・ n.1 トッレキアーラの城、パルマ ・ 美しく、守備堅固、そして愛の巣の

9月下旬の快晴の日、かねてより念願のパルマの南にあるトッレキアーラの城を
訪ねることが出来たので、今回と次回の2度に分けて様子をご覧頂きますね。

まずはかなり離れた国道筋を行きながら右手に見えて来た城の威容を。

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小高い丘の上に位置し、朝の陽を浴びすっくと立ちあがる素晴らしい姿で、
これが見えた時は、おお!とちょっとした感激!



こちらは城の下の駐車場からの眺め。

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地図をどうぞ。 パルマからだと19km程の距離で、車で24,5分でしょうか。

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トッレキアーラから北に囲った、フェリーノ・Felino、サーラ・バガンツァ・Sala Baganza、
ノチェート・Noceto等に、トッレキアーラの城を築いたピエール・マリーア・デ・ロッシ2世
Pier Maria de'Rossi II(1413-1482)の持つ要塞、城があった土地で、

伯爵デ・ロッシ家の本拠地、城はパルマの北サン・セコンド・San Secondoにあり、
ここに妻アントーニア・トレッリ・Antonia Torelliと、彼女との間に生まれた10人、
息子7人と娘3人が住んでいて、

も一つ北に見えるロッカビアンカ・Roccabiancaにも城があり、トッレキアーラと共に
ピエール・マリーアの愛人として5世紀後の今も名が残るビアンカ・ペッレグリーニ・
Bianca Pellegriniの冬の住まい、として知られている物。

とのっけから少しややこしい事を書きましたが、それらは徐々にご説明を。

実はトッレキアーラの城、2人の愛人について、こちらに一度書いてますのでどうぞ。
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462632651.html



駐車場から城への坂道をゆっくりと上り、

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右手上に城が見えてきた所。

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見下ろす耕された平地の畑。

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坂道を突き辺りまで上り、折り返してまた少し上に、そしてここに城の門が。

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大きなアーチの門は馬車、荷車や騎乗が通り、左の小さなアーチは歩兵、一般人用
でしょうが、いずれも跳ね橋の跡が見えるので、元々は手前に堀があったのですね。

この高台の地には13世紀に既に要塞があり、パルマ一帯の領主たちが築いたり、
攻められ破壊されたりが何度か繰り返された、戦術的に有利な地だった訳ですね。
そして1448年から、当時パルマ一帯に5分の1の領土を持つピエール・マリーアが、
自分の力を示威する城を築き始めた訳で、街道筋から見えたあの素晴らしい威容も
良く納得できる場所、姿であり。

このトッレキアーラの城は美しさと共に、とりわけ愛人との愛の巣としての評価が先に
大きく出て、勿論それも城の内装の美しさに関係しているのですけど、

武人として大変に優秀で、「マニーフィコ・Magnifico・偉大なる、素晴らしい」と
称賛されたピエール・マリーアが築いた、一帯の敵対する領主達に対する守備固めも
十分な、単なる領土内の美しい城では無かった事をまず見て頂きますね。



門を入るとこんな様子で、右に見えるのが城の教会サン・ニコーデモ・San Nicodemo、
ここにピエール・マリーア、そしてビアンカも葬られているとの事で、

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城に行くには左のアーチをくぐり、



中はトンネル状のかなり急な坂道を上ります。

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城全体の様子が良く分かる上空からの写真をどうぞ。
城、要塞の中心は一段と高い位置にあり、海抜278m、その周囲を城壁が囲み、
最初の門が左下に見え、門から左下の道に沿って土地の高低を利用した壁が続き、
右下には元々からあった集落、また家臣たちの屋敷でもあったのかがあり、
かってはこの周囲も城壁で囲われていて、つまり3重の城壁に囲まれていた訳ですね。

