・ フィレンツェ19世紀末 中世の都から近代に様変わりの時 あれこれ

早くも10月に入り、今年もあと3か月となりました。
春も夏も余り感じないうちに秋となり、晩秋、冬も間近に・・!

最近イタリアのコロナヴィールス感染者がじわじわと増え、
夏後半に増えだした数もまだ2000人を超えていなかったのですが、

今朝のニュースでは昨日1日の感染者が遂に4月25日の数を超える
2543人となり、死亡者数は24人、今迄の総数が36000人に近づく数に。

学校が9月半ばから再開されていますが、あちこちで学級閉鎖も起こり、

予想してはいたものの、来年1月31日迄現在の緊急事態が
延期される事になり、仕方ないとは思うものの、やはり心は弾まず、
これ以上感染者が増えず、悪い方向に向かわぬ様、心より願っています!!

・2日夕発表の2日の報告は、新感染者2499人、死者23人と
ほぼ昨日に横並びで、タンポーネの検査も増えているので、
横並びでも良しとする事に。

***

先回は19世紀末に6年間フィレンツェにイタリアの首都が置かれ、
後にローマに移った、その様子を少しご覧頂いたのでしたが、

今回はその6年間を挟んでのフィレンツェの大きな変化の様子、つまり
中世、そしてルネッサンス文化の華開いたフィレンツェの街が、近代化する為に
かなり過激な都市構造改革を強いられた様子を含め、
あれこれそれに纏わる面白い話も読みましたので、ご案内致しますね。

今回の興味を引かれた元々は、現在のレプッブリカ広場に以前あった
旧市場・メルカート・ヴェッキオとその隣のユダヤ人ゲットーの取り壊し、
だったのですが、
  
当時の様子のあれこれはこちらのサイトを参考に、お伝えしますね。
Firenze scomparsa:la città medievale prima del piano urbanistico dell’800

1-mercato-vecchio-2-copia-1.jpg

フィレンツェは当時トスカーナ大公国で、最後の大公フェルディナンド4世は
1860年の国民投票で存続を否決され退位、
イタリア統一を目指すサヴォイア家のサルデーニャ王国に併合され、
翌1861年にヴィットーリオ・エマヌエル2世の元イタリア王国が成立、
1865年にトリノからフィレンツェに首都が移される、という経緯でした。

こうして近代に向け進み始めたイタリア国ですが、当時のフィレンツェは未だ
中世のままの都市構造が完璧に残り、14世紀に完成した城壁にぐるっと囲まれ、
街の門、狭い街の通り、古くからの勢力を持つ街の名門の大邸宅の数々、で、

都市改革が始まったものの、つまりこれまでの生活の根本を変える出来事で、
大多数は意味、様子が分からないまま反発したり、また郷愁を感じる建物類が
無くなる事に驚愕したり、

当時の画家テレマコ・シニョリーニ・Telemaco Signoriniが描いた
元の旧市場、現レプッブリカ広場の様子を。

2-Telemaco_Signorini,_Mercato_Vecchio_a_Firenze_1882-83_39x65,5_cm.jpg

3-fa63059793aad2427aa88150c4235a19.jpg

彼はフィレンツェで生まれ亡くなったマッキア派、つまり印象派の先駆けの
画家ともいえる派の代表とも言われる画家で(1835-1901)、父親も画家、
ちょうどフィレンツェの街の変革時に30歳、という、彼にとって大きな意欲を
かきたてられたモチーフの1つとなったのでしょうね。



最初に見て頂いた「Firenze scomparsa・消えたフィレンツェ」の文字の入った
写真は、元の旧市場・メルカート・ヴェッキオの建物が解体された後の様子で、
こちらに同じ位置からの写真でご覧頂くと、

写真正面、左奥にドゥオーモのクーポラが見え、手前広場に面して家並が
続き、右奥広場の角に上に女性像の円柱が立ち、これがちょうど広場の角ですね。

4-_the_haunts_of_familiar_characters_in_history_and_literature_1898_14596408409-1.jpg

円柱像はアッボンダンツァの円柱・Colonna dell'Abbondanzaと呼ばれる
ローマ期の物で、この広場の下にはローマ期のフォーロ跡の遺跡があるのだそう。



