・ 忘れられない映画を、もう一度!  DVDで再度の楽しみを!


映画が大好きで、でも化学空想映画とか血潮がどばーっというのは
ダメですが、好きな映画は何度も繰り返し見る方で、
と同時に、TV放映された映画で気に入ったものは、
また見たい時に見れるようにとDVDを買います。

で、探し当てたDVDのオンライン・ショップで、この12月は4本買うと
半額になる、という様なセールをしているのに軽く釣られまして、ははは、
かなりのDVDを買い込みました、はぁ。 本数は内緒、へへ。

なのでそんな中から、とても気に入った映画のご紹介を。

まずは今の時期、美味しいものの会食に追われている皆さんにも
大いに納得できるはずの映画から、

◆ バベットの晩餐会

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デンマーク 1987年
監督 ガブリエル・アクセル
主演 ステファーヌ・オードラン
   ビルギッテ・フェダースピール
   ボディル・キュア

アカデミー賞最優秀外国映画賞も受賞のこの映画は、
ご覧になった方もきっと多い事と思います。

北海に突き出したユトランド半島の海に面した貧しい小さな集落で、
牧師の父と一緒に暮らす若い美しい姉妹。
それぞれに男性との出会いがありながらも父親との生活を選び、
年老いた今も一緒にかってのままの生活を続けていて、

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かって習った事のあるバリトン歌手の紹介で、パリ・コミューンの騒動から
逃れてきたバベットというフランス女性が、給料は要らない、生活できれば
良いから、という条件で家政婦として住み込みを。

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貧しい食生活も彼女のやりくりで美味しく、おまけに安く上がるように
なりますが、
そんなある日、バベットの買った宝くじが1万フランを当てます。

姉妹は当然バベットがフランスに帰るものと考えますが、
亡くなった父親・牧師の生誕100周年記念の食事会を考えていた姉妹に、
バベットが自分が料理を準備する、と申し出て承諾を得ます。




パリに出かけた彼女は、たくさんの(生きたままの)食糧、
高価なワインなどと戻って来ますが、

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様子が分からない姉妹は、牧師の信徒であり現在も集まる村人達に
食事会の様子を、バベットが準備しているものがどんなものか分からないと
伝え、村人たちは決して食事に付いて異議を唱えない事を誓います。




こうして始まった昼食会(日本語タイトルは「晩餐会」ですが、昼食ですね)
には、次々に素晴らしい料理が供され、

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美味しいワインと共にかって味わった事のない美味に、貧しく厳しい生活の
村人たちの表情が徐々に明るくなり、陶然となり、心も開け、
何とも言えない打ち解けた和やかな食事会となります。

食事会に参加していた、かって姉妹の1人に求婚していた士官、現在は将軍かな、
が料理の味から、パリで味わった有名レストランの女性シェフを思い出し、

食事の後に姉妹から尋ねられたバベットは、自分がかってシェフであった事、
そして宝くじの賞金はすべて食事の準備に使った事、パリには戻らない、
などなどを告げ、

いがみ合っていた村人たちも、食事の後、外に出て夜空の星を見上げながら、
再び打ち解ける、

という様な、美味しい食事の醍醐味を描いた素晴らしい映画でした。
まさにそうですね、
美味しい食事は人の心に幸せを醸しますし、一緒に食事をすることは
それだけで人の心を近づけますものね。





◆ 上海の伯爵夫人

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英・米・ドイツ・中国 2005年
監督 ジェームス・アイボリー
主演 レイフ・ファインズ
   ナターシャ・リチャードソン
   真田広之




これはTV放映されたのを何も知らずに見て、何とも言えない日本人的感性
を感じ、不思議に思って調べ、
脚本がカズオ・イシグロ、はい、今年のノーヴェル賞を受けたかの方、と
知ったのでしたが、見た当時は、ああ、あの「日の名残り」の原作者なんだと。

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1930年代の上海、元外交官で現在は視力を失いキャバレー通いをし、
いつか自分の望みの店を開きたいと思っているジャクソンと、
亡命ロシア貴族の元伯爵夫人ビアンカが知り合います。

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ビアンカはキャバレーでダンサーとして働き、一緒に暮らす亡夫一家の
生活を支えているものの、家族の彼女を見る目と仕打ちは辛いもの。




ジャクソンはまた正体の知れない日本人マツダとも知り合い、
政商と政治家、軍人との間を取り持つ人物、と言った所かな、彼は。

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競馬で一山あてたジャクソンは自分の店を持ち、ビアンカにも店で
働いてくれる様に頼み、
一見二人の間柄は単純にオーナーと店の女性達の長という様子で
進みます。

店のショウでの歌手、芸人の芸も素晴らしく、特に男性歌手が、
当時の上海はね、という話も思い出しました。




日本軍が上海にも進駐して来て、逃げ出す人々でごった返す中、

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亡き息子の娘でもあるビアンカの娘、カティアのみを連れて香港に
逃れようとする一家から、やっとカティアを取り戻し、
ジャクソンとビアンカはマカオに逃れる船に。

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という、ちょっとおセンチなロマンス、という感じの映画ですが、
shinkaiめは、この映画でジャクソンを演じるレイフ・ファイナンズを、
この俳優どこで見たんだろう、この目はなに?!と遅まきながら気にかかり、

漸くに、「嵐が丘」のヒースクリフ、「シンドラーのリスト」のSS将校、
「イングリッシュ・ペイシェント」の主役アルマシー、 おまけに
「グランド・ブダペスト・ホテル」の、あの訳知りの、ははは、
マネージャー役だったことを知り、漸くにしっかり定着致しましたです。

それにしても、役者というのは凄いものですねぇ!! ははは。





◆ リトル・ダンサー 「ビリー・エリオット

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英 200年
監督 スティーブン・ダンドリー
主演 ジェイミー・ベル
   チャールズ・ブランド




1984年イギリスの北部の炭鉱の町、厳しく」貧しい炭鉱労働者一家の
息子エリオットが、ボクシング教室のある会館での隣のバレー教室に
興味を持ち、父親には内緒でバレーを習い始めます。

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ビリー、父親、兄、そして最後はビリーに個人教授もするウィルキンソン夫人。

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炭鉱不況の真っ最中、会社側と組合との闘争の明け暮れの毎日で、
息子がバレーを習う事などもってのほかの父親と兄。





が、息子の踊りへの情熱を理解せざるを得ない父親はスト破りに加わり、
驚く兄には、せめてビリーには可能性を与えよう、とウィルキンソンの
勧めで、ロイヤル・バレエ学校への入学試験を受けに。

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やっと通知が来て、入学OKかどうかの知らせを待ちわびる一家。

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入学許可が届き、炭鉱労働者の町を去って行くビリー。
そして14年。 年老いた父親と兄がロンドンの劇場にやって来て、
ビリーが主役を踊る「白鳥の湖」を見つめます。

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映画の最後で、成長したビリーが素晴らしい跳躍を見せるのですが、
これはアダム・クーパーという素晴らしいダンサーで、日本でも公演があった、
というので、ご存知の方も多い事でしょう。
本当に日本には何でも行くのねぇ!!





