19世紀イタリアの代表的なロマン主義画家であるアイエスの
「接吻・バーチョ・Il Bacio」について、あれこれと興味深い周辺事情が
分かりましたので、今回はそれのご案内を。
こちらが今回の話題、ブレラ絵画館のお宝である 「接吻・バーチョ」 1859年作
キャンバスに油彩 112X88cm
単に「バーチョ」と呼び習わされている作品ですが、実際には
「イル・バーチョ。 青春の逸話。 14世紀の衣装」 というタイトルとなっていて、
画家はヴェネツィア生まれのフランチェスコ・アイエスで、現在フィレンツェの
ウッフィッツィ美術館に残る自画像71歳(1862年)の時の物。
つまり「接吻」の発表後3年に当たりますね。
作品はアルフォンソ・マリーア・ヴィスコンティ・ディ・サリチェート・Alfonso Maria
Visconti di Saliceto伯爵の注文によって描かれた物で、
この伯爵は12~13世紀にミラノ公国を治めたヴィスコンティ家の、2次の分枝に当たる
方なのだそう。
で、ヴィットリオ・エマヌエレ2世のミラノ入場の3か月後、オーストリアからの
第2次イタリア独立戦争時の1859年の9月9日に、ブレラ絵画館で公開されたと。
普通は絵画制作の裏事情には余り興味がないのですが、
あれこれヴェネツィア共和国の歴史の逸話も描いているアイエスの生年が1791年と
いうのに目が留まり、なんと1796年のヴェネツィア共和国崩壊間際に
生まれたのだなぁと気が付き、
「バーチョ」の作品についてあれこれ書かれているのがすべて当時の時代背景に
密接に繋がっている事に気が付き、
それはまぁ、どの作品も当時の社会背景を背負ってはいる訳ですが、
この作品と、もう2枚ある、そうなんです、実は「バーチョ」はバージョンの違うのが
他に2枚あるのにも興味を持ち、
今回はそのお話も含めて、時代背景と絵の関係について、という事で。
で、アイエスはヴェネツィアで生まれ、晩年に残した自伝「私の記憶」によると、
母親はムラーノ島の女性でキアーラ・トルチェッラン・Chiara Torcellan、
父親はフランス系(ベルギー?)の漁師ジョヴァンニ・Giovanniで、5人兄弟で、
大変貧しい家庭の生まれだった様。
で彼はミラノの母方の伯母、古物商で芸術作品のコレクションをしていたフランチェスコ・
ビナスコ・Francesco Binascoと結婚していた伯母の元に預けられ、
この伯父が彼の芸術的才能を見出し、自分の市場でも役に立つというので修復技術を
学ばせ、同時にザノッティ・Zanottiについてデッサンを学び、彼の死後は
フランチェスコ・マジョット・Maggiotto、ヴェネツィア後期の画家、について学びます。
つまり12歳位から絵を学び始め、18歳でコンクールに入賞、ローマで一年間学び、
23歳位までローマに滞在、既にこの頃には画家として仕事を受けていた事も分かりますし、
30代に入るとミラノに移り、サロンに出入りし、多くの知己を得ていた様子。
そして当時の北イタリアは、1796年から97年にかけてのナポレオンとオーストリアとの
交渉の結果ヴェネツィア共和国は消滅し、ナポレオン没後はオーストリアの属国である
ロンバルド=ヴェネト王国となり、イタリアはサルデーニャ王国、両シチリア王国、
トスカーナ大公国、教皇領、等などに分割され、
次第に自由主義運動が芽生え、イタリア統一戦争にと引き継がれていきます。
そういった世相を背景に生きていたアイエスの様々な作品があり、
ここに1859年作の今回の主役「バーチョ」の第1作を。
若い2人の恋人が情熱的に接吻をしている姿ですが、2人の様子から伝わってくるのは
あわただしく出かける若者、多分戦闘に参加しに出かける若者と、美しい水色の
ドレスを着た若い女性の別れの接吻、の気配ですね。
アイエスはミラノのサロンにおいて、愛国心ある画家として有名だったんだそうで、
イタリア統一運動における、カミール・カヴール、ジュゼッペ・ガリバルディと並ぶ