で、こちらが現在のレプッブリカ広場の様子で、ちょっと見えにくいのですが、
アッボンダンツァの円柱は、メリーゴランドの向こう側右寄りに立っていて、
奥の大きな建物は現サヴォイ・ホテルに変わっており、

5-_Hotel_Savoy_Piazza_della_Repubblica.jpg

元の旧市場通りはあの円柱が角になる広さ、つまり現在は元の旧市場の倍の広さ、
南側が広げられた広場になっているのですね。



で、こちらが元あった旧市場の南側の家並、中央の塔の家はカポンサッキ・
Torre di Caponsacchiと呼ばれていたのも、すべて解体。

6-mercato-vecchio.jpg

写真右端にちょっと見えているのが「魚のロッジャ・La loggia di pesce」
と呼ばれたもので、



こちら。 このロッジャはヴァザーリ・Vasariの設計! 幸いに解体されたのが
1955年にチョンピ広場・Piazza dei Ciompiに再建されているそう。

7-LoggiadelpescealMercatoVecchio1894-1-1024x753.jpg

チョンピ広場は、花のサンタ・マリーア大聖堂の南側から道沿いに真っ直ぐ東に
約10分程にあり、グーグルのストリート・ヴューでも確かに化粧直しされた
若々しい姿で再建されているのが見えます。



という所でこちらの古図をどうぞ。 先回も見て頂いたのですが、その時は
真ん中の旧市場の建物を縦に、shinkai自身北から南への建物の向き、と
思い込んでおり、

今回改めて古い解体写真をあれこれ眺め、元の広場は東西に細長い広場
だった事に気が付き、済みません! この姿で改めてご覧頂き、

8-m-vecchio-for-blog-copy.jpg



旧市場広場の南東角、アッボンダンツァの円柱側から見た北西側の絵葉書で、
現在有名なカフェ・ジッリ・Gilliのテラスが出ている方角で、
背後も大きなビルに建て替わっています。

9-Piazza-del-Mercato-vecchio-1.jpg


現在のレプッブリカ広場の北半分の広さの広場だった訳ですが、
ここには紀元前59年ローマ期のフォーロが建設されており、
広場の床石敷きの工事中に発掘され、工事が長引いたりもする様で。

中世にはこの一帯に裕福な一族が広大な住居を建てたり、権力闘争により
解体したり、その上に自分たちの物を建てたりの繰り返しがあり、
他の街に比べ道が捩れたりしているのがフィレンツェの特徴なのだそうで!

で、次第にこの一帯は商業の中心地となり、ここに1318年に2分したうちの片方の
アルテ・デイ・ベッカイ・Arte dei Beccai、つまり屠殺業組合が本拠を置き、
屠殺場を建設、仕事を始めたのですね。

でその後周囲にはたくさんの野菜売り、パン作り、豚肉製品、食料品店が集まり、
屋台や仮の小屋掛けの店を出し、魚のロッジャは既に見て頂きましたが、古物、
古着、香辛料店、オリーヴ油、酢を売る店など、日常生活品が賄われる場所となり、

つまり市場の喧騒、悪臭、無秩序とで、かっての高級市民達の住宅とは様変わりを。


で、上の古図に見えた旧市場広場の北側には旧ゲットー・ユダヤ人ゲットーが、
1571年トスカーナ大大公コジモ1世デ・メディチによって造られます。

フラスカート・Frascatoと呼ばれた密集した建物で、街の中で周囲から孤立し、
これは当時ユダヤ人は差別視されており、監視し易い為ですね。

古図に見える井戸のある広場、

10-Ghetto_Interno_1.jpg



ゲットー内部の建物。

11-Ghetto_Interno_7.jpg


区域が孤立、密集した住まいになっていた他に、丸い黄色い布を帽子につけ、
目立ちやすくする等、様々な制約も課された様子。


時代を経て、メディチ家からロレーナ家、結婚により統治家系が移り、
ユダヤ人の生活は少し楽になり、ゲットーを離れる事も出来る様になったものの、

大住居フラスカートは建物の形、構造からスズメバチの巣と呼ばれ、
ならず者や売春婦、その保護者、紐、でしたっけ? の入り込む巣窟となり、
衛生状態もどんどんひどくなり、
旧市場広場同様解体が決まった時には、まるで反対が出なかったとか。

こちらがゲットーの解体。

12-Ghetto_Interno_8.jpg



所でフィレンツェの周囲を囲んでいた城壁について、この地図を。
1~6までの色別が右上に出ていますが、ここでは6の紫色を、最終的にできた城壁、
1200年代の終わりから1333年にかけて造られた大城壁ですね。

