・ n.2 ヴィドールのサンタ・ボーナ修道院 ・ 重戦禍からの蘇り

先回n.1のご案内では、今もサンタ・ボーナ修道院と呼ばれながら、
実際は18世紀末に修道院としての働きを廃止されたヴィドールの修道院。

その後はヴェネツィア貴族の別荘として購入使用、広大な農地運用も
上手く行われていた、という様な様子をお話いたしましたが、

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修道院設立は1107~1110年、ヴィドール領主のジョヴァンニ・グラヴォーネ・
Giovanni Gravoneが1096~1099年の第1回十字軍に参加した際
持ち帰ったサンタ・ボーナ・聖女Bonaの聖遺物(骨壺)を祀り保管する為に。

サンタ・ボーナはエジプト人処女、つまり殉教した方だろうと思いますが、
検索では個人については何も見つからずでしたが、
トゥレヴィーゾの北西にサンタ・ボーナの地名があり、これはかってジェルサレム
から持ち帰ったサンタ・ボーナの遺物を、ヴィドールの修道院が出来る迄
置いていた所で、近隣の住民たちの信仰篤く、地名として残っているのだそう。

この後1915年~18年の第一次大戦ではこのヴィドールも戦場となり、
当時ここにはオーストリア・ハンガリー軍がおり、1917年11月10日の戦闘で、
何せピアーヴァ側の対岸にはイタリア軍の前線があり!

これから中をご覧頂く教会もこの様な被害を受けたのでしたが、

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現在見事に修復されている内部正面。 

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内部の暗さと、入り口扉からの光り、内陣奥からの強い光、という事で
うまく撮れずでご容赦を。



右側の壁に残るサン・クリストフォロ像のフレスコ画。 
そう、サン・クリストフォロは川渡しの守護聖人ですものね。

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サン・クリストフォロ像は、中世に大変好まれ描かれており、大男の力持ち、
肩に子供のキリストを乗せた姿で描かれます。

この修道院の下には、ピアーヴァ側の対岸とを結ぶ舟橋・舟を繋いで板を渡した
舟橋が唯一の渡しとして、19世紀の末に木製の橋が架かるまで存在しました。



天井の格子装飾。
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内陣の祭壇。 色大理石を使った重厚な物。

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この背後にサンタ・ボーナの骨壺が収められている、というのをころっと忘れ、
見ておりまへん。



細工の込んだ机。 祭壇の前の、聖書を置く書架用と。

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内陣手前右側から段を2,3段下りた所が回廊となっており、

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これは東側の壁に描かれたフレスコ画。 フレスコ画は見やすいように
少し色を濃い目にしています。

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フレスコ画は1459年頃のもので、聖母子を囲み天使、聖人たち、僧侶、
これが分かりませんが、手前聖母の足元に小さく描かれたのは巡礼たちと。
つまりこれが当時の修道院の姿で、後の高位不在聖職者の管理による
退廃腐敗になる以前ですね。



回廊の壁にあった碑。 上の年号が読めずに残念ですが、下にVIDORIと。

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回廊の建設は1262~1283年、教会正面がロマネスク様式なのに対し、
こちらはゴシック様式。



壁の天井下、アーチにも見える装飾模様。

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回廊は四角で、こちらは西側、開いて見える扉内が教会。

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一辺の円柱は4本で、角にこの様に結び目の装飾柱。 
shinkaiは勝手に結び目と呼んでいて、ガイドさんも「ノード・結び目」と
呼びましたが、正式イタリア語ではセルペンテ・蛇だそう。

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で、角の3本はこの結び目ですが、南西角は爆撃を受けた被害で、
円柱のままのが使われておりました。 一番下の写真の奥の角柱を。



ここは回廊の南東端から延びる廊下の突き当り部分。
なんとも静謐な雰囲気で、良いなぁ、と。

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奥の右に空いている部分から庭に出れ、



静かで平穏な風景が広がります。 秋の色もちょっぴり。

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少し表側に進むと見えるバルコニーと、先にうっすら霞むヴィドールの橋。

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という所でご覧頂くのが、この1704~1705年の修道院の地図。
つまり現在残っているのは真ん中から右側部分で、道脇の三角形が
Cimitero・墓地で、その下の白い部分がChiesa・教会、
その下の黄土色部がキオストロ・回廊で、周囲をカピートロの間や、
食堂が囲み、右下端黄色はHorto・農園。

24-mappa-catastico-abbazia-di-vidor-1704-1705-min.jpg

で、真ん中の棟の左側に大きな回廊が広がり、周囲を建物が囲み、
深緑色の右のBrolloは荒地の意で、開墾されていない、でも城壁内。



先回見て頂いた現在のこの建物が、絵図の真ん中の棟で、手前に
大きな回廊が存在していた訳ですが、

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これが第一次大戦での爆撃で損傷を受けた姿で、ほぼ完全に廃墟と。
教会も上で見た写真よりも損傷が酷く、多分こちらが最終的な姿だった物と。

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この壁は絵図の荒地部から見た、現在は小さな1か所を囲み菜園になっていて、
そこからの建物の東側外の壁。 かなり痛んでいますが装飾が残ります。

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菜園脇に残る紫陽花。 葉も色が美しいでしょう?! 

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こちらが屋敷を管理する方、名前を忘れましたぁ。

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端の方でお馬ちゃんが飼い葉を食べていて、サイトでは2頭いましたが。

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これがグーグルの衛星地図で見えた入り口。 が、今はずっと閉まっている様子。

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納屋の長い建物の扉から出て来た所で、見える石塀は城壁ではなく、

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絵図にあった「荒地」部、この広さで今はトウモロコシ畑に。

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で、この畑の真ん中を通り抜け、右下にカーブを切るとこの下り坂で、

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つまり考えてみると、古い絵図のぐるっと囲んでいる城壁部分迄来て曲がる、
という訳なのに気が付きました。



城壁の下の部分が見えて来て、

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道なりに左に曲がって下ると、



かっての舟橋の港、連絡口。 多分この辺りも修復されていると思いますが、

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こんな風に対岸が見え、午後遅めの太陽が霧で少しぼんやりと。
流れはかなり深く、早く、大きな流れになっているのも見えます。

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ヴィドールの橋がぼんやりと。

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我が車で一緒したエレオノーラ。 あの薄めダウンは、ジーロ・ディターリアの
記念色で、コネリアーノの市で安く10か、15エウロだったと!

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戻り道で見えた納屋の建物、右側は管理人の住まいだったとか。

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で、これ。つまり南側の建物の被害模様。 窓、扉が同じで分かりますね。

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角にあった第一次大戦の被害についての案内で、上でご覧頂いた写真も見え、

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納屋の建物の壁に残るこの銃痕跡と、

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これは1917年4月に、ここの建物が怪我をした兵士の収容に充てられた時の
イタリア兵の残した名前など。

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これはヴィドールの、先回の最初に見えた北の山の向こう側に備えられた
オーストリア・ハンガリー兵の対飛行機用機関銃、1918年初め、ですと。

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今回ガイドをして下さったヴィドールにお住まいで、子供の頃からよくこの
元修道院に出入りしていたと言われるマウリツィア・マント・Maurizia Mantoさん。

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この修道院の説明のみならず、ヴェネト一帯の土地の歴史にも大変詳しく、
近くのエッツェリーノ・ダ・ロマーノ、ヴェローナのカン・グランデ・デッラ・スカーラ
等との交錯も話に出て来て、この日参加した仲間達は大いに楽しんだのでした。



最後は彼女の著書からの写真で、ピアーヴェ河対岸からの修道院の姿を。

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長い歴史を持ち、一旦は衰退退廃、廃止された修道院を受け継ぎ、第一次大戦で
ほぼ壊滅状態になった建物を、幸いな事に教会と回廊はなんとか残ったのを、
今の状態にまで見事に修復し、後の世代に残すという大仕事をなされた、

貴族精神の神髄を示されたサッコ伯爵にも、おおいなる敬意を表します。
どうぞお元気で長生きされます様に!!


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・ ジーロ・ディターリア2020  ミラノ到着 総集編

イタリアのコロナ感染者数は毎日上回り、一昨日2万人を超え、
コンテ首相は新たに、バール・ラストランの閉店を18時とし、
プール、ジム、映画館、劇場、音楽会の全面閉鎖などの条例を。

ヨーロッパ全体の感染者が恐ろしい程の、想像を超えるうなぎ上りで、
これからクリスマスにかけて少しでも安心感得る為に今の所は、
という思惑なのでしょうが、

バールやレストラン関係者や一般の人々が、ナポリでもローマでも、
昨日はトリノでもかなり過激な反対運動を繰り広げています。

生活が懸かる経済問題なので何とも言いようがありませんが、
私個人としてはとにかく少しでも感染者数が留まる様、願っています。


*****

さて10月3日から始まった2020年の第103回のジーロ・ディターリアは
遂に21日間の行程を終え、25日日曜ミラノに到着、無事終了いたしました。

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まだまだ残暑のシチーリアを出発した選手たちは、

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徐々に北上するにつれ、いつも春の緑の中を行く選手たちは、今年は秋の
彩の中を、また積雪の風景の中を走り抜けるという異例な日程でしたが、

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また北の最終日程に移動するにつれ、山岳地帯の厳しい毎日と、悪天候で
選手達から抗議が出て、23日の第19行程は半分の距離に。

この日お昼にTVを付けると、各チームのバスや伴走車が雨の中を移動中の
映像が映り、下に競技は取り消され、13時半頃に再開、と出て、
何事かと思っていると、

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前日の行程が厳しい6時間以上に及ぶ、ステルヴィオ・Stelvioという
こんな峠道を行く行程で、

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おまけに競技終了後のホテルへの道が大停滞で夜遅くなり、翌朝は大雨。 
で選手達から抗議が出て、

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行程距離が半分となり、出発という事態もありました。

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でもこの日夕方近くからTVを付けたshinkaiは、丁度あとゴールまで15,7kmの
時に既に単独でトップを逃げていたチェコのヨセフ・チェルニーが、
今上に真ん中に41秒と出ている、第2グループの5人に追いかけられながら、

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11分07秒遅れ、と出ているのがマーリア・ローザの主グループ。



追っかける5人の第2グループは、皆所属するクラブが違うものの、
ほら2列になって順繰りに先頭を変わりながら皆で引っ張り合いつつ追いかけ、
今あとゴールに2,6kmの位置で17秒の遅れにまで追いつき、

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こういう単独の逃げは、グループに追いかけられると大体いつも徐々に
近寄られ吸い取られるので、shinkaiは本気になって応援を!

が、チェルニー選手は頑張って逃げ切り! ほら、右後ろにおぼろに影が。

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そうそう、18日第15ステージでは、フリウリ州のリヴォルトの空軍基地からの、
イタリアのフレッチェ・トゥリコローリ隊の基地からの出発で、こんな風景も。

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これは見たいと思い、翌日朝に放映の前夜の総集編を楽しみにして
番組時間を見ると8時15分からで、8時10分に点けるともうとっくに出発しており、
もぉ~ぅ!