◆ パイレーツ・ロック

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英・ドイツ 2009年
監督 リチャード・カーティス
主演 フィリップ・シーモア・ホフマン
   ビル・ナイ
   リス・エヴァンス
   ケネス・ブラナー




1960年代、まだ民間放送局がイギリスに存在せず、ポップやロック音楽は
殆ど放送が無きに等しかった時代、領海外に浮かぶ船から一日中ロック音楽を
流して人気を集めていた海賊ラジオ局。

その船に乗り込んでいる、一番左は母親からこの船に追放された若者カール、
その右の女性はレスビアンのコック、そしてラジオ局長・艦長のクウェンテン、
DJのメンバー、右端は海賊ラジオ局ぶっ潰しに躍起となる政府長官。

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禁止用語を発信したり、ははは、船内生活にはいろいろあるのですがぁぁ、

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月に一度だっけ、の土曜には大挙して女性たちが押し掛けてくるし、ははは、

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ファンだという女性との結婚式も行われますが、・・17時間後に破局!
なぜかは、映画を見てのお楽しみで、ははは。

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海賊放送局をぶっ潰す意気込みの政府の長官とのやり取りも面白く、
最後はおんぼろ船のエンジンが爆発、という落ちが付きますが、

懐かしい当時のポピュラー音楽、ロックが次々と流れ、
大笑いする楽しい映画、でございま~す。





◆ シベリアの理髪師

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仏・ロシア・伊・チェコ 1998年
監督 ニキータ・ミハルコフ
主演 ジュリア・オーモンド
   オレグ・メンシコフ
   リチャード・ハリス




1885年帝政ロシア。 モスクワに向かう列車の中で、陸軍士官学校生
トルストイと、アメリカ女性ジェーンとが知り合います。

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士官学校の優秀な生徒であるトルストイは仲間との友情も熱く、
悪戯や遊びもなかなかの、若さ溢れる青春の真っ最中。

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ジェーンがモスクワにやって来たのは、父親という触れ込みの
発明家マクラーケンの「シベリアの理髪師」と名付けた大型伐採機を、
士官学校校長でもあり、ロシア皇帝への繋がりも持つラドロフ将軍を
てなづけて売り込もうとの目的あり。

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こちらがその「シベリアの理髪師」 
つまりシベリアの大森林の木々を、ぱちゃぱちゃチョキチョキと
軽く伐採する、という売り込み。

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そんなやり取りが、かっての帝政ロシア時代を背景に、
ユーモアたっぷりに、美しい風景をも背景に語られます。

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ですが、トルストイとジェーンはお互いに愛するようになっており、
若さゆえの一途の嫉妬から、トルストイは士官学校のオペラ上演の際
ラドロフ将軍を弦楽器の弓でうち叩く、という究極の行為に走り、
将軍の誇り、嫉妬、意地悪もあり、シベリア流刑の判決に。
そして10年が流れ・・。

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私はこの映画を最初TV放映で見たのですが、その圧倒的な語り口に
打ちのめされたように感じたのをよく覚えています。

今迄ロシア映画もあれこれ見ましたが、こんなに民間人の生活、
感情とか風習が語られたのを見た覚えがなく、
しかも大笑いするほど楽しく続いていた内容が、一度に奈落の底に
落ちる様な大変化を遂げ、一転して憂愁に満ちたものに変わります。

映画の主題曲もまさに鎮魂歌で、監督自身の想いを語るかのようですし、
こうして若い時の一瞬の狂気で流される人生も大いに在りうる事を思い、
シベリア流刑で消えて行った人々の事もが頭に浮かびました。




映画の中で、ジェーンが手紙を書きつつ、もう一つ別のアメリカ側の、
モーツァルトが好きな若者、士官候補生のエピソードが語られますが、
この青年が誰かは、ここでは謎のままに。

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クリスマスも過ぎ、年末年始のお休みもすぐですね。
新作映画を見に行くのも良いですが、
DVDで、ゆっくりと好きな映画と再会するのも楽しいもの!


*****

今回で2017年のブログ更新も終わりです。

皆さま、今年も一年のご愛顧、本当に有難うございました!
来年もどうぞ宜しくお願い致しま~す!!


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・ ヴェンゾーネ ・ 2017年イタリアで一番美しい村、 古い写真で


2017年も後10日ほどでお終いになる時期に、今年の一番美しい村、
というのも少しおかしいですが、へへ、
何と古いヴェンゾーネの写真が、1996年10月1日、スキャンして
残っているのに気が付き、整理しましたので見てやって下さい。

このヴェンゾーネ・Venzoneの村は、2017年度のイタリアで一番美しい村々
の一位に選ばれた、というのを知っていましたが、(2位はアルカ・ペトラルカ
2度ほど訪ねた時の写真があるのも忘れておりましたので、その意味でも懐かしく、
改めてサイトを読んだり、写真を拝借したりのご案内で、

写真にブログ名の入ってないのが、サイトから拝借の物で、

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この蔦ですっかり覆われた城門は、町をぐるっと囲む市壁の門の一つ。




上空からの写真をどうぞ。
右上斜めに伸びるのが鉄道線で、ウーディネから北へ、そしてオーストリアとの
国境タルヴィーシオ・Tarvisioに行く線。 この写真では右が北です。

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1996年当時、まだ駅前はまるで整備されておらず、広い草原が広がり、
町に行くには草原の中の細い獣道みたいな道を通り抜けて行きましたっけ!

今はさすが広い道路が通っているのが見えますが、
町を囲む城壁はそのまましっかり残っているのも良く分かります。




ヴェンゾーネはどこにあるか、地図をどうぞ。
ウーディネ・Udineから車で40㎞弱、35分程の距離ですが、

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ウーディネからヴェンゾーネまでは電車だと30分程で行けるものの、
殆どバスでの代行運転になっていて、それだと1時間から1時間半かかる事も
発見しましたので、行かれるおつもりの方、どうぞお調べを!

地図に見える場所のご案内それぞれ

udine   ウーディネ ・ 中心をほんのチョッピリ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463998556.html
  
San Daniele del Friuli  生ハムの サン・ダニエレ・デル・フリウリ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462970208.html

Spilimbergo   スピリンベルゴ ・ フリウリ州の珠玉の町
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/470578689.html 

Gemona    ジェモーナ・デル・フリウリ ・ ロマネスク教会のある
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462969861.html

大地震の後の、 歴史遺産と町の修復保存に付いて
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464430525.html

n.1 チヴィダーレ・デル・フリウリ再訪 ・ ドゥオーモとその博物館
http://www.italiashiho.site/archives/20171121-1.html

n.2 チヴィダーレ・デル・フリウリ再訪 ・ ロンゴバルドの小寺院
http://www.italiashiho.site/archives/20171126-1.html

Cividale del Friuli    チヴィダーレ・デル・フリウリ 再訪
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463998892.html



駅を出て歩いて行くうちに見えてくるドゥオーモ。

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町はぐるっと城壁に囲まれ、壁越しの鐘楼。

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ウィキペディアから拝借の写真で、城壁と町の関係を。
背後の山が凄いでしょう?!

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城壁は各辺の長さが違うものの、大体6角形に町を囲み、
高さは約8m、厚みは約1,5mで、物見の通路があり、塔が15と。
外側を堀が巡り、近くの川からの水が流れていたのだそう。

町の名が最初に記録に出てくるのは932年、がその町名は1001年まで
次々と変わり、現在のヴェンゾーネとなったのは流れるヴェンゾナッサ川・
Venzonassaに由来するのであろうと。

上の地図に見える町の西を流れる広い川はターリアメント河・Tagliamentoで、
多分ヴェンゾナッサ川もこれに合流するフリウーリの重要な大河で、
全長170kを越え、アドリア海に注ぎます。




町の中心広場にあるコムーネ宮・Palazzo Comune.

