・ 当ブログ総目次  n.5

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 2021年

 6月

18日 ヴェネツィア  オッパイの橋と、 あれこれ掘り出しの・・

12日 ヴェネツィア  人殺しの橋  そして民間伝説

 8日 ヴェネツィアの カ・ダーリオ邸  あれこれの暗い評判をご存知ですか?!

 3日 コジモ1世メディチの胸像の新発見 と、 ニューヨークでのメディチ家展



 5月 

29日 マイヤーリンク事件  オーストリア皇后シシーの1人息子ルドルフの心中

24日 n.3 ヴェネツィア行き  ムゼーオ・コッレール ・ コッレール博物館 その2

19日 n.2 ヴェネツィア行き  ムゼーオ・コッレール ・ コッレール博物館 その1

14日 n.1 ヴェネツィア行き  快晴、1年ぶり  ヴェネツィアはいつもヴェネツィア

 9日 マレーネ・ディートリッヒ の 「リリー・マルレーン」「モロッコ」 ご存知ですか?

 4日 太陽王ルイ14世の愛人、 結婚したかったマリア・マンチーニとの若き恋



 4月

29日 ペッギー・グッゲンハイム・コレクション と、 彼女についてあれこれ

24日 春5月 トスカーナはシエナのクレーター  白い道 再訪

19日 クリムトの傑作 「アデーレ・ブロッホ-バウアーの肖像I」に纏わるお話

14日 ヒットラーのお毒見役を務めた女性  マルゴット・ヴェルク

 9日 クローンの鐘楼伝説  レージア湖に半ば埋もれた

 4日 アッシジ サン・フランチェスコ聖堂の夜明け  と  ブオナ・パスクワ!



 3月

30日 3月25日 ヴェネツィアは1600歳のお誕生日!

25日 対コロナヴィールスの、ワクチンを接種して来ました。

20日 マリーア・ロマノフ と ルイス・マウントバッテンの 儚く消えた愛のお話

15日 レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ、ジョコンダ」の真のモデルは?

10日 カトリーヌ・ド・メディシス  フランスへの香水貢献とちょっぴりの暗黒面と

 5日 鉛、水銀、砒素などなど  過去の恐ろしい致命的美容術



 2月

28日 ジューリア・ファルネーゼ  教皇アレッサンドロ6世の愛人の・・

23日 10世紀ローマ  教皇庁を美貌と色で手玉に取った女性がおったそうな

18日 「ル・シャトレーヌ」 をご存知? 宝石、アクセサリーでなく、でも・・

13日 ヴァレンタイン・デーもすぐ!  我が愛しの男優たちに愛をこめて

 8日 「三銃士」のダルタニャン   物語の背後に居た真の銃士は

 3日 モンテリッジョーニ ・ 塔の冠を戴いた、トスカーナ珠玉の町



  1月

30日 クリムト・ヴィッラ   クリムトの最後で唯一残る、ウィーンのアトリエ

26日 アウシュヴィッツのタトゥー係  1月27日ホロコーストの記念日に寄せて

22日 グスタフ・クリムトと、  黄金衣装背後の女性、エミーリエ・フローゲ

18日 フィレンツェ、 不滅、永遠のサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂

14日 n.2 花嫁の結婚衣装  1910年代から1世紀間の歴史を振り返り

10日 n.1 花嫁の結婚衣装  1910年代から1世紀間の歴史を振り返り

 6日 17世紀 ルイ14世のフランスと ヴェネツィア間の「鏡の戦争」

 2日 ヴェルサイユ宮殿における 太陽王ルイ14世の1日は


・ クリムト・ヴィッラ   クリムトの最後で唯一残る、ウィーンのアトリエ 

今日はウィーンにある、グスタフ・クリムト(1862-1918)のアトリエ博物館、
画家没後の長い年月を経て修復され、2012年秋から公開されている
アトリエのご案内を。

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ウィーン西駅から約5kmの位置にある、かっては田園風の美しい公園内に
あったのが、改装され、また第2次大戦後の放棄時を経て後、

クリムトの絵を愛する人びとのグループが、建物を残すために闘い、
遂に「国の記念物」の指定を受け、オリジナルの図面も見つかった事から
かっての面影を留める様に修復され、現在公開されているののですね。

参考にしたサイトは  
本日、クリムトの唯一生き残ったアトリエが公開 で、2012年9月30日の記事。

修復経過について書いてあるのを読みながら、なんとまぁ、大変な
経緯があったものと驚き、よくぞ、よくぞ残ったものと、残すために努力して
下さった方々に感謝したい思いを強く感じました。 少し省略しお伝えを。


まずアトリエのある位置ですが、
ウィーン西駅から西に約5kmの位置にあり、分かり易いのは地下鉄4号線の
「Unter-St.-Veit(ウンター・サンクト・ヴァイト)」駅から徒歩で南に。

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現在の姿はこの様に白塗りの2階建てですが、

4-North-facade-of-Klimt-Villa-today.jpg



かってはこの様に平屋で、庭に小屋があり、美しい庭に面した建物。

5-atelier_feldmühlgasse.jpg


家具生産のヨセフ・ヘルマン・Josef Hermannが借りていたもので、
が、どうやらいつの時か、彼が家の持ち主になった様子で、
その娘がクリムトの友人で、彼に家を借用するよう助言し、

クリムトは庭の小屋に手を入れたり、大きな北窓をアトリエ用に開き、
建物の外側を白く塗ったりし、
彼はここで1912年から、亡くなる1918年まで制作を続けます。

で、彼の没後、ヘルマン夫人は設計士を雇い、庭に家を建てたり、
元の平屋の家の上に2階を建設したりで、元よりもずっと大きな建物に。

ですが、1922年に夫のヨセフが亡くなった時にはまだ完成しておらず、
多分経済事情があった様子で、家を建設途中のままで
エルネスティン・ヴェルナー・Ernestine Wernerに売却し、
じきにエルネスティンは結婚、クライン夫人・Klaeinと。