という様な事で、怪我、雨にやられ肺炎を起こしたりで、何人かの途中棄権も
ありましたが、何とかコロナ感染者を出さずに最終日のミラノ到着となった、
かなり異例な今年のジーロ・ディターリアでした。

移動中継車の中はこんな様子で、

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ミラノのドゥオモ前の放送舞台だけでもこんなにカメラ数があり、

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その他に一体何台のバイクの後ろに座ったカメラマン達がいる事か!!
そんな物凄い大部隊が毎日移動して行く、大変な行事なのですね。



という、いよいよの最終日、第21ステージのミラノで~す。 

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25日のミラノは残念ながら快晴でなく、冬の足音が聞こえるような
かなり霧の曇り日でしたが。

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いつもは満員となる広場も、今年はお祭り行事はなく、コロナ感染者が多い
ミラノでは多分自粛された様子で、寂しい広場でした。



最終日は速度測定、クロノメトロの日で、かってのミラノへの運河が残る
チェルヌスコ・スル・ナヴィーリオ・Cernusco sul naviglioからの15,7km.
コネリアーノからのクロノメトロでもトップで出発したジョナサン・ディッベンから。 

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ずっとチクラミーノ色・シクラメンの、区間賞最多点のアルナウド・デマーレ。

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でトップで出発したジョナサン・ディッベンがゴールし、19分29秒の成績。
で、これからゴールする選手が増えるにつけ、トップの順位と速度がどんどん変化を。

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今回103回目のジーロ・ディターリアの初日、シチーリアのパレルモから
モンレアーレはクロノメトロ競技で、コネリアーノからのクロノメトロでも勝った
フィリッポ・ガンナが勝っており、俄然注目を。

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以下は顔、名を知らず、どの日か正確に分かりませんが、各日の優勝者の顔!

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これはフィリッポ・ガンナ。 クロノメトロのみでなく、第5ステージ225kmでも!

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クロノメトロのゴールは、ヴィクトル・Campenaertsが17分47秒で今1位。

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そしていよいよ注目のフィリッポ・ガンナが出発。

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で、ご存知の方お教え願いたいのですが、今下に出ているSogliaの横、
60%と出ていますね。

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Sogliaと言うと、入り口、敷居、岩床、境界、限界等々辞書にありますが、
解説者などの話しているのを聞くと、普通は大体58%位なんだそうで、



それがガンナの場合、ここで63%に、

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そして74%にまで!!  

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彼の走りっぷりから、これはもう行ける、行けると解説者達は喜んでいましたが、
これは何を示していると思われます?! 教えて下さ~い!

いやぁ、本当に素晴らしい安定した走りっぷり、速度で、世界記録保持者が
イタリア人の若者に生まれた、と皆さん大喜び!!

そう、1位を維持していたヴィクトル・Campenaertsを30秒も上回る速度で!



ヴィクトルも感嘆の拍手を。

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ゴールを切ってからぐるっと広場に添って走り、ちょうどミラノのドゥオーモの前に。
そう、彼は今回のジーロ・ディターリアで、3回のクロノメトロを全部制し、
第5ステージでも勝つ、という素晴らしい活躍ぶりを見せてくれたのでした!

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はぁ、shinkaiは彼の走りっぷりに魅せられましたぁ。 でもね、小さな声で言うと、
彼は素顔よりもヘルメット、ゴーグルを掛けていた方がカッコイイね! 素顔は可愛い! はは、思われません?



同じグループのローハン・デニスが出発。

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後ろで自転車を支えている若者、前髪パラリのなかなかのハンサムでしょ?!



こちらは上位のファウスト・マスナーダ、

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そしてヴィンチェンツォ・ニーバリ。 彼は2018年のジーロのマーリア・ローザ。

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こちらは第3ステージからずっと15ステージ分マーリア・ローザを着続け、
ミラノ到着4日前に遂に陥落したジョアオ・アリメーダ。
ずっとピンクの彼を見ていたので、別人の様!

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彼がここ迄素晴らしい成績が出せるというのは予想されていなかった様で、
彼をサポートしたグループも含め素晴らしい!、という批評家たちの言葉。



こちらも上位の、マーリア・ローザから僅か2分51秒差のペッロ・ビルバオ。

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ステルヴィオのあの急坂でアリメイダを破り、18,19ステージでマーリア・ローザを
着たウェルコ・ケルダーマン。 トップと1分32秒差。

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そしてタオ・ゲオゲーガン・ハートと、

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最後を〆て出発の、マーリア・ローザのジェイ・ヒンドレイ。 緊張顔。

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実はこの最後の2人は前日のセスティエーレのゴールで同タイムでゴールを切り、
この場合は決まりで、クロノメトロの時間差で勝ちが決まるのだそうで!

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この写真では、右のタオ・ゲオゲーガン・ハートが先の様ですが・・。



こちらも格好の話題となりましたが、既にクロノメトロで1位決定のガンナは
同チームのゲオゲーガン・ハートの勝ちをお呪いで、指をクロス!

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指が長いのか、柔らかいのか、shinkaiが出来ない指をしてからに、ははは。



ゲオゲーガン・ハートがゴール。 この時点で2020年ジーロ・ディターリアの
総合優勝が彼に決定!!

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婚約者と熱い抱擁を。 彼女はマスクをしていたのですけど、向き合って
彼はマスク越しにキスした後、マスクをつまんでずらし唇にね。

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婚約者と聞きましたが、7つの子がいるとか、その辺りはよう知りまへん。



ジェイ・ヒンドレイはゴールの後、暫くハンドルに顔を伏せていましたね。
がっかりだったのか、走りがきつかったのか・・。

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でもこの場面の周囲をカメラマンが囲んでいるのを見ると、少し疲れますね。
勿論自分もこんな写真をブログに使っているのですけど・・!



ゲオゲーガン・ハートは本当に晴れやかな顔で!

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ガンナや、チームの皆がやって来て、固い抱擁!! 

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ガンナはモニター前で涙ボロボロになり、インタヴューに答えられない一瞬も。

同チーム主将のグレン・トーマスが第4ステージで、道に転がっていたアルミ缶に
滑り転倒、骨盤にヒビが入り棄権しており、
仲間同士で励まし会いここ迄乗り切って来た、感無量の気持ちもあった様。

仲間は皆23歳、24歳の若者なのですよ。 偉いなぁ!!



最終日クロノメトロの成績と、

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こちらが全行程の10位までの順位。 ジョアオ・アリメーダは第4位に。

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早速にカップに名前が彫り込まれ、

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漸くにマーリア・ローザを着たゲオゲーガン・ハートが、
ミラノのドゥオーモを背景に、金色の吹雪が舞います。

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彼は途中でも勝ったことがあり、2日前にも先陣を争ったものの、
総合では首位に立てずで、この最後の日、最後のミラノでマーリア・ローザを。


今年のジーロ・ディターリアは、我がコネリアーノからのクロノメトロで評判の
フィリッポ・ガンナを見て魅せられ、毎日TVの前にずっとは座れませんでしたが、
それでもお昼ご飯の時に見たりで、何年かぶりのTV観戦を楽しみ、
若者たちの活躍ぶりが素晴らしく、来年もまた見よう!という気持ちに。

ジーロ・ディターリアのキャッチ・コピー「アモーレ・インフィニート
尽きぬ愛」ではありませんが、見ていると熱中させられる、熱い何かがあり、
今回のガンナの様に、やはりスター級選手の存在があるかどうかが大きいですね。

選手の皆さん、そして大会運営の皆さん方、本当にご苦労様でしたぁ。

来年は、も少しいつもの大会の様に、安心して応援にも出かけられ、
TV観戦も楽しめる様であってほしいものです!!

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・ n.1 ヴィドールのサンタ・ボーナ修道院 ・ 秋の色、静謐な佇まい

イタリアのコロナヴィールス感染者数は、昨日16000人に迫る数となり、
死亡者数も127人と増え、集中治療室への患者数も800人程。

で、遂にロンバルディア州、ラツィオ州、そしてカンパーニア州では
州条例により、夜23時または24時から翌日5時までの外出禁止が、
今週末から来週月曜にかけ11月半ば迄実施される事になりました。

遂にイタリアも他のヨーロッパ諸国並みに、コロナ第2波の集中攻撃事態に
入った様ですが、

落ち着いて、自分で出来る予防をしつつ、過ごすつもりでおります。
我がコネリアーノ、そして我が家周辺は全般に平静ですので、
余りご心配なく、  皆様、お気持ち、有難うございます!


*****

こんな現況ですが、昨21日午後は参加しているグループの20人程で、
コネリアーノの西に位置するヴィドール・Vidorの、
ベネデッティーノ派のサンタ・ボーナ修道院・Abbazia di Santa Bona
の見学に出かけて来ました。

写真は丘上に見える、かっての城跡にある記念納骨堂だそう。

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ヴィドールはどこにあるか、コネリアーノ・Coneglianoから27km程、
車で約30分、ご覧の様にピアーヴェ河・Piaveの添った崖上に修道院が。

2-map1 Cattura.jpg

修道院の下、ピアーヴェ河を渡った位置に赤の四角を付けたのは、
モンテッロ・Montelloと呼ばれる丘が広がる地域で、
ここが第一次大戦における最激戦地となったのをご記憶に置いて下さいね。



地図を拡大するとこんな感じで、現在西にピアーヴェ河を渡る
ヴィドール橋が架かりますが、

3-map2 Cattura.jpg

この橋は1732~40年にかけての建設で、それ迄はピアーヴェ河を渡る
橋が無く、サンタ・ボーナ修道院の下から対岸を結ぶ舟橋、船を繋いで
その上を歩けるように板を渡した橋が架かっていたのだそうで、
勿論渡し賃、税を徴収していた訳で!



修道院がどの位の力を、土地を持っていたかをちょっとご想像して頂きたく、
衛星地図をどうぞ。

下に修道院が見え、北に赤で囲った位置、大体500m程の距離に
現在の市役所Comune di Vidorがあり、斜め前に教会があり、

4-9 Cattura.jpg

ずっと道が修道院に続きますが、中程の赤い印をつけた所で、
グーグルのストリート・ヴュウが消え、道も細くなります。

最初は何とか車で修道院前まで行けそう、柵の前に集合、と言ってたのが、
車は教会前の駐車場に止めて、という事で、歩いて中程の赤点の位置まで。

でガイドさんとも、修道院の管理人さんに迎えて貰い、この中程にある
高い大きな鉄柵を開けて頂き、左に広がる広大な林の中の道を辿り、
修道院前に到着、という様子だったのです。

この広大な林の広さ、そして修道院の東に広がるトウモロコシ畑、教会前から
辿る道に並ぶ家並、左側は小さな家が続きますが、右側は広い庭を持つ
建物も大きなのが続いていましたので、
きっとこの一帯全て、かっての修道院の土地であったのだろうと!



