・ フィレンツェがイタリアの首都だった時 → ローマ・ポルタ・ピアの割れ目

ええと、今回のタイトルがピンと来ない方がたくさん居られると思いますが、
はぁ、shinkai自身もこうなるとは思っておりませんで、へへ、

かってフィレンツエがイタリアの首都だった時、つまりローマに首都が移る前
1865年~1871年の6年間、フィレンツエがイタリアの首都だった時、
フィレンツェの街は大きく改造され、中世からの壁を取っ払って幅40mの
道路が造られたり、

現在のレップブリカ広場・共和国広場と呼ばれる、レトロなイメージの
メリーゴーランドが回っている広い広場が造られた、という事で、

1-Piazza_Repubblica_Firenze_Apr_2008_1-Piazza_Repubblica_Firenze_Apr_2008.jpg



このレプッブリカ広場という名も、1946年にイタリアが共和国・レプッブリカと
なって以来の名で、それ以前は1890年から「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世広場」
と呼ばれていたというのですね。

でそれ以前は「メルカート・ヴェッキオ広場・Piazza del Mercato vecchio・
旧市場広場」と呼ばれ、旧市場が混在する場所で、それが首都になった時の
大改造で取り払われ、ついでに隣にあったユダヤ人のゲットーも無くなり、

2-m-vecchio-for-blog-copy.jpg

現在の街の真ん中にどんと広がる、カフェがテントを張り出し、メリーゴーランドが
回り、時に土地の物産展が催されたりの、観光客の一休みに、家族連れの
散策にも良い広場となっていますが、



かってのメルカート・ヴェッキオ時代の写真や絵画のサイトをいくつか見つけ、
中世の面影を残していたフィレンツェが、これで大いに変わった、という位置付けで、
興味を持ち、それをご案内しようと思っていたのでしたぁ。

3-img902-vi.jpg

4-distruzione-Piazza-del-Mercato-vecchio-Firenze.jpg



所がフィレンツェにたったの6年間の首都移転で、その後ローマに移ったのは
いつ?なぜ?!と疑問を持ち、あれこれ芋づる式に読み、知り始めると止まらず、
ははは、だって知らない事、言葉ばかり出て來るのですものぉ、

おまけに国王ヴィットリオ・エマヌエレ2世の愛人まで出て來ると歯止めが効かず!
ははは、これは次回のお楽しみに。

ローマに首都移転となった突破口「ポルタ・ピア・ピア門の割れ目・ブレッチャ」
なる言葉、意味、そしてその奥に大きな問題として残っていた教皇、教皇領に
ついても改めて、ああ、そうだった、となり、

つまり今回のタイトルはshinkaiの知る過程、思考経過を示し、
「フィレンツェがイタリアの首都だった時 → → ローマ・ポルタ・ピアの割れ目」
となった、という事なのでありま~す。



という事で、「フィレンツェの首都期間」の方が年代的には先なのですけど、
先に知ってしまった「ローマのポルタ・ピア」、なぜ一時的にフィレンツェに
首都を置かなければならなかったか、についてのご案内からで、宜しくぅ。


ええと、イタリアのピエモンテ地方からフランスにかけて領土を持っていた
サヴォイア家が1720年にサルデーニャ島も領土にした後にサルデーニャ王国と名乗り、
トリノに首都を置き、1861年まで。
イタリア統一運動後1865年まで、イタリア王国の首都として存在しました。

こちらがトリノの王宮。

5-Torino_palazzo_reale.jpg

但しこの時のイタリア王国は、ローマとヴェネト州を除くイタリア国だったのですね。
つまりヴェネト州はオーストリアの下にあり、ローマはローマ教皇の教皇領だったので。

そして1865年にイタリア王国はフィレンツェに首都を移します。
はい、幾らトリノの街が素晴らしく、工業都市であったにしろ、イタリアの首都と
名乗るには端っこ過ぎますものね。

そしてイタリアの首都としての熱に浮かされ、あちこち街の大改造も手掛け、
財政金庫がからっぽになった、という程だった様子ですが、



1870年9月20日イタリア王国のベルサリエーレ軍・Bersaglieriが
ローマのポルタ・ピア・ピア門の裂け目から突入、遂にローマは陥落、
イタリア王国の首都と、古代以来ローマは常にイタリアの首都でしたから、
「永遠の都」の位置に戻った、と言うべきか、になったのでした。

こちらが現在のポルタ・ピアの様子で、

6-porta_pia.jpg



位置はここに。 16世紀半ばに造られたもので、当時ミケランジェロが設計したと
言われますが、実際の設計図通りだったかどうかはと。

s7-porta pia.jpg



で当時は、今も、ローマをぐるっと囲む3世紀に造られたアウレリアヌス城壁があり、

s8-05345982e9ede030c0_XL.jpg



ポルタ・ピアの古い絵葉書がこれで、右側に城壁が崩れているのが見えますね。
あそこが「ラ・ブレッチャ・ディ・ポルタ・ピア・ポルタ・ピアの裂け目」
と言われる部分。

s9-breccia-ppia.jpg

ですが、現在はこの城壁は横を道が通っている様子で。 それにしてもローマ人は、
3世紀にこんな頑丈な、そして長~い城壁を造ったのですねぇ!!



