日本東京滞在の、正確に言うと千葉は松戸のホテルに移っておりましたが、
最後のお天気の良い日に、二木さんに松戸の戸定邸にご案内頂きました。
戸定邸、というのは初めて聞きますし、江戸徳川最後の将軍慶喜の弟
水戸昭武が造り住んだお屋敷、庭園と聞かされ興味を持って。
緩やかな坂道の上に見える戸定邸の門。
今は石段を上がる様になっていますが、歴史館で見た同じ門の
古い写真では、門前は平地になっており、
後にこの一帯の宅地開発が進み、現在の様に一段と高い位置に
屋敷と庭が残った、という事なんだそう。
こちらが門前から坂道を見た場面ですが、今、車が止まっているでしょう?
あの右手に駐車場があり、そのちょうど角の位置に三脚を立て
スケッチしている馬鹿が居り、
駐車場に入るにはまさに邪魔な位置でして、その都度面倒そうに
アホが三脚の脚を引っ込めるのですね。
後ろから絵を覗いて、ふん!と言ってやろうか、と笑ったのでしたが、
この門前で行ったり来たりして邪魔してやろうかと、ははは。
門前を入ってからも少し歩き、こちらが玄関で、
上がるとすぐに受付、切符売り場。
こちらが現在「戸定が丘歴史公園」と公開されている全体の様子で、
かっては7万平米を越えていた敷地の3分の一なんだそうで、
右手の紫がお屋敷の戸定邸。
中ほど左手にお茶室の松雲亭、下に見えるのは歴史館。
こちらが入り口にあった説明で、事情はこちらを読んで頂き・・。
こちらが中庭で、正直最初の感想は、想像していたより狭いなぁ、と。
で、入り口からそう遠くない位置にあった石造りの金庫室、
というのか、中に見える金の葵のご紋入りの櫃、じゃ~ん。
お屋敷の全体図。 茶系が来客の接待に使う部分で、
緑色が家族の部屋。
左下に見える茶色が使者の間で、使者のお付き達の控室。
左奥の広い表座敷の中にある緑色部分が昭武の居室で、
それに続く右端に奥座敷、ここが妻女の居間、そして昭武の
ご寝所でもあった部分。 右上奥が離れ座敷で、
右下に飛び出しているのが湯殿。薄いブルー部分が召使の部屋や台所。
最初に完成したのは明治17年(1884年)だそうで、その後の増設を経て
現在の部屋数は23室と。
ここが広い芝の庭園に面した表座敷で、さすがに広々としていますが、
襖よりも高い部分が一旦仕切られた形になっているので、今の住居に
慣れた目には、ずいぶんと重心が低いイメージを受けましたです。
徳川御三家の一つである水戸徳川家とはいえ、既に明治ご一新の後で、
やはりかなり遠慮した造りというのか、大名屋敷とはいえ規模が大変に
縮小されているのだそう。
とはいえ、一方には最上等の杉材を使った杉戸で公私の場のけじめを、
という様になっているのだそう。
こちらは床の間部分で、長押、ですよね? などには金箔が使用され、
渋い広間に品のある彩、とでも。
床の間にあった甲冑ですが、これは徳川慶喜の甲冑の、
実物は久能山東照宮博物館像を模したもの。
が、ボール紙、ペンキ、ニス、威し糸などを使っての手作り甲冑
だそうで、パッと見には少し明るいなぁ、という感じでしたが、
飾り金具など同等の物は手に入らないとはいえ、かなり近いものに
なっているそうで、なんとまぁ、大したものですねぇ!
こちらが古い写真の表座敷の様子。
徳川慶喜という方はたくさんの趣味をお持ちだったようですが、
写真はプロ級の腕前だったそうで今もかなりの数が残っている様子。
昭武本人も写真が趣味で、他には歴史館で見た作陶、油絵など、
師事した先生の手が入っているにしてもなかなかな出来ばえで、
へぇ~っと。
この戸定邸の写真もたくさんあったそうですので、年月から見て、
彼自身の写真なのかも・・、
と書いてきて、庭からのこの座敷の写真を写したもの、
1898年5月徳川慶喜撮影、というのがパンフレットにありましたので、
同じ年号ですから、これも慶喜の写真かも!
