・ スコミーゴ村 雪!  天気予報が当たったぁ!

クリスマスも過ぎましたが、皆さん、良いクリスマスを過ごされました?!
はい、お陰様でshinkaiも楽しく過ごし、また4日に追加をと、ははは。

で、先回のブログに「2010年はホワイト・クリスマス?」と書きましたが、
その中に、「月曜28日は10年ぶりの雪という予報」がありました。

はい、クリスマス当日はこの一帯曇り空ではありましたが雪ではなく、
やれやれと済み、  今朝28日の朝7時のTVニュースで、ミラノが雪、
と出て、結構降り続いている様子が映り、

あっ、ブログに、スコミーゴは大丈夫でしたがミラノは雪!と書こうと思い、
ははは、ニュースが済みTVを消し、窓の鎧戸を開けるとぉぉぉ、

なんと真っ白の雪景色ぃぃ!!  きゃははぁ、スコミーゴも雪だぁ!

という事で即カメラを取りに行き、ベランダに出て庭越しの雪景色を。
はい、朝7時35分の雪景色で~す。

本当はも少し青い雪景色だったですが、はい、カメラの露出を少し変え、
庭越し、道越しのお向かいから、東に向かっての眺めで、

1-S30_0242_GF.jpg

2-S30_0243_GF.jpg



何枚か撮っている内に、バックして出て来て、そろそろとご出勤の車も。

3-S30_0249_GF.jpg



雪は結構な勢いで降っており、こんな様子!

4-S30_0250_GF.jpg



我がテラスから続く、コンドミーニオの庭にはこんもりと雪。

5-S30_0251_GF.jpg



こちらはテラスの端から、西へのコンドミーニオの庭。 
しっかり5,6cmは積もっていたと。

6-S30_0247_GF.jpg

7-S30_0246_GF.jpg



同じくテラスから、東への眺め。

8-S30_0252_GF.jpg



写真を撮りに出たいと思いつつ、かなりの雪なので「傘がいるなぁ」と
躊躇するうち、雪は10時頃に止み、雨に。
 
と同時に目覚ましについている晴雨計の色が緑から赤に替わり、
あっ、ひょっとして太陽が顔を出してくれたら、雪景色が綺麗に撮れる、

と少し待つうち、何のこたぁない、かなりの雨に変わり、
晴雨計の色も濃い青紫にぃ! おちょくられ、
雨だと積もった雪が落ちるやんかぁ、と観念して身支度、10時半頃だったと。

で、これがコンドミーニオ前。  

9-S30_0253_GF.jpg

この雪でも、生ゴミ収集の車が既に通ってくれており、右の塀前の茶色の、
shinkaiんちのゴミ・バケツにはすでに雪が。



ちょうど左手下の方からバックしながら、小粒の砂利を巻く車が。 
ご苦労さんです! この辺りは坂道が多いので、即出動してくれるのですね。

10-S30_0254_GF.jpg



車が通った後の道は雪嵩が減り歩きやすいので、とにかく短い坂道の下まで。

11-S30_0255_GF.jpg

傘をさしながら撮るのが面倒ですが、それに文句を言ってられない程冷え込んでいて、
指無し手袋から出ている指先が直ぐ凍えそうに!
そう言えば、スマホのスコミーゴ村天気予報には、0度~4度と出ていたっけ。



1つ、2つあるベンチも雪を冠り。

12-S30_0257_GF.jpg



通りがかりの年配のご夫婦、散歩のお帰りか、声をかけてくれ、ボンジョルノ!

道左側の草地にあるオリーヴの木にもしっかり雪。 が雨の為、時々バサッと。

13-S30_0260_GF.jpg



通りがかりのワン散歩のシニョーラ。  ワン君は既に挨拶に来てくれ、
毛先がしっかり濡れていましたっけ。

14-S30_0259_GF.jpg



コンドミーニオからの道は、この先でT字型に交差しますが、

15-S30_0261_GF.jpg



手前の道のシナノキ並木の、枝先の雪。

16-S30_0263_GF.jpg



右側の囲いの中の木は何だろう?  木の柵に雪がつもり、

17-S30_0262_GF.jpg



こんな感じに、緩やかな坂道を我がコンドミーニオの方に。

18-S30_0290_GF.jpg

19-S30_0265_GF.jpg



またワン君の散歩に出会い。

20-S30_0268_GF.jpg



突き当りの角辺りから、隣のオリアーノ村の丘の眺めを。

21-S30_0269_GF.jpg



真ん中に林が横並びに続く辺り、あそこが一番低く、湧き水が流れ、
ちょうどスコミーゴ村とオリアーノ村との境に。

22-S30_0270_GF.jpg

23-S30_0281_01_GF.jpg



オリアーノ村の丘の流れ。 1本濃い目の線が上の方に見える所を、
コネリアーノとヴィットリオ・ヴェネトを結ぶ道が通ります。

24-S30_0287_GF.jpg



手前の葡萄畑。 葡萄の木がここはまだ若い畑。

25-S30_0273_GF.jpg



既にお馴染みの、はい、オリアーノ村の教会と鐘楼。

26-S30_0275_GF.jpg



晴れていればもっと東に向かえますが、道の雪がべちゃべちゃなので、
ここで断念、家に戻ります。

27-S30_0282_GF.jpg



シナノキ並木の道の向こうから、そろそろとやってくるチンクエ・チェント。
ルーフ上の雪は10cm近いかも!

28-S30_0289_GF.jpg



こちらが余り好きでない、はは、スコミーゴ村教会の鐘楼。

29-S30_0292_GF.jpg



戻りの坂道、たった20分ほど前に通った、砂利撒きトラックのチェーン痕が
しっかり凍り、 ・・明日の朝は?! スーパーに買い出しに行きたかったけど。

30-S30_0294_GF.jpg



所で、こちらは前日27日、朝の日の出前の美しい色。 良いお天気の日で。

31-S27_0230_GF.jpg

32-S27_0238_GF.jpg


という所で2020年のブログはこれでお終いに。 
良い年が来ます様に!!

sbrindisi-640x342.jpg

1年間のご愛顧、本当に有難うございました!
来年もまたどうぞよろしくお願い致しま~す!!


*****

当ブログご訪問、有難うございます!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!


    s誕生日カード2020.jpg

*****

色鉛筆+水彩画ブログには、


*****
   
記録庫ブログは、お陰様で無事引っ越しを終えました
 
今後ともの皆様のご訪問を、よろしくお願い致しま~す!

*****

コメントの書き込みについてのお願い。

ブログの記事下に、「コメントを書く」が出ていない時は、
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。
非公開コメントをご希望の場合は、非公開で、と書いて頂くと、  
コメント承認制ですので、保留にし、お返事だけ公開しますので、
それもご了承下さいませ。

・ 2020年のクリスマスは、ホワイト・クリスマス?!

皆さま、ブオン・ナターレ!!

1-Buon-Natale-1.jpg


今朝届いた、友情こもったカードも、急遽掲載で~す!  おおきにぃ!

sBuon-Natale-2020.jpg

コロナ禍が収まらないまま、2020年のクリスマスとなりましたが、
何はともあれ、クリスマスを無事迎えられました。

自宅に、というのは今年の春から慣れ、久し振りに会う友の顔も、
メールで届く「元気?」という便りも有難く、

もうすぐやってくる2021年を、元気で迎えましょう!!



という事ですが、所でクリスマスのお天気はどうかな?となると、
これは19日の天気予報で、「クリスマスの雪」

2-meteo-con-neve-natale-europa.jpg

幾週間か前に聞こえ出した「クリスマスは雪かも」の声が、
「来週はほら、最高潮に」という事で・・!
イタリアの白いクリスマスは条件が重なれば、ですが、ヨーロッパは
多分雪で、広範囲にわたって雪になるでしょう」と。

はぁ、さようか・・。
shinkaiは寒いのが嫌い、雨でも出かけるのが億劫な猫タイプで。



で、これ以降何となく曇り空が続き、外は寒いよぉ、続きだったのがぁぁ、
こちらが24日朝の天気予報!
「イタリアのお天気は雪で覆われ、凍結と雪」ですとぉ!

3-meteo-italia-con-la-neve.jpg

雪はクリスマスの日の夕方にやって来て、そして翌26日に」と。

はぁ、shinkaiのスマホの天気予報「スコミーゴ村」は24日25日は
雨になっており、これを書いている24日午後の現実はしとしと雨で、
まぁ、当たっています。

今日の気温は最低4度、最高8度となっており、現在7度。
ですが、25日の気温は最低が1度、最高8度で雨の予想で、
今夜は冷え込むのでしょうね。



で、「クリスマスと、月曜28日は10年ぶりの雪」ですって!

4-meteo-con-neve-forte-su-italia-del-nord.jpg

「雪と寒さが好きでない人も、雪のクリスマスはやはり魔法の様」
とあるのですが、

早く寒さが去って、緑の芽生え風景、青空が見たい、好き、
という人間もいるのをお忘れなくぅ!



最近の日本の方のブログを拝見すると「寒い~!」という声が多いので、

ではイタリアの雪景色を見て頂こうか、と写真を探し始めましたら、
かっての「記録の大雪」写真があれこれ見つかり、
これなら「嫌がらせ」にはならないだろうなぁ、と、はい、へへ。

まずは穏やかな、アルト・アディジェのクリスマスの雰囲気から。

5-alto adige.jpg



そして一転! 1985年トレントの聖堂前。

6-Nevicata del 1985 a Trento.jpg

この1985年1月は雪と凍結が凄かった様で、あちこちの雪景色が!



ミラノ駅、同じ1985年1月13日。 4日3夜降り続け90cmにも。
コモやヴァレーゼは1mを超す雪だったそう。

7-1-milano 1985.1.13.jpg



こちらは普通の、はは、雪景色と思う、ミラノ大聖堂前。

7-2-milano-sotto-la-neve-fonte-immagine-milanoevents.jpg



ヴェネツィアの1985年。 積雪は30cmでも、大運河は氷片が流れ、

8-unnamed.jpg



運河は凍結!  

9-1985 .jpg

それ以前の50年代には、ムラーノ島迄凍結して、歩いて行けたとか
聞きましたっけ!



ボローニャ、1929年の写真。 1985年の雪は80cm!

10-bologna 1929 (1).jpg



フィレンツェの雪景色はたくさん見つかり、美しいのでご覧下さいね。

11-160117398-9b3fe542-ae4e-440b-b4df-0186f803eed3.jpg

12-neve-firenze-02.jpg



1985年の雪と凍結。 シニョーリア広場のネプチューンの泉!

