・ アルトゥーロ・トスカニーニの生家 ・ 20世紀の偉大なる指揮者

今日のご案内は、9月末にパルマに行った時に訪ねた、20世紀前半における
偉大なる指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニ・Arturo Toscaniniの生家見学に
刺激され、あれこれ探し出した写真も交えての様子をご覧下さいね。

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「指揮者トスカニーニ」の名はまだ若い頃に知り、と言っても特別に音楽を聴き
好きだったのではなく、その逸話を読み名前を憶えていたという程度ですが、

こちらコネリアーノに住むようになって、トスカニーニがこのコネリアーノで結婚、
というのを知り、一層の親近感を、と言うと如何にもミーハーですが、はは、
第一、今どきの日本にまだ「ミーハー」なる言葉が残っている物かどうか、はは、
でもなんでコネリアーノで結婚した?というのは調べもせずで・・。

なので今回パルマに行く前に、彼の生家があるというのを知り、これは見たい!と。



パルマの地図をどうぞ。
川を挟んで右にパルマの中心地が広がり、現在博物館、美術館、劇場などを
含むファルネーゼ家のピロッタ邸・Pilottaから橋を渡ると、
大きなドゥカーレ庭園があり、

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その横を通り過ぎ西に入った、いわゆる川向こうの下町に、
生家博物館があります。



橋を渡った西側から見たピロッタ邸、素晴らしく広く、大きな建築物群!

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道を辿り、ほどなく見えて来るかっての町の門。 ここを出た所で右に。

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じきに右側に見える、アルトゥーロ・トスカニーニ生家博物館。

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CASA MUSEO ARTURO TOSCANINI
住所 Borgo R. Tanzi, 13, Parma
   Telefono: 0521 285 499
時間 火曜日9時から13時 水曜から土曜9時から13時 14時から18時
   日曜10時から18時  入場無料


shinkaiは美術館などを見てから、まだ大丈夫かと閉館間際に行き入れて貰い、
係りの方が付き切りでかなり急いで説明しつつ見せてくれたので、部屋全体の
写真も撮っておらず、説明文を読む暇もなくの見物で、少し残念でした。

が今回かなりあれこれ読み、写真も探しましたが、有り難い事に
この偉大な指揮者の晩年の録音や撮影もあり、声も、リハーサル時の怒鳴り声
も聞け、ははは、あれこれ知る手掛かりとなった、というか、興味深かったです。

写真にブログ名がないのが、サイトから拝借したもので、

こちらが、博物館入り口を入った所の部屋で、かっての父親の仕事場だったと。
写真では広く見えますが、全体にどの部屋も小部屋で、

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右の壁にあった家族の写真。 真ん中父親クラウディオ・Claudio、1833年
生まれの仕立物師、母親パオラも裁縫をし、2人でこの1階に店を持っていて、

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現在建物すべてが博物館になっていますが、他の階には他の家族が
住んでいたそうで、つまり貧しい一家だったのが分かります。

父親クラウディオが来ている赤いシャツ、これは彼が大変な愛国者で、
イタリア国建立の大立者ガリバルディに従って戦った事もあるのだそうで、
その赤シャツなのですと。

この愛国者精神は息子のアルトゥーロにもしっかり根付き、
後の彼の生き方にも強く現れます。

ちなみに父親クラウディオは1906年に亡くなり、埋葬にはお気に入りの
赤シャツで葬られたそう。



こちらが出生証明書で、左から父親クラウディオ、母親パオリーナ・Paolina、
アルトゥーロ、そして彼の後に生まれた妹3人のが並びますが、

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余りにも筆跡が美しいので、彼の分をアップして見ました。
トスカニーニ・アルトゥーロ と一番上に名があり、普通は名前が先、姓が後に
なりますが、公式書類ではやはり姓が先になります。

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母親の名がパロリーナとなっているのを消し、パオリーナとしているのが可笑しく、
アルトゥーロ、 パルマ 1867年3月29日生まれ。
下の欄の筆跡が違うのと、父親、母親の出生証明書の字も美しいので、
役所としても出生証明には敬意を払い、特別な字体で書いたのでしょうか?


管理の女性が案内してくれ最初に言ったのは、アルトゥーロはこの家に
生まれたが、家族はここに1年程しか住んでいなかった、という事と、
アルトゥーロの死後、彼の息子がこの家を買い取り博物館にした、と。

息子がこの家を買い取り博物館にしたのは、アルトゥーロの生誕100年記念に
際してで、後2005年に閉じられていたのが、2年後の没50年祭にオープンと。

この家には1年ほどしかいなかった、というのは気になったのですが、彼はパルマの
音楽院を出ていますし、パルマ内に住んでいたんであろう、と考えていましたが、
偶然見つかった英語サイトで分かったのは、

良い仕事を探してジェノヴァに移ったのが、アルトゥーロの健康状態が悪く、
母親は、母方の祖母に預けに戻ったのだそう。

彼の幼年時の経験に、父親はオペラのアーリアの大ファンで、パルマの歌劇場に
通い、戻って来ると友人たちと一緒に歌ったりした、というのがありますから、
その後またパルマに戻ったのかも知れずで、
一方、幼い頃からのこの父親の熱情、体験はアルトゥーロに深く浸透したのでしょう。

彼の音楽への才能を見つけたのは父親ではなく、先生のヴェルノーニ・Vernoniで、
詩を一度聞くとすぐ覚える記憶力に驚き、彼女は無料で読譜唱法とピアノの
レッスンを施したのだそう。

彼のこの超記憶力というのは大変有名で、しかも何百曲もの総譜をすべてそらんじ、
指揮の時にも譜面なしで指揮した、というのですね。

単にメロディーとか、自分のパートを記憶、というのではなく、オーケストラ全ての
演奏楽器の総譜、というのですから、それも何百曲もですから、凄い!!

彼は極度の近視で、それで総譜を暗譜した、と書いてあるのを読みましたが、
理由があってでなく幼い時からの記憶形態の様で、近視の為だけではないと。

その後9歳から奨学金を受け音楽学校に通いチェロと作曲を勉強、13歳の時に
1年間チェロ奏者としてパルマのテアトロ・レージョで演奏、18歳で際立った成績で、
賞金を受け卒業。



ずっと以前TV放映された「若きトスカニーニ」という映画の幾シーンが記憶にあり、
探しましたら見つかりました、これです。
フランコ・ゼッフィレッリ監督、1988年作、トスカニーニがブラジル・ツァーで
一躍指揮者として成功し、世界舞台に登場するまでを描いたものでした。

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この中に、18歳でミラノ・スカラ座のチェロ奏者に応募するものの、審査の年寄り達の
昼行燈ぶりに反発、19歳でブラジル・ツァーに参加。 がブラジルでの公演が始まって
すぐに指揮者が逃げ、彼が「アイーダ」をスコア・総譜なしで指揮する、
という様子が描かれており、

その時のソプラノ歌手を、マエストロ・トスカニーニはスコアをすべて知っている、と
推薦する歌手をエリザベス・テイラーが演じており、これは記憶に強く残り。

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博物館での写真は年代順にはなっておりませんで、説明を聞き、興味を持って
撮った順に、ここでもご覧頂きますが、