表座敷からの芝の庭。
洋風技法による芝の庭、実際にどう違うのかshinkaiには分かりませんが、
この庭は我が国の現存最古のものだそうで、
樹木の木立を主要景観に取り入れるのも類型が無いのだと。
昭武は腹違いの兄慶喜に見いだされ、次期将軍としての教育を受け始め、
13歳の時に将軍名代としてパリ万国博覧会に参加し、そのまま各国を遊学、
パリで留学生活もしていたときに明治維新となり帰国、水戸家の藩主に。
がその後再びヨーロッパに留学した、という彼はハイカラな趣味を持った
文明人でもあったようですね。
座敷から見る芝生庭との境の溝。
こちら上の写真が、徳川慶喜の撮ったものだそうで、
下の写真は庭の眺めもそうですが、水戸藩士の子弟たちが伺候して、
庭で相撲を取ったりして遊び、昼食をご馳走に、とかいう説明があり、
明治維新後のお殿様との関係も伺えます。
こちらが上の説明板にもあった西側の眺めで、この写真ではちょっと
見にくいのですが、右下に確かに、少しですが江戸川が見えました。
表座敷の隣裏にあった昭武の居間の説明。
余りにも特徴のない居間でしたので、失礼、写真は撮っておらず・・。
丸窓から見えた奥庭。
北側部分にあった洗面所で、右はいわゆる流し、立って使うものですが、
左は座って使うもので、昭武の孫夫妻が新婚時代にこの邸に住んでいた時
こちらを使っていたそうで、下の引き出しにあるタオルで顔を拭いていたそう。
奥座敷、とその説明。
廊下は庭を脇に、どこもこんな感じでしたね。
湯殿の様子と説明。
説明にあった天井の杉板の部分ですが、これは多分湯気抜きと。
奥庭の様子の一部。
内庭側の廊下の眺め。
こちらは他家からの使者のお供を迎えた玄関で、正面玄関の脇にあり、
欄間の蝙蝠。 部屋は2間続きでしたが、簡素で写真なし。
これは玄関近くで見かけた障子の切り貼り模様で、懐かしいでしょう?!
こんなのを見ると、思わず指を突っ込みたくなりません? ははは。
やはりね、徳川のご末裔と言えども、障子を破る事もあったんだ!
さて、邸の見学を終え、お庭に向かいます。
所で、戸定邸の戸定とはどこから来るのかと、受付で尋ねましたら、
今は無いが、かってはこの一帯は戸定村といったそうで、それに由来と。
茶室の松雲亭の門が閉まったいたので、その隙間から。
ですが、門と塀が終わった後は横から全部見え、茶室は脇なのか、
余りにも大きなので少し驚き、全部見えると撮る気が無く・・! はは。
見事な桜と奥にツツジ。
コブシ? 花ミズキ?
奥に桜の大木があり、見事で、皆さんその下でお弁当を広げたり、
スケッチ会が開かれていたり。
この位置では桜の花のバックは空になるので、描くのが難しかろうと
思いましたが、かなりの方がそういう場所で描かれていて、
指導の先生も居られましたが、その点の要領を先に教えないのかな?と。
少し離れた側に、苔庭になっている部分があり、
新しく出て来た苔の色が新鮮でした。
それに、この見事な馬酔木の花、満開!
庭歩きの為に続く丸い敷石。 この辺りにも作庭の意識が感じられ。
歴史館の入り口にあった、徳川慶喜と、昭武の写真。
最後の将軍で、1年余りで大政奉還をした慶喜。 鳥羽あたりの
余りにも見事な負けっぷりでも少々軽く考えていたのでしたが、失礼、
この老いた洋装の肖像を見て、些か興味をひかれました。
彼にとって、政権を引き渡した後、死罪を免れ30年だったかの
蟄居の年月がありましたが、逆に個人的に豊かな人生だったのかも、と。
水戸藩の貧乏ぶりは大変だった、というのはよく読みますが、
明治の代になり、潤沢な隠居費用を頂きながら悠々自適、
たくさんの趣味も楽しみ、というのも大変興味深い事ですね。
また慶喜のみでなく、昭武自身も留学を終え暫くは勤めもしたものの、
29歳で隠居、あれこれ趣味を楽しんだ人生だったようですから、
貧乏藩水戸藩主としての重い勤めを逃れた訳で、
傍から見れば、狭い屋敷に押し込まれ、おいたわしや、世が世なれば、
という感想もあったかもしれませんが、ははは、
案外世の中が変わってホッとした人生だったのかも!
歴史館の玄関前にあった、二葉葵の鉢植え。
これぇ~、静まれ、静まれぇ! この葵のご紋が目に入らぬかぁ!!
という、松戸市にある戸定邸と庭園のご案内でした。
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