13-nevicata-1985-La-statua-di-Nettuno-il-Biancone-ghiacciata.jpg



フィレンツェ、普通の雪景色と思う、洗礼堂と、奥に大聖堂。

14-073265___firenze_neve_3.jpg



1929年2月、ピサの雪と、アルノ河の凍結!

15-Pisa 1929 2.jpg

16-1-Arno1929_2.jpg


こちらは、尋常な、はは、美しい斜塔と聖堂の雪景色。

16-2-7261135348.jpg



ローマ、ヴァティカン、1956年の雪。 この年の雪も酷く、確か歌もあったと。

17-Nevicata_1956_Roma.jpg



コロッセオの雪、と、フォロ・ロマーノの雪。 

18-neve-roma-marzo-ecco-quando-e-successo-56648_1_1.jpg

19-Roma-neve-1200x1200.jpg

そう、眺めるのは、雪景色がどこもが美しいですねぇ!

今日のTVニュースで、コロッセオが新しく改装されるに付き、
アイディア募集とかありましたっけ。



1956年 ナポリの雪。  まだ遊べる気持ちの余裕のある雪、はは。

20-Nevicata del '56 a Napoli .jpg



皆さん、寒くなられましたぁ?  では、暖かい常夏の国の写真で〆ますね。
アロハ~!!

21-quando-andare-alle-hawaii.jpg

22-sBabbo-surf.jpg


*****

当ブログご訪問、有難うございます!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!


    blog.with2.jpg

*****

をアップしています。


*****
   
記録庫ブログは、お陰様で無事引っ越しを終えました
 
今後ともの皆様のご訪問を、よろしくお願い致しま~す!

*****

コメントの書き込みについてのお願い。

ブログの記事下に、「コメントを書く」が出ていない時は、
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。

非公開コメントをご希望の場合は、非公開で、と書いて頂くと、  
コメント承認制ですので、保留にし、お返事だけ公開しますので、
それもご了承下さいませ。

・ n.2 英国王エドワード8世 と ウオーリス・シンプソン 世紀の恋

これを書いている12月21日、漸くに少しづつコロナの新感染者数が減り始め、
現在1万人台で、死者も500人前後に、ですが、

昨日から伝わるニュース、イギリスのコロナヴィールスに新変種が見つかり、
大変に感染力が強く、やっと接種が始まったワクチンも効き目が
薄くなるとか、で、

昨日のロンドンからの飛行機で戻ったイタリア人に感染者がおり、
ローマで見つかった、とかいう、ちょっと怖いニュースがあります。


で、現在のイタリア全体の地図の色は、アブルッツォ州がオレンジ色で、
一応全部イエローとなっているのですが、

f_688ea52be7.jpg

23日迄は今の上記の地図の色の規制で行き、



24日から27日迄イタリア全土が赤ゾーン指定となり、
クリスマス開け28日から30日の3日間は、オレンジに、
そして再び31日から3日までは赤に、4日はオレンジに、
最後5日、6日は再び赤となり、

site_640_480_limit_Cattura.jpg

7日からまた今の黄色、オレンジという状態に戻ります。

ドイツ、オーストリア、オランダ、イギリスのロンドンもロック・ダウンとなり、
イタリアも、夏の規制が緩やかになった所で、再びぐんと増えたので、
再びの第3波の攻撃に備えても、厳しいのを我慢して、という様子で
規制が引かれました。



赤色とオレンジ色の違いは、赤は外出が仕事や緊急に限り認められるものの
基本線は外出禁止、
食料品店、雑誌などのエディーコラ、たばこ、薬局などの必需品店は開くものの、
レストラン、バールなどは家庭配達のみで、これは22時まで。

DPCM-NATALE-7.jpg

オレンジ色は30k以内は外出OK、と緊急事態、家に戻るのはOK.
レストラン、バールは赤と同じ。

そして親族、会食に関しては、州内においては親族、友人に会うのはOK、
家に2人の招待はOK、夜間外出禁止は22時から5時。
という事に。

という事で、友人のジュリアーナがクリスマスに食事に来ることに、ははは。

と、ヴェネト州は暫く前から新感染者数が5000人を超す事もある程で、
遂に19日からザイアは規制交付し、

コムーネを超える外出は、緊急移動はOKだが、それ以外は禁止、
外出は14時まで。

23日迄はレストランが開いているのでお昼はOKですが、14時までに着く事、
家に戻るのはOKという条例です。

これで年明けに少しでも新感染者が減ると良いのですが!!


*****

先回の n.1 映画「英国王のスピーチ」に続き、ジョージ6世の先王である
英国王エドワード8世(1884-1971)について今回。

彼は離婚歴あるアメリカ人女性、ウォーリス・シンプソンの援けなしには、
国王の任務を全うする事は出来ないと、退位した事(1936)で有名ですが、

1-Edoardo-VIII-Wallis-Simpson.jpg


では国王を退位させるほどの影響力を持っていたウォーリス・シンプソン・
Wallis Simpsonとはどんな女性だったのか、

最初はその程度の興味で、偶然見つけたサイト記事を読み始めたのが
どんどん深みにはまり、へへ、つまり次々と出て來る記事内容が、
少しゲスイなぁと我ながら思いつつ、まぁ、好奇心はそそられ、はぁ、

「酷い事でも、知らぬより知った方がマシ」と思う我がモットーに従い
知った事を、皆様にもご披露を! 

但し、自分がゲスにならぬ様に、これは気を付けて参ります、はい。



で、ウォーリス・シンプソンについて始める前に、先回、エドワード公には
彼女が登場する前に2人の女性がいたと書きましたが、

はぁ、ここでは他にもいただろう女性関係は排除し、長く続いたのみを
取り上げておりまして、はい、

最初の1人フリーダ・ダドリー・ワード・Freda Dudley Wardは
彼と同年で、知り合ったのは1918年春、結婚し娘が2人いた彼女とは
16年程も長く続いたのですね。

2-image-a-16_1538855011712.jpg



彼女に限らず、エドワードが関係を持ったのは、次のテルマ・ファーネス・
Thelma Furness、

3-download.jpg


そしてウオーリス・シンプソンと、いずれも既婚女性で、

これはいささか次代国王になるべき人物には余り相応しからずで、しかも
既に弟君たちは結婚し子供もいるのが、彼は40歳を超え未だ独身。

既婚女性とのみ関係を持つ、については、子供の頃から母親の愛情に
恵まれずに育ち、年上女性の暖かさを求めた、という風に書いてあるのも
ありますが、

上記の様にフリーダ・ダドリー・ワードは同い年、次のテルマ・ファーネスは
(1904-1970)と10歳年下、そしてウオーリス(1896-1986)は2歳年下。

で、大変興味深い事を読んだのは
・・la scandalosa storia dell'ALTRA donna sposata, re Edoardo
・・17 anni PRIMA di Wallis Simpson」で、

つまり彼が22歳の1916年の事、ちょうど第1次大戦中のフランスのアミアン・
Amiensで、友人達に連れられその手の家に行き、じきに知り合い関係が続いた
「マギ―・Maggy」、彼女は「支配者」として評判を取っていた女性で、

それ以来「セックス」は彼にとっての最大の関心事になった、というのですね。

そして2年後に知り合ったフリーダは貴族女性でなく、可愛く美しくそして
大人で、2人の関係において「支配者」で、

エドワードが熱愛し、熱狂的な言葉を連ねて彼女に送ったたくさんの手紙、
電話も夜に何度もしていたとか、当時如何に彼が真実彼女を愛していたか!

熱中した2人の間で交わされる、他人には失笑するような言葉も、失礼、
それはもう人間の歴史始まって以来の常ですので、個々は取り上げませんが、

既に彼は退位しても結婚したい、という意思は持っていたのが垣間見えます。

が、彼女にはエドワードの他にも愛する男性が出来、やっと離婚した1930年には
既にエドワードとの濃い愛も頂点を超え、別の男性も2年後に亡くなり、
彼らの関係は終焉に。


1926年に知り合った既に2度の結婚をしているテルマとの関係は、彼女が美しく
優しく、体の関係はあっても感情的な支えは無く、

つまり彼女はエドワードが複雑な性格を持っている事は分かっても、分かろうと
近づく事はない関係で、つまり彼にとって歯ごたえの無い女性だったろうというか、

そうこうしている内に1931年頃、テルマはアメリカからやって来たウォーリスを
エドワードに紹介しますが、

機知に富み、鋭い反応を示すウォーリスにエドワードはすぐに魅惑され・・、

という所で、やれやれ、漸くに本命の出番に辿り着けましたぁ。



さて、1936年即位後1年に満たないエドワード8世に退位を決意させた
ウォーリス・シンプソン・Wallis Simpsonなる女性。

彼女はアメリカ人ではあるものの、生まれは両親ともがイギリスから移植の
裕福な家庭に生まれます。
母親はアリス・モンタギュウ・Alice Montague、イギリスの貴族の一員で、
1621年にアメリカのヴァージニア州に。

父親はタックル・ウォーリス・ワーフィールド・Teackle Wallis Warfield、
こちらも1662年にメリーランド州にやって来た由緒ある家柄。

母親アリスは美しく、たくさんの求婚があったのもタックルに恋をし、彼は既に
結核を病んでおり、反対されたのを押し切り1895年11月19日に結婚、

1896年9月28日ウォーリスが生まれ、1896年11月16日に父親が27歳で
亡くなり、病気が進み、写真でしか生まれて来た娘を見る事が無かったそう。

母親に抱かれたウオーリス。

4-Wallis-con la madre Alice.jpg


残された2人はタックルの母親が、未婚の息子ソロモン・Solomon、
つまりタックルの兄と裕福に暮らしている家に引っ越すものの、

厳格で盲信家であるソロモンがアリスに恋をし、アリスは夫の兄弟とは
結婚する気はなく、仕事を見つけ、娘ウォーリスを連れ家を出ます。

ソロモンは姪の勉学の援助を続けるものの、アリスが再婚する際に
ウォーリスに彼の所に引っ越す事を提案、つまり彼の財産をすべて彼女に
残す代わりに、母親との付き合いはしない事が条件で、ウォーリスは拒否。

18歳で学校を終えた彼女は、特別な美人でない代わり大変に魅力的、
溌剌、知的で優しく、非の打ち所のない所作と完璧な礼儀で、
たくさんの男たちを魅惑。

大変に賢く知的で、全てのチャンスで上手く取り扱いを心得ており、
一緒にいる他の女性たちが霞む術を心得ていたそうで・・、

はぁ、これを読んだ時、女からは好かれない女性ね、と、ははは。



1916年20歳、ウォーリスは米空軍士官のアール・ウィンフィールド・スペンサー・
Earl Winfield Spencerと結婚。

5-d100c956a6d72df3f29e6359c8c76f3a.jpg

が基地での、狭く、経済的に欠乏の生活、と彼女の望んだ結婚ではなく、
喧嘩、仲直り、夫の転勤、酒浸り、女関係。 

が、彼女にも夫の中国勤務について行った先での、ムッソリーニの婿
ガレアッツォ・チャーノ・Galeazzo Cianoとの噂もたち、
後にウェールズ公との関係に役立ったかもの、オリエンタル式エロティック・
マッサージを習得したとか・・、

遂に1927年に離婚しますが、この離婚では叔父の遺してくれた遺産の
殆どをなくす、という結果に。

ウォーリス、1920年代末。

6-Wallis-alla fine degli anni ’20.jpg



再び自由の身のウオーリスに求婚が降り注ぎ、1928年にアーネスト・シンプソン・
Ernest Simpson、アメリカ人でロンドンで船舶事業をし、お金持ちではなくとも
裕福な男性と結婚を。

そして1931年1月10日シンプソン夫妻は、ウォーリスの友人であるテルマの
自宅に招かれ、ここでウェールズ公エドワードに初めて出会い、

上記した様に、エドワードは知的、魅惑的、溌剌彼女にすっかり刺激を受け!

