・ n.2 サン・クイリコ・ドルチャ 再訪 ・ 中世街道の主要地点

先回に続き、トスカーナはローマに至る街道筋の主要地点であった
サン・クイリコ・ドルチャ・San Quirico d'Orciaのご案内を。

町中を通り抜ける現在のダンテ・アリギエーリ通りは、かってイギリスの
カンタベリーからローマに至る大巡礼道のヴィア・フランチージェナ・
Via Francigenaが通りましたが、

今日はその通りの北の端近くにあるパラッツォ・キージ・Chigi邸のご案内から。

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ご覧の様に、古い中世の町中にあってちょっと場違いな印象も受ける建物ですが、
第2次大戦時に爆撃を受け、長い15年の年月をかけて修復された後現在は市役所と
なっている物で、17世紀のバロック様式の由緒ある物。内部見学できます。



建設注文主は枢機卿フラービオ・キージ・Flabio Chigi(1631-1693)この方。

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教皇アレッサンドロ7世(1599-1667 237代教皇就任1655-)の甥にあたり、
叔父さんのファビオ・キージが教皇になった翌年宗教界に、その翌1657年には
枢機卿にという方で、36年間の枢機卿在任の間に5回のコンクラーヴェ・
新教皇を選ぶ選挙に参加したものの教皇にはなれず。

常に「カルディナル・ネポーテ・Cardinal nepote」と呼ばれた方だそうで。
「ネポーテ・ニポーテ・甥」に関わらず、教皇が一族の身内を引き立てる事を
ネポティズモと呼びますが、どうやら彼もそういった一人であったのかもですね。


キージ・Chigiという姓はシエナ出身の貴族で、15~16世紀にかけての大銀行家、
実業家でもあったアゴスティーノ・キージ・Agostinoが大変有名ですが、

現在ローマに残るヴィッラ・ファルネジーナ・Villa Farnesina、
後に偉大なる枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼによって買い取られ、
ファルネジーナの名で呼ばれる豪華な大邸宅、現在アッカデミア・デイ・リンチェイ、
と呼ばれる建物は、元々アゴスティーノ・キージが建てたもので、
当時はヴィッラ・キージと呼ばれ、 また絶世の美女インペリアとの関係が有名で。

実業家としては、羊毛の染色に必要な明礬鉱を発見した事が、それ迄は
明礬は輸入に頼っていたのが地元産が使えるようになり、これが
フィレンツェの羊毛産業の発展に大きな貢献をした事が挙げられる、
そのキージの一族、という事になります。

アレッサンドロ・ファルネーゼの n.1 ファルネーゼ邸 カプラローラ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467879883.html

n.2 ファルネーゼ邸 カプラローラ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467880189.html

n.3 ファルネーゼ邸 カプラローラ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467880454.html



で、サイトで見つけた記事「サン・クイリコ・ドルチャ、封土のリサーチ・枢機卿
フラーヴィオ・キージ、教皇になるのを夢見て」を読んでいて、
彼自身についてよりも周辺事情があれこれ分かり、ちょっと興味深かったのでそれを。

フラービオ・キージ枢機卿、キージ家が1677年にサン・クイリコ・ドルチャと
バーニョ・ヴィニョーニの土地と侯爵位を、メディチ家のコジモ3世から拝領し、
サン・クイリコを大巡礼道ヴィア・フランチージェナを通る事からも、
ここに大きな屋敷を作ることを思いつき、

なぜならローマへの巡礼道は単に貧しい庶民の巡礼が通るだけでなく、
大公、貴族も通る道だからで、豪華な貴族的ご接待は喜ばれると同時に
次の交際発展にも繋がりますものね!