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広場の泉と、コムーネ宮横。

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時計とヴェネツィア共和国シンボルの、サン・マルコのライオン君。

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ヴェンゾーネは上記したように1000年以前からこの一帯の中心として
開けた様子ですが、あちこちの封建領主の元にあったのが、
1420年にヴェネツィア共和国の下に入り、この時代に一番栄えたのだそう。

が、その後トルコの何度もの襲撃に遭い、ドイツからの蛮族の襲撃と続き、
そして再びヴェネツィア共和国の下に1797年まで。




コムーネ宮の窓。

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コムーネ宮の下、ロッジャが見えますが、そこにあった壁画。

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これは町の門の一つ、多分東側の物と。

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そして、門から見える町の中。

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こちらは1976年の地震で倒壊したままになっている教会サン・ジョヴァンニ。

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最初見た時はなぜこんな姿のままほって置くのかと驚いたのでしたが、
今思うのは、きっとあの酷い地震災害を忘れない様に、という気持ちもあると。




こんな素晴らしい彫りのある柱も残っておりました。

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これらの写真を見ながら思い出した事。
この1996年10月1日はかなり大きな日蝕があった日で、
この教会辺りを見ている時に、じわ~っと太陽が曇り、
本当に周囲が暗くなったのを驚いて見つめた記憶があります。
その薄暗さに、そうだった、今日は日蝕があると言ってたっけ、と。

先にニュースで知っていたので、そうか!でしたけど、
まるで知らずの中世の人々は、突然の暗さに驚愕したのでしょうねぇ。




教会横のお家の窓。

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ヴェンゾーネ、そしてこのフリウリ一帯は、1976年5月6日夜21時に
マグニチュード6,5の大地震に襲われ、壊滅的な被害を受けました。

これが多分町の中心広場、コムーネ宮の横と思うのですが、
まさに町全部が全崩壊状態だった様子で、

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皆が気を取り直し、何とかと再興に取り掛かった9月11日、15日に
再びかなりの地震が襲ったと言います。




これが1944年とあった、フリウリの古い農家の中庭。

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そして、こちらがドゥオーモ前の古い町の様子。

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で、この地震で1300年代の古い教会はほぼ全壊し、天井も横壁も
殆ど崩壊の姿の写真があり、
現在のこのドゥオーモはその後に再建されたもの。

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広い広い広場に、崩壊した場所から運び出された石が全部番号を付けられ、
きちんと再建に向け列を作って並べられた写真を見ました。

フリウリの人々の勤勉さはつとに有名ですが、ヴェンゾーネより南に位置する
ジェモーナ・Gemonaもほぼ全壊の状態から見事に復興しており、
人々のその熱意と根強い力に感嘆せざるを得ません。

なので、今のイタリア中部地震からの復興が遅れている事に、
何とかならないものかと、いささかの歯がゆさを感じます。
もう2度目の冬なのですものね、地元の人々は大変でしょう。




こちらは写真から見て、ドゥオモの前に新しく再建されたと見える
元のサン・ミケーレ礼拝堂で、
ここには有名な「ヴェンゾーネのミイラ」が5体展示されていると。

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shinkaiが行った時にはこの礼拝堂には気が付かずで、再建中だったのかも、
が戻ってからヴェンゾーネに行ったというと、ミイラを見たか、と・・!

余りミイラには興味が無いので、知っても見なかったと思うのですが、
最初に発見されたのは1647年だそうで、これは人間の手を加えてミイラに
したものではなく、
温度と湿度、そして土地のカルシウムの硫酸塩の作用、と分からずに書きますが、
つまりドゥオーモの墓地の菌が遺骸を1年ほどで脱水状態にし、
皮膚が羊皮紙のようになるのだそう!

見つかったミイラは14世紀から19世紀の物で、全部で約40体あったそうですが、
現在ヴェンゾーネにあるのは21体で、その内の5体が展示されていると。
中には1811年に見つかった貴族の名の分かっている人物のもあるそう!

ナポレオン軍が来た時に、あれこれ一部をトロフィーの様に持ち帰ったり、
ナポレオン自身も見に訪れたそうで!
毎年2万人もの人々が見に訪れるそうですが・・。

マルケ州のウルビーノに近いウルバーニア・Urbaniaでも、
ミイラを展示した教会があるとインフォメーションで知りましたが、見に行かず。
どうもこういうのを好奇心で見るには不敬な気持ちがして・・。




という所で、サンタンドレア・アポストロ教会・Sant'Andrea Apostolo、
が正式名ですが、通常はヴェンゾーネのドゥオーモと呼び習わしている内部を。

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元は1308年建設の教会なんだそうで、




shinkaiが撮っている写真の中に、多分崩壊を免れた扉上の半円や、
アーチの一部がありました。 素晴らしいでしょう?!

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こちらは内部のフレスコ画、サン・ジョルジョのドラゴン退治ですが、

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他にもこんなフレスコ画や、

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これはオリジナルの磔刑図の彫りで、彩色されていたのも分かる見事なもの。
一部が欠けていて、現在は新しくコピーが収められている様子。

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町の中の通りも再建され、古いままの町並みが残ります。

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これは多分町の名の由来となったヴェンゾナッサ川。
薄いエメラルド色の、本当に透明な流れでした。

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お家の生垣の花を見たり、ワンちゃんに挨拶したりで駅に戻りますが、

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夕暮れの陽射しの中の教会を見納めに。

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という、2017年イタリアで一番美しい村のヴェンゾーネのご案内、
21年前の写真によってでしたが、はは、
でもサイトで見つけた写真も同じような様子で、
ほんと、イタリアの町は、村は、変わらないのが嬉しいです。
思い出の中にあるのと同じ姿、ですものね。



   
所で分家の方で、暫く前にご紹介した「ボブの愛しの猫たち」のピンタですが、
新しいピンタの写真が届きましたので、ご紹介を。

ピンタ、クリスマスを待つ・Pinta attende il Natale 

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ボブの息子フランチェスコが現在スイスのジュネーヴにいるので、素晴らしく優秀!
それも待っているのだと。

という事で、私からも皆さんと、ボブ、ピンタにも、
ブオン・ナターレ!!
Buon Natale a Bob e Pinta! E grazie Bob.