ウオーリス34歳、エドワード36歳の知り合い、
まさにお互いが求めていた出会いの相手だったのでしょうね。


1931年にと思われる、ウォーリスが王室に紹介された時の衣装。

7-Wallis-nel 1931 con l’abito della presentazione a corte.jpg



1934年にはエドワードはシンプソンの家の一部となり、招待される事なく、
友人として訪れ、既に愛人関係になっていたと思われ、

彼は未だかってこれほどに彼の仕事に興味を持った女性に会った事が無く、
友人、仲間として、彼は自分を開け広げて話せ、笑い、自分の問題、計画を
話せることができ、

彼が以前よりもっと快活で、溌剌とし、自信を持った事に皆が気づき、
ウォーリスとの友情のお陰、と彼は言い、

一方父王、と母女王はウォーリスを紹介され侮辱、怒りを感じ、歓迎せず、

が、2人は紺碧海岸に一緒に旅行し、勿論同伴者はいるものの、
2人の関係が明らかに始まっている事を公開。

公式な招待にはいまだに夫のアーネストが同伴していたものの、エドワードの
住まいにしばしば1人で訪れ、女主人役を務めていたと。


そして1936年1月父王ジョージ5世の崩御により、エドワード8世として即位。

8-1133444.jpg

即位式にはウォーリスが付き添い、初の王室の公式昼食会にはシンプソン夫妻が
という、王室一同の感情を逆なでする様な有様と、
世間一般にもエドワードのウォーリスへの気持ちが隠れなく伝わり、



遂に10月にシンプソン夫妻は離婚。 そして離婚後の6か月を待たずして、
これは法律で既定の、もし離婚女性が妊娠していた場合のケース想定で、

2人は王室のヨットでユーゴスラヴィアへの旅行に出かけたりで、

9-Wallis e Edoardo in viaggio in Jugoslavia, 1936.jpg

かなり強引にウォーリスと結婚する意思をアピール。



が、イングランド国教会では離婚は禁じられている上、王の立場で無理に
結婚すると、国の大基本原則に背く事にもなり、
階級社会のイギリスの世論も、身分を問わず国民大多数がこの結婚に
反発する、という大問題と。

ウォーリスは少しでも状況が落ち着くかと1人でイギリスを去り、カンヌに。

一方エドワードは1人で、ウォーリス以前の不安な精神状態となり、
余りにも頑固で、余りにも彼女を愛しており、イギリス政府に対しても怒り狂い、

また様子を見ている国民の意見は、王は国民を選ぶか、国民を捨てて
女を選ぶか、という選択を突きつけ、
王は一層絶望し、傷つき、遂に最後の決定、

12月10日、3人の兄弟の立会いの下、退位証明書にサインを。

10-Edoardo-Wallis-Simpson-3.jpg

これが伝わり新聞報道もなされると、国内には衝撃が走り、号外を奪い合う
大混乱となったそう。



翌日12月11日午後10時に、BBCのラジオ放送を通じ、王位継承する弟の
ヨーク公への忠誠を誓い、イギリスの繁栄を祈る心に変わりはないと国民に
語りかけた上で、

11-Wallis-Simpson-8-900x506.jpg

「私が次に述べることを信じてほしい。愛する女性の助けと支え無しには、
自分が望むように重責を担い、国王としての義務を果たすことが出来ないことを。
という名高い言葉で有名な退位文書を読み上げ、

王族と最後の食事をとり、日付けの変わった12月12日深夜にポーツマス軍港から
出港し、イギリスを立ち去り、ウィーン郊外の城で隠遁生活を。

在位は325日、1483年のエドワード5世以来453年振りに未戴冠のまま
退位の国王となり、
「王冠を掛けた恋」と呼ばれる出来事に。

その後1937年3月8日に「ウインザー公」の称号を与えられ、



5月4日にウォーリスと約半年ぶりに再会、父ジョージ5世の誕生日でもある
6月3日にフランスのトゥール近郊で正式に結婚を。

12-royal-weddings-wallis-simpson-duca-windsor.jpg

その後はイギリス王室からの多額の手当金で、優雅な生活を送ります。

ドイツ訪問をして、ヒットラーの山荘で国賓待遇を受けたり、
秘密裏に、ドイツが戦勝の後は国王に返り咲き、ウォーリスは王妃に、という
約束を交わしたり、
その後はそれがイギリスのスパイにばれ、ヨーロッパ戦場から遠いバハマ総督
として任地に送られたり、

先回のブログに書いた、後継の王ジョージ6世始め、イギリス国民が忍耐、
辛苦の戦時下の生活を送ったのとはまるで大違いの生活で!


殆ど知らなかった「王冠を掛けた恋」の裏側にあった、如何にも人間臭い
迷いや、恋愛感情、余りにも似た者同士、お互いが望むピッタリの相手と
出会えた事なんだろうなぁ、等など、それはそれとして、


13-Edoardo-Wallis-Simpson-8.jpg

それでもやはりどこか「違うなぁ」という想いを抱かされた、
ウォーリス・シンプソンとエドワード8世の、世紀の恋物語なのでしたぁ。

長いお付き合い、有難うございましたぁ!



25日のクリスマスも近く、せめてものクリスマス・ソングを皆様に。

shinkaiめの好きなピアノガイの好きな曲、O Come, Emmanuel
クリスマス・バージョンでどうぞ!
https://youtu.be/ugV6QGcafEE

so come .jpg

良いクリスマスをお迎えくださいね!!


*****

当ブログご訪問、有難うございます!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!



    blog.with2.jpg

*****

色鉛筆+水彩画ブログには、
絵はパスで、 ヴェネツィアの「溜息橋」の下でキスすると、の伝説
をアップしています。


*****
   
記録庫ブログは、お陰様で無事引っ越しを終えました
 
今後ともの皆様のご訪問を、よろしくお願い致しま~す!

*****

コメントの書き込みについてのお願い。

ブログの記事下に、「コメントを書く」が出ていない時は、
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。
posted by shinkai at 02:55Comment(0)・欄外

・ n.1 映画「英国王のスピーチ」に至った 国王の背後女性あれこれ

「英国王のスピーチ」 ご覧になった方も多いと思いますが、2010年の
大変素晴らしい映画でしたね。

1-locandina.jpg

兄エドワード8世王の退位に続き即位した弟ジョージ6世が、吃音に
苦しみ、言語療法士の治療を受け、最後は第2次大戦参戦に向けて
国民を鼓舞する演説を見事にこなす、という筋でした。



今回これを書くためにもう1度DVDを見ましたが、緊張をほぐす体操や
呼吸法や、悪口を言ったりする場面も興味深かったですし、

2-1-ildiscorsodelre0005.jpg



こちらが実際の言語療法士ライオネル・ローグ・Lionel Logue.

2-2-Lionel_Logue 1939circa.jpg

始めは戦争神経症を患い帰還した兵士の言語障害治療から始めたのが、
次第に吃音症の原因がもっと深い所にある事に気が付き、

患者と個人名で呼ぶ親密な関係になる事から始めたりで、
後の国王とも深い信頼関係を結んだ友人となり、
戴冠式には妻と共に貴賓席に招待されたのも、映画にありました。

ジョージ6世の吃音症の原因は、左利きだったのを右利きに、
またX脚を矯正する為に痛みを伴う機器を付けさせられた事による等の
原因があるのも治療中に分かる、という、

X脚は父王のジョージ5世も自身がそうで、劣等感を持っていたそうで。



吃音の夫を支える妻、当初はヨーク公爵夫人エリザベスのさりげない
献身、一緒に治療に通ったり、そのエレガントさも、後のエリザベス2世女王
となる長女の子供時代も大変に賢く可愛く、

3-1080x720.jpg

如何にも親密な家庭生活であったろう事も偲ばれ、心温まる思いも。



で、こちらが実のジョージ6世・Georgi VI(1895-1952). 

4-King_George_VI anni40(cleaned).jpg

写真は1940年代という事なので、即位後数年しての姿で、
映画で国王を演じたコリン・ファースもダブルの背広で素敵でしたが、
実際の国王の美男さに実は驚いたshinkai!

こういう顔のハンサム、というのは、やはり世間一般の
美男とは違うお顔ですねぇ!