最初はホルティ・レオニーニの庭園内に造る案もあった様ですが、
広い土地が取れず、現在の位置に落ち着いたのだそう。

と、現在ホルティ・レオニーニの中央にあるコジモ3世メディチの彫像は、元々は
パラッツォ・キージにあったものなのだそうで、はい、感謝のヨイショね。

建設は1679年に始まり、ローマから設計のカルロ・フォンターナ・Carlo Fontana
が呼ばれ、フレスコ画装飾などにも画家のチームがローマからと。

サイトで見つけた内部の礼拝堂と、廊下の装飾を。

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サイトで読んだ枢機卿のお好みは、壁の色は朱色、これは枢機卿の衣の色で、
カーテンは深紅、フレスコ画のモチーフは12星座と神話から、銀とルビー色の
なめし革で覆われた壁等とありましたが、なめし革の壁、はあり得たかもで、
オリジナルが残っていたらねぇ!

トゥレヴィーゾの銀行内に見た革細工の部屋を。
モンテ・ディ・ピエタ(公営質店)と、革装飾の部屋
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465575896.html


このパラッツォ・キージから東南の方に小路を入って行くと、かっての町の城壁、
町の門がそのまま残っている様子も見る事が出来ます。 古いご案内で。
サン・クイリコ・ドルチャ ・ 中世街道の分岐点
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461279240.html



少し長い脱線となりましたが、はい、小さなほじくりゴシップ大好きshinkaiで、はは、

さてすぐお隣にある教会コレッジャータ・collegiata、聖堂ではない物の、
それに続く位の教会で、正式にはコレッジャータ・デイ・サンティ・クイリコ・
エ・ジュリエッタ・dei Santi Quirico e Giulietta. 

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この姿はかっての巡礼道に向いた教会脇側で、入り口扉が2か所ありますが、
これはいずれも13世紀後半に行われた増改築の際に造られたもの。

元々は8世紀に遡る洗礼堂の後に建設されたピエーヴェ・Pieve・教区教会で、
現在見る姿は12世紀末の物で、一番古い壁は多分北に向かっている正面壁と
大きな入り口であろうと。

ピエーヴェ教会からコレッジャータに昇格になったのは1644年と。

で、こちら側は13世紀後半に増改築された時の物で、入口扉はジョヴァンニ・ピサーノ・
Giovanni Pisanoの作という事で、ちょうど当時シエナのドゥオーモ建設中だったそう。



この扉は手前側、つまり翼側に少し飛び出した所の扉で、

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その奥、内廊への大きな扉の右手にある、shinkaiの好きな装飾。

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窓の上の動物たちと、

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この、なんとも良い笑顔の男。 背負わされている柱の重みなんてへっちゃらさ。

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こちらが大きな素晴らしい脇扉で、

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彫りも繊細な美しい物。

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柱を支える下のライオン君と、上の左右2体の像。 こちら側の扉はいずれも
現在は閉じられていて。

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こちらが12世紀に建設のオリジナルであろうという、北に向いた正面壁。
前夜大雨の後の曇り空だったのが少し残念な写真ですが、まだ閉まっていて。

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薔薇窓の下が少し削られ入口のアーチになっているのが、計算違いだったのか、
単純に改築だったのか、疑問ですね、はは。

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脇の入り口のライオン像、左右の男性像2体、そしてこの左右のライオン像、
背の上に乗る結んだ柱の色、壁に使った白い石と色が違うのが、少し疑問でもあり。

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いつも見て、これ可愛いなぁと思うのが、向かい合った2匹の鰐で、その上の小さな
サン・クイリコ、町の名にも冠されている聖人の姿も。

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撮って来た写真を見ていて改めて気が付いた周囲の装飾の面白さ、素晴らしさで、
脇の円柱の柱頭飾りを大きく切り取ってみましたので、どうぞ。

中世風の顔や、植物、また逆に動物や鳥が向き合っている姿で、向かって左側。

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そして入口の柱の厚みの部分には。

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こちらは向かって右側。 この2枚は以前撮っていた物で、扉も開いておりました。

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向かって右の柱頭飾り部。 右端の女の顔、上の向かい合う動物たち、
そして鰐の尾の上に、向かい合う人魚の姿、可愛いでしょう?!

