・ n.2 ピサで何を見るか ・ 見逃せない10 の後半 と、夏休みを

先回に続き、暫く前から頭に浮かんでいる「ピサ・Pisa」の街、
・・こちらイタリアの緊急状態は10月半ば迄延びる様子ですし、
今の状態ではいつ行けるかも分かりませんが、
備えあれば憂いなし、という気持ちでの下調べを皆さんへのご案内にも。

ピサの街、上空からの眺めを。 街中を2分して流れるアルノ河を挟み、
北西に世界に誇るピサの、いやイタリアの、3大見所がしっかり見えますね。

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という事で、今回は10の魅力ある見所の前半の5つを、どうぞ!
まず地図を。 ピサ中央駅が下真ん中にあり、まっすぐ北に出て
渡る橋がポンテ・ディ・メッゾ・真ん中の橋、と大変分かりやすい名で、ははは。

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アルノ河の北側にある、9.アルセナーレ・造船所、 8.ボルゴ・ストレット・
旧市街の繁華街、 7.ピアッツァ・デイ・カヴァリエ-リ・現ピサ大学と広場、
は先回ご案内済みで、


今回は
5. パラッツォ・レアーレ・Palazzo Reale・王宮

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ポンテ・ディ・メッゾを渡り、ルンガアルノ河畔を左に。 元々は12世紀中頃に
建設のカエターニ家・Caetati、1000年頃より続く貴族で有名な教皇
ボニファーチョ8世などの輩出の一族ですが、その大きな屋敷があったのが、

メディチ家に移り、15世紀後半に周囲の建物や店なども除き、拡張再建したもので、
現在は国の博物館として公開されている物。



なぜ「王宮」と呼ばれるかは、19世紀頃まではトスカーナ大公の居住だったのが、
イタリア国に併合の後に、イタリア国王となったサヴォイア家・Savoiaが使ったので、
現在の名「王宮」となっているそうで、内部はこんな感じ。

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歴代の主が収集した美術芸術品があり、ラファエッロやカノーヴァの作品も、と。



所でこの塔、トッレ・デル・カントーネ・Torre del Cantone、メディチ家以前から
あったのが接収され使われ、ここでガリレオ・ガリレイが彼が発明の望遠鏡を
トスカーナ大公コジモ2世に使って見せた、とあり、

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これが現在ミラノの科学博物館所蔵の、ガリレオの使った望遠鏡の複製で、

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革でしょうか? 飾りが豪華ですねぇ。



で、コジモ2世って誰? と調べましたら、この方。 CosimoII(1590-1621)

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トスカーナ大公3代目フェルディナンド1世の息子で、1609からわずか12年間の大公、
というよりも、31歳の若さで亡くなっていて、

そうか、フェルディナンドの息子かぁ、とコジモ1世後のフェルディナンドと彼の兄
フランチェスコとの御家騒動を思い出した次第。



という様子で、一応の街の主要名所のご案内は終わり、
いよいよピサ最大の「奇跡の広場・ピアッツァ・デイ・ミラーコリ」 1987年に
ユネスコの世界遺産指定を受けている、ピサの、イタリアの誇りの1つのご案内に。
このなんとも典雅な、としか言葉が思い浮かばない、素晴らしい3つの並び!!!

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左から洗礼堂、ドゥオーモ、そして鐘楼・斜塔と3つ並びますが、洗礼堂の左に見える
白い低めの回廊が、この3つに加わるカンポ・サント・モヌメンターレ・
Camposanto Monumentale・いわゆる墓地で、



4. カンポサント・モヌメンターレ・Camposanto Monumenntale・記念墓地

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1277年に建設が始まった、長年にわたり聖堂の周囲に溢れていた石棺やお墓を
纏めて埋葬する為のもので、

「カンポサント・聖なる地」の名の由来は、ジェルサレムのゴルゴダの丘、キリストが
処刑された聖なる地の土を、第3回の十字軍の戻りに何艘の船で持ち帰り、
この地の土と混ぜて使った、という事から来ているそう。

ここに埋葬される、されていたピサの著名人たちの石棺などは、エトルスクの昔から
ローマ期、中世、そして19世紀にまで及ぶもので、
残念ながら第2次大戦時の爆撃により被害を受け、未だ修復作業が続いているそう。



何十年か前のピサ訪問時の、shinkaiの一番大きな記憶は斜塔に上った事も
そうですが、このカンポサントの長い広い回廊全面に残っていたフレスコ画でした。

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今回こうして写真を探していて、どうやらよく覚えている壁画、確か「死者の勝利」
と名付けられた壁画部分がこうして、壁から剥がされ、別に移された事も知りました。

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左下に見える棺の中には、蛆が湧き、蛇が這いまわる死者がおり、通りかかる
旅人達は顔をしかめ、鼻をつまむのが描かれており、

「カンポサント」なる意味も知らずに見学に回った当時の私は、そのモチーフに
大きな衝撃を受けたのでしたが、一方その的確な描写にも驚きで、
いつかまた見たいもの、と折に触れ思い出しておりました。


3、4連の聖なる建物類の緑地の南に「シノーピエ博物館・Museo delle Sinopie」
があり、シノーピエというのは、このカンポサントのフレスコ画の壁画の下絵で、
修復の為一番上の層の絵を剥がした後に出る赤茶の下絵が集められた博物館。
ここも知らずに行き偶然見学できたもので、これも大きな収穫でした。

現在もここの一連の入場券に含まれているそうですから、行かれる方はチャンスにどうぞ。



3. サンタ・マリーア・アッスンタ聖堂・Cattedrale di Santa Maria Assunta

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ピサの街のドゥオーモ、「昇天する聖母マリーア教会」と名付けられている聖堂は、
ピサ様式ロマネスクとして素晴らしく美しいものですが、建設が始まったのは1063年、

それまでの古い様式、ビザンティン、初期キリスト様式、アラブと様々な様式が
混ざり、この聖堂に最初に現れた物と言われ、
この後フィレンツェに伝わり、そしてトスカーナ一帯に、そして当時ピサ共和国の
下にあったコルシカ島、サルデーニャにも広まったと言います。

外側は様々な色の大理石、そしてモザイク、青銅の装飾で、
内部は白と黒の大理石、そして円柱にはグレーの大理石と、
当時のピサ海洋共和国の繁栄を伝える素晴らしいもの。

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内部の様子。 深い格天井、白と黒のすっきりのアーチ、内陣天井のビザンチンの
モザイク、とシンプルで見事な美しさ。

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なまじ後世に街の繁栄が無かった分、こうして古い様式が内部にしっかり残っているのも
今の時代に生きる我らの目には嬉しいものですね。



2. バッティステーロ・Battistero・洗礼堂

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聖堂の前に位置する洗礼者サン・ジョヴァンニに捧げられた洗礼堂は、
イタリアの洗礼堂では一番大きなもので、周囲は107,25m、
建設は1153年に始まったものの、完成は1世紀後の二コラとジョヴァンニ・
ピサーノ父子の手によるもの。

これは建設費の不足によるもので、使われている石材、屋根もテラコッタと鉛と
混ざりあっていますが、それはまたそれで美しく、
外側周囲の装飾様式もなんとも典雅で素晴らしく、どっしりとした佇まい。



内部の洗礼盤で、1564年にガリレオ・ガリレイが洗礼を受けたそうで、

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二コラ・ピサーノの手になる説教壇のモチーフは「キリストの生涯」と。

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上、2階に上がれ、聖堂正面の絶好の撮影ポイントの様ですね。



と、洗礼堂の背後に見える街の城壁には上がって歩く事も出来る様子で、

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全長3km、確か現在3エウロ、幾つかの上り下り口がありますが、
洗礼堂の後ろにも上り口があるそう。



1. トッレ・ペンデンテ・ディ・ピサ・La Torre pendente di Pisa・ピサの斜塔

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イタリアの記念物として世界に一番よく知られている物の1つ、
たくさんの人々が斜塔を支える記念撮影をしている有名な物、ですねぇ!

聖堂の鐘楼として建設されたものですが、それにしては円形というのもかなり珍しく、
しかも少し離れていますよね? これが不思議な感じがするのですけど。



建設が始まったのは1173年で、4階建設の時に既に傾斜が始まり、基盤の
土地が砂地だった為というのですが、傾斜が増すのを防ぐ為反対側に傾けて
建設を続け、でも傾斜は続き、遂に完成まで2世紀を要したと。

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それにしても、様子を見ながら、神経を使いながら、しぶとく建設を続け、
遂に完成させた、というのが凄いと思われません?! 

そしてshinkaiがよく覚えているのは、斜塔についている階段294段には、人々が
上った足跡がすり減って残っているのですよ!

という事は、鐘楼の鐘付きも勿論、傾斜していても上り下り続け、見物人もたくさん、
それも何世紀間に渡り、という事で、ははは、
本当に良くも崩れなかったものですねぇ!!



