◆ 4月3日 朝のニュース ◆
コロナヴィールスの感染者は、前日+4668人 計115242人、
死亡者は+760人 13915人 治癒の方 +1431人 計
死亡者は+760人 13915人 治癒の方 +1431人 計
一応峠を越えたかに見えるのですが、それでもロンバルディーア州は
感染者が前日よりも1292人、死者が367人と増加しており、
全世界での感染者が100万人を超えたとか!
感染者が前日よりも1292人、死者が367人と増加しており、
全世界での感染者が100万人を超えたとか!
家に蟄居が長引くにつれ、経済的に、また食料の補給にも問題が
出る方が増えており、その対策もあれこれ取られ始めていますし、
一方現在は開いているスーパーも、週末には閉める、という様子も。
出る方が増えており、その対策もあれこれ取られ始めていますし、
一方現在は開いているスーパーも、週末には閉める、という様子も。
パスクワ後の4月13日からひょっとして、と小さな望みを持っていましたが、
5月1日はまだ家に、多分5月16日頃からは、というニュースで、
5月1日はまだ家に、多分5月16日頃からは、というニュースで、
いささか憂鬱な気分になりそうですが、元気で居れることを考えれば、
文句は言えず、しっかり閉じこもるばかりですね。
とにもかくにも、終息を願うばかりです。
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シエナのプッブリコ宮のご案内を続けておりますが、今回はまずシエナの街、
上空からの眺めからで、多分夏の朝、右側が北になります。

真ん中にポッコリとカンポ広場が開け、斜め上、白く見えるのがドゥオモ。
そして貝殻状に広がるカンポ広場と、その元締めの位置にあるのが、
プッブリコ宮・Palazzo Pubblicoで、現市役所であり、市博物館。
プッブリコ宮・Palazzo Pubblicoで、現市役所であり、市博物館。

カンポ広場を囲む建物の流れに沿ってぐるっと通る道バンキ・デイ・ソット・
Banchi dei Sottoがちょうど写真下あたりで、ヴィア・ディ・チッタ・
Via di Cittàと変わり、街を通り抜け南に下る、ローマへの巡礼の道
ヴィア・フランチージェナ・Via Francigenaでした。
そしてカンポ広場が、夏7月2日、8月16日と満員の人で埋まるパリオの日!

既に時代衣装の各コントラーダの行進も終わりに近く、4頭の白い牛に
引かれた牛車が、パリオの旗を掲げて進むのが見えます。
引かれた牛車が、パリオの旗を掲げて進むのが見えます。
カンポ広場に行くには、貝殻の上辺に当たる位置からはどこの通り口も
下り坂で、狭い通路を抜けます。
下り坂で、狭い通路を抜けます。

広場の傾斜具合、なだらかにプッブリコ宮に向かって下る感じがお分かりと。

今見える広場の右角に開いた道が、ドゥオーモに続く道で、
奥に見えるヴィア・デイ・ペッレグリーニ・Via dei Pellegriniを行くと、
洗礼堂の前に出て、左横の急石段を上るとドゥオーモの横に。
一番奥の上に見える角のついた壁がドゥオーモの壁です。

逆にドゥオーモから下って来て見えるのは、こんな様子。

所で今回は、プッブリコ宮内部のご案内の前に、こうして見える建物の
あれこれについて、今までは単に眺めていたのが、結構あれこれ意味を
持っている事に気が付き、そのご案内をと思ったのでした。
あれこれについて、今までは単に眺めていたのが、結構あれこれ意味を
持っている事に気が付き、そのご案内をと思ったのでした。

シエナの朝 カンポ広場からサン・ドメニコ聖堂へ
http://www.italiashiho.site/archives/20180701-1.html
http://www.italiashiho.site/archives/20180701-1.html
で、先回マンジャの塔についてあれこれ書きましたが、
今見える時計、これについては塔が建設完成の1348年、つまり12年後の
1360年に時計が設置され、時を知らせる鐘突き男が必要なくなったと
いうのでしたが、こちらをどうぞ。
何年の写真か分かりませんが、かなり後年になってのものですよね?
こんな可愛い天使のフレスコ画が描かれていたのを知りました!
こんな可愛い天使のフレスコ画が描かれていたのを知りました!