これはエンリコ・カルーゾ・Entrico Caruzo(1873-1921)というイタリアの歌手、
幅広くオペラのアーリアからイタリア民謡なども歌って大人気の歌手、アメリカでも
活躍、が描いた、マエストロ・トスカニーニの戯画。 ははは、よく似ていてますよね、

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昨年2017年はトスカニーニの生誕150年祭で、その時にシンボルに使われ。

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こちらがカルーゾ。 若くして亡くなったのですね。

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そしてたくさんの指揮棒。  彼は性格が激しく頑固で、リハーサルの時など
怒り狂って指揮棒を折ったり、叩きつけたりしたそうで、

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最後の写真には、ワーグナーの顔も見えますが、お気に入りの作曲家の1人で。
他にはもちろんヴェルディがいて、プッチーニも好き、彼とは友人でもあった様で。



こちらはトスカニーニの妻となったカルラ・デ・マルティーニ・Carla De Martiniが
結婚式に着た衣装だそう。 如何にも嫋やかで繊細な、時代のお召し物ですねぇ。

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はい、上記した1897年6月21日に我が町コネリアーノでの結婚式ですが、
トスカニーニが30歳、カルラは1877年生まれの20歳、で、
当時指揮をしていたトリノから汽車でコネリアーノに到着したのだそう。

彼は既に有名人ですし、騒がれる事を望まず、秘密に結婚したく、それで
コネリアーノの知人のヴィッラで披露宴をするのを選んだのだと。

所がなんと秘密は洩れ、ははは、駅には市長を始めとする大勢がお出迎え、
コネリアーノの音楽愛好家のバンドまで!! それはもう、迎える側にしたら、
町での大指揮者の結婚式なんぞは、光栄の至りですものね。

が、ひっそりとした結婚式を望んでいた気性の激しい癇癪持ちのマエストラは
大憤激、一日中部屋の隅で腕組みをしたまま、秘密漏洩に怒り、
一言もしゃべらずだったそうで、ははは。

まぁそれでも最後には皆の歓迎に怒りもさり、博物館には結婚式の写真もある、
というのですがぁ、残念、見ておらず、今回あれこれ探しましたが見つからず・・。



こちらは第一次大戦のヴェネトのイゾンツォ川での戦闘勝利に、無料で公演を
した時の物で、愛国者だった父親同様、彼も赤十字などに貢献する働きを、と。

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そしてムッソリーニがイタリアで台頭し始めると、彼は断然対立する立場をとり、
1931年にはボローニャでの公演で、ファッシスト党の党歌の演奏をする事を拒み、
党員たちに劇場前で襲われ、殴打されるという事件もあり、

これを機に、ファッシストがイタリアにある限り指揮はしない、とアメリカに去り、
かの地での演奏活動が続きます。



1936年には、ナチから、ヨーロッパから逃れて来た演奏家達で作られたオーケストラ、
現在のイスラエル・フィラルモニカ・オーケストラが結成されたのを機に、
テル・アヴィヴに自費で赴き、無償で指揮をし、 これはその時の感謝状。

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こちらはアルベルト・アインシュタインからの手紙と、訳の幾らかで、

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素晴らしいマエストロ!  
どんなに貴方を愛し、崇拝しているかをお伝えする必要を感じています。 
貴方は単に比類のない世界的な音楽の演奏者であるだけでなく、
最大の称賛を得るのに値します。 貴方は対ファシストとの戦いの中で、
人間として最大の尊厳を見せられました。 そしてまた新しいパレスティーナの
オーケストラの設立に対し、計り知れない貴重な希望を与えて下さったことにも
深い感謝の念をお伝えしたいと思います。




そして第2次大戦中に爆撃を受けたミラノのスカラ座が、

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戦後いち早く復興した1946年5月11日、再開記念のコンサートの指揮で、
79歳になったマエストロが、イタリアに戻って来ます。

スカラ座は信じられない程の超満員となり、その時の最初の曲はロッシーニの
「泥棒カササギ」の序曲。

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博物館内には長い長いマエストロの、音楽一筋の生涯を物語るもの、
写真で溢れており、

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衣服の左は演奏会の時の物で、右はリハーサルの時の、動きやすいものだそうで、
小柄な方で、身長は160センチに満たなかったのではないかと聞きました。


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プッチーニの作品も好きで、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でも
指揮をしており、

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パリでの「マノンレスコー」公演での二人と。

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勿論ヴェルディのオペラもお気に入り、ヴェルディも彼を気に入ってたそうですが、
ヴェルディのお葬式の際には、長い間演奏されなかった「ナブッコ」の
「行け、我が想いよ、黄金の翼にのって」を指揮したそう。

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この曲は、イタリアが共和国になった時に国歌として選ばれるか、という曲で、
が、これを一般国民が歌うのは難しいでしょうねぇ! 素晴らしい曲ですが、
選ばれずに良かったと、はは。
https://youtu.be/FQnjvjPoWvc?list=RDFQnjvjPoWvc




これはミラノの、ヴェルディが設立した「カーザ・ヴェルディ」に因んだもので、
カーザ・ヴェルディというのは、音楽家として生涯を過ごした歌手、演奏家達、
晩年に貧しい音楽家たちの為の老人ホーム。

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私のオペラ(作品)で、私が一番好きなのは、年取ってお金に恵まれなかった
芸術歌手、または若い頃から貯蓄の長所を持っていなかった人の為に、
ミラノに建設させた家。
貧しく、愛しい、私の人生の仲間たち!
友よ、信じて、 あの家は本当に、私の作品で一番素晴らしい物だと。

昔「カーザ・ヴェルディ」という映画を、内容を知らずに見に行き、
そうなのか、と知った事を思い出します。
ヴェルディ自身も、敷地内の廟に妻と共に眠っているそうで。



こちらに、ミラノ・スカラ座の、アルトゥーロ・トスカニーニの生誕150年祭の
サイトがあり、イタリア語に吹き替えになっていますが、大変興味深かく、
様々な写真、映像、そして彼の声、とりわけリハーサル中の大声や、
怒鳴り声も聞けますので、どうぞ!

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トスカニーニの音楽について語る事は、トスカニーニについて語る事と同じ、から
始まり、9歳の時に音楽学校に入って後、優に80年にわたる生涯を
ただ音楽に献身した事、奉仕とむさぼり、だったと。
音楽に献身する気がないのなら、靴屋にでも薬屋にでもなれば良い、
作曲家の気持ちに近づき、密な関係となり、奉仕するのは演奏家の責任だ、と言い、
なので、歌手にもオーケストラにも大変厳しく注文を出し、妥協を許しません。

始まって直にリハーサルの声が聞こえますが、クラリネット、カンタ、カンタ、歌って! 
ノン・カピート・ニエンテ、ヴェルゴーニャ! 何にも分かっていない、恥だ!
カーヴォロ! なども聞こえます。

カーヴォロはキャベツの事で、辞書にはちくしょうと出ますが、馬鹿とかうすのろの
意味もあった気もしますし、ははは、
何年の録音か知りませんが、声の勢い、怒鳴り声の元気さに驚き、笑える程で。

