・ イタリアは ・ n.1 シエナのプッブリコ宮 ・ ロッジャ・デイ・ノーヴェ

◆ 3月28日 朝のニュース ◆

コロナヴィールスの感染者は前日+4401人、計66414人、
死亡者+969人 計9134人、 治癒の方+589人 計10950人
という恐ろしい数になっていますが、
感染者数は先週よりも少し低くなっているそうで、ほんの少しの希望が。

ベルガモ、ブレーシャの状況が酷いのですが、昨日ベルガモから6名
ドイツの空軍機で、治療を受ける為ボンやケルンの病院に運ばれたそうで、
今迄に既に14名がドイツ各地の病院に運ばれているそうです。

で、1つ素晴らしいニュースを読みましたので、皆さんにも。
ジェノヴァの老人ホームで軽い感染症状を示した102歳の女性、
1917年生まれのイターリカ・グロンドーナさんは、病院で20日間治療を
受けた後治癒して、退院されたそう。

このニュースは世界に広がり、希望を齎したと言いますから、既にご存知の
方もおいでかもですね。
彼女はダンスと音楽が好きで、フレディ・マーキュリーとヴァレンティーノ・ロッシの
ファンだそうで、こんな強い彼女にはコロナヴィールスも退散したのだろうと、
ニック・ネームは「ハイランダー・不死身」となったそう。
これはどうやらアメリカのマスコミが付けたのでしょうね。

今日はお天気が良く、うららかな春の陽射しが窓の外に広がり、木々の花も
先始め、新芽が一日一日濃い色になっているのが見えます。 辛抱!

日本も東京の感染者が急に増えているそうですが、どうぞしっかり自衛し、
良く食べ、良く寝、人ごみは避ける、マスクは必ず、これぐらいは大丈夫、
という考えはなしで、頑張って下さいね、 お願い致します!!

世界中が一日も良い方向に向かいます様に!!

**********


今日は2年前に行ったシエナのプッブリコ宮、現市役所であり、内部に博物館が
ある、カンポ広場に面したプッブリコ宮。

この写真はカンポ広場側からの眺めで、皆さんもよくご存じと思いますが、

1-piazza-del-campo-siena.jpg



建物裏のピアッツァ・デル・メルカート・Piazza del Mercatoから見ると
こんな感じで、この最上階にあるロッジァ・デイ・ノーヴェ・Loggia dei Nove
をご案内致しますね。

2-Piazza_del_mercato,_siena_02_retro_palazzo_pubblico.jpg

3-DSC01419.jpg

数年前に改修され、それ以降公開されているのだろうと思います。

shinkaiは知らずに行き、偶然知り、上ったという事でした。
はぁ、なんとかの高上りで、ははは。



こちらが見つけたプッブリコ宮の図で、感覚が分かり易い様に逆に、
つまりカンポ広場から見た時の様にしています。

4-20ebbddaa3eb734f19e149afbc9f2488.jpg

左下にでっぱっている四角が、カンポ広場で夏に行われる「パリオ・Palio」で
問題のカーヴ、騎手の落馬の多いサン・マルティーノの礼拝堂・San Martino.

建物内部で見学できる市博物館は2階部分で、真ん中手前の小分けされた部分、
そして右手前と、真ん中の奥の部分ですね。
そして新しく「リソルジメント・イタリア国家統一」に関する展示部屋が出来ていたのは、
多分左手前の部屋だろうと。

今回は最初は単純にロッジャのご案内を、と考えていたのがあれこれ見ている内に
新しく知った事や、説明の良く分かるサイトがあったので、
また別にご案内する事にし、その時に図に部屋の名も書き込みますね。

で、ロッジャに上がるには、中央左の壁の間に細い階段が見えますね、
あれを上ります。

シエナのパリオ 2018.7.2 TV中継から
http://www.italiashiho.site/archives/20180706-1.html



これがその階段で、これは上から見ていますが、そうかなりの急傾斜で長いのです!

5-DSC09979_01_GF.jpg



このフレスコ画は、階段上り口にあったもので、1481年作とされる「聖母子像」
画家はネロッチョ・ディ・バルトロメーオ・ランディ・Neroccio di Bartolomeo Landi.
なかなか素晴らしいでしょう?!

6-DSC09980_01_GF.jpg



実はこの階段を上りかけた所で、上から降りてきた女性が「閉まっている」と言い、
あれま、と思いつつ上がり、ガラス戸の重いのを押しても開かずで、
降りかけたかの時に係りの女性が昇って来て鍵を開けてくれたのですね。

何せイタリアの博物館、美術館の管理の方たちはお喋りに忙しく、はは、
こんな事がよくあるので、こちらも慣れっこで・・!


で、ロッジャはこんな様子で、

7-DSC09981_01_GF.jpg

8-S28_4898_GF.jpg

広いでしょう?!


つまりこのロッジャは、シモーネ・マルティーニ描く素晴らしい聖母子と諸聖人の
「マエスタ・Maesta」の絵のある部屋の上、という事になりますね。

で、ロッジャの名が「ロッジャ・デイ・ノーヴェ・9」といい、1348年からあり、
休日以外はこのプッブリコ宮を離れる事を禁じられていた9人の執政官達が
レクリエーションが出来る様に、という物だったそう。

で俄然興味を持ったshinkai. 「9人の執政官たち」というのは、
1287年から1355年にかけての約68年間続いたシエナの政治体制を
指している事、この時代にシエナは一番の繁栄期を迎え、
このプッブリコ宮を始め、ドゥオモ、たくさんの建物類が建設された時代だった、

というのを改めて知り、
私の頭の中のジグソー・パズルの片の1つがぴちっと嵌った感じで~す。

自分でご案内している、
「天国の門」 ・ シエナのドゥオーモ
http://www.italiashiho.site/archives/20180716-1.html

シエナのドゥオーモ博物館 と ファッチャトーネの上から
http://www.italiashiho.site/archives/20180711-1.html

シエナの朝  カンポ広場からサン・ドメニコ聖堂へ
http://www.italiashiho.site/archives/20180701-1.html

にシエナの繁栄期についてあれこれ書いているのに、「9人の政府」なる言葉を知らず、
カンポ広場について書いているのに「9の政府」とあるのに、再会しました。
調べず、分からないまま書いていた事が判明! あれま。

  とここ迄書いてきて、カンポ広場についてむくむくっと疑問が湧き、
  いつ出来た、どの位の広さ?なんぞと、泥縄式で読んでみました、ははは。

  最初に「カンポ・畑、広場」とシエナの歴史に出るのは1169年だそうで!
  土地の購入が始まり、家畜や穀物類の市が開かれ、まさにここは市民たちの
  集会に最適の場所だった様で、市としての使用が13世紀半ばまで続き、

  1262年になり、広場周辺の改良についても対策が取られるようになり、
  周囲の建物は、間を大理石の小柱で繋いだ2連か3連の窓を付けるのが義務付け、
  テラスの建設は禁止、周囲から広場への12の連絡道の完全化などなど。

  そうなんですね、既に13世紀に街の美化対策が考えられている訳で!
  こうして13世紀末から14世紀の初めにかけて、現在広場の周囲に
  見られる建物類が整えられて行き、

  現市役所であるパラッツォ・コムーネが出来たのは1298年から1310年、
  白く見える部分は大理石ですが、後はすべて煉瓦作り。

  102mの高さのマンジャの塔の建設は1325年から1348にかけてで、
  四角の角は完全に東西南北を指していると。

  で、広場の煉瓦敷きは1333年から始まり翌年完成で、
  所で広場は平たい石によって9つの細長い形に分けられていて、
  これは当時の行政を司っていた「9の政府」にあやかっているのだそうで、
  広場周辺の長さは333m、外側の舗装は1347年から48年と。

という様な事で、

プッブリコ宮にある有名なアンブロージョ・ロレンツェッティ描く壁画、
「良い政府の寓意図」というのも、この「9人の政府」を現しているというのも!

つまり今のシエナに残る素晴らしい中世の街の様子は、すべてこの
「9人の政府」が齎したものという事も!

で、その執政官9人は、休日以外はプッブリコ宮から出る事が出来ず、
このロッジャで運動したり、憂さを晴らしていた、というのが何とも可笑しく、
まさに「単身赴任のお父さん」みたいでしょ?! ははは。
まぁ、2か月毎に替わったという事なので、我慢したのでしょうが、ね。

トスカーナのスキャンダル ・シエナの子豚「チンタ」の冒険談
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466790646.html



こちらがロッジャの天井、

9-DSC09982_01_GF.jpg



では、ロッジャから見張るかす素晴らしい展望を。 ちょうど街の東南部に
向かって開けるパノラマで、下がメルカート広場。

10-S28_4891_01_GF.jpg



北側の古い家並。

11-S28_4890_GF.jpg



谷越しに開ける展望。

12-S28_4897_GF.jpg



左側、これはプッブリコ宮から延びる建物で、

13-S28_4892_GF.jpg

14-1-S28_4893_GF.jpg

奥に教会と鐘楼が見えますが、



こちら、サン・クレメンテ・イン・サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂・
San Clemente in Santa Maria dei Serviという長い名を持つ
素晴らしい教会の様で、一度は訪問をと、またのチャンスを待ちます。

14-2-BasilicaDiSanClementeInSantaMariaDeiServi3.jpg

14-3-Sienne_San_Clemente_in_Santa_Maria_dei_Servi.jpg



で、この聖堂に続く道の流れも素晴らしく、追いかけるshinkai.

15-S28_4894_GF.jpg

16-S28_4895_GF.jpg



所でロッジャの写真をサイトで探していて、こんなのを見つけました。
つまり教会ではなく、市役所での市民結婚の挙式にはこのロッジャが使われる様に
なったのか、このカップルが最初だった様子で、

17-Cattura.jpg

18-unnamed.jpg

おめでとうございま~~す!

という事で、シエナのプッブリコ宮にお出かけの時は、
是非ロッジャのパノラマも楽しんでくださいね!

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・ イタリアは ・ n.2  巴里 1550年 にようこそ!

◆ 3月25日 朝のニュース ◆

コロナヴィールスの感染者は、前日よりも+5249人 計5403o人
死亡者+743人 計6820人  治癒の方+894人 計8326人
という状況で、23日に一旦死亡者数が減りましたが、再度増加、
ただロンバルディーア州の感染者数が減ったそうです。

日本の友人達から心配のメールを頂くのですが、
必要な食料品店、スーパー、薬局、ポスト、銀行などは開いており、
買い物に出かけるのも同じ市内であれば自由で、
とにかく緊急時以外は家から出ない事、という事で、

shinkaiなどは外の勤めもなく、以前から家にいましたから、
実際にあまり危機感は感じずに、という様子です。

そして車で他所に出かけたりするには自己申告証明書、これは
ネットからダウンロードし印刷し、自分で書き込むもので、
道路封鎖の警察官に見せる事が義務付けられていて、
違反すると罰金になるそう。

中国から第3段のドクターの応援団がやって来たそうで、
先日はロシアからも貨物飛行9機が、ドクターや医薬品、マスク不足で、
を運んで来てくれた映像があり、機体には「ロシアから愛をこめて」と!