こちらがヴィドールの市役所で、この前の道は大変に交通が激しい道。

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そしてこちらが町の主教会で、ここから左に修道院への道が続きます。

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大きなワンが上から、野太い声で最初は吠えたものの、黙って見送ってくれ、

7-V20_0062_GF.jpg



ここがグーグル・ストリート・ヴュウが消える所で、右側に

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この高い鉄の柵があり、真ん中には王冠が付き、Aの文字。

9- Cattura.jpg

現在のこの修道院跡、土地の持ち主は伯爵アルベルト・ダ・サッコ・
conte dottor Alberto da Sacco殿だそうですから、
彼の名から来ているのかも。



で、鉄柵の位置でざっと説明を聞いたのですが、他の皆さんは前日に
ガイドさんからあれこれ資料も見せて貰ったり、説明を聞いておられたので、
簡単に現在の様子を話され、
shinkaiは皆の前にそろっと位置を移し、お庭の様子を、へへ。

落葉が既に進んでいるのですが、それでも彩の対比が美しく、
門の位置から見える左から右への様子を。

10-V20_0063_GF.jpg

11-V20_0065_GF.jpg

衛星地図で見て頂いたように、奥が深くうっそうと暗く、
写真の明度をかなり上げています。



門の鉄柵の右奥にあった建物で、伯爵は暫くここに住んでおられたものの、
現在92歳、今は少し離れた建物にお1人でお住まいと。

12-V20_0064_GF.jpg



背の高い木々の彩。

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奥に誘う小径。

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太い大樹も多く見られ、

15-V20_0068_01_GF.jpg



種々様々な形と色の葉が見つかりますね。

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緑の芝と、落ち葉の散った地との違いも美しく。

17-V20_0071_GF.jpg



薄暗い地に射し込む陽の光。  少しボケて、ご容赦。

18-V20_0073_GF.jpg



もう一度衛星地図からの修道院の建物の様子をどうぞ。
真ん中に囲った四角い9の形、丸く開いている部分が回廊で、上側が教会、
左側の辺が現在残っている部分で、左に飛び出して見える白い部分が
テラス、

19-3 Cattura.jpg

そして下側の囲っていない部分が倉庫、納屋部分で、赤線を引いた所から
外に出て、木々の部分をぐるっと回り外側の樹々の中を下って行くと、
テラスの先っちょに当たる部分に、かっての舟橋の停留所部分が。



こちらがテラス側から見た建物。 

20-1V20_0086_GF - Copia.jpg

で、実は少しややこしい話ですが、こうしてヴィドールのサンタ・ボーナ修道院
としてお話している「修道院部分」は実は第一次大戦の爆撃で
大きな損傷を受け、今はもう無いのですね。

で、教会とその横の回廊は残っており、今ここに見える建物部分は、かっての
修道院の建物の一部が、後に私的財産として買い取られて貴族の館、土地と
なり、こうして修復され残っている、という事なのです。

実は私もそれを知らずのまま、検索にも、地図にも「ヴィドールの修道院」と
して出ますから、千年に渡る歴史を持つ修道院の訪問のつもりで行った所が、
話しを聞きつつ、あれ?と思い、徐々に意味が飲み込めたのでした。

かっての実際の修道院の建物は、今の正面の壁を大きな回廊の奥の壁として
手前にグンと張り出し、今のこの芝の部分は修道院の前の壁と大きな回廊部、
という事だったようです。

で、今右端に半分隠れて見えている教会が、



こちらです。 教会内部と、回廊部分の様子は次回に。

21-V20_0076_GF.jpg

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そして、テラスからの素晴らしい眺め! 奥に見えるのがヴィドールの橋で、

23-V20_0087_GF.jpg



ヴィドールの橋は、どうやら新しい橋の計画が出来ている様子。

25-V20_0081_GF.jpg

shinkaiも一度この橋を渡った事がありますが、狭く、片側1車線のすれ違い、
それも皆ビュンビュン飛ばしているので、わっ、わっと思い、はは、
それ以降アーゾロに行く時も別の道を選んだり! 



丁度修道院の下で湾曲していて、白い川原も広くなっていますが、

24-V20_0078_GF.jpg



こうして上から水面を見ると、かなり深く、流れも激しいのが分かります。

27-V20_0084_GF.jpg



テラスの横から、河に下る道がある部分で、

28-V20_0092_GF.jpg



そしてこの樹の太さ! うっそうと茂る大樹の枝の下はかなり暗く、
据えられた白い像が一際白く、素晴らしい雰囲気を醸しており、

29-V20_0090_GF.jpg

気が付かれましたか? 落葉樹の葉の散り積もった所はそのままですが、
その他の場所、芝生などには落ち葉が見えないのですね。

とにかく大変に心を配り、落ち着いて静謐な、そしてエレガントな雰囲気が
満ち満ちている事に暫くして気が付きました。

特別に高価な建物でも、装飾もないのですが、木の刈込はきちんと形が整い、
雑草のざわつきもなく、多分イタリアでこれほど心配りに満ちた風景に
お目にかかったのは初めてかも、と思った事でした。



はい、先程の女性像は、こんな風にかっての壁の前に設えられており、
奥に続きます。

30-V20_0094_GF.jpg



ね、ここにも余分な落ち葉は落ちておらず、見事でしょう?!

31-V20_0095_GF.jpg



古い城壁は奥で、左側の納屋、倉庫の建物に続き、

32-V20_0191_GF.jpg



テラス側から見る、主の建物の右側はこのように奥に広がり、

33-V20_0091_GF.jpg



ここが納屋の門から外に出る扉。

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もう一度、テラス側からの建物の様子を見て頂き、

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ここが角の高い部分。 

35-V20_0097_GF.jpg


建物がヴェネツィア風の窓になっているのは、この元修道院の建物、土地が
ヴェネツィア共和国の元で売買されたのが1774年。

1107~1110年にかけて建設された修道院も、遺贈や寄贈、修道士たちの
働き、開墾で農業の繁栄、また文化の中心としての大きな繁栄の後、
時代の変遷とともに、不在の高位聖職者たちの手により運営される様になると
徐々に衰退し、代々の貸借小作人となり、
ヴェネツィア共和国の下で退廃した修道院の宗教活動が廃止された様子。

で、ヴェネツィア貴族のニコロ・エリッツォ・Nicolò Erizzoが購入し、
別荘として建物を使い、幸いな事に続く貴族の子孫たちが手入れをし、
農業収益も上がり、養蚕やワイン生産も向上したそう。

が、1917年の第一次大戦において、このピアーヴェ河一帯が大戦場となり、
修道院の建物も爆撃で大被害を受けますが、
幸いに教会、回廊部分が残り、ご覧の様に見事に修復され、
現在の所有者は先に出たアルベルト・ダ・サッコ伯爵、という事。

彼はガイドさんによると、ヴェローナに住んでおられ、仕事もあちらだったのが、
この元修道院、土地の跡継ぎとなる事を承諾されこちらに来られたそうで、
5人のご子息もご一緒に来られたと。

子供さん達はご結婚やらで独立し離れ、この土地を、耕作人達を
維持するのもかなりの数で大変だったのも、土地もあちこち少しづつ
売り払ったり、という様な事も聞きました。

最初に見て頂いた門の隣の建物に奥様とご一緒だったのが、先に
亡くなられたのかな、今はお1人で別の所にお住まいと。

かなり細かく気を配られる方、気の付く方で、ガイドさんに先立ち
建物の扉、門扉の開閉もして下さった方の話によると、毎日散歩され、
植物にも詳しく、手入れについても詳細に様子を聞き、指示されるとか!

ガイドさんはこのヴィドールの生まれで、お父様が第一次大戦から戻られ、
市役所にお勤めだったのが、この元修道院の管理をされるようになり、
彼女は子供の頃からここに入り込み、伯爵夫人なども良く知っていたそうで、
このヴィドールの修道院についての本を出版されたり、まさに適材の方。

彼女が言われるには、今の伯爵がお元気でおられる間はここは大丈夫、
その後は何とか上手く次代にに受け継いでいく方法が見つかると良いが、と。



ここは中央の入り口扉で、

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上のテラスに彫られた紋章、ガイドさんも、どこのか知らないと言われましたが、
ほら、針鼠みたいなのがいますね。 上の両脇には小さな可愛いライオン君。

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大きな、多分元石棺の鉢にも、壁に添わせたツル植物も、手入れが行き届き、

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建物端の高い部分の裏側で、右の壁は回廊に面したかっての修道士達の
食堂部分、修復中でしたが、建物内の部屋などはどこも公開されておらず。

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最後は、角端の飛び出したテラス部分と、灯を。

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ほんの少しの修道院の成り立ちを知ったのみで出かけたのが、今は修道院は
無いものの、それにしても、なんとも見事な全体の佇まいに気品さえも感じ、
本来の貴族とはこういうものか、等とかなり感じ入って戻って来たのでした。

次回は教会と回廊のご案内、そしても少し分った事等もご案内致しますね。


*****

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・ ジーロ・ディターリア2020 ・ 14日目 コネリアーノ~ヴァルドッビアーデネ

イタリアのコロナ感染者数は今月9日5000人を超え、それ以来止まる事無く
毎日増え続け、16日に1万人を超え、17日には10925人と発表されました。

春の死亡者数に比べるとずっと低いのですが、それでも毎日の集中治療室
への患者数がじわじわと増えていて、
これを書いている18日の状況もも少し経ったら分かります。 11705人と。

来年1月末までの緊急事態が延長された事は先回に書きましたが、
それ以来の感染者数の急激な増加により、バール・レストランは夜中の12時迄、
着席以外は18時まで。持ち帰りはOKでも、店近くでの消費はダメ、
集まっての食事は6人まで、となり、これは私宅などへの接待も同様で、
結婚式、葬式は30人以内、

高校等は始まる時間を航行などは9時と、朝の通勤時の混雑を少しでも
避ける様にで、カンパーニア州などでは閉鎖も、というのを見ましたが、
基本線では学校教育は続けられます。

アマチュアが集まってするスポーツは禁止、学生のグループ見学などもアウト、
国際レベルの催事は今迄通りOKでも、地方の催しはダメと。

コンテ首相は再封鎖は考えない方向の様で、その為にあれこれ手を打っていると
と思いますが、

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どこからどの様に感染がこれだけ増えるのか、といささか疑心暗鬼となりますね。


お隣フランスは3万人を超えており、夜間外出禁止になったとか、
ドイツもここ数日で一挙に7千人を超える数となり、
イギリスは今月に入って1万人を超え、こちらも締め付けが厳しく。


私めは今迄インフルエンツァの予防接種をした事が無かったのですが、
いささかでもコロナヴィールス感染を防ぐかも、というので予約し、4日に病院に。

殆ど世間と接触せずに過ごしていて、ネット、電話でのみという様子で、
どんどんとオタク生活になりつつあるなぁ、と思います。


*****

さて先々回のブログ「ジーロ・ディターリアが始まっています!」に書きました通り、
昨17日には14日目の行程で、

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「我が町コネリアーノからヴァルドッビアーデネに向けての速度測定日」が
行われ、今回は家のTVで観戦、写真を撮ったのを皆さんに。

今日は大変写真が多くなりましたが、ご容赦!!

