・ イタリアは ・ n.5 シエナのプッブリコ宮 内部の2

◆ 4月9日 朝のニュース ◆

コロナヴィールス感染者は、全体で28485人となり、前日より-233人、
集中治療室には3693人、-99人、 死亡者は542人、-65人、
計17669人、 治癒された方は1555人、と今迄で最高に。

明らかにカーブが下降線を辿っており、関係者もホッとしている様子が
見えますが、まだまだと気持ちを引き締めている所でしょうか。

医師の死亡が96人となったそうで、なんともお気の毒です。 感謝を!

12日がパスクワ・復活祭ですが、様々な儀式はすべて行われず、
家の中で、と言われており、
多分パスクワ後も暫くは今の封鎖状態が続くものと思います。

ロンバルディーア州に続き、トスカーナ、アルトアディジェ州もマスクの
使用が義務付けられ、収まった様子の後もあと1か月位は着用する事と。

北から南に緊急状態が移っている様で、ナポリのあるカンパーニャ州では、
8番目の市がレッド・ゾーンとなったとか。

アメリカが今大変な状態になっており、明日、明後日にもイタリアの記録を
抜くのではないか、と今朝のニュースにありました。

日本が大変に、と一昨日の朝こちらのニュースに出てすぐ、7都市ですか、
緊急事態宣言が出されたというのを知りましたが、

封鎖ではなく、自粛を求めるという感じの様子で、これではなかなか
難しいのではないかと、イタリアの状況を顧みて心配しています。

どうぞマスクと手袋を必ず着用し、手洗いを!!
そして、これ位は大丈夫、と思わずに、とにかく緊急の外出以外は
避ける様に、くれぐれもお願い致します!!

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シエナのプッブリコ宮のご案内、今日は5回目になりますが、内部のその2、
プッブリコ宮1番の見所の広間、世界地図の間を。

1-sala-mappamondo-siena.jpg



内部の地図では、9.に当たる大広間ですね。

2-cartina.JPG



こちら北の壁にあるのが、シモーネ・マルティーニ・Simone Martini描く、
1312~1315年作とされる「マエスタ・Maestà」 壁画 763x970cmの大作。

3-Maestà_di_simone_martini,_siena_palazzo_pubblico_1315-1321.jpg

今回再会した時の印象は、あれ、こんなに暗かったかな、と思ったのですが、
以前は開いていたカンポ広場側の窓に覆いがかかっているのが分かり、
私の写真も少し暗いので、これはウィキから拝借を。

「マエスタ」とは玉座の聖母子を中心に天使、聖人を配した作品を言い、
画家の主要な作品というのみでなく、14世紀のイタリア絵画においても
主要な物で、画家自身(1284-1344)がシエナ派の大家の1人、
唯一ジョットに並ぶ画家と評されている画家ですね。

画家が30歳前後の作品という事で、力に満ちた素晴らしい作品で、
壁一面の大きさにもまして、威厳に満ちた聖母子がこちらを見下ろしている、
そんな印象を受けます。

ちょうどシエナの街が繁栄を遂げている時代の、政府も街の人々も欲し、
大いに自慢できる「聖母子像」だったろうと軽く想像できますね。



同画家の、フィレンツェのウッフィッツィ美術館の「受胎告知」の黄金背景の
煌びやかな美しさ、恥じらいに身をよじるマリーア像は、皆さんもよくご存じと。

3-Simone_Martini_and_Lippo_Memmi_-_The_Annunciation_and_Two_Saints_-_WGA15010.jpg

shinkaiは今回初めて南仏アヴィニョンで亡くなっている事を知りました。
アヴィニョンの教皇庁宮殿で彼の美しい壁画が何とか残っているのを
見たのをよく記憶していますし、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂にも彼の
壁画がたくさん残ります。

n.1 アヴィニョンの教皇庁宮殿
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/473518302.html

n.2 アヴィニョンの教皇庁宮殿
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/473518604.html



こうして細部を見ると、たくさんの金箔が使われているのも良く分かりますが、
他に金属片やガラスも使われているそう。

4-DSC09930_01_01_01_GF.jpg

5-DSC09931_01_GF.jpg

子供のキリストが右手に持つ紙には「DILIGITE IUSTITIAM QUI
IUDICATIS TERRAM・世を裁くあなた方には正義があります、とでも?



左右に分かれての、天使像と諸聖人像。

6-DSC09933_01_GF.jpg

7-DSC09932_01_GF.jpg



そして「マエスタ」の向かい側の壁には、この様に上と下に分かれて壁画があり、

8-DSC09925_01_GF.jpg



よく分かるのを、これもウィキから拝借し、こんな様子。
一番上にこれもシモーネ・マルティーニ描く「グイドリッチョ・ダ・フォリーニョの
モンテマッシの攻略・Guidoriccio da Fogliano all'assedio di Montemassi」 
340x968cm  1328年作。 

9-western-wall-in-palazzo-publico-siena-235.jpg

1330年作とも言われますが、絵の下に入れられた
A(N)NO D(OMI)NI M.CCC.XXVIIIでは、1328と読め、戦闘の年かも。

その下真ん中に「ジュンカリコの掌握・Presa di Giuncarico」
ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ・Duccio di Buoninsegnaの作であろうという物、
そして両脇にソドマ・Sodomaの描く2聖人、1530年作があります。



一番上のマルティーニの作品は、シエナで多大な働きをした傭兵隊長、名に
フォリーニョ・Foglignoとウンブリアの町の名がありますが、元々はフォリーニョ出身
の一族だったのでしょうが、彼はレッジョ・エミーリアの生まれで領主(1290-1352)。
シエナ共和国のために働き、

