とみられ、白い石灰岩で8角形、高さは354㎝。
730~740年の10年間は、ロンゴバルド芸術の歴史において、
それまでは常に彼らの北方感覚での表現であったものに、
形や古いスタイルのローマ期の芸術を取り入れ始めた時代なのだそうで、
ここから常に伝統的芸術が継続していくことになったのだそう。
で、この祭壇と洗礼盤は、この時代の最高傑作とみられると。
上部と下部の彫り。
そして、いくつかの彫りの入った碑の展示品。
ロンゴバルドの装飾はとても個性的で、独特な形と思うのですが、
以前は、この柄を刺し子などに利用できないものか、と考えたりもしましたっけ。
いくつかのフレスコ画の名残ですが、 これは多分後世の物と。
本当はです、博物館は写真禁止になっていたのですが、受付の管理の女性が長々と
電話で喋っているのを幸いに、以前は撮れなかった分まで撮りまして、へへへ。
これは隣の部屋の素晴らしい天井画。
隣の部屋にもいろいろ展示品があったのですが、一つのみ撮ったこの椅子、
何せ管理人のいる部屋でしたので、はは、
石の椅子ですが、この説明が見つからず・・。
という事で、聖堂を出て
「ロンゴバルドの小寺院・テンピエット」を見学に行きます。
という所で、今回はお終いで、次回に。
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