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上でご覧頂いた様に門をくぐり教会前広場に出て、長いトンネル状の坂道を上りますが、
ここは2階部分が住居になっていて、後程、で右下の塔、城中心部への入り口に当たる
リヴェッリーノの塔・Rivellinoの前に出ます。
塔の前に橋が見えますが、ここも元々は跳ね橋で、右にほんの少し堀が見えますね。

塔の門をくぐると、ここから左側に城中心部の壁を見上げつつの長い坂道となり、
奥の角を左に曲がった所に、城中心への入り口があります。

つまり中心部に達するには、坂の下から上って来て、門を通り、トンネルを上り、門を通り、
また坂道、曲がって漸くに入口、という、戦術的にも良く考えられた行程が続きます。

中心は4隅に塔を持ち、北西の角が一番高い主塔のレオーネの塔・Leone、日本の城で
言う天守閣に当たり、最後のいざという時は城主家族の避難所にもなる所で、 
40mの高さ、他の3つの塔と同じ高さの上に6mの上階が。



こちらがトンネルの2階部分に当たる住居で、多分兵士たちの詰め所でもあったかと。

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トンネルを出て来て、見上げる城郭部の高さ。

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こちらが中心部への入り口のリヴェッリーノの塔で、やはり2つの入り口と跳ね橋の跡。

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上部の窓、つまり兵士たちの見張りの窓でもあった訳ですが、その下の切れ込み部分、
とても美的なアクセントでもあるのですが、上部をご覧になると、板張りで穴が開く様に
なっており、ここがいわゆる狭間で、弓を打ったり、上から石や熱湯を落とす場所ですね。

他の壁に見える小さな細い隙間は、石弓を打つための物と言い、
跳ね橋も全部で3つというのですが、一つは記憶になく、ただ北西の主塔がドンジョン、
というので、上階に上る前に何かそれに相当するものがあったのかも、と。



そして塔の手前の深い堀の跡。 現在はここしか残っておらずですが、当時はぐるっと
中心部を取り囲んでいたと言い、これらの改修は16世紀の末に行われたのだそう。

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堀は空堀だったそうで、それもピエール・マリーアの、外からの侵入者が堀の水に隠れて、
というのを恐れての空堀だったと。

16世紀末の改修で、城壁も一番外側のは取り壊され、2周目のは低くされたそうで、
現在見える南側の外に付き出した大きなテラス2つも、その時に増築されたものと。
つまり愛人たちの時代には、外で月を見る、という様な事は無かったのですね、はい。



塔の下の門をくぐると、こんな石畳の坂道で、も一つ上に門が見えます。
現在は塔の内側の右に切符売り場が。

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坂道を上りながら、見上げる城郭。 ここにもすべて見回りの道が付き、狭間も。

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こんな風に上って来て、角を回ると、

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北西の塔の角で、そして南の角に。 

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塔の間を繋ぐ壁に2つの入り口が見えますが、



北側の入り口内は厩舎で、両側にこんな風に上に飼い葉入れと、横に木の水入れ、
全部で8~10頭の馬がOKになっていたと。

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入り口前の細長い広場もかなり位置が高く、西の風景がこんな風に。

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東西に細長い内庭、「コルティーレ・ドノーレ・栄誉の内庭」。 南側は1階2階とも
ロッジャになっていて、現在はこの内庭でコンサートなども開催されているそう。

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北側には大きなアーチで開け、ここから我らは2階に。

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上がって、資料展示室のような所で見た、城の姿がぐるっと回る3D方式の奴で、
なんと呼ぶのか言葉が出ず、へへ、 余りサイトでも見れない城の北側の姿を。

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そこから続いていた部屋が、ジョコリエーリの大広間・Salone dei Giocolieri.
曲芸師たちの大広間、とでもいうのか、広間の周囲の壁一面に軽業、曲芸師たちの
遊ぶ姿が描かれていて、

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真ん中にこんな甲冑の展示も。 見事な装飾が施された甲冑ですが、
やはりいつも思うのは、当時のイタリア人達の体の小さかった様子ですね。

