◆ 3月28日 朝のニュース ◆
コロナヴィールスの感染者は前日+4401人、計66414人、
死亡者+969人 計9134人、 治癒の方+589人 計10950人
という恐ろしい数になっていますが、
感染者数は先週よりも少し低くなっているそうで、ほんの少しの希望が。
死亡者+969人 計9134人、 治癒の方+589人 計10950人
という恐ろしい数になっていますが、
感染者数は先週よりも少し低くなっているそうで、ほんの少しの希望が。
ベルガモ、ブレーシャの状況が酷いのですが、昨日ベルガモから6名
ドイツの空軍機で、治療を受ける為ボンやケルンの病院に運ばれたそうで、
今迄に既に14名がドイツ各地の病院に運ばれているそうです。
ドイツの空軍機で、治療を受ける為ボンやケルンの病院に運ばれたそうで、
今迄に既に14名がドイツ各地の病院に運ばれているそうです。
で、1つ素晴らしいニュースを読みましたので、皆さんにも。
ジェノヴァの老人ホームで軽い感染症状を示した102歳の女性、
1917年生まれのイターリカ・グロンドーナさんは、病院で20日間治療を
受けた後治癒して、退院されたそう。
ジェノヴァの老人ホームで軽い感染症状を示した102歳の女性、
1917年生まれのイターリカ・グロンドーナさんは、病院で20日間治療を
受けた後治癒して、退院されたそう。
このニュースは世界に広がり、希望を齎したと言いますから、既にご存知の
方もおいでかもですね。
彼女はダンスと音楽が好きで、フレディ・マーキュリーとヴァレンティーノ・ロッシの
ファンだそうで、こんな強い彼女にはコロナヴィールスも退散したのだろうと、
ニック・ネームは「ハイランダー・不死身」となったそう。
これはどうやらアメリカのマスコミが付けたのでしょうね。
ファンだそうで、こんな強い彼女にはコロナヴィールスも退散したのだろうと、
ニック・ネームは「ハイランダー・不死身」となったそう。
これはどうやらアメリカのマスコミが付けたのでしょうね。
今日はお天気が良く、うららかな春の陽射しが窓の外に広がり、木々の花も
先始め、新芽が一日一日濃い色になっているのが見えます。 辛抱!
先始め、新芽が一日一日濃い色になっているのが見えます。 辛抱!
日本も東京の感染者が急に増えているそうですが、どうぞしっかり自衛し、
良く食べ、良く寝、人ごみは避ける、マスクは必ず、これぐらいは大丈夫、
という考えはなしで、頑張って下さいね、 お願い致します!!
良く食べ、良く寝、人ごみは避ける、マスクは必ず、これぐらいは大丈夫、
という考えはなしで、頑張って下さいね、 お願い致します!!
世界中が一日も良い方向に向かいます様に!!
**********
今日は2年前に行ったシエナのプッブリコ宮、現市役所であり、内部に博物館が
ある、カンポ広場に面したプッブリコ宮。
この写真はカンポ広場側からの眺めで、皆さんもよくご存じと思いますが、

建物裏のピアッツァ・デル・メルカート・Piazza del Mercatoから見ると
こんな感じで、この最上階にあるロッジァ・デイ・ノーヴェ・Loggia dei Nove
をご案内致しますね。


数年前に改修され、それ以降公開されているのだろうと思います。
shinkaiは知らずに行き、偶然知り、上ったという事でした。
はぁ、なんとかの高上りで、ははは。
こちらが見つけたプッブリコ宮の図で、感覚が分かり易い様に逆に、
つまりカンポ広場から見た時の様にしています。