そしてあれこれ聴いていて今回気が付いたのは、音楽のテンポの爽快さ、
と、大変メリハリの効いた音楽である事も。

当時のロマンチズモの音楽が主流を占めていた時に、彼の速いテンポ、そして
ワーグナーやヴェルディの強い音楽、その指揮ぶりは新しく、人々の心を掴んだのも
良く分かります。 今聞いても、まるで古い気がしませんものね。

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ニューヨーク1952年3月15日のNBCシンフォニー、「ウィリアム・テル」の序曲を。
https://youtu.be/t132rQ6i_zU


当時のオペラの観客達が、桟敷席をサロンの社交界と同じに考え振舞っていたのを、
遅刻入場はダメ、桟敷席での帽子はダメ、歌手の途中でのアンコールはダメ、
またスカラ座にオーケストラ・ボックス、ピットを作ったのも彼というのも知りました。

自分の音楽に対する力を知り、思う音楽を、自分の思う様に指揮する、
その為にはどんな事も乗り越えて、という気迫が伝わって来ます。

読んでいて笑ったのは、オーケストラのみでなく、歌手にも厳しく、彼のたくさんの
愛人の1人として名が挙がっているソプラノのジェラルディーン・ファッラール、彼女とは
妻も子も捨て一緒になる気だったのが、その直前にメトロポリタンの仕事をやめ、
イタリアに戻るので実現しなかったそうで・・。

彼女がリハーサル中のダメ押しに、マエストロ、私がスターであるのをお忘れなく!
当時はプリマの歌手など自分の好きなように歌えたのだそうで、
するとトスカニーニは自分を指さしながら、太陽の前には星は輝きを失います、って。
これには吹き出しましたが、ははは。

1932年から1954年まで存在したアメリカのNBCシンフォニー・オーケストラとの
ラジオを通じてのコンサート、後にはTV中継も、は大変有名で、トスカニーニの名を
世界に広める事にも貢献しましたが、

このNBCシンフォニーとのカーネギー・ホールの、1954年4月4日の実況放送が、
68年に及ぶ経歴を持つ、87歳のトスカニーニの引退となりました。

この公演前に既に引退を決めていたというのですが、指揮の最中に衰え知らずの
総譜の暗記が一瞬途絶え、14秒間続いたのそうで・・。
それ以前から時にテンポが遅れたりで、自身で衰えを知り引退を考えたのでしょうね。

舞台を去って1956年12月、年齢からも衰弱し、自分でも最後と思ったのか、
大晦日を皆と過ごすつもりで、長男が家族友人集めてのパーティを計画、
真夜中にマエストロは以前の様に元気で朗らかに姿を見せ、皆を抱擁挨拶し、
2時にベッドに。
そして翌日1957年元旦の朝7時、浴室で血栓症に見舞われ、16日に死亡。89歳。

遺骸は翌日ローマに運ばれ、大群衆が出迎えの中をミラノに向かい、
スカラ座にてお通夜、そしてお葬式にも多数の人々が参加、屋根の上に
上って一目でもという様子も見られた程だそうで、ミラノの記念墓地の廟に。



という、素晴らしい、読む方も活力を貰える様な生涯を送ったマエストロでした。

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最後に、1944年のこちらもNBCシンフォニーの、ヴェルディの「運命の力」を。
https://youtu.be/bqmmTjC3ffk

あちこち蛇行したご案内でしたが、私が新しく、改めてマエストロを知り、
大変近しく感じた事を感じて頂けたら、とても嬉しいです!


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・ 夜と、朝の眺め ・ マテーラの風景

南イタリアはバジリカータ州マテーラ周辺への旅行の際は、マテーラの町に
5泊という願ってもない日程でしたので、朝は3回、夜は2回撮りに出ました。

ですが旅行前半の3日間はお天気でしたが、後半は崩れ、雨、曇天となり、
夜出た時は暗くなりすぎての時間帯で、上手く夕暮れに合わせられず・・、

という事で、実際に撮った日程順とは違いますが、夜の写真を少し、
そして朝早く出た時の物、それから少し朝陽が強くなった時の物、という順に
見てやって下さいね。


これは夜の8時半頃、旧市街のサッソ・バリサーノの端っこ、高台からの物で、
一番奥高くに町の聖堂が見えます。

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街灯の色がオレンジ系と、白色系の流れの違いがありますが、これはここからの
眺めのみで分かる事だと気が付きました。



町の治安で不安に思う様な事はありませんでしたが、一番町の端っこですし、
時間が余り遅くなるのも、と中心に向け戻り始めると、
家路に就く人の姿もかなり見かけ、

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オレンジ色の光の下。

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サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会の入り口前。

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ヴィットリオ・ヴェネト広場に近く、バールの前にはまだかなりの人々。
手前のテーブルの足元には2匹のワン君がいて、

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こちらはスーヴェニール店前、関所係の、ははは、ワン君。 

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ヴィットリオ・ヴェネト広場の角、サン・ドメニコ教会脇の壁には町のシニョーレたち。

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朝撮りに出た時の物で6時少し過ぎ。 広場の見晴らし台からで、この朝は雲が。
ここからの眺めでは殆どオレンジ色の灯に見えるでしょう?

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見晴らし台すぐ足元の眺め。 ここの様子は少し変わっていて舞台装置の感じとでも。

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サッソ・バリサーノを囲む南側の通り、ヴィア・デッレ・ベッケリーアを行きますが、
街灯の灯が、まだまだ強く見える時間。

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小路から見る、北側の高台の眺め。 空の色が少し明るみかけ・・。

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聖堂を。

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何層にも重なる眺め!

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小路を辿り、裏の横道に。

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所々にレストランがあり、住人のいる家も。 ですがどこもこのように街頭で明るく。

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上の通りの広場(ピアッツァ・デル・セディーレ)に続く石段。

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聖堂の下を行く小路を辿り、

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既に空もこの明るさになり、 聖堂の色も見え始め。

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北側の町並みもこんな様子に。 

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2つの煙突の間に見える一番奥に見えるのが、
歩き始めたヴィットリオ・ヴェネト広場西側の映画館、劇場の建物。




聖堂一帯は中世に一番発展した辺りらしく、補強ががっしりと古い感じで、

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周囲一帯に何という植物か、香りが強く広がり、
この石段もとても良い感じで気に入り、何枚か写しましたが・・。

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下の道、仕事に出かけるグループが、何か声高に話しながら。

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路地奥はまだまだ街灯の灯が強く見えますが、少し開けた場所は明るくなり始め、
ゴロゴロと大きな音をさせながら、ゴミの回収かな、既に仕事中の方。

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サッソ・バリサーノ地区の一番低所を通るヴィア・フィオレンティーノへの石段。
この一帯はかなり気に行った所で、昼にも再度通りましたっけ。

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明るくなる頃の、残りの街灯の灯。 こういうの、どこか懐かしい気がしません?