こうして家は図面通り、クリムトのアトリエの上と周囲にも建て増しの、
バロック様式の大きな建物となります。

6-Klimt-villa.jpg



が、1938年のオーストリアがナチス・ドイツとの併合の後、クライン一家は
ロンドンに逃亡、1939年には家は押収され、ユダヤ人以外に売却され、

第2次大戦後の1948年、オーストリア政府はクライン家に建物を返却
しますが、被害は大きく、1954年クライン家は政府に少額で売却。

家の状態は衰え果て、取り壊しも予想されるほどだったのが、
1957年に政府は学校に使用する事に。

この時点で「クリムト」は忘れ去られた状態だったのですが、
60年代になり、ロンドンとニューヨークで「ショー」が開かれ、人々の意識を
目覚めさせることに。

この2つの大都会で開かれた「ショー」というのがどんなものか分かりませんが、

いずれにせよ、オーストリア内では未だ知られており、建物は
「ヴィッラ・クリムト」と呼ばれてはいたものの、既に「無きもの」同様で、

1998年には限界で、
土地は区画分けされ、アパート用の建物やプロモトーリに売られるか、
老朽化した建物は取り壊し、という様子に。

この時になり市民グループが、建物を残すために立ち上がり、
1922年のオリジナル図面、アトリエの様子が正確に分かる図面を見つけ、

クリムトの生きていた時代とは、いくつかの壁が取り壊され、ドアも移され、
窓も変わりと様子が違ていたものの、
建物自体はそのままで、元の様に修復可能という事が分かったのですね。

7-Cattura.jpg



市民グループは「グスタフ・クリムト・メモリアル・ソサエティ」を1999年に
結成、クリムトのアトリエを、画家が使っていた時の姿で残す事、で闘い始め、
2000年に、「オーストリア共和国の、歴史的住居」のリストに掲載を、
少なくとも、家の重要な歴史を公的に認められることに漕ぎつけます。

が、まだまだ問題は続き、「政治闘争」という言葉で語られる、
リストからの削除問題、ロシアの開発者に売却問題とかあったものの、

遂に2009年「国の記念物」指定があり、破壊問題から逃れ、
翌年、建物の中に「クリムト博物館」が建物の中に作る案が出来、
政府の経済省が200万エウロの改修費を承認、2011年から工事開始。



改修には、同時代の画家エゴン・シーレ・Egon Schieleが残した記述や、
応接室、庭の3枚の写真を参考に、
クリムトの時代の雰囲気にいくらかでも近づける様にと。

エゴン・シーレの「ブルーの仕事着のクリムト1913年」 

sEgon_Schiele_-_Gustav_Klimt_im_blauen_Malerkittel_1913.jpg



エゴン・シーレがクリムトの亡くなってすぐに残した記述では、

毎年クリムトはフェルドミュールガッセ・Feldmühlgasseにある家の
周囲を花壇で飾り、 
何世紀も経た木々や花に囲まれた家を訪れるのは喜びだった。

扉の前にはクリムトが掘った2つの魅力的な頭部像があり、
最初の扉を入ると控室に入り、その左のドアからは居間に続いた。

中央に四角なテーブルがあり、その周囲には日本の版画が纏まって
開かれており、2つの大きな中国の絵があり、
床にはアフリカの彫刻と、窓に近い角には赤と黒の日本の鎧があった。

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この部屋から別の2つの部屋に続いており、薔薇の茂みに向いていた。

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アトリエには2つのイーゼルに掛かった、クリムトが1917年に描いていた
絵が2枚あり、

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右に、「扇を持った婦人」

11-lady-with-fan-1918.jpg



左に「花嫁」。 これは未完のままに。

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どちらも現在は私的コレクションに入っており、ここのはコピーと。



どちらの部屋の家具もヨセフ・ホフマンの企画によるもので、
殆どが戦争を生き延びたものだそうで。

大きな衣装箪笥には、当時クリムトのコレクションである、多量の
アジアの布等があったのが、彼の没後同伴者エミーリエ・フレーゲに渡り、
彼女のアパートは第2次大戦終戦間際の火事の為、損失。

多分この写真のものと。

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他の調度類は現在個人所有で、
1人はアトリエにある、アフリカの椅子を貸しており、

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アトリエの様子を。

15-Klimt-Feldmühlgasse-Studio-.jpg

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多分、こういう様子が他にも続くでしょうし、アトリエの当時の雰囲気を
求めての正確な複製品が作られたり、

控室のカーペットも、オリジナルのBackhausenの物が、幸いに見本が
記録にあり、作られたり、

2階が博物館となっており、参観者は1910年代の一連の衣装や、
クリムトのデッサンのコピーも見ることが。

17-klimt.jpg

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エゴン・シーレによる記述

どんなものも動かされてはならない。 なぜならクリムトの家の
全てが関連しており、それ自体が芸術なので、壊されてはならない。

未完成の作品、筆、作業台、パレットには触れてはならないし、
アトリエは「クリムト博物館」として、彼の芸術を愛する少数の
人々の為に公開されるべきである。と。


画家の若い死から約1世紀を経て、大変な時代だった1世紀を経て、
漸くに、少なくともシーレの結論に至った訳ですね。


クリムト・ヴィッラ ・ Klimt Villa

Feldmühlgasse 11, 1130 Wien, Austria
開館時間 月曜休 火曜~日曜 10時~18時
Tel  +43 1 8761125

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我がコネリアーノからは、ウィーン迄国鉄で直通で行けるのです。
サイト記事を読み、初めて「クリムトのアトリエ」があるのを知った夜、
夢を見ましたっけ。  いつかね!