コネリアーノの中心通りから出発し、白の辛口発泡ワイン「プロセッコ」の葡萄畑
の中を行く道、昨年世界遺産に指定された地域を通り抜けて行く行程で、

祝 「プロセッコの丘」 世界遺産に登録 と スコミーゴ村の朝
https://www.italiashiho.site/archives/20190713-1.html


これはトヨタ車がジーロの公式車、のCMで、プロセッコの醸造所が集まり、
葡萄畑もこんな風にトラクターの入らない古くからの葡萄畑が広がる一帯の眺めで、

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行程をこんな風に元チクリスタ・自転車競技者のシニョーレが走って見せ、

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速度測定行程に使う自転車・クロノメトロ用自転車で、この坂道を走るのは大変厳しい!
と説明している所。

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白ワインの道を走る、ヴェネト一周自転車競技
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463525348.html



行程図をどうぞ。
左側が、コネリアーノの中心を出発して来て、約7kmの位置にある
ムーロ・ディ・カ・デル・ポッジョ・Muro di ca" del Poggioという坂道で、
傾斜は平均12,7%、最高が19%、標高が102m~242m、距離が1200mほど!

6-DSC04174_01_GF.jpg

でここを過ぎると緩やかな上り傾斜がずっと続き、最後にご覧の様にまた上りで、
最後の3kmのみが下り、という34,1kmの距離で、時間測定の定点が3か所。



さて13時に競技が始まるというのですが、中継は既に11時半だったかな、
始まっているのでTVを付けると、コネリアーノの町中にこんな風に舞台が設えられ、
左司会者と右ゲスト・元チクリスタ、がお喋りで、  聞いてません、はは。

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右のゲストの背後に見えるピンクの囲いの中に、選手たちの出発点があり、
これは後程ご覧に入れますね、

いやぁ、驚いたのが、こんなにたくさんの人が集まっているぅ!!



右のゲストが一時変わってこの方、冬のトライアスロン選手リサ・トッツィ・
Lisa Tozzi、コネリアーノにお住まいなんですって。 胸の5輪とイタリアのワッペン!

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単純に、若い美人だぁ、凄いなぁ! と。



上空からのコネリアーノの映像も出て、チーマ広場と、

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丘上のコネリアーノの城。 かっては4本あったという塔が今では1本のみ。

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さてこちらが、選手の出発点。 冬のオリンピックのスキー選手でよく見ますよね。
スキーだともっと傾斜がきつく、部外者にも緊張感伝わりますが。

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で、スロープを降り、この中心通りを真っ直ぐ東に抜け、そして左折して北に。

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見て下さい、この観客の方たち!! 

いやぁ、つい先日からコロナの感染者が一挙に増えていて心配ですがぁ。



今回はshinkaiは町中には出たくなく、となると、どこで観戦したら良いのか
見当がつかず、ではTVなら総合して見れるし、と思っての選択だったのですが、
皆さん、真面目、マメ!!  

で、皆さん皆がこんな笑顔でね!

12-2-DSC04075_01_GF.jpg

12-3-DSC04089_01_GF.jpg


で、このピンクの衣装の方が笑顔で、ジーロ・ディターリアのカップを持ち、
こちらに向かってくる姿。 はぁ、これなのね、大きいじゃん!

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で1時になり、いよいよ選手の出発となり、場面が変わると、

16-DSC04115_01_GF.jpg

あれ、ヴェネト知事のザイアが左に、右にコネリアーノの市長が並び、
最初の出発、ジョナサン・ディッベン選手。

傾斜道を降りてくると、左横道から伴走車が出てきて後ろにつき走り去り、
州知事と市長も最初の1人の出発に付き添った後は消え、



こんな風に町中の道を通り抜けますが、並木道の葉も色づき、

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中心の外れで左折し、北に向かう映像が続きましたが、



中略で、 ムーロ・ディ・カ・デル・ポッジョの坂道にかかった所。 

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既にかなりの観客が応援していますが、時間と共にどんどん増えて行き。



こんな曲がり坂の坂道が続き、

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ほら右上に、Il Muro di ca del Poggioと出ていますね。
直訳すると「丘の家の壁」で、「壁」と言いたい程の急傾斜の道、という意味と。



やっと「壁」を上り切り、坂の上に出てきた所。 背後の地平線の高さを!

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左下に13:07と見えますね。 大体坂道の下には9分半頃に到着なので、
彼の場合は3分以上かかっていて、これは遅い、のが徐々にお分かりと。



「壁」の坂を上りきり北に向かう道に合流すると、これから一路北西に。

合流点から少し北には千年以上の歴史を持つ有名な古い教会があり、
解説者がそこのフレスコ画の説明をしつつ、所謂「日曜はダメよ」の、
日曜にしてはいけない事の中にベッド・インがある、といいつつ、 左下に、

26-904_GF.jpg

サン・ピエトロ・ディ・フェレット教会 ・ ヴェネト古寺巡礼
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/472435237.html

幸いな事に自転車に乗ってはいけないはない、という落ちで、ははは、
だから我々は明日日曜もフリウリのピアン・カヴァッロに行けるんだ、と。



という所で、ゴール地点のヴァルドッビアーデネの様子が映ると、ははは、
これは笑いましたぁ! 素敵だ! ちゃんとポーズを取ってくれてる!

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こちらは皆で一杯やりながら観戦の方たち。

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n.1 ヴァルドッビアーデネ ・ プロセッコ ワイナリー訪問
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463526381.html

n.2 ヴァルドッビアーデネ ・ プロセッコ ワイナリー訪問
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463526671.html



という所で、今まで13行程での上位10人の順位が出て、
皆さんの御贔屓がいますか?

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1位のジョアオ・アルメイダは、既に12日間連続でマーリア・ローザを
着ているのですね、
つまり初日のパレルモからのクロノメトロで負けたのみで、

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これは17日のインタヴューで、前日モンセリチェで、輪半分ほどの差で
2位になった事を、勝ちたかったけど、仕方がないね、と。



こちらは今日の時間測定競技でだれが勝つと思うか、で、
5つ★ ガンナ・Filippo Ganna、初日のパレルモからのクロノメトロで
勝った選手で、圧倒的に彼の名を挙げる人が多く、 以下略。

32-DSC04170_01_GF.jpg



この選手は、イスラエルの選手マティアス・ブランドゥルですが、

33-DSC04143_01_GF.jpg

最初の坂道でも1分前に出た選手を抜き、その後も3人抜くのを見て、
全部で5人抜いたとか聞いた、頑張りの選手。


でほら、クロノメトロで使う自転車は、普通の車輪の自転車ではなく、
円盤の様になっていて、座も高く、腕起きも付け、ヘルメットも後頭部が
長いのを使い、とにかく風の抵抗を少なくし、スピードを出すよう
研究されているようですが、

ガンナは風洞実験をしたり、とにかく勉強し、大変にお高い自転車を持ち、
値段も聞きぃ、ギアの数が違うんだ、とか言ってましたが、
その自転車で今回も走るというので、パレルモの時の映像も出たりで、
誉め言葉も数々。



腕起きを使い、頭を下げて走ると、前が良く見えなくなるせいか、
道端に寄り過ぎ、遮断柵に引っ掛かり転倒した選手。

34-DSC04164_01_GF.jpg



クロノメトロの、今日勝つかも、に名の出ていた選手。 
ユニホームが可愛いでしょ。 結果、良い成績だったと。

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1番に出発した選手がゴールイン。 1、の数字が出ましたが、

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前のジーロの記事の時、6、7行程で続けて勝ったアルナウド・デマーレ選手、
3位でゴールしましたが、

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次々に速いタイムでゴールの選手が、記録を次々に塗り替えて行きます。

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という所で、皆が期待のフィリッポ・ガンナ選手の出発。 24歳。

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そして、彼の「壁」を超えた時のタイムと、1の印。

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いやぁ、評判が良いので興味津々で見つめましたが、やはり凄かったっす!
リズムがあるというのか、脚力が強いというのか、あの「壁の坂道」でも
ぐいぐいと力強く上り、迷いなく進んでいく、という感じで、魅せられました!!

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これはゴール前。 既に1が付いていますが、同じチームのローハン・デニスが
暫く前から1位の位置にいて、43:06よりタイムが短いと彼が勝ちます。

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ゴール直前でもまだずっと頭を下げたまま走り、

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遂に42:40のタイムでゴールを切り、通過した所! やりましたぁ。

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彼の事は姓のガンナにかけ、「トップ・ガンナ!」と報道陣が!



さて、総合で1位のマ-リア・ローザのジョアオ・アルメイダ選手の出発の時に
丁度カメラの電池切れで! 取り換えている内に勿論スタートしており、

これは「壁」の道に入った所。 ほらね、物凄い観客でしょう?!
彼がこの行程の最後の出発で、〆ます。

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やはり強い! 着実に走り、上り、「壁」の上に。 ですが、今4位。

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中継のTV画面を見つめているガンナ選手。

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中盤で「少し重くなっている」と批評が入っていましたが、今最後の1キロに向かい、

49-DSC04347_01_GF.jpg

51-DSC04363_01_GF.jpg



下の行の数字は、あと1分29秒内にゴールしたら、今日もマーリア・ローザが、と。

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あと1分8秒内!

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はい、あと56秒を残し、見事ゴール! クロノメトロの成績は6位に。

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これが本日のクロノメトロの成績。  

55-1-DSC04388_01_GF.jpg

司会者と評論者が話すのに、最後のミラノのクロノメトロでも
ガンナが勝ったら素敵だね!と。

いやぁ、そうなったら、2020年のクロノメトロ3回戦を総勝ち、という記録!

いやぁ、shinkaiは今迄クロノメトロを面白いと考えた事は無かったですが、
今回のガンナを見て、考えを変えました。 
はい、もう一度、ミラノの最終戦のジーロをご覧頂く事に!! ははは。



こちらが総合の成績。 済みません、大ブレで!! 片目で見て下さ~い!

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昨日ボチボチとブログを書き始めた時届いたメールに、
誰かがレース中に婚約したって?! とあり、地獄耳ねぇ!と思いつつ、ははは、
一旦載せるつもりが無かった写真をもう一度探し、はぁい、地獄耳、目のK様、

写真は大ブレですが、綺麗なエメラルドの指輪でやんしたよ。

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ええと今年ジーロに初デヴュウのマッテオ・ソブレーロ・Matteo Sobrero選手が
フィリッポ・ガンナの妹と婚約したのですと。 名前と顔は出ませんでしたぁ。
彼は今総合11位に着けており、初日のパレルモでも7位だったとかの、優秀な、
どうやら同じピエモンテ人の様ですよ。

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最後は今回の行程に因み、美味しいプロセッコの写真を! 
あのフルーティーな香りと、シュワッ、シュワッの軽く爽やかな味わいは最高!!

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こちらはどこの醸造元だろ、こんなプロセッコの色違いの大アルミ・タンクは
初めて見て、3品種のプロセッコの様、驚いたのでありましたぁ! 

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・ ピカソ から モネ ・ 世界で一番有名な 5つの大作を

暫く前に分家ブログで、「絵画歴史における一番小さな絵 5枚」
取り上げましたが、

今回はその逆に「一番有名な5つの大作・ピカソからモネ」という事でお話を。

読んでいる内に、とりわけ「何でこの絵が有名なの? 大きいからだけ?」という、
疑問が出た最後の絵は、調べている内にミイラ取りがミイラになった、様で、はは、
いつかチャンスがあったら見に行きたいと思ったり、

また絵の背景を調べていて、あれこれ芋づる式に!興味ある写真が見つかったりで、
今回は「脱線がいっぱい!」という事でご覧下さいね。

大体画家が大きなサイズの絵を描く、ということ自体、画家にとっての興味ある
モチーフで、伝えたいメッセージがある訳で、
見る側には、サイズが大きな事でより迫力を持って迫り、メッセージも伝わりやすい、
という事ですね。

という事で、年代順ではなく、一応絵のサイズに従って、ピカソからモネの順に、
では、どうぞ!

