・ マテーラ・Matera ・ 洞窟住居と、マテーラの町について

1993年世界遺産に指定され、2019年は「ヨーロッパの文化首都」に指名され、
全世界からの注目を浴び、再度力強く再生の道を歩んでいるマテーラの町ですが、

つい70年ほど前までは、その生活状態の貧困さ、悲惨な衛生状態などから
「国の恥」と呼ばれていたのでした。

先回の旅行全体の総集編でも、洞窟住居見学を何枚かの写真でご覧頂きましたが、
その後あれこれマテーラについてのサイトを読み、旅行の際ガイドさんから
聞いた事などと合わせ、漸くに少しマテーラの町の成り立ちについて、
また洞窟住居についてもも少し詳しく知る事が出来たように思いますので、
再度ここにご覧頂きますね。


まずは洞窟住居の見学写真からどうぞ。 初回はグループ全員が狭い住居内に
入り込み、ゆっくり見る事も出来ずでしたが、翌日再度一人で出かけました。
この写真はサイトから拝借の、見学した「ヴィーコ・ソリターリオの洞窟住居」
のある位置が良く分かる物を。 

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つまりこの家はいわば2階にあり、今の開いている扉の斜め上に見える窓が
住居全体の大きな換気窓で、左に張り出す岩に小さな穴が見えますね。
これが台所の上に開いている窓です。

左側の岩にあちこち開いている窓、そして下の1階部分にある扉は、元の住居入り口
であり、住居博物館の前を左に延びる道にも、元住居跡の扉が見えます。



入口を入ると、こんな感じに一部屋があり、

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右手前奥に夫婦のベッドがあり、左奥に見える黒い箪笥は穀類を貯蔵していた物で、

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部屋の角にも、奥にも掘り込んで作った棚があり、様々な生活用品が並び、
黒い箪笥の前にあるのは、モミ突きの臼と、粉に挽く臼ですね。



ベッドの脚は高く、これは洞窟内の湿気を避ける為で、小さいお丸も見えます。

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ベッドの奥に見えた大きなお丸で、蓋も見え。 多分用途は大の方なんだろうと。

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洞窟住居について最初に問題提起したのは、1945年に刊行されたカルロ・レーヴィ・
Carlo Leviの「神はエヴォラに止まりぬ」と言われますが、
彼はファッシスト政権に対する反対運動から、1935~36年マテーラ近くに流刑となり、
その時に見たマテーラの悲惨な状況を書いたのでした。

狭い家の中に家畜と同居、上下水道がない非衛生さ、貧困に覆われた生活を。



ベッドの足元に見えた、赤ちゃんの揺りベッド。

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左側、ダブルベッドの足元の向かい側には、馬、ラバ、ロバなどが同居で、
彼らは農民にとって耕作の動力源であり、耕地への移動手段でもあり、
また同居すると家の中が暖かいからという・・!

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最初、こうした洞窟住居の住民、また当時マテーラの住民の殆どが農民だったと
聞き、一体どこに農地があるのかと不思議に思ったほどでしたが、
町の一番高い位置にある聖堂から遥かに農地が見え、いささか納得。
でも、こんなに遠くまで出かけるの?!と。

続く日、マテーラから近郊に出かける時に、一旦町を出はずれると素晴らしい
農地風景が広がるのは、こちらの第2部で見て頂いた通り

と、今回見たサイトの1968年のRAIのドキュメンタリーにその答えを見つけました。
家の中から引きだす馬の映像に、家の近くに農地を持つ者は朝日と共に働きに
出かけ、家から10キロ、20キロに農地のあるものはまだ暗いうちから出かける。
南部の農民たちはマラリアと山賊を恐れ、農地に住むことは無かった、と。

そして一日の労働を終えた農夫を背に、家に戻る家畜たちの映像に、
農夫は休息するけれども、家畜たちはまだ農夫を運ぶ仕事が残っていると。
つまり、まさに家族の一員だった訳ですね。
犬も写りますが、犬も家族の一員だが、犬は働かない、と!