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・ アウシュヴィッツのタトゥー係  1月27日ホロコースト記念日に寄せて

毎年1月27日は、ナチス・ドイツの殲滅作戦によるホロコースト、

600万人によるユダヤ人、そ例外にロマ人、ジプシー、知的に遅れた人々、
政治犯、同性愛者などが絶滅収容所に送られ、命を奪われた人々を、
ロシア軍によりアウシュヴィッツ・Auschwitzの収容所が解放された
1月27日を、2005年国連で「ホロコースト記念日」と定めたものと。

暫く前に読んだサイト記事に
「アウシュヴィッツのタトゥ―係・ラリー・ソコロフの愛と秘密」があり、
Il Tatuatore di Auschwitz: l’Amore e i Segreti di Lale Sokolov
 
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全世界で大ヒット、日本でも既に翻訳出版され反響を呼んでいるというので、
まだご存知の無い方、読んでおられない方に、かくいうshinkaiもですが、
感動を呼ぶ彼ら2人のお話をご紹介致しますね。


イタリア、ヨーロッパに住むようになり、如何にナチによるホロコーストが
大きな傷跡を残したかが身に迫り良く分かり、
が、それも年月と共に薄れ始めている事もあり、「忘れてはならない事!」
として、この記念日は存在していると思います。

記憶の日 ・・忘れないために!  1月27日
https://www.italiashiho.site/archives/20180126-1.html

ヴェネツィアのゲットー ・ 追悼の日に寄せて
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463740335.html

ジョルジョ・ペルラスカ ・ 「追悼の日」1月27日に寄せて
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461060318.html

イタリア唯一の絶滅収容所 ・ リジエーラ・ディ・サン・サッバ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461762321.html


日本のサイトでは「強制収容所」という言葉になっていますが、
「強制収容所」と「絶滅収容所」とでは意味が違い、
「絶滅収容所」とは、「収容者を殺害するのが目的」だった収容所、
つまりガス室があった収容所を指します。



ラリー・ソコロフ・Lale Sokolov、落ち着いた外見の底に、50年以上に渡り、
重く耐えがたい秘密を自分の内に秘め、
他人には、自分の唯一の息子にも話さずに過ごし、

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2003年、愛し続け、秘密を分かち合って来た最愛の妻が亡くなった後、
漸くにあの恐ろしかったナチの絶滅収容所の経験、

ユダヤ人であった為に拘留され、死と隣り合わせ、自分の存在を無くす恐怖と共に、
彼の人生でもあった女性ジゼーラ・フルマノーヴァ・Gisela Fuhrmannova、
愛称ジータ・Gitaとの出会い、について語る事を決めたのでした。

アウシュヴィッツ絶滅収容所の入り口。

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2-2-La-storia-del-tatuatore-di-Auschwitz-03.jpg



彼がアウシュヴィッツで「番号32407」に変わる前の名は、
ルートヴィヒ・「ラリー」・アイゼンバーグ・Ludwig “Lale” Eisenberg.
1916年にスロヴァキアの小さな町で、両親ともユダヤ人家庭に生まれます。


40年代の初めドイツ軍が、ユダヤ人一家から少なくとも1人、働きに出る事を
要求した時、彼は男兄弟のうちで1人だけ結婚しておらず、
自分が出る事で家族は大丈夫だろうと思い、応募し出発します。

26歳、家族から離され、家畜の様に運ばれ、初めはチェコ・スロヴァキアの
プラハに、そしてアウシュヴィッツに。



地図を。 アウシュヴィッツはクラコヴィア・Cracoviaの西にある
オスヴェインチム・Oswiecimの事で、他の国との関係もどうぞ。

2-3-sCattura.jpg



ラリーが知らずに運ばれたアウシュヴィッツは、ナチの絶滅収容所の最大の物で、
ビルケナウ・Birkenauも含まれるたくさんの他の収容所と一体となっており、

ここに連行され収容された多くの人々が、人間としてのアイデンティティを失い、
命も失ったのでした。

写真上部がアウシュヴィッツ建物群のメイン部で、下に長くバラックが続きます。

4-auschwitz-gettyimages-515556836.jpg

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収容者は左腕に番号を刺青され、それにより存在を確認されましたが、

こちらが彼の名と番号が記された書類、と、刺青された左腕。

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3-2-Tatuatore-Auschwitz.jpg



この「番号を刺青」執行は、唯一アウシュヴィッツで行われたもので、
というのも余りにも犠牲者数が多く、死後に存在確認をするのが難しく、
採用されたものだそう。

悪名高い囚人を運ぶ列車が到着し、仕事に向かないと判断されると、
名前を記録する事もなく、勿論刺青される事もなく、
直接ガス室に送り込まれたと。


腕に囚人番号を刺青は、どこの収容所もと思っていたのでしたが、
アウシュヴィッツのみだった、というのは初めて知りました。 


ラリーは到着後新しいバラックの建設に働かされますが、暫く後チフスになり、
死にそうな彼が他の遺骸と共に堀・墓に投げ込まれそうになった所を、
フランス人囚人医者で、新着者に刺青を施していたドクター・ぺパン・Pepan、
ラリーの腕に32407の番号を入れたドクターに助けられます。

助けられた彼は刺青の技術を習い、ぺパンの代わりに働くようになります。
というのも、後にぺパンはどうなったのか分からずのままに姿を消し、
フランス語、ロシア語、そしてドイツ語を話すラリーが仕事を受け継ぎ、
相手の目を見る事なしに刺青仕事をこなします。


生き延びる為には、頭を低く、口を閉じ、問題を起こさない事を学びますが、
一方この役割にはいくらかの特権もありました。

つまりSSの政治部門で働くと、食べ物の配給量が多く、彼はこれを他人に分け、
個室も与えられ、刺青の仕事がない時は自由時間を持つことができ、
1人のナチの将校に見張られているとも、守られている状態。

が、「死の恐怖」は拘禁が続いている間中、常に忘れる事は無く、
とりわけ悪名高い死のドクター、ヨセフ・メンゲル・Josef Mengeleに
怒鳴られる事から逃れられず、恐怖に慄きつつ。


1942年7月、まだぺパン医師の助手をしていた時、既にあった刺青が薄れ、
もう一度し直すために彼の前に1人の少女が現れ、
彼は視線をあげ目を見た途端に彼女に恋を。

「番号34902」をジータの腕に刺青した時、自分の心にも刺青した様な
印象を受け、漸くに知った事は、彼女はビルケナウのキャンプに収容との事。

彼は幾人かのSSの看守に共謀者を見つけ、彼女との手紙交換を始め、
何度かの秘密の逢瀬も!