左下にでっぱっている四角が、カンポ広場で夏に行われる「パリオ・Palio」で
問題のカーヴ、騎手の落馬の多いサン・マルティーノの礼拝堂・San Martino.
問題のカーヴ、騎手の落馬の多いサン・マルティーノの礼拝堂・San Martino.
建物内部で見学できる市博物館は2階部分で、真ん中手前の小分けされた部分、
そして右手前と、真ん中の奥の部分ですね。
そして新しく「リソルジメント・イタリア国家統一」に関する展示部屋が出来ていたのは、
多分左手前の部屋だろうと。
そして右手前と、真ん中の奥の部分ですね。
そして新しく「リソルジメント・イタリア国家統一」に関する展示部屋が出来ていたのは、
多分左手前の部屋だろうと。
今回は最初は単純にロッジャのご案内を、と考えていたのがあれこれ見ている内に
新しく知った事や、説明の良く分かるサイトがあったので、
また別にご案内する事にし、その時に図に部屋の名も書き込みますね。
新しく知った事や、説明の良く分かるサイトがあったので、
また別にご案内する事にし、その時に図に部屋の名も書き込みますね。
で、ロッジャに上がるには、中央左の壁の間に細い階段が見えますね、
あれを上ります。
あれを上ります。
シエナのパリオ 2018.7.2 TV中継から
http://www.italiashiho.site/archives/20180706-1.html
http://www.italiashiho.site/archives/20180706-1.html
これがその階段で、これは上から見ていますが、そうかなりの急傾斜で長いのです!

このフレスコ画は、階段上り口にあったもので、1481年作とされる「聖母子像」
画家はネロッチョ・ディ・バルトロメーオ・ランディ・Neroccio di Bartolomeo Landi.
なかなか素晴らしいでしょう?!
画家はネロッチョ・ディ・バルトロメーオ・ランディ・Neroccio di Bartolomeo Landi.
なかなか素晴らしいでしょう?!

実はこの階段を上りかけた所で、上から降りてきた女性が「閉まっている」と言い、
あれま、と思いつつ上がり、ガラス戸の重いのを押しても開かずで、
降りかけたかの時に係りの女性が昇って来て鍵を開けてくれたのですね。
あれま、と思いつつ上がり、ガラス戸の重いのを押しても開かずで、
降りかけたかの時に係りの女性が昇って来て鍵を開けてくれたのですね。
何せイタリアの博物館、美術館の管理の方たちはお喋りに忙しく、はは、
こんな事がよくあるので、こちらも慣れっこで・・!
こんな事がよくあるので、こちらも慣れっこで・・!
で、ロッジャはこんな様子で、