これはトスカーナ西部のマレンマ・Maremmaと呼ばれる海岸一帯にあるモンテマッシの
城攻撃の姿を描いたもの。 ですが、1977年に元の絵のデッサンが見つかり、
現在の絵と違うので、15世紀に変えられた、とみられるのだそう。

10-DSC09940_01_GF.jpg

グイドリッチョは1327年からシエナ共和国に雇われ働き、このモンテマッシの攻撃は
1328年で、900の騎士、6000の歩兵を持って7か月の包囲の末、
ピサ勢を破った闘いですが、

シエナ共和国は当時マレンマ地域を自国領とすべく戦っていたので、1327年にも、
そしてモンテマッシの戦闘勝利の後にも他の勝利お有りで、大いに意気が上がり、
それでプッブリコ宮のこの壁に、将軍像をシモーネ・マルティーニに描かせたものと。

1331年、1332年にもグイドリッチョは勝利を挙げていますが、1333年にシエナから
追放されます。 契約違反である、という事でですが、結局は余りにも彼の勢力が
強くなったのを恐れたのであろうと。

彼と弟のジベルト・Gibertoはその後ヴェローナのスカリージェリ家に仕えたりしますが、
最後はシエナに呼び戻され、翌年亡くなり、現在サン・ドメニコ聖堂に葬られていると。



そしてこの下の絵ですが、ジオットーの師とも言われるドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ、
(1255頃-1318,19)ではなかろうか、という説が大半と言われ、1314年作、
この絵がプッブリコ宮で一番古い壁画であると。

11-DSC09947_01_GF.jpg

ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャについて シエナ点描  小路と、黄昏どき
http://www.italiashiho.site/archives/20180626-1.html


背後の城はやはりマレンマ地方のジュンカリコの城である、という事で。
この説もご説明すると大変長く、それも興味深い当時の誘拐監禁事件が
絡まりますので、またのチャンスを見まして、はい。


所で、この広間は「世界地図の間」と呼ばれていると書いていますが、
何でこの名?と不思議に思われた方、はい、shinkaiも実は。

で、ほら、絵の下に何か黒いものが付き出しており、絵の周囲、上と下に
円が描かれているのが見えますね。

で、これはきっと昔のフレスコ画、教会によくある地獄図的な物と簡単に
考えていたのですが、なんとここに世界地図が描かれていたそうで、

真ん中に見える黒い場所は、あそこに針が止められていたそうで、
針が回るようになっていたんだそうで・・!
時計の様にか、それとも手動で動かせる様にかが分かりませんが。

で、この絵は1980年にこの壁の修復が行われた時に偶然に発見された絵と。



「世界地図の間」と左に広がる部屋の間を仕切るアーチのある壁の
一面に描かれた戦闘図、勿論シエナが勝った戦争で、ははは、
右から左に、バーント・シエナと呼ばれる赤茶色一色の絵で、

12-DSC09943_01_GF.jpg

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右がフィレンツェに勝ったポッジボンシの戦闘図、1480年
左がリッポ・ディ・ヴァンニ・Lippo di Vanni 1363年作の
ヴァル・ディ・キアーナの戦い、

と書きつつ、ひょっとして左半分を描いた所で、次の勝利戦争を描くのに、
右側を開けて17年間待っていたのか、と可笑しくなり、ははは。

2枚目のアーチに見える聖人、紋章を掲げた方がサン・ベルナルディーノ。
プッブリコ正面の上の壁に、同じモノグラム、白と黒がある方ですね。



そしてn.10の部屋、「世界地図の間」の隣にある、「9の間」または
「平和の間・Sala della Pace」と呼ばれ、
アンブロージョ・ロレンツェッティ・Ambrogio Lorenzettiが描いた
「良い政府と悪い政府の寓意図」(1338-39)のある部屋。

撮った写真があまり良くないので、こちらもあちこちから拝借で、

部屋全体の印象を見て頂くのに、

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で正面は、裁きの神たちが正面上段に座り、下に裁きを受ける者たちが。

16-Ambrogio_Lorenzetti_002.jpg



で、良き政治、良き政府があると、このように町は栄え、

17-Lorenzetti_Ambrogio_1337.jpg



農村も緑豊かに、耕され、町への物資も豊かに運ばれるが、

18-Ambrogio_Lorenzetti_011.jpg

色の出が悪い写真ですみません。



悪い政府、悪い政治が行われると町は寂れ・・、という寓意図。

19-effetti-del-malgoverno-in-citt.jpg


ちょうど9人の執政官に政治が任され、彼らは市民の中から能力の
あるものが選ばれ、貴族ではなく、専任で自分たちの街の為に、
休みの日にのみ家に戻れる、という生活をしつつ、2か月間
このプッブリコ宮に寝泊まりし、上のロッジャで体操したりで息抜きをし、
頑張った、という、

1287年から1355年にかけての「9・ノーヴェ政府」のモットーでもあったろう
寓意図で、一番シエナの街が繁栄した時代の誇りの図でもあったのでしょう。

この寓意画を背景の絵本を。
トスカーナのスキャンダル ・シエナの子豚「チンタ」の冒険談
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466790646.html



という所で、shinkaiもいささか息切れで、やれやれ、
これで一応駆け足でしたが、シエナのプッブリコ宮のご案内を終えます。

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皆様、長いお付き合い、有難うございましたぁ!


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