なんと! こんな事が出来たのは、きっと囚人とはいえ特殊な位置にあり、
一般の囚人ではなかったからでしょうねぇ、払いもしたでしょう、ね。

大変に美しい笑顔の彼女で驚き! これは彼ならずとも、ね。

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1945年初め、既に戦争は負けたと明らかになり、ナチスはアウシュヴィッツの
囚人たちを他の収容所に送り始め、こうしてラリーとジータは離れ離れに。

彼はマウントハウゼン・Mauthausenに送られ、彼女の運命を知らずのままに、
戦争は終わり、ラリーは家に帰ります。

が、家族の中で唯一姉が生きている事を知るものの、他の家族については
何も分からず、両親共にあのアウシュヴィッツで、到着後一日も経たずに
即ガス室に送られ亡くなった事も当時は分かりませんでした。


ジータを探し出す為にラリーは、収容所生活を生き延びスロヴェキアに
戻る人々が集まるブラティスラバ・Bratislavaに行き、
2週間の間、彼女を死なせない希望のみで、動転している人々の間を
探し求めます。

そして誰かが「赤十字に行って見たら」という助言を授け、行く途中、
彼の荷車と、若い見知った女性とがすれ違い、
なんとあのアウシュヴィッツの地獄を照らしていた目を持ったジータ!

夢も何も持てず、「将来」という言葉が無意味に思える場所で、
彼女と一緒なら未来を夢見る事が出来た、そのジータとの再会だったのですね。

1945年10月 2人は結婚を。

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が、まだ苦しみは終わらず。  というのも、既にロシアが占領していた
チェコスロヴァキアでは問題が少ないかと考え、2人は「ソコロフ」の姓を
名乗ったのでしたが、

イスラエル国建国の為に献金を送った事から収監され、
彼らの布の店が国から検閲を受けた時、2人はチェコスロヴァキアから
オーストラリアのメルボルンに逃げ、漸くに新しい生活が。

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その後何年もの間、地獄の記憶を2人で分け合いつつ、愛し合いますが、
収容所での飢えと虐待を受けたジータの体は子供に恵まれず。

が、1961年まるで奇跡の様に、彼らの人生を結び付けた極限の愛の証人の様に、
思いがけずの1人息子ゲリー・Garyが誕生。

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とはいえ、出会い、恋に落ちた時、場所の恐怖を忘れず、
ラリーは1度もヨーロッパに戻らず、ジータは僅か数回戻ったのみ。

ラリーは誰にも自分がアウシュヴィッツのタトゥ―係であった事を打ち明けず、
決して和らぐことの無い、罪の意識の重荷を背負いつつ、
またナチへの協力者と見なされる事を恐れたのでした。

カメラの前、年を取り、にこやかで元気な2人の姿にホッとしますね。

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彼らの人生の真実と愛情の物語からラリーが解放されたたのは、
2003年に妻ジータが亡くなって後で、

ラリーは2003年から2006年にかけて亡くなったと。



この本の著者ヘザー・モリス・Heather Morrisは、2人の話を
ルートヴィヒ・アイゼンバーグ(ラリーの本名)から聞き、
始めは映画の脚本にするつもりだったのが、
「アウシュヴィッツのタトゥ―係」の本となり、2018年初頭に出版と。

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なんとも重い話で、2人が極限状態の中で出会い、お互いに惹かれ、
生き残り、戦後に再会結婚。
が、ヨーロッパの状況は2人を安静には暮させず、遂に遠いオーストラリアの
メルボルンに逃れる。

子供にも恵まれ、生活は安静になったものの、それでも心の傷から離れられず、
というのが、読む者にも辛いですね。

アウシュヴィッツ絶滅収容所でタトゥ―係だったので、ある意味幸運、
恋した女性にも会え、戦後の生活も何とか順調に、「運が良かった2人」と
思いますが、やはり一生涯付きまとう陰、苦しみ、重荷があったのですね。

ちょっと特異なこの本は、やはり一読する価値があると思い
次回のキンデル本注文の時はこの本も、と考えております。


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posted by shinkai at 02:02Comment(0)・欄外

・ グスタフ・クリムトと、 黄金衣装背後の女性、エミーリエ・フローゲ

グスタフ・クリムトの黄金の衣装を纏った女性たちの絵、
ちょっとエキゾチックな文様でもあり、また日本の琳派にも通じる様な
文様と金の輝きを持つ絵画、きっと皆さんもお好きでしょう?!