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以前訪問した時は扉が開いていて入ったのですが、写真禁止とあり、かなりな人で、
内陣部分までも進まずさっと出て来たので、これはサイトで見つけた写真を。

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所でウィキの説明では、正面祭壇の左側にあるというこの14世紀の祭壇画が
とても素晴らしいので、どうぞ。

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サーノ・ディ・ピエトロ・Sano di Pietro(1406-1481)というシエナ派の画家、
細密画家の作。 20世紀の初め、多くの画家の中でも彼の作品が世界的に
骨董収集家の中で欲しがられた、という画家だそう!

う~ん、何度か行って慣れてしまい、その目で見てない自分が悔しい、アホが!


所でこの祭壇画にもサン・クイリコが描かれているそうですが、どの方か分からず、
今回初めて、聖クイリコってどんな方?と調べました。

サン・クイリコ・Quirico、304年に殉教されたという、半ば伝説的でもあり、また
東方においても有名な方なのだそうで、その謂れとなると、
コレッジャータに冠された名の、サン・クイリコとジュリエッタの
ジュリエッタというのは彼の母親の名で、

ジュリエッタは由緒ある家柄の出の裕福な寡婦で、現在はトルコのイコーニオ・
Iconioに住んでいたのが、当時治世に当たっていたローマ皇帝ディオクレティアヌス・
Dioclezianoのキリスト教徒迫害で、キリスト教徒になっていた彼女は危機を悟り、
家財産を捨て、3歳の息子クイリコと女召使2人を連れて逃げ出します。

が、タルソ・Tarsoという町で発見され捕まり、転宗を迫られ、拷問を受けるものの
受けつけず、総督の前に連れ出され、棒叩きの拷問に遭うも揺らがず、
それどころか総督の膝の上にいた息子クイリコに、私もキリスト教徒だ!と言う様にと。

この言葉を聞いた総督は年少の子供を裁判所の階段に投げつけ、頭を打ち死亡と
なりますが、母親は動じず、逆に、神の栄光に先んじた感謝の祈りを捧げたため、
遂に斬首刑に、という母子の殉死の様子。

生き残った召使の1人が2人の亡骸を隠し、後年キリスト教が国教となった時に
逸話を明らかにしたというお話ですが、
ふ~む、なんとも凄い母親というか、信仰心というか・・!

という様な事を知ると、コレッジャータの北正面の扉上の、
小さなサン・クイリコ像の謂れも分かる様な気がしますし、
祭壇画の下に小さく描かれたのが、サン・クイリコの姿なのかとも。



町の北入り口から眺めるコレッジャータ。 そう、町の入り口から見えるのです。
北からはるばるやって来た巡礼たちが町に辿り着いた時にすぐ見える、という図。
感慨は一際の物だったでしょうね。

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壁に書かれた「SAN QUIRICO D’ORCIA」の文字は以前は自然に薄くなった
趣深い物だったのが、きっちりと塗り直され逆に味気ないものに、ははは。



手前脇に猫ちゃんがきちんとお座りしていて、おお、良い子だねぇ、目を開けてやぁ、

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あ~ん、あんたぁ、その目はダメよぉ! 恨めし気やんかぁ、なんぞとやっていると、

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奥からご出勤の車がやって来て、ひらっと行ってしまいましたぁ。



教会前に戻って来た時、一瞬射しこんだ朝の光。

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そんなこんなでダンテ・アリギエーリ通りを戻り、最初の
サンタ・マリーア・アッスンタ教会にまで戻りますが、

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この教会斜め前に「オスペダーレ・デッラ・スカーラ・Ospedale della Scala」
13世紀が残っていて、

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オスペダーレ・デッラ・スカーラというのは、シエナのドゥオーモの真ん前にある
古くからの巨大な病院で、現在は博物館となっている、かっては広大な領土を持つ
封建領主同様の存在だったのですね。