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続く部屋が、見たかった「金の寝室」で、まずは全体の様子が分かりやすいこれを。

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中央の扉が「ジョコリエーリたちの大広間」に続き、その左の扉が西の部屋部屋に連絡。

実はイタリア版ウィキの東西南北の説明が間違っていて! うん、もうっ! 塔の位置や
この寝室のフレスコ画の位置を確かめる為にも、グーグル・マップも開き、通った道順、
行程を思い起こしつつ、はぁ、大汗だったのです。

なぜって、この部屋のフレスコ画の下の半円の部分は一連の彼らの物語ですから、
最初のなれそめの場面と、結末がある訳でして・・!



これは西側で、部屋の下側はこんな風に陶板装飾で埋められ、その上が半円の彼らのお話、
そしてその上が帆型に区切られ、ビアンカが巡礼姿で、ピエール・マリーアの持ち城を
尋ねて回るという・・、大変に煌びやかで美しい装飾なのです。

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部屋は東西に長いので、陶板、フレスコ画の長さはこんな風に変化しますが。

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東側、まずはなれそめのお二人で、中央に目隠しをしたキューピッドが弓に矢をつがえ、
その先にビアンカ(1417-1480)がいて、向かいにピエール・マリーア。 彼女に恋した彼。

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2人がミラノの、ヴィスコンティ家の最後の女性、フランチェスコ・スフォルツァと結婚した
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティの宮廷のお付きお供で、1440年頃に知り合った様で、

彼女は既にメルキオッレ・ディ・アルルーノ・Melchiorre di Arlunoの妻で、夫はかなり
年長だったと書いたのもあり、子供3人、
うち最後のオッタヴィアーノ・Ottavianoは、多分ピエール・マリーアの子であろうといい、
事実ピエール・マリーアは1464年の遺言で、トッレキアーラの城を彼に残しますが、
先に亡くなり・・。
ビアンカは当時23歳、そして彼は27歳。

ピエール・マリーアは1428年、15歳の時にアントーニア・トレッリ・Antonia Torelliと
結婚しており、花嫁は7歳年上の当時22歳!で、上記した様に既に10人の子持ち!!

フランチェスコ・スフォルツァのお気に入りで、彼の下で傭兵隊長として優れた働きをし、
ヴェネツィア共和国との戦いにも5回も大きな勝利をおさめるという、素晴らしい騎士で、
そんなこんなで、2人は激しい恋に落ちたのでしょうね。 彼がパルマに戻るのに、
いつかは分かりませんが、ビアンカは従います。



半円形の中心に2人の主人公が描かれていて、その両脇には愛のキューピッドが
様々に遊んでおり、その背後にピエール・マリーアの持ち城が描かれていますが、

上の場面の右側は、こんな風にトッレキアーラの城なのですね。 キューピッドが
遊んでいるのはクジャクなんだそうで。 

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ただフレスコ画装飾のみでなく、真ん中の浮彫も使った様子、そして周囲の縁取り
部分の漆喰細工の細かさにもご留意を。



西側、右に跪いたピエール・マリーアが自分の剣をビアンカに捧げ、忠誠を誓います。

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そう、まさに中世の騎士道物語で、実在の人物のお話がこうして描かれている、と
いう点でもイタリアに唯一の例なんだそうで、はぁ。
それにこの場面も真ん中の浮彫りの建物の中には彫像も収まり、両脇には陶板も。



北側、ビアンカが跪いたピエール・マリーアにローリエの王冠を授けている所。
合戦で勝利を収めた彼を讃えているのでしょうか。
窓の格子にはラテン語で「aeternum・永遠に」と書かれていると。

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そして南側、「曲芸師たちの大広間」から入ってくると正面に見える部分で、
両脇に立つ2人は正装で、ビアンカは花嫁姿で冠を被っており、
2人の間には窓が描かれ、その丘の上にトッレキアーラの城が見えるのだそう。