こちらが戴冠後のご一家の写真と思う、バルコニーでの写真で、

5-GiorgioVI-Re-del-RegnoUnito.jpg



4人兄弟が揃った姿も見つかり、左から一番下のケント公ジョージ、
右に父王ジョージ5世を継いで国王となったエドワード、その右
ジョージ6世となったヨーク公アルバート、右が3男グロスター公ヘンリー。

6-il-discorso-del-re-storia-vera-film-colin-firth-giorgio-vi-10.jpg



普通は最初の名前を取った国王名となりますが、ジョージ6世の正式名は
アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージで、当時ヴィクトリア女王治世下、
彼が誕生した12月14日はヴィクトリア女王の夫君アルバート公の命日。

で、父のジョージは祖母に当たるヴィクトリア女王を喜ばす為に
アルバートと名付けたそうで、

後年即位するにあたり、アルバートは父王ジョージ5世の方針を引き継ぎ、
兄王の退位で揺れた王室への信頼を元に、という志だった様子。

7-re-giorgiovi-ok.jpg

次男として生まれ、自分が王位につく事など考えず、実際国王になる為の
教育も受けずに来たアルバートは、
兄が即位した後1年もたたずに退位し、自分が国王になるのが正式に
決まった時はかなり動転した様子ですが、



それでも1936年12月11日に即位、1937年5月12日戴冠式後2年、
1939年9月3日にはポーランドを侵略したドイツに宣戦布告という、

イギリスの非常事態に即対応、チャーチル首相と深い絆で結ばれ、
英国民と親しく危険と窮乏生活を分かち合う不屈の姿勢で国民から
深い敬意を受けた国王。


1945年5月8日のヨーロッパ戦勝記念日で、チャーチル首相と共に
バルコニーで国民の喝さいを受ける国王一家。

8-1945.5.8_Buckingham_Palace_2.jpg

ジョージ6世は1952年2月6日朝、ベッドの中で他界したのが発見され、
戦時の心労で健康を害したと言われ、ヘビー・スモーカーだったのも
拍車をかけた様で、在位16年、56歳でした。


こうした過去から考えると、英国は実に、国の一大緊急時に
素晴らしく相応しい国王を得たんだなぁ、と思うのも、

今回のタイトルに付けた、退位した兄のエドワード8世の退位理由、
「王冠を賭けた恋」なんぞと、言葉だけだと如何にもロマンチックですが、
はぁ、本人はそう考えてもね、かなり呆れる様な私生活、恋愛模様、
退位後の優雅な生活、自尊心、虚栄心を捨てきれない、王位を
諦め切れない様子等々、

こういう方が国の緊急時に国王でなくて英国は本当に幸せだったと、
まるで無知無関係なshinkaiが思う程で、はい、

今回あれこれ読み知った事が余りにも多く、どう纏めるか、から
では2回に分けて、という次第となりましたぁ、ご容赦、ご理解を!



という事で、ジョージ6世の逸話から始めましたが、
元々はサイトで見つけた「エドワード8世を退位させたウォリス・シンプソン
の記事が始まりで、

両者の名前のみ、当時は大変だったろう、程度の知識でしたが、
関係人物名について調べるとあれこれ出て來るエドワード8世の生活、
恋愛関係で!

まずはジョージ6世の兄、エドワード8世(1894-1972)としての在位は、
1936年1月20日から同年12月11日迄の、1年に満たない325日、
1483年のエドワード5世以来453年ぶりに、未戴冠の王に。

即位の時42歳、独身。 これは国王姿の、貴族院開会式の物と。

9-Re Edoardo VIII che apre la Camera dei Lord.jpg



エドワード王太子であった彼はヴィクトリア女王のひ孫にあたり、
右後ろに祖父でヴィクトリア女王の次男で、後を継いだエドワード7世、
左背後が父の、後のジョージ5世、という英国王室の流れ。

10-Edoardo VIII con il nonno Edoardo VII (a destra), il padre Giorgio V (a sinistra) e la bisnonna Vittoria nel 1898.jpg



幼い頃より次代国王として育てられ、王室の伝統として海軍に入っても
激しい訓練になかなかついて行けなかった様子ですが、

11-Edoardo-Wallis-Simpson-1.jpg



気さくな性格、人当たりが良い事、この血統、失礼、血筋の高さ、
ハンサムさから、当時は人気スターの様な持て囃されぶりだったそうで、

12-Edoardo-Wallis-Simpson-5.jpg

13-Edoardo-1932.jpg

アメリカ人、とはいえ、父も母も貴族ではないもののイギリスから移植の
裕福な家柄の、ウォーリー・シンプソン・Wallis Simpsonとの関係が
公になる前に、

16年程の長い交際が続いたフリーダ・ダドリー・ワード・Freda Dudley Ward
という既婚女性がいて、

そしてテルマ・ファーネス・Thelma Furness、アメリカ人で、イギリス人の
初代子爵・マルマドゥーク・ファーネス・Marmaduke Furness夫人が続き、

が、彼女はやはりアメリカからやって来たウォーリス・シンプソンをエドワードに
紹介し、あっさりと取り換えられ、関係が終わり、

後は王位を退位し結婚したシンプソン夫人の独り舞台に!



これは「Double Exposure, Gloria Vanderbilt e Thelma
Lady Furness・二重暴露、グローリア・ヴァンダービルトとテルマ・
レディ・ファーネス」という、まさに暴露本で、

14-71zrMUhrYVL.jpg

1958年出版の、テルマと双子姉妹のグローリアが、互いの恋愛模様を
あけすけに語っているそうで、
アメリカ上流階級社会の深い恋愛模様と、エドワードの事もあけすけにで、
ベストセラーになったと。

後年テルマは自分の人生を振り返り、同じことを再びでも良い、
但し、ウォーリス・シンプソンをエドワードの紹介した事を除いて、と。

こちらのサイトで、一番下の「Link」をクリックし、幾らかお布施を出すと
読める、とありますが、

shinkaiは上流階級の複雑な人間関係を読むだけで疲れ、リンクは・・。



最初に名の出たフリーダ・ダドリー・ワードは、エドワードの最初に続いた愛人で、
1918年の3月に知り合い、エドワードと同年、貴族でなく、小さくて可愛い、
濃い色の髪はカールし、青い目が輝く24歳。

15-7036476-0-image-a-3_1544008419412.jpg

当時王室関係者は第一次大戦の支援に長いツァーに出かけており、
その合間に彼女に送った4ページものラブレターが最近競りに出されたり、



「ウォーリス以前」という、フリーダとの関係を始めて描いた本が出版されたそうで。

16-71wNBLpeQiL._AC_UL320_SR214,320_.jpg




今回の最後は、この1枚をどうぞ。
一番左がテルマ・ファーネス、そしてエドワード、当時はウェールズ皇太子で、
3番目がフリーダ・ダドリー・ワード、右端はジョージ・ハノーヴァー皇太子。

17-309893c4df9f6c81a8a9c9bcaecc1664.jpg

この写真は1932年。 1926年にエドワードはテルマに出会っていて、
じきに愛人関係になった様子ですから、2人の愛人を引き連れ、劇場に
出かけた時の物! はぁ、良い神経をしておられますです。

という所で、次回に続きますね。 少し疲れ・・、ははは。


*****

当ブログご訪問、有難うございます!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!


    blog.with2.jpg

*****

色鉛筆+水彩画ブログには、
クレーター風景 途中経過と、 伊の帆船とアメリカ空母の出会い
をアップしています。


*****
  
記録庫ブログは、お陰様で無事引っ越しを終えました
 
今後ともの皆様のご訪問を、よろしくお願い致しま~す!

*****

コメントの書き込みについてのお願い。

ブログの記事下に、「コメントを書く」が出ていない時は、
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。
posted by shinkai at 03:59Comment(0)・欄外

・ 12月12日 shinkai誕生日 寿司レストラン と プレゼント

12月12日は我が誕生日でありまして、お祝いを言って頂くのも
もういいよお! という感じなのですが、はい、ホント、

でも今回はこんなコロナの影響の下でも、素敵なプレゼントを頂いたり、
暫く前から頭にあった「寿司レストラン」に行きたい、食べたい、というのが
我がコネリアーノで初めて実現しましたので、その様子を見て頂きますね。

お昼前に「カフェを一緒に」、という約束がジュリアーナとルイーザと
出来ており、お昼はアンナリーザと一緒に、というので、

朝9時頃にスーパーに出かけ、ささやかな手土産にと「梨・20世紀」
を買いに行き、

1-DSC05119_01_GF.jpg


自分用のリンゴを、と探すと、なんと「ゴールデン・SHINANO」というのがあり、

これはひょっとして、長野からTV取材を受けた時の他の御二方の1人が
話されていた、ボルツァーノの農業試験場で生育中の、
長野出身のリンゴが上手くこちらの生産ベースに乗り、市場に!
というのではなかろうか、と、
だって、美しい黄色で名前がSHINANOなんですものね。

確かに検索すると、ネットにはいくつもの記事と写真がありましたぁ。
Shinano Gold / yello® - Mela Val Venosta
 
写真はこちらに

「おお!信州人」 ・ 信州からTV取材班来伊 ・ 放送時間決定
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/473368345.html

改めまして、 の自己紹介を、  新開です。
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/473368635.html


で、「NASHI」という名で昨年から見かける梨と一緒に。

梨は昨年の時の記憶よりも少し色黒で、形もいびつ加減で、
先日買った時はあのジューシーさが少し昨年よりも少なめに感じ、
イタリアでの生育は、日本ほど手間をかけて育てられていないのかも、
とも思ったり、ですが、でもね、今日の日本のお土産に。



家に戻ると、我が絵の師二木さんと奥さんの竹ちゃんからのお祝いメールと
写真、イラストが届いており、とても可愛いのでお裾分けにどうぞ。

イタリアの片田舎で、万年引きこもり    

2-c64ea1d8faab9301bf26cb7b94c06974.jpg

ははは、確かに! とりわけ今年はね。 でも一瞬、「万引き」と
読みとちる所でしたぁ、ははは。

ジャック・ダニエルみたいな高級品は飲みませんしぃ、この頃は夕飯の
ワイン1杯で、もう十分、という感じなんで~す。



誕生日なのでお洒落して見た  ワッチの名前は「シンカイ」

3-92313f8bfccb2d73ded0be76d847320c.jpg

ははは、ワッチはもうこんなにお洒落する事が無くなったよぉ!
猫ちゃんも「ワッチ」と自分を呼ぶとは知らなんだなぁ、ははは。



只今、ブログ更新中   きゃはは、可愛いぃ!! ワッチそのものぉぉ!!

4-985bed1d7d1759ca1326de394a789ff0 - Copia.jpg

眼鏡をかけた猫写真を探すのに、時間がかかったろうねぇ! おおきに。



shinkaiめのブログ・アイコンに使わせて頂いてる、こちらの友人達にも
大好評の、竹ちゃんの新イラストぉ! お待ちしてましたぁ!!

5-誕生日カード2020.jpg

夏に、スペイン旅行が延期、続いて停止となり、旅行社に振り込んでいた
1回分が戻って来たので、ちょうどの金額だった掃除ロボットを買い、
1人で掃除、それも拭き掃除もしてくれるので、はぁ、有難く使っているのを
メールに書いていましたので、今年度分はこれがモチーフに。

早速出会った仲間に自慢に見せると、皆羨ましがりますが、
そうだよん、本人写真よりずっと美人で若く可愛く、明るいもんね、ははは。

竹ちゃん、一郎君、おおきにねぇ!! 