周囲の壁装飾、柱頭飾りもお見逃しなく!

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かなり長い間閉鎖され改修工事が続き、2002年から再び公開されていて、
今は確か予約が必要ですが、
56mの高さからはピサのパノラマが一望に!!

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ですがね、今も下の階の方は周囲の手すりがありませんよね。 床の大理石が
すべすべなもので、たとえ5%の傾斜とはいえ、下がる側ではかなり緊張した事を
よく覚えていますから、上られる方、お気持ち丈夫にね、きゃは。



最後は美しいライトアップを。 これは見事! 実際に見たいものですねぇ!!

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と、いつか必ずピサ旅行を実現させよう、という気がふつふつと湧いて来ています。

***

さて私は、夏休みを頂く為8月はブログをお休みを頂きますので、
宜しくお願い致しま~す。

という事で、最後は、先日亡くなったエンニオ・モリコーネの素晴らしい旋律を、
たくさんある中からヴェネツィアの夜景を背景にどうぞ。

33-ennio Cattura.jpg

心に染み入る素晴らしい旋律をたくさん贈って下さったエンニオ・ミリコーネ。
「迷惑を掛けたくないから」と、お葬式の済んだ後のニュースでした。
ご冥福を祈ります。


では皆さんも、良い夏休みをお過ごしくださいね!
また9月にお目にかかりま~す。


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・ n.1 ピサで何を見るか ・ 見逃せない10の魅力あるもの

ピサ・Pisa、トスカーナのリグーリア海に面した街ピサは、中世に大いに栄え、
歴史的にも芸術的にも世界に有名な宝、見所がある事で有名で、

ユネスコの世界遺産にも指定の「奇跡の広場・ピアッツァ・デイ・ミラーコリ」
には、世界中に有名な「ピサの斜塔」がありますね。

ピサの街に何があるか、と尋ね、「ピサの斜塔」という答えのみでも、はは、
可笑しくない程の有名さですが、

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暫く前からshinkaiの頭の中に「ピサにもう1度行ってみたい」想いが兆し。

そうなのです、35年前に訪問し、斜塔も、洗礼堂も、ドゥオーモも見ていて、
斜塔には上ってもいますが、
近くのルッカには2度行ったせいか、もう1度ピサも今の目で見たいなぁ、と。

で、実際ピサには世界遺産指定以外に何があるか、という事を知る為に
サイトを見ると、ちゃんとお勧め見所10か所がありましたので、
自分の下調べを兼ねて、皆さんにもご案内を、という事に。

見所1位から10位の順に並べると、頭には即「斜塔」が来るので、ははは、
今回は逆に10位から始め半分の6位までを、で次回にn.2を、という事で
宜しくお願い致します。

所で「ピサ」と書きながら、Pisaですから、これはきっと「ピ」の発音が正しい
だろうと思って聞くと、確かに「ピザ」ですが、まぁ、今回は「ピサ」のままで行く事に。



では参りましょうか。 まずは街の地図に10~6の印をつけましたのでどうぞ。

2-pisa-tourist-map.jpg

地図を縮小したので文字が見え難いですが、ご案内の10~1までは
問題ありませんね。 
駅から真っ直ぐコルソ・イターリアを北に向かって行き、渡る橋はポンテ・ディ・メッツォ・
Ponte di Mezzoで、渡っての右手がルンガルノ・メディチェオ。

それに4~1までは上に固まっているので、楽勝!という感じで、ははは。



10. キース・ヘリングの壁画 トゥットモンド・Tuttomondo di Keith Hering

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古くからの歴史を持つピサの街の見所はすべて歴史由緒あるものになりますが、
これのみは例外で、アメリカ生まれのポップ・アートの画家(1958-1990)の、
シンプルな線と色の壁画は、皆さんも写真でご存知と。



ヘリングは1989年にピサを訪れ、サンタントーニオ教会の修道院の裏の壁に
この壁画を描いたのでしたが、翌1990年に31っ歳の若さで亡くなりましたから、
この壁画が彼の最後の作品になるのだそうで。

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世界平和をテーマに、30人を図案化したもので、180平米の大きさで、
ヨーロッパでは1番大きな壁画で、

はい、ピサ中央駅からすぐの位置に。



9. アルセナーレ・造船所・Gli Arsenali

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ピサは「ピサ共和国」を名乗った11世紀から1406年迄、イタリアの4大海洋国で、
アマルフィ、ジェノヴァ、ヴェネツィアと共に現在のイタリア海軍の旗にも
街の紋章が残りますが、

当時この場所にガレー船の造船場、修理所があったのだそうで、
後にフィレンツェ共和国に併合された後に、コジモ1世により再度造船場が
建設され、メディチ家の艦隊となり、ここは19世紀まで継続していたそう。
アルノ河に面し、すぐに海に出れる場所ですものね。

で、第2次大戦時に爆撃を受け大きな損害だったのを、2013年から修復が始まり、
2015年から博物館として、さまざまな展示会場、映画館もある様ですが、
内部見学ができる様子。

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アマルフィに行った時にも古い造船場があり、博物館となっていたのを見ましたが、
このかなりモダンなイメージの造船場も楽しそう!

昔斜塔に上った時、斜塔の壁に船の浮彫があるのを見て、当時は何で?と
思ったほど無知だったですが、へへ、現在でもかっての4大海運国の街、港では、
毎年持ち回りで競艇が行われる程ですから、
ピサの人々の心の中にも、きっと海洋大国だった誇りが根ついている事と!



8. ボルゴ・ストレット・Borgo Stretto

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直訳すると「狭い村」みたいになりますが、歴史ある古い地区の名称で、
現在も1番の繁華街。
この地区にかって貴族や裕福な商人たちが住居、店を構え、
ポルティチの下で賑やかに商業活動をしていた名残りが残り、



ピアッツァ・デル・ポッツェエット・Piazza del Pozzetto・小さな井戸広場
となりますが、見える像はガリバルディ像。

5-8-istockphoto-518097353-170667a.jpg

そして背後に見えるのが、カジーノ・デイ・ノービリ・Il Casino dei Nobili、
18世紀中頃に建設の貴族のレクリエーション活動の為の建物、とか、

でも、実際具体的に、何のレクリエーションを?!と思われません?!



この地区には「ピサの斜塔」程に有名ではありませんが、2本斜塔もあり、
1本は、サン・ニコラ教会・San Nicolaの鐘楼、というのですが、
写真では傾いでいるのが良く分からず、

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もう1本はサン・ミケーレ・デッリ・スカルツィ教会・San Michele degli Scalzi
の傍にと。  これは凄い!

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まぁ、ヴェネツィア辺りにお出でだと、何本も傾いだ鐘楼がありますし、
我が隣村のオリアーノの教会鐘楼もかなり斜めですよって・・。

はは、すぐに脱線しますが、  このボルゴ・ストレットにはたくさんの
レストラン等もありそうで、夜のお食事、お出かけにも良さそうです。



7. ピアッツァ・デイ・カヴァリエ-リ・Piazza dei Cavalieri・
  騎士たちの広場

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「サント・ステーファノ騎士団」と訳してよいのか、1561年にトスカーナ大公
コジモ1世により結成された騎士団の様で、彼の要請によりジョルジョ・ヴァザーリ
が広場と右に見える素晴らしい建物を設計したそうで、
ピサにおいてピアッツァ・デイ・ミラーコリに継ぐ、重要で美しい広場だそう。


パラッツォ・デッラ・カロヴァーナ・Palazzo della Carovanaの装飾は、
寓話と星座に因んでのもので、

6-7-pisa-piazza-dei-cavalieri.jpg



こちらに細部と、前に立つコジモ1世の像で、

6-7-Palazzo_dei_Cavalieri_(detail)_-_Pisa,_Italy.jpg

現在この美しい建物は、スクオーラ・ノルマーレ・ディ・ピサと呼ばれるピサ大学が、
イタリアでも大変令名高い大学が使っているそう。

「スクオーラ・ノルマーレ・Scuola Normale」というと「通常な学校」ですから、
地図で見た時は、知らない者の強さというか、はは、何?小学校か何かなの?と!!



こちらは広場の角にあるパラッツォ・デルオロロージョ・Palazzo dell’Orologio・
時計のある建物」、かってはここに「飢えの塔・Torre della Fame」があり、

6-7-Piazza-dei-Cavalieri-Pisa-58423-2.jpg

ダンテが「神曲」に描いた「ウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ伯爵の、飢えにより
子と孫の肉を食らった」牢獄があったと!