こちらは一番奥にあった小さな家畜部屋で、多分兎とか豚ちゃんだったかもで、
見た映像の中に、豚に犬の様に鎖を付けて繋ぎ、道に出している場面もあり、
右に見える小さな囲い場所で堆肥を作ったと。 これはかなりの衝撃でした!

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こういう悲惨な衛生状態から来る幼児の死亡率は非常に高く、国平均が1000人の
幼児に対しての死亡率が112であるのに、マテーラでは463だったと言い、
そして一番の怖い病気は、マラリアだったと。



家畜の囲いの近くにあったと覚えている、穿き古した靴。

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こちらは家の前部、壁際に見えるのは左がタンスで、子供たちのベッドでもあり、
まだ小さくて棚に寝れる間はで、右が結婚の時に主婦が持って来た櫃ですね。

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櫃の上の壁には、聖人たちの肖像画がかかり、櫃の上に見える道具は、真ん中に
小さな炭、または燃えさしを入れた鉢を置き、ベッドの掛け布団の間に差し込み、
冬ベッドを温めたもの、ですね。

そして手前に見えるのが、


家の中の唯一のテーブルで、ここで家族全員が食事をしたのだと。 見える大きな
一皿がすべてで、家の主人と長男がやはりしっかり食べることが出来、

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チビちゃんなどはお余りを、という状況の様で、ドキュメンタリーの映像、
父親が大きなパンをナイフで薄く切り分けるのを皆がそれぞれに齧っている、
の説明では、ここではプリモもセコンドもすべてパン、と言ってましたね。


そうそう、そしてパンは大きな一抱えもある、ぷっくりと山形に膨らんだパンで、
各家で焼くのではなく、どうやらこれはパンの店に頼んで焼いて貰っていた様子。

で、各家で準備し、最後に表面に各主婦、家の印を押し付けていた意味が判明、
つまり焼けたパンをそれぞれに配達するときの目安でもあると分かりました。

ガイドさんが、土地の土産にもなる「ククー」という鶏の形をした子供の玩具、
でもあり、婚約の時に女性に渡す、とか、子供が生まれた時のお祝いとか、
または単純な幸運の印にもなる、ものの他に、

パンに押す各自のイニシャル等を刻んだ木の印があると言い、実際に見ましたが、
3~4cmの丸い印が、10cm程の長さの握り棒の先に付いているもので、
単に聞いただけでは、何となし趣味的な物なのか、と思っていたのでした。


向かいの壁際には、機織り機が見え、

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その足元、一番手前に見えるのが、真ん中に炭を入れ周囲に木の縁が付いた唯一の
暖房機で、これに足を載せ暖まったのだそう。

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奥には洗濯板も見えますが、写真の一番左端の、四角い囲みに穴が開いているのは、
天水を貯める地下槽から水を汲み上げる場所で、



これが、入り口扉の脇にあった、天水を地下槽に導く通路ですね。

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雨樋などからも受けたのでしょうが、今回町見学の時に見たのは、樋受け、支えに
動物の骨が使われているのをガイドさんが教えてくれましたが、
サイトではもっと凄まじく、人骨が使われているのも見ました。

が、マテーラの洞窟住居を説明するのに、「生きた人間の上に死人がいる」
というのがあり、実際に見た開けた場所にあった中世の墓地、
現在はセメントで塞がれていましたが、下の層には洞窟住居がある訳です。

読んだ別のサイトにあったのは、古くは洞窟住居内に埋葬した事もあるのだそうで、
「骨」はいくらでもあった、というのですね。
貧しくて、壺が欠けても穴を塞いで、という様な生活をしていた人々には、
使える、ご先祖さまの有難い骨だったのかも、で。 いえ、これは冗談ではなく・・。