5. ピカソ - ゲルニカ ・ Picasso - Guernica
   1937年4月から描き始め6月に完成の、3,5x7.8mの大作で、同年5月から
   11月末まで開催されたパリ万国博覧会に展示

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多分ピカソの絵に中で一番有名な作品と思われますが、皆さんもご存知の様に、
1937年4月26日にスペイン北部バスク地方の「ゲルニカ」に於いて、

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フランコ将軍率いる反乱軍を支援するドイツ空軍による無差別で容赦ない
爆撃が行われ、一般市民300人程の死者、負傷者300人超という被害が出て、



このニュースに憤激したピカソは、パリ万博に出品を依頼されていたのもあり、
即日取り掛かり6月に完成したもので、大きな反響を。

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この爆撃はドイツ・ナチ軍の、第2次大戦への予行演習だったと言われるもので、
この「ゲルニカ」の絵は来るべき戦闘の残虐さを目の当たりにアピールし、
平和への強いメッセージを伝え、これは現在にまで至っていますね。



こちらが爆撃後のゲルニカ。

5-26 aprile 1937.jpg

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で、写真を探していて見つかったのがこれ、
スペイン市民戦争時(スペイン内戦)1936~1939、フランコ将軍率いる右派の
反乱軍と、左派の人民戦線政府が闘い、左派の軍営に多くの知識人が義勇軍
として参加した時のもので、

子犬を抱いているのが、ジョージ・オーエル・George Orwell、1937年、
「カタロニア讃歌」「動物農場」「1984年」の英国作家で、当時34歳

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この後彼は咽頭部貫通銃創を負い、危機一髪で助かったというので、
写真の子犬ちゃんはどうなったかな、と少し余計ですが。

「奥にヘミングウェイが」とあり、すぐ後ろではなく、頭がぴょんと飛び出した
眼鏡の男性で、当時38歳、この時は従軍特派員でスペインに。



ヘミングウェイの1937年の写真も見つかりましたが、1944年パリでの写真を。
この時も特派員で、左側の首からカメラを吊っているのがロバート・キャパと。

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キャパの写真はたくさん見ていますが、キャパ自身が映ったのは初めて。
真ん中は車の運転手ですって。


ヘミングウェイは第1次大戦時1918年に、18歳で赤十字の救急車の運転手として
イタリアはヴェネトの激戦地に来ていて、彼自身も戦闘に巻き込まれ負傷し、
ミラノの軍病院に、という経験をしていますが、

「武器よさらば」 若きヘミングウェイの戦場体験 n.1 
https://www.italiashiho.site/archives/20170409-1.html

「武器よさらば」 若きヘミングウェイの戦場体験 n.2
https://www.italiashiho.site/archives/20170410-1.html

20年後にもまたヨーロッパの戦場に、で、
こちらの経験は「誰がために鐘は鳴る」に描かれている人民軍の様子ですね。

という事で、


4. レンブラント - 夜警 ・ Rembrandt - La ronda di notte
  1462年の作品 3,63x4,37m  レンブラントの画歴の頂点に於ける作品
  というのみでなく、オランダ・バロック絵画期の一番の大作で代表作。

9-Gerrit-lundens-Ronda-Notte-Rembrandt.jpg  



そして大作であるのみでなく、劇的な色の諧調と光と影の使い方、そして当時の
伝統的に個人を描く定式の形、描き方と大いに一線を画している事があり、
この「夜警」の中では、2人として同じ人物、同じポーズの人物がいません。   

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実際には「フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ
副隊長の市民隊」の昼間の出動を描いた絵が、
暗い背景から「夜警」と呼ばれるようになったのは、
背景に何度か重ねられたニスが、まだ絵の具の乾き切らないうちに塗られた為だそうで。

13-Particolare-Cocq-luogotenente-Wilhelm-Ronda-notte-Rembrandt.jpg



現在はアムステルダムの国立美術館収蔵ですが、18世紀にアムステルダム市役所に
移された際、2本の柱の間に絵をきちんと収める為に上下左右が切り取られた事!

14-Ronda-di-notte-Rembrandt-originale-parti-aggiunte-Lundens-.jpg



真ん中の少女、shinkaiはもっと年増の女性かと思い、なぜ?と不思議でしたが、
この少女は火縄銃手組合のマスコット的存在で、
ベルトから下がる鶏の爪は火縄銃手のシンボルであり、

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少女の左前、赤い衣服の火縄銃を持った人物の足元地面に、レンブラントの署名が。

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17-Firma.jpg


隊員たちからの絵の注文で、各自が同等に代金を払ったのが、絵が出来て見ると
誰もが同じ大きさ、平等の並びではなく、
彼らは当時の肖像画の、皆並んで同じ大きさ、を思って支払ったのがそうでなく、
文句が出た、というのも読みましたが、はは、
つまりは画家レンブラントの方が格段に上等で、先を進んでいた訳で!

それにしても、久しぶりにじっくり眺めましたが、やはり凄い絵ですねぇ!!



3. ティントレット - 天国 ・ Tintoretto - Il Paradiso
  1588~1592年作  7,45x24,65m ヴェネツィア・パラッツォ・ドゥカーレ

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つまりイタリア絵画の中でもより良く保存されている作品だそうで、現在でもカンヴァスに
描かれた絵画では世界一の大きさ。



中心上に聖母マリアと会うキリストがいて、その周囲を12使徒、天使達、預言者達、
アダムとエヴァ、教会の長たち、殉教者たち、教皇たち、司教たち全てが、
階級に従って描かれており、

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何せこの大きさですから、ティントレットの工房で弟子たち総動員、各部に分け描き、
現場で接続したのだそう!
布・キャンバスである事を大いに活用し、、仮枠に貼ったキャンバスに描き、
この下絵ではマエストロ自身が腕を振るい、出来たのを直接に縫い付けたと。


n.2 パラッツォ・ドゥカーレ・ディ・ヴェネツィア
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464578725.html

ティントレットは、画家として大変決断に富み、野心的で、ニックネームが
「イル・フリオーゾ・激烈」だったそうで、
そう知って見ると、成る程、この「天国」はまさにティントレットの作品、ですね。



2. モネ - 水連 ・ Monet - Ninfee
  モネの水連の連作は、20世紀における大きな傑作の一つとみなされ、
  約100mに及ぶ。

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というサイトの記事から考え、示している作品群は現オランジュリー美術館展示の
作品と思われ、22枚のパネルで構成される8点の作品。
画家の最晩年1920年代、80歳以降の作品で、画家の描こうとする意欲に驚かされます。



画面が大きいのは、地平線の無い無限の池、の錯覚を創り出す為であり、
平和と幸せを感じられる平穏、澄み切った晴朗さを描こうとしたのであろうと。

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一連の作品は1918年11月11日、第一次大戦の休戦が停戦した翌日に
フランス政府に贈与するのを申し出たのだそうで、

平穏さのシンボルで、平和を安定させる事ができる様に、との彼の希望と、
試みがあったものと思われます。



1. ヘンドリック・ウィレム・メスダグ - メスダグのパノラマ ・ 
  Hendrik Willem Mesdag  - Panorama Mesdag  
  1881年作 14mx120m オランダ、デン・ハーグの「パノラマ・メスダグ」館

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今回の冒頭にも書きましたが、この絵をご覧になって皆さん、魅力を感じられます?
いやぁ、お前は見る目が無いから、と言われればそれ迄ですが、ははは、
正直、なに、これ?!だったのですが、

ブログで取り上げるとなると、何か書く事が無いとで、ははは、検索をかけ、



あれ?! 

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29-panorama-mesdag-painting-1.jpg

つまり円形の建物の中、周囲を120m、高さ14mの絵が取り囲み、真ん中に
展望台風の観客が眺める場所があり、

描かれている風景は、砂丘の向こうに広がる海と、Scheveningen・スケベニンゲン!
ではなく、ははは、スヘフェニンゲンと日本のサイトには出ますが、
スケーヴェニグと聞こえる、360度で眺めるかっての海辺の漁師たちの村。



こちらが全体で、

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最初の画面より左に、

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32-panorama-Mesdag-4.jpg

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そして右に、

34-Panorama-Mesdag-3-860x450_c.jpg

35-Panorama_mesdag_3.jpg

という訳で、実際に海岸の展望台から見晴らす感じに高く設えられ、展望台の
下から砂が敷かれ、キャンバスとの境も隠し、1881年当時が偲べる海辺の風景。


画家の名はヘンドリック・ウィレム・メスダグで、当時一際高名な画家だったそうで、
1880年にベルギーの会社からパノラマ画の依頼を受け、画家でもある妻と
教えていた学校の生徒の協力を得て1881年に完成したものだそう。

そうなんですよね、こうして全体を見ると、成る程!と感嘆しますが、
サイトには一番夢の無い、はは、未来派の絵かや?!というのが出ていたのでした。



この「パノラマ」と上に書かれた建物がそれで、

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Panorama Mesdag
住所 Zeestraat 65 (Den Haag). Tel: +31 70 3106665
入場料 10 euro.
開館 月曜~土曜  10.00 ~ 17.00. 日曜、祭日 12.00 ~17.00.


ともう1つ、彼の住んでいた住まいとコレクションが公開されていて、

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レンブラントの自画像もある様ですが、



が、住居が素晴らしいのですよぉ!  これを見るだけでも、ね。

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Collezione Mesdag
住所 Laan van Meerdervoort 7F, 2517 AB Den Haag 「パノラマ」の近く
電話  +31 70 362 1434
開館  水曜~日曜 12時~17時  月、火曜 休館



最後になりましたが、オランダのデン・ハーグの位置を。 イタリア語ではAiaで、
スケベニンゲン、はは、スヘフェニンゲンは、デン・ハーグの海岸の北沿いに。

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という様な、世界的に著名な大作5点のご案内でしたが、
いやぁ、最後の1点はまるで知らなかっただけに尚の事驚きと興味でしたぁ。
皆さんにも楽しんで頂けます様に!


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・ ジーロ・ディターリア2020 が、 始まってます!