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この日の朝日は雲が厚く、風景との設定が上手く撮れずで、空の色が出ず・・。

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ここからは、前日6時半に出た時で、ほぼ同じ場所からの日の出前、と日の出。

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朝陽が射しこむ石段。

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家の上部に当たる陽。 サン・タゴスティーノ修道院前。

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トラットリーア前、テラスの簾の上の、黒猫ちゃん。

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深い谷越しに朝日が届き、町の低い一帯はまだ影の中。

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この一廓など元々は岩山だっただろう場所が、奥に洞窟跡を隠しながら、
ほぼ完全に、何層もの家並に変化している事が良く分かりますね。

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道のカーヴ、谷越しの光が届き、固い石灰岩の敷石が光ります。

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古い家の戸口にも、光が届き、

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重なる家並の上側から、順々に光が届く範囲が広がり始め、
光はどんどん強くなって行きます。

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朝日を浴びる鳩たち。

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そろそろと、ホテルに朝ご飯に戻るshinkai。 路地の奥に届く光も強くなり。

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という今回で一旦バジリカータを離れ、またご覧頂きますね。

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・ マテーラ・Matera ・ 洞窟住居と、マテーラの町について

1993年世界遺産に指定され、2019年は「ヨーロッパの文化首都」に指名され、
全世界からの注目を浴び、再度力強く再生の道を歩んでいるマテーラの町ですが、

つい70年ほど前までは、その生活状態の貧困さ、悲惨な衛生状態などから
「国の恥」と呼ばれていたのでした。

先回の旅行全体の総集編でも、洞窟住居見学を何枚かの写真でご覧頂きましたが、
その後あれこれマテーラについてのサイトを読み、旅行の際ガイドさんから
聞いた事などと合わせ、漸くに少しマテーラの町の成り立ちについて、
また洞窟住居についてもも少し詳しく知る事が出来たように思いますので、
再度ここにご覧頂きますね。


まずは洞窟住居の見学写真からどうぞ。 初回はグループ全員が狭い住居内に
入り込み、ゆっくり見る事も出来ずでしたが、翌日再度一人で出かけました。
この写真はサイトから拝借の、見学した「ヴィーコ・ソリターリオの洞窟住居」
のある位置が良く分かる物を。 

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つまりこの家はいわば2階にあり、今の開いている扉の斜め上に見える窓が
住居全体の大きな換気窓で、左に張り出す岩に小さな穴が見えますね。
これが台所の上に開いている窓です。

左側の岩にあちこち開いている窓、そして下の1階部分にある扉は、元の住居入り口
であり、住居博物館の前を左に延びる道にも、元住居跡の扉が見えます。



入口を入ると、こんな感じに一部屋があり、

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右手前奥に夫婦のベッドがあり、左奥に見える黒い箪笥は穀類を貯蔵していた物で、

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部屋の角にも、奥にも掘り込んで作った棚があり、様々な生活用品が並び、
黒い箪笥の前にあるのは、モミ突きの臼と、粉に挽く臼ですね。



ベッドの脚は高く、これは洞窟内の湿気を避ける為で、小さいお丸も見えます。

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ベッドの奥に見えた大きなお丸で、蓋も見え。 多分用途は大の方なんだろうと。

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洞窟住居について最初に問題提起したのは、1945年に刊行されたカルロ・レーヴィ・
Carlo Leviの「神はエヴォラに止まりぬ」と言われますが、
彼はファッシスト政権に対する反対運動から、1935~36年マテーラ近くに流刑となり、
その時に見たマテーラの悲惨な状況を書いたのでした。

狭い家の中に家畜と同居、上下水道がない非衛生さ、貧困に覆われた生活を。



ベッドの足元に見えた、赤ちゃんの揺りベッド。

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左側、ダブルベッドの足元の向かい側には、馬、ラバ、ロバなどが同居で、
彼らは農民にとって耕作の動力源であり、耕地への移動手段でもあり、
また同居すると家の中が暖かいからという・・!

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最初、こうした洞窟住居の住民、また当時マテーラの住民の殆どが農民だったと
聞き、一体どこに農地があるのかと不思議に思ったほどでしたが、
町の一番高い位置にある聖堂から遥かに農地が見え、いささか納得。
でも、こんなに遠くまで出かけるの?!と。

続く日、マテーラから近郊に出かける時に、一旦町を出はずれると素晴らしい
農地風景が広がるのは、こちらの第2部で見て頂いた通り

と、今回見たサイトの1968年のRAIのドキュメンタリーにその答えを見つけました。
家の中から引きだす馬の映像に、家の近くに農地を持つ者は朝日と共に働きに
出かけ、家から10キロ、20キロに農地のあるものはまだ暗いうちから出かける。
南部の農民たちはマラリアと山賊を恐れ、農地に住むことは無かった、と。

そして一日の労働を終えた農夫を背に、家に戻る家畜たちの映像に、
農夫は休息するけれども、家畜たちはまだ農夫を運ぶ仕事が残っていると。
つまり、まさに家族の一員だった訳ですね。
犬も写りますが、犬も家族の一員だが、犬は働かない、と!



こちらは一番奥にあった小さな家畜部屋で、多分兎とか豚ちゃんだったかもで、
見た映像の中に、豚に犬の様に鎖を付けて繋ぎ、道に出している場面もあり、
右に見える小さな囲い場所で堆肥を作ったと。 これはかなりの衝撃でした!

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こういう悲惨な衛生状態から来る幼児の死亡率は非常に高く、国平均が1000人の
幼児に対しての死亡率が112であるのに、マテーラでは463だったと言い、
そして一番の怖い病気は、マラリアだったと。



家畜の囲いの近くにあったと覚えている、穿き古した靴。

14-DSC01408_GF.jpg



こちらは家の前部、壁際に見えるのは左がタンスで、子供たちのベッドでもあり、
まだ小さくて棚に寝れる間はで、右が結婚の時に主婦が持って来た櫃ですね。

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櫃の上の壁には、聖人たちの肖像画がかかり、櫃の上に見える道具は、真ん中に
小さな炭、または燃えさしを入れた鉢を置き、ベッドの掛け布団の間に差し込み、
冬ベッドを温めたもの、ですね。

そして手前に見えるのが、


家の中の唯一のテーブルで、ここで家族全員が食事をしたのだと。 見える大きな
一皿がすべてで、家の主人と長男がやはりしっかり食べることが出来、

10-DSC01506_GF.jpg

チビちゃんなどはお余りを、という状況の様で、ドキュメンタリーの映像、
父親が大きなパンをナイフで薄く切り分けるのを皆がそれぞれに齧っている、
の説明では、ここではプリモもセコンドもすべてパン、と言ってましたね。


そうそう、そしてパンは大きな一抱えもある、ぷっくりと山形に膨らんだパンで、
各家で焼くのではなく、どうやらこれはパンの店に頼んで焼いて貰っていた様子。

で、各家で準備し、最後に表面に各主婦、家の印を押し付けていた意味が判明、
つまり焼けたパンをそれぞれに配達するときの目安でもあると分かりました。

ガイドさんが、土地の土産にもなる「ククー」という鶏の形をした子供の玩具、
でもあり、婚約の時に女性に渡す、とか、子供が生まれた時のお祝いとか、
または単純な幸運の印にもなる、ものの他に、

パンに押す各自のイニシャル等を刻んだ木の印があると言い、実際に見ましたが、
3~4cmの丸い印が、10cm程の長さの握り棒の先に付いているもので、
単に聞いただけでは、何となし趣味的な物なのか、と思っていたのでした。