ずっと貧しいマテーラの農民生活について書いていますが、なぜこんなに、
というのも多少は分かったと思う、マテーラの歴史も含め書きますね。

マテーラに人々が最初に住み着いたのは新石器時代と言われ、これは町の対岸、
グラビーナ・gravina・谷、渓谷と呼ばれる向かい側の高地に、町の発祥と
見られる先史時代の村落の跡があり、洞窟を住居として使っていたと。

その後時を経て、切り出した石を洞窟の前に積み上げて拡張、という方法、
これを「フオーリ・テッラ・地上(生活)」と呼び、洞窟の中を拡張しつつ、
切り出した石を前に積む、というのは現在に至るまで続けられた方法で、

町をパノラマで見ると、四角い家が層になって集積している様に見えますが、
表から見ると普通の家に見えるのが、奥にはどこもが洞窟を持っているそうで!

つまり約7000年に渡り途切れることなく、この地での人間の生活が続けられている、
という事なのですね。

紀元前6世紀頃、他のターラントとか、今回大雨できちんと訪問できなかった
メタポント辺りはマーニャ・グレーチャと呼ばれるギリシャの移民の土地であり、

彼らが築いた原始的な町、チヴィタ・Civitaと呼ばれた場所は一番高い、
13世紀に現在の聖堂が建設された場所なんだそう。

ローマ期にはチヴィタスと呼ばれる城壁で囲まれた古いサッシ群が出来、これが
中世を経て拡張され、堅固になりつつ、現在の2つのサッソ・カヴェオーゾと、
サッソ・バリサーノが建設されたという事の様です。

洞窟教会が多く建設され大きな働きをするのは7世紀頃からで、ベネデッティーノ派、
ギリシャ・ビザンティンの修道僧たちがイスラム圏から大勢移動して来た事にあり、
特にビザンティン勢は出身がカッパドッキアとか、アナトーリア、アルメーニアなど、
既に洞窟内に住む文化を持っており、その中に洞窟を掘る経験豊かな人々が
いたのであろうと。 

こうして、礼拝堂、教会、聖堂、修道院、教室に至るまでを苦行者たちは
掘ったのでしたが、

実質的に町の人々はやはり経済状態が許す限りは、「地上に」住居を作り、
洞窟は様々な物置とかカンティーナ、家畜小屋として利用を。

そして1663年マテーラはバジリカータ州の首都となり、1806年にポテンツァに
首都が移るまで繁栄し、町にとって一番良い時期となります。
現在町に見られるバロック形式の教会や大きな立派な建物はその時代を反映
した物ですが、

首都が移った後1800年以降1952年まで、町は長い凋落退廃期間を過ごし、
農業の周期的な危機や政治的な没落も輪をかけ、人口増加も手伝い、

経済的落剝により「地上」住居から洞窟住宅生活に戻り、元々貧しかった
農民たちの生活は悲惨さを増し、どの部屋も住いとなり、どの洞窟も
家畜との同居、というありさまに落ち込みます。



再度洞窟住居の見学写真に戻りますが、
こちらが家の入口上に設けられた、いわば大部屋に唯一の換気窓で、

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家に入った左手にこの台所があり、

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下から燃やす火口が3つ、

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上に開いている小さな窓。 そして所狭しと並ぶ台所道具。
料理する材料がたくさんあったのか、と思いますが・・。

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家の見学を終え出る時に、隣にネヴィエーラがありますよ、と言われ、なに?
と見に行くと、氷室がありました。 隣に並ぶのは、農民たちが使った荷車。

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天井が高く、何か別の目的で掘ったのか、何かの跡を利用したのか、と
思いますが、

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片隅に深い穴があり、ここを氷室として使っていた様子。

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壁にサッシの古い写真が。

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洞窟住宅として残し、公開しているのはここだけでなく、たくさんある様で、
実際道を歩いていると、「洞窟住宅」としてバールやレストラン、またB&B、ホテル
として利用している所も多く、

ここからは洞窟住宅として公開している様子のあれこれを。

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こちらは、shinkaiが見学した家ではなく、場所はもっと南西になるようですが、
「カザルヌオーヴォ・Casalnuovoの洞窟住居」として公開しているもので、