こちらイタリアのコロナヴィールスの様子を、折に触れ書いていますが、
昨日9日にはついに5378人の感染者となりました。

3日にそれまでのじわじわと上って来た数2843人から、5日に一旦下り
2257人となったのですが、6日2677人、そして7日には千人多い3677人、
8日4458人、そして昨9日の5000人越えとなりました。

今春3月21日に最高の6557人を記録した数に今にも迫りそうな勢いで、
幸いな事に死者の数は春の情勢に対し少ないのがせめてもの慰めです。

イタリアでは今迄のロンバルディーア州に比し、カンパーニア州(ナポリ)の
感染者数が多く、シチーリアなどもベッド数が不足という今朝のニュースで。


お隣のフランスは春3月31日の最高数7578人から比較的揺れが
少ないままで来たのが8月以降どんと増えており、昨日20339人、

スペインは9月18日の14389人を一旦の最高とし下り、数日前から
また少し上り始め、昨日は12788人という様子。

イギリスは春は6000人台を最高としていたのが、9月末から急激に
上り坂で、10月4日22961人と記録を作り、一旦下がりまた上り、と
いう様子で、一昨日8日17540人、昨9日13864人という様子です。

こうしてヨーロッパの国々の様子を見ながら、やはりイタリアも再度揺れ返し、
数を増やして行くのだろうか、と。

春の封鎖が解けたものの、ずっと緊急事態が続き、その中で暮らす我々も
そんな状態に慣れ、慣れ過ぎ、どこかで緩んでいるのかも、という気もしますし、

かと言って、今のままクリスマス、年の暮れ、元旦、と続くのも仕方ない事と
思いつつ、少し憂い感じがあるのも否めず。

一昨日だったか、ロンドンの夜の繁華街からの中継で、マスクをしている人が
ほんの少し、10人~15人に1人くらいかな、という感じで人々は楽しんでおり、

「自由」は必要なものの、その代償も高いよね、とも思った事でした。

とにかく国全体の再封鎖が起こらぬ様に、様々な対策で取り組む、という国の
方策に従い、自分で出来る安全対策を続けるしかありませんね。


*****

という始まりの今回ですが、少しでも楽しい話題を私自身も欲しく、

ニュースに出た「ジーロ・ディターリア2020」を、そうそう、始まったんだ!
と行程表を見ると、今年もコネリアーノを通ることが分かり、
嬉しくなって皆さんにも。

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2019年 ジーロ・ディターリア、 隣村カルページカ、オリアーノを通過
https://www.italiashiho.site/archives/20190604-1.html

ジーロ・ディターリア、 オリアーノ村を通過!
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467229059.html



毎年5月中旬~6月にかけて行われる「ジーロ・ディターリア・Giro d’Italia」
ですが、今年はコロナの影響で取りやめか、と思っていましたら、
秋口に、と発表され、

おまけにいつも「ジーロ・ディターリア」の後に行われる「トゥール・ド・フランス」
が先で、そう、8月29日から9月20日に行われたのでした。

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「トゥール・ド・フランス」の最終日ゴールは、いつもパリの凱旋門、ですが、
今年もどうやら最後を飾ったようですね。

いつもこの2つの開催の間が短いのが、今回はとりわけ、なんと間が2週間!
参加選手たちは多分皆引き続いての参加ですから大変です。



という様な今年2020年の「ジーロ・ディターリア」は、10月3日から25日迄の21日間、
全行程 3497,9km  平均一日の距離 166,5km  最終ゴールはミラノに。

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シチーリア島のパレルモ・Palermoから始まり、

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こちらが南の7行程分、そう、昨日金曜9日までの行程図で、
白丸が出発、2重丸がゴールで、時計の見えるのがクロノメトリコ・選手が1人づつ
走り、時間測定をする区間ですね。

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という事で、初日はパレルモからモンレアーレ・Monreale迄の時間測定区間で、
こんな写真が見つかりました。

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背後に見えるのが、モンレアーレの、あの有名な聖堂かしらん?
はい、その様ですねぇ! シチーリアに行きたいと思いつつ未だ!



2日目 4日 アルカーモ・Alcamo ~ アグリジェント・Agrigento 149km
       難易度 山岳地 2★

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アグリジェント



3日目 5日 エンナ・Enna ~ エトナ・Etona 150km
       難易度 険しい山岳地 4★

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エトナ



4日目 6日 カターニア・Catania ~ ヴィッラフランカ・ティッレーナ・
       Villafranca Tirrena 140km  難易度 平坦地 2★

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ヴィッラフランカ・ティッレーナ



で、ここで海を渡り、本土に。 港でフェリーを待つ各チームのフォロー車。
多分正式な名があるのでしょうが、知らず!

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5日目 7日 ミレート・Mileto ~ カミリアテッロ・シラーノ・Camigliatello Silano
       225km   難易度 山岳地 3★

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カミリアテッロ



6日目 8日 カストロヴィッラ-リ・Castrovillari ~ マテーラ・Matera 188km
      難易度 平坦地 2★

12-T07_Matera_1280x64013.jpg
マテーラ

夜と、朝の眺め ・ マテーラの風景
https://www.italiashiho.site/archives/20181025-1.html

マテーラ・Matera ・ 洞窟住居と、マテーラの町について
https://www.italiashiho.site/archives/20181021-1.html



大体ゴールした町と、翌日の出発地は違い、移動して行きますが、
今回のマテーラは町で1泊、というので、こんな写真が。

旧市街は狭い通りばかりなので、街中は通らないのだろうと思ったのですが、
これは9日の出発地点で、

13-ALP2247_dpi-1-scaled.jpg



すぐ詰まって、はは、旧市街を抜けるのに時間がかかりますねぇ!

14-Tappa-7-Percorso-veloce-su-strade-antiche.jpg



7日目 9日 マテーラ ~ ブリンディシ・Brindisi  143km
       難易度 平坦地 1★

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ブリンディシ



この写真は多分マテーラからブリンディシに向かう平坦地と。

16-Canvas-17.jpg



という事で、これを書いている10日はアドリア海沿岸に入り北に向かいますが、
今日お昼前から始まっています。

◆済みません、上に続くアドリア海岸の地図を入れ忘れておりましたぁ。 ご容赦!

17-1-giro2020-660x330.jpg



8日目 10日 ジョヴィナッツォ・Giovinazzo ~ ヴィエステ・Vieste 200km  
       難易度 山岳地 3★

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ヴィエステ



9日目 11日 サン・サルヴォ・San Salvo ~ ロッカラーゾ・Roccaraso
       208km  難易度 険しい山岳地 4★

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ロッカラーゾ



12日は行程中に2度挟まる休日の最初で、もう一度は19日に。

ゴールする町村の写真はこちらのページからですが、下に横続きに出ている写真を
クリックすると、行程図の動画が出ます。 但し2,3日すると消える様でご容赦!
https://www.giroditalia.it/tappe/tappa-8-giovinazzo-vieste/ 



10日目 13日 ランチャーノ・Lanciano ~ トルトレート・Tortoreto 
        177km   難易度  山岳地 3★

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トルトレート



11日目 14日 ポルト・サンテルピーディオ・Porto sant'Elpidio ~
        リミニ・Rimini  182km  難易度 平地 2★

20-Cover_Stage_11_Rimini.jpg
リミニ



12日目 15日 チェゼナーティコ・Cesenatico ~ チェゼナーティコ

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リミニとチェゼナーティコは地図上でちょっと交差するので見難いですが、
分かりますか?



行程地図はいよいよ北イタリアに入り、  ・・きゃ! ここも入れ忘れぇ!

22-giro.jpg



13日目 16日 チェルヴィア・Cervia ~ モンセリチェ・Monselice 192km
        難易度 山岳地 2★          

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モンセリチェ



14日目 17日 コネリアーノ・Conegliano ~ ヴァルドッビアーデネ・
                      Valdobbiadene 34,1km  平地、山ありの 
        プロセッコ・スーペリオーレ・ワイン・ステージという
        今回2度目の速度測定区間 4★

24-1-T14_Conegliano_01.jpg
我が町コネリアーノ


24-2-T14_Valdobbiadene_02.jpg
ヴァルドッビアーデネ

この日の行程図ヴィデオがこちらで。 出だしの音楽が大きいのでご注意。



15日目 18日 リヴォルト・Rivolto ~ ピアンカヴァッロ・Piancavallo 185km
        難易度  険しい山岳地 4★
       
25-Cover_Stage_15_Base_Area_di_Rivolto.jpg

リヴォルトはイタリアのアクロバット飛行隊「3色の矢・フレッチェ・トゥリコローリ」
の基地がある所

フレッチェ・トゥリコローリ ・ 「イタリアの3色の矢」飛行隊
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463999146.html



19日はお休みで、ピアンカヴァッロも山岳地ですが、この後ずっと険しい山岳地が
続くので、最後のお休み休息日。


16日目 20日 ウーディネ・Udine ~ サン・ダニエーレ・デル・フリウリ・
        San Daniele del Friuli  229km 難易度 山岳地 4★

26-Cover_Stage_16_San_Daniele_del_Friuli.jpg

サン・ダニエーレは、ご存知生ハムで有名な町。



17日目 21日 バッサーノ・デル・グラッパ・Bassano del Grappa ~ マドンナ・
        ディ・カンピーリオ・Madonna di Campiglio 203km
        難易度 険しい山岳地 5★

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マドンナ・ディ・カンピーリオの町は、標高1522mに!



18日目 22日 ピンツォーロ・Pinzolo ~ ラーギ・ディ・カンカーノ・
        Laghi di Cancano  207km  難易度 険しい山岳地 5★

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2日続けて険しい山岳地5★、200kmを超す難易度の行程が続きます!!



19日目 23日 モルベーニョ・Morbegno ~ アスティ・Asti 253km
        難易度 平地  1★

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アスティ



20日目 24日 アルバ・Alba ~ セスティエーレ・Sestiere 198km 
        一旦フランスとの国境を越え戻る行程 難易度 険しい山岳地 5★

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セスティエーレ



21日目 25日 チェルヌスコ・スル・ナヴィーリオ・Cernusco sul Naviglio ~
        ミラノのゴールに  15,7km  速度測定の日 難易度 2★

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という全行程で、今日10日の競技はまだ現時点14時50分であと3分の1程も
残っていて、ファンはやきもきしている事でしょうが、

昨日9日時点での総合トップ、マーリア・ローザは João Almeida・発音できないよぉ、
ポルトガル人、22歳。

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行程4日目、6日目、7日目と、つまり10月8日、9日と連続してトップの
フランス人アルナウ・デマーレ・Arnaud Démareが強く、

これは6日目マテーラ、7日目ブリンディシの勝ちっぷり! 

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先頭より少し後ろをチームに囲まれて走り、最後に追い抜く姿を。

まぁ、これから先が長いので、どこまで行くか分かりませんが、楽しみです!




何せこんな風に固まって走っているのですものねぇ!

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事故が無いよう、最後のミラノまで皆さん元気で到着出来る様、祈ります!!