代表的なのは、この「接吻」  1907-1908  180x180cm

1-Bacio-Klimt.jpg

これは男性には興味が無かったというクリムトが描いている男性で、
しかも女性はエミーリエというので、顔は見えませんけどクリムトの自画像、
でもある訳で。



そして「黄金の女」とも称される「アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像 1」
1907  138x138cm

2-gustav-klimt-portrait-of-adele-bloch-bauer.jpg

この絵の所有権を巡っての逸話も映画になり、ご覧になられた方も多いかと。


shinkaiめも、クリムトの絵は勿論、あの背後の黄金文様も大好きで、
「黄金の女」の実物は知りませんが、「接吻」を見に、ウィーンの
ヴェル・ヴェデーレ宮殿にも行きましたっけ。

で、今回見つけた記事は、クリムトの長い年月の伴侶でもあり、愛人でもあった
エミーリエ・フローゲ・Emilie Frogeについてで、
 
Emilie Flöge: la sconosciuta Stilista dietro gli Abiti dorati di Gustav Klimt
エミーリエ・フローゲ:グスタフ・クリムトの黄金衣装の背景にいた
知られざるスティリスト  を主に、
     
CHI ERA EMILIE FLÖGE, LA RIVOLUZIONARIA DESIGNER DIETRO (E DENTRO) I DIPINTI DI KLIMT

ウィキペディのイタリア版も参考に。



所でこの「エミリー・フローゲの肖像」もきっとどこかでお目にかかっておられ、
ご存知と思いますが、
今回の主人公はこのクリムトの絵のモデル、 1902 181x84cm ですね。

3-1-miss-emilie-floege-oil-on-canvas-181-x-84-cm (2).jpg

3-2-Emilie-Floge-Ritratto-Klimt.jpg


エミーリエ・フローゲ(1874-1952)は、旋盤工のマスター、生産者でもあった
フローゲ家の4人の子、姉が2人と弟が1人として生まれ、
最初の仕事はお針子として始まり、多分高級衣服の仕立て師となり、

一番上の姉ポーリーン・Paulineが1894年に始めた仕立て服の学校で働き、
1899年に姉のヘレン・Heleneと一緒に仕立てのコンクールに優勝し、
展示会の為の高価な薄物衣装を作る事を依頼され、という様にモードの世界に。


1904年ヘレンと一緒に高級モードの仕立て「フローゲ姉妹・Schwestern Flöge」
をウィーンのマリアヒルファー通りに開店、実業家としてもデヴュー。

このサロンの企画設計はヨーゼフ・ホフマン・Josef Hoffmann、そう、
有名な建築家、デザイナーがしており、ロゴはクリムトが、という様子で、
裕福なウィーンの顧客に高級衣服を仕立て、サロンはウィーンの主要アトリエに。

こうして仕事は順調に伸びますが、若いエミーリエはパリから届く
新しいモードに触れ、ココ・シャネルやクリスチャン・ディオールが
世界的に認められる少し前に、革新的なモードを取り込むようになります。



少し年代が前後しますが、クリムトの弟エルンスト・Ernstと、エミーリエの姉
ヘレンが1891年に結婚。 残念ながらこの結婚は翌年1892年エルンストの死で
終わりを告げますが、それ以降グスタフはヘレンの保護者ともなり、

こちらがエルンスト。

4-Ernst_Klimt.jpg



エルンストが1891年に描いたヘレンの肖像。

5-helena ernest 1891.jpg



こちらがグスタフ描く所の、1891年、17歳のエミーリエの肖像。

6-emilie_floge 1891 17sai.jpg

姉妹はあちこちのサークルに所属していて、兄弟とも知り合ったのかもで、
とりわけヘレンとエルンストが結婚した時期に親密になったものと。



こちらはグスタフが1893年に描いたという、ヘレンの肖像。

7-1-Gustav_klimt-portrait_of_helen1893.jpg

これは描いた年と、ヘレンの年齢が合わずで、年代が正確とすると、
ヘレン・クリムトの肖像、という説明も確かで、写真から描いたのかも。

この絵をshinkaiはウィーンで見ており、薄いピンクの背景の前の少女像で、
素晴らしいと思ったのでよく覚えています。



これは1914年、左がヘレンで、クリムト、そしてエミーリエ。

7-2-1914-Gustav-Helene-and-Emilie.jpg



姉の結婚により一家への定期的訪問者ともなり、夏にはアッター湖畔にあった
フローゲ家の別荘で過ごす様にも。

8-gustav-klimt-with-emilie-floege.jpg

クリムトとエミーリエは結婚せず、友人であり、愛人でもあり、いずれにせよ
人生の伴侶とし、お互いの仕事への良き協力者として関係は深く、固く。

冒頭の作品「接吻」も、崖っぷちの2人の様にも見えますが、
だからこそ結びつきは深い、という表現かも知れず、 ・・・ですよね?!


クリムトの作品は当時、いや今でも、「エロチック」と見做されており、
そんな事からも触発されたエミーリエは、モードの世界における何か改革的なもの、を
創造したいと思っており、



彼女は、当時の締め付ける女性の衣類に対し、コルセットなしの、
肩から広く下がる、袖も広い衣類を身に着けるようになり、

9-Emilie-Louise-Flöge-07.jpg

布の柄は、大いにクリムトの絵から影響を受けたと思える素晴らしいもので、
クリムトも彼女の為にデッサンを与えた、という説明もあり、

後の60年代の終わりからのヒッピーの装束に似た感じも! はは。



とりわけクリムトのゆったりとした衣類、これはブルーの作業着、絵を描く時の物、
というのですが、これを着ているクリムトの姿はいつ見てもどこか可笑しく、
特に猫を抱いている姿など、微笑ましく笑えます。

10-bacio-klimt-tuniche.jpg

11-emilie-floege-in-a-dress-designed-by-gustav.jpg

12-emilie-floege-in-a-reform-dress-.jpg

13-Emilie-Louise-Flöge-13.jpg

コルセットなしで着る衣類、というのは、後のココ・シャネルなども手掛けた、
ヨーロッパ中に広がるフェミニスト運動の先駆けともなるものであり、
またクリムトのボヘミアン・スタイルからも影響を受けたものと。