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これは3段階に下がりながら彫られ、カンティーナや家畜小屋の場所も別になり、
とはいえ、やはり同じ洞窟内ですが、
部屋も比較的広いのが3つほどある、というもの。

何千年にもなるであろうというのですが、確かに記録があるのは1474年だそうで、
長年住んでいた子孫代々、どんどん掘って拡張していった、という事でしょうね。
サイトはこちらに。
https://www.youtube.com/watch?v=rIJxYOdPkvc



あれこれ長々と書いて来ましたが、この洞窟住居群サッシ・sassi、
(sasso・岩の複数形)の悲惨な生活は1952年まで続きます。

1945年にカルロ・レーヴィの書いた告発の書「神はエボリに止まりぬ」が
切っ掛けとなり、政治家たちの注意を引き、遂に動き始め、

1952年に首相アルチデ・デ・ガスペリ・Alcide De Gasperiの元に、
「特別法サッシ立ち退き」が発動され、町の住民3分の2に当たる17000人が、
町の外に作られた新しい住宅地の住宅に引っ越しを強制されることに。

様々な配慮がなされて作られた家、住宅地ですが、今までの生活を捨てる住民、
とりわけ生活の困窮さに慣れた老人たちには厳しいものがあったようです。

新しい住宅地は町の外の平野、町を望める位置にあり、農民達の持っていた
小地所に造られ、安い賃貸金で、かっての古い住宅は国有財産となり、
現在も番号が打たれた扉が閉まっています。

20年ほどに渡って続けられた洞窟住宅からの引っ越しですが、住民が居住時も
問題だった一帯が、閉鎖されると逆にまた問題となり、崩壊、鼠の活動等など、

一方マテーラのこの一帯で撮影されたたくさんの映画が世界の人々の関心を引き、
地元の若者たちの目覚め、美的、文化的な素晴らしさの認識が始まり、
80年代後半になり、サッシ群への復帰が始まりました。

勿論元の住居には戻れずで、利用の復興計画を提出し、それがOKとなると
低金利で金融機関が利用できる、という事で、現在たくさん見られる店、ホテル、
レストランなど等、かなりの数が再利用されている様子です。

そして古いサッシの貧しい生活から離れ、問題であった文盲率の高さも、
学校に通うようになり徐々に改良され、
これも未来につながる子供、若者たちの意識を高めたのですね。


一時は「国の恥」とまで言われ、いわば大手術を受けた町ですが、
1993年のユネスコの世界遺産認定を機にますます観光客が増え始め、
来年はついに「ヨーロッパの文化首都」となる、
この長~い人類史上類を見ない古い古い町が復活しつつあります。

とここに書ける事を、門外漢の私ですが、とても嬉しく思います!! 
いわばどん底から這い上がって来たのですものね。

マテーラの町を尋ね、見た事によって出た疑問の答えを知りたくあれこれ読み、
国の助けを受け、歩みは遅くとも、立派に地元の人々により活発な町に
なりつつある、それが良く理解でき、良かったです。

治安の心配はなく、食べ物はたっぷりで、美味しさに溢れています。
どうぞ、お出かけ下さ~い!!



最後は、狭い洞窟住宅の中で、10人が食事をしている所を。
子供たちの笑顔がとても印象的で、ご覧頂きたかったのです。

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貧しい洞窟住宅の説明に、ありきたりの「貧しくとも幸せに」という言葉ではなく、
「かっての太古からの伝統生活の中にあったサッシの魂」、という一節がありました。


古い写真や、ドキュメンタリーを見た印象的なサイトはこちら。
国の恥からユネスコの世界遺産、そして2019年のヨーロッパの文化首都に」

中で見れる1968年のヴィデオのアドレスは分かりにくいかと、こちらに。
長く、50分位ありますので、せめて最初に出てくるかってのマテーラの
様子だけでもどうぞ。

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