向かいの壁際には、機織り機が見え、

11-DSC01507_GF.jpg



その足元、一番手前に見えるのが、真ん中に炭を入れ周囲に木の縁が付いた唯一の
暖房機で、これに足を載せ暖まったのだそう。

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奥には洗濯板も見えますが、写真の一番左端の、四角い囲みに穴が開いているのは、
天水を貯める地下槽から水を汲み上げる場所で、



これが、入り口扉の脇にあった、天水を地下槽に導く通路ですね。

13-DSC01511_GF.jpg

雨樋などからも受けたのでしょうが、今回町見学の時に見たのは、樋受け、支えに
動物の骨が使われているのをガイドさんが教えてくれましたが、
サイトではもっと凄まじく、人骨が使われているのも見ました。

が、マテーラの洞窟住居を説明するのに、「生きた人間の上に死人がいる」
というのがあり、実際に見た開けた場所にあった中世の墓地、
現在はセメントで塞がれていましたが、下の層には洞窟住居がある訳です。

読んだ別のサイトにあったのは、古くは洞窟住居内に埋葬した事もあるのだそうで、
「骨」はいくらでもあった、というのですね。
貧しくて、壺が欠けても穴を塞いで、という様な生活をしていた人々には、
使える、ご先祖さまの有難い骨だったのかも、で。 いえ、これは冗談ではなく・・。


ずっと貧しいマテーラの農民生活について書いていますが、なぜこんなに、
というのも多少は分かったと思う、マテーラの歴史も含め書きますね。

マテーラに人々が最初に住み着いたのは新石器時代と言われ、これは町の対岸、
グラビーナ・gravina・谷、渓谷と呼ばれる向かい側の高地に、町の発祥と
見られる先史時代の村落の跡があり、洞窟を住居として使っていたと。

その後時を経て、切り出した石を洞窟の前に積み上げて拡張、という方法、
これを「フオーリ・テッラ・地上(生活)」と呼び、洞窟の中を拡張しつつ、
切り出した石を前に積む、というのは現在に至るまで続けられた方法で、

町をパノラマで見ると、四角い家が層になって集積している様に見えますが、
表から見ると普通の家に見えるのが、奥にはどこもが洞窟を持っているそうで!

つまり約7000年に渡り途切れることなく、この地での人間の生活が続けられている、
という事なのですね。

紀元前6世紀頃、他のターラントとか、今回大雨できちんと訪問できなかった
メタポント辺りはマーニャ・グレーチャと呼ばれるギリシャの移民の土地であり、

彼らが築いた原始的な町、チヴィタ・Civitaと呼ばれた場所は一番高い、
13世紀に現在の聖堂が建設された場所なんだそう。

ローマ期にはチヴィタスと呼ばれる城壁で囲まれた古いサッシ群が出来、これが
中世を経て拡張され、堅固になりつつ、現在の2つのサッソ・カヴェオーゾと、
サッソ・バリサーノが建設されたという事の様です。

洞窟教会が多く建設され大きな働きをするのは7世紀頃からで、ベネデッティーノ派、
ギリシャ・ビザンティンの修道僧たちがイスラム圏から大勢移動して来た事にあり、
特にビザンティン勢は出身がカッパドッキアとか、アナトーリア、アルメーニアなど、
既に洞窟内に住む文化を持っており、その中に洞窟を掘る経験豊かな人々が
いたのであろうと。 

こうして、礼拝堂、教会、聖堂、修道院、教室に至るまでを苦行者たちは
掘ったのでしたが、

実質的に町の人々はやはり経済状態が許す限りは、「地上に」住居を作り、
洞窟は様々な物置とかカンティーナ、家畜小屋として利用を。

そして1663年マテーラはバジリカータ州の首都となり、1806年にポテンツァに
首都が移るまで繁栄し、町にとって一番良い時期となります。
現在町に見られるバロック形式の教会や大きな立派な建物はその時代を反映
した物ですが、

首都が移った後1800年以降1952年まで、町は長い凋落退廃期間を過ごし、
農業の周期的な危機や政治的な没落も輪をかけ、人口増加も手伝い、

経済的落剝により「地上」住居から洞窟住宅生活に戻り、元々貧しかった
農民たちの生活は悲惨さを増し、どの部屋も住いとなり、どの洞窟も
家畜との同居、というありさまに落ち込みます。



再度洞窟住居の見学写真に戻りますが、
こちらが家の入口上に設けられた、いわば大部屋に唯一の換気窓で、

16-DSC01492_GF.jpg



家に入った左手にこの台所があり、

18-DSC01512_GF.jpg



下から燃やす火口が3つ、

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上に開いている小さな窓。 そして所狭しと並ぶ台所道具。
料理する材料がたくさんあったのか、と思いますが・・。

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家の見学を終え出る時に、隣にネヴィエーラがありますよ、と言われ、なに?
と見に行くと、氷室がありました。 隣に並ぶのは、農民たちが使った荷車。

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天井が高く、何か別の目的で掘ったのか、何かの跡を利用したのか、と
思いますが、

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片隅に深い穴があり、ここを氷室として使っていた様子。

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壁にサッシの古い写真が。

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洞窟住宅として残し、公開しているのはここだけでなく、たくさんある様で、
実際道を歩いていると、「洞窟住宅」としてバールやレストラン、またB&B、ホテル
として利用している所も多く、

ここからは洞窟住宅として公開している様子のあれこれを。

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27-1-Casa-Grotta-a-Matera_GF.jpg

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こちらは、shinkaiが見学した家ではなく、場所はもっと南西になるようですが、
「カザルヌオーヴォ・Casalnuovoの洞窟住居」として公開しているもので、

28-interno_GF.jpg

これは3段階に下がりながら彫られ、カンティーナや家畜小屋の場所も別になり、
とはいえ、やはり同じ洞窟内ですが、
部屋も比較的広いのが3つほどある、というもの。

何千年にもなるであろうというのですが、確かに記録があるのは1474年だそうで、
長年住んでいた子孫代々、どんどん掘って拡張していった、という事でしょうね。
サイトはこちらに。
https://www.youtube.com/watch?v=rIJxYOdPkvc



あれこれ長々と書いて来ましたが、この洞窟住居群サッシ・sassi、
(sasso・岩の複数形)の悲惨な生活は1952年まで続きます。

1945年にカルロ・レーヴィの書いた告発の書「神はエボリに止まりぬ」が
切っ掛けとなり、政治家たちの注意を引き、遂に動き始め、

1952年に首相アルチデ・デ・ガスペリ・Alcide De Gasperiの元に、
「特別法サッシ立ち退き」が発動され、町の住民3分の2に当たる17000人が、
町の外に作られた新しい住宅地の住宅に引っ越しを強制されることに。

様々な配慮がなされて作られた家、住宅地ですが、今までの生活を捨てる住民、
とりわけ生活の困窮さに慣れた老人たちには厳しいものがあったようです。

新しい住宅地は町の外の平野、町を望める位置にあり、農民達の持っていた
小地所に造られ、安い賃貸金で、かっての古い住宅は国有財産となり、
現在も番号が打たれた扉が閉まっています。