お医者さんの死亡が25人となったそうで、今大変な激務と危険の中で
働いて下さっている事に、心からの感謝です。

東京オリンピックが遂に1年ほどの延期決定となったそうで、
関係者は大変でしょうが、現在の状況としては適正な決定と思います。

とにもかくにも、世界中が戦っているこの状況が峠を越すのを
辛抱して待つしかありませんね。 

自分が出来るのは家から出ない事、頑張りましょう!


**********

サイトで偶然見つけた面白い記事をご案内しておりますが
Parigi nel Medioevo, una spettacolare ricostruzione 3D」というサイトで、

中世のパリの街の様子を3D映像に再現したDVD、
中世のパリ・Paris au Moyen Age」が数年前に
Grez Productionsにより発売されたものを紹介しているもので、
今日はそのn.2を。

1550年同時のパリには約20万人ほどの住民が住み、政治経済の
中心は現在のシテ島、街中を流れるセーヌ河の2つの中の島の内の1つ、
西側の島を中心にしていた様で、東にある小さなサン・ルイ島には
まだ住民がいなかったと。


地図に打った番号は大方サイトに写真が載っていた順で、位置が
あちこち飛びますがご勘弁を。

1-citè 1.jpg

2-citè.jpg

1. シテ島の先っちょ、 当時はこの一帯が果樹園だったのですね。
2. ノートルダム聖堂・Notre-Dame
3. ルーブル宮・Luuvre 城と書いてあり、現在の姿とは大いに違うと。
4. かなり飛んで、バスティーユの要塞・Bastille.
5. サント・シャペル聖堂
6.7. プチ・ポン・プチポンテ橋・PetitーPont とプチ・シャトレ 
8. 市宮殿、現在のコンシェルジュ・Conciergerie
9. シャンジュ橋・Pont au Change
10. 市役所・Hôtel de ville と グレーヴ広場・Place de Grève
12. グラン・シャトレ・Châtelet 裁判所

先回は正面壁が国彩色に彩られていたノートル・ダム聖堂などもありましたが、
今回のご案内は6.7.のプチ・ポン・小さな橋と、プチ・シャトレから。



6.プチ・ポン・小さな橋は、セーヌ河の左岸とシテ島を結ぶ、現在
 長さ32m、幅20mの橋ですが、当時はこんな風に木の橋で、

6-1-zoom-sur-le-petit-pont.jpg



こんな絵も見つかりました。 で橋の右に見える要塞風の建物は
プチ・シャトレ・Petit Châteletと。 
 
6-2-Le_Petit_pont_et_le_Petit_Châtelet,_1717.jpg



で、これがプチ・シャトレで、9世紀からシテ島への連絡を守っていた
2つの内の1つの要塞なんだそう。 

6-3-petit chatelet.jpg

ここではすでに橋の上の建物の並びは見えずで、



この図では、要塞も見えませんね。 要塞の無くなった年が
調べられずですが、橋と要塞が火事にあっている図がありましたです。

6-4-Le_Petit-pont_et_la_Place_du_Petit-pont,_1830.jpg



現在のプチ・ポン、1853年に架けられた橋で、

6-5-NX-32856.jpg



要塞跡の現在のプチ・シャトレ広場と、

6-7-Place_du_Châtelet_from_Tour_Saint-Jacques,_17_August_2013(1).jpg



記念塔。

6-8-Place_du_Châtelet_-_monument.jpg



プチ・ポンをシテ島側から渡っての左に見つけた、如何にも巴里風の
「プチ・シャトレ」という名のレストラン。 

6-9-il_570xN.1061939523_69ui.jpg



当時のプチ・シャトレから見たノートル・ダム聖堂。

6-sur-les-hauteurs.jpg



8.現在のコンシェルジェリー・Conciergerieに含まれるシテ宮・
 Palais de la Cité. 

8-1-le-palais-de-la-cite.jpg

10世紀から14世紀にかけてのフランス王の王宮だったのが、
ヴァンセンヌ城に移り、牢獄として使用され、ここに処刑前の
マリー・アントワネットも過ごしてのだそうで。

王宮から牢獄に、という急激な変化に驚きますが、つまり裁判所
が一部にあった為ではないかと愚考を。



こちらが現在の姿で、一番左にある塔にご留意を。

8-2-Paris,_Conciergerie_01.jpg



シテ島の北からの眺めで、現在も見える塔が並び、
城壁の内側に見えるのがシテ宮で、その奥にサン・シャペル。
2本架かる橋の右がミレール橋・Ponte Millersで、

9.左の幅広い橋がシャンジュ橋・Pont au Change.

9-1-les-ponts-au-moyen-age.jpg

シャンジュ橋はシテ島南のプチ・ポン・小さな橋に対し「大きな橋」
とも呼ばれたそうで、現在はこの橋のみが残ります。
右奥に聳えて見えるのが、サン・ジェルマン・デュプレ修道院の塔と。



シャンジュ橋の古い姿と、

9-2-Pont au Change.jpg



現在の姿。

9-3-the-pont-au-change-with.jpg



そしてコンシェルジェリーの、シャンジュ橋寄りにある時計塔と、
素晴らしい時計。 塔は1350年に建設で、ここにある時計は
フランス最古のものだそうですが、1585年に取り換えられたものと。

9-4-la torre d'orologio.jpg

9-5-orologio-conciergerie-parigi-1200x900.jpg



12. 近くなので、シャンジュ橋を渡って対岸のグラン・シャトレ・
   Grand Châteletを。 フランス革命以前の王政においての要塞で、
   裁判所の建物、警察本部もあり、それに従い監獄もあったと。

12-1-du-cote-du-chatelet.jpg

シテ島の南を守るプチ・ポンのプチ・シャトレに対しての、北を守る
このグラン・シャトレとシャンジュ橋・グラン・ポンテ・大きな橋と。



かっての姿。

12-2-gran chatelet.jpg



10.市役所・オテル・ドゥ・ヴィル・Hôtel de ville.
  元は「Maison aux piliers・メゾン・オ・キリエ・柱の家」 という
  建物だったのが、後に市役所、と呼ばれるようになったそうで、

10-1-un-plus-petit-hotel-de-ville.jpg



現在の市役所が如何に増築されているかが、良く分かりますね。

10-L'Hôtel de ville.jpg



11.市役所広場・Place de l'Hotel de Ville、元の名は
  グレーヴ広場・Place de Greve.

11-1-Place-de-Grève.jpg

当時ここは重要な商業港でありましたが、一方広場はお祭り広場でも
あり、死刑執行が行われる広場でもありました。

最初の市役所の図の右下に絞首刑に吊るされているのが見えますが、
昔shinkaiが読んだ小説に「グレーヴ広場で火刑に」とあるのが
記憶に残り、どこにある広場か調べた事があったのですが分からず、
今回ここで、そうだったのか、と納得でした。


現在の広場と市役所と。

11-2-hotel-de-ville-parigi.jpg



最後にもう1度、先回最初にご覧頂いたこの図と、

13-1-Île-de-la-Cité.jpg



その先端部分の図で、これが「王様の庭」として果樹園があり、
王のお住いのすぐ近くにまで広がっていたのだそう。

13-2-le-jardin-du-roi.jpg

この王様のお住まい、というのが良く分からずで、今回不明のまま。
右側に見える小さな中庭を挟んでの洒落た建物に、
王様がお住まいだったのかな、いつの時代に? 

またいつかグレーヴ広場同様に、答えが分かる時が来るかも!

1555年の巴里への、ひと時の回顧でしたぁ。


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◆ 3月22日 朝のニュース ◆

コロナヴィールスの感染者は、前日よりも+4821人 計42681人
死亡者+793人 計4825人  治癒の方✙943人 計6072人。
未だ大幅に増加の毎日です。

一層の封鎖状態を保つ為に、公園、コンドミニオの庭園も封鎖され、
家から200m以上は出歩かぬよう、2人以上の集合はダメ、ecc
という新しい条例が出て、4月3日迄と延長されました。

が、スーパーや食料品店、薬局、銀行、ポストなどは開いていて、
道に人の姿を見る事が殆どなく、家の近くでは車の音も聞こえません。

神父さんは既に50人亡くなっているそうで、イタリア中では
7000人以上のボランティアが働いているとの事。
キューバから52人のお医者さんが応援に来てくれているそうです。

一日も早く増加に歯止めがかかります様に!!

**********


今日は先日偶然見つけた面白い記事をご案内致しますね。
Parigi nel Medioevo, una spettacolare ricostruzione 3D」というサイトで、

中世のパリの街の様子を3D映像に再現したDVD、
「中世のパリ・Paris au Moyen Age」が数年前に
Grez Productionsにより発売されたものを紹介したもの。

1-1-Île-de-la-Cité - Copia.jpg

当時パリの街は約20万人程の住民がおり、ご覧の様に
かなり広い地域に渡り広がっていた様子で、

橋の上にも建物が立ち並び、100もの尖塔が空に延び、
ノートルダムの正面壁は未だ多彩に彩られ・・、
という当時の街の歴史の証言なのですね。

で、これを書いているshinkaiは未だパリの街を知らずで、はは、
大いに興味を持ち、どこにあるのか、今の様子は?と
写真を見ながら「いつかの時の為に」確認しつつ追いかけたのを
ここにご案内しますね。

このサイトで紹介しているのは、地図で確かめると
セーヌ川が蛇行して流れ、シテ島・L'Île de la Cité、
いわゆる中の島と呼ばれる場所とその周辺を中心に紹介していて、
実際当時の政治経済の中心はこの一帯にあったのかもしれずで、

上の写真はシテ島を西の上空から見た様子で、
数字1の島のとっぱしに現在架かっているポン・ヌフ・Pont Neuf
は当時はまだ架かっておらず、1578-1607年に建設、

シテ島の奥に位置するサン・ルイ島・Saint-Louiには住民が
まだいなかったと。



地図に打った番号は大方サイトに写真が載っていた順で、位置が
あちこち飛びますがご勘弁を。

s1-2-citè 1.jpg

s1-3-citè.jpg

1. シテ島の先っちょ、 王宮と当時はこの一帯が果樹園だったのですね。
2. ノートルダム聖堂・Notre-Dame
3. ルーブル宮・Luuvre 城と書いてあり、現在の姿とは大いに違うと。
4. かなり飛んで、バスティーユの要塞・Bastille.
5. サント・シャペル聖堂
6.7. プチ・ポン・プチポンテ橋・PetitーPont とプチ・シャトレ 
8. 市宮殿、現在のコンシェルジュ・Conciergerie
9. シャンジュ橋・Pont au Change
10. 市役所・Hôtel de ville と グレーヴ広場・Place de Grève
12. グラン・シャトレ・Châtelet 裁判所



中世のパリ、と言っても1555年というと、すでにイタリアではルネッサンス期に
入っていますが、当時のパリはね、へへ、で
まだ建設されていなかったというポン・ヌフ。 新しい橋、という意味ですってね!