「イタリア統一の三傑」の1人であるジュゼッペ・マッツィーニ・Giuseppe Mazziniは、
アイエスを「イタリア国家しそうが主張した歴史絵画学の校長である」と評したそう。
当時サルデーニャ王国の首相であったカミーロ・カヴールは、フランスのナポレオン3世
との密約、プロムビエールの秘密協定を結び、これは半オーストリア同盟の形成であり、
1859年にはオーストリアとのイタリア独立の第2次戦争となり、ロンバルディアを奪還し、
トスカーナを含むイタリア中部の併合にも成功する、という世の動き。
で、この一見若者たちの情熱溢れる「接吻」に見える奥には、
フランスと組んで対オーストリアに立ち上がり、イタリア独立を目指す、という
ヴィスコンティ伯爵の意図が込められている、というのですね。
フランスの3色旗のブルーは女性の水色のドレスで表され、戦闘に出かける兵士の
腰には短刀も見え、別れの接吻の意図はぼやかされてはいるものの明確に
イタリア国民に伝わり、またこの曖昧さから当局の検閲を逃れた、と言います。
最初にこれを読んだ時、かなり強引な深読みではないか、と思ったshinkaiでしたが、
次の2~3作目のバージョンを見ると、アイエスの意図がはっきりと伝わり、納得を。
で、こちらが第2作めの「バーチョ」 1861年 125X94,5cm
1作目との大きな違いは、女性のドレスは白に変わり、若者のタイツは濃い目の赤で、
袖口や肩の後ろに緑色が見えませんか?
元々イタリアの赤、白、緑の3色旗は、ナポレオンがイタリア侵攻の際に青、白、赤を
緑に替えて使ったものなのだそうで、ほのかに「イタリア」が見えて来ています。
前作の1859年以来のイタリアの変化は、1860年にガリバルディの千人隊(赤シャツ隊)
のシチーリアへ、イタリア南部への遠征であり、ブルボン朝を破り、イタリアの大部分の
領土がガリバルディによって征服され、それをサルデーニャ王に献上し、
1861年にはイタリア王国の成立と。
そして第3作めの「バーチョ」 1867年 118,4X88,6cm
ここで女性のドレスは白から水色に変わっていますが、若者の方は完全に緑のマント、
赤のタイツ、そして白色の布が階段に!
まさにイタリアの3色旗の意図が明確に出て来ますね。
そして第1作で、画面の左下にうっすらと見える人影、いささか不安印象をもたらす
人影ですが、
2作目、3作目となると次第に人影がはっきりと見え、階段を下りてゆく老いた女性、
召使の影、若者と別れを告げる女性を気遣う召使かも、と分かる姿に。
イタリア王国が成立したものの、機能し始めると様々な問題提出が吹き出し始め、
工業化、不平等による階級闘争の激化等などで、なかなか統一国家とはなり難く。
1866年のプロイセン=オーストリア戦争に参戦し、オーストリアが破れた事で
戦勝国となり、結果的にヴェネツィアを獲得(第3次イタリア独立戦争)という状態に。
その後1870年には教皇領のローマを併合、1871年のプロイセン=フランス戦では
プロイセンに与し戦勝国となり、ローマを首都として遷都を。
という道をたどる訳ですが、
第1作目から大評判をとり、圧倒的な人気を得たこの絵は、水彩画の印刷バージョンも
出て、若い女性の部屋の壁に飾られたり、 壁の小さなくぼみに見える像はガリバルディで、
この絵はブレラにあり、貧しい部屋の様々な小道具の描写の優しさに、思わず同行した
友と、ほら、見て!と微笑ましく見たのをよく覚えています。
この絵のタイトルは「悲しい予感・胸騒ぎ」というタイトルで、戦闘に参加している彼の
写真を見つめている少女ですし、
こちらは「悲しい小説」。 憧れ、思い出を籠めて、アイエスの絵を眺める若い女性。
これはルキーノ・ヴィスコンティ監督の1954年の映画「夏の嵐」の一場面で、
若きオーストリア将校と恋に落ちたヴェネツィア貴族の婦人、彼の不実さに翻弄され、
最後は半ば狂乱の余り彼を密告する年上の女性を描いていて、