エミーリエより12歳年上のクリムトは、1918年1月11日ルーマニア旅行から
戻り、スペイン風邪と心臓発作による55歳の若い死を迎えますが、

画家の最後の言葉は、「エミーリエを連れて来て」だったと。

14-Emilie-Louise-Flöge-11.jpg

エミーリエは画家の遺産の半分を受け、が、彼のインスピレーションを
受けることなく、サロンでの仕事を続けます。

伝統的な衣類の仕事は大体良く続いたようですが、彼女が念願していた
改革的な衣類の方は余りにも時代の先取りで売れず、が、

暫く後の20年代になり、いわゆる「フラッパー・モード」として大きく変化すると、
裕福な顧客も見いだせる様になり、

エミーリエの高級クチュール・サロンでは1938年の、ナチス・ドイツによる
オーストリア併合年まで働き、その後はウンガルガッセ通りの彼女の
アパートで仕事を続けます。

が、第2次大戦末期に起こった火事で、彼女の家、コレクションは
大被害を受け、クリムトから受けついだ彼のコレクションも失います。

エミーリエが無くなったのは1952年5月26日、77歳。

15-1-d15150ac359a3edc7f5bac182e45a740.jpg

15-2-Emilie.jpg

16-Emilie-Louise-Flöge-15.jpg

17-emily_floge_by_koloman_moser.jpg

彼女のアイディアの衣類改革は1世紀前に日の目を見たのでしたが、
その後も現在に至るまでモードの世界に影響を与え続けているのが、
こうして写真を見るとよく分かり、近しさも感じません?!

それに、未だ社会への女性の進出が難しかったこの時代の中でも、
鮮やかに自分を生きた女性、という感じを強く持ちます。


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・ フィレンツェ、 不滅、永遠のサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂 

暫く前から、フィレンツェのドゥオーモが生誕600年に、というサイト記事。

1-la-facciata-della-cattedrale.jpg

またそれに関しての逸話が出て、何が書いてあるか知りたく、
時に??となりながら必死に読んでおりますが、へへ、

そうなんだ、600年間フィレンツェの街の中心に存在し続けているんだ、
という感嘆の念と共に、暫くあの美しい姿を見ておらず、いつまた?
という昨今の事情からも、少しでも近しく感じたい、という気持ちもあり、

ブルネレスキがかけたドゥオーモのクーポラ・丸天井屋根架設につき、
大聖堂建設が始まった1296年から120年後にブルネレスキに至った事情が
かなり詳細で興味深い記事を、皆さまにもご案内をと思います。
  
参考にしたサイトは
Il Duomo di Firenze, un'opera immortale です。

花の大聖堂のクーポラ建設については、こちらに記事にしており、
  クーポラ登頂と、建設のあれこれ ・ フィレンツェのドゥオーモ
  https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466188299.html

これを見て頂けると多少は分かり易いと思うのと、ダブらぬ様、
こちらにはブルネレスキのクーポラ建設迄の経過を主にご案内です。


1296年、フィレンツェの大聖堂の建設が始まった時の建築の監督は
アルノルフォ・ディ・カンビオ・Alnolfo di Cambio(1245頃–1302~1310)
ヨーロッパ各地で普及しているゴシック様式の穏やかなバージョンである
イタリアン・ゴシックの建築家ですが、彼の死後工事は中断に。

彼の生地コッレ・デル・ヴァル・デルザにある肖像を。

2-Busto_arnolfo colle di val d-elsa_1.jpg



1330年フィレンツェの政治活動にも強力な力を持つ組合の1つである
羊毛組合の資金提供で、聖堂建設が再開され、

この時より大勢の現場監督が出ますが、その中には1337年に、ジョットーの
最初の計画による鐘楼建設に着手したアンドレア・ピサーノ・Andrea Pisanoも。

が、1348年にはフィレンツェは激しいペストに襲われ、工事は再び中断。
外国人労働者を加えての建設続行の努力もあったものの、1355年には
側壁と、正面壁の一部のみが完成。

この年現場監督であったフランチェスコ・タレンティ・Francesco Talennthiが、
主廊の拡張を提案し、計画は2年後に承認を。



図をどうぞ。 一番小さいサンタ・レパラータ・Santa Reparataというのが、
大聖堂の位置にあった古い教会で、それを取り壊し新しい聖堂建設に、で、

3-d0097427_01122192.jpg

オレンジ色が、アルノルフォ・ディ・カンビオの案で、
ベージュ色がフランチェスコ・タレンティの案、承認された現在の聖堂の大きさ。



という事で、タレンティが指揮を執りますが、2年後1359年タレンティは、
アルノルフォ・ディ・カンビオが設計した、身廊と外陣の交差部を覆うに相応しい
クーポラを造る、問題に直面し、ジョヴァンニ・ディ・ラーポ・ギーニ・
Giovannni di Lapo Ghiniに道を譲ります。

ギーニは伝統ゴシック様式の、控え壁の肋骨で外側を支えられた薄い壁を備える、
という解決策を提案しますが、

フィレンツェの建築家ネーリ・ディ・フィオラヴァンティ・Neri di Fioravantiは、
北ヨーロッパで使われている外側の支え無し、の案を提案。

彼が想像したのは、石と木の輪の使用で、つまり樽の鉄のタガの様に、
クーポラが横方向への推力を阻むであろう、というもので、

ジョヴァンニ・ディ・ラーポ・ギーニのゴシックの伝統に添った提案とは違う、
ネーリ・ディ・フィオラヴァンティの提案は大きな議論を引き起こしますが、

1367年聖堂建設委員会は、翼廊の柱を太くする事、そしてドームの直径が
55mに、という条件付きで、ネーリの案を決定。

想像するに、建設委員会、並びにフィレンツェ人は、やはり従来通りのゴシック、
古いイメージの、控え壁から延びる肋骨で支えられた、というのではなく、
新しいイメージの大聖堂、を見たかったのでしょうね。


フィオラヴァンティの解決案は2重構造、2つの重ねられた層の構築で、
内部の層は強度が強く、2番目の層は軽く、内部の壁を保護する機能を持ち、
この方式は元々ペルシャの物で、イスラム建築ではとても評判が高かったと。