1-4-pontneuf-paris4-c7947.jpg

1-5-zoom-sur-le-petit-pont.jpg



ノートルダム聖堂。 この極彩色の艶やかさ! 信じられないような。
1163~1344年のゴシック様式の建築。

2-1-plusieurs-couleurs-pour-notre-dame-de-paris.jpg

2-2-depuis-la-rue-neuve.jpg



ノートルダム聖堂前に墓地があるのですか? または以前あったとか?
当時はここに市・メルカートが開かれていた様で。

2-3-1501618-l-effervescence-du-parvis.jpg



ノートルダム聖堂正面。 

2-4-Cathédrale_Notre-Dame_de_Paris,_20_March_2014.jpg



この横からの眺めがなんとも素晴らしい物でしたが、shinkaiは観ずで・・。

2-5-cattedrale-di-notre-dame-crowdfunding-raccolta-fondi.jpg



昨年4月の炎上以後、再建に掛かっている姿ですが、
再びあの見事に美しい姿が戻ります様に!!

2-6notre-dame.jpg



現在のルーヴル美術館のあるルーブル宮・城。 現在とはかなり
様子が違い、街の西側を護る意味もあったと。

3-1-impressionnant-louvre.jpg



河岸にネスレの塔・Tour de Nesleがあり、対岸とを結んでいた、
というのですが、これはセーヌ河ではなく、ルーヴル宮の堀なんだろうか?

3-2-Tour de Nesle.jpg



現在のルーヴルの、大ピラミッド。

3-3-Le-Louvre-pyramide-cour-Napoléon-nuit-_-630x405-_-©-Thinkstock.jpg



上空からの写真を見ると、かってのルーヴル宮の位置が分かりますね。

3-4-Louvre_Paris_from_top_edit_cropped.jpg



バスティーユの要塞・Bastille. 1370年~1382年の建設で、
ルイ11世時代からずっと監獄で、拷問や処刑が行われていたと言い、
ルイ18世時代より国の監獄となったと。

4-1-La-fortezza-della-Bastiglia.jpg

今回初めてバスティーユの要塞、監獄なる建築物の姿を見て、
おお、これだったのか、と一番驚いたものです。
現在は無くなっていて、記念の塔があるというのは知っていましたが、
以前はどうだったか、というのを調べた事が無かったので。



これが1789年7月14日の怒った民衆が押し寄せ、長い闘いの後
遂にボルボン王家の独裁に対しての市民革命の発端となった図。

4-2-la-presa-della-bastiglia-rivoluzione-francese.jpg



現在の広場に立つ記念塔。

4-3-quartiere-bastiglia-parigi-1200x900.jpg



シテ島に戻り、サント・シャペル聖堂・Sainte-Chapelle.
ルイ9世により1246~1248年建設の、王宮のパラティーナ礼拝堂と
して、またキリストの処刑の際の「茨の王冠」の保管所としての物と。

5-1-la-sainte-chapelle-au-temps-des-cathedrales.jpg

「茨の王冠」ですか?! ふむ。



それはともかく、このサント・シャペルは大変ステンド・グラスが美しい事でも
知られていますね。

5-2-Sainte-Chapelle-le-alte-vetrate-della-Cappella-dedicata-a-Gesù-768x511.jpg

5-3-Sainte-Chapelle-il-rosone-768x576.jpg

見事ですねぇ、光りが射し込む時の色が見たいものです!

地図を確かめつつ見ていると、パリはそんなに大きな街ではないですよ、
と皆さんが仰る通り、意外に近く、中心は歩いて回れる程、というのが
実感できたのが、今回の収穫の1つでした。

という所で今回はお終いで、また次回を宜しくお願い致します。


*****
  
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・ イタリアの現在 ・ フェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロの聖書 

◆ 3月19日 朝のニュース ◆

現在のイタリアのコロナヴィールスによる感染者数は計28913人、
死亡者は前日✙475人の2978人、治癒された方4025人。

ロンバルディーア州のベルガモ、ブレーシャの状態が最も酷く、
看護婦さんの至急応援を願っており、ドクターも引退した方も、と
いう状態の様子。

ドクターも既に8人亡くなっているそうで、感染者数は2629人と。
多分この数字には看護婦さんも含まれていると思いますが。

中国から応援に来ているドクターの話によると、イタリアの閉鎖状態は
かなり中国に比べて緩いという事で、運動を口実に外出するのも
多いのが問題になっていて、公園なども閉じられるという事。

どうやら今の3月25日迄の全国封鎖は、学校閉鎖も含め、
4月3日以降も続く模様で、

shinkaiは3月30日の眼科の検査の後、眼鏡レンズの取り換えを
楽しみにしていたのが、これもどうやら先になりそうで、少し憂鬱。

でも、とにかく今のこの最悪状態を乗り切らない事にはね、
頑張りましょう!!

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先回パオロ・ウッチェッロの3連の絵画「サン・ロマーノの戦闘」を
ご覧頂いた際、あれこれ登場の周囲の人物像について読み、
その内のウルビーノのフェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロについて、
彼が自分の宮廷に作った図書館、そしてその蔵書にある
有名な「フェデリコダ・モンテフェルトゥロの聖書」なるものを知り、
とても美しいので今回ご案内致しますね。

参考にしたサイトは 
Capolavori della miniatura – la Bibbia di Federico da Montefeltro
と、ウィキペディア・イタリア版 
Biblioteca di Federico da Montefeltro.


1-La-Bibbia-di-Federico-da-Montefeltro.jpg

元々ウルビーノの宮廷図書館にあった蔵書は、1464年以前には
100冊を超えないほどだったというのが、フェデリコがあれこれ注文し
揃え、彼が亡くなった1482年には900冊を超える素晴らしい物と
なっていたのが、彼の財産目録からもうかがえます。

で、それにフェデリーコがフィレンツェのヴェスパシアーノ・ダ・ビスチッチ・
Vespesiano da Bisticciの本屋、工房に1475年に注文の、
ドメニコ・ギルランダイオ・Domenico Ghirlandaio
が描く10枚ほどの素晴らしい細密画を含む全部で35枚の細密画、

細部にわたるヴェスパシアーノの監修、聖書の逸話で取り上げる部分の選択も、で
作られたのがこの聖書、という事なのですね。

2-Attavante_martirio_dei_sette_fratelli_ebrei_bibl_ap_vaticana_bibbia_ms._urb_lat_2_f_174v.jpg

3-Bibbia_di_Federico_da_Montefeltro_-_BAV_Urb.Lat.1&2_-_Exodus_f27r.jpg

貝から採取の真紅色の上から金で文字を書いたり、絹のビロード布を
使ったり、留め金にはルビーをはめ込んだりと、2年をかけて作られた
この繊細で豪華な素晴らしい装飾の聖書。

2冊になったこの聖書の大きさは、47x63cmという大きさで、
使われた羊皮紙は全部で500匹の羊に及ぶそうで、
支払われた金額は3万ドゥカーティ!
当時この金額だと聖堂が建設される金額だったそうで、はい。

1472年50歳当時、傭兵隊長として高い評価を受け、支払い報酬も
多かった、というのも読んだので、「唯一存在する豪華で美しい聖書を」
と望み注文したのがよく想像できますね。


以前ご案内のこれも素晴らしい「いとも豪華なるベリー公の時祷書」
これは聖書ではありませんがやはり細密画の素晴らしさで知られ、
ページ・サイズは29x21cm、カレンダーの絵の大きさは22x14cm、

ヴェネツィア貴族グリマーニ家の日祷書、こちらも細密画で
大きさは280x215mm、

というのですから、フェデリコのこの聖書が如何に大きく豪華なもので
あった事が良く分かります。

ベリー公のいとも豪華なる時祷書
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/473369566.html

グリマーニ家の日祷書、 ヴェネツィア・マルチャーナ図書館の秘宝
http://www.italiashiho.site/article/459139463.html



その豪華さをどうぞ!

4-museo diocesano.jpg

5-Desktop.jpg

6-Miniatore_fiorentino_del_1472,_federico_da_montefeltro_durante_l'assedio_di_volterra,_biblioteca_apostolica_vaticana.jpg

7-Bibbia-di-Federico-da-Montefeltro-3.jpg



現在、このフェデリコの蔵書はヴァティカンのアポストリカ図書館の
蔵書となっており、というか、

8-Sistinehall.jpg

この聖書のみでなく、ウルビーノの宮廷にあったフェデリコの蔵書は
後にウルビーノを治めたデッラ・ローヴェレ家の蔵書と共に、
1657年に教皇アレッサンドロ7世に僅か1万スクーディで購入され、
ヴァティカンに移されたのだそう。

で、この写真を見ていて、あれ、この図書館は行った事がある、と
気が付いたshinkai、はは。 ちょうど同じ位置からの写真です。

ヴァティカン訪問 ・ 天正4少年使節のご縁により
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462596727.html



現在ウルビーノのお城、ドゥカーレ宮内の図書館では、こんな風に
ヴァーチャルで、「フェデリーコの聖書」も見れる様子。

9-UrbinoPDucale.jpg



そしてこの素晴らしい聖書は復刻され、500部印刷、現在は
12部のみがイタリアに残っているそうで。

10-Bibbia-di-Federico-da-Montefeltro-1.jpg


マルケ州の山中にルネッサンス文化を取り入れた素晴らしい宮廷を
作り、優秀な軍人、文化人でもあり、絵画、手稿本のコレクション、
芸術家たちのパトロンとしても有名だったフェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロ、

10-sPiero,_Double_portrait_of_the_Dukes_of_Urbino_02_480.jpg

彼が残した豪華な聖書、 のお話でした。


*****
  
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・イタリアの現在 ・ n.4 パオロ・ウッチェッロ「サン・ロマーノの戦闘図」   周辺あれこれ

◆ 3月16日 朝のニュース ◆

15日現在の感染者は2万人以上で、症候がある方9663人、
集中治療室に1672人、死亡者は昨日は今迄で一番多い368人、
その内ミラノだけで255人で、計1890人。
治癒された方368人増え、2335人、という事です。

コンテ首相は、この先まだ「頂上」が来るだろうが、間違った方向には
進んでいない、と、次々と救済対策案が出されています。

どうやら感染者の広がりは北イタリアから南に下がっている様子という
見解の様で、今後がまだまだ懸念されます。

ドイツもフランス、スイス、オーストリアとの国境を封鎖し、ヨーロッパは
各国毎に国境を封鎖、内部で戦いつつある状況に向かっている様子。

スペインもイタリア同様の様子で、shinkaiの6月の旅行は
9月に延期となりました。

中国はどうやら山頂を乗り越え平成に戻りつつあるようですが、
お医者さん達の援軍がイタリアにやって来ていて、マスクや扇風機、
薬なども届いているそうです。

分家の方に、イタリア現在の、めげずに頑張っている日常の様子を
載せてますので、見てやって下さいね。

そして、日本の皆さんも頑張って!!