ついでに、誕生日前にジュリアーナ・Giulianaが買ってくれた壁時計を。
ワン君の目が左右に動くのです。

6-DSC05116_01_GF.jpg

今迄使っていたウンブリアのデールタで買ったマヨリカ焼きの時計が
まるで動かなくなり、取り付けてある時計の器械部分を替えるのもこちらでは
面倒だろうと、新しい壁時計が欲しいというと、ジュリアーナがでは私が、と
一緒にSMEという、日本の日用品センターみたいななんでもある大型店に。

同じタイプで、猫ちゃんのオレンジ色があり、彼女はそれを、と言ったのですが、
我が家の壁色は薄いクリーム色なので、こちらが良いと選び、
今机のPCのディスプレイに向かう真ん前の壁の上に。

見たい時すぐ見るのに便利で、PCの右下に出る時計を見るよりも楽だし、
ワン君が目を動かすのを見るだけで、気持ちが和みます。



ついでに、マウス・パッドが長年の使用に疲れ、ツルツルになったのも新調し、
手前側が枕、手首置きになっていて、とても使いやすく、選択が良かったっす。

7-DSC05118_01_GF.jpg

これもついでに彼女が払ってくれましたので、へへ、おおきにぃ!
で自分のマウスはシルバー色と思い込んでいたのが、戻ってみると黒で、
ははは、まぁ、探すほどの事はありませんが、ついでに猫のシールを。

いまのPCはNECから2代後輩のacerですが、このマウスは小さくて軽いので
未だに便利に使ってますが、裏のポチ部がかなりすり減ってます。



ジュリアーナと11時に約束し彼女を拾うと、ルイーザ・Luisaとはカフェでなく、
レナート・Renatoも会いたがっているから、と彼女の家に行き、

レナートは2週間前にペース・メーカー交換手術を受けた所だったのですが、
嬉しい事に車にも乗れ、出かけれるようになっており、安心!!

持って行った果物と、ルイーザには欲しがっていたDVD「ポスティーノ」と
ジュリアーナには谷崎潤一郎の本「台所太平記」を渡し、

で2人から、素晴らしいプレゼントを頂いたのでしたが、
今回の最後にご披露を。



こうして少しバタバタでしたが、クリスマス前の挨拶も済ませ、
アンナリーザ・Annalisaと12時の約束すれすれに、店の前で。

「ゆみ・YUMI」という、コネリアーノの病院前にあるモダンな内装の店で、

8-DSC05108_01_GF.jpg

彼女は何度か来ているのと、余り寿司が好きでない夫のトーマスが夕飯に
留守の時には、寿司が大好きな子供たちとお持ち帰りをするのだそうで、
確かに入っていくと、既に顔馴染みの感じが十分に。



入口から店の奥を。

9-DSC05107_01_GF.jpg



逆に、入り口辺りを。

10-DSC05105_01_GF.jpg

ここはずっと以前ピッツァ店で、その時に1度来た事がありますが、
既に何年か前から寿司店になっているそうで。



狭いテーブルに向き合い、隣との間隔も余りなく、大丈夫かいな、と
頭をよぎりましたが、はは、

アンナリーザはすぐにマスクを取ってしまい、
注文するのに、テーブルにあるメニューをダウンロードしている所。

11-DSC05099_01_GF.jpg

何年間か会わずにいて、お互いにあまり変わった印象がないものの、
でも彼女、やはりちょっと貫禄が付いたかな、という印象で。

いや体重ではなく、生活、仕事が充実してできる重み、みたいなものかな。
常に努力し、前に進む生活を送っているのが良く分かります。

アンナリーザとの様子は、こちらに少し



ビールを、と言うと、注文取りに来たお姉ちゃまが何か分からない言葉を言い、
日本製? シー。 で、2,3度聞きながら、「アサヒ?!」、ははは、

小瓶を2本ね。 美味しいなぁ、日本のビール!!

12-DSC05100_01_GF.jpg

それにしても、アンナリーザの胸、こんなに大きかったっけ?



注文した「味噌汁」。 あまり熱くなかったけど、味はOK、やれやれ。

13-DSC05101_01_GF.jpg



イタリアではお誕生日は、誕生日を迎えるのが払う、という慣習なので、
今日は私めが言うと、とあっさり受けて頂け、自分が食べたい物を注文。

注文している内に、カメリエーラが、全部含めて、と言う方が安くつきますよ、と
言い、アンナリーザもそう言うので、ではそれで、と言いつつ、欲しい物を言い、
寿司の盛りと、海老と野菜の天婦羅、刺身は鮭しかなく! マグロは夕食に、
だそうで、とりあえず、と注文し、

味噌汁をすすっている間に、次々届き、狭いテーブルの上が満杯に。

14-DSC05102_01_GF.jpg

お寿司はやはり鮭が2ケ、鱸1ケ、マグロ、海老1ケづつ、カニカマ、と、
ご飯が少し硬く、小さいものの、なんとかお寿司ね、ははは。

ワサビがついておらず、アンナリーザに言うと、頼むと持ってくる、
というので頼み、刺身もサケが4切れ、でもまぁ、天婦羅は海老が2ケに、
野菜はズッキーニとニンジンと、何だったっけ、まぁ、揚げたての天婦羅ね。

寿司、という名につられ、あちこちであれこれ酷いのも食べて来たので、ははは、
それにしたら、特別悪くないよね、という様子。



上の後、軍艦のトビコと、食べた後で写真ね、はは、また鮭と2ケづつね、
そして手巻きの鮭とアボガドを1ケづつ。

15-DSC05103_01_GF.jpg

そう、昔だともっとぉ!という所なのですけど、天婦羅もあったし、
アンナリーザも余りたくさん食べないタイプで、OKというので、
今回はこれでお終いに。 



これは、彼女が右の手首にしている「志」の刺青。 野望、の意味で
入れたそうで、志保の志でもあり、最初見た時は2人で驚きましたっけ!

16-DSC05106_01_GF.jpg



やって来たウェイター君が「どの国の人?」と聞くので「日本」と言うと喜んで、
日本が好きでもう5回も行った事がある、という話になり、北海道も沖縄にと。
名前はダヴィデ君。

17-DSC05104_01_GF.jpg

コックは中国人?と聞くと、やはりそうで、御飯が硬い、というのは言い、
まぁね、彼も言う様に、お米自体の問題もあるだろうしね、
その微妙な違いがやはり日本でのお寿司とは違う寿司になるのかも。

でも今回は、暫く前に行った美容院で出た、娘さんと寿司屋に行って
美味しかった、という話から、shinkaiの頭に火がついて、ははは、
お寿司を食べたい、誕生日にアンナリーザと行こう、という今回の計画で、
何せジュリアーナや他の仲間とは絶対に無理な事なので。

特別に美味しいという事もないけど、何せお勘定がとても安く!!
アサヒが1本3,5エウロ、 お茶を頼んだのが急須で出て来て3,5エウロ、
料理は1人分12,9エウロ、 テーブル・コペルト1人2エウロの、
合計40,3エウロ!

これだとピッツァに行くのと同じか、安い位かもで、OK、
ではアンナリーザとまた行こう!という話に、勿論!!
彼女も、もっとしばしばね、と。


初めからだともう13年位の仲で、ジュリアーナ達よりも古く、彼らには
話した事もない話もしているし、出来るし、ははは、
彼女の返事はいつも直球で、そんな所もよく似ていると思いますし、
この秋に再会出来た事がとても良かったと嬉しく思っています。

彼女の子育て時期も少しお終いになりつつあり、彼女にとっても
私はある意味の息抜きになるのかも、ね。


で、アンナリーザからもプレゼントを貰い、はは、これも猫ちゃん柄で、
DVDを見る時に包まってね、と、嬉しい事。

18-DSC05115_01_GF.jpg



これは春ジュリア―ナの誕生日に贈ったカフェ・マシーンで、カフェには砂糖も
ミルクも入れない彼女には、エスプレッソの自分で入れるカフェの方が美味しいと、
使っていないのを、では、ワッチに、と、昨日朝戻って来たもの。

19-DSC05122_01_GF.jpg

ついでに使いかけのカフェ・カプセルと、蜂蜜は「冬の風邪予防用。

左のカードはルイーザとレナートからで、クリスマスの挨拶と、
最後に「1度に(ワインを)全部飲んだらダメよ」とあり、はは、分かっとりま、



はい、こちらが彼らから頂いたプレゼント! 大箱、重く、

20-DSC05109_01_GF.jpg

彼らの家で1度開け、驚いてお礼を言い、大事に包んで持って帰ったもので、



ここに再度。 先日ブログで見て頂いたルッケッタの箱で!

21-DSC05110_01_GF.jpg



開けると一番上にこれ! 鱒の燻製で、スーパーでは売っておらずの品で、
これが一番美味しい!とルイーザの保証付き。 即冷蔵庫に。

22-DSC05111_01_GF.jpg



で、次々に引き出すとぉ、 なんとルッケッタのワインが3本! 

23-DSC05113_01_GF.jpg

ルッケッタでは最高級赤ワインのマルチェッロ・Marchello、何せ創業者の
名がついている、の2013年が2本。 アルコール度13,5%、
お値段を知るのが怖いっす!

レナートが言うには、夜飲むのに朝の内に栓を抜き、置いておいて飲むと、
如何に美味しいか、が良く分かるよ、との事。

一番左はルッケッタのプロセッコ、コッリ・ディ・コネリアーノ・
Colli di Conegliano、D.O.C.Gの最高級品、アルコール度13度。

真ん中の手書きのラベルの瓶は、プロセッコのフェルッチョ・Ferrccioの
グラッパで、2019年に2度蒸留した、アルコール度50度のもの!!

ルイーザの従妹の夫が確か自分で蒸留する美味しいグラッパを作るのが
趣味なので、そこから貰ったもののお裾分けか、これも上等品。

手前はレナートお手製、自慢のレシピの、本当に美味しいのをshinkaiめも
良く知っている白アスパラガスの瓶詰め。 リンク先の最後にレシピが。

これを食べると、店売りの白アスパラガスが如何に美味しくなく、
柔らかすぎるかがよく分かりますし、

その左の小玉ねぎのマリネは、きっとルイーザのお手製ね、嬉しいぃ!!