彼の提案では、8角形のドームを8つの石の部分に分割、高さ91mに達する
高さの、西洋史上最大となる、尖塔ドーム、で、

彼は高さ約4mx長さ9mの煉瓦のモデルを工事現場内に具体化し、将来の
工事はこのオリジナルのプロジェクトから外れてはならない事を示しました。

何となし、クーポラはブルネレスキが設計した形と高さの様に考えていましたが、
実は既にこの時に決められていたのですね。

4-la-grande-cupola.jpg


つまりこの1367年というのは聖堂建設にとっては重大な年で、市民投票により
石工と画家による「5人委員会」が選ばれ、ここでプロジェクトが選出され、
工事に掛かる事が出来る訳で、

フィオラヴァンティが煉瓦モデルを工事現場内に築いて見せた、というのも
関連していると思いますし、

毎年委員会と建築家達は、聖書に片手を置き、彼らの仕事任務を確認し、
誓いを立てる事を義務付けられた、と。

ただ問題は、その並外れた仕事を成し遂げる方法を、誰も知らなかった!
という事なのでした。

考えてみると、恐ろしい事で、ははは。 と、今は安心して笑えますがね。



こうして1418年に、クーポラの基部のドラムの建設が完了すると、
聖堂建設工事を完了する為のコンクールが開催され、著名な2人が、
ロレンツォ・ギベルティ・Lorenzo Ghibertiと、フィリッポ・ブルネレスキ・
Filippo Brunelleschiが挑戦を。 


1418年ブルネレスキは41歳、有名な金細工師で、彼は1377年に、
彼の父親も参加しフィオラヴァンティのプロジェクトに賛成投票した10年後に
生まれ、彼の家は大聖堂建設現場の真正面にあり、

建設途上の聖堂の影が徐々に大きくなり、未知のドーム・モデルの前での
彼の子供時代と青春を想像するのは難しい事ではありませんね。

5-Filippo-Brunelleschi.jpg



1330~1336年の、洗礼堂の3つある扉の最初のは、聖堂の工事監督だった
アンドレア・ピサーノが獲得しており、

1401年のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の北の扉のコンクールには、
ブルネレスキも参加したもののギベルティに負け、

6-Battistero-di-Firenze-XI-XIII-secolo.jpg


友人のドナテッロと共にローマに行き、何度かフィレンツェに戻ったものの、
15年間に渡り勉学に費やします。

1416年から1417年にかけ最終的にフィレンツェに戻り、家に落ち着いて
間もなく、委員会は煉瓦のモデルから始まるデザインを依頼します。


つまりフィオラヴァンティのプロジェクトの実現のためのシステムの確立で、
委員会の選んだ人物の中には、ライヴァルのギベルティも。

つまりこの形まで出来たドゥオーモの、この上にクーポラを架設する事で、

7-d0097427_01125094.jpg

この図を見るといつも、なんとも不思議で、こういう形の時もあった、
というのがとても不思議で!  そう思われません?


考えられる解決策の1つは、木製のセンタリング、または建設中途の壁を
立てておくための中央のサポート・システムの仕様で、

つまり上の図の下側に見える形ですね。



もう1つは、建設場所の下に土を盛り、ドームを置くための90mを超すマウンドを
造る事で、この方法はロマネスクやゴシック様式で既に使用された事があり、
1496年頃には高さ30mのマウンドが、フランスのトロイ大聖堂でも使用されて
いたものの、委員会はこれらの仮説を軽蔑し拒否を。



ブルネレスキは、サポート・システム無しでクーポラを造る非常に異なる
提案をしますが、 このアイディアは、どの様に行われるのか誰も知らなかった為
大きな激論を巻き起こします。

ブルネレスキの手元に卵が見え、これはコロンブスの卵同様の例え話ですね。

8-filippo-brunelleschi-dimostra.jpg


が、彼の秘密の、技術への取り組みを明かさないに決めたにもかかわらず、
彼の名声と、羊毛組合の為の以前の任務での彼の経験が勝利を齎し、

1420年ロレンツォ・ギベルティと仕事を分ける方向で、という条件で彼の
解決策が選ばれますが、が、かってのライヴァルは今や2流の立場に。

同年に、プロジェクトの基本原則を記載した12の覚書が作成され、
それには、構造リングと2重の層の寸法、及び「如何なる支柱なしで」との
クーポラ建設が記載されている物の、再度、工事手順は定義されておらず。

従うべき手順を正確に説明する文書が無い場合、我々が現在知っている事は、
全て観察と事後分析から推測されたものになります。


仕事当初ギベルティの党派は、様々なブルネレスキの提案妨害の戦略で、
フィオラヴァンティの元のプロジェクトの規定に従わなかったと繰り返し非難。
構造上の問題や、十分な窓がない事でも非難されたものの、
それらの意見の違いは、ブルネレスキの違法である事を立証できず、
1426年には、補助構造なしでの作業の継続が承認されます。

1429年に、クーポラの重さにより、いくつかの亀裂が出来、鉄と木でのリングの
補強の必要が生じます。

この木と鉄のリングでの補強が、どこにどのように、というのが、shinkaiには
分からず、どなたか詳しい方、または設計家の方にお尋ねできるチャンスを。

ブルネレスキは建物の抵抗を改善できる新しい円形拝堂の建設を提案
しますが、委員会は承認せずで、

1430年代は経済危機期間で、賃金引き下げや建築資材不足が続きましたが、
にも拘らず工事は続けられ、1436年に教皇の大聖堂での聖別式が出来、

同年、ブルネレスキはクーポラの上のランタン・明り取り、のプロジェクトも
与えられましたが、1446年、彼の仕事の最後を見ずに、69歳で亡くなり、

1471年にランタンの上に金の球と十字架が置かれ、大聖堂が漸くに完成を!