ウゴリーノは実在の人物、ロンゴバルド系のピサの名家出で、海軍提督を務めた程で、
政治敵対立のグエルフ派により投獄され、食料を絶たれ、というのですが、
実話と神話の間の謎は未だ明らかにならず、の13世紀のお話。



6. ルンガアルニ・ディ・ピサ・Lungarni di Pisa・アルノ河沿い
ルンガアルと単数でなく、アルニと複数になっているのは、両岸の意味もあると
思いますが、その場所によって「ルンガアルノ・メディチェオ」等と特定するからとも。

7-6-pisa-lungarno.jpg


地図の6の上に5の印をつけた北岸には王宮・パラッツォ・レアーレがあり、


6の横に見える華麗で可愛い教会はこちら、サンタ・マリーア・デッラ・スピーナ・
S.M.della Spinaで、ここにはキリストが処刑の時の茨の冠の棘・スピーナが、
かって展示されていたのだそう。

7-6-960px-Santa_maria_della_spina_101.jpg



パラッツォ・デイ・メディチ。 ポンテ・ディ・メッゾを渡って東に。

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パラッツォ・トスカネッリ、真ん中の白い建物。

7-6-palazzo-toscanelli-pisa.jpg



そして、サン・マッテーオ・イン・サオルタ・San Matteo in Saorta教会、
ここは国の博物館になっている様子で、かなり東のアルノの曲がり角近くかも。

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写真でも見える様に、たくさんのルネッサンス期のパラッツォが立ち並び、
風景を愛でながらの散歩は楽しそうですねぇ。

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地図に見える茶色になった道は、車両制限、歩行者用と思いますし、
念のため駅からアルノ河のポンテ・ディ・メッゾまでを調べると900m、
歩いて11分、そして奥のミラーコリ広場まではカヴァリエ-リ広場を通っても、
駅から計24分と。

となると、ゆっくり歩いて見て回るのもOKの街の様ですね。
という事で、ではまた次回に。

ピサの美味しいもの、食べるべきもの、等については、またのご案内に!


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・ ヴェネツィアのコルティジャーナ ・ ティツィアーノの絵と周辺あれこれ

実は今回のテーマ「ヴェネツィアのコルティジャーナ」についての発端は、
4月22日の分家ブログに載せた
あちらを先に読んで頂けると、有り難いです。

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この時はご覧の様に絵の中に動物、犬がいるから、という事で始まったのが、
見つけたサイトの記事を見ると、犬どころか、はは、

注文主が後のウルビーノ公爵となるグイドバルド・デッラ・ローヴェレで、
絵の注文動機が、どうやら数年前に結婚した若き妻に婚姻の、夫婦間の
性的関係を享受、教授するみたいな意味が含まれていた事を知り、おお!

だったですが、はは、あれこれ検索して、この「ウルビーノのヴィーナス」の
モデル役を務めたのが、ヴェネツィアのコルティジャーナで、
ティツィアーノ様もお通いになっていたアンジェラ・デル・モーロだったのも判明。


かねがね、ティツィアーノを始め様々な画家が描くヌード像のモデルは一体誰が?
という疑問を持っていましたから、成る程なぁ、と感嘆、記事アップ後も
ヴェネツィアのコルティジャーナについて、調べ始めました。

「コルティジャーナ・Cirtigiana」ご存知ですね?
元々は宮廷の礼儀正しい床しい、教養高く素養ある男性貴族、みたいな由来から
始まった「コルティジャー」という言葉ですが、次第に意味が変遷し、
高級娼婦の意味になりますが、ちょっとここでさておき、



アンジェラ・デル・モーロ・Angele del Moroについてすこし。

実はこれを書こうかどうかとかなり迷ったのですが、というのもかなり酷い話も
含まれるので、そのお心算でお読み下さいね。

彼女の生年月日は分かりませんが、上の「ウルビーノのヴィーナス」を
ティツィアーノが描いたのが1538年で彼女が20歳から25歳位の時と考えると
大体1518年頃の生まれでしょうか。 

ティツィアーノ(1488/90-1576)が48~50歳の時に「ヴィーナス」を描いており、
彼のお好みのコルティジャーナで、当時その美しさで大評判だった様子。

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ティツィアーノのみでなく、パリス・ボルドン・Paris Bordon(1500-1571)も
大変に熱を上げていたそうで、他にもサンソヴィーノ・Sansovino・彫刻、建築家、
ピエトロ・アレティーノ、トスカーナ生まれの詩人も彼女の元に通った1人で、
若くして亡くなったイッポリート・ディメディチ枢機卿も、夢中だったと。

という事で上層階級の顧客を持ち、自由で贅沢な生活をしていた彼女に
大きな影が。 というのも顧客の1人に貴族のロレンツォ・ヴェニエールがいて、
彼はピエトロ・アレティーノの弟子でもあったのですが、
彼女との約束の日に訪れるとなぜか扉が開かず、彼の誇りは大いに傷つき復讐を。

1531年4月6日ヴェネツィアから少し離れたマラモッコで2人で1日を過ごし、
夕暮れにはヴェネツィアに戻る筈がキオッジャに接岸し夕食を。
彼女はキオッジャに1泊するつもりかと思ったのが、
次々と他の30人の男たちに暴力で。

そして彼はこの様子を短詩に著し、「ザッフェッタの31人」として出版。
おまけに師のアレティーノまでが同様な著作を出版するという、なんともはや、
男たちの残忍な愉しみというか、他に言葉がありません。



さて本筋に話を戻し、「ヴェネツィアのコルティジャーナ」高級娼婦を意味する
この言葉で一番有名な女性ではヴェロニカ・フランコ・Veronica Franco
(1546-1591)がいます。

詩人としても有名で、詩の著書も2冊あり、フランス王アンリ3世が
ヴェネツィア訪問の際はそのお相手に参上した女性でもありますね。

このヴェロニカの肖像画は、ティントレットの追随者、弟子が描いたらしい、と
いうのですが、

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ヴェロニカが生き、活躍、有名なヴェネツィアの高級娼婦たちのカタログに記載
されていた時代は1560~70年代と考えられ、

当時の有名な芸術サロンにはティントレットも出入りしていて、彼が描いたという
「胸をはだけた貴婦人」1570年という肖像も。

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2つの肖像から見ると、彼女は丸顔で、可愛い感じの女性だった様子ですね。
フランス王アンリ3世のお相手をしたというのは1574年で、
彼に関してはちょっとした面白いお話もありますので、こちらを。

ちょっぴり歴史に名が残る、 我が町コネリアーノの様子を
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467229891.html



あれこれ話が飛ぶので、どう取り上げる話題かと恐れていた通りに
収拾が付かなくなる前に、はは、

ヴェネツィア共和国に於ける娼婦の位置などについてちょっぴりお話を。

3-unnamed.jpg

ヴェネツィアは海外との通商交易で栄えた国、当然外国人の出入りも多く、
娼婦の存在は多かったのですが、と同時に、政府から大いに容認され、
時に奨励された事もあったというのには、
男色が大変流行り、それに対抗する意味もあったのだそうで。



1400年前半には彼女たちはリアルト橋の近く、サン・ポーロ地区に含まれる
カステレット・Castellettoと呼ぶ地域に住む事を義務付けられ、

ここには現在も「ポンテ・デッレ・テッテ・乳房の橋」と呼ばれる橋も残り、

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彼女たちは窓から胸をむき出しにした姿で乗り出し、男たちを誘ったのだそうで。

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ヴェネツィア共和国は警察国家としても有名で、彼女たちへの締め付けも勿論で、
夜の3点鐘には(夜中の2時と思いますが)家に戻る事、でないと鞭打ち10回、
クリスマス、復活祭、そして宗教行事の日に男たちに近づくと鞭打ち15回、
土曜日のみ黄色い布で頭を包み、町の中を歩く事が出来たと。

一見緩やかではありますが、やはりかなりの差別を受けていたのが分かりますね。

で居住区に関しては、リアルト橋の1514年の火事以降、一帯の危機もあり、
他に移ったりもあった様子。



1565年頃に発行された「ヴェネツィアの主要で最も高貴な娼婦たちのカタログ・
Catalogo de tutte le principal et più honorate cortigiane di
Venetia」には名前、住所、出来る芸、楽器、踊りなど、そして料金が記載されており、

あれこれ復刻版が出ている様子で、この表紙がオリジナルとは思えませんが、

10-IAEV-AutoriVari-CatalogoCortigianeVenezia.jpg

これに掲載されている女性の数は215名。

ヴェロニカ・フランコも医者との結婚、離婚の後に高級娼婦として生きる事にし、
どうやら母親も高級娼婦だった様で、このカタログに20歳から10年間ほど
記載されているそう。

が1509年の調査によると、11164人が公的申告をしている娼婦の数で、
勿論カタログに掲載されていない下級娼婦の数の方が断然多いわけで、
下級娼婦たちは男性の様にシャツとズボンを着用したりが、