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・ アレッツォ点描  古い下町散歩


トスカーナ州はアレッツォ・Arezzo のご案内を続けますが、
街のドゥオーモとか、サン・ドメニコ教会とかあれこれまだ有名所はあるものの、
まぁ、古い教会ばかりでは書く本人も草臥れますし、ははは、
読んで下さる方の方がもっと、ですよね、   で、パスして、

今回は「アレッツォ点描、古い下町散歩」というタイトルで、
グランデ広場の南西の端から入り込んで辿った町並みの様子をどうぞ。

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アレッツォは旧市街中どこもかしこが古い建物でうずまり、
その重厚さに圧倒されそうなイメージがありますが、

今回ご覧頂く通りは、多分余り観光客が歩く道ではない様な、
それにちょっと下町風なイメージがありましたし、興味深かったのですね。

上の写真はグランデ広場の北西の角から見た、東から南への家並で、
まだ街のお祭り「ジオストラ・デル・サラチーノ」の、各紋章が飾り付けられた
にぎにぎしい窓のあれこれ。




正面東側の、高さの違う塔が二つ並ぶのは、カーザ・デル・ラポッリ・
Casa del Lappoliと言い、オリジナルは13世紀に遡るというもので、

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あれこれの説明が余り詳細ではないのですが、
ひょっとしてその左に並ぶ低い、一番上階に木のテラスのついた建物も
同じラポッリ家の物で、後の建て増しなのかも、です。




中世の建物らしく、間口の狭い細長い建物が並びますが、
それぞれの建物の木製のテラスが設えられ、かっての様子を偲ばせますね。

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このグランデ広場は元々市が立ち、商業交易の広場として始まったのだそうで、
これら東から南面に並ぶ古い建物は、裕福な商人達の家だったのでしょう。




広場の東南の端から入り込む道、少しカーヴしてほんの少し上りの道が
shinkaiが入り込んでみた道で、ボルグント通り・Via Borgunto.

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写真左下に見える祠には、



こんな女性像があったのですが、今回説明を見つけられず。

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広場の西側。 この塔の家も13世紀のファッジョラーナ・Faggiolana家で、
左隣の建物はコファーニ・ブリッツォラーリ・Cofani-Brizzolariだそう。

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で、この間に開けるボルグント通りに入って行きますが、
何よりも興味を持ったのは、この道端で古い鋳鉄の作品の手入れをするシニョーレ、
子供2人がすぐ傍で遊んでいましたが、それに惹かれたからでした。

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アレッツォでは、このグランデ広場をはじめ主だった通りで毎月最初の土日に
大骨董市が開かれるので、こういう仕事も盛んなのかも、ですね。

昔初めてこの町を訪問した時、ちょうど骨董市の開かれていた日で、
その賑やかさに驚きましたが、グランデ広場で真鍮の「油さし」を買い、
何度か静物画のモチーフに使った、懐かしい想い出も。





道の向かい側には、小さな古物を売る店や、その修理専門みたいな小さな店や
工房が並んでいて、

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写真の一番右端に見える写真と、上に宿の丸い標識が見えるのに興味を持ち、
ははは、アップして見ましたら、確かにアパート形式の宿で、
ラ・コルテ・デル・レ・La corte del Re と読め、サイトも探し出しました。


グーグルの地図を大きくアップして見ていくと、他の町でもそうですが、
小さな宿があちこちに見つかり始め、
で、そのサイトを探し、部屋の様子を見たり値段を調べたりで楽しみますが、
ここアレッツォでもかなりの宿がグランデ広場周辺に見つかりましたっけ。




道はこんな風に坂道ですが、

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この道角にも塔があり、

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今も十分に住んでおられるのですねぇ!

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古い古い石の、半分欠けたバルコニーもあり、

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この道角は2つ目ほどのヴィア・ピショーニ・Via Piscioniへの角の祠。

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自分が通った道をブログに載せる時は、グーグルのストリート・ビューで
確かめていますが、
この角辺りでどう動いたのか、確かめられなかったアーチの下り道。

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アレッツォの大通りの方ではこんな雰囲気の道は無かったので、へぇ~と嬉しく。





かなり大きな建物の壁沿いに、スクーター。 良い雰囲気でしょう?

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このすぐ近くで友人のmkちゃんがスケッチしているのに出会い、はは、
アレッツォらしくない風景ねぇ、と撮ったのがこれ。
ね、トスカーナの田舎町、みたいでしょう?!

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ヴィア・ピショーニを行きますが、ロッビア工房作の壁の聖母子像。
聖母子と子供のキリストが並んでいて、親しみの持てる像ですね。

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この一帯は、上に見える赤と緑に塔の紋章が入ったのが地区の旗なんでしょう。
あちこちの窓に見かけます。




そんなに古くない扉なのに、如何にもの頑丈な扉で、
家に入るのに、一帯幾つ鍵を開けるのかと、ははは。

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こちらも古い石組の、高い家。

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門扉のアーチの石組はどこのも古く、時にこんな顔も見下ろしますが、

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こちらはもっと古い石組みが残り、紋章も鎖!

21-A09_5837_GF.jpg




そして出て来た道脇の広場というのか、一面に地区の色の旗が下がり、
テーブルが見えますから、お祭りの後地区の人々が集まって食べたり飲んだり、ね。

22-A09_5838_GF.jpg

この辺りから道の名ヴィア・コルチトゥローネ・Corcitroneと変わり、
この先の右にある広場辺りまで行きましたが、その後の記憶が朧でして・・、




いずれにしても高台のような場所に場所に出て、
大きなワン君が叱られて哀しそうな声を出していたのはよく覚えていますが・・。

23-A09_5840_GF.jpg




高い家並の続く狭い通りを抜けて行き、

24-A09_5841_GF.jpg




これはグランデ広場の北東の端を上に上って行く、ピアッジャ・サン・マルティーノ・
Piaggia San Martinoの通りに出て来たのだと。

ピアッジャという名が付く通りがアレッツォに多いのを地図で気が付きましたが、
これは、「傾斜地」という意味がある様で、成程なるほど!

大きな扉のある建物の入り口扉に斜めの陽が射し込み、

25-A09_5845_GF.jpg




古い古い扉口と窓が並ぶ坂道。 
とてもグランデ広場のすぐ近くとは思えないでしょう?

26-A09_5846_GF.jpg




そしてグランデ広場に出てきて、北面を占める大きな16世紀のパラッツォの1階、
ヴァザーリのロッジャ。

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広場の西側を占める、建設された世紀によりスタイルが違う建物の一番北寄り、
パラッツォ・フラテルニタ・デイ・ライチ・世俗の兄弟愛信徒会の館、とでも?

29-A09_5853_GF.jpg
             
その左側にあるのは裁判所で、




で、アレッツォの街には重厚な古い建物や石組みの古いのがしっかり残っているのは
ご覧頂きましたが、
そこにある店々の中はともかく入口扉の外、通常シャッターなどが降りる代わりに
なぜか古い厚板の扉がしっかり残っているのにも目が行きました。

ほらね! これはグランデ広場からサンタ・マリーア・デッレ・ピエーヴェ教会の
表に出る道で見た店の扉で、

30-A09_5860_GF.jpg




これは本当に不思議な思いに駆られて撮った店の入り口で、
これはトラットリアーアで、小さな張り紙には営業時間が書かれているのですけど、
あの重厚な木の板を折り畳むと、真ん中が店の中への通路で、両側はガラス窓。

31-A09_5908_GF.jpg




こちらはもっと道の広場側だったと思いますが、何の店だったのか、
ここも同じ造りで、ただ両側の石の部分が張り出しているのですね。
この前に石段式に何段か張り出している店も見ましたから、
案外ここは昔は商品の陳列棚だったのかもなぁ、と思った事でした。

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そしてサンタ・マリーア・デッレ・ピアーヴェ教会の斜め前の店と左の店。
やはりここも、厚板の扉がちゃんと残り・・。

34-A09_5861_GF.jpg

それにしても、未だに何世紀も前の姿のままで店をし、木の厚板で塞いでいる、
というアレッツォの店、そして人々はしぶとい、と思われません? ははは。

という大衆クラスでの、はは、古さの残り様にしびれた、
アレッツォ点描でしたぁ。




最後は、サンタ・マリーア・デッレ・ピアーヴェ教会の側面と、
コルソ・イターリアの坂道を!