こんなにたくさん美味しい物を頂くのもとても嬉しいですが、このクリスマスは
一番の親族とのみ、コムーネの境界は越えられない、外出は20時まで、と
いう規制が既に公布済みで、

いつもクリスマスには我が家に来て、2人で食べ、飲み、DVDを見る予定の
ジュリアーナの事を知っていて、私宛に下さったことでもあり、
上のカードの様に、1度に全部飲んだらダメよ、となるのですね。


が、今のヴェネトがイタリア中で一番感染者数が多い連日のニュースで、
昨日も5000人強とか! で、我が家に来るのは、国の条例を破る事と
恐れ、来る、止める、とずっと躊躇し続けで、

彼女のこういう揺れは良く知っているので今は何も言わず、
前日までに自分で決めて、とほっていますが・・。



所で、アンナリーザとお寿司を食べながらのお喋りで、昨年の夏だったか、
家族でロンドンに4日間行き、楽しかったという話の中で、

交通網の地図を見たらとても簡単で、どこにでも行けたよ、というので、

24. img_mv_l (2).jpg



じゃあ、難しい東京の地図を送るから、と約束していたのを、家に戻って引き、
ははは、東京圏の路線表も、メトロの地図も、

25. img_mv_l (1).jpg

ついでに物凄く単純な、ローマとミラノのメトロの地図も一緒にね。
これには、=子供の遊びよ。 と、こっちでよく使われる言葉も添えて、ははは。



てな事で、お陰様で楽しい誕生日を過ごさせて頂いたご報告でしたぁ。
という所で、 はい、

26-985bed1d7d1759ca1326de394a789ff0.jpg


*****

当ブログご訪問、有難うございます!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!


    blog.with2.jpg

*****

色鉛筆+水彩画ブログには、
絵はパスし、 ドナルド・トランプ、1月19日迄米大統領の、家2つ
をアップしています。


*****
   
記録庫ブログは、お陰様で無事引っ越しを終えました。
 
今後ともの皆様のご訪問を、よろしくお願い致しま~す!

*****

コメントの書き込みについてのお願い。

ブログの記事下に、「コメントを書く」が出ていない時は、
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。 

・ n.2 パゾリーニの塔・家 と ボーマルツォのピラミッド 

先回からご案内を続けているヴィテルボ県のボーマルツォ周辺ですが、
n.1では、なんとも凄みのある2700年前からのエトルスクのピラミッド
ご紹介でした。

まだイタリアでも10年ほど前から漸く知られる様になった様子で、
何せ林の奥にあり、徒歩で、おまけに殆ど標識もまだないという道を辿るので、
きっと日本にはまだご紹介されていないと思うのと、

地図を眺めていて偶然知った、その近くにあるピエル・パオロ・パゾリーニの
最後の住まいである、(悲劇的な死を迎えた彼については徐々に)

中世の塔を買い取り改修し住まいにした、キーアの塔・Torre di Chia、
これを今回ご案内致しますね。

こちらです。  1250年に建設の、5角形、高さ42mの塔で、一帯が既に
海抜300m程のかなり高い位置なので、素晴らしい見張り塔だったろうと!。

1-torre-di-chia-10.jpg



平地から見ると、両横に城壁を広げたこの姿で、

2-torre-di-chia-2.jpg

城壁の高さにかっての手前側建物の屋根組みの穴が見えますし、
上の窓の周囲にも穴があるので、張り出しのテラスがあったのかも。



この塔で検索をかけると、「キーアの塔=パゾリーニの塔」と出るので、
一気に好奇心に駆られてあれこれ探し、読んだという事で、

この地図をどうぞ。 一番上に「エトルスク」のピラミッドがあり、
切れている左上にボーマルツォの町があり、

3-1-mappa2.jpg

南に下り、キーアの塔・Torre di Chia、 そしてその下に見える
Set film "Il Bangelo secondo Matteo" が、
パゾリーニが1964年映画を撮影した「マタイによる福音書」 
日本語タイトルは「奇跡の丘」のキリストの洗礼場面の撮影場所。



これが「キーアの滝」とか「キーア城の滝」とか呼ばれる滝で、

4-cascate-Chia-borgo-tanto-amato-da-Pasolini.jpg

5-cascate-torrente-castello.jpg



中世にはここから水を引き2つの水車、1つは麦用、もう1つはオリーヴ油用
を回すのに使われ、1950年代まで現役だったそうで、
今もこうして水車小屋の跡が。

6-il sentiero dei mulini.jpg



そして、こちらが映画の「洗礼場面」と、

7-Le-cascate-di-fosso-Castello-a-Chia-.jpg



撮影の様子。

8-il vangelo secondo matteo.jpg

9-unnamed (2).jpg



パゾリーニはこの地に撮影に訪れた際に即、この地の自然に魅せられた様子で、

1966年にはイタリアの喜劇の王様、現在でも良く放映される、トト・Totòを
主役に「大きな鳥、小さな鳥」を撮影していますが、

ヴィテルボの西のトゥスカーニア・Tuscaniaのロマネスクの素晴らしい教会を
背景にしたシーンがあり、

こちらはサンタ・マリーア・マッジョーレ教会で、

11-1-set di uccellacci e uccellini.jpg



同じ教会の薔薇窓を背景のこのシーンは、上の「マタイによる福音書」で、

11-2-chiesa romanica tuscania.jpg



こちらは「大きな鳥、小さな鳥」のサン・ピエトロ聖堂。 

12-set di uccellacci e.jpg


どちらにもshinkaiは魅せられたので忘れられませんで!
n.1 トゥスカーニア 古寺巡礼 ・ サンタ・マリーア・マッジョーレ教会
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467880849.html

n.2 トゥスカーニア 古寺巡礼 ・ サン・ピエトロ聖堂
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467881471.html



この背負われているのがトトで、上に見えるのはサン・ピエトロ聖堂で、
右端に切れているのが、サンタ・マリーア・マッジョーレ教会。

13-1-uccellaci e.jpg



ローマ人以前、イタリア中部トスカーナからラツィオ州にかけ、紀元前10世紀頃より
エトルリア人が住んでいた土地、そして今も残るエトルスク文明、文化には
どこか謎があるせいか、また文化自体にも魅惑的な味わいがあるのか、

それに加えロマネスク美術の残るラツィオ州の北から西にかけての旅は
大変に満足、酔い加減になった記憶が残ります。

ピエル・パオロ・パゾリーニ・Pier Paolo Pasoliniもそんな感じを受けたのかも、
と少し嬉しくなりますが、

ボーマルツォとの位置関係の地図をどうぞ。

13-2-map1Cattura.jpg

ヴィテルボについては  n.1 ヴィテルボ ・ 中世への誘いと、泉のご案内4つ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471535351.html

n.2 ヴィテルボ ・ サンタ・ローザ ジェズ教会 泉 ファルネーゼ邸
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471536148.html

n.3 ヴィテルボ ・ コンクラーヴェ(教皇選出)なる言葉の始まり、聖堂
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471536593.html


タルクイニアの  有翼の馬 ・ タルクイニアの国立考古博物館 ラツィオ州
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467882301.html

ボーマルツォの北  n.1 チヴィタ・ディ・バーニョレージョ ・ 天空の町
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467757700.html

n.2 チヴィタ・ディ・バーニョレージョ ・ 天空の町
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467757874.html



所で、如何にも知った風に、ピエル・パオロ・パゾリーニ(1922-1975)と
書いていますが、実際は名前を知っている程度で、
お隣フリウリ州のカザルサ・Casarsa della Delizia、ここは母方の郷里で、
暮らした事もあり、彼のお墓もカザルサにある事位を。

映画監督、脚本家、作家、詩人、として、その特異な作風でも影響を与え、
また青少年への同性愛問題も起こしており、最後の映画作品は「ソドムの市」、
これはマルキ・ド・サド原作の映画化で、その残虐描写と、ネオ・ファシストへの
批判、風刺が多分彼の死の原因になったのかもで、
   
1975年11月2日ローマのオスティアの浜で、暴行を受けた後に車で轢殺、
という悲劇的な死を迎えました。

当初は映画「ソドムの市」に抜擢された17世の少年の自白証言で、
そのまま捜査が打ち切られたものの、到底1人の犯行ではないのは明らかで、

2005年になり、この少年は「偽の自首、証言をファシスト達に強制された」と
証言したものの、現在に至るも事件は謎のまま。



これは彼に強い影響を与えたと言われる学校教師であった、母のスザンナ・
Susannaと一緒の写真で、

14-susanna colussi la madre di pasolini.jpg

この母の影響で、彼は7歳にして詩作を始めたのだそうで。



こちらは映画監督ベルナルド・ベルトリッチ。 パゾリーニの映画処女作で
助監督を務め、翌年自身も監督デヴューした縁だそう。

15-bertolucci-e-pasolini.jpg

脚本家としてもフェデリコ・フェリーニの「カビリアの夜」を共同執筆したり、
自分が監督でデヴューするまでに10本以上脚本を書いたり、
小説の発表で発禁処分を受けたもののアルベルト・モラヴィアの知古を得たり、
上記した「大きな鳥 小さな鳥」ではロベルト・ロッセリーニから好評を得たり、

作品毎のそれぞれに大きな反響を受け、自身が伝説的な存在であり・・。


イタリアにいると自然に知る様々な事もあり、
例えば、昨日友人のジュリアーナに、キーアの塔の住居の事を話すと、
彼女はもちろんボーマルツォのピラミッドの事も初耳だったのですが、

彼女はフリウリ出身、ウーディネで知り合った知人にカザルサの人がいて、
彼はパゾリーニについて、土地の人は「4つのP」と言っていた、と。

4つのPとは、ピエル・パオロ・パゾリーニ+ペデラスタのP、と。
ペデラスタ・Pederastaとは、少年愛好同性愛者の事。

ボローニャ大卒業後カザルサで中学教師になり、イタリア共産党に入党したものの、
未成年者3人への公衆の場での堕落幇助というのか、言葉を選ぶのに困難、はぁ、
裁判沙汰になり、教職も失い、共産党からも除名され、

母親と共にローマに移り、厳しい生活の中で執筆を、という活動の中から
脚本家としての出発を。


という様なパゾリーニの生涯の始まりがあり、1964年春
「マタイによる福音書」の映画撮影でキーアを訪れ、この地の自然に魅せられ、
キーアの城の塔を自分の住居に、との思いを持ちます。

”では、君と分れる前に打ち明けると、
自分は音楽の作曲家となり、買う事の出来ないヴィテルボの塔の中で、
楽器と一緒に住みたい。
世界で一番美しい風景の中で、アリオストなら見て喜びで多分気が違った様に
なるだろう、樫の木の大いなる純粋さで作り上げた風景、丘、水、渓谷、
そして音楽を構成する事が多分唯一の表現で、高く、そして現実の行動の様に
定義できない、と”   拙訳ご容赦。

これは1966年彼の詩の中に書いたもので、ヴィテルボの塔、とはキーアの塔。



確かに周囲をかってのままの素晴らしい自然に囲まれたキーアの村落で、

16_borgo-di-chia.jpg

17-chia soriano nel cimino.jpg

住民は400人程というのですが、村には空き家が多く、かなりの廃屋と。



「買う事の出来ない塔」と詩に書いた夢は1970年11月に実現。
塔も自然も破壊しない様な設計を依頼し、塔の足元に石と大きなⅠ枚ガラスの、
岩と緑の懸崖にはめ込まれたような住居を。