高級娼婦となるとサテンの優雅豪華な衣装に身を包み、お付きの一団に
囲まれ、ヴェネツィア貴族を顧客に贅沢で自由な生活を。

とりわけヴェロニカの場合は教育を受けて育っており、上流階級が足を運ぶ
文芸サロンにも出入りし対等に交際できる素質も持っており、、
良き貴族の友人達を持っていたため、
後にヴェネツィアにペストが流行り、ヴェネツィアを離れていた間に家を略奪され
殆どの財産を失い、1577年にヴェネツィアに戻って後異端裁判にも
召喚されますが、政治力を持つ貴族のお陰で無罪放免、にも。

晩年は仕事も引き、貧しくとも最下級の生活に落ちることなく過ごし、
貧しい娼婦たちの「救護所」を造ったりで45歳にて没、と
やはりホッとする所がありました。



暫く前に、ずいぶん昔に見た映画「自分の運命の主人」、日本語タイトルでは
「娼婦ロニカ」がTV放映され、懐かしく見たり、改めてヴェロニカ・フランコに
ついて読んだりしたのでしたが、

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12-13-05-2016-padrona-del-suo-destino.jpg

映画自体は2流で、はは、大変ロマンチック仕立てになっておりましたが、
映画に恋人として登場のマルコ・ヴェニエール・Marco Venierはドージェも輩出の
ヴェニエール家の一員で、多分異端裁判から救ったのは、彼を含めての貴族たちで
あろう、というサイト記事も読みました。

アンジェラの悲劇は、ちょっとした彼女の驕りが招いた事と思えますし、哀れ、
やはりヴェロニカとの性格の違いを感じます。


という様な「ヴェネツィアの高級娼婦コルティジャーナ」についての
ちょっぴりのご案内、「ヴェネツィアの光と影」でしょうか。 


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・ ヴェネツィア ・ その美しさに、数を添えて見ましたぁ!

31年前、はは、最初にイタリアにやって来た時、即その魅力に陥落!
ヴェネト州の、ヴェネツィアに1時間ほどの距離に済むようになってから、
はたまたブログを始めあれこれ読む、知るようになって以来、
そして絵のモチーフにする様になり、
ますますヴェネツィアの魅力、世界で唯一の特異な街の魅力に
魅せられているshinkai.
  
先日こんなサイトを見つけ、
VENEZIA DIAMO I NUMERI  Una sola Piazza ma...
ヴェネツィアに数を与えよう  広場は一つだけだけど

そう、車が走らず、自力で歩くだけのヴェネツィアの街には、「広場・ピアッツァ」と
呼ばれるのは1つだけだけど、他にね‥、という記事で、

そう言えば、ヴェネツィアご案内の都度に関係ある数字は調べたり書いたりしますが、
相対的に纏めた事が無いっけ、と思い、改めてのご紹介で、

あ、まず最初にヴェネツィアの地図をご覧になっておいて下さいね。

1-1-smappa_venezia_turistica.jpg

こんな風に本島は魚みたいな感じで、北の本土から道路と電車が連絡し、
駅前から始まる逆S字の大運河・カナル・グランデがサン・マルコの手前まで。

白く見える道、そして水色が縦横に見えるのは運河・リオで、
バラバラに散らばる各地区をたくさんの橋が繋ぎます。

今回の写真はshinkaiの想いの丈を籠め、はは、自分で撮ったのをなるべくと
探したので、古いのは小さくなりますがご勘弁を。 では参りましょう。


・ 広場・ピアッツァ・Piazza  1つ

そう、ヴェネツィアでは広場と名乗るのはサン・マルコ広場のみで、他のすべて、
存在する広場はカンポ、またはカンピエッロと呼ばれます。

それも「サン・マルコ広場」は、サン・マルコ聖堂から正面のコッレール博物館に
面しての広い広場の方で、

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こちらドゥカーレ宮の側面から2つの円柱のある細長い方は
「サン・マルコ小広場・ピアッツァーレ」と呼ばれます。

2-d0097427_222887_GF.jpg

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・ カンポ・campo・広場 は、 102

カンポというのは畑、耕地、野原の意味で、ヴェネツィアの街が出来た当時は
そう、畑が広がり、サン・マルコや現在のムラーノ島や他の島に渡る船着き場の
フォンダメンタ辺りにも塩田があったそうですから。

で、カンポには教会とか公的な建物もあり、カンピエッロ共に大体中央に
井戸が1つか2つあります。

カンポ・サン・ボルト・Campo San Boldo.

4-san_boldo_GF.jpg



カンポ・サンティ・アポストリ・Campo San Apostori.

5-santi apostri079_GF.jpg



・ カンピエッロ・campiello は、 134

カンピエッロは、カンポの小さいのを指し、いくつかの出入り口があり、
コルテ・corteと呼ばれる内庭式の物は出入り口は1つだけ。 つ
まりカンピエッロはカンポの小さなもので町の通路であるのにも対し、
コルテはそこの住民が利用する物と。

カンピエッロの写真が即見つからず、コルテのみでご容赦。
コルテ・デイ・プレーティ・Corte dei Preti.

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・ 橋・ポンテ・ponte は、 438! 

ヴェネツィアの街は元々がラグーナ・干潟を埋め立て、その上に建設されたもので、
その小さな干潟・埋め立て地を繋ぐための、438もの橋ですね。

まずヴェネツィアの橋と言えばこれ、大運河の真ん中に架かるリアルト橋・Riarto.

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駅から東にカンナレッジョの北に架かる、ポンテ・デイ・トゥレ・アルキ・
3つのアーチの橋。

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大運河のアッカデミア美術館の東にあるダリオ邸の裏の橋。
カンピエッロ・バルバロに降りる為に、階段が裾広がりなのですが、
橋の名が・・。

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はい、いつも教えて下さるpescecrudoさんがコメントで教えて下さり、
サン・クリストーフォロ橋、というそうです。
ペーシェクルード様、有難うございましたぁ!


忘れてはいけない、ドゥカーレ宮の溜息橋。

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こんな情けない姿にされていた時期もありましたっけ!



建物の間を通り抜ける小路の橋。  

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これは上の数には入らない、夏のサン・サルヴァドーレ教会に架かる仮の橋、

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そして冬のサンタ・マリーア・デッラ・サルーテ聖堂参拝に架かる仮橋。

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と、本当にキリが無く、ヴェネツィアの橋は思い出を誘いますねぇ。



・ 島・イーゾラ・Isola は、 124!

えつ、そんなにあるの?! と驚きましたが、

そう、まずサン・マルコ小広場に面するサン・ジョルジョ・マッジョーレ島・
San Giorgio Maggiore.

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硝子の島ムラーノ島・Murano. 

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こちらは1度見学した事があるサン・ラッザーロ島・San lazzaro.

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サン・マルコの鐘楼から見る、南のリド島との間に広がる島々。
そう、こんな風に船の行路が杭により定められているのですよね。

18-20060419223314_t_t_GF.jpg



・ 運河・カナーレ・canale は、 178本!

最初に見て頂いた地図でもお分かりの様に、細い運河リオ・rioが
縦横に走ります。 この地図はヴェネティアの町の起こりの地図と。

19-svenetia-origini.jpg



・ 大運河・カナル・グランデ は、 1本

長さ3247m. 中程の幅が一番狭まった所をリアルト橋が渡ります。

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・ 井戸・ポッツォ・Pozzo は、 2000!  かっては6000あったと。

井戸の周囲を囲った形のヴェーラ・ダ・ポッツォと呼ばれ、井桁には
それぞれに意匠が施されていて、
島の住民の命の水ですから小さな広場にも必ずあり、個人住宅にも
あるので、正確な数は分からないのだそう。

サイトにあった、これは素敵な模様の井戸で。

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ドゥカーレ宮の内庭にある2つの大きな青銅の井桁付き。

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こちらはカ・ドーロの内庭の井戸。 フランケッティ男爵がすべての熱情を
込めカ・ドーロを修復、この井桁はパリに売り払われていたのを買い戻した物と。

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・ 街の地区・セスティエーレ・sestiere は、 6地区

26-sa-venezia-e-i-suoi-sestieri1.jpg

北から 緑・カンナレッジョ・Cannaregio、 紫・サンタ・クローチェ・
Santa Croce、 赤・サン・ポーロ・San Polo、 
オレンジ・サン・マルコ・San Marco、 青・カステッロ・Castello、
黄土・ドルソドゥーロ・Dorsoduroとジュウーデッカ・Giudecca



ゴンドラの舳先の突き出した形も、6つの地区と、ドージェの冠を現していると。

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・ 小路・カッレ は、 3000!

街の中を縦横に行き来する小路、少し広めの道もあり、手を伸ばせば
両側に届きそうな、傘をさせないような小路もね!

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でもそれが魅力の、ヴェネツィアなのですよねぇ。



・ 敷石・マセーニョ・masegno は、 700万枚!