35-A09_5772_GF.jpg




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・ サンタ・マリーア・デッレ・ピエーヴェ教会 ・ アレッツォの古寺巡礼


トスカーナはアレッツォのロマネスク古寺、サンタ・マリーア・デッレ・ピエーヴェ教会・
Santa Maria delle Pieveのご案内を。

アレッツォのご案内は既に2回しておりますので、こちらから。
アレッツォ生まれの著名人の家、とその周辺

「真の十字架伝説」・ アレッツォのサン・フランチェスコ教会


はぁ、クリスマスも近い事ですし、・・というのは関係ありませんで、はは、
このロマネスクの素晴らしい古寺、12世紀、と、その祭壇画が好きでして、
写真整理は以前に出来ていましたので、ちょうど良いと・・!

再訪したのは4年前の秋ですが、ちょうど街の最大のお祭りである
ジオストラ・デル・サラチーノ・Giostra del Saracinoが済んだ翌日で、
このお祭りについては、こちらに。 http://italiashio.exblog.jp/21236743/


ピアッツァ・グランデは組まれた桟敷の取り外しの真っ最中で混雑しており、

グランデ広場から見た教会の後陣の姿は、サイトから拝借を。

1-arezzo-santa-maria-delle-pieve.jpg

グランデ広場はこんな風にかなり傾斜していますが、その北面の下側に
美しい後陣と、高い鐘楼が見えます。




近寄って見る後陣の、2層のロッジャ。 屋根の上に何かぽわぽわ見えますが、
ははは、これは屋根に生えている雑草で~す。

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この教会には2度通いまして、撮った時間帯とお天気により写真がかなり
違っていますが、どちらか良く見える方を選びましたので、
見えようの違うのはそのせいで、ご了解願います。



下のロッジャのアーチの円柱と、柱頭飾り。 
1本柱がこんな風に折り曲げたようになっているのがあり、目を引きますね。 
重心は大丈夫なのかと思いますが・・!

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柱頭の飾りは、どれもがかなり手の込んだ中世の香りが濃いものですが、

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上階の梁を支える形の円柱の柱頭は、幾何学模様が多いような・・。
そしてこの階はロッジャはありますが、窓は開いていません。

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という事で、教会左に通っている狭い緩やかな下り坂を下り、正面に向かいますが、
教会脇に、こんな車除けというか馬車除けが並び、

7-1-A09_5797_GF.jpg




ちょうど中程に脇の入口扉があり、扉上の半円の飾りはオリジナルの、
初期ロマネスクの柄なんだそうで、リボンを編んだような形で、
中には十字や葡萄の葉があり、上部真ん中には人間の顔も。

7-2-A09_5796 - Copia_GF.jpg

まぐさ石の部分には、紐を編んだ形と、下側の両脇にはドラゴンも。

扉脇の柱の柱頭には、左側にはライオンと戦うサムソン、だそうで、




右側は摩耗が酷く、人間の顔と後ろ足で立つライオンの足元のみが。

7-3-A09_5798_GF.jpg




で、こちらが正面に出てきた所ですが、面する道、コルソ・イターリアの傾斜が
いかに凄いか、これでよくお分かりでしょう?!
この高低差を利用して、向かって右角にはちゃっかりとお店も入っています!

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通りの上側から見るとこんな感じで、教会入口には階段を上がります。

9-A09_5795_01_GF.jpg




見上げる正面、そして鐘楼。 威容でもあり、何とも素晴らしい!!

10-A09_5862_01_GF.jpg

所で、正面の上部3層に立ち並ぶ円柱ですが、何本あるか、
はいshinkaiが数えましたら全部で68本!ありました。

鐘楼は教会の上に立ち上る感じで、5層の面にそれぞれ2連の窓が2つずつ、
つまり全部で40の窓、という事で、重量軽減のための工夫でしょうが、
呼び名は「100の穴・Cento buchi」ですって、ははは。




一番下の階を含め全部で4層をなすアーチの階ですが、
それぞれの円柱はみな装飾が違っており、上の写真に見える様に
一番上の階の柱、左から3本目の様に人物像、というのも見られます。

12-A09_5866_GF.jpg

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こちらが1階部分で、真ん中の主扉の引っ込み部分が、ロビー式に深く、
両脇に他に2つ入口が。

14-A09_5865_GF.jpg




こちらが真ん中の主の扉で、

15-A09_5864_GF.jpg




扉上の半円には、祈る聖母と両脇に天使像があり、
天井部分には歴月の寓意を語る人物像が左右に。

16-A09_5774_GF.jpg




ご覧の通り彩色された像で、
こちら右側の下の段の右から、1月、前後に顔を持つヤヌス神の様で、
事の初めと終わりを司どり、門や入口の守護神でもあるそう。
内側に、2月植物を運んでいて、 3月笛を吹いている。

17-A09_5644_GF.jpg

上の段内側から、10月種まき、 11月蕪の収穫
12月豚の屠殺、これは冬に備えての行事だった様で、歴月シーンに欠かせませんが、
ここのはちょっと可笑しく、豚のお腹に白い帯が見えるでしょう?
つまり、チンタ・セネーゼという種の豚ちゃんであることを示しているのですね。




そして左側の上段左から、7月麦の穂の刈り取り、 内側に、8月樽の用意
9月葡萄摘み で、彼の後ろにはイチジクの実が熟れている、と。

18-A09_5646_GF.jpg

内側から、4月正装した男が手に花を持ち、戸口の前かな、つまりプロポーズに。
5月騎乗の騎士、盾を持って武装している、  6月刈り入れの時。

つまり右側の下段から内側に1.2.3月と続き、扉の左側の内側から外に
4,5,6月となり、上段の外から中に、そして右側に移り内から外に、という歴月ですね。

◆ 追記 ◆
上の歴月の寓意像の内、12月に出てくる「チンタ・セネーゼ」という豚ちゃんを
主人公にした絵本のご紹介をこちらに。http://italiashio.exblog.jp/8458796/

ここに出てくるシエナのプッブリコ宮の壁画は、アンブロージョ・ロレンツェッティ作。
この教会の祭壇画を描いたピエトロの弟です。




中央扉上の左右にこの飾りがあり、これは左側で、中に髭の男と動物で、

19-A09_5648_GF.jpg

写真はありませんが、右には、真ん中に取っ組み合いする男二人と、
周囲に渦巻きの植物柄、が。




こちらは左側の扉で、現在はここが入口扉になっていて、
装飾は葡萄や葉の渦巻きで、ご覧の様に塞がれたアーチの支えの円柱の柱頭は、
かなり消耗したもののあるもののコリント式と。

20-A09_5651_GF.jpg




左扉の上にある人頭像、下側が欠けた様ですね。

21-A09_5652_GF.jpg




で、こちらが右側の脇扉で、半円には洗礼中のキリストとヨハネ、
両脇には衣類を捧げ持つ天使たち。

22-A09_5870_GF.jpg




道からはかなり高く嵩上げされている入口扉ですが、
階段上の壁の足元辺り、7世紀を経た石の減り具合はこんな様子。

23-A09_5647_01_GF.jpg





ついでに、入口扉にあった開館時間を。

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では、中にどうぞ!  内部、内、後陣に向かって。

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内部に居て見るには全然感じませんが、こうして平面図を見ると、
かなり中心がよじれているのが分かりますね。