また3日後のブログ・アップで様子をお知らせします。

*****

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いよいよパオロ・ウッチェッロ描いた所の「サン・ロマーノの戦闘図」の最終回、
3枚目の右端「フィレンツェ勢ミケーレ・アッテンドロの決定的な介入」を。

1-1-aolouccello_michelettodacotignolaengagesinbattle.jpg

こちらはパリのルーヴル博物館所蔵で、182X317cmの大きさで、
やはりテンペラ画、板絵の作品。

テンペラ画というのはご存知ですね? 教会の古い祭壇画に見かける
板絵が殆どで、ポプラ材などを使い、ジェッソ・石膏を塗り下地とし、
卵の黄身、または白身、または全卵に酢を混ぜたのを使って
粉絵の具を溶き、描きます。

使う時はかなりの粘土があるので、水で伸ばして描いたりもしますし、
現代的には油絵の具との層を重ねて使う場合もありますし、

基材としてキャンバス地が出てきて油彩画が主流になった後も、
キャンバス地にテンペラを使っている作品もあり、

マンテーニャのこの作品「死せるキリスト」などもキャンバス目を生かして
描いたもので、また遠近法を使った大胆な試みの作品と言えるかもですね。

1-2-M26_8603_GF.jpg

shinkai個人は、マンテーニャ作としてはヴェネツィアのカ・ドーロにある、
「サン・セバスティアーノ」が絵画的にも素晴らしいもの思いますが。

ピエトロ・ベンボとルネッサンスの創造展 ・ パドヴァ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461921616.html



キャンバス地にテンペラで描くと、余り絵肌に艶が出ませんが、
板で下地に石膏処理を施してあると、卵の油分でしっとりとした艶が出ます。

その上教会の祭壇画などは背景に金箔を貼った黄金背景とか、衣類の柄に
金を貼ったり鏨で打って模様を作ったりの一際豪華で煌びやかな画面に。

こういった手法をウッチェッロはこの「サン・ロマーノの戦い図」に生かし、
黄身を使った油脂分多いテンペラで、騎士たちの甲冑や、馬具などに
金や銀の金属箔を貼ったり、それも下に漆喰で盛り上げを作ったりしてで、
最後には全体にワニスをかけてもいるそうで、
一際きらきら輝く、豪華絢爛の絵作りを目指したことが分かります。

なので、上からのワニスが長年の内に茶色っぽく変色したりで、
白馬が少し黄土色がかったりの様子が見えたり、
また人物の顔よりも甲冑の方がはっきり見える、という事も見られます。



という道草で、主題の絵に戻り、上に全体をご覧頂きましたが、
こちらが今回の主役、フィレンツェ勢に勝ちを齎したもう1人の指揮官
ミケーレ・アッテンドロ・Michele Attendolo. (1370頃-1463)

2-img-1-small480.jpg

最初の画面で、ジューリアの塔に出していた斥候からの知らせにより、
急襲をかけたニコロ・ダ・トレンティーノと共にこの戦闘に参加し、
軍を分けていた一方の指揮官ですね。
ニコロの軍から襲撃が始まった事を知らせる2人の騎士により
急襲が始まった事を知り、

ミケーレは右手の指揮棒を振りかざし、援軍に駆け付ける所。
左手背後でラッパ手が進軍ラッパを吹き、旗がなびき、兵士たちが歩み出し、



アップするとこんな様子で、ミケーレはニコロと同じような派手な帽子をかぶり、
これは描いたウッチェッロ自身の好みかもで、

3-Cattura (2).jpg


shinkaiが気に入ったのはこの馬の顔! 
彼の跨る見事な黒馬は、逸って前両脚は空を掻き、口を開け背後の騎士を
グッと見つめる目は、そらぁ、行くぞぉ!と気合を入れてでもいる様子!
案外大将よりも気合が入っている感じで、つい笑ってしまいそう、ははは。


アッテンドロ一族は現ラヴェンナ県のコティニョーラ・Cotignolaの出身の
裕福な農家だったのが15世紀にミラノに移り、後にミラノ公となる
スフォルツァ家の元となります。

「スフォルツァ・Sforza」という姓は、ジャコモ・ムーツィオ・アッテンドロ・
Giacomo Muzio Attedolo(1369-1424)のその素晴らしい身体
と能力に対しニックネームとなったもので、

後年ナポリ王国の大法務官となった時にアッテンドロの姓を
スフォルツァに変えたのだそう。



ジャコモの息子が後にミラノのヴィスコンティ家唯一の後継者となっていた
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ・Bianca Maria Viscontiと結婚し、
ミラノ公となるフランチェスコ・スフォルツァ・Francesco Sforza.

4-sFrancesco_Sforza.jpg

つまりここに登場のミケーレ・アッテンドロの父親は、フランチェスコ・スフォルツァの
父親ジャコモの弟で、彼らは従弟に当たる訳ですね。

いやぁ、これを納得するのに、ミケーレと、ジャコモ、そしてフランチェスコが従弟、
と書いてあるので、あり得んでしょう? 従弟フランチェスコの父親ならば、
叔父ですものね?!

私の小さな頭の中はわやくちゃとなり、はは、自分で相関図を作りましたぁ。 
先回のフランチェスコ・ダ・モンテフェルトゥロの時も、登場人物が多くややこしく、
はい、shinkaiにはね、やはり相関図を作ったのでしたが。
スキャンして資料に置いておこう! ははは。


つまり豪農一族アッテンドロが武器を取って働くようになり、
最初は自衛の為、次には自分たちの兵を養い、そして傭兵隊長に、
という成り行きだったのでしょうが、
そんな一族、傭兵隊長からミラノ公となったのも出た、というお話で。

ミケーレ・アッテンドロは初め教皇軍で働き、1431年からフィレンツェ軍の
隊長で、このサン・ロマーノの戦いに参加、という訳ですね。

例により年齢調べで、最初の画でフィレンツエ軍が急襲攻撃をかけた際の、
もう1人の指揮官ニコロ・ダ・トレンティーノが当時82歳だったと驚いたのが、
彼ミケーレも負けておりませんで、ははは、当時62歳!
66年間の軍務歴を誇り、1434年つまり84歳まで働き、93歳で亡くなります。

彼の領土を見ると、ラツィオ州のアックワペンデンテから始まり、
カステル・フランコ・ヴェネトがあり笑いましたが、最後はヴェネツィア共和国の
元でも働いていたので、この土地を与えられたのでしょね。

ええと、パドヴァのサンタントーニオ聖堂前にあるドナテッロの
「ガッタメラータ将軍像」のガッタメラータ、ウンブリアのナルニ出身の
傭兵隊長で、最後はヴェネツィアで働いたガッタメラータの後釜で、
軍大将に任命されたのだそうで。

が1447年の戦闘でロンバルディーアのレッコ・Leccoを陥落させたものの
最後はミラノ勢に負け、格下げとなり、コネリアーノのみになったと!
きゃはは、我が町コネリアーノにお出でだったんですと。



さて、ウッチェッロの絵に戻りまして、
右側に見える騎士の一団の様子は、味方の一群がシエナ勢に急襲を
かけて戦っている、という知らせを受け、さて出陣の場面で、

7-Cattura.jpg

手前左の白馬は土を掻き、気合が乗っていて、
手前2頭の馬と、斜め背後に見える4騎士の間に、従者の姿が。



これは背後斜めの騎士たちの煌びやかな兜と、覗く目の様子を。

8-a861750e396863127f206c89893687a3.jpg

頭上の兜の飾りもそれぞれ賑わしく、洋の東西を問わず、
これが戦場における男の美学なのですよね。



こちらが馬の間に埋もれる様になり、手綱を握っている従者の姿、顔。

9-unnamed (2).jpg



そしてこちら左側では、すでに長槍を突き出し、突進を始める騎士たちがいて、
その間を走る兵士の姿、ラッパ手の顔も見え、

10-Cattura - Copia.jpg

馬のお腹の下には背後を走って行く兵士たちの脚が見えます。



こうして先に戦っていたニコロ・ダ・トレンティーノの許に援軍に行く訳ですが、
フィレンツェ軍は4000の重装備の騎士と2000の兵士、
シエナ共和国+ルッカ共和国+ミラノ公国の軍勢は明らかではない物の、
明らかに優勢だったと言います。

で、闘いは6~7時間続いただろうといい、
急襲をかけたニコロ率いるフィレンツェ勢は最初は良かったものの、
疲れてかなり押され気味になった所にミケーレ・アッテンドロの軍が
アルノ河を渡り、つまりサン・ロマーノの北を流れるアルノ河の向こうにいた訳で、
援軍を迎えたニコロ・ダ・トレンティーノは涙をこぼさんばかりに喜んだと!

まぁ82歳の年ですし、いくら元気とはいえ疲れ、ひょっとして・・と、
弱気にもなるでしょうしね、援軍が間に合って良かった、良かった!

という様子で、シエナ側は敗走にかかったのだそうで、戦果として
フィレンツェ勢は400人の騎士が捕虜に、
シエナ+ルッカ+ミラノ勢は1500人の騎士と、大勢の兵士が捕虜になったと。

つまり傭兵隊長、そしてそのお抱えの兵士達は戦場での戦いが仕事で、
死んでしまっては元も子もなくなるわけですから、
様子を見て、これはダメそう、という所で降伏するのでしょう。

捕虜となっても身代金を払うと大丈夫な訳で、その辺りが自国の為に
自国民が戦う、というのとは随分戦闘の持つ意味が違いますね。

長年傭兵として、傭兵隊長として、たくさん払ってくれる側について働き、
戦闘の様子、空気を読むのに優れた傭兵隊長たちは、
臆病と言われぬ様に勇敢に戦い、そして機を見る、戦のプロだったわけで!



という所で再び登場の、オリジナルはレオナルド・ダ・ヴィンチの下描きを、
ルーベンスが模写したという「アンギアーリの戦い」の図。

「サン・ロマーノの戦い」の8年後1440年に行われたアンギアーリの戦い」
で、真ん中こちら向きのフィレンツェ勢の騎士に左右から立ち向かう
ミラノ勢のこちら2人の騎士。

11-Peter_Paul_Ruben's_copy_of_the_lost_Battle_of_Anghiari - Copia.jpg

これはウッチェッロの絵の最初の1枚め、横並びの左の絵の右端に
戦う姿で登場のシエナ側の隊長フランチェスコ・ピッチニーニ、というのを
n.2の記事でご説明しましたが、

このデッサンの左端の隅に、馬の蹄にかからぬ様、縦の陰に隠れる様に
している男、これがなんと今回の絵の主役ミケーレ・アッテンドロと!

