これを書いている12月21日、漸くに少しづつコロナの新感染者数が減り始め、
現在1万人台で、死者も500人前後に、ですが、
昨日から伝わるニュース、イギリスのコロナヴィールスに新変種が見つかり、
大変に感染力が強く、やっと接種が始まったワクチンも効き目が
薄くなるとか、で、
昨日のロンドンからの飛行機で戻ったイタリア人に感染者がおり、
ローマで見つかった、とかいう、ちょっと怖いニュースがあります。
で、現在のイタリア全体の地図の色は、アブルッツォ州がオレンジ色で、
一応全部イエローとなっているのですが、
23日迄は今の上記の地図の色の規制で行き、
24日から27日迄イタリア全土が赤ゾーン指定となり、
クリスマス開け28日から30日の3日間は、オレンジに、
そして再び31日から3日までは赤に、4日はオレンジに、
最後5日、6日は再び赤となり、
7日からまた今の黄色、オレンジという状態に戻ります。
ドイツ、オーストリア、オランダ、イギリスのロンドンもロック・ダウンとなり、
イタリアも、夏の規制が緩やかになった所で、再びぐんと増えたので、
再びの第3波の攻撃に備えても、厳しいのを我慢して、という様子で
規制が引かれました。
赤色とオレンジ色の違いは、赤は外出が仕事や緊急に限り認められるものの
基本線は外出禁止、
食料品店、雑誌などのエディーコラ、たばこ、薬局などの必需品店は開くものの、
レストラン、バールなどは家庭配達のみで、これは22時まで。
オレンジ色は30k以内は外出OK、と緊急事態、家に戻るのはOK.
レストラン、バールは赤と同じ。
そして親族、会食に関しては、州内においては親族、友人に会うのはOK、
家に2人の招待はOK、夜間外出禁止は22時から5時。
という事に。
という事で、友人のジュリアーナがクリスマスに食事に来ることに、ははは。
と、ヴェネト州は暫く前から新感染者数が5000人を超す事もある程で、
遂に19日からザイアは規制交付し、
コムーネを超える外出は、緊急移動はOKだが、それ以外は禁止、
外出は14時まで。
23日迄はレストランが開いているのでお昼はOKですが、14時までに着く事、
家に戻るのはOKという条例です。
これで年明けに少しでも新感染者が減ると良いのですが!!
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彼は離婚歴あるアメリカ人女性、ウォーリス・シンプソンの援けなしには、
国王の任務を全うする事は出来ないと、退位した事(1936)で有名ですが、
では国王を退位させるほどの影響力を持っていたウォーリス・シンプソン・
Wallis Simpsonとはどんな女性だったのか、
最初はその程度の興味で、偶然見つけたサイト記事を読み始めたのが
どんどん深みにはまり、へへ、つまり次々と出て來る記事内容が、
少しゲスイなぁと我ながら思いつつ、まぁ、好奇心はそそられ、はぁ、
「酷い事でも、知らぬより知った方がマシ」と思う我がモットーに従い
知った事を、皆様にもご披露を!
但し、自分がゲスにならぬ様に、これは気を付けて参ります、はい。
で、ウォーリス・シンプソンについて始める前に、先回、エドワード公には
彼女が登場する前に2人の女性がいたと書きましたが、
はぁ、ここでは他にもいただろう女性関係は排除し、長く続いたのみを
取り上げておりまして、はい、
最初の1人フリーダ・ダドリー・ワード・Freda Dudley Wardは
彼と同年で、知り合ったのは1918年春、結婚し娘が2人いた彼女とは
16年程も長く続いたのですね。
彼女に限らず、エドワードが関係を持ったのは、次のテルマ・ファーネス・
Thelma Furness、
そしてウオーリス・シンプソンと、いずれも既婚女性で、
これはいささか次代国王になるべき人物には余り相応しからずで、しかも
既に弟君たちは結婚し子供もいるのが、彼は40歳を超え未だ独身。
既婚女性とのみ関係を持つ、については、子供の頃から母親の愛情に
恵まれずに育ち、年上女性の暖かさを求めた、という風に書いてあるのも
ありますが、
上記の様にフリーダ・ダドリー・ワードは同い年、次のテルマ・ファーネスは
(1904-1970)と10歳年下、そしてウオーリス(1896-1986)は2歳年下。
つまり彼が22歳の1916年の事、ちょうど第1次大戦中のフランスのアミアン・
Amiensで、友人達に連れられその手の家に行き、じきに知り合い関係が続いた
「マギ―・Maggy」、彼女は「支配者」として評判を取っていた女性で、
それ以来「セックス」は彼にとっての最大の関心事になった、というのですね。
そして2年後に知り合ったフリーダは貴族女性でなく、可愛く美しくそして
大人で、2人の関係において「支配者」で、
エドワードが熱愛し、熱狂的な言葉を連ねて彼女に送ったたくさんの手紙、
電話も夜に何度もしていたとか、当時如何に彼が真実彼女を愛していたか!