この接吻シーンはまさにヴィスコンティらしく、アイエスのスタイルで。
所でこの日本語タイトル「夏の嵐」は、オリジナルは「Senso・センソ・官能」ですが、
オーストリア統治化のヴェネツィアの様子、フェニーチェ劇場で対オーストリアの
ビラが撒かれたり、戦闘場面もありで、イタリア独立戦争当時の様子が偲ばれました。
ちょっと脱線ですが、見つけたこの絵はアイエス描く所のカロリーナ・ズッキ・
Carolina Zucchi像で、1825年作 60x53cm
カロリーナは女優でもあり、ミラノのリトグラフ製作者で、当時ミラノのすべての
芸術家たちが通うサロンを自宅開催していた計理士の娘で、
このサロンでアイエスはドニゼッティやベッリーニと知り合い、彼女とも。
彼女は既に1823年頃からアイエスのアトリエに生徒として、またモデルとしても通い、
かのラファエッロの愛人として有名だった「パン屋の娘・フォルナリーナ」に因み、
「アイエスのフォルナリーナ」と呼ばれていた女性だそうで。
当時彼は34歳で、ちょうど上に載せた若き自画像の年代ですが、
アイエスとの「エロチックな関係」は彼の何枚かのデッサンが残っており、
はぁ、まさにポルノまがいの物で! 彼女はその後深い恋に陥ったものの、
彼は他の女性と結婚し、別の女性とも交際し、という事で終わった様子、哀れ。
所で「バーチョ」の第1作は、ブレラ絵画館で記念的なお披露目の後、25年以上に
渡ってヴィスコンティ家の邸宅を飾り、伯爵の亡くなる1年前にブレラ絵画館に寄贈
したのだそう。
第2作目は、1861年にミリウス家の為に描かれ、1867年にはパリの万博に送られ、
2008年にサザビースのオークッションで780,450シリングで落札。
この記録は2016年の4月まで破られなかったものの、
1867年の第3作は2016年にミラノのガッレリーア・ディターリアでの展示の後、
ニューヨークのクリスティーズのオークッションで865,000ドルで落札されたそう!
この第3作をアイエスは多分一番にお気に入りで、亡くなるまで手元から
離さなかったという事ですが、
他にもどうやらもう1作か2作ある様子で、その内の1つは多分アイエスの愛人の、
またやぁ! アデーレ・アッピアーニ・Adele Appianiに与えたものの様で、
その後テノール歌手のアンジェロ・マジーニの手に渡り、最後は1926年に
画廊を通して売られて行ったろう、という物。
水彩画のバージョンもあり、これはミラノのアンブロジアーナ絵画館に展示されて
いるというもので、上記のカロリーナ・ズッキの妹に贈られたものだそう。
他にも水彩で描かれ、個人的に贈られたものもあるそうで。
という様な油彩3枚、ひょっとして4枚かの「バーチョ」の行く末でしたが、
この3点がミラノのガッレリーア・ディターリア・Gallerie d’Italiaで2015年末から
2016年2月まで一堂に展示されたことがあった様子。
さぞかし観客数が多かった事と思いますが、
皆さん、ミラノのガッレリーア・ディターリアって、どこにあるかご存知ですか?
shinkaiは、えっ、どこ?という、例に寄っての無知で、はは、探しましたら、
ミラノのドゥオーモ前からガッレリーアを抜け、スカラ座前にある広場の東側にあり、
内部はこんな感じで!
わぁ~お! この時の展示はアイエスの作品が一堂に並んだ様子で、
この赤い壁紙の豪華さと共に、さぞや見事な展覧会だった事でしょう!
shinkaiは余りアイエスの作品には興味が無かったのでしたが、ボローニャの市庁舎
で見た「ルツ・Ruth」に驚き、それ以来出会った時は気を付けて見ているのですが、
今回は絵にまつわる話題と共に、良く知らなかった当時の時代背景を少しでも
知る事が出来、興味深かったです。
皆さんにも楽しんで頂けました様に!
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