はぁ、ウッチェッロ描く、おとぎ話の世界の様な戦闘図と違い、
レオナルドは戦闘を実際よりもずっと勇敢に激しく描いている様ですが、

ミケーレ・アッテンドロは卑しくも傭兵隊長で、一介の兵士では
ないので、こうして這い回る図、というのは考えられず、はは、

この下図に登場の騎士名も、戦闘当時の隊長名を単純に充てた
という事かもで、その点はレオナルド様は計算に長けていたと思いますし、
ともかくこの同年代の戦闘に、同じ傭兵隊長が戦っていた、という事ですね。

サン・ロマーノの戦いはフィレンツェ勢が勝った、という事になっていますが、
シエナ勢は自分たちが勝った、とも言っているそうで、はは。

結果としては、現在も作品と画家名が残る程のパオロ・ウッチェッロと、
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、という点で、

実際の内容以上に、2つの戦闘が歴史に大きく名が残っている
という事なのかも知れません。



上からロンドン、フィレンツェ、パリに収蔵の、3枚の作品をもう1度。

12-battaglia di san romano  - Copia.jpg



何年か前、フィレンツェのウッフィツィで、多分ウッフィッツィ美術館
収蔵作の修復が済んでの記念だったかも、と思いますが、
こんな大きな画面に映し出された展示があった様子。

13-unnamed.jpg

これは素晴らしかったでしょうねぇ!!  細部が良く見え、
細部に拘ったウッチェッロにとって、改めて面目を施した様なものですね。


随分前から気にかかっていたこのウッチェッロの絵について、
今回あれこれ読む事により、絵の背後の、当時の人間達の繋がり、
傭兵隊長なるものの繋がりも分かり、とても興味深かったです。

皆様、4回に渡る長いお付き合い、有難うございました!
遥かな15世紀の時代逍遥、楽しんで頂けました様に。


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・コロナヴィールス ・ n.3 パオロ・ウッチェッロ「サン・ロマーノの戦闘図」  周辺あれこれ

◆ 3月13日 朝のニュース ◆

まずは現在のイタリアのコロナヴィールスについての様子を
お知らせしますが、相変わらず感染者、志望者共に増加で、
入院、集中治療室におられる方が7000人を超える状態だそう。

お医者さん、看護婦さんからも50人ほど感染者が出ているそうで、
対応されている医療関係の方は本当に大変だろうと、感謝を!

昨日迄の感染者 15113人 +2651人  死者 1016人 +199人 
治癒された方 1258人 +213人

フランス、ベルギーでも学校閉鎖が始まったそうで、全ヨーロッパが
何とも大変な事になりそうな様子です。

次回のブログアップの際に、また様子をお知らせいたしますね。

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さてパオロ・ウッチェッロの著名大作、板絵テンペラ画3連作の
サン・ロマーノの戦闘図」ですが、今日は真ん中部分、

フィレンツエ・ウッフィッツィ美術館収蔵の美しい、闘いの真最中の場面
「ベルナルディーノ・デッラ・カルダの落馬」を。

1-Cattura.jpg

この部分は2008年から4年の歳月をかけて修復され、色が明るくなり、
白馬の肌も見事に白く蘇って、現在ウフィッツィに展示されている様子。



ベルナルディーノ・デッラ・カルダ・Bernardino della Carda、
またはベルナルディーノ・ウバルディーニ・デッラ・カルダとも記される、
(1389-1437) ウンブリアからマルケにかけての一族出身で、
彼はグッビオ生まれの傭兵隊長。

その類まれな勇気からフィレンツエ共和国から
「マニーフィコ・偉大なる男」のニックネームを貰ったほどの男。
この1432年6月1日のサン・ロマーノの戦いの時は43歳、

シエナ、ミラノ側のルッカ共和国軍の隊長ですが、
顔が見つからないので、せめても彼の紋章を。

2-Coa_fam_ITA_ubaldini8.jpg



ウッチェッロ描く場面は、左からニコロ・ダ・トレンティーノ率いる
フィレンツェ勢が押し寄せ、騎士が付き出す黒い槍に、

3-Cattura (3).jpg

右側で応戦するルッカ勢の、白馬に跨るベルナルディーノ・デッラ・カルダが
槍を受けてのけぞり、落馬する寸前の姿。



グッと鐙に足を踏ん張り、のけぞっているのは分かるのですが、
彼の頭がどこにあるのか見極めにくく、良く見えるのを探しました。

4-1506346462379635-paolo-uccello-san-romano-anteprima.jpg

これだと分かりますね。 槍を右のお腹下に受け、左手は馬の手綱を握り、
右手は武器を手放し指を広げていて、頭は左手、肩と辿って見て下さいね、
ほぼ馬の尻尾の付け根の近い位置に、のけぞった兜の頭頂が丸く見え、
目の穴、鼻筋が見えます。

背後には、前面で戦う騎乗の騎士ではなく、歩兵の戦う姿や、
ウッチェッロが好んで描いた、円筒形の柄模様の帽子や、
画面上部、槍が立ち並ぶ左奥には、引き揚げて行く騎士たちの後姿も。

で、白馬の手前には別の馬と騎士が倒れているのも見え、



この騎士は完全に胸に槍を受けている様に見え、青い馬体にも驚きで、

5-uccello-battaglia-san-romano-uffizi.jpg



画面右側には、大将の落馬に驚き、浮足立って引き上げ始めるルッカ勢が。

6-Paolo_Uccello_-_Bernardino_della_Ciarda_Thrown_Off_His_Horse_.jpg

shinkaiは初めてウフィッツィ美術館を訪問した36年前、きゃはは、
今でも大変印象に残っている絵がたくさんありますが、
このウッチェッロの絵では、この真ん中にお尻の見える、後ろ足を蹴上げた
ピンクの馬に驚き、あっけにとられたのをよく覚えています。
わぁ~お、ピンクの馬だよ!と、ははは。

先回のニコロ・ダ・トレンティーノの突撃開始にも見えた、青光り、
緑色がかった黒馬の印象も強かったですが、ウッチェッロにとっては茶色の馬より、 
うん、この白馬2頭の間、そして手前の青い色の馬、背後の甲冑の前では
馬の色はピンクだ、という画家の考えで決めたのでしょうね。
で、これに跨っている騎士の長槍は、赤というより濃い目のピンクで、ははは。



背後の平野で、狩りをする若者たちに駆り立てられた兎や、前に逃げる兎を
追いかけるグレーハウンド犬、そのまた後ろをまるで兎が犬を追い駆ける様な、
あれこれ細部も興味深いですが、

丘の下の道を左から回り込んでいく長槍のフィレンツェ勢も見えますね。

7-unnamed (1).jpg



で、画面左下の、緑枠で囲った所、ここに

8-Cattura - Copia.jpg



長槍の折れた部分と見えるものが地面にあり、ここにパオロ・ウッチェッロの
サインが、PAVLI VGIELI OPVS と記したのがあります。

9-Cattura.jpg

真ん中の1枚にのみサインしたのかどうか、他の絵にはサインが無い様子で、
これもウッフィッツィ美術館がこの絵を手元に置きたかった理由の1つかも。

それにしても、やはりこの真ん中の1枚は構図が大きいと云うか、
緊張みなぎる、そして華麗な、3枚の内でも一番華麗な絵と思います。

私めは「落馬・ディザルチョーナメント・disarucionamento」という
難しい、はは、単語を覚えましたぁ。



この絵の主役となったベルナルディーノ・ウバルディーニ・デッラ・カルダは、
サン・ロマーノの戦いの落馬では死亡しておらず、
5年後フェッラーラの西に位置するステッラータ・Stellata、ここは
いわゆる国境で要塞があり、そこで重病を得てフェッラーラに運ばれた所で、
48歳で亡くなっています。

所で、彼が1420年31歳の時結婚した相手がアウラ・ダ・モンテフェルトゥロ・
Aura da Montefeltroとあり、 にゃに、モンテフェルトゥロ?! 
とアンテナが立ち、読みましたら、

彼女はウルビーノの伯爵グイダントーニオ・ダ・モンテフェルトゥロ・
Guidantonioの庶出の娘で、
1420年15歳でベルナルディーノ・ウバルディーニと結婚、1422年6月7日に
生まれたのがフェデリーコ・Federico.

この孫に当たるフェデリーコを、2年後に父親のグイダントーニオが
教皇マルティーノ5世に頼み「自分の子」として嫡子にします。

というのもグイダントーニオはレンガルダ・マラテスタ・Rengarda Maletestaと
1397年に結婚したものの子供が生まれず、庶子の長女アウラのみだったのですね。
で、娘の産んだ子を自分の子として嫡子とし、後継ぎとした、という説を今回
見つけ読んだのでした。

このフェデリーコというのが後のウルビーノ領主2代目となり、ルネッサンス文化を
ウルビーノの宮廷に持ちこみ、名君の誉れも高いこの方、
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトゥロ。

10-sPiero,_Double_portrait_of_the_Dukes_of_Urbino_02_480.jpg

という事は、フェデリーコの実の父親は「サンロマーノの戦闘」で落馬し、
パオロ・ウッチェッロに描かれた事により後世にまで名の残る
ベルナルディーノ・ウバルディーニ・デッラ・カルダ、という事になります!

今迄はフェデリーコはグイドバルドの子で、妻のレンガルダのお付きの女性
エリザベッタ・デッリ・アッコマンドゥッチ・Elisabetta degli Accomanducci
との関係によって生まれた、というのが通説だったのですが、
新しい書類が発見されたとみえ、この2通り、というのをあちこちで読みました。


今回は取り分け、いわゆる傭兵隊長なるもの同士の横繋がりの関係が
どんどん広がるのが大変興味深く、
ついでにあれこれ読んで仕入れた、はは、お話のご披露も。

ほじくり返して出て來る古い時代のゴシップは、1行の文章から
ご本人が立ち現れてくる様な親密感も覚え、ワクワクしますものね、へへ。

グイドバルドの最初の結婚、つまりレンガルダとの27年間の結婚生活は、
宿敵関係のモンテフェルトゥロ家とリミニのマラテスタ家の繋がりを
良くする為にの政略結婚だった訳ですが、子が生まれないまま、
1423年に病弱の彼女は世を去り、
夫の婚姻外の子を育てた良き妻であった様ですが、

1424年に、彼は46歳でカテリーナ・コロンナ・Caterina Colonnaと
再婚します。 彼女の生年が分かりませんが、2人の間に6人の子が
生まれ、待望の嫡出子オッダントーニオ・Oddantonioが1427年に。

フェデリーコにとっては腹違いの弟という訳で、
オッダントーニオは父グイダントーニオの跡を継ぎ、初代ウルビーノ公になりますが、
1年も経たずに家臣の反乱の為殺害され、これは勿論だれのそそのかしか
分かりますよね、で、フェデリーコがウルビーノ公になるのですね。


私が少し笑ったのは、1424年にフェデリーコを嫡子とするのを認めた教皇
マルティーノ5世は、グイダントーニオの再婚相手カテリーナの叔父さんで、
しかも彼女は2年前の1422年にはミラノのフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ
公爵の許嫁だったというのです。
 
この辺り、グイダントーニオのお金と、教皇である叔父さんの計算が
しっかり働いている様ですねぇ、 という、脱線でした。


という所で、次回はパリのルーヴル博物館所蔵の
ウッチェッロの最後の1枚のご案内を。 お楽しみに!