で、1870年9月20日、ピア門から約50m西の位置で、イタリア王国の砲兵隊が
4時間の大砲攻撃の後に、工兵隊の突撃が功を奏し、約30mに渡る城壁が崩れ
裂けめが出来、そこからベルサリエーレ兵(狙撃兵部隊)と歩兵が突入、
教皇軍と戦闘が行われたと。

10-cropped-breccia_porta_pia.jpg

11-unnamed (2).jpg

s12-Porta_Pia_Pagliari_Vizzotto-1024x654.jpg

日本語版ウィキには、「ピア門から十数メートル西に大砲の砲弾が当たってできた
城壁の裂け目があった。 これを "Porta Pia breach" と呼ぶ。
1870年9月20日、そこからローマにベルサリエーリ(狙撃兵)部隊が侵入し、
イタリア統一が完成した」とあり、

これだけ読むと、元々城壁に裂け目があった所からするっと侵入した様で、
無血入城みたいに思えますよね?

が朝5時15分に始まり、10時5分になり教皇軍が白旗を掲げたという激しい戦闘で、
イタリア王国軍は4名の士官を含む49名の死者、9名の士官を含む
141名の負傷者、
教皇軍側は1名の士官を含む19名の死者、68名の負傷者、という数字。



こちらは多分新聞記事と思いますが、「Roma è italiana・ローマはイタリア」
とあり、教皇領でなく、イタリア国なんだよ、という喜びの声に聞こえません?!

13-unnamed (3).jpg

下にベルサリエーレの12と41分隊がポルタ・ピアの裂け目から街に入った、
とあり、城壁の裂け目に矢印が。



こちらは多分後日の、見物人たち! のんびり感が漂いますねぇ。

14-breccia_di_porta_pia.jpg



1932年にムッソリーニが門の前の広場に、ベルサリエーレの記念銅像を設置
しての現在の姿。

15-unnamed (1).jpg



こうしてローマの街はイタリア王国軍に占領され、同年1870年フィレンツェから
ローマに首都が移されます。

が、ローマ教皇は一切認めず、「簒奪者たちを破門」にしたものの、
10月2日の住民投票では「ローマのイタリア王国への併合」が圧倒的に
賛成、可決となります。

で、翌1871年5月王国側は「教皇保障法」なるもの、教皇の地位と宗教活動
には保証を与えたものの、世俗的権利を否定、ヴァティカンとラテラーノ両宮殿を
除く旧支配地を没収し、国と教皇側の対立が続きます。

この方が時の教皇ピオ9世。

16-375px-Pius_ix.jpg



で、当時の教皇領の広さの地図はこちら。
ローマ周辺の薄いグレイの色から、右上アドリア海側をさかのぼり、ポー河の辺り、
ロマーニャ州迄の一帯が含まれる土地迄で、

17-Papal_States_Map_1870.png

これに加え、領土内の執政、裁判の大権利も握る位置におられたわけで!



教皇自身が自らを「ヴァティカンの囚人」と呼び、カトリック信者が議会選挙に
投票する事を禁じたりで、この「ローマ問題」と呼ばれた対立は1870年から1929年
までの3代に渡る教皇の間で続きますが、

こんな近代社会の自由や近代思想、文化を否定するピオ9世教皇に対して反発が
強まり、教皇自身がローマを離れたり、その間にローマ共和国が成立したり、
ecc、ecc、

1878年2月7日に31年7ヶ月の長い在位期間の後に死去された時は
葬儀でデモが起こり、棺に泥を投げつけたり、テーヴェレ河に投げ込もうとする
騒ぎもあったりの、人民とまるでかけ離れた教皇生活を終えられた方だった様子。



1929年になりピオ11世の時代に政府とヴァティカンの間で和解が模索され、
遂に世界最小の独立国「ヴァティカン市国」が成立し、現在に至ります。

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全世界に広がる20億人ですか、の頂上にあるヴァティカンで、その長の教皇様
となると、目に見えない物凄い力をお持ちと思いますし、

かってその力を思い通りに行使できた時代の教皇様方、やはり一旦握った
力は離したくない様で、宗教人とは別の次元の人間におなりなのかも、ですね。


そうそう、ヴェネト州がイタリア王国に入るのは第一次大戦後、
オーストリアに勝って後の事になります。


トリノ、フィレンツェ、ローマへのイタリアの首都変遷は知ってはいたものの、
成り行きはまるで知らずでいたので、今回大変興味深く、楽しみました。

次回は少し後戻りし、「首都フィレンツェ」について、旧市場の様子もろもろ、
もどうぞお楽しみに!


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