20年ほどに渡って続けられた洞窟住宅からの引っ越しですが、住民が居住時も
問題だった一帯が、閉鎖されると逆にまた問題となり、崩壊、鼠の活動等など、

一方マテーラのこの一帯で撮影されたたくさんの映画が世界の人々の関心を引き、
地元の若者たちの目覚め、美的、文化的な素晴らしさの認識が始まり、
80年代後半になり、サッシ群への復帰が始まりました。

勿論元の住居には戻れずで、利用の復興計画を提出し、それがOKとなると
低金利で金融機関が利用できる、という事で、現在たくさん見られる店、ホテル、
レストランなど等、かなりの数が再利用されている様子です。

そして古いサッシの貧しい生活から離れ、問題であった文盲率の高さも、
学校に通うようになり徐々に改良され、
これも未来につながる子供、若者たちの意識を高めたのですね。


一時は「国の恥」とまで言われ、いわば大手術を受けた町ですが、
1993年のユネスコの世界遺産認定を機にますます観光客が増え始め、
来年はついに「ヨーロッパの文化首都」となる、
この長~い人類史上類を見ない古い古い町が復活しつつあります。

とここに書ける事を、門外漢の私ですが、とても嬉しく思います!! 
いわばどん底から這い上がって来たのですものね。

マテーラの町を尋ね、見た事によって出た疑問の答えを知りたくあれこれ読み、
国の助けを受け、歩みは遅くとも、立派に地元の人々により活発な町に
なりつつある、それが良く理解でき、良かったです。

治安の心配はなく、食べ物はたっぷりで、美味しさに溢れています。
どうぞ、お出かけ下さ~い!!



最後は、狭い洞窟住宅の中で、10人が食事をしている所を。
子供たちの笑顔がとても印象的で、ご覧頂きたかったのです。

29-GF.jpg

貧しい洞窟住宅の説明に、ありきたりの「貧しくとも幸せに」という言葉ではなく、
「かっての太古からの伝統生活の中にあったサッシの魂」、という一節がありました。


古い写真や、ドキュメンタリーを見た印象的なサイトはこちら。
国の恥からユネスコの世界遺産、そして2019年のヨーロッパの文化首都に」

中で見れる1968年のヴィデオのアドレスは分かりにくいかと、こちらに。
長く、50分位ありますので、せめて最初に出てくるかってのマテーラの
様子だけでもどうぞ。

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・ n.2 マテーラ周辺旅行 南イタリア・バジリカータ州 総集予告編

先回に続き、マテーラ周辺旅行の総集編をご覧下さいね。

この2枚の写真はマテーラ3日目の朝撮りの物で、6時に出かけましたが、
朝撮りに出ると前日の夕食の時ミレーナに言うと一緒に行く、とついでに
隣にいたロレダーナも一緒に来て3人で。 ですがね、2人は撮るのが遅くてぇ・・!

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マテーラに一人で居残った日は、前日の快晴に比べ雲が多く少し残念でしたが、
これは町の南側のサッソ・カヴェオーゾの眺めで、真ん中にポコッと飛び出している
岩山に、洞窟教会マドンナ・デ・イドゥリス。

3-M02_6521_GF.jpg



こちらが岩山に上った前部から。 手前の広場が狭く、大きさが上手く撮れず・・。

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左側に格子の入った隙間が見えますが閉まっており、後ろ側から再度石段を上り、
ぐるっと背後を回りつつ、谷の風景も見れます。



手前の広場からの眺め。 石段の所からすぐ下に見えるサン・ピエトロ教会辺りを
スケッチする男性、勿論通りすがりに覗きに行きましたよ。

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下に下って来て、出会った白ちゃんと、朝のお手入れ中の縞猫ちゃん。

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このボクは何をしているのか、考えているのか、かなり長い間この姿勢で。

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下っていく道の途中で見かけたカップル。

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朝の9時頃でしたけど、女性がかなり強い語調で男性を責めていましたっけ。 
彼は何にも云わずに聞いていましたけど、横を通るshinkaiをちらっと見ましたね。
ワタチ、イタリア語分からない、みたいな顔で通り過ぎましたけど、へへへ、
朝の9時からねぇ、二人ともサングラスをかけていてね、深刻そうでね・・!



マテーラの写真はまたその各所のご案内で見て頂くと思いますので、一応お終いとし、
最後に対岸のムルジャ考古学公園から見た、古い洞窟住居の跡を。

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この新しい街の下に広がる、黒い洞窟住居の穴はかなりの迫力でしたが、
お天気が悪く、雨交じりの強い風で、余りよく撮れておらず、というよりも、
凄まじい感じにどこをどう撮ったら、と集中できなかった感あり、残念!

この何層にも重なる一帯で、メル・ギブソンの「パッション」などの映画が撮影
されたとか。確かに洞窟住居はBC以前からの物ですものね。 
ガイドさんが、あの映画で改めてマテーラに対しての関心が大いに深まった、と。




翌日から参加の周辺行き、この日はヴェノーザ・Venosaと、メルフィ・Melfiに。
まるで事前知識がなく出かけた今回の旅行でしたが、
一帯の美しい風景に驚き、魅せられました! 分家ブログで見てやって下さいね。 

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大好きなトスカーナ風景にも似ていて、でも何処か素っ気ないというか、
トスカーナの風景よりも少し荒い感じを受けましたが、緑の時はどうなんだろ?

マテーラ以外に出かけた場所の地図は、こちらに。
http://www.italiashiho.site/article/461858537.html



ヴェノーザの、15世紀のオルシーニ家の城。 内部は博物館に。

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町外れにあるローマ期の遺跡跡、モザイクも残る浴槽跡とかかなり広大な物。

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アッピア街道の跡。  

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南ラツィオのテッラチーナで見たアッピア街道を思い出し!
http://www.italiashiho.site/archives/20170210-1.html



遺跡内を歩いていると、ある場所で何とも言えない良い香りがし、
何だろと思ったら、野生のメンタ、ハッカがはびこっているのでした。
これは近くで咲いていた黄色の花を。

17-2-V03_6838_GF.jpg



この遺跡跡の最初の写真の奥に見えた、高い教会の壁のような物は、
未完の大聖堂の跡なんだそうで、これがかなりな迫力でしたよ!

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午後は雨が本降りになってきた中を、メルフィ・Melfiの城に。
フェデリコ・バルバロッサが12世紀に建設の城で、どんどん増改築された様で、
最後には、なんとジェノヴァのドーリア家の領有地でもあったと!

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高地にある素晴らしい城でしたが、霧がかかり始め、見下ろす町は真っ白に。

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現在考古学博物館になっているこの城で最初に見た大理石の
素晴らしい「ラポッラの石棺・Sarcofago di Rapolla」

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1856年メルフィ近くの、かってのアッピア街道が走るラポッラ村から発掘され、
高さ1,8m 長さ2,5m 幅1,2m、2世紀後半の作と。



それにしても、この博物館の収蔵品の質の高さと量の多さ!!
やはり目の前にあると見るし、撮るし、ぐったり疲れましたぁ! 

