先回に続き、暫く前から頭に浮かんでいる「ピサ・Pisa」の街、
・・こちらイタリアの緊急状態は10月半ば迄延びる様子ですし、
今の状態ではいつ行けるかも分かりませんが、
備えあれば憂いなし、という気持ちでの下調べを皆さんへのご案内にも。
・・こちらイタリアの緊急状態は10月半ば迄延びる様子ですし、
今の状態ではいつ行けるかも分かりませんが、
備えあれば憂いなし、という気持ちでの下調べを皆さんへのご案内にも。
ピサの街、上空からの眺めを。 街中を2分して流れるアルノ河を挟み、
北西に世界に誇るピサの、いやイタリアの、3大見所がしっかり見えますね。
北西に世界に誇るピサの、いやイタリアの、3大見所がしっかり見えますね。
という事で、今回は10の魅力ある見所の前半の5つを、どうぞ!
まず地図を。 ピサ中央駅が下真ん中にあり、まっすぐ北に出て
渡る橋がポンテ・ディ・メッゾ・真ん中の橋、と大変分かりやすい名で、ははは。
渡る橋がポンテ・ディ・メッゾ・真ん中の橋、と大変分かりやすい名で、ははは。
アルノ河の北側にある、9.アルセナーレ・造船所、 8.ボルゴ・ストレット・
旧市街の繁華街、 7.ピアッツァ・デイ・カヴァリエ-リ・現ピサ大学と広場、
は先回ご案内済みで、
旧市街の繁華街、 7.ピアッツァ・デイ・カヴァリエ-リ・現ピサ大学と広場、
は先回ご案内済みで、
今回は
5. パラッツォ・レアーレ・Palazzo Reale・王宮
ポンテ・ディ・メッゾを渡り、ルンガアルノ河畔を左に。 元々は12世紀中頃に
建設のカエターニ家・Caetati、1000年頃より続く貴族で有名な教皇
ボニファーチョ8世などの輩出の一族ですが、その大きな屋敷があったのが、
建設のカエターニ家・Caetati、1000年頃より続く貴族で有名な教皇
ボニファーチョ8世などの輩出の一族ですが、その大きな屋敷があったのが、
メディチ家に移り、15世紀後半に周囲の建物や店なども除き、拡張再建したもので、
現在は国の博物館として公開されている物。
現在は国の博物館として公開されている物。
なぜ「王宮」と呼ばれるかは、19世紀頃まではトスカーナ大公の居住だったのが、
イタリア国に併合の後に、イタリア国王となったサヴォイア家・Savoiaが使ったので、
現在の名「王宮」となっているそうで、内部はこんな感じ。
イタリア国に併合の後に、イタリア国王となったサヴォイア家・Savoiaが使ったので、
現在の名「王宮」となっているそうで、内部はこんな感じ。
歴代の主が収集した美術芸術品があり、ラファエッロやカノーヴァの作品も、と。
所でこの塔、トッレ・デル・カントーネ・Torre del Cantone、メディチ家以前から
あったのが接収され使われ、ここでガリレオ・ガリレイが彼が発明の望遠鏡を
トスカーナ大公コジモ2世に使って見せた、とあり、
あったのが接収され使われ、ここでガリレオ・ガリレイが彼が発明の望遠鏡を
トスカーナ大公コジモ2世に使って見せた、とあり、
これが現在ミラノの科学博物館所蔵の、ガリレオの使った望遠鏡の複製で、
革でしょうか? 飾りが豪華ですねぇ。
で、コジモ2世って誰? と調べましたら、この方。 CosimoII(1590-1621)
トスカーナ大公3代目フェルディナンド1世の息子で、1609からわずか12年間の大公、
というよりも、31歳の若さで亡くなっていて、
というよりも、31歳の若さで亡くなっていて、
そうか、フェルディナンドの息子かぁ、とコジモ1世後のフェルディナンドと彼の兄
フランチェスコとの御家騒動を思い出した次第。
という様子で、一応の街の主要名所のご案内は終わり、
いよいよピサ最大の「奇跡の広場・ピアッツァ・デイ・ミラーコリ」 1987年に
ユネスコの世界遺産指定を受けている、ピサの、イタリアの誇りの1つのご案内に。
このなんとも典雅な、としか言葉が思い浮かばない、素晴らしい3つの並び!!!