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写真は2017年。

期間中は、ときにネットででも、TVニュースでも、見て下さいね。
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・ 155年前 フィレンツェがイタリアの首都だった時  周辺事情あれこれ

フィレンツェがイタリアの首都だった19世紀末、正確には1865年から
1871年のわずか6年間でしたが、

1-185206544.jpg



それまではイタリアは各地方それぞれに分かれ、領主、と言っても教皇領の
一部を預かる領主の下にあったり、またヴェネツィア共和国、トスカーナ大公国とか、
教皇との関係をうまく取りつつの自国領という形で存在し、
「イタリア国」全体は未だ無かったのですね。

そしてイタリア統一の機運が高まり、運動が進み、1861年3月17日に
国王ヴィットリオ・エメヌエレ2世の元、イタリア王国が成立し、

2-VictorEmmanuel2.jpg



1865年2月3日トリノからフィレンツェに首都が移ります。

さて、フィレンツェに首都が移り、国王はどこにお住まいを定めたか?
はい、パラッツォ・ピッティ・Palazzo Pittiに。

3-palazzopitti.jpg

これは大きさ、メディチ家の住まいであった事から言っても妥当で、納得ですね。

今回の記事資料は、Firenze capitale, 150 anni fa. Dove abitava il re?
国王の愛人ローザについてはこれに名が出て来たので、調べたのでしたぁ。



国王ヴィットリオ・エマヌエレ2世・Vittorio Emanuele II(1820-1878)は、
サルデーニャ王国の王に1849年から、そしてイタリア王国の成立により
1861年からイタリア国王になった所で、フィレンツェ遷都当時45歳。
上の写真は1861年国王になった時のものと。

彼は1842年従妹に当たる信心深いマリーア・アデライデ・ダウストリア・
Maria Adelaide d'Austria(1822-1855) 実際の名はも~~~っと長く、
と結婚します。 マリーアは当時20歳。

4-Adelaide_of_Austria,_wife_of_Victor_Emmanuel_II 1822-1855.jpg

彼女は誠実な愛を夫に捧げますが、夫は婚姻外の関係多数!
そしてイタリア王国が成立する数年前に、女王となる事無く亡くなります。
2人の婚姻から8人の子が生まれ、長男ウンベルト・Umberto、1844年生まれ
が第2代のイタリア国王に。



で、1847年彼がまだ単純にサヴォイア家の跡継ぎだった27歳の時に、

5-Perrin_F._-_Vittorio_Emanuele_II_-_litografia_-_1851.jpg

この肖像は1851年で、



ベーラ・ロジン・bela Rosinと庶民に親しまれ、歌われたローザ・ヴェルチェッラーナ・
Rosa Vercellana(1833-1885)に出合い、14歳の彼女に一目惚れを!

6-rosa-vercellana.jpg

イタリア語では一目惚れを「稲妻に打たれた」と表現しますが、はは、

ローザの父親は、ヴィットリオ・エマヌエレ2世の父親カルロ・アルベルト、
サルデーニャ王国王に仕える兵士、どうやら軍楽隊の指揮を務めたりの守備隊員で、
家族共に勤務先に居り、
ちょうどローザがテラスに出てきた所を見かけ、稲妻に打たれたと。

貴族出身ではなく、おまけに16歳以下の女子を家族から引き離し連れ去る、
というのは王国の法律違反で、はは、国王も反対したものの止まらず。

彼女の他にロマンスもあったものの、常に王宮の近くに住まわされていた
彼女の元に戻り、
正妻が亡くなった後も、他の女性と結婚する事なく、生涯連れ添います。



で、フィレンツェに首都が移り、国王はピッティ宮にお住まいとなりましたが、
裏の門から抜け出し、トリノから先に移っていたローザの下にお通いに。

彼女はメディチ家のヴィッラ・ラ・ペトライア・Villa La Petraiaに住んでおり、

7-villalepetraia.jpg

8-villa petraia.jpg

物好きshinkaiは、ピッティ宮からの距離を調べましたら約10Kmで、
車で30分程と出ましたので、馬車だったら1時間位掛かったかな、と。ははは。



現在はこのヴィッラ・ペトライアは博物館になっていて、内部が見物出来、
元は内庭風だったのでしょうが、天井部が覆われ大広間に。 素敵でしょう?!

9-Villa-Medicea-della-Petraia-Firenze.jpg



そしてお部屋と、ご寝所。

10-villa-medicea-di-petraia-frankenstein-photo-stefano-casati-.jpg

11-camera.jpg

ローザはどうやら当時の国民の90%がそうだったように、読み書きができず、
勿論国王の愛人となって後は学習したでしょうが、
時に他の愛人が現れても常に彼女に添い遂げた国王で、

1869年に病気を得た国王は死ぬかもしれないと恐れ、彼女とモルガン婚をします。
ええと、モルガン婚というのは、結婚しても決して女王にはなれず、生まれていた
2人の子も後継ぎとなれずという、いわば一代限りの結婚とでも、で、

後1877年10月7日ローマで市民婚、教会ではなく市役所での結婚もし、
3か月後の1878年1月9日ヴィットリオ・エマヌエレ2世国王は亡くなります。

が、当時ピサ市民であったローザは、国王の死後の書類では「独身」と
なっていたそうで。

という様な、初代イタリア国王の生涯をかけてのロマンス、そして常に影の女
として過ごした愛人ローザ、のお話でしたぁ。



で、急ごしらえの首都に移ったイタリア王国の首脳部でしたが、
パラッツォ・メディチ・リッカルディ宮は首相と内務省とが使い、

12-palazzomediciriccardi.jpg

ここは現在、博物館であり、県議会が使っていて、



ヴェッキオ宮の500人広間が下院議会場となり、外務省も。

13-sqalonedei500.jpg



上院議会場は最初ヴェッキオ宮の200人広間で、ついでウッフィッツィ宮の旧劇場に。

14-teatro mediceo degli uffizi.jpg



という様に他にもあそこ此処と出て来ましたが、何となく火事で焼け出され
大急ぎで仮住まいに引っ越した様で、はは、バタバタと大変だったんだろうなぁ、
という感慨を持ちましたが、

やはり中世からルネッサンス期にかけての都で、要するにピッティ宮とヴェッキオ宮が
政治中枢の場の役割を持つだけの土地に、一国の政府が収まるには小さく狭すぎ、
6年後にローマに移った時は、政府関係者は皆やれやれと思ったのではないかと。


ローマのこのパラッツォ・クイリナーレ宮・Palazzo Quirinaleは16世紀後半の建設で、

15-Quirinale_palazzo_e_obelisco_con_dioscuri_Roma.jpg

元々は教皇様の夏の別荘として造られ、グレゴーリオ13世からピオ9世までの
30代に渡る教皇の住居として使われましたが、

1870年からはイタリア国王の正式な住居として、1946年以降は
イタリア大統領の居住地として用いられている歴史的な建物。



内部にはこんな伊達政宗による慶長遣欧使節の支倉常長、前列左、の
描かれた壁画のある部屋もあるそうで。

16-HasekuraQirinale.jpg

上から部屋の中を覗き込む形であるとはいえ、支倉常長が教皇住居を
こんな風に頬杖ついて覗き込む、とは考えられませんがぁ、どう思われます?
イタリア風描写でしょうねぇ。



ついでにおまけというか、先回最後に書きましたフィレンツェの大聖堂、
サンタ・マリーア・デル・フィオーレ・花のサンタ・マリーア大聖堂の正面壁、
白とピンクと濃い緑の美しい、如何にもルネッサンスの美と思える
美しいファッチャータは、

17-duomo-firenze.jpg

19世紀の末、1887年に漸くに出来上がったもの、とご存知でした?!


花のサンタ・マリーア大聖堂 ・ フィレンツェ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466186883.html



shinkaiも知ったのはそう昔ではなく、はい、はは、驚いたのでしたが、
かってはこんな姿で、そう、煉瓦で出来たままの正面姿で何世紀間も経たのでした。

18-facciata.jpg

ルネッサンス期の16世紀トスカーナ大公のコジモ1世の時代から、トリノから
フィレンツェに首都を移した19世紀末のヴィットリオ・エマヌエレ2世国王も、
この姿を見た訳で!

フィレンツェ人の間では、長引き、終わりが見えないものの例えに、
「まるでドゥオーモの工事の様」という比喩があるそう!

14世紀のジオット、ドナテッロ、アルノルフォ・デル・カンビオの偉人達の手を経て、
ロレンツォ・イル・マニフィコも乗り出したものの、途中でまるで出来が気に入らずで
投げ出し、はは、可笑しいでしょ?

1545年ロレンツォ・イル・マニーフィコの息子である教皇レオーネ10世が
フィレンツェに寄られる機会にサンソヴィーノ、アンドレア・デル・サルトが
間に合わせに、木製で何か装飾したそうですが、それも50年間ほどの後は皆ダメに。

そしてトスカーナ大公コジモ1世の時に、残っていたドナテッロとアルノルフォの像を
取り払い、当初の残るものは何もなしに!

そしてコジモ1世の息子、枢機卿になっていたのが兄の跡継ぎフランチェスコが亡くなり、
還俗したフェルディナンド1世がトスカーナ大公となり、ロレーナ家のクリスティーナとの
世紀の結婚式の際にどうしたか?!

布に描いたファッチャータ飾りが取り付けられ、これを口の悪いフィレンツェ人たちは
「un vero troiaio」と。 
これは多分「布」か、「織機」を現す言葉とを引っ掛けているのだろうと思いますが、
「本物の雌犬だ」という悪口を! 失礼。 で、これも50年間でアウトに。

そして17世紀末、遂に半ばヤケ気味に、真っ白に全部塗ったのだそうで!
はは、これも勿論「rizzati」という悪口に。 はは、意はちょっと書けませぇん。

で1868年遂に何度かのコンクールの結果、デ・ファブリス・De Fabrisの案が
採用になりますが、首都がローマに移る様になり、工事が延期される間に
デ・ファブリスはお亡くなりに。

そして1883年に住民投票となり、工事に掛かることを決め、
遂に1887年5月に工事終了の落成式!! おめでとうございま~す!

序に洗礼堂周囲の家並の取り壊し、広場拡張も行われ、現在の姿に。

こうして20世紀の夜明けと共に、フィレンツェの街は後進性から抜け出したものの、
たくさんの痛い思い、残念な思いも残した、多くの解体もあった訳で。



そうですね、フィレンツェの街は歩いて回れる大きさ、人間の大きさに合った街で、
それが訪問しての快さでもある訳ですが、逆に今考えると、

19-gettyimages_464401123.jpg

首都が直ぐにローマに移ってくれたからこそ、あの程度の解体で済んだわけで、
現在の我々には良かったぁ! という事なのかも、ですね。

という様な、19世紀末のフィレンツェのあれこれ、でした。


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・ フィレンツェ19世紀末 中世の都から近代に様変わりの時 あれこれ

早くも10月に入り、今年もあと3か月となりました。
春も夏も余り感じないうちに秋となり、晩秋、冬も間近に・・!

最近イタリアのコロナヴィールス感染者がじわじわと増え、
夏後半に増えだした数もまだ2000人を超えていなかったのですが、

今朝のニュースでは昨日1日の感染者が遂に4月25日の数を超える
2543人となり、死亡者数は24人、今迄の総数が36000人に近づく数に。

学校が9月半ばから再開されていますが、あちこちで学級閉鎖も起こり、

予想してはいたものの、来年1月31日迄現在の緊急事態が
延期される事になり、仕方ないとは思うものの、やはり心は弾まず、
これ以上感染者が増えず、悪い方向に向かわぬ様、心より願っています!!