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雨の町の中を聖堂に。 ノルマン式という、動物のモザイクのある鐘楼を。

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翌4日はマテーラから南西に、トゥルシ・Tursiと、メタポント・Metapontoに。

出発した朝はまだ晴れ間があり、こんな山の上の奥に見えたポマリコ・Pomarico
という町も見たり、

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トゥルシの町に行く前にかなり上った所にある、聖所のマリーア・サンティッシマ・
レジーナ・ディ・アングローナ・Maria SS.Regina di Anglonaに寄りました。

古くからの信仰の地という事ですが、この11~12世紀の聖堂の入り口の彫りと、
内部のフレスコ画がなかなかの物でした。

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そしてトゥルシに向かう途中で、カランキのずっと続く道を通り、夢中で写真を
撮りましたが、いやぁ、こんな土地がずっと続くとは本当に驚きでしたぁ!

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トゥルシの古い上の町、現在は殆ど廃墟の村落に上り、かなりの雨の中を
狭い小路を下り、希望者は、という事でしたが、そう言われると歩くでしょ?!
ははは、靴の中までぐちゃぐちゃとなり、

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でもね、ホンの雨の上がった一瞬、下の部落を見下ろす、こんな眺めもあり、
写真を3枚ほど撮った途端に、また大粒の土砂降りとなり!!

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坂道を下るうちに雨も何とか上がり、こんなカランキもすぐ傍で見れました。

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お昼のパニーノを食べた後、次の予定地メタポントに向かう途中どんどん雨が
激しくなり、shinkaiなどはもう宿に戻ってもいいよぉ、今日の午前中で満杯よぉ、
と思うのですがぁぁ、ははは、

マーニャ・グレーチャの中心でもあり、ギリシャ神殿風遺跡の「ヘラの聖所」にと
向かいますが、町の道はずっぽり水に浸かっており、走る車はまるでボート並み!

それでもと近くまで行き、皆それぞれに写真を何枚か撮り引き上げ、
地面がぐちゃぐちゃで、傍まで行くのもためらう程で、

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美術館は濡れないから、と向かいますが、ははは、美術館前の道がずっぽりで、
遂に団体責任者アンジェラがノー!と言い、やれやれ、ははは、

この一帯は海抜が海よりも低いほどなんだそうで、畑の中も水浸しで、
走るバスの窓の中ほどまで飛沫がかかるほどでしたよ。

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3時頃にマテーラの宿に引き上げ、shinkaiはシャワーをしてベッドに入り、
久し振りに昼間からTV映画を見ましたっけ。 あれ、何を見たっけ? 
真面目な方々は博物館や美術館に行かれた様子でしたが、ははは。


最終日の午前は予定ではマテーラの町の谷向こうのムルジャの考古学公園に
行く予定でしたが、道がぬかるんでいて歩くのが大変という事で、

近くの岩窟教会、ラ・クリプタ・デル・ペッカート・オリジナーレ・La Cripta del
Peccato Originaleに行きましたが、暗い岩窟の中に見るフレスコ画が
素晴らしかったので、またご案内いたしますね。

という事で、雨と強風のムルジャの公園はそこそこにし、バーリに向かい昼食の後、
戻りの列車、再度フレッチャビアンカに乗り帰路に。

マルケ州のロレート・Loretoの大聖堂が丘の上に見え、ここはまだ行った事なし、

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日没。  

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パドヴァに10時前に到着、コネリアーノに11時過ぎ、我が家には11時半頃と、
無事に南イタリアの旅を終え、戻りました。


最後の写真は良いお天気だった、はは、想い出のマテーラの、朝日に染まる風景を。

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2回にわたってのお付き合い、有難うございましたぁ!

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・ n.1 マテーラ周辺旅行 南イタリア・バジリカータ州 総集予告編

皆さん、お久し振りです!
9月30日から10月5日までの南イタリアはマテーラ周辺の旅行から、
少しよれよれになりましたが、5日深夜無事に戻って来ました。

ええ、少しよれよれと言うのは、6日間の前半は良いお天気だったのが、
後半はちょうどあの一帯が大雨に襲われ・・!
曇り空がとても残念な素晴らしい景色に巡り合えたり、靴がずぶぬれとか、
それにやはり電車の旅7時間半は長いですね。

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まぁ、それでも元気で初めての南イタリアの旅をしっかり味わってきました!

電車の長旅は分室ブログの方で、青いアドリア海を見て頂く事にし、
こちらでは巡った町の様子をざっと、と言っても写真を少しずつ選び出しても
70枚を越え!で、2回に分け、今回はその最初の様子をどうぞ!



朝7時24分、パドヴァ発のフレッチャビアンカの列車に乗り、
リミニ辺りから見える青いアドリア海沿岸に沿って一路南に下り、

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これは既に南イタリア、プーリア州に入った辺りと。 
スプリンクラーの散水に虹が。

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バーリ・Bariの駅前、列車は1時間以上遅れ到着は16時半頃だったと!

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西日の中をアルタムーラ・Altamuraに向かいますが、目につくのはオリーブ畑。
道脇のみならず、ずっと樹林が遥か彼方まで続くのに感嘆!

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アルタムーラの聖堂はロマネスク様式で大変有名ですし、楽しみにしていて、
そのあまりの高さに、正面側の広場が狭く全体を入れるのが大事!

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入口扉の装飾は素晴らしかったのですがぁぁ、

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内部は金ぴかバロック様式になっていて、あれま・・。



アルタムーラの町はまたパンで大変有名ですが、広場脇のインフォメーションが
我らグループを、というより、馴染みのガイドさんを見つけ、
皆にパンを1つづつサーヴィスしてくれ、皆大喜び!

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頂いたのは右側の大きなのではなく、左に見える小さい方ね、はは、念のため。



既にとっぷり暮れた中を、ワイン博物館にもなっているカンティーナに。
古く閉まっていたカンティーナを、ここに見える兄弟が買い取り、修復し、
かっての道具類や掘り出し物を整備し、保存しているもので、

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彼らの情熱が迸るような説明で、15度のワインのお味見も。
売っているワインは、肥料も何も使わずの昔ながらの葡萄栽培法の農家の
数少ないワインで、味もすっきり強く、が所謂芳醇な味とは少し違うタイプと。

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とっぷり暮れ、灯が灯る聖堂前を再度通り、

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バスに乗り込み、5泊するマテーラの宿に。 この日はチェックインも後回し、
ただ手を洗ったのみで食堂に直行、はは、夕食をね。
なかなか美味しいものを、たくさん頂けたホテルでしたよ。

翌朝6時半にホテルを出て、写真を撮りに出た時の様子で、
左に各国の旗が見える所が我らのホテルで、3年前に改装したとかで、
部屋の内装もすっきり、水回りのお湯の出方も素晴らしく、

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それに何よりも旧市街の中心、ヴィットリオ・ヴェネト広場に100mほど
の位置にあり、これが何よりでした!