熱中した2人の間で交わされる、他人には失笑するような言葉も、失礼、
それはもう人間の歴史始まって以来の常ですので、個々は取り上げませんが、
既に彼は退位しても結婚したい、という意思は持っていたのが垣間見えます。
が、彼女にはエドワードの他にも愛する男性が出来、やっと離婚した1930年には
既にエドワードとの濃い愛も頂点を超え、別の男性も2年後に亡くなり、
彼らの関係は終焉に。
1926年に知り合った既に2度の結婚をしているテルマとの関係は、彼女が美しく
優しく、体の関係はあっても感情的な支えは無く、
つまり彼女はエドワードが複雑な性格を持っている事は分かっても、分かろうと
近づく事はない関係で、つまり彼にとって歯ごたえの無い女性だったろうというか、
そうこうしている内に1931年頃、テルマはアメリカからやって来たウォーリスを
エドワードに紹介しますが、
機知に富み、鋭い反応を示すウォーリスにエドワードはすぐに魅惑され・・、
という所で、やれやれ、漸くに本命の出番に辿り着けましたぁ。
さて、1936年即位後1年に満たないエドワード8世に退位を決意させた
ウォーリス・シンプソン・Wallis Simpsonなる女性。
彼女はアメリカ人ではあるものの、生まれは両親ともがイギリスから移植の
裕福な家庭に生まれます。
母親はアリス・モンタギュウ・Alice Montague、イギリスの貴族の一員で、
1621年にアメリカのヴァージニア州に。
父親はタックル・ウォーリス・ワーフィールド・Teackle Wallis Warfield、
こちらも1662年にメリーランド州にやって来た由緒ある家柄。
母親アリスは美しく、たくさんの求婚があったのもタックルに恋をし、彼は既に
結核を病んでおり、反対されたのを押し切り1895年11月19日に結婚、
1896年9月28日ウォーリスが生まれ、1896年11月16日に父親が27歳で
亡くなり、病気が進み、写真でしか生まれて来た娘を見る事が無かったそう。
母親に抱かれたウオーリス。
残された2人はタックルの母親が、未婚の息子ソロモン・Solomon、
つまりタックルの兄と裕福に暮らしている家に引っ越すものの、
厳格で盲信家であるソロモンがアリスに恋をし、アリスは夫の兄弟とは
結婚する気はなく、仕事を見つけ、娘ウォーリスを連れ家を出ます。
ソロモンは姪の勉学の援助を続けるものの、アリスが再婚する際に
ウォーリスに彼の所に引っ越す事を提案、つまり彼の財産をすべて彼女に
残す代わりに、母親との付き合いはしない事が条件で、ウォーリスは拒否。
18歳で学校を終えた彼女は、特別な美人でない代わり大変に魅力的、
溌剌、知的で優しく、非の打ち所のない所作と完璧な礼儀で、
たくさんの男たちを魅惑。
大変に賢く知的で、全てのチャンスで上手く取り扱いを心得ており、
一緒にいる他の女性たちが霞む術を心得ていたそうで・・、
はぁ、これを読んだ時、女からは好かれない女性ね、と、ははは。
1916年20歳、ウォーリスは米空軍士官のアール・ウィンフィールド・スペンサー・
Earl Winfield Spencerと結婚。
が基地での、狭く、経済的に欠乏の生活、と彼女の望んだ結婚ではなく、
喧嘩、仲直り、夫の転勤、酒浸り、女関係。
が、彼女にも夫の中国勤務について行った先での、ムッソリーニの婿
ガレアッツォ・チャーノ・Galeazzo Cianoとの噂もたち、
後にウェールズ公との関係に役立ったかもの、オリエンタル式エロティック・
マッサージを習得したとか・・、
遂に1927年に離婚しますが、この離婚では叔父の遺してくれた遺産の
殆どをなくす、という結果に。
ウォーリス、1920年代末。
再び自由の身のウオーリスに求婚が降り注ぎ、1928年にアーネスト・シンプソン・
Ernest Simpson、アメリカ人でロンドンで船舶事業をし、お金持ちではなくとも
裕福な男性と結婚を。
そして1931年1月10日シンプソン夫妻は、ウォーリスの友人であるテルマの
自宅に招かれ、ここでウェールズ公エドワードに初めて出会い、
上記した様に、エドワードは知的、魅惑的、溌剌彼女にすっかり刺激を受け!