マセーニョ(複マセーニ)はヴェネツィア特有の敷石なのだそうで、産地はお隣
スロヴェニアはロヴィーニョ・Rovignoで、そう、かってはヴェネツィア共和国の、
確か第2次大戦まではイタリア国の領土だった所で、

敷石用に切られ、1つが約40キロもの重さで、19世紀まで使われていたのだそう。
雨が降った後も水捌けが良いというのか、滑らないそうで。

サン・マルコ広場にも使われているマセーニョ。

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こんなに重いにも拘らず、こんな風にずれたり、穴になったりすることもあり・・!

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このマセーニョの敷石以前は煉瓦を杉綾模様に埋めたそうで、そう言えば、
街の外れの広場にもまだ見かける場所がありますね。

これは確か、ミゼリコルディア教会、修道院・Chiese dell'Abbazia
della Misericordiaの前だったと。

32-20051107235023_t_GF.jpg



・ 教会・キエーザ・Chiesa は、 148!

こういう数は多いのか、少ないのか考え様がありませんが・・。

まずはヴェネツィアのドゥオーモ、サン・マルコ聖堂。

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そして、サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ聖堂。

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サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂。 

35-20060306042951_t_t_GF.jpg

後は余りにも多すぎて、選択に困難・・!



・ 鐘楼・カンパニーレ・canpanile は、 170本

うん?! 教会の数より多い、と考え、そうか、教会は聖別から外されたものの、
鐘楼はそのまま残っている、という事かな、と。

では一番有名で欠かせない、ヴェネツィアのシンボル、サン・マルコの鐘楼を。

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・ そして、ヴェネツィアの住人は、 54000人!!

この数は、記事が2020年3月末なので、間違っていないと思いま~す。
本島のみで、メストレなどは含まれていない数字です。



最後は、ヴェネツィアの空からの眺めを、素敵でしょう?!

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一日も早く皆様に、ヴェネツィアにどうぞぉ!! と言える日が来ます様に!


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・ n.2 スコミーゴ村パトロール  夏の盛りに近づく葡萄畑と

先回に続きスコミーゴ村の様子を。 夏の盛りに近づき茂る緑と、
まだ硬い粒ながら大きな房がたわわに下がる葡萄の木、
そして久し振りに我が友ワンちゃんの顔も!

平地に広がる葡萄畑の間を抜け、北に向かい長い緩やかな
坂道を歩き始めると、北にこんな風に高い山が塞がります。

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手前に、東から流れて突き出す流れと、西に流れる岩山に見えるのが
続きますが、そのちょうど手前にヴィットリオ・ヴェネトの町があり、
両側からの山の間を縫うようにして抜けて行くと、
ヴェネト平野の北の端に位置するベッルーノ・Bellunoの町に。

で、ベッルーノはこの高山の向こう側になり、ちょうど間に屏風の様に
立ちはだかる山がヴィゼンティン・Visentinと呼ばれ、
この山のお陰でベッルーノとヴィットリオ・ヴェネト、そしてコネリアーノの
冬の温度は何度も違い、降雪量もまるで違うのですね。

写真を撮った土曜日は大変良いお天気で気温も高く、歩きながら
久し振りに汗をかき、春をまるで感じずに済んだ今年の、
突然に感じた「もう夏なんだ!」という感慨、はは、なのでした。



道の左側は家並も何軒か続き、葡萄畑の奥に古い農家も見え、

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そして右側は先回しっかり見て頂いた、こんなお馴染みの長い広い
葡萄畑と丘の流れが続きます。

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モーターの音が響き、見ると畝の間をゆっくりと進む消毒の車が。

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丘の上の向こうに広がる青色は空ではなく、奥の山の色で~す。

2月末に受けたshinkaiの右目の白内障と、近視を除く手術、
それに続いての網膜の奥に溜まった水を抜くための毎日の目薬、
日に3回、2ケ月間も漸くに済み、

有り難い事に右目の視力もすっかり元に戻り、再び鮮やかな色が
見える様になり、暫く前から朝の歩きの時は眼鏡なしで歩いていて、
今ちょうどこんな感じに見えるのですよ!



緩やかな坂道が緩やかにカーヴを切る所で、正面に見えるピンクの家、
これは後程ご案内しますね、と、
左手の葡萄畑の奥でもう一度逆にカーヴを切る所に、我が友のワンがいて、

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朝歩く時はまだ寝ているのか、倦怠期になっているのか、ははは、
最近はチッチッと舌を鳴らしても顔を見せない事もあるのですけど、
この日は呼ばない内から鳴き始め! こんな風に顔を見せ、

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右に少し小さな体のワンも居て、こちらは後ろについて歩いているだけで、
この左の彼かな、彼女かな、が我が友で、挨拶して呉れるので~す。

挨拶してくれ始め、もう何年にもなりますねぇ。 冬の寒い間は小屋から出て
ワンワンワン、ワンワンワン、と2度鳴くと、う、う~んとストレッチして
即また小屋に戻って行くのですけど、ははは、
この時は気持ちの良い日でしたし、カメラを向けたのでしっかり付き合ってくれ。



名前も勿論、彼か、彼女かも知らなかったのですけど、
これは戻り道にまたちらっと出て鳴いてくれ、奥に引っ込む時の写真で、
遂に、彼女であることが判明、ははは。 はい、シニョーラなのでしたぁ!

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ワンのいる家から少し先に東に下る地道があり、

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坂の下からずっと続いて来ている長い広い葡萄畑の手前を辿り、

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こんな風に、奥の畑に、農家の前庭に続き、奥には東からの山が聳え、
見えますか、奥の山の中程の高さに農家があるのか?!
手前は広い草原になっているのもよく分かるのですよ。

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この下り道の脇にある葡萄畑の房の様子は、こんな感じ。

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スコミーゴ一帯は徐々に徐々に古い葡萄の木を引っこ抜き植え替え中で、
きっとプロセッコの木に植え替えられているのですけど、
この場所のはまだ古いままの葡萄の木で、



しっかりまだツルも伸びている最中。

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こちらが下から見て頂いたピンクの家の入り口で、そうB&Bになっていて、
モスト・フィオーレ・Mosto fioreと。 

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モストというのは葡萄のしぼり汁、これを発酵させてワインになるのですけど、
フィオーレは花で、最上の、という意味もありますね。

下に小さく、ドルミーレ・ディヴィーノ・Dormire Divino、
ディヴィーノは神の、の形容詞ですから、申し分なく、とか素晴らしく眠れる宿
という意味かな?

まだ修復しオープンして2,3年目かな、ちょいちょい車が何台か泊っているのを
見かけます。 そう、場所は素晴らしいですが、車でないと来れない場所ですね。
それとすぐ近くにレストランが無いのがねぇ。
こちらの人は少々遠い所で食事をし飲んでも、戻るのが平気みたいですけど。



道をも少し行くと、隣村カルページカとの境になりますが、この辺りから戻ります。
このB&Bの道との境に続くのは桑の木で、きっとかってはこの家は大きな農家で、
蚕を飼っていたのだろうと想像できますが、

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この春先にはかなり刈り込みを。 というのも昨年も夏に大きなグミの実が
いっぱい実り、道にボタボタ落ち、車に踏まれ道が真っ黒になる程で、
今年は先を見越して先に刈り込んだ様子。
グミを採りたくても坂道なので、手が届かない高さになり、残念で。



我が友のワンに挨拶し、だらだらと道を下って来ると、家が何軒か続く
お家のこの白チビ君。 

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昨年春からの新入りで、やっと今年は吠えなくなった、と思っていたのに、
すぐお隣から若い女の子が出て来て近くを通ると、家の奥から駆けて来て
吠え始め、ついでにshinkaiにも。

白ちゃん、と思っていたのが、大人になってせ中の毛が薄茶色になり、
でも相変わらず甲高い声ねぇ。 



この辺りから眺めるスコミーゴ村の教会。 すっかり濃い緑に埋もれ。

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角を曲がり、右手に続く雑木の間に見える様々な植物。 
風に揺れ、上半分はボケてしまったぁ。

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これは秋になると葉も実も真っ赤に色づき、絵を描くモチーフに最適だったと。

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ヘーゼルナッツ・ハシバミの実もすでにこんな感じに。 こちらではノッチョーラ・
nocciolaと呼び、ジェラートにもなっています。

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いつもの定番、お隣のオリアーノ村の教会と鐘楼。

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そして道脇の葡萄畑の房、かなり大きいでしょう?!

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家への最後の曲がり角。 右に続く並木はティーリ(オ)・tigli(o)・
シナノキで、

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木漏れ日に葉が輝き、

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実もしっかり実り始め。 も少しすると硬く実り、小さな爆弾みたいに
上から降り注ぎ、結構痛いのですよ。



道の左側の並木は、早春に可哀そうな程にツンツルに刈り込まれたのが、
またしっかり伸び、形良く育っているのに感心。

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道脇にかなり広い草原があるのが、草を刈りこみ、こんな緑色の巻きが1つ!
はは、あれだけの広さでも1つだけなのねぇ!