ヴィットリオ・ヴェネト広場から見上げる、朝の月。

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広場に面する古い教会の鐘楼。

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旧市街の北の端サンタゴスティーノ教会付近から見る眺めで、
一番高台に町の聖堂があり、徐々に流れ下る家並み。

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10月1日の日の出。

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この日は一日マテーラ見学で、ヴィットリオ・ヴェネト広場のすぐ脇の見晴らし台
グエリッキオ・L.Guerricchioからの眺め、正面に聖堂。

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マテーラの町はヴィットリオ・ヴェネト広場周辺と、向かいの聖堂周辺が高く、
サッソ・バリサーノ・Sasso Barisanoと呼ばれる中心部が低いのですね。
で、上でご覧頂いたびっしりの家並、高低差のある家並となります。

そして東側の谷沿いの道ヴィア・マドンナ・デッレ・ヴィルトゥに出て南に下り、
岩窟の教会・キエーザ・ルペストゥレと呼ばれるうちの一つ、
マドンナ・デッレ・ヴィルトゥを見学。

ここは大変奥深く層も重なる教会で、フレスコ画も残っていましたが、

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シチーリアの彫刻家が自分の作品を幾つも展示していて、それがなんとまぁ、
どれもが一番良い場所を占めているのでね、かなり目障り・・!



これは隣接の、サン・ニコロ・デイ・グレーチ教会の方。

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そして谷沿いの道をずっと歩き町の南側に出ると、一帯はサッソ・カヴェオーゾ・
Sasso Caveosoと呼ばれる、西側の高台からの家並みが下る風景となります。

サン・ピエトロ・カヴェオーゾ教会脇のアーチを抜け谷沿いの道に出て、
ヴィーコ・ソリターリオの洞窟の家、かって農民たちの住んだ古い住居の見物を。

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順番を待っていると、階段を降りて来た東洋人のグループがあり、周囲の仲間が
日本人と違う?と私に尋ねるので、日本のどちらからお出でになりました?
と声をかけると、熊本、名古屋、あっちこっちからですよ、と。

そして日本からですか?と逆に尋ねられ、いえ、イタリアに住んでいるので、
と言っていると、最後に来た中年男性がにやにや笑いながら、
お姉さん、お元気そうで結構ですねぇ!  はぁ、お陰様で!

すると傍で聞いていたファウストが、あれはあんたの昔の彼か?というので、
冗談じゃぁねぇよ!  皆で大笑いになりましたが、ははは、
遠い南イタリアで、日本人団体さんと会うとは思いもしませんでしたねぇ!



狭い家の中にグループ全部46人が一緒に入れられ!身動きも余りできずで
説明を聞き、そろそろと見て回りますが、

今見えるここが入り口扉からの大きな部屋で、夫婦と、一家族平均6人の子供、
軒の下に唯一の換気窓があり、

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こちらが脇にあった小さな台所、表に向いた上に小さな窓があり、

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上に見えた部屋右奥にこの小さなダブルベッド、高い足代は床の湿気を避ける為で、
ハンモックの中身はトウモロコシの皮、赤ちゃんの揺らしベッドはベッドの足元に、
手前右の箪笥の抽斗は、子供たちのベッドでもあり、

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部屋の左奥にロバの囲い場所があり、

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部屋の一番奥に、他の家畜の小さな囲い部屋があり、その隣に小さな
穴倉みたいな部屋があり、仲間は家畜の為だろうと言ってたのですが、

よく見れなかったので翌日マテーラに一人で居残った時もう一度見学に行き、
一人でゆっくり見て、係の人に尋ねましたら、そこで堆肥を作っていたと!

狭い一部屋みたいな所で一家族、平均8人が暮らし、それに家畜、堆肥小屋、
家の中の空気、衛生状態、臭気はどんなだったのかと思いました。



谷を挟んで東側の現在州の考古学公園一帯となっているムルジャ・Murgia地区。
マテーラに住民が住み着き始めた当時はこちら東側だったのだそうで、
谷底を流れる川の水を運びに通った道筋が元になった道が稲妻のように見えます。

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川底に近い所に吊り橋がかかり、何年か前迄はトレッキングコースに利用されて
いたのだそうですが、事故があったとかで現在は閉鎖中。



最後の午前、今見える頂上辺りに行きましたが、ここからの眺めはまさに絶景で、
というより衝撃的な眺めで、東側の洞窟跡はそんなに数は見えずなのが、
西の現在の町を谷越に眺めると、今の町の下層にずらっと暗く穴が何層にもなって
続いているのが見え、その迫力に少しぞくっとした程!

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公園での写真は次回最後にご覧頂きますが、
この写真の中程から左側から奥にかけての、現在の町の新地区の下辺り、
サッソ・カヴェオーゾの下の層に広がっておりました。

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こちらは町の聖堂、13世紀のロマネスク様式で知られていますが、天井部の落下が
あっての長い修復期間を置き、つい2年ほど前から再公開されているのだそうですが、

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ここも中は金ぴかの華やかなものとなっておりました。



聖堂前広場から眺める、最初に町のパノラマを眺めた西、グエリッキオも見え、
奥中程左に大きな糸杉が見えるあの少し左、白に小さなアーチが2つ見える辺り。

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如何、この家並?! ちょうど真ん中辺が一番低い辺りで、ここを通るのが
ヴィア・フィオレンティーニ・Via Fiorentiniで、

写真左端の外辺りをヴィットリオ・ヴェネト広場からのヴィア・ヴェッケリーア、
そしてヴィア・ドゥオーモと続いて、ここ聖堂前にやって来ます。



ちょうど西日が射しこむ辺り、通り抜ける道がヴィア・フィオレンティーニ。

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聖堂前広場から身を乗り出して見た、マテーラの北に広がる平野。

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鶏の形をしたマテーラ名物、クックゥ・cucùと呼ばれる笛でもあり、吊るしたり、
また磁石が付いていて冷蔵庫の前にも。

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子供が生まれると贈り物にしたり、また幸運のシンボルとしても良いのだそうで、
shinkaiもお土産に買って戻りました。



朝日を受けるサッソ・カヴェオーゾの眺め、左奥一番高い所に聖堂が。

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これはヴィットリオ・ヴェネト広場から北西に、ヴィア・サン・ビアージョ通りを
行くと直にあるサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会。

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ここも正面入り口扉周囲の装飾が見事。

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マテーラの土地、岩は石灰岩の固い物で、道石に敷かれたものは長い年月を
経てすり減り、つるつるに光り、滑りやすく、まして坂道、石段が多いので
歩くには要注意!

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来年2019年、マテーラは「ヨーロッパ文化首都」と定められ、今町は来年に向け
様々な修復突貫工事中で、町の聖堂の鐘楼も覆いを被り、クレーンが動き、
ガイドさんが、皆さん、是非また来てね! でも来年はダメよ!でしたが、ははは、

1993年に世界遺産指定を受けて後、やはり町は観光への弾みが付いた様で、

こんな3輪のタクシーが町中をちょこちょこと走っておりました。

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谷沿いをカーヴしながら続く道、朝日に輝きます。

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グループでは行かなかった洞窟教会の一つ、マドンナ・デ・イドゥリスも翌日に。

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ランフランキ邸・Palazzo Lanfranchi横のパノラマ地点では、男性5人が
ドローンを飛ばせ撮影中で、ほら、シニョーラを撮れ!と賑やか、ははは。

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どの様に手元に写るのか見せて貰いましたが、う~ん、まさに最新兵器!


という所で、バジリカータ旅行のその1を終え、次回に。

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今回新しく記事アップは出来ませんでしたが、

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