ウオーリス34歳、エドワード36歳の知り合い、
まさにお互いが求めていた出会いの相手だったのでしょうね。
1931年にと思われる、ウォーリスが王室に紹介された時の衣装。
1934年にはエドワードはシンプソンの家の一部となり、招待される事なく、
友人として訪れ、既に愛人関係になっていたと思われ、
彼は未だかってこれほどに彼の仕事に興味を持った女性に会った事が無く、
友人、仲間として、彼は自分を開け広げて話せ、笑い、自分の問題、計画を
話せることができ、
彼が以前よりもっと快活で、溌剌とし、自信を持った事に皆が気づき、
ウォーリスとの友情のお陰、と彼は言い、
一方父王、と母女王はウォーリスを紹介され侮辱、怒りを感じ、歓迎せず、
が、2人は紺碧海岸に一緒に旅行し、勿論同伴者はいるものの、
2人の関係が明らかに始まっている事を公開。
公式な招待にはいまだに夫のアーネストが同伴していたものの、エドワードの
住まいにしばしば1人で訪れ、女主人役を務めていたと。
そして1936年1月父王ジョージ5世の崩御により、エドワード8世として即位。
即位式にはウォーリスが付き添い、初の王室の公式昼食会にはシンプソン夫妻が
という、王室一同の感情を逆なでする様な有様と、
世間一般にもエドワードのウォーリスへの気持ちが隠れなく伝わり、
遂に10月にシンプソン夫妻は離婚。 そして離婚後の6か月を待たずして、
これは法律で既定の、もし離婚女性が妊娠していた場合のケース想定で、
2人は王室のヨットでユーゴスラヴィアへの旅行に出かけたりで、
かなり強引にウォーリスと結婚する意思をアピール。
が、イングランド国教会では離婚は禁じられている上、王の立場で無理に
結婚すると、国の大基本原則に背く事にもなり、
階級社会のイギリスの世論も、身分を問わず国民大多数がこの結婚に
反発する、という大問題と。
ウォーリスは少しでも状況が落ち着くかと1人でイギリスを去り、カンヌに。
一方エドワードは1人で、ウォーリス以前の不安な精神状態となり、
余りにも頑固で、余りにも彼女を愛しており、イギリス政府に対しても怒り狂い、
また様子を見ている国民の意見は、王は国民を選ぶか、国民を捨てて
女を選ぶか、という選択を突きつけ、
王は一層絶望し、傷つき、遂に最後の決定、
12月10日、3人の兄弟の立会いの下、退位証明書にサインを。
これが伝わり新聞報道もなされると、国内には衝撃が走り、号外を奪い合う
大混乱となったそう。
翌日12月11日午後10時に、BBCのラジオ放送を通じ、王位継承する弟の
ヨーク公への忠誠を誓い、イギリスの繁栄を祈る心に変わりはないと国民に
語りかけた上で、
「私が次に述べることを信じてほしい。愛する女性の助けと支え無しには、
自分が望むように重責を担い、国王としての義務を果たすことが出来ないことを。
という名高い言葉で有名な退位文書を読み上げ、
王族と最後の食事をとり、日付けの変わった12月12日深夜にポーツマス軍港から
出港し、イギリスを立ち去り、ウィーン郊外の城で隠遁生活を。
在位は325日、1483年のエドワード5世以来453年振りに未戴冠のまま
退位の国王となり、
「王冠を掛けた恋」と呼ばれる出来事に。
その後1937年3月8日に「ウインザー公」の称号を与えられ、
5月4日にウォーリスと約半年ぶりに再会、父ジョージ5世の誕生日でもある
6月3日にフランスのトゥール近郊で正式に結婚を。
その後はイギリス王室からの多額の手当金で、優雅な生活を送ります。
ドイツ訪問をして、ヒットラーの山荘で国賓待遇を受けたり、
秘密裏に、ドイツが戦勝の後は国王に返り咲き、ウォーリスは王妃に、という
約束を交わしたり、
その後はそれがイギリスのスパイにばれ、ヨーロッパ戦場から遠いバハマ総督
として任地に送られたり、
先回のブログに書いた、後継の王ジョージ6世始め、イギリス国民が忍耐、
辛苦の戦時下の生活を送ったのとはまるで大違いの生活で!
殆ど知らなかった「王冠を掛けた恋」の裏側にあった、如何にも人間臭い
迷いや、恋愛感情、余りにも似た者同士、お互いが望むピッタリの相手と
出会えた事なんだろうなぁ、等など、それはそれとして、
それでもやはりどこか「違うなぁ」という想いを抱かされた、
ウォーリス・シンプソンとエドワード8世の、世紀の恋物語なのでしたぁ。
長いお付き合い、有難うございましたぁ!
25日のクリスマスも近く、せめてものクリスマス・ソングを皆様に。
良いクリスマスをお迎えくださいね!!
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