左から洗礼堂、ドゥオーモ、そして鐘楼・斜塔と3つ並びますが、洗礼堂の左に見える
白い低めの回廊が、この3つに加わるカンポ・サント・モヌメンターレ・
Camposanto Monumentale・いわゆる墓地で、
白い低めの回廊が、この3つに加わるカンポ・サント・モヌメンターレ・
Camposanto Monumentale・いわゆる墓地で、
4. カンポサント・モヌメンターレ・Camposanto Monumenntale・記念墓地
1277年に建設が始まった、長年にわたり聖堂の周囲に溢れていた石棺やお墓を
纏めて埋葬する為のもので、
纏めて埋葬する為のもので、
「カンポサント・聖なる地」の名の由来は、ジェルサレムのゴルゴダの丘、キリストが
処刑された聖なる地の土を、第3回の十字軍の戻りに何艘の船で持ち帰り、
この地の土と混ぜて使った、という事から来ているそう。
処刑された聖なる地の土を、第3回の十字軍の戻りに何艘の船で持ち帰り、
この地の土と混ぜて使った、という事から来ているそう。
ここに埋葬される、されていたピサの著名人たちの石棺などは、エトルスクの昔から
ローマ期、中世、そして19世紀にまで及ぶもので、
ローマ期、中世、そして19世紀にまで及ぶもので、
残念ながら第2次大戦時の爆撃により被害を受け、未だ修復作業が続いているそう。
何十年か前のピサ訪問時の、shinkaiの一番大きな記憶は斜塔に上った事も
そうですが、このカンポサントの長い広い回廊全面に残っていたフレスコ画でした。
そうですが、このカンポサントの長い広い回廊全面に残っていたフレスコ画でした。
今回こうして写真を探していて、どうやらよく覚えている壁画、確か「死者の勝利」
と名付けられた壁画部分がこうして、壁から剥がされ、別に移された事も知りました。
左下に見える棺の中には、蛆が湧き、蛇が這いまわる死者がおり、通りかかる
旅人達は顔をしかめ、鼻をつまむのが描かれており、
旅人達は顔をしかめ、鼻をつまむのが描かれており、
「カンポサント」なる意味も知らずに見学に回った当時の私は、そのモチーフに
大きな衝撃を受けたのでしたが、一方その的確な描写にも驚きで、
いつかまた見たいもの、と折に触れ思い出しておりました。
大きな衝撃を受けたのでしたが、一方その的確な描写にも驚きで、
いつかまた見たいもの、と折に触れ思い出しておりました。
3、4連の聖なる建物類の緑地の南に「シノーピエ博物館・Museo delle Sinopie」
があり、シノーピエというのは、このカンポサントのフレスコ画の壁画の下絵で、
修復の為一番上の層の絵を剥がした後に出る赤茶の下絵が集められた博物館。
があり、シノーピエというのは、このカンポサントのフレスコ画の壁画の下絵で、
修復の為一番上の層の絵を剥がした後に出る赤茶の下絵が集められた博物館。
ここも知らずに行き偶然見学できたもので、これも大きな収穫でした。
現在もここの一連の入場券に含まれているそうですから、行かれる方はチャンスにどうぞ。
3. サンタ・マリーア・アッスンタ聖堂・Cattedrale di Santa Maria Assunta
ピサの街のドゥオーモ、「昇天する聖母マリーア教会」と名付けられている聖堂は、
ピサ様式ロマネスクとして素晴らしく美しいものですが、建設が始まったのは1063年、
ピサ様式ロマネスクとして素晴らしく美しいものですが、建設が始まったのは1063年、
それまでの古い様式、ビザンティン、初期キリスト様式、アラブと様々な様式が
混ざり、この聖堂に最初に現れた物と言われ、
この後フィレンツェに伝わり、そしてトスカーナ一帯に、そして当時ピサ共和国の
下にあったコルシカ島、サルデーニャにも広まったと言います。
外側は様々な色の大理石、そしてモザイク、青銅の装飾で、
内部は白と黒の大理石、そして円柱にはグレーの大理石と、
内部は白と黒の大理石、そして円柱にはグレーの大理石と、
当時のピサ海洋共和国の繁栄を伝える素晴らしいもの。
内部の様子。 深い格天井、白と黒のすっきりのアーチ、内陣天井のビザンチンの
モザイク、とシンプルで見事な美しさ。
モザイク、とシンプルで見事な美しさ。
なまじ後世に街の繁栄が無かった分、こうして古い様式が内部にしっかり残っているのも
今の時代に生きる我らの目には嬉しいものですね。
今の時代に生きる我らの目には嬉しいものですね。
2. バッティステーロ・Battistero・洗礼堂