広いでしょう?!
つまりこのロッジャは、シモーネ・マルティーニ描く素晴らしい聖母子と諸聖人の
「マエスタ・Maesta」の絵のある部屋の上、という事になりますね。
「マエスタ・Maesta」の絵のある部屋の上、という事になりますね。
で、ロッジャの名が「ロッジャ・デイ・ノーヴェ・9」といい、1348年からあり、
休日以外はこのプッブリコ宮を離れる事を禁じられていた9人の執政官達が
レクリエーションが出来る様に、という物だったそう。
休日以外はこのプッブリコ宮を離れる事を禁じられていた9人の執政官達が
レクリエーションが出来る様に、という物だったそう。
で俄然興味を持ったshinkai. 「9人の執政官たち」というのは、
1287年から1355年にかけての約68年間続いたシエナの政治体制を
指している事、この時代にシエナは一番の繁栄期を迎え、
このプッブリコ宮を始め、ドゥオモ、たくさんの建物類が建設された時代だった、
1287年から1355年にかけての約68年間続いたシエナの政治体制を
指している事、この時代にシエナは一番の繁栄期を迎え、
このプッブリコ宮を始め、ドゥオモ、たくさんの建物類が建設された時代だった、
というのを改めて知り、
私の頭の中のジグソー・パズルの片の1つがぴちっと嵌った感じで~す。
シエナのドゥオーモ博物館 と ファッチャトーネの上から
http://www.italiashiho.site/archives/20180711-1.html
http://www.italiashiho.site/archives/20180711-1.html
シエナの朝 カンポ広場からサン・ドメニコ聖堂へ
http://www.italiashiho.site/archives/20180701-1.html
http://www.italiashiho.site/archives/20180701-1.html
にシエナの繁栄期についてあれこれ書いているのに、「9人の政府」なる言葉を知らず、
カンポ広場について書いているのに「9の政府」とあるのに、再会しました。
カンポ広場について書いているのに「9の政府」とあるのに、再会しました。
調べず、分からないまま書いていた事が判明! あれま。
とここ迄書いてきて、カンポ広場についてむくむくっと疑問が湧き、
いつ出来た、どの位の広さ?なんぞと、泥縄式で読んでみました、ははは。
最初に「カンポ・畑、広場」とシエナの歴史に出るのは1169年だそうで!
土地の購入が始まり、家畜や穀物類の市が開かれ、まさにここは市民たちの
集会に最適の場所だった様で、市としての使用が13世紀半ばまで続き、
土地の購入が始まり、家畜や穀物類の市が開かれ、まさにここは市民たちの
集会に最適の場所だった様で、市としての使用が13世紀半ばまで続き、
1262年になり、広場周辺の改良についても対策が取られるようになり、
周囲の建物は、間を大理石の小柱で繋いだ2連か3連の窓を付けるのが義務付け、
テラスの建設は禁止、周囲から広場への12の連絡道の完全化などなど。
テラスの建設は禁止、周囲から広場への12の連絡道の完全化などなど。
そうなんですね、既に13世紀に街の美化対策が考えられている訳で!
こうして13世紀末から14世紀の初めにかけて、現在広場の周囲に
見られる建物類が整えられて行き、
見られる建物類が整えられて行き、
現市役所であるパラッツォ・コムーネが出来たのは1298年から1310年、
白く見える部分は大理石ですが、後はすべて煉瓦作り。
白く見える部分は大理石ですが、後はすべて煉瓦作り。
102mの高さのマンジャの塔の建設は1325年から1348にかけてで、
四角の角は完全に東西南北を指していると。
で、広場の煉瓦敷きは1333年から始まり翌年完成で、
所で広場は平たい石によって9つの細長い形に分けられていて、
これは当時の行政を司っていた「9の政府」にあやかっているのだそうで、
広場周辺の長さは333m、外側の舗装は1347年から48年と。
所で広場は平たい石によって9つの細長い形に分けられていて、
これは当時の行政を司っていた「9の政府」にあやかっているのだそうで、
広場周辺の長さは333m、外側の舗装は1347年から48年と。
という様な事で、
プッブリコ宮にある有名なアンブロージョ・ロレンツェッティ描く壁画、
「良い政府の寓意図」というのも、この「9人の政府」を現しているというのも!
「良い政府の寓意図」というのも、この「9人の政府」を現しているというのも!
つまり今のシエナに残る素晴らしい中世の街の様子は、すべてこの
「9人の政府」が齎したものという事も!
「9人の政府」が齎したものという事も!
で、その執政官9人は、休日以外はプッブリコ宮から出る事が出来ず、
このロッジャで運動したり、憂さを晴らしていた、というのが何とも可笑しく、
まさに「単身赴任のお父さん」みたいでしょ?! ははは。
まさに「単身赴任のお父さん」みたいでしょ?! ははは。
まぁ、2か月毎に替わったという事なので、我慢したのでしょうが、ね。
トスカーナのスキャンダル ・シエナの子豚「チンタ」の冒険談
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466790646.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466790646.html
こちらがロッジャの天井、

では、ロッジャから見張るかす素晴らしい展望を。 ちょうど街の東南部に
向かって開けるパノラマで、下がメルカート広場。
向かって開けるパノラマで、下がメルカート広場。

北側の古い家並。

谷越しに開ける展望。

左側、これはプッブリコ宮から延びる建物で、


奥に教会と鐘楼が見えますが、
こちら、サン・クレメンテ・イン・サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂・
San Clemente in Santa Maria dei Serviという長い名を持つ
素晴らしい教会の様で、一度は訪問をと、またのチャンスを待ちます。
San Clemente in Santa Maria dei Serviという長い名を持つ
素晴らしい教会の様で、一度は訪問をと、またのチャンスを待ちます。


で、この聖堂に続く道の流れも素晴らしく、追いかけるshinkai.


所でロッジャの写真をサイトで探していて、こんなのを見つけました。
つまり教会ではなく、市役所での市民結婚の挙式にはこのロッジャが使われる様に
なったのか、このカップルが最初だった様子で、


おめでとうございま~~す!
という事で、シエナのプッブリコ宮にお出かけの時は、
是非ロッジャのパノラマも楽しんでくださいね!
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色鉛筆+水彩画ブログには、ボローニャのサン・ペトローニオ大聖堂 ファッチャータ完成案
をアップしています。
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