・2日夕発表の2日の報告は、新感染者2499人、死者23人と
ほぼ昨日に横並びで、タンポーネの検査も増えているので、
横並びでも良しとする事に。

***

先回は19世紀末に6年間フィレンツェにイタリアの首都が置かれ、
後にローマに移った、その様子を少しご覧頂いたのでしたが、

今回はその6年間を挟んでのフィレンツェの大きな変化の様子、つまり
中世、そしてルネッサンス文化の華開いたフィレンツェの街が、近代化する為に
かなり過激な都市構造改革を強いられた様子を含め、
あれこれそれに纏わる面白い話も読みましたので、ご案内致しますね。

今回の興味を引かれた元々は、現在のレプッブリカ広場に以前あった
旧市場・メルカート・ヴェッキオとその隣のユダヤ人ゲットーの取り壊し、
だったのですが、
  
当時の様子のあれこれはこちらのサイトを参考に、お伝えしますね。
Firenze scomparsa:la città medievale prima del piano urbanistico dell’800

1-mercato-vecchio-2-copia-1.jpg

フィレンツェは当時トスカーナ大公国で、最後の大公フェルディナンド4世は
1860年の国民投票で存続を否決され退位、
イタリア統一を目指すサヴォイア家のサルデーニャ王国に併合され、
翌1861年にヴィットーリオ・エマヌエル2世の元イタリア王国が成立、
1865年にトリノからフィレンツェに首都が移される、という経緯でした。

こうして近代に向け進み始めたイタリア国ですが、当時のフィレンツェは未だ
中世のままの都市構造が完璧に残り、14世紀に完成した城壁にぐるっと囲まれ、
街の門、狭い街の通り、古くからの勢力を持つ街の名門の大邸宅の数々、で、

都市改革が始まったものの、つまりこれまでの生活の根本を変える出来事で、
大多数は意味、様子が分からないまま反発したり、また郷愁を感じる建物類が
無くなる事に驚愕したり、

当時の画家テレマコ・シニョリーニ・Telemaco Signoriniが描いた
元の旧市場、現レプッブリカ広場の様子を。

2-Telemaco_Signorini,_Mercato_Vecchio_a_Firenze_1882-83_39x65,5_cm.jpg

3-fa63059793aad2427aa88150c4235a19.jpg

彼はフィレンツェで生まれ亡くなったマッキア派、つまり印象派の先駆けの
画家ともいえる派の代表とも言われる画家で(1835-1901)、父親も画家、
ちょうどフィレンツェの街の変革時に30歳、という、彼にとって大きな意欲を
かきたてられたモチーフの1つとなったのでしょうね。



最初に見て頂いた「Firenze scomparsa・消えたフィレンツェ」の文字の入った
写真は、元の旧市場・メルカート・ヴェッキオの建物が解体された後の様子で、
こちらに同じ位置からの写真でご覧頂くと、

写真正面、左奥にドゥオーモのクーポラが見え、手前広場に面して家並が
続き、右奥広場の角に上に女性像の円柱が立ち、これがちょうど広場の角ですね。

4-_the_haunts_of_familiar_characters_in_history_and_literature_1898_14596408409-1.jpg

円柱像はアッボンダンツァの円柱・Colonna dell'Abbondanzaと呼ばれる
ローマ期の物で、この広場の下にはローマ期のフォーロ跡の遺跡があるのだそう。



で、こちらが現在のレプッブリカ広場の様子で、ちょっと見えにくいのですが、
アッボンダンツァの円柱は、メリーゴランドの向こう側右寄りに立っていて、
奥の大きな建物は現サヴォイ・ホテルに変わっており、

5-_Hotel_Savoy_Piazza_della_Repubblica.jpg

元の旧市場通りはあの円柱が角になる広さ、つまり現在は元の旧市場の倍の広さ、
南側が広げられた広場になっているのですね。



で、こちらが元あった旧市場の南側の家並、中央の塔の家はカポンサッキ・
Torre di Caponsacchiと呼ばれていたのも、すべて解体。

6-mercato-vecchio.jpg

写真右端にちょっと見えているのが「魚のロッジャ・La loggia di pesce」
と呼ばれたもので、



こちら。 このロッジャはヴァザーリ・Vasariの設計! 幸いに解体されたのが
1955年にチョンピ広場・Piazza dei Ciompiに再建されているそう。

7-LoggiadelpescealMercatoVecchio1894-1-1024x753.jpg

チョンピ広場は、花のサンタ・マリーア大聖堂の南側から道沿いに真っ直ぐ東に
約10分程にあり、グーグルのストリート・ヴューでも確かに化粧直しされた
若々しい姿で再建されているのが見えます。



という所でこちらの古図をどうぞ。 先回も見て頂いたのですが、その時は
真ん中の旧市場の建物を縦に、shinkai自身北から南への建物の向き、と
思い込んでおり、

今回改めて古い解体写真をあれこれ眺め、元の広場は東西に細長い広場
だった事に気が付き、済みません! この姿で改めてご覧頂き、

8-m-vecchio-for-blog-copy.jpg



旧市場広場の南東角、アッボンダンツァの円柱側から見た北西側の絵葉書で、
現在有名なカフェ・ジッリ・Gilliのテラスが出ている方角で、
背後も大きなビルに建て替わっています。

9-Piazza-del-Mercato-vecchio-1.jpg


現在のレプッブリカ広場の北半分の広さの広場だった訳ですが、
ここには紀元前59年ローマ期のフォーロが建設されており、
広場の床石敷きの工事中に発掘され、工事が長引いたりもする様で。

中世にはこの一帯に裕福な一族が広大な住居を建てたり、権力闘争により
解体したり、その上に自分たちの物を建てたりの繰り返しがあり、
他の街に比べ道が捩れたりしているのがフィレンツェの特徴なのだそうで!

で、次第にこの一帯は商業の中心地となり、ここに1318年に2分したうちの片方の
アルテ・デイ・ベッカイ・Arte dei Beccai、つまり屠殺業組合が本拠を置き、
屠殺場を建設、仕事を始めたのですね。

でその後周囲にはたくさんの野菜売り、パン作り、豚肉製品、食料品店が集まり、
屋台や仮の小屋掛けの店を出し、魚のロッジャは既に見て頂きましたが、古物、
古着、香辛料店、オリーヴ油、酢を売る店など、日常生活品が賄われる場所となり、

つまり市場の喧騒、悪臭、無秩序とで、かっての高級市民達の住宅とは様変わりを。


で、上の古図に見えた旧市場広場の北側には旧ゲットー・ユダヤ人ゲットーが、
1571年トスカーナ大大公コジモ1世デ・メディチによって造られます。

フラスカート・Frascatoと呼ばれた密集した建物で、街の中で周囲から孤立し、
これは当時ユダヤ人は差別視されており、監視し易い為ですね。

古図に見える井戸のある広場、

10-Ghetto_Interno_1.jpg



ゲットー内部の建物。

11-Ghetto_Interno_7.jpg


区域が孤立、密集した住まいになっていた他に、丸い黄色い布を帽子につけ、
目立ちやすくする等、様々な制約も課された様子。


時代を経て、メディチ家からロレーナ家、結婚により統治家系が移り、
ユダヤ人の生活は少し楽になり、ゲットーを離れる事も出来る様になったものの、

大住居フラスカートは建物の形、構造からスズメバチの巣と呼ばれ、
ならず者や売春婦、その保護者、紐、でしたっけ? の入り込む巣窟となり、
衛生状態もどんどんひどくなり、
旧市場広場同様解体が決まった時には、まるで反対が出なかったとか。

こちらがゲットーの解体。

12-Ghetto_Interno_8.jpg



所でフィレンツェの周囲を囲んでいた城壁について、この地図を。
1~6までの色別が右上に出ていますが、ここでは6の紫色を、最終的にできた城壁、
1200年代の終わりから1333年にかけて造られた大城壁ですね。

13-cartinamura.jpg



位置的によくお分かりになる様、現在の街の地図もどうぞ。
アルノ河の北側、街の周囲を走る国道SSと付いている黄色い道路は、
上の城壁としっかり一致し、

14-map attuale.jpg



これは先回ちらっと書きました、フィレンツェ遷都の際に造られた幅40mに及ぶ
道路、城壁を取っ払って造られた道路で、パリのブールヴァールに倣ったそう。
アルノ河南にはこの道は造られず、山側にいまだ健在なのが見られます。

50年かかって造られた城壁で、当時の街の人口は85000人、
設計者はアルノルフィオ・カンビオ、街の周囲に広がる野菜畑もすべて内部に
囲み、高さ11m、15の街の門があり、これは高さ35mになるものもあり、
見張り塔が73、
内側には通路があり、見張りの兵士たちは城壁を降りることなく周囲を歩けたそう。

内部には大きな堀がめぐらされており、ムニョーネ・Mugnone川から水が
汲まれていたそう。

これはヴェネツィア広場とあり、城壁の内側、広い道はかっては堀の跡?

15-piazza verzaia.jpg


17世紀になり、武器を持つ敵の襲撃の心配がなくなると、この城壁は税関というか、
つまり門を通って入る人間からの税を取る場所となり、

人間誰もが税を払うのを好む訳がなく、はは、農作物を持ち込むのを農婦が
自分のスカートの中に隠したり、果ては棺に隠したり、馬車の中の豚を貴夫人に
変装させたり、ははは、もあったそうで。

当時はこの門の外、例えばフィエーゾレ・Fiesole等に出かけるのは、
本当にちょっとした旅行だったと言います。



遷都の時に幾つかの門が打ち壊されましたが、こちらはポルタ・ア・ピンティ・
Porta a Pinti、東側城壁の中程、地図で道路が丸く囲んでいる場所、
現在イギリス人墓地がある、そこにあった門で、

16-cimitero_degli_inglesi_porta_a_pinti-1.jpg

名の由来は、傍の修道院にいた修道士たちがガラス窓、ステンドグラスの
絵付けをしていたので、「ピンティ=描く、絵」、に由来しているのだそう。

という様な、土地の名、旧い由来を持った土地の名が、この19世紀末の
街の大改革によりたくさん消えた、という事も出て来ました。



最後は、こちらシニョリーア広場・ピアッツァ・シニョリーア、ヴェッキオ宮前に
広がる広場、1498年5月23日に、フィレンツェに宗教革命を起こし、遂には
この広場で火刑にされたサヴォナローラを思い出しますが、
広場を北から見たこのスケッチ、

17-giuseppe_conti_firenze_vecchia_firenze_1899 piazza signoria.jpg



またはこちらの方がよく分かると思いますが、広場の右に並ぶ家並に
庇が突き出しているでしょう? これを「ピサ人の庇、屋根・テットイエ・デイ・
ピサーニ」と呼ぶそうで。

18-Giuseppe_Zocchi_-_The_Piazza_della_Signoria_in_Florence_-_WGA25992.jpg

ここには今ジェネラーリ保険会社が建物を持ち、有名なカフェ・レヴォアール・
Revoirがありますが、

フィレンツェとピサは何度か戦争をしている間柄で、1364年にはカッシーナの
戦闘でピサが大敗を喫し、たくさんの人質がフィレンツェに連行され、
辱めを受けたり、また門を通り街に入るのに税を払いますが、

それに痛烈なからかいが得意なフィレンツェ人が課したのは、18ソルディ。
というのも、この税額は豚の税と同額だったのですって! ははは。

と同時に、この右側の建物の突き出した屋根、庇を掛ける仕事も強制され。
という訳で、ここの庇は今も「ピサ人の庇」と呼ばれているのだそうで~す。

***

本当は、今回もう1つ「花のサンタ・マリーア聖堂」のファッチャータ、
あの華麗な装飾になるまでの長~い、様々な可笑しな経過もご案内し、
ついでにフィレンツェ首都の時代の国王の愛人も、と思っていましたが、

長くなり、今朝は長~い停電で待ち疲れたりで、
次回に再度トライを、という事でお許しを!


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