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それもご了承下さいませ。

・コロナヴィールス ・ n.2 パオロ・ウッチェッロ 「サン・ロマーノの戦闘」  周辺あれこれ

◆ まずはイタリア旅行をお考えの方にも参考になる様、
現在のコロナヴィールスについての様子をお知らせしますね。

10日現在の様子
◆ 3月10日 朝のニュース ◆

昨日コンテ首相は記者会見を行い「もう猶予の時間はありません。
イタリアにレッド・ゾーンはなく、すべての州を保護地域に」とし、

イタリア全体に8日からのレッド・ゾーンと同じ措置が取られる事に
なりました。

「イタリアの未来は我々の手の中にある。 皆が一緒に何か全体の為に
自分の出来ることをしよう。
問題は我々の愛する人の健康であり、両親であり、息子であり、
祖父母なのです。 
今私は「自分は家に居ます」の通達にサインした所です」

という事で、4月3日まで全イタリアにおいて、美術博物館、文化施設、
劇場、映画館、ディスコテーカ、スポーツ施設、学校、教会が閉鎖されます。
スポーツ大会も中止になり、
移動も禁止になるので、仕事などで必要なのは書類が必要になりますが、
食料品等の買い物で出かけるのはOKです。

という、緊急事態になっております。
が、我が家の一帯は街中ではないので、いつも通り平静です。

昨夕発表の現在の感染者は7985人、前日に比べ +1797人、
死者 463人 +97人  治癒の方 724人 +102人。


昨日届いた日本の外務省のメールでは、ロンバルディーア州、エミーリア
ロマーニャ州、ピエモンテ州、ヴェネト州、マルケ州、サン・マリーノ国は
レベル3区域となり、渡航中止勧告となっており、

イタリア全土、ヴァティカン市国はレベル2の、不急不要の渡航は
おやめ下さい、という事でした。

はい、自分の出来る事は、つまり自分の健康に気を付け、家から出ない、
という事を守り、一日も早い終焉を願いましょう。


◆ 3月11日 朝のニュース ◆

昨日に続き、感染者、死者共に増えており、良いニュースは治癒者が増えた事位です。

10日夕時点の感染者数は8514人、+529人 という一方、10149人、1万人を超えた、
という数字も取り上げられており、死者631人 +168人、 治癒の方1004人。

オーストリア、スロヴェニアとの国境は閉鎖され、オーストリアからの国鉄、
飛行機ともなし、イギリスからの飛行機便も無しとなり、エール・フランスは
14日から止まるそうです。

ロンバルディーア州は依然として感染者数増加が止まらず、食料品、薬局は別とした
すべての店、事務所、地域交通機関も止めるように検討中との事。

ミラノの監獄を含め、感染を恐れ、一昨日からあちこちで収監者の反乱がおこり、
死者も12人、脱獄者19名という数字です。


ですが、私の住むヴェネト州トゥレヴィーゾ県のコネリアーノ、スコミーゴ村は
いたって平穏で、昨日電話で話した友人達もいつもの通りの元気で、
ただ暫くは家に居るのを多くし、本を読み、そして散歩すると言っていて、

ご心配下さる皆さま、お陰様で変わりなく元気で過ごしております。
と共に、世界中が戦っているこの戦争も、なるべく早く収束します様に!

日本にお住いの方々も、どうぞマスク、手洗いを実行され、
お元気でこの時期を乗り越えられます様、お願い致します。

という事で、暫く続けたこの速報も、次回3日後のブログ更新時に、と
いう事で、一旦お休みする事にしますね。

*****

◆ スマホで訪問して下さる皆さんにお願いを。

スマホ画面で見て頂くと、少し不都合が起こる場合もある様ですので、
一旦画面の下までスクロールし、PC版を見る、をクリックして頂けると、
ちゃんと見て頂けると思いますし、宣伝も少なくご覧頂けすので、
宜しくお願い致しま~す。

*********


先回はウッチェッロの著名な大3部作の「サン・ロマーノの戦闘図
の周辺事情、実際の戦闘が行われた場所や、絵の注文主、
そしてその後の変遷、現在の展示等についてお話しましたが、

さていよいよ、3枚の板絵それぞれの様子で、
まず一番左の場面に当たる戦闘開始場面
「ニコロ・ダ・トレンティーノ、フィレンツエ勢の先頭に」182x316cm
現在はロンドンのナショナル・ギャラリーにある作品ですね。

8-Cattura .jpg

この作品が3連作の内一番保存が良くなかった作品だそうで、
画面左下側などに地塗りが見えている部分もあるそう。

で、中央の白馬に跨り、赤布に金の模様の大きな帽子をかぶり、
指揮棒を振っているのが、フィレンツエ側指揮官を務めた
ニコロ・ダ・トレンティーノ。



そうそう、先回地図に出てきた「ジューリアの塔」覚えておられますか?
あの塔に出していたフィレンツェ軍の斥候が知らせた敵軍の様子により、
ニコロは、急襲をかける事になったのだそうで。

地面に落ちている長い槍の折れた先がそれぞれ遠近感を強調し、
これがこの絵についてまず言われる事で、
馬の馬具も、騎士たちの装いも煌びやかで、まるで現実の戦闘というより、
何か競技大会を想像させる、というのですが、

これはもう、パオロ・ウッチェッロ自身がそんな現実的な迫力よりも、
注文主の記憶に残っている、勝利の鮮やかな印象を際立たせ、
一幅の煌びやかな絵画、を目指したからではないかと。

事実、闘いの行われている背後には、花が咲き、果樹のなる
生垣が見え、その奥の草原では若者たちが狩りをしているのが見えますね。



ニコロ・ダ・トレンティーノ・Niccolò da Tolentino(1350頃~1435)は、
この戦闘のフィレンツェ勢の指揮官を務めた傭兵隊長で、
名の示す通り、北イタリアのトレント周辺の名家出身、20歳頃より
家を出て、軍務につき生きて来た男。

9-Paolo_Uccello_035.jpg

もう1人フィレンツェ勢の指揮官がいて、彼は3枚目の絵に登場の
ミケロット・アッテンドロと言いますが、これはまた次々回に。

所でこれを読んで下さっている皆さんの内で、上に書いたニコロの
生没年から年を計算された方がお有りでしょうか?
そう、彼は85歳まで生き、このサン・ロマーノの戦いの時、なんと82歳!!

いつも歴史上の人物伝を読む時には年を計算し、あれこれ
想像するのですが、彼の年には本当に驚きました! が、
若い頃からずっと報酬の良い方に付いて戦場で闘い働き続け、
この年でもね!
まぁ、それだけ元気だった、という事でもありますね。


ウッチェッロのこの3枚の板絵はテンペラ画で、それも卵の黄身を使った
油脂分多めの処方で、騎士の甲冑や、馬具にも金や銀の薄片を使い、
今見える白馬の馬具も盛り上がって見えるのは、漆喰を使い盛り上げし、
上から絵全体にワニス・樹脂をかけたりもした様で、 
つまり徹底的に、華美で煌びやかな画面を意図したのが良く分かります。



所で長年傭兵隊長としてあちこちの側で働いた彼ですが、
1431年になりフィレンツェ共和国の軍長官に任ぜられ、
1432年にこのサン・ロマーノの戦いで、勝利をもたらし、
1435年の没後、フィレンツェのサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂の
壁にアンドレア・デル・カスターニョによって彼の肖像が描かれていて、
ご覧になった方も多い筈。

10-Andrea_del_castagno,_momumento_a_niccolò_da_tolentino.jpg

彼は1434年にヴィスコンティ軍に捕まり、懲罰で意図して崖から
突き落とされ、それが原因の大きな怪我により、翌年亡くなったと。
60年間戦場で生きて来た男の死に様というのか・・。



絵の細部をどうぞ。 
左端部分。 隊長の後ろに続く若者の従者・盾持ちも優雅な衣装で、
右手に持っているのは、メディチ家から大将ニコロに送られた兜だそう。

11-cb7b7bd606e641ffd92d972b22ad890.jpg

手前青黒い馬に跨る旗持ちの持つ閃く旗にちらっと見えるのは、
ソロモンの知恵の輪。 左奥に見えるラッパ手2人、今戦闘ラッパを吹き鳴らし、



地面に既に打倒された敵の死体。 これも遠近法に従い描かれていますが、
余りにも遠近に拘り、馬や人物の大きさと比べ、小さすぎで。

12-Cattura (3).jpg



大将ニコロの右奥の騎士。 甲冑の上から素晴らしい衣を纏い、槍を構え、
そんな戦闘場面のすぐ背後には、ほら、生垣に咲いているバラの花が。

13-maxresdefault.jpg



そして今の騎士から右に視線を写した場面で、こちらは右に
白馬のシエナ勢の騎士が、上のフィレンツエの騎士が突き出した槍をかわし、
もう1人の手前の騎士と剣を交え、既に戦いが始まっています。

14-1-Paolo Uccello - The Battle of San Romano c1450-60 tempera on panel .jpg

背後の平野での若者たちの仮の様子も良く見えますが、
左上に2人の騎士が走って行くのにご留意を。



で、右の白馬の騎士はフランチェスコ・ピッチニーニ・Francesco
Piccininiと(1407頃~1449)想定される、という説明に行き当たり、
フランチェスコはシエナ側の隊長、指揮官で、

ピッチニーニ? この名前は読んだ事があるぞ、から調べ、

辿り着いたのがこのデッサン。 はい、かの有名な「アンギアーリの戦い」の
レオナルド・ダ・ヴィンチの下描きを、後年ルーベンスが模写したという物ですね。

14-2-Peter_Paul_Ruben's_copy_of_the_lost_Battle_of_Anghiari.jpg

こちらはウッチェッロの牧歌的ともいえる戦闘図に比べ、激しい、激しすぎる程の
戦闘場面で、中央のこちら向きの騎士に対し、左右から2人の騎士が挑んでいて、
その左側がフランチェスコ・ピッチニーニで、右がニコロ・ピッチニーニと!