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最後は、我が家のあるコンドミーニオの一番端の家の角から覗く
夾竹桃の花。 薄いピンクにオレンジが少し、という色かな。

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という、久し振りのスコミーゴ村パトロールの様子、葡萄畑も、我がワンも、
変わりなく健在、これからの夏本番に控えていま~す。


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・ n.1 スコミーゴ村 葡萄畑の様子は、 パトロール

昨夕、さてブログには何を?と考え、何せ頭がからっぽで、ははは、
漸くに今朝早く目が覚めた時に、
そうだ、スコミーゴ村の様子も暫くパトロールしていないなぁ、と。

いえ、3日目毎に朝の歩きはちゃんとしていますが、
せっせと歩いて即家に戻り朝ご飯、という様子で、
コロナヴィールスの封鎖以来カメラを持って出歩く気持ちの余裕がなく・・。

という事で、朝10時過ぎ頃から村内一周に出かけて来た様子を、
カメラを持って出ると、しっかりその気になり、何を見ても撮る、ははは、
という調子で1時間半ほど歩き回って来ましたので、写真の数も多く、
次回との2回に分けてご覧頂きますね。

家から東に向かって出て、東の隣村コッレ・ウンベルトの様子。
少し靄っていますが、もうすっかり濃い緑になり茂っています。

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道沿いに茂っていたイチジク。 まだまだ早いですね。

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少し外れて下に下る道を行くと、こんな風に北のヴィットリオ・ヴェネトの
山の外れのかっての城の塔と、東に延びて見えるのは司教様の別荘。

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かってはヴィットリオ・ヴェネトの司教様がスコミーゴ辺りもすべて領土と
しておられた司教領主だったのですね。



葡萄畑の様子が見えるかとだらだら道を下って行くと、何年も前に
修復していた農家がまだそのまま残っていて、

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こちらは家の修復、建設ものんびりと資金が出来た分進め、
またそのまま置いておくのがよくあるのです。

で、葡萄畑も小さいのが脇にあったのみで、このまま下ると高速道路脇に
出るだけと思い、引き返します。



結構急な傾斜道を戻り、

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朝歩く道に出て来て、スコミーゴ村の教会鐘楼。

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教会の向こう側からオリアーノ村の葡萄畑の畝が見えるかと回りましたが、
もうすっかり木々が茂り、まるでダメで、そのまま石段を下り、いつもの道に。



暫く行くと平地の葡萄畑が始まり、

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粒はまだ小さく硬いものの、結構大きな房になっていて、

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ツルもまだ盛んに伸びています。

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北のベッルーノとの境になる山が屏風の様に奥に。

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春の野草の花が萎れながらもまだ頑張っていて。

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南西側になる道の向こう側にも葡萄畑が広がり、奥に埋もれる農家。

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畑脇に湧き水の細い流れがあり、背の高い、これ、なんと言いましたっけ、
ガマの穂? でしたっけ?

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ガマの足元にツルむ、野生の小さな朝顔。 花の直径が5㎝位かな。
皆白い色です。

17-S10_9941_01_GF.jpg



脇の奥に続く地道。 曲がりながら坂道がオリアーノの村とを連絡します。

18-S10_9951_GF.jpg



こちらの湿地にはカラーの花。

19-S10_9947_GF.jpg



角のお家の庭と葡萄畑が続き、金網越しに薔薇が咲いているのを、

20-S10_9953_GF.jpg

21-S10_9956_GF.jpg



これは、サン・ジョヴァンニの百合と言ったと。

22-S10_9955_GF.jpg



広い葡萄畑が、緩やかな上り道の脇に広がり始め、

23-S10_9966_GF.jpg



道との境にオリーヴの木が並び、

24-S10_9961_GF.jpg



もう実が付いているよね、と見ると、確かに! まだまだ小さい、固い粒。

25-S10_9968_GF.jpg



上り道の東側脇にずっと続く、長~い葡萄畑。 
奥から手前に。

27-S10_9973_GF.jpg

26-S10_9972_GF.jpg



いつも閉じている門が開いていたので、奥への並木道を。

28-S10_9974_GF.jpg



横を通り抜けて行く、自転車愛好者。 3人目は女の子でした。

29-S10_9978_GF.jpg



こんな風に道に対して縦の畝が続くので、上手く上と下の畑の畝の列が
合うのを睨みながら歩き、こんな風にね。

30-S10_9997_GF.jpg



この樫の木は、もう3度ほど描かせて貰ったっけ。

31-S10_9980_GF.jpg

春が無いままに過ぎた思いでずっと過ごしてきたのが、
葡萄畑はしっかり順調に育ち、房も大きくなっているのを見ると、
農家の方はやはりしっかり管理されておられたんだなぁ、と改めての想いを。



脇の草原に咲く、小さな野の花たち。

32-S10_9996_01_GF.jpg

33-S10_9995_01_GF.jpg

という所で、次回も宜しくお願い致しま~す!


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・ アーニョロ・ドーニの肖像画 ラファエッロ作 の周辺事情を

実は先日絵のブログの方に「ラファエッロ没後500年 ローマ展が再開」
しています、という簡単な、出品絵画の主たる作品の写真のみを
アップした時に、
過去にあまり類を見ない程の充実した展覧会の様で、出品作品を
見ただけで、これは見たいなぁ、と思う程で、

中に1枚、これは見たい!と書いた作品があり、これでした。

1-1548766414597019-agnolo.jpg

はい、日頃余りラファエッロの作品に関心を持つこともないのですが、
なぜかこの作品にはとても惹かれたのですね。

ええと、正直に言いますと、絵が幾ら高価で有名な作品とされていても、
どこか自分にはピンとこない作品もたくさんある訳で、はい、

その点この男性の顔と存在感にとてもイタリア男性を感じ、
そうなんです、どこかで見た感じ、とても感じの良い、お喋りしても楽しい、
楽しませてくれる、かなり雄弁でそつのない、そんなイタリア男を感じたのですね。

そしてこの存在感!!  これはもう500年前の男性というよりは、
大変に高価な時代衣装を着た現在の男性を感じる程で、
そんなこんなで逆に、ラファエッロはやはり凄いなぁ、と思ったのでした!!



で、この肖像画は誰? と興味を持ち検索すると、あっけなく

アーニョロ・ドーニ・Agnolo Doni(1474-1539)というフィレンツェの
大変裕福な布商人、芸術のパトロンでも有名だったらしい事が分かり、

2-1548765683018814-doni.jpg

おまけに、というと失礼ですが、はは、マッダレーナ・ストロッツィ・
Maddalena Strozzi(1489-1540)という、フィレンツェの著名な貴族、
銀行家、商人としても大変裕福で、一時はメディチ家と並ぶ程の家系の娘と
結婚した所。

で結婚で記念の贈り物、として2人の同寸の肖像画をラファエッロに
依頼したものであるのが分かりました。

彼らの結婚は1504年1月31日。 で、逆算すると、アーニョロは30歳、
マッダレーナは15歳、という事に。

両肖像画は、同じ大きさの63,5x45cm  板に油彩の作品。



マッダレーナの肖像は、一見かなりふくよかな女性に見え、勿論衣装も高価な
ダマスコ織で、大きな雫形の真珠のついた、上に一角獣のついた金のメダルに
ルビー、エメラルド、サファイアの宝石が埋め込まれた大変高価な首飾りを付けていて、

3-1-1548766434807905-maddalena.jpg



首飾りの一角獣、というのと、両手の位置、指輪も分かり易くと、アップで。

3-2-Ritratto_di_maddalena_strozzi.jpg



もし現代風に2人の肖像があったらという、奇特な方がアレンジして下さった様子の
写真も見つかり、こんな感じの若いご夫婦で。

4-1548766395665929-preview-doni.jpg

彼女の方は一見もっと年長に感じるのですけど、きっとこれは当時の衣装と
高価な装飾品に包まれ、髪も纏めているのが、まだ少女期を抜けない
ふっくらさに、年長の印象を与えているののだろうと思います。

多分この肖像画は結婚後1年ほどした1504~1506年位の作、というので、
裕福な貴族の家で奥深く育てられた少女が、15歳年上の世間慣れした
男性と結婚し、
1504年の秋には彼らの長女マリーアが生まれた、というそんな結婚の喜びも
含めての2人の肖像をラファエッロも描いたのだろうと思います。

2枚の肖像画の内、先にアーニョロを描いたものが、と言われていますが、
レントゲン検査によると、先にマッダレーナの作品に取り掛かっており、
というのも、彼女の背景に見える風景の高さについて確かめている様子があり、

この背後の風景は2人の肖像において、繋がる感じで描かれている風景で、

アーニョロの肖像に関しては、その迷いがなく、すっきりと仕上がっている、
との事で、彼女の肖像の下描きで確かめたのを確信をもって
先に仕上げた、のかも、という気がします。


ラファエッロ(1483-1520)は生まれ故郷のマルケ州のウルビーノから出て、
ウンブリアで仕事を始め独立し、フィレンツエに出て来たのが1504年頃、
つまり21歳で、フィレンツェですぐ受けた注文がこの2人の肖像画だった事に。

当時のフィレンツェには、1500年頃から1506年頃にかけてレオナルド・ダ・ヴィンチも
滞在しており、ミケランジェロもローマから1501年頃から一時戻り、ダヴィデ像を
完成させたのが1504年、
そしてやはりアーニョロ・ドーニから受けた結婚記念の「聖家族」を1507年までに
仕上げている、という時期で、

なんとも素晴らしい芸術環境というか、ラファエッロは敬愛するレオナルドの作品から
大変大きな影響を受け、吸収し、彼独自の技法を発展させ、という時期に当たります。



で、現在このドーニ夫妻の肖像画が展示されているウッフィッツィ美術館の
第41室はこんな様子なんだそうで!