で、時計自身が時を告げる鐘を自動的に鳴らすようになった1780年には、
鐘突き男を模した人形というか、像もお役御免になったというのでしたが、
これについて興味深い、
「1786年2月7日、初めてマンジャの塔の時計が12時を鳴らした」
というサイト記事を見つけました。
鐘突き男を模した人形というか、像もお役御免になったというのでしたが、
これについて興味深い、
「1786年2月7日、初めてマンジャの塔の時計が12時を鳴らした」
というサイト記事を見つけました。
つまり既に1750年1月1日から、1日を午前と午後の12時間に分け、
真夜中からカウントを開始する事を、トスカーナ大公が確定した、と
いう物なのですね。
真夜中からカウントを開始する事を、トスカーナ大公が確定した、と
いう物なのですね。
ちょっとややこしいのですが、というのも初めて知る事なので、へへ、
当時は1日の24時間を昼と夜の時間に分け、1日のカウントを始めるのは
日が沈んでからで、勿論論理的に冬と夏の時間の長さが違っていた訳ですね。
当時は1日の24時間を昼と夜の時間に分け、1日のカウントを始めるのは
日が沈んでからで、勿論論理的に冬と夏の時間の長さが違っていた訳ですね。
そしてその基本は、教会の時間のカウント方法に従っていて、夜明け前、
朝6時頃、9時頃、12時頃、15時頃、日暮れ時、眠る前、という具合。
朝6時頃、9時頃、12時頃、15時頃、日暮れ時、眠る前、という具合。
そして1日を12時間の2回に分け、時間をカウントする開始も、それ以前は
3月25日だったのを1月1日に決める事により、
大変実践的で、一定の時間が定まる事で、現在の我々の様に
未来の見通しもでき、仕事上でも他の国とも時を定める事が出来る様になったと。
3月25日だったのを1月1日に決める事により、
大変実践的で、一定の時間が定まる事で、現在の我々の様に
未来の見通しもでき、仕事上でも他の国とも時を定める事が出来る様になったと。
江戸時代の日本でも、冬と夏の時間の長さが違っていた、というのは
知っていましたが、やはりどの国でも同じ様な事だったのや、
それが変わったのは、西洋では18世紀だったのだと知ったのでした。
知っていましたが、やはりどの国でも同じ様な事だったのや、
それが変わったのは、西洋では18世紀だったのだと知ったのでした。
こちらが今のマンジャの塔に見える時計で、時計自体は変わっていませんが、
見える窓の数字、これは日付を示すもので、
これは現在も人手によって、架け替えられているのだそうで。
見える窓の数字、これは日付を示すもので、
これは現在も人手によって、架け替えられているのだそうで。

プッブリコ宮建設は1297年から1310年にかけてで、上階のロッジャの時に
出た「9人の執政官による、9人政府」の時代ですね。
で、こちらプッブリコ宮の真ん中の高い部分ですが、一番高い所に翻る
シエナの旗は白と黒で、真ん中の階の窓のアーチ部に見える盾形にも
白と黒が見えますが、これについては後程。
シエナの旗は白と黒で、真ん中の階の窓のアーチ部に見える盾形にも
白と黒が見えますが、これについては後程。

で、上階に見える丸い円盤状の物は、
こちらで、サン・ベルナルディーノ・San Bernardinoのモノグラム・名前の
頭文字の図案、花押、というのも初めて知り、
というよりも、見てはいても気にもかからなかった、というのが本当の所で、へへ。
頭文字の図案、花押、というのも初めて知り、
というよりも、見てはいても気にもかからなかった、というのが本当の所で、へへ。

サン・ベルナルディーノ・ダ・シエナと呼ばれる聖人で(1380-1444)、
両親ともシエナ出身の貴族の生まれで、幼くして孤児となり、裕福に伯母の手に
より育ち、教育も受け、若い頃より大変清廉潔白な生活で、説教師から
始まり、後にフランチェスコ会派に入り、という方で、
死後数年にして聖人となられた方と。
両親ともシエナ出身の貴族の生まれで、幼くして孤児となり、裕福に伯母の手に
より育ち、教育も受け、若い頃より大変清廉潔白な生活で、説教師から
始まり、後にフランチェスコ会派に入り、という方で、
死後数年にして聖人となられた方と。
フィレンツェのヴェッキオ宮のロッジャ側の入口上にも、サン・ベルナルディーノの
モノグラムが付いていますから、当時は大変有名な、敬いを受けた聖人だったものと。
モノグラムが付いていますから、当時は大変有名な、敬いを受けた聖人だったものと。
建物の上には、ギベリン党寄りに見えるメルレット・レース飾りがついていますが、
両側の尖がりがないので、少し柔らかめに、という事でしょうか。
両側の尖がりがないので、少し柔らかめに、という事でしょうか。
シエナでも皇帝派のギベリン党と、教皇側のグエルフ党の戦いが激しかったと
言い、ギベリン党の方が優勢だった、というのも読みましたが、
街の主導権争いは街の発展のためにならない、という意識もあったのかと。
言い、ギベリン党の方が優勢だった、というのも読みましたが、
街の主導権争いは街の発展のためにならない、という意識もあったのかと。
そして、十字に見えるのには、シエナのシンボルのルーパ・雌狼、
ほら、おっぱいが大きいでしょう?!