29-PiantaPieveArezzo.jpg

この教会が出来たのは12世紀中頃というのは上記しましたが、
どうやらそれ以前に既に1008年に記録に残る、聖母に捧げられた元の教会があり、
それに代わって新しく建設されたのが現在残る教会ですが、

町の一番の高所、今のコルソ・イターリアをずっと遡って行った左にある街のドゥオーモが、
いわゆるヴァティカンからのお墨付きというのに対し、こちらの教会はアレッツォのコムーネ、
街の議会が負けじと司教勢力の向こうを張って建設した、という様なのを読みました。

13世紀になって正面壁も現在の形に新しくなりますが、これも新しいドゥオーモが
出来たのちに市議会で決めた事で、後陣の模様替え、そして内部もゴシック式に新しく、
という様な変革を辿ります。 で鐘楼が出来たのは1330年。

この後16、17,18世紀と次々と内部の模様替えが続き、最終的にはバロック様式に
なっていたのを、19世になり大掛かりな修復が行われ、
全ての後の装飾替えが取り除かれ、元のロマネスク様式に戻されたのだそう。




行った時は、高くなっている内、後陣の下にあるクリプタが工事中で幕が張って
ありましたが、
サイトからの写真で、下部のクリプタの様子をどうぞ。

30-sIMG_2703-1200x800.jpg




で、上の写真でも見える様に、両脇に階段があり、上の内、後陣部分に上りますが、

31-A09_5898_GF.jpg




こちらがピエトロ・ロレンツェッティ・Pietro Lorenzettiが描いた祭壇画、
293x309cm 1320年 板に黄金背景のテンペラ画

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33-A09_5882_01_GF.jpg


ピエトロ・ロレンツェッティ(1280/85-1348)はシエナ生まれの画家で、
弟のアンブロージョ・Ambrogio・ロレンツェッティと共にシエナ派の画家として
有名ですが、どちらかというと弟のアンブロージョの方が腕が上の様ですが、

この祭壇画に関しては大変に素晴らしく、shinkaiはアンブロージョ作かと
思っておりました、失礼をば。

真ん中下に聖母と子供のキリストがいて、その上に受胎告知の場面、
そして周囲を各聖人たちが取り囲む構成。

ピエトロは最初は、内、後陣の壁にフレスコ画を描く注文を受け、
聖母の生涯12面を描いたのが大変に評判が良く、
それで祭壇画の注文も受けたのだそう。

現在はこの壁画は完全に残っておらず、祭壇画は、台座部が無くなっているものの
残っている部分は良い状態と。

彼が40代になるその前後の作、という事で、弟アンブロージョの良い影響も受け、
円熟した作品と言えましょうか。




内陣側から見る身廊の様子と、

34-A09_5886_01_GF.jpg




正面入り口部分の壁と窓。

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正面扉右側に見える碑は、



これです、3博士の礼拝の様で、14世紀の物でしょうか? 

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天井の木組み、そして、身廊部分の柱の収束にある柱頭飾り。

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窓から射しこむ光の線。

38-A09_5878_01_GF.jpg




柱頭飾りのあれこれ。

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側壁の丸窓の内部彫刻。

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正面壁に近い部分の柱はこんな風にごっつく束ねられていて。
今考えると、この上に鐘楼が乗っている部分でしたぁ!

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グランデ広場の桟敷は最初の夜はまだ残っていて、後陣の下が見えませんが、
上のロッジャ部分に夕方灯が灯りました。
この時はまだ空が明るかったのですが、
暮れていく空を背景にとても美しかったのを眺めつつ、晩御飯を頂きましたっけ!

44-A08_5573_GF.jpg

アレッツォはフィレンツエから近くですので、是非お出かけいただきたく、
その時は、このロマネスクの古寺の見事さも、素晴らしい祭壇画もじっくりと!

アレッツォのご案内は、まだ街中のあれこれが残っていますので、
また写真整理が出来ましたら、ご覧頂きたいと思っています。



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・ 戦国明暗二人妃(渡辺一夫) ・ フランソワ1世 ・ ピッツィゲットーネ


毎日のお絵描きの友に音楽は欠かせず、午前中は大概バロック音楽、
そして午後はなんでも!(但し日本語とイタリア語の歌は除く)CDをかけます。
そしてもう一つは、へへ、脇に本を置いておいて合間にちょこっとずつ読む事。

で、今回のタイトルのなぞ解きを始めますと、
先日来読み始め、大変に面白く興味深く読んでいるのが、
今回トップのこの写真の本、渡辺一夫著「戦国明暗二人妃」。

1-DSC08350_GF.jpg

後ろを見ると、中央公論社から昭和47年7月10日初版発行 1800円
となっていて、shinkaiめがまだ20代だった、きゃはは、若き日に買った本で、
途中で買取に来た本屋さんが、これは高く買いますから、と言ったのにも売らず、
ずっと手元に残り、遥かイタリアにまで付いて来ている本の一冊。

ですが内容となると殆ど覚えておらず、ははは、フランスの清教徒の大虐殺が
書いてあったっけ、という程度だったのですが、
今回改めて読み始めると、なんで覚えていなかったんだろ?!と思うほどに
興味深く、多分当時は読んでも頭に入らなかった知識内容だったのでしょう!




内容は2部に分かれ、 1.巷説・逆臣と公妃

上がシャルル(3世)・ド・ブゥルボン公  下がマルグリット・ド・ナヴァール公妃

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シャルル・ド・ブゥルボン公(1490-1527)は、フランス王フランソワ1世に仕え
大元帥だったのが、後に神聖ローマ帝国のカルロ5世の下に走り、
逆臣と呼ばれるようになった方で、
マルグリット・ド・ナヴァール公妃(1492-1549)は、フランソワ1世の姉、
「七日物語」の作者としても有名な方と。。

この二人はお互いに愛し合っていたらしい様子が随所に見られるものの、
確実に残された記録、手紙類などは分からない、という・・。

で、なぜ愛する二人が結婚できなかったか、また大元帥にまでなった側近中の
側近がなぜ逆臣となったか、となると、
これも確実とは言えないものの、フランソワ1世とマルグリットの母親である
ルイーズ・ド・サヴォワ母后がシャルルに横恋慕し!! 14歳年上!
結婚を迫り、はねつけられた為に、復讐も兼ね息子フランソワ1世を焚きつけ、
シャルルの封土を取り上げ、逮捕するよう仕向けた、と!!

ね、なんとも人間臭いお話でしょう?! 