こちらに設計図があり、

18-casadallalto-copia.jpg

最初キーアの塔と知り、出る写真からshinkaiは大きな塔かと思い込みましたが、



この写真をどうぞ。 高い塔の向かい側に低い塔が見え、上の設計図の
城壁の角度から見て、どうやら奥の低い方の、谷側に住居がある様子で、

19-Torre-di-Chia.jpg



こちらをご覧になると、低い塔の城壁のいわば外側、崖の上に、というのが
お分かりかと。

20-71.jpg

そして、上の設計図では塔のこちら側のみの建物が、塔の向こう側にも
見えるので、多分後の設計で変わったものと。



こんな感じに城壁に寄り掛かる感じで細長く家が続きます。

21-unnamed.jpg

22-casa pasolini a chia.jpg

23-chia01-fileminimizer.jpg

24-DSC00278.jpg

パゾリーニは、待望したこの住居に5年弱住んだことになりますね。

訪問した彼の友人の評によると、如何にも彼の家らしく、内省的な印象が強い、
とあり、写真を見ただけでも、如何にもの独居住宅で。


この9月1日付けで、この家が売りに出された、というニュースのサイト記事で、
広さは185平米、5部屋で、2つの寝室、2つの洗面所トイレ、小さな台所、
料理に興味はなく、出来なかった、と。

現在の持ち主は遺産で、グラツィエッラ・キアルコッシという方で、
とにかく維持費がかかり過ぎるので、という理由で、売値は80万エウロ。

大変に今迄の維持が行き届いており、すぐにでも住める状態だそうで、
とにかく公開しながら、パゾリーニの博物館として、コムーネ、または
ラツィオ州の管轄に、と望まれ色々折衝されている様子で、
文化省のフランチェスキーニ氏がニュースを聞いて椅子から飛び上がった、
という話もあり、

漸くに最近ガイド付きでの公開も始まっている様子なので、
上手く話が進むように願いましょう。



パゾリーニの葬儀写真。 右から2人めは、かのエンリコ・ベルリングエル・
Enrico Berlinguer(1922-1984)サルデーニャ島サッサリの貴族、
政治家、共産党書記長。

25-pasolini.jpg


まだ53歳の死で、駆け足で生きぬいた様子も受けますが、
今回改めて読み、生きた時代が彼の趣味嗜好より少し早かったのかも、とも。


まるで知らずだったのが、偶然の援けで新しく色々知ったエトルスクの地。
やはり少し謎の魔法がかかっている土地なのかも!


*****

当ブログご訪問、有難うございます!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!


    
    s2019誕生日 - Copia.jpg

*****

色鉛筆+水彩画ブログには、
をアップしています。


*****
   
記録庫ブログは、お陰様で無事引っ越しを終えました。
 
今後ともの皆様のご訪問を、よろしくお願い致しま~す!

*****

コメントの書き込みについてのお願い。

ブログの記事下に、「コメントを書く」が出ていない時は、
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。 

・ n.1 ボーマルツォのピラミッド と  パゾリーニの塔・家

今回のご案内はまるで知らずのまま、「ボーマルツォのピラミッド」という
素晴らしい写真と記事に興味を持ったことから始まり、

これです、凄いでしょう?! 大岩に彫りこまれた祭壇と石段。
約10mの高さというので、3階建てのビル、くらいの高さでしょうか。

1-1-La-Piramide-etrusca-di-Bomarzo-1.jpg



で、これをボーマルツォの怪物公園の中にあるのを、見学の時にガイドさんが
見せてくれなかったのか?!と思いつつ、ははは、

1-102595-L_Orco_Parco_dei_Mostri_Bomarzo.jpg

n.1 ボーマルツォの怪物公園
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467762980.html

n.2 ボーマルツォの怪物公園 と 町
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467763742.html



調べると少し離れた場所にあるのを知り、そうか、それなら、と納得。

2-mappa.jpg

3-1-mappa2.jpg



で、ついでに地図の南に見える「キーアの塔・Torre di Chia」に
興味を引かれ、写真を見るとこんな形で、おお!

4-torre-di-chia-2.jpg



由緒は? と検索すると、「キーアの塔」=「パゾリーニの塔」なる事を知り、
??からはじまったのが、
なんとこの塔にかって映画監督、脚本家、詩人、最後は悲劇的な死・・の
ピエロ・パオロ・パゾリーニが住んでいた事も知り、そんなこんなで
彼についても改めて知り、家についても写真を集めたので、

まるで知らずにいた新しい事2つ、しかもすぐ近く、という事から、
2回に分けてご案内する事とし、

今回はまず「ボーマルツォのピラミッド、正確にはエトルスクのピラミッド
なるものについてどうぞ!

きっとまだ日本にはご紹介されていないと思うので、皆さんが最初!!
shinkai同様、大いに楽しみつつ、好奇心を満たして下さいねぇ!


所でこの「エトルスクのピラミッド」に行く方法ですが、上の衛星地図を
ご覧になっても分かる様に一帯は森、林に囲まれており、
しかも標識は未だなく、なかなか大変な様で。


の2つですが、下のサイトに地図が2つ載っており、

5-1-Mappa_Cagnemora_Piramide_Etrusca_03.jpg

上の地図の右上に見えるingresso Tagliata Rocchetta・タリアータ・
ロッケッタからのピラミッドへの道、の「タリアータ・ロッケッタ」には、
「サッカー場の分かれ道から入る」とあり、
この近くのサッカー場なるものは、ずっと東下の平野を走るローマへの
高速の、アッティリアーノ・Attiglianoのサーヴィス出入口近くにあり!



ここでは左のカニェモーラ・Cagnemoraからの接続道を参考にして頂くように
地図左側に分かり易い様に印をつけました。

5-2-Mappa_Tomba_del_cavallo_Musetto_02.jpg



で、道を辿ると、木の幹に白と赤のペンキで印がつけられているのが
唯一の標識で、これを辿ります。

5-3-Arrivo_Piramide_Etrusca_DSC_7239.jpg

秋から冬にかけては落葉しているので印が見えやすいでしょうが、夏はね・・!



多分この道筋が一番楽で分かり易く、まず石碑「ムゼットのお墓・Tomba di Mudsetto・
馬のムゼットの墓」の碑を見つけ、

6-Tomba_cavallo_Musetto_IMG_20181117_151403.jpg



人の歩いた跡、小石交じりの道を辿り下っていくと、右側にエトルスクの墓の
一群れがあり、そこにはかって明り取りの窓や入口様に付けた跡があり、
フィネストラッチャ・Finestraccia、と呼ばれているそう。

7-La-Piramide-etrusca-di-Bomarzo-8.jpg



ここを過ぎると、約200mでピラミッドに到着するそうで!! やれやれ。

8-10014824_625604760843281_5496491387086149036_o - Copia.jpg

ご覧の様に大岩で、ペペリーノ・Pepelinoと呼ばれる、噴石と岩滓からなる
火山砕屑岩で、斑点で灰色がかっている岩、高さ約10mはあるだろうと。

専門家によると、地下にもおそらく6,7mの深さで埋まっているそうで、

こちら側脇に添って上から溝が掘られ、中程に脇に流れ落ちる様に
横溝もあるのにご注目下さいね。



左手前の木で良く見えない、左の彫りこまれた石段の左側はこんな形で、

9-piramide-etrusca-bomarzo.jpg

最初は一体だった岩が割れたのだろうと。


この彫りこまれた「大岩」、現在「エトルスクのピラミッド」と呼ばれている
大岩は、上にご説明の様に森の中に埋もれており、
狩りに来る人びとは知っていても殆ど外には、一般には知られていなかったのが、

近くに住むサルヴァトーレ・フォッシ・Salvatore Fosciという方の努力と
奉仕によって上に積もった落葉、腐植土、苔、木の根等を払われ、

unnamed.jpg

また彼の調査により2008年、この大岩が約紀元前7世紀のエトルリア人に
よる古い建設物であることが分かったのだそう!

彼のフェースブックはこちら。



脇の石段。 この見事さ! 高さ!  

10-La-Piramide-etrusca-di-Bomarzo-6.jpg

ここを上ると中程にある祭壇に至り、そこからの石段が頂上にある
主の祭壇に通じます。



横から見るとこの形で、こうして見ると岩の大きさは分かり難いものの、
やはりピラミッド型に彫られたものと思われ、

中程、というよりも上から約3分の1ほどに中間の祭壇があり、そこからまた急な石段が
真ん中と、こちら右脇の細いのが、頂上の祭壇に続くのが良く分かります。

11-Piramide_Etrusca_Bomarzo_DSC_7169.jpg



祭壇は何の為に?と言うと、鳥の飛ぶ姿、方向を見て占ったり、
というのもある様ですが、

エトルリアの司祭は、冥土の神々に、また死者の霊に捧げる生贄の儀式を
行ったそうで、祭壇は北西向き、実に冥界の神々の住む北西に向いており、

司祭たちは階段に背を向け、北西に向き合い、生贄を捧げ、
生贄の動物の肝臓を調べ、稲妻の攻撃について解釈したりもで、


捧げられた動物たちの血が流れる様に溝が掘られている、
というのはこれかな、と思うのと、

13-Piramide_Etrusca_Bomarzo_DSC_7192.jpg



この階段の左側にも細い溝が彫られているように見えますし、

14-La-Piramide-etrusca-di-Bomarzo-9.jpg

上の全体の写真でも、右脇に添っての溝もそうかと。



と、この急な階段の上り下りは滑りやすく、見学者は注意とありましたが、

当時の司祭たちはどうしていたのか、と言うと、所々に見える四角い穴、
また小さめの穴、丸い穴が見えるのは、多分木材の柱を立て、
祭壇に覆いを掛けたり、また司祭たちの摑まり棒もあったのだろうと。

15-unnamed (1).jpg



という様かなり特異なピラミッドですが、少し脇道にそれ、この「ピラミッド」と
いう呼び名を付けた、使ったのは、上記のサルヴァトーレ・フォッシ氏で、
まさに間違いなくピラミッド!で、

この大きさの岩の祭壇は多分ヨーロッパで最大のものであろうという事。

また紀元前5~4世紀にはエトルリア人たちの祖先にあたるリナルドニアーニ・
Rinaldoniani達の巡礼がこの地を頻繁に訪れたのであろうと。



この深い森の中に静かに埋まっていた27世紀前のピラミッド!!

16-10014824_625604760843281_5496491387086149036_o.jpg

なんとも壮大な記念碑というか、古代人の信仰や周囲の自然の美しさを受け、
現在に至るも未だに畏怖心を感じさせる凄みがあります!!