聖堂内の床の大理石模様の整備も16世紀に。

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16世紀にはクーポラ内の壮大な装飾などの新しい工事が行われ、

「最後の審判」を描いたフレスコ画は、ジョルジョ・ヴァザーリ・Giorgio Vasariが
1568年から彼の亡くなった1574年まで描いた後、ヴィンチェンツォ・ボルギーニ・
Vincenzo Borghiniの援けを受け、フェデリコ・ズッカリ・Federico Zuccari
がお終いに。

7-.jpg



大聖堂のまだ完成していない正面壁は、ずっと提案と議論の対象で、

10-facciata.jpg

1587年フランチェスコ1世・デ・メディチの命令で取り壊され、遂に1887年、
5世紀前にジョットにより提案された様式の指示を回復する事を目的とした
ネオゴシックのプロジェクトに基づき再建を。

聖堂の正面壁についてはこちらに
155年前 フィレンツェがイタリアの首都だった時  周辺事情あれこれ
https://www.italiashiho.site/category/26628538-1.html



この図は、世界の有名なドゥオーモの図で、少しでもよく見える様にと
半分にして、縦に並べて見ました。

左から、ローマのパンテオン、クーポラの内側は5層に小さくなる四角の形で、
頂上は約9m直径の円窓が開く。 紀元後。  約10年の建築。

2番目はイスタンブルの、サンタ・ソフィア寺院・博物館。
大クーポラが中央身廊の上に聳え、4本の巨大なミナレットが聳える。
6世紀の建設。  建設期間5年と10か月、クーポラ建設は約2年。

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左、フィレンツェのドウォーモ。 煉瓦作りでは世界で一番大きなもの。
ドゥオモ建設175年、クーポラ建設に51年間。

右、ローマのサン・ピエトロ聖堂。ミケランジェロが1547年に設計し、
彼の弟子ジャコモ・デッラ・ポルタが、教皇シスト5世の元に仕上げを。
建設120年間、クーポラ建設に約5年間。

12-2-le-cupole-piu-grandi-del-mondo_6950098d_1500x1022 - Copia.jpg

右下は、インドのタジ・マハール。インド北方のモグール建築の最高で、
17世紀、サハ・ジャハンの命により建設。 クーポラの建設はトルコの
イスマイル・カーン。 建設16年間、クーポラには約5年間。



所で言い伝えによると、大聖堂の下に、ジョット、アルノルフォ・ディ・カンビオ、
アンドレア・ピサーノ、フィリッポ・ブルネレスキが大聖堂の下に埋葬されている、
という伝説があり、

1972年の発掘で発見されたのはブルネレスキの墓のみですが、
ルネッサンスの偉大な先駆者たちが、彼らの不滅の仕事の傍らに、
彼らも休んでいると考えるのは、ちょっと魅力的ではありませんか?!

そう、やはり不滅というか、魅惑され続ける永遠の凄さがありますものね。

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花のサンタ・マリーア大聖堂 ・ フィレンツェ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466186883.html

フィレンツェ ・ ジョットの鐘楼より
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464151136.html


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・ n.2 花嫁の結婚衣装  1910年代から1世紀間の歴史を振り返り

先回から2回に渡り、1910年代からの花嫁の結婚衣装の変遷を
見て頂いてますが、

現在は結婚式の写真のみならず、ヴィデオもあり、結婚式当日のみの
写真だけでなく、結婚衣装を着けての、式前の記念写真もある、
というか、既に日本ではこれが当たり前になっているのかもですが、

やはり結婚式というのはカップルにとって人生の晴れ舞台ですから、
どういう結婚式にするか、どんな衣装にするか、
そしてこれから先の人生への夢もいっぱい詰まった物ですよね?!

この夢は一般人のみでなく、著名、有名人にとってもきっと同じで、
彼らには加えるにきっと自身の宣伝、という項目もあり、
人々をも羨ましがらせる程のお式、衣装となるのでしょう。

まぁ、それはさておき、今回も年代による結婚式、花嫁衣裳を
ご覧下さいね。
所で先回はモナコ公国のラニエリ公と、ハリウッド女優グレース・ケリーの
1956年の結婚式が最後でしたが、

今回後半を始めるのに、ふっと気が付いたのが、
あれ、イギリスの現女王エリザべス2世の結婚式は?!

第2次世界大戦後であることは覚えていましたので、サイト側の思惑は
ともかく、shinkaiの感覚ではやはり外せませんよね、という事で、

1947年
 11月20日、国王ジョージ6世の長女エリザベス王女と、エディンバラ公爵
 フィリップとの結婚式。 王女21歳  公爵26歳 

 当時はイギリス海軍士官だったものの、ギリシャの王子の地位にあり、
 母親はイギリスのヴィクトリア女王のひ孫にあたり、つまり彼は
 ヴィクトリア女王の玄孫・やしゃご、にあたり、イギリスに亡命帰化しており、
 エリザベスとの結婚後にエディンバラ公爵として授与されたもの。

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結婚衣装は、真珠色の絹に様々な刺繍と多量の真珠が使われており、
積年の為、現在は殆ど黄色に見える状態に。
靴は同じ絹で造られたサンダル!


長いヴェールも美しいので、この写真も。

2-WEEDING70_3.jpg


さて、参考のサイト記事に戻りますが、今回は写真の大きさが上手く揃わずで、
申し訳なく、先にお断りを。

31. 1957年
   ロバート・ワグナーとナタリー・ウッド、美男美女の最初の結婚。
   離婚後、1972年に2人は再婚を!

1957-image-ini-620x465-downonly-1520608393.jpg

彼の顔と名は覚えていますが、映画は・・。 彼女の方は、なんといっても
「ウェスト・サイド・ストーリー」のマリーアが可愛らしかったですねぇ。


32. 1958
   ジェーン・マンスフィールド(巨乳で有名だった!)は離婚後数日で、
   ミスター・ユニヴァース(ボディ・ビル)のミッキー・ハージティと結婚。