聖堂の前に位置する洗礼者サン・ジョヴァンニに捧げられた洗礼堂は、
イタリアの洗礼堂では一番大きなもので、周囲は107,25m、
建設は1153年に始まったものの、完成は1世紀後の二コラとジョヴァンニ・
ピサーノ父子の手によるもの。
これは建設費の不足によるもので、使われている石材、屋根もテラコッタと鉛と
混ざりあっていますが、それはまたそれで美しく、
外側周囲の装飾様式もなんとも典雅で素晴らしく、どっしりとした佇まい。
混ざりあっていますが、それはまたそれで美しく、
外側周囲の装飾様式もなんとも典雅で素晴らしく、どっしりとした佇まい。
内部の洗礼盤で、1564年にガリレオ・ガリレイが洗礼を受けたそうで、
二コラ・ピサーノの手になる説教壇のモチーフは「キリストの生涯」と。
上、2階に上がれ、聖堂正面の絶好の撮影ポイントの様ですね。
と、洗礼堂の背後に見える街の城壁には上がって歩く事も出来る様子で、
全長3km、確か現在3エウロ、幾つかの上り下り口がありますが、
洗礼堂の後ろにも上り口があるそう。
1. トッレ・ペンデンテ・ディ・ピサ・La Torre pendente di Pisa・ピサの斜塔
イタリアの記念物として世界に一番よく知られている物の1つ、
たくさんの人々が斜塔を支える記念撮影をしている有名な物、ですねぇ!
たくさんの人々が斜塔を支える記念撮影をしている有名な物、ですねぇ!
聖堂の鐘楼として建設されたものですが、それにしては円形というのもかなり珍しく、
しかも少し離れていますよね? これが不思議な感じがするのですけど。
しかも少し離れていますよね? これが不思議な感じがするのですけど。
建設が始まったのは1173年で、4階建設の時に既に傾斜が始まり、基盤の
土地が砂地だった為というのですが、傾斜が増すのを防ぐ為反対側に傾けて
建設を続け、でも傾斜は続き、遂に完成まで2世紀を要したと。
土地が砂地だった為というのですが、傾斜が増すのを防ぐ為反対側に傾けて
建設を続け、でも傾斜は続き、遂に完成まで2世紀を要したと。
それにしても、様子を見ながら、神経を使いながら、しぶとく建設を続け、
遂に完成させた、というのが凄いと思われません?!
遂に完成させた、というのが凄いと思われません?!
そしてshinkaiがよく覚えているのは、斜塔についている階段294段には、人々が
上った足跡がすり減って残っているのですよ!
上った足跡がすり減って残っているのですよ!
という事は、鐘楼の鐘付きも勿論、傾斜していても上り下り続け、見物人もたくさん、
それも何世紀間に渡り、という事で、ははは、
本当に良くも崩れなかったものですねぇ!!
それも何世紀間に渡り、という事で、ははは、
本当に良くも崩れなかったものですねぇ!!
周囲の壁装飾、柱頭飾りもお見逃しなく!
かなり長い間閉鎖され改修工事が続き、2002年から再び公開されていて、
今は確か予約が必要ですが、
56mの高さからはピサのパノラマが一望に!!
ですがね、今も下の階の方は周囲の手すりがありませんよね。 床の大理石が
すべすべなもので、たとえ5%の傾斜とはいえ、下がる側ではかなり緊張した事を
よく覚えていますから、上られる方、お気持ち丈夫にね、きゃは。
すべすべなもので、たとえ5%の傾斜とはいえ、下がる側ではかなり緊張した事を
よく覚えていますから、上られる方、お気持ち丈夫にね、きゃは。
最後は美しいライトアップを。 これは見事! 実際に見たいものですねぇ!!
と、いつか必ずピサ旅行を実現させよう、という気がふつふつと湧いて来ています。
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さて私は、夏休みを頂く為8月はブログをお休みを頂きますので、
宜しくお願い致しま~す。
という事で、最後は、先日亡くなったエンニオ・モリコーネの素晴らしい旋律を、
たくさんある中からヴェネツィアの夜景を背景にどうぞ。
心に染み入る素晴らしい旋律をたくさん贈って下さったエンニオ・ミリコーネ。
「迷惑を掛けたくないから」と、お葬式の済んだ後のニュースでした。
ご冥福を祈ります。
「迷惑を掛けたくないから」と、お葬式の済んだ後のニュースでした。
ご冥福を祈ります。
では皆さんも、良い夏休みをお過ごしくださいね!
また9月にお目にかかりま~す。
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