もし、訪問したい気がおありの方は、Booking.comを通じて予約もでき、
メール・アドレスは  webmaster@etruschi.name



と、最後ちょっと急ぎ足になりますが、最初の衛星地図にも載っている、
ピラミッドから南のネクローポリ・ディ・サンタ・チェチーリア・
Necropoli di Santa Cecilia・サンタ・チェリーリアの墓地の写真を。

こちらが現在廃墟になっている、森の中の静かなエトルスクの墓地聖域。

17-La-Piramide-etrusca-di-Bomarzo-4.jpg

ここも林の中を歩いて訪問しますが、ピラミッドよりも分かりやすく、
標識もあるそうで、



このネクローポリに至る道、これも岩を掘っているのが分かる凄い道で、
美しくも、威圧感を覚える道ですね。

18-La-Piramide-etrusca-di-Bomarzo-3-1.jpg


偶然にサイトで出会った記事、写真から始まった、未知への探検にも似た
エトルスク文化への道、2700年前との出合い。 そう思われません?!

素晴らしいのに出会えた!! 知った!! と喜んでいます。

次回はピエロ・パオロ・パゾリーニの家、そしてエトルスクの香りについて
ご案内しますね。


*****

当ブログご訪問、有難うございます!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!


    s2019誕生日 - Copia.jpg    

*****

色鉛筆+水彩画ブログには、
朝の港風景 一応お終い と、  ピラミッド型の、大金持ちの家
をアップしています。


*****
   
記録庫ブログは、お陰様で無事引っ越しを終えました
 
今後ともの皆様のご訪問を、よろしくお願い致しま~す!

*****

コメントの書き込みについてのお願い。

ブログの記事下に、「コメントを書く」が出ていない時は、
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。 

・ イギリスのヴィクトリア女王と、 従僕ジョン・ブラウンの・・

暫く前にTV放映のヴィクトリア女王とその従僕ジョン・ブラウンを描いた映画
「私の女王 (ミセス・ブラウン)」・日本タイトル「Queen Victoria 至上の恋」
を見る事が出来ました。

随分昔にヴィクトリア女王は夫のアルバート公の亡き後、従僕との間に
大変親密な友情を持ったことがあるものの恋人は持たなかったと読んでいたので、
ああ、この事だったのか、と納得しましたが、

1-unnamed.jpg



その後こちらのサイトでかなり詳細なサイト記事をあれこれ読み、
彼女の棺に入れる様に本人が書き残し、実際に何が、というのを読むと、
通常伝わる「女王と従僕の間の深い友情」とは違う、と確信し、はぁ、
歴史のゴシップ好きshinkaiは、今回それについて。


ヴィクトリア女王は63年以上に渡る、現エリザベス女王2世に次ぐ
在位記録を持ち、

2-1-regina-vittoria.jpg

ちなみにエリザベス2世はヴィクトリア女王の玄孫・孫の孫に当たり、



9人(男子4人、女子5人)もの子女たちはヨーロッパの各王室に入り、
「ヨーロッパ王室の祖母」とも呼ばれるほどに、40人の孫、37人の曾孫!

2人+9人の、家族総勢。

3-chi-era-la-regina-vittoria-dinghilterra.jpg



頑固我がまま、意地っ張り直情径行、短気で激高しやすく、道徳的、かなり
妄信的な面もあったと言われるヴィクトリアは、ケント公エドワード
51歳の時の子で、1819年5月24日生まれ。
父のケント公は彼女が8か月の時に薨去。

生まれた時は王位継承の5番目に位置していたのが、翌年1820年3番目となり、
1830年には2番目、こうして最後の叔父のウィリアム4世が65歳で国王となり、
遂に次期王位継承者の位置に。

16歳の誕生日のヴィクトリア。

2-2-ee524f335e345817761ed826d41213c8.jpg



叔父のウィリアム4世国王は1837年6月20日の未明に亡くなり、
ヴィクトリアは18歳にしてハノーヴァー朝第6代女王に即位を。

2-32-Victoria_coronation_1.jpg



「ヴィクトリア王朝時代」と呼ばれるイギリスの繁栄期をつくり、
世界に広がる大植民地帝国も創り上げた当時の政治状態についてなどは
到底手に負えませんので、

今回は「ヴィクトリア女王とジョン・ブラウン」の関係のみに絞りますね。


ヴィクトリアは身長145cm程の小柄で、道理で写真で見る夫アルバート公
も身長は167cmと高くないのに大差があるので、一体彼女の身長は?と
思っていたのでしたが、
一方体重は結婚前に56kgで、出産を重ねる度に体重が増え、最後には70kgを
超えていたといい・・!


夫のアルバート公は、ヴィクトリアの母方ケント公妃の実家ザクセン・コーブルグ・
ゴータ公である兄エルンスト1世の次男であり、最初から婿の最有力候補。

4-Daggherotipo-Alberto.jpg



大変な美男で知理性も備えた教養高い男性で、ヴィクトリアは以前出会った時から
いわば一目惚れ、ただ周囲がかってに話を進めているのが気に入らなかった様子が、

改めて1839年10月に訪問して来たアルバートが更に素晴らしくなっているのに、
君主位にある彼女の方からプロポーズをし、

1840年2月10日に挙式を。

5-yX0vW9W.jpg



ヴィクトリアの母方の従兄弟に当たるアルバート公は1819年8月26日生まれ、
つまり3か月遅れの同い年で、

映画「ヴィクトリア女王 世紀の愛」にも描かれていた様に、イギリス女王と結婚、
婚家に入った婿の様に最初は何にも手出しができなかったものの、
徐々に女王と共同統治の形となり、影響力を強めて行く姿がありましたが、

ヴィクトリアにとってはちょうど格好の良い夫ではなかったのでしょうか。

6-Vittoria-regina-innamorata-e-madre-degenere.jpg

そんな夫君アルバート公が20年の結婚生活の後、1861年42歳の若さで
亡くなった後の悲しみは深く、その後公的な生活から遠ざかる隠遁生活を
スコットランドのバルモラル城やワイト島のオズボーン・ハウスで過ごし、
殆どロンドンにも行かず、そんな生活は10年以上も続いたのですね。



政治的な活動にも支障をきたし、健康問題もあるそんな生活から
少しでも女王を引きだそうという意図から、

アルバート公のお気に入りでもあった、バルモラル城の馬丁、スコットランド人の
ジョン・ブラウンがヴィクトリアの馬係となり、乗馬や馬車で出かける様に。

7-John_Brown_(_Queen_Victorias's_servant).jpg



ジョン・ブラウンは1826年12月8日生まれ、つまりヴィクトリアよりも7歳年下の、
ラフで有能な、ちょいちょい酔っ払ってもいる男で、そんな彼はヴィクトリアの
大のお気に入りに。

8-aYyr7so.jpg



女王に向い直接に「女」と呼びかける、そんな荒々しい手応えのある扱いが
落ち込んでいる、元々は気の強い彼女には気に入ったのかも、で、

私的な召使、ボディー・ガードとなり、遂には王族、首相に至るまで、彼を通さずに
謁見が出来なくなるほどとなり、
ヴィクトリアは「ミセス・ブラウン」と新聞紙上に書かれ、様々な噂の的に。


ヴィクトリアは絵を描くのが好きで、彼女の描いた「ジョン・ブラウン」

9-Young_john_brown.jpg



こうした2人の大スキャンダルを醸した主従関係は、1864年から1883年の
彼の死迄の約19年間続き、

10-fyJeozQ.jpg

ジョン・ブラウンはまさに良き友として、示唆を与え女王の心の内に
強く入り込み、支えたのでしょう。

夫アルバート公とはまた違った意味で、「2度目の人生」を共にの
ヴィクトリアだったのかもで、



彼が亡くなった後、ヴィクトリアは彼を偲ぶ像や、こんなベンチも。

John_Brown_statue_Balmoral.jpg

11-mUKu8X.jpg



映画の中の1シーンを。

RuBj08b.jpg



そしてその後また1人になり、実際どうだったのかは知りませんが、はぁ、
女王ヴィクトリアの生活は1901年1月22日82歳での薨去まで。

80歳のヴィクトリア女王。

12-Queen_Victoria_-_Von_Angeli_1899.jpg



そして1901年2月1日から4日、大葬の日の棺。

13-E7saaz6.jpg 


と、ざっとご紹介して来たのですが、最後に冒頭に書いたジョン・ブラウンとの関係
について、映画でも、熱い友情が交わされたのだろうなぁ、というノスタルジ-的な
思い入れで描かれていましたが、


自身の12ページに渡る葬儀についての指示があり、棺には、彼女が指定した通りに、
彼女の秘書と私的な医者のみが携わり執り行われ、

結婚式の白い衣装で、その上からアルバート公の衣類をかけ、
両手の間にはスコットランドの野に咲くヒースの花束を。

宝石類は感傷的に大きな価値を持つもので、左手の薬指にはアルバート公との
結婚指輪を、そして右手にはジョン・ブラウンが贈った彼の母親の結婚指輪を、

彼は結婚しておらずで、そして彼の写真と、髪の毛のひと房、そして交わした
何通かの手紙。 これらは人目に触れぬ様、他のたくさんの花に埋もれる様に、と。

これを読んだサイトは
La Regina Vittoria fra Curiosità e Stranezze ですが、

他のサイトにも載っていましたし、これを読んだ時に、2人の間柄を確信。

55歳の女性と48歳の男性。 夫との生活はまだ若く、次々と9人の子育てと
公的な生活に追われたままで中断。

その様な生活と違い、改めて2度目の大人の人生をしみじみと味わった様な、
そんな感慨がヴィクトリアにはあったかもで、

他にも色々名のあがった人もいるものの、棺に入れる様願ったこの品々で十分に
彼女の心底を覗いた様な、ちょっといじらしい気もする程に!


最後にもう一度2人の写真と、

14-RMrfOEy.jpg



ジョン・ブラウンの、shinkaiめが気に入った、へへ、ワンとの写真を。

15-UUXIvum.jpg


今の我らから2世紀前と遠く、がんじがらめの旧い女王の生活も、こうして知ると、
彼らも生きたんだなぁと、彼らの熱い血の思いをも感じません?!


*****

当ブログご訪問、有難うございます!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!


    s2019誕生日 - Copia.jpg    

*****

色鉛筆+水彩画ブログには、
危機到来には、いつも動物たちにお助けを願い・・!
をアップしています。


*****
   
記録庫ブログは、お陰様で無事引っ越しを終えました
 
今後ともの皆様のご訪問を、よろしくお願い致しま~す!

*****

コメントの書き込みについてのお願い。

ブログの記事下に、「コメントを書く」が出ていない時は、
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。