で、結局シャルルはフランスから逃げ、カルロ5世の下で一将軍として働くようになり、
「ローマ略奪」戦の時に火縄銃で撃たれ、37歳で亡くなった、という・・。

素晴らしい武将であり、当時のフランスにあって国王と並ぶほどの権勢と
封土を持っていた事も、王権絶対制度に向かっていた王家にとっては
目の上のたんこぶで、省くべき存在だったのかも、なのですね。




こちらは、 2.世間噺・マルゴ公妃 の晩年と若き日の姿。

3-DSC08352_GF.jpg

このマルゴ公妃は、色情狂と呼ばれるほどの度はずれた男遊びをされた方で、
ははは、羨ましいなぁ! 作られた愛人リストには25人の名が並ぶそう!
渡辺教授は28人と書いておられますが、ははは。

フランソワ1世の息子アンリ2世の娘、であり、また上のマルグリットの娘の息子、
つまり孫に当たるアンリ4世と結婚しているので、フランソワ1世の孫でもあると共に、
上のマルグリットにとっても義理の孫にあたるわけなのですね。

という様な、なんともゴシップ満載的な16世紀のフランス王家に関係の人々の
姿が詳しく説きあかされ、数々の資料のどこにあるかの付記も大変詳細で、
また人間関係や称号からのややこしさに紛れないよう、
その都度詳しく説明されているので、分かりやすく読め、大変に興味深いもの!!

例えばマルグリット、という名前だけでも同時代に限っても3人おられ、
生年、父母の名などから特定しなければ資料にも行きあたらない、
という様なややこしさですので、
この渡辺教授の記し方は我ら素人にとって大変に有難い分かりやすい本。
現在は中公文庫から出ているようですので、興味をお持ちの方是非どうぞ!




で、これら3人の主人公、とりわけ最初の2人の後ろに大きく控える
フランス王フランソワ1世(1494-1547)ですが、

イタリア侵攻戦争に名が出て来ますし、もっと近しい所ではルネッサンスの大天才
レオナルド・ダ・ヴィンチを彼の晩年フランスに招き、レオナルドはアンボワーズの城
で亡くなっている、という様なのもよく知られていますよね。

4-19173714936429_27006.jpg

で、そのフランソワ1世が北イタリアのピッツィゲットーネ・Pizzighettoneという
町に、戦争捕虜として捕囚の身を過ごした、というのは、余りご存じないでしょう?!

こちらのイタリア人に聞いても、知らない、というのが殆どなのですけど、エッヘン、
shinkaiはたまたまピッツィゲットーネに行った事があったので知ったのでした。




で、訪れた町のインフォメーションにこの写真があり、

グアードの塔  フランス王フランチェスコ1世(フランソワ1世)捕囚

5-pizzighettone 08.2.28 055_GF.jpg

でも最初はまるでピンとこず、誰?! 何?! どうして?! だったのですね。
分かってからも余り意味がピンとこずで、ははは、

それが今回の本を再読するうちに、主人公2人の背景として出てくるので、
そうそう、あのピッツィゲットーネなんだ! と懐かしく思い出し、

それで、撮ったままになっていた9年前の、ははは、2008年2月28日の写真を
引っ張り出してきて、周辺事情などもまた改めて読んで、という次第。




という事で、ピッツィゲットーネの町はどこにあるか、地図をどうぞ。
ヴァイオリンのストラディバリで名高いクレモナ・Cremonaの町から西に、約20㎞
ミラノからだと南西に約70㎞、車で1時間半程の距離に。

6-map.JPG
    
そこで見たガイドブックの写真から興味を持って、ピッツィゲットーネと
クレーマ・Cremaに行ったのでした。

ついでに言いますと、フランソワ1世が捕囚の身になったのは、
イタリア戦争のうちの一つ、上のシャルルは敵陣カルロ5世の指揮官であった
「パヴィアの戦い・1525年」で大敗しての捕虜で、
パヴィア・Paviaは、ピッツィゲットーネの西52キロほどの距離。

普通はフランソワ1世はマドリッドで捕囚の身を送った、と出ますが、
そのマドリッドに連行される前に、ここで3か月ほど過ごした、という事になります。




という所で、2月末のパダーニャ平野の霧の深い日の写真で、

町の入り口の道脇。

7-pizzighettone 08.2.28 061_GF.jpg




上空からの写真をサイトから拝借し、上の写真をshinkaiが撮った位置は、
写真の一番下の右、町に入る道が真っ直ぐ城壁を破って続いている所で、

8-Pizzighettone-img230-01-1.jpg

ご覧になる通り、この町は頑丈な低めの城壁で囲まれており、
これは重火器が出来て来てからの城壁であるのが良く分かるもので、
町を2分して流れる川はアッダ川・Adda。
写真の上が町の東側で、手前が西になります。

この部分がいわゆる旧市街で、写真の下側外、北西の方角に
現在の町が広がります。




さて上の町への道を入って来た所が駐車場兼の広場になっており、
入ってすぐ横、つまりかっての城壁兼用の建物がインフォメーションになっていて、

9-pizzighettone 08.2.28 099_GF.jpg

Aperto・開いています、と見えながらしっかり鉄棒で閉まっているのは、はは、
お昼休みの時に撮ったからでして・・、




大きな薪ストーヴが赤々と燃える内部はちょっとした博物館も兼ねた様子で、

10-pizzighettone 08.2.28 057_GF.jpg

現在は博物館や城壁なども整備されている様子ですが、
当時9年前は皆閉まっておりました。




で、上でご覧頂いたフランソワ1世の幽閉の塔の写真も目についたのですが、

これは「Le Mondine・レ・モンディーネ」とあるのは、「田植え女たち」で、
当時は田植えの季節に、季節労働者として働きに回っていたのだそう!
映画「苦い米」ですね。

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中には子供と思われる顔も混じりますが、こうして若い女性たちが田舎を
回って働いていた事で、土地の若い男達との問題も起ったでしょうし、ね、
そして、この一帯にもお米の栽培があった事が分かります。

現在は農業でも、トウモロコシや飼料の栽培なのだそうで、と
既に50年以上前から、この町には元のピレッリ・Pirelli、タイヤで有名、
そのタイヤの内側に貼る特殊な糸の製造会社があるのだそう。





町についた途端に、これは凄い!と思った町を囲む城壁を見て回りますが、

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堀をめぐらした低い厚い城壁で、これは元々は12世紀にクレモナが西への
前哨地としての町を築いたのが起こりだそうですが、その後何度にもわたり
改修され要塞化された町となったのだそう。

ですが、現在も町の中を通るアッダ川を渡る位置として、ローマ期以前から
定められた場所だった様子で、戦略的にも重要だったのですね。




城壁の上に上る柵もとじられていましたが、

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サイトで見つけた写真にはこんなのもありましたから、
やはり戦略的意図の濃い、実践的な城壁だったのですね。

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城壁の内側を巡る通り、そして、弾薬庫の跡。

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教会サン・バッシアーノ・San Bassianoの前のアーチのある建物と、

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教会正面と、内部写真はサイトから。
元々は12世紀の中頃の様子ですが、15世紀の中ごろに正面が改装され
大きくなり、16世紀にも新しく鐘楼が造られたなど、年代毎の改装が
大きい様子で、閉まっていて中を見ていなかったので驚いたほど。

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これは鐘楼脇側からの眺め。

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町に入ってきた所に駐車場と広場があって、と書きましたが、
これは広場の南側で、近くの美味しいレストランでお昼を食べましたっけ。

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右に見える通りをまっすぐ行くとアッダ川に出て、


これが川の畔、橋の袂にあったフランソワ1世が捕囚の身を送ったグワードの塔。
どっしりと太く、

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橋を渡った側から見るとこんな様子に見え、低い塔ですが、

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かってはアッダ川に面してこんな要塞があり、4本あった塔のうちの一つで、
現在残っている唯一の物と。