入口のアーチをくぐった所に内庭があり、手前に16世紀と彫られた井戸、
向かい正面の建物には左脇からの階段があり、

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こちらが東側、上のロッジャに続く階段があり、

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以前は閉まっていた階段下奥が整備され、この区域ボルゴ・Borgoの事務所か
集会所になった様子。



こちらが上のロッジャに続く階段ですが、

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以前来た時にも上って覗いてみたいと思いつつ、私有地・PPの標識があるのと、
上に洗濯物が干されているのが見えたりで、いつも断念、残念。
イタリアのサイトを見ても、いつもこの内庭のみの写真なのですね。



井戸のある背後にはこんな風に階段が付き、後ろのアーチ、多分納屋だったろう、
と思われる部分の壁が塞がれていますが、

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今回こんな写真を見つけました。 トーリング・クラブ・イタリアーナの名が入り、
いつの年代か分かりませんが、ほら、井戸のすぐ後ろの階段がないでしょう?

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きっとアーチの壁を塞ぎ、道路側からの店か何かに改装し、上の住宅用に階段を、
という事なのでしょうね。



以前見た説明板を写しているのを再度読んでみると、

シエナのサンタ・マリーア・デッラ・スカーラ病院のグランチャ・Granciaであると
同時に、サン・クイリコの主要な病院施設でもあり、
オスピーツィオ・Ospizio・徒歩旅行者の接待収容、病人、貧者の世話の
古くからのグランチャの建物が壁となり、大きな内庭、井戸、他の建物類、
そして2階に大きな梁の渡ったロッジャート・Loggiato、長い回廊がある、と。

そうなんだ、やはり今目の前に見えるだけの単なるスぺダレット・Spedaletto、
徒歩旅行者達の世話をするだけでなく、
オスペダーレ・病院で、グランチャでもあったんだと。



グランチャというのは病院が持つ広大な領地の管理をし、その収穫物などを
収める蔵も持つ、要塞を兼ねた大きな建物であるので、

きっと内庭を囲む周囲の建物はかって管理下にあった建物で、2階のあのロッジャ
だけでは無い筈、と思い、グーグルの衛星地図を調べました。

30-ssan quirico ospedale1.jpg

斜め向かいにサンタ・マリーア・アッスンタ教会があり、道に赤い印をつけた所が
アーチをくぐる入口で、内庭の向かい側の建物の屋根が背後に続く大きな物で、
その後ろには庭園も見えますね。
なので内庭の右側からの建物が奥に続き、庭園を囲む一帯がグランチャを成すもの、
だったのだろうと納得しました。


色々検索を掛けましたが余り資料が見つからずで、次回に訪問チャンスがあったら
土地の本屋さんで探してみる手もあるなぁ、と。

グランチャの大きさ、内容については。 狙いたがわず! モンティージの町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461831429.html

トスカーナで見た病院・荘園・要塞跡
http://italiashinkai.seesaa.net/article/459842925.html

古い公証人書類に残るグランチャの僧侶の姿。ファブリアーノ・イタリアの紙の郷
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461029550.html



こちらがダンテ・アリギエーリ通り、かってのヴィア・フランチージェナからの、
古い病院跡への入口アーチ。

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最後にもう一度町の地図を載せまして、

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という様な、サン・クイリコ・ドルチャの再訪記、今は一見半分眠っている様な
古い田舎町に見えるのですが、その実は奥深い様々な歴史を持ち、
繁栄した町だったのを知りますね。

オルチャの谷訪問にお出かけの時は、少しお時間を取ってご訪問下さいね。

今日の分家・絵のブログには、サン・クイリコの町のレストランご案内を。


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記録庫ブログには、 ドロミーティに 7記事 を
アップしています。

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色鉛筆+水彩画ブログには、
トスカーナの朝霧風景手直しと、サン・クイリコ・ドルチャの最良レストラン10店 を
アップしています。
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