いやぁ、何気なく撮っていた写真ですが、ちゃんとルーパが付いているのを知り、
ちょっと驚いたのでした。
シエナのルーパ、これはサンタ・マリーア・デッラ・スカーラ、元病院、現博物館
前の円柱のものですが、
前の円柱のものですが、

シエナの街を建設したと言われる伝説の雌狼の話は、ローマの街建設と同じく
ロムルスとレムス、雌狼のお乳によって育ったという双子の兄弟の話と同じで、
ロムルスとレムス、雌狼のお乳によって育ったという双子の兄弟の話と同じで、
ただシエナの伝承では、叔父の所から2頭の馬に乗って逃げだし、
シエナまで来て、この街を建設したという物。
シエナまで来て、この街を建設したという物。
で、この2頭の馬が白と黒だったので、シエナの街の紋章、旗の色となり、
ローマのルーパの形と違うのは、ローマのは頭を横に振っているのに対し、
シエナのはまっすぐ前を向いている事で、
ルーパ像はシエナの街中あちこちに、そしてこのプッブリコ宮にもしっかりたくさん!
シエナのはまっすぐ前を向いている事で、
ルーパ像はシエナの街中あちこちに、そしてこのプッブリコ宮にもしっかりたくさん!
プッブリコ宮の建物、上階の両脇にも。


先回見て頂いたガイアの泉にいるのも、たくさんのルーパでした。
こちらは中の階の真ん中にある、王冠を頂いたメディチ家の6つ玉と、
両脇にシエナの白と黒の紋章があり、その脇にやはり王冠を頂いた
ライオンの後ろ足立ちの姿。
両脇にシエナの白と黒の紋章があり、その脇にやはり王冠を頂いた
ライオンの後ろ足立ちの姿。

正面から見るとあまり建物の曲がり具合や、王冠の丸さが分かり難いですが、
ほらね、かなりのものでしょう?

そして既にパリオの桟敷席が組まれた後ろに入り込んで行って撮っていた
シエナのルーパの円柱像と、手前のドアの上のアーチを。
シエナのルーパの円柱像と、手前のドアの上のアーチを。

プッブリコ宮の入り口扉は3か所にあるのですけど、ここのが一番立派で、
こんな風に真ん中に白くと黒で縁取られた中に後ろ足立ちのライオンで、
王冠が見えるので、上のメディチ家脇のもやはりシエナの紋で、
色が消えたのでしょうね。
王冠が見えるので、上のメディチ家脇のもやはりシエナの紋で、
色が消えたのでしょうね。

そして両脇にやはりロムルスとレムスの兄弟、そして少し痩せ型のルーパ。
プッブリコ宮の正面左脇にある、サン・マルティーノの礼拝堂。
見事な彫りの柱が前に2本で、厚さ、幅をご覧下さい。
見事な彫りの柱が前に2本で、厚さ、幅をご覧下さい。

正面から。 建設は1352年からと。

ちょうどマンジャの塔が出来た1348年に街はペストに襲われたそうで、
何度か変更をしつつ、出来上がったのが1376年、
屋根が葺かれたのは、約90年後の1461年と。
何度か変更をしつつ、出来上がったのが1376年、
屋根が葺かれたのは、約90年後の1461年と。
そう、既にルネッサンス期に差し掛かっていたのでした。
プッブリコ宮の前に広がるカンポ広場は、貝殻の形で、9つに分けられ、
これも「9人政府」を現しているのが分かりますが、
なだらかな傾斜を雨水が流れ下り、ちょうどこの真ん中にある排水口に。

カンポ広場のなだらかな傾斜、煉瓦が敷き詰められ、どこかのんびりさを誘い、
子供たちも、大人も、犬も、のんびりと遊び、休み、
子供たちも、大人も、犬も、のんびりと遊び、休み、


それは夜になっても同じで、寝そべっている人もたくさんいる、


シエナのカンポ広場と、プッブリコ宮の姿、ご案内でした。
シエナ点描 小路と、黄昏どき
http://www.italiashiho.site/archives/20180626-1.html
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