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グワードの塔、と呼ばれるというのも、グワード・Guadoという言葉自体が、
川の浅瀬を歩いて渡る場所をさしますので、
かってはここでアッダ川を徒歩旅行者たちは渡り、この要塞で渡賃を
払った事でしょうね。




で、フランソワ1世が捕虜となった「パヴィアの戦い」ですが、
神聖ローマ帝国そしてスペイン国王でもあるカルロ5世と、イタリア制覇を目指し
争っていたフランス側との間に繰り広げられていた、イタリア戦争の一つで、
1525年2月24日パヴィアのミラベッロの広大なお狩場で行われた戦。

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勢力的には互角だったものの早朝奇襲をかけたドイツ・スペイン勢が優勢に戦い、
4時間半にわたる戦いの後、フランス側は12000人の死者負傷者を出した
大敗北に終わり、総大将の国王フランソワ1世自身が捕虜になるという・・。

殆ど半裸の姿で周囲を敵兵に囲まれ、あわや殺害されかねないのを
スペイン側のシャルル・ド・ラノワが駆けつけて救ったと、
渡辺教授が書いておられましたが、




こうして敵の手に落ちたフランソワ1世は、ピッツィゲットーネの
グワードの塔のこの部屋で、
パヴィアの戦いのあった3日後の2月27日から5月18日までの79日間を
囚われの身で過ごします。

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そしてスペインに向け船出を待つまでの1週間を、リグーリア州のチェルヴァーラ・
Cervaraの修道院の塔で過ごし、マドリッドに向かったと。

マドリッドで1年を過ごし、屈辱的なマドリッド条約に署名するものの、
自由の身になりフランスに戻るやいやな条約をホゴにした、という・・!

ピッツィゲットーネでの捕囚の身の時は、町の司祭G.ジャコモ・チペッロ師
との間に深い友情が芽生え、後にはフランスの宮廷に招いたり、たくさんの
私的な贈り物をしたりしたのだそうで、それらを書き出したリストもありましたし、

現在はこの塔の部屋も公開されている様子。

最初にご紹介した逆臣のシャルル・ド・ブゥルボン公もこのパヴィアの戦いに
参加して目覚ましい働きをしていますし、一種の敵討ちでもありますね、

フランス側で敗走したものの、後に責任を問われ憤死したアランソン公
というのは、マルグリット公妃の最初の夫で、
2人はこれでお互いに自由の身になり、結婚できるか、と考えた一時期も
あった様子云々、というのも渡辺教授が書かれておりました。




アッダ川に面した堤防の上は、こんな風に散歩道になっていて、

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下流側の橋、鉄道の鉄橋と。

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橋の向こうは町の東側、ですが、この霧で寒くもあり、横着して見に行かず・・!

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霧のアッダ川。

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こちら側のグワードの塔の先を行くと、かっての要塞遺跡を使ったらしい
家畜小屋とか、

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草を食べている猫ちゃんとかを見かけ、

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城壁や堀の残っている部分も見かけました。

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2月の末で、まだ漸くに新芽がほころびかけたか、という時期でしたが、

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サイトで見つけたアッダ川の観光クルーズ、
パスクワ以降の毎日曜と祭日に行われるようですから、
緑滴る美しい時期には、さぞや楽しい事でしょう!

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という様な、懐かしい本の再読から始まった、
歴史の隙間を埋める、小さな町ピッツィゲットーネのご紹介でした。


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・ スコミーゴ村 晩秋、 いや、初冬の色


なんとまぁ、今年も最後の月になりました。 早いものですねぇ。
皆さまもお風邪など召されぬよう、お気をつけてお過ごし下さいね!

こちら北イタリア、ヴェネト州のスコミーゴ村もすっかり晩秋の色、
というか、すでに初冬の色と言わねばなりませんが、

この日曜の午後歩きに出ましたら、北に見える山が白くなっているのを
見て、それに風も冷たいのに驚いて慌てて家に戻り、
靴も履き替え、カメラを持って出かけました。

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上の写真は雨上がりの曇り空の様子が残り、
西に傾いた陽が少し弱いですが、

ヴィゼンティンの上の方はかなりの積雪だったのが分かり、
山の向こうのベッルーノの方は、かなり降った事でしょう!

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こちらは東に続く山並みで、ほら、標高何m以上は雪、というのが
良く分かるような、はは、横線に延びる白さでしょう?

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北の山の雪はこれが初めてではなく、かなり前にもう降ったのを見ていますが、
これだけ下まで白く降ったのは、多分今回が最初。
で、一昨日、昨日とまた雨でしたから、もっと白くなったかも!



    
以前にも見て頂いた、少し先の草原にいるお馬ちゃんたち。
春以降姿を見る事が無く、ひょっとして、と気になっていたのですが、
暫く前に2頭の姿が見え、安心しておりました。

が、この時は柵のすぐ近くにいたので寄って撮ろうと思いましたが、
何せ金網の柵が2重になっていて、それも高くて・・!

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この写真で気が付きましたが、足元の水たまりには氷が張っていますね!
風もかなり強く、冷たい日でしたが・・。




オオバコの葉などちぎって網の隙間から差し込むと食べてくれ、
ついでに鼻面もさすらせて貰い、また会えて嬉しいよぉ!

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雨の日が続き、背中も泥だらけになっていて、
少し離れた場所のマンマの方も、泥だらけ。

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隣の葡萄畑の畝の隙間から見る、北の山並み。

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畑の間の道の並木も、もうすっかり枝だけになり、

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丘の上の木も、雪の山を背景に。

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徐々に日差しが強くなり、山の襞の影がくっきりと。

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西の空。 もう少しで雲から太陽が顔を出しそう!

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北の山並みの奥の方、雪がかなり積もっていて、
この辺りは峠の隙間から吹き込んでくるのかも。

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西の丘の上、フォルメニーガの教会もくっきりと見え始め、

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カルページカの教会前についた時は、西日が輝き始め、
逆光に煌く木々が素晴らしく見え始め、

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杉の実、 松ぼっくりの小さいのと同じ様子。

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坂道を辿り戻り始めると、一層雨上がりの景色が素晴らしく見え始め、
空の色は肉眼ではもっと濃く見えたので、
なおの事、黄葉の葉の煌きが素晴らしかった!

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葡萄畑の残りの葉の輝き。

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丘の葡萄畑の畝の色、そして背景の雨雲の色!

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ビザンティンの山並みは半分陰に隠れ、手前の濃い黄葉が光ります。

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お馬ちゃんたちの所まで戻ってくると、馬たちは奥に行ったのか見えず、
その代わり、ほら、子牛がね。
脚の短さ、お尻の形、ね、どう見ても牛でしょう?!

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夏頃、朝歩いている時に突然大きなモゥ~~という声が聞こえ、
あれ、牛がいるんだ、何処に、と驚いたのですが、
いつもいる馬たちが見えずに、この子牛が柵の向こうを私について歩き、
何度も鳴くのです。

で、馬たちを売って牛を買ったのか、と思ったのですが、気にかかってまして、
そのうちに馬も、そして奥の方に牛らしき姿も見えるので、やれやれと。
牛もこの草原に慣れたのか、鳴き声は聞かなくなりましたし、
共存しだしたのかも、ですね。 




最後は、いつもの、オリアーノ村の教会と鐘楼。
手前は光輝く、葡萄の葉、で~す。

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スコミーゴ村の四季 以前のご案内はこちらから



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