にゃに?! ニコロ・ピッチニーニ?! 知ってるぅ!! まるでガキで、ははは、

そう、1440年の「アンギアーリの戦い」で、ミラノ側の指揮官で働いたのが
父親のニコロ・ピッチニーニで、息子フランチェスコもミラノ側で戦ったのですね。

おまけに自分のブログを読み返し、「アンギアーリの戦い」の元となったのは
サン・セポルクロの領地に、フランチェスコがちゃっかりと入り込んでいたのが
原因だったと知りましたぁ、ははは。

おまけにこのデッサンの左下で、盾の陰に馬に踏みつけられるのを逃げている男、
これが誰だったかも分かり、ははは、今回の最後に出て参りますです。

「アンギアーリの戦い」始末記と、その周辺もろもろ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461130197.html


つまり「サン・ロマーノの戦い」も、8年後の「アンギアーリの戦い」も、
元々はヴェネツィア共和国と、ミラノ公国との国境をどこにするが原因の、
「ロンバルディーア戦争」、 1423~1454年の約30年に渡る一連の
戦闘の内に含まれれる「2つの戦闘」だった訳です。

ヴェネツィア共和国側に、ナポリ王国、1450年まではフィレンツェ共和国も!
サボイア公国などが付き、
一方ミラノ公国側には、ジェノヴァ共和国、フィレンツェは1450年から、
マントヴァ侯国、ルッカ共和国、シエナ共和国などが付き、

それぞれの国の思惑により、戦闘に参加したりしなかったりで、
この「サン・ロマーノの戦闘」にはミラノ側にシエナ共和国と
ルッカ共和国が付き、ルッカ公国の攻防戦だったという事で、
フィレンツェ側は自国のみの戦いでした。
但し、自分側についている国からは相応の援助金が届いている筈で!

で、この長い戦争は1454年に取り交わされた「ローディの和平」により、
国境はアッダ河とし、当時オスマン・トルコの脅威も迫っていたのに備え、
一応国内争闘は収まった、という事なのでした。
一体幾つの戦闘が行われたのか即数えられない程で、また時間がある時に!



こちらが画面左上に見えていた騎士2人で、戦闘が始まった事を
自軍に知らせに走っている所と。

15-Cattura (4).jpg

元々フィレンツエ側はミラノ勢に比べ、圧倒的に少ない勢力と言われ、
ミラノ側全体の数は分からずですが、フィレンツェ側は4000の騎士、
2000の兵だったという事で、いよいよ戦いは佳境に入ります。

という所で今回をお終いにし、次回に続きます。

何となし、子供の頃に見に通った紙芝居みたいですが、ははは。


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・コロナヴィールス ・ n.1 パオロ・ウッチェッロ「サン・ロマーノの戦闘図」 周辺あれこれ

◆ まずはイタリア旅行をお考えの方にも参考になる様、
イタリアの現在のコロナヴィールスについての様子をお知らせします。

◆ 3月8日 朝のニュース ◆

政府は昨日ミラノを含むロンバルディーア州全部と、他州14県を赤地域と指定
すべての出入りが禁止となりました。

ロンバルディーア州以外の禁止県は、モデナ、パルマ、ピアチェンツァ、レッジョ・
エミーリア、リミニ、ペーザロ・ウルビーノ、パドヴァ、トゥレヴィーゾ、ヴェネツィア、
アレッサンドリア、アスティ、ノヴァーラ、ヴェルヴァーノ・クシオ・オッソーラ、
ヴェルチェッリ、 です。

現在の所4月3日まで上記の禁止地域措置と、イタリア全体で、映画館、劇場、
ディスコテーカが閉鎖、結婚式、お葬式の禁止となり、
上記赤地域でのバール、レストランの開店は18時まで。

昨日迄のイタリア全体の感染者数5883人、死者233人、治癒の方589人。

日本の外務省は昨日ロンバルディーア州への渡航をレベル3、渡航中止勧告、
エミーリア・ロマーニャ州、ヴェネト州はレベル2、不急不要の渡航中止勧告、
としていましたが、
多分今日のニュースで渡航中止となると思います。

既にイタリアにこの春お出かけ予定の方、とても残念ですが、
イタリアは逃げません!」ので、またの機会をお考え下さいね!!


◆ 3月9日 朝のニュース ◆

まず昨日お知らせした隔離措置となったレッド・ゾーン地域の地図を。

snew-zone-chiuse_ok2.jpg

下に見える図は、イタリア全体における禁止措置の様子で、
映画館、劇場、ディスコテーカが閉鎖、結婚式、お葬式、ミサも禁止されました。
現在の所、4月3日までと。

昨夕発表の全体の感染者数は、6387人 前日✙1326人
死者366人 +133人、 治癒された方622人。

イタリアは、死者の数では中国に続いてn.2になったそうですが、
感染者も死者も前日比が大きく、気になる所です。

土曜のレッド・ゾーンの政府発令の後、ミラノ発の南行きの最後の列車で逃げ出した
多数の方たちがいたようですが、
今朝のニュースではプーリアの知事が、帰られた人は必ず医師の診断を受ける様に、
と訴えました。 そうでないと犯罪になりますと。
受け入れる側としては、ヴィールスを持ち込まれてはたまりませんものね。

「家に居よう!」という歌が、シンガーソングライターが歌うのが
ニュースで流れました。 はい、shinkaiも家に居ます。


◆ 3月10日 朝のニュース ◆

昨日コンテ首相は記者会見を行い「もう猶予の時間はありません。
イタリアにレッド・ゾーンはなく、すべての州が保護地域に」とし、
イタリア全体に8日からのレッド・ゾーンと同じ措置が取られる事に
なりました。

「イタリアの未来は我々の手の中にある。 皆が一緒に何か全体の為に
自分の出来ることをしよう。
問題は我々の愛する人の健康であり、両親であり、息子であり、
祖父母なのです。 
今私は「自分は家に居ます」の通達にサインした所です」

という事で、4月3日まで全イタリアにおいて、美術博物館、文化施設、
劇場、映画館、ディスコテーカ、スポーツ施設、学校、教会が閉鎖されます。
スポーツ大会も中止になり、
移動も禁止になるので、仕事などで必要なのは書類が必要になりますが、
食料品等の買い物で出かけるのはOKです。

という、緊急事態になっております。
が、我が家の一帯は街中ではないので、いつも通り平静です。

昨夕発表の現在の感染者は7985人、前日に比べ +1797人、
死者 463人 +97人  治癒の方 724人 +102人。


昨日届いた外務省のメールでは、ロンバルディーア州、エミーリア
ロマーニャ州、ピエモンテ州、ヴェネト州、マルケ州、サン・マリーノ国は
レベル3区域となり、渡航中止勧告となっており、

イタリア全土、ヴァティカン市国はレベル2の、不急不要の渡航は
おやめ下さい、という事でした。

はい、自分の出来る事は、つまり自分の健康に気を付け、家から出ない、
という事を守り、一日も早い終焉を願いましょう。


明日もまた、時差の都合で、日本時間の午後4時前にアップとなります。

*****

◆ 友人からの知らせで、スマホでブログを見るとタイトルは出るけど、
それをクリックしても、記事写真のみで、記事に飛ばない、とで、
確かめると、確かにその現象が。

で、スマホで訪問して下さる皆さんにお願いです。
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ちゃんと見て頂けると思いますし、宣伝も少なくご覧頂けますので、
宜しくお願い致しま~す。

**********


15世紀のイタリア絵画、ちょうど国際ゴシック様式と呼ばれる、
ちょっとファンタスティックな趣のある絵画から、
油彩画の浸透もあり、自然な動きがあり、技術的にも一段と磨きが
かかるルネッサンス様式に移行していく、

その狭間にあり、遠近法を大いに取り入れた煌びやかな絵画、
それがパオロ・ウッチェッロ・Paolo Uccello(1397~1475)の
作品ではないでしょうか。

その彼の作品のテンペラ画の3部作、いずれも180x316~323cmの
大作で、ちょうど彼が59歳~60歳にかけてのいわば晩年、円熟期の
1438年以降に描いたのが、今回ご案内の「サン・ロマーノの戦闘」図。

1-battaglia di san romano .jpg

上から、横並べにすると左側に来る、戦闘開始場面とも言える
「ニコロ・ダ・トレンティーノ、フィレンツエ勢の先頭に」

真ん中、「ベルナルディーノ・デッラ・カルダの落馬」
これがフィレンツェのウッフィッツィ美術館にある作品で、

下、右端の「フィレンツエ勢の勝ちを決めたミケーレ・アッテンドロの攻撃」
という事で、

実際に1432年6月1日に行われたフィレンツエと、シエナの
戦闘場面を、その6年後に描いた作品、という事になります。

では「サン・ロマーノの戦い」のサン・ロマーノ・San Romanoって
一体どこにあるの? と好奇心から調べ始めたのが最初で、
戦闘に参加した騎士たち、傭兵隊長の名も調べ出すと、はは、
出るわ出るわ、興味深い事がずるずると引っ掛かり、
大いに楽しんだshinkai!
という事で、絵画のご説明というよりは、その周辺事情あれこれを。



まず戦闘が行われたという「サン・ロマーノ」ですが、赤点の場所、
フィレンツエからだと50数キロ西の、ピサ・Pisaとの中間に位置し、

2-torre giulia san romano.jpg

ジューリアの塔・Torre Giuliaという、後程名の出て來る塔が
この近くにあり、



付近を拡大するとご覧の様子で、ピサ県に含まれる「サン・ロマーノ」
という此処が戦闘の行われた場所なのですね。
北を流れる川がアルノ河で、この位置関係にちょっとご留意を。

3-map.jpg



これが「ジューリアの塔・トッレ・ジューリア」で、はい、現在も基礎部が
残っているのですね。

4-torre giulia.jpg



では、大作3部作をウッチェッロに依頼して描かせたのは誰か、と
いう事になりますが、

シエナの富裕な貴族で商業、銀行業を営むバルトリーノ・サリンベーニ・
Bartolino Salimbeniという一家が商業・銀行業をフィレンツェで
開く事にし、シエナからの移住を考え、ギベリン派の大支持者でもあったので、
様々な思惑から姓をバルトリーニ・Bartoliniに変えたのだそう。

でフィレンツエで羊毛の生産と売買で成功し、一段と富を増しますが、

1432年のサン・ロマーノの戦闘にリオナルド・バルトリーニ・サリンベーニ・
Lionardo自身、政治家でもあった様ですが、が参戦し、
フィレンツェ勢が勝って戻って来た後、6年後の1438年にパオロ・ウッチェッロに、
自分が参戦した戦闘図を依頼した、というのですね。