5-1548766446489292-allestimento.jpg

6-1548766456678015-allestimento03.jpg

素晴らしく明るく広くモダンで、この部屋は「ミケランジェロとラファエッロの部屋」
と呼ばれる部屋で、
真ん中には上記した様に、ミケランジェロがアーニョロ・ドーニから注文を受けた
「聖家族」の丸い作品が。 この作品については後程。



という事で、この広い部屋にはラファエッロの他の作品も。

7-nuovo-allestimento-sala-41-uffizi-3.jpg

8-nuovo-allestimento-sala-41-uffizi-9.jpg

かっては「聖家族」は、他の部屋にあるのを見た記憶がありますし、
ドーニ夫妻の肖像画もピッティ宮殿のパラティーナ美術館所蔵だったのですが、
2018年6月5日からこの様に、ウッフィッツィ美術館の新装の部屋でのお目見えだそう。

ウフィッツィ美術館とは思えない様なモダンな部屋で、改めてフィレンツェに
出かけ、おめもじしたくなりますね!



所でマッダレーナの姿勢は、このレオナルドの「モナリザ」に似ていると書かれて
いるのが多く、斜め位置からこちらを見つめ、手も組んでいるのは同じですが、

9-Mona_Lisa,_by_Leonardo_da_Vinci,_from_C2RMF_retouched.jpg



手の組み方から言うと、こちらのラファエッロの作品「ラ・ムータ」の方が
もっと近いと思われませんか?

10-Raffaello-Sanzio-La-Muta-analisi.jpg

余談になりますが、shinkaiはこの絵をウルビーノのドゥカーレ宮の美術館で見た時、
あ、この女性はラファエッロの好みでなかったに違いない、という第一印象を。

「ラ・ムータ」というのは、「口のきけない人」の事で、実際にそういう方だったのか、
あるいは絵の雰囲気から後世にそう呼ばれる様になった絵なのか、

実際のモデルについて読みましたが、フェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロの娘で、
ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレの妻だったジョヴァンナ、という様な事で分からず。

実際にラファエッロがフィレンツェに滞在していた時に、彼女もフィレンツェに居たようですし、
高額の支払いであったに違いない事を思うと、かなり高位の人物であったろうと。

顔はラファエッロが好みそうな丸顔でも、愛嬌のある顔でもなく、さらっと描かれ、
それに反し衣装の質感、手の描写がなんとも素晴らしく、生っぽく、
当時のshinkaiは仰天したのをはっきり覚えています!



横道にそれるのがお好きな方、へへ、この絵について読んでいた時に見つけた、
「ラ・ムータ」修復のYoutubeを. 

まずひょっとしてまだ残っているかもの虫を殺す為の除菌から始まり、
塗られたニスの除去、そして虫食いの穴を埋め、上から修復という様子をどうぞ。  
途中、虫食い跡の穴の上に貼られる白い紙は和紙ですと。
https://youtu.be/OEW_WWt8tJw



所で、こうして今ウフィッツィに展示中の2人の肖像画はアクリルの透明ケースに
収められ、背後に回れるようになっていますが、

11-1548766450908396-allestimento02.jpg



アーニョロの絵の背面には、こちら「神の洪水」つまりノアの洪水図が、

13-1548761509563257-Diluvio-degli-dei.jpg



マッダレーナの背面には「デウカリオーネとピッラ」。 

12-1548761500721610-deucalione-e-pirra.jpg

この背面画はラファエッロではなく、マエストロ・ディ・セルミード・Serumidoと
呼ばれれる画家が描いており、

意味する所は、子供を持たない高齢配偶者デウカリオーネとピッラに、神が
いかにして洪水から身を守り、後に人類を復活させることを許可したかを伝え、
つまり、ドーニ夫妻の子孫繁栄を祈る、事なのだそう。

が、上記した様に、ご夫妻の最初の子が女の子でマリーア、3番目が幼くして
亡くなった男子で、名はジュゼッペ・Giuseppeというのが分かった全てです。



この両肖像画は大変な評判を取り、ドーニ家の子孫たちも代々絵を伝え守り、
現在もフィレンツェのコルソ・デイ・ティントーリ 4・Corso dei Tintori、
アルノ河の北側、ポンテ・ヴェッキオのもう1本東のポンテ・アッレ・グラツィエを
渡り1本北の通りに残る、パラッツォ・ドーニ・ドーニ邸に残されていたのだそうで。

14-1129px-Corso_tintori_4,_palazzo_doni_02.jpg

そして1826年になり、トスカーナ大公レオポルド2世により、遂にドーニ家の
手を離れ、ピッティ宮のパラティーナ美術館の持ち物となった訳ですね。

建物自体も、アーニョロ・ドーニとマッダレーナが結婚した際の当時の様子を
残していたのが、19世紀末に不動産業者が介入した時(持ち主が変わった、
という事と)玄関近くに掲げられた碑に、

アーニョロ・ドーロがマッダレーナ・ストロッツィとの結婚に際して
建設したこの家に、1505年、彼らを描いていた時に
ラファエッロ・サンツィオを客として滞在させていた

とあるそうで、子孫の語った当時の様子を碑に残したものの様ですね。

アーニョロの方は1539年に65歳で、マッダレーナは1年後の1540年に
51歳で亡くなった様で、幸せな結婚生活であった事を願います。



さてこちらは、やはり結婚記念にと、アーニョロがミケランジェロに依頼した
「トンド・ドーニ・ドーニの円形」と呼ばれる「聖家族」。

15-1506337144913089-Michelangelo-tondo-doni-principale.jpg

直系120cmの板に、油分の強いテンペラで描かれたもので、
完成した数少ないミケランジェロのパネル絵。

「ダヴィデ像」を完成させ、その後またローマに戻るまでの数年間の
滞在中に彼自身は余り好きでなかった絵画の仕事で注文を受け
仕上げている訳で、
如何にアーニョロからの依頼仕事が断れない程の支払い額だったか、
想像に難くありませんね。

ミケランジェロは後年システィーナ礼拝堂の天井画に取り掛かりますが、
その下準備になったかもしれない色鮮やかな衣類と、
マニエリズモの人物像の描き方で、

見事な額は、ミケランジェロ自身のデザインであったろうと言い、
洗礼堂の扉に残るギベルティの「天国の扉」の様に、
ポコッと頭を出すキリストと4福音使徒に、植物や、人間、悪魔?の顔、
またストロツィ家の紋の月も見える、というのですが、shinkaiには見つからず・・。



アーニョロは始末出来る事は始末し、その半面芸術に関しては
惜しみなく費やしたらしく、

今回書いている彼らの生没年も、ウフィッツィ美術館のサイト記事で
漸く見つけた程で、生前の彼らの逸話は本当に見つからず、
こうして見事な絵画が3枚今に残る、というのが彼らの生きた証に。

5-1548766446489292-allestimento.jpg

という様な、ラファエッロの素晴らしい作品「アーニョロ・ドーニの肖像画」
から始まった、3作品の周辺事情のあれこれでした。


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・ n.4 ヴェネツィア行き ・ サン・マルコ広場 その2

遂に7月になりましたぁ! 今年は春が無いまま過ぎた感じが今も残り、
もう夏、7月!という実感が余りなく、実際今週は3日ほど暑い日が続いたものの、
昨日から曇り、夜は雨で、と、これは北イタリアの田舎に住む者が言う事で、はは、
フィレンツェとかローマでは大変暑く、40度とか言っているのをニュースで。