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という、まさに永遠の愛を誓う2人が繰り返し描かれていて、画家はクレモナの
ベネデット・ベンボ・Benedetto Bemboが、1462年に描いたものだそうですが、

ビアンカの顔はいくつもが黒く変色しており、多分白色の成分が化学変化を起こした
ものと見られ、それも残念。

そして当時「マニフィコ」と呼ばれた程のピエール・マリーアがどんな顔をしていたのか、
肖像画も見つからず、当時彼が有名な金細工師に注文したという、2人の肖像メダルも
散逸しているのだそうで、

この最後の正装姿の彼の顔が少し見えるのを幸いに、切り取って見ましたが、
これです、どんなでしょうか、多少はね、ははは。 彼は49歳、彼女45歳、ふ~む。

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既に20年一緒の2人で、未だにこの熱愛純情というか、愛を誓う間柄ね、はぁ。



所で、あれこれ写真を探していて、こんなのを見つけ、ぎゃ!と言いそうでしたが、
はは、落ち着いて調べて見ると、これは同じピエール・マリーア・ロッシでも3世で、

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(1504-1547)サン・セコンドの侯爵、伯爵になった方で、我らのピエール・マリーアの
ひ孫に当たります。 
ちょっと家系の経緯がややこしいのでここでは詳細を省略しますが、



上の絵はパルミジャニーノの絵から抜き出し、また反転させて使っていて、
実物が素晴らしいので、こちらに。 

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1539年パルミジャニーノ作で、妻のカミッラ・ゴンザーガと3人の子の肖像と共に、
マドリッドのプラド美術館に収蔵との事で、これもまた不思議な経由ですね。



最後に「金の寝室」のテラコッタの陶板の壁装飾についてですが、金の、と言われる元は
この陶板に金箔が貼ってあった事に由来します。

アラベスク模様の様にX字形の物が一番多く、これが一枚おきに置かれ大きな斜めの模様を
作り、ライオンが後ろ足で立つ姿は、ピエール・マリーア・デ・ロッシの紋章。
城の塔が見えるのが、ビアンカ・ペッレグリーニの紋章、そしてリボンが巻きついた物で、

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リボンに書いてある文字は、「Nunc et semper・今も、そして ずっと」。



ライオンの立ち姿の陶板の、ライオンの首の所に青い色が見えますね。なのでライオンに
金箔をはってあり、周囲は紋章通り、青い色に塗ってあったのではないかと。

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これが有名な重なる二つのハートで、周囲に見える文字はDigne et in aeternum、
「真実、そして永遠に」。  ハートに金箔が張ってあったのでしょうねぇ。

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上部のフレスコ画も華やかですが、所々の金箔が小さくキラキラというのも、
本当に素敵だったことでしょうね。



部屋の南西隅に小さな窓があり、壁にも別の人物像が描かれているのが見えますが、
多分ここは仕切られた小さな部屋で、ピエール・マリーアの小さな書斎だったと。

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壁の陶板の位置も木製で、蝶番で開く様になっていて、多分物入れですね、
壁のモノクロの人物像はラテン語の詩人ヴィルジーリオとテレンツィオ、そして
神話的な大力の主エルコレとサムソンで、つまりピエール・マリーアの知性と体力の
強さを語るというのですが、彼の理想だったのかも。

木のパネルは人物像で埋められており、ダンテ、アリオストロ、プラトン、ソクラテス等で、
引き出せる板には小さな絵があり、「そう、男だ」と。

傭兵隊長として次々の戦争、合戦に出かけ、怪我もし、晩年には大きく運が傾く
彼の人生ですが、こんなモットーを読むと、如何にも己を律し続ける騎士道精神の
男の姿が垣間見えるようで、

「愛の巣」というのも、単なる若い頃の愛人との生活のみでなく、
彼の人生を支え続けたビアンカの姿も思いうかびます。

という所で、今回を終わり、次回に続けま~す。


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