こちらがバルトローニ・サリンベーニ家の紋章でもある、指輪に3つの芥子の花。
彫られた文字は、「ペル・ノン・ドルミーレ・眠らない様に」

5-Via_delle_terme,_motto_e_insegna_bartolini_salimbeni,_per_non_dormire.jpg

現在もシエナの中心のカンポ広場の近く、サリンベーニ邸と呼ばれる
モンテ・パスキ・ディ・シエナ銀行の本部となっている大邸宅、要塞とも
呼ばれる建物がありますが、ここもきっと元は一族に繋がりがあるのだと。
「眠らない様に」という銀行家一族の格言は趣深いものですね。


そしてリオナルドは戦闘後すぐに建設のフィレンツエの邸宅に絵を飾ります。

現在もフィレンツェのサンタ・トリニータ広場・Piazza Santa Trinitaに
バルトリーニ・サリンベーニ邸がありますが、これは1520年からの建設なので、
リオナルドが建設の物とは別物と。

1438年に絵の支払いが行われたというのですが、値段不明です。



ウッチェッロのオリジナルの絵は上部が少しアーチを描いたようになっており、
というのも、この新しい邸宅の天井アーチを支える持ち出しがあり、
そこに嵌め込む様に、板絵自体がその様にカーブを付けた物だった様で、
現在の絵は上下辺共に真っ直ぐですから、後に切り取れらたものと。

その後息子のダミアーノ・Damanoとアンドレア・Andreaはフィレンツエの
北西にあるサンタ・マリーア・ア・クイント・Santa Maria a Quinto、
現在のセスト・フィオレンティーノ市・Sesto Fiorentinoに含まれる位置
と思いますが、ここに夏の郊外の家を建設し、絵をそこに運び込みます。

で、夏の避暑のお遊びにでも来たロレンツォ・デメディチ・イル・マニーフィコが、
または評判を聞き込み、見に来たのかもしれずで、
この絵に惚れこみ、執拗に譲る様に迫ったのだそうで。
美しいものに目の無い、鑑識眼の鋭い彼の事ですしね。

6-Lorenzo_de_Medici.jpg

勿論銀行家である、狡猾、勘定高い息子達は先々の事も考え、
絵をロレンツォ・イル・マニーフィコ・Lorenzo il Magnificoに
1484年に売り渡し、



ロレンツォは現在のメディチ・リッカルディ宮・Palazzo Medici Riccardi
当時はメディチ家の物だった建物の、1階にある大きな自分の部屋、
カメラ・cameraとあるので寝室、に飾っていたそうで、
1492年のロレンツォの亡後すぐの財産目録にその様に記されていたと。

7-1-Palazzo_medici_riccardi_33.jpg

その後サヴォナローラの扇動により、屋敷が略奪破壊の憂き目に遭ったり、
再度メディチ家のフィレンツエ追放があったりの後、時代の変遷の中で
屋敷は放棄された状態でいたのを、

1659年に裕福な銀行家で、メディチ家に忠実なガブリエッロ・リッカルディ・
Gabriello Riccardiが4万スクーディで買い取り、
この時に家具類一切等も売られ、現在の名メディチ・リッカルディ宮
となり残ります。

メディチ・リッカルディ宮 ・ フィレンツェ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464156876.html


所で今回の我らが主役、パオロ・ウッチェッロの「サン・ロマーノの戦闘図」は
20世紀中、ロレンツォ・ディ・メディチの祖父コジモ・イル・ヴェッキオ・
Cosimo il Vecchioが注文依頼し、それが遺産として
伝わっていた物、と考えられていたそうで。

近年、記録の新発掘で判明し、リオナルド・バルトリーニ・サリンベーニ
が自身の戦闘参加の記憶から注文した事情も判明したのだそう。



3枚の板絵は1769年から開館されていたウッフィッツィ美術館に、
1784年に到着します。

7-2-battaglia di san romano  - Copia.jpg

が3枚は主題が似すぎていると、一番保存の良い中央部の
「ベルナルディーノ・デッラ・カルダの落馬」182X323cmを残し、

左の「ニコロ・ダ・トレンティーノ、フィレンツエ勢の先頭に」
182x316cmを、1857年ロンドンのナショナル・ギャラリーに、

右の「フィレンツエ勢の勝ちを決めたミケーレ・アッテンドロの攻撃」
182x316cmは、1863年にパリのルーヴル博物館に売られた、
という事なのですね。

という所で導入部を終え、次回に絵に登場の人物像も交え
お話を進めたいと思いますので、よろしくお願い致しま~す。


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・ コロナヴィールスの現状 と、スコミーゴ村 春の兆し 「追記を」

皆さま、こんにちは! 1週間ほどお休みを頂きましたが、
無事白内障の手術も済み、平常生活に戻りつつあるshinkaiです。

まずイタリア、とりわけ北イタリアにおけるコロナヴィールスの感染者、
死者が多いので、現在の様子をお知らせしますと、

今朝4日のニュースによると、つまり昨日現在の様子は、
感染者2263名、死者79名、治癒された方160名という事で、
新たにベルガモが感染源として名が挙げられておりました。

やはりロンバルディーア州が一番感染者も死者数も多く、
継いでエミーリア・ロマーニャ州、ヴェネトは少し落ち着いたのか
死者は昨日1名という事でしたが、マルケ州などでも1名の死者があり、
北イタリアのみだけでなく、少しづつ南にも浸透しているかの様子です。

サッカーのイタリア・カップのユヴェントゥスとミランの試合も延期され、
各地の催し、学校閉鎖期限も3月8日まで延長されている現状で、

とはいえ、トリノのエジプト博物館などは1週間閉鎖の後、
昨日から再開館された所もあり、めげずに!という気運も高まっています、
とお伝えを。

◆ 追記 3月5日朝 

今朝7時のニュースによると、感染者は2700人、死者107名、治癒された方226名
という事で、イタリア全土の学校、大学も3月15日迄閉鎖される事になり、
映画館、劇場、スポーツ・エヴァント、大勢が集まる会場などの閉鎖もあり、
公共交通機関、病院などの消毒なども行われ始めた様子です。

ニュースの事柄だけだと、ちょっとした危機状態になりつつある様に感じられますが、
それでもヴェネト州に含まれるこの一帯はいつもの通りの少しのんびり感でおります。

◆ 追記 3月6日朝 ◆

今朝7時のニュースによると、全世界での感染者は9万3千人にものぼるそうで、
イタリアの感染者3296人、死者148人、治癒した方414人になったそうです。
政府は今回のウィールス問題により経済状態困難になった家庭、企業に
対する補助金(75000000000エウロ、で良いのかな? 桁に不安)も決めました。

ドイツでも初の感染地域が発生したとの事で、
昨日ルイーザに、コネリアーノで初の感染者が出て、即トゥレヴィーゾの病院に、
と聞きましたが、ちょっと身辺が騒がしくなった気がしています。 

◆ 追記 3月7日朝 ◆

今朝7時のニュースによると、感染者3916人、死者197人、治癒の方523人との事。
ロンバルディーア州で新たに感染地帯が発生し、これは今日発表されるとの事。

法廷は5月30日迄休廷が決まり、お医者さんが即5千人、看護婦さん1万人が必要
との事で、都合2万人が見込まれているそうで、  
サッカーの試合も再開されていますが、いずれも観客無しの試合です。

ブログ更新の後も、暫く記事先頭でイタリアの様子をお伝えしますね。

***

さて私めの白内障、右目の手術は25日でしたが、手術日の様子など
分家ブログの方に書きますので、見てやって下さいね。

で、手術後3日目28日に検査に病院に行き、大丈夫、
手術は上手く行きました、という事で、付き添ってくれた友人に
家に連れて帰った貰った後、

余りにも快晴の良いお天気なのと、やれやれ、やっと一段階済んだ、という
開放感から、カメラを持って久し振りにスコミーゴ村パトロールに!

奥に見えるのがスコミーゴ村の教会鐘楼で、手前左が多分司祭館と。

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我が家の近く、シナノキ並木の芽がほんの少し出てきたかな。

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葡萄畑に添って東に。 剪定され、整然と並ぶ葡萄の木。

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畑の横、道との境の草原には少し野草が花を開き始め、
イヌフグリの青、

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マルゲリータ、

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トウダイソウ、

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名は覚えていませんが、この小さな濃いピンクの花が好き。

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タンポポも少し見かけ、

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いつもの眺めながら、お隣のオリアーノ村の教会。 逆光で色が出ず。

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道脇の葡萄畑では、遅めの剪定をされている方。

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このシニョーレには以前奥の畑で話を聞いた事があり、この道脇の畑と、
奥に広がる畑は、かってヴィットリオ・ヴェネトの司教様の持ち物だったもので、
現在はワイン醸造所企業となっている事などや、このシニョーレはボランティアで
働いている事などを知ったのでしたが、残念、まだ記事を再アップしておらず。



道脇から奥の雑木林に行く道筋、いや、土地かな、に入り込みます。

既に半ば入り込んだ所で、ここから見えるオリアーノ村の丘の稜線が、
このいっぱいに広がるなだらかな風景が大好きなのです。

11-P25_9436_GF.jpg

右に広がる葡萄畑はヴィットリオ・ヴェネトの司教様、かっての、の畑で、
掘り起こされて見える土は、多分高かったのを均したものと。



奥の雑木林に近づきます。

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右の畑。 畝の葡萄の木の陰が、強い陽射しにくっきりと落ちます。

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こちらは左側に広がる葡萄畑で、

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少しでも、葡萄の新芽を見つけようと目を凝らしますが、

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ほんのチョッピリの盛り上がりのみ!



湧き水の流れの脇の雑木林はどんどん伐採され、本当に少なくなって
とても残念なのですが、
この木は樹皮が剥げ落ち、白い幹が見え。

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野生の小さな可憐な花が1つ。

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ここに来たのは、野生のクリスマス・ローズを観たくて来たのですが、
ありました、ありました!
落ち葉の枯れ葉に埋もれ健気に咲く花、既に種を持つもの、様々に。

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これは野生のプリムラ・サクラソウ。 色はこの薄黄色のみです。

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ぷっくり盛り上がるモグラちゃん達の健闘の跡ですが、初めて見た穴付き!
おお~い!と声をかけたくなるではありませんかぁ。

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雨続きだった秋には満水だった湧き水の流れも、いつもの水量に。

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向こうに渡ると、またたくさんのクリスマス・ローズが咲いているのですが、
一応手術後という事で自制を。



緩やかな傾斜地を戻りつつ見る、果樹の枝の新芽。

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半ば迄戻ってきた所で、北の空一面に広がる青空を。

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久し振りに、いつもながらの村内パトロールを済ませ、
まだこの日はカメラのレンズを覗き、フォーカスしたりが難しかったものの、
ちょっぴりの春の兆し、春の色に満足し、家に戻ったのでした。


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