6月の封鎖解除2日前に出かけて来たヴェネツィア、そしてサン・マルコ広場の
その2、青空の下の人出の少ない様子をご覧下さいね。

サン・マルコ聖堂のすぐ横、南側には現在のドゥカーレ宮見学の出口である
カルタ門があり、ここから見える「巨人の階段」

1-V13_9716_GF.jpg

年寄りの昔話ではありませんが、へへ、昔ヴェネツィアに来た最初の見学時は、
ドゥカーレ宮見学はこのカルタ門から入り、あの「巨人の階段」を上ったものですが、
今は上から見るだけとなり、

見学後は内庭の階段から降りて来て出口に、という事で、気を付けていないと、
広場出口の背後になるこの階段を下から見る方は殆どおられないのではないかと。



この階段は、かっては外国からの貴人たちのお迎えに使ったのだろう、
と思うのは、階段の蹴上部にこんな風に見事な象眼が施されているからでして。

2-V13_9717_GF.jpg

3-V13_9718_GF.jpg



そしてカルタ門・Porta della Carta. 見事な装飾が施されている門で、
真ん中のライオン像の前に膝まずくのは第65代ドージェのフランチェスコ・フォスカリ。

4-V13_9729_GF.jpg

彼の晩年の悲劇については n.4 パラッツォ・ドゥカーレ・ディ・ヴェネツィア
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464579305.html

このカルタ門のカルタ・cartaとは紙の事で、shinkaiは最初単純に日本の
「布告門」を想像し、同様の意味と思っていたのが、いや、ここには書記たちが
机を並べ書類書きをしていたから、と。

が、今回再検索すると、やはり布令の張り出しにも使われ、また国の文書庫が
近くにあったからだろう、というのが見つかりました。 そう、やはりね。



で、写真の左に見える壁、ここはお隣のサン・マルコ聖堂の壁なのですけど、
こんな風に、さまざまな装飾で埋められており、上の大理石の柄の模様など
とても素敵で、好きな壁なのです。

5-1-V13_9714_GF.jpg

左下にちらっと見えているのが、「テトラルキの記念碑・Monumento ai Tetrarchi」
と呼ばれている物で、



こちらですね。 余り好きでない像で、へへ、つい撮らずにいて、サイトから拝借。

5-2-sc6f628053c7dc32dfcc15ea2dc00dc67.jpg

エジプト産の赤い斑岩に彫られた2人組2体の像、元は現イスタンブルの
コスタンティノープルにあったのが、1204年の十字軍遠征での捕獲品として
ヴェネツィアに来たのだそうで!

となると、ヴェネツィア総督エンリーコ・ダンドロ率いた十字軍ですね、はは。
そう、サン・マルコ聖堂正面の上にいる4頭の馬も、本物は上の博物館にですが、
あの馬もコスタンティノープルからの捕獲品でしたっけ。

2体の像の奥の右の像の足元が白い石になっているのは、お持ち帰りになる時に、
上手く台座毎切り取れずで、この部分のみが現イスタンブルの考古学博物館に
残っている様でして・・。

ナポレオンに持って行かれた芸術作品もたくさんありますけど、それも他所から
持ってきた作品と分かったりすると、何となし彼を「泥棒め!」と
いう声も小さくなりそうで、ははは。

エンリーコ・ダンドロの十字軍 サンタ・ソフィーア聖堂博物館 ・ イスタンブル
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474423497.html



脱線から戻り、聖堂との境の壁の模様、コズマ様式の美しいモザイク。

6-V13_9720_GF.jpg



孔雀2羽と壺の素敵な花、とか、

7-V13_9719_GF.jpg



これは下の座席代わりの石の上に横並びに続く動物たちの姿で、

8-V13_9721_GF.jpg

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右側のライオン君の顔には、つい笑いを誘われますが、ははは、



一番左には長く続く彫りがあり、どちらの男性もドラゴンに脚をぱくっと
やられている様で!

10-V13_9723_GF.jpg



2本並ぶ美しい、如何にもビザンチンの香りのする角柱ですが、
ひょっとしてこれも頂いて来たやつかな?!

11-V13_9724_GF.jpg



サン・マルコ小広場の左手には、いつも見惚れるドゥカーレ宮の壁が続き、

12-V13_9730_GF.jpg



ヴェネツィアの海側の玄関口、広場の両脇に立つ2本の円柱。

13-V13_9728_GF.jpg

左、ヴェネツィアの守護聖人サン・マルコの象徴、有翼のライオン君と、
そう言えばサン・マルコの遺骸も、ヴェネツィア商人がエジプトのアレクサンドリアから
9世紀に盗んできたものだったっけ!

右側は、サン・マルコの遺骸がヴェネツィアに来るまでは街の守護聖人であった
聖テオドーロ・San Teodoro. ワニではなく、ドラゴンの背に乗っておられます。
ずっとワニだと思っていたのが、今回ドラゴンとね。



ついでに近くから撮ったお顔もね。 
日本のお獅子の顔を思い出す、勿論獅子には間違いないのですけどぉ、サン・マルコ様。

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そして、サン・テオドーロ。 3世紀の、ローマ軍のギリシャ兵だったのだそうで、
甲冑をお召し、火刑による殉教と。

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広場に影を落とす街灯。 ピンクの色も見え。 

18-V13_9734_GF.jpg



殆ど開店休業のゴンドラ溜まりと、奥にサン・ジョルジョ・マッジョーレの聖堂。
いつもながらこれを写さないと、ヴェネツィアに来たぁ!の感動がね、はは。

19-V13_9736_GF.jpg



ね、お昼が近くなる頃ですが、まだ人出は多くなく。

20-V13_9743_GF.jpg



ドゥカーレ宮の南西角、アダムとイヴの下に入場を待つ人々の列が2列に長~く続きます。

21-V13_9744_GF.jpg

コッレール博物館は休館中というのはお話しましたが、サン・マルコ聖堂も
長い入場待ちの列、鐘楼前にもかなりの列、そしてドゥカーレ宮が長蛇の列!

見ていると、鐘楼もドゥカーレ宮も6人から8人位しか一時に入場させず、
はぁ、まさに発令通りの厳しさで、それでなかなか列が進まないのですね。

まぁ、ドゥカーレ宮内部は見るものが豊富にあり、折角来られたのですから
待つのも我慢の内でしょうが、並ぶ時間が勿体ない気もしますねぇ。



ゴンドラを撮りに。 

22-V13_9746_GF.jpg

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24-V13_9750_GF.jpg

茶色の海藻類がかなりはびこっていて、海水温度は上がっているのだろうか。



細かい飾りがやはり興味を引きますが、今回は余り近づけずで。

25-V13_9751_GF.jpg

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ドゥカーレ宮の上をたくさんのカモメが飛び交うのを狙いますが、

27-V13_9752_GF.jpg

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いつもの事ながら、狙って写しても、そういう時は近寄ってくれずで、バカぁ!



ドゥカーレ宮とお隣の監獄宮との間のポンテ・デッラ・パーリア・
della Pagliaの上から見るサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂。

29-V13_9758_GF.jpg



ゴンドラがやって来るのを嬉しく待ちます。

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溜息橋の眺め。 

31-V13_9759_GF.jpg

余りにもゴンドラの数が少なく、何となく昔の絵葉書みたいだなぁ!



奥の橋。 いつもこの辺りはゴンドラがいっぱいで、衝突しそうなのにね。

32-V13_9761_GF.jpg



ゴンドラが向こうから来るのを見つけたら、橋の上で、す~っと舳先が
出て來るのを待つのが好き!

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ゴンドリエーレも姿を現し、ほらこちらが監獄、と説明中かな?

そう、溜息橋を涙と溜息で渡るのは、囚人だものね。



ドゥカーレ宮の角、「酔っぱらったノア」の像、息子が心配そうな顔で
腰布を掴んでいるのが可笑しくも、気の毒で、はは。

37-V13_9771_GF.jpg

でも、ノアがいつ酔っ払ったんだろうと、知りたくなりません?



朝早くから出かけて来て、そろそろお昼をどこで、と気になり始め、
サン・マルコ聖堂の北側の通り辺りはどうかな、と歩き始めると、
ちょうど正午の鐘が鳴り始め、

時計塔の上で2人が鐘をつくのが、なぜか今回は何度も繰り返すので
眺めていると、手前側のベッキオの横に見える、つまり鐘の後ろ側の
バネが開いたり閉じたりするのが見え、

38-V13_9784_GF.jpg

39-V13_9787_GF.jpg

そうか、あれが鐘を突く槌を動かすのか、と発見、納得。



この後、どこでお昼を、とあれこれ店の並びを見ながら考えつつ
リアルト橋の手前まで行き、小路の横の落ち着いた店でお昼を。

という、サン・マルコ広場の様子でしたぁ。

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はい、ヴェネツィアは変わりなく健在!! で~す。


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