13-cartinamura.jpg



位置的によくお分かりになる様、現在の街の地図もどうぞ。
アルノ河の北側、街の周囲を走る国道SSと付いている黄色い道路は、
上の城壁としっかり一致し、

14-map attuale.jpg



これは先回ちらっと書きました、フィレンツェ遷都の際に造られた幅40mに及ぶ
道路、城壁を取っ払って造られた道路で、パリのブールヴァールに倣ったそう。
アルノ河南にはこの道は造られず、山側にいまだ健在なのが見られます。

50年かかって造られた城壁で、当時の街の人口は85000人、
設計者はアルノルフィオ・カンビオ、街の周囲に広がる野菜畑もすべて内部に
囲み、高さ11m、15の街の門があり、これは高さ35mになるものもあり、
見張り塔が73、
内側には通路があり、見張りの兵士たちは城壁を降りることなく周囲を歩けたそう。

内部には大きな堀がめぐらされており、ムニョーネ・Mugnone川から水が
汲まれていたそう。

これはヴェネツィア広場とあり、城壁の内側、広い道はかっては堀の跡?

15-piazza verzaia.jpg


17世紀になり、武器を持つ敵の襲撃の心配がなくなると、この城壁は税関というか、
つまり門を通って入る人間からの税を取る場所となり、

人間誰もが税を払うのを好む訳がなく、はは、農作物を持ち込むのを農婦が
自分のスカートの中に隠したり、果ては棺に隠したり、馬車の中の豚を貴夫人に
変装させたり、ははは、もあったそうで。

当時はこの門の外、例えばフィエーゾレ・Fiesole等に出かけるのは、
本当にちょっとした旅行だったと言います。



遷都の時に幾つかの門が打ち壊されましたが、こちらはポルタ・ア・ピンティ・
Porta a Pinti、東側城壁の中程、地図で道路が丸く囲んでいる場所、
現在イギリス人墓地がある、そこにあった門で、

16-cimitero_degli_inglesi_porta_a_pinti-1.jpg

名の由来は、傍の修道院にいた修道士たちがガラス窓、ステンドグラスの
絵付けをしていたので、「ピンティ=描く、絵」、に由来しているのだそう。

という様な、土地の名、旧い由来を持った土地の名が、この19世紀末の
街の大改革によりたくさん消えた、という事も出て来ました。



最後は、こちらシニョリーア広場・ピアッツァ・シニョリーア、ヴェッキオ宮前に
広がる広場、1498年5月23日に、フィレンツェに宗教革命を起こし、遂には
この広場で火刑にされたサヴォナローラを思い出しますが、
広場を北から見たこのスケッチ、

17-giuseppe_conti_firenze_vecchia_firenze_1899 piazza signoria.jpg



またはこちらの方がよく分かると思いますが、広場の右に並ぶ家並に
庇が突き出しているでしょう? これを「ピサ人の庇、屋根・テットイエ・デイ・
ピサーニ」と呼ぶそうで。

18-Giuseppe_Zocchi_-_The_Piazza_della_Signoria_in_Florence_-_WGA25992.jpg

ここには今ジェネラーリ保険会社が建物を持ち、有名なカフェ・レヴォアール・
Revoirがありますが、

フィレンツェとピサは何度か戦争をしている間柄で、1364年にはカッシーナの
戦闘でピサが大敗を喫し、たくさんの人質がフィレンツェに連行され、
辱めを受けたり、また門を通り街に入るのに税を払いますが、

それに痛烈なからかいが得意なフィレンツェ人が課したのは、18ソルディ。
というのも、この税額は豚の税と同額だったのですって! ははは。

と同時に、この右側の建物の突き出した屋根、庇を掛ける仕事も強制され。
という訳で、ここの庇は今も「ピサ人の庇」と呼ばれているのだそうで~す。

***

本当は、今回もう1つ「花のサンタ・マリーア聖堂」のファッチャータ、
あの華麗な装飾になるまでの長~い、様々な可笑しな経過もご案内し、
ついでにフィレンツェ首都の時代の国王の愛人も、と思っていましたが、

長くなり、今朝は長~い停電で待ち疲れたりで、
次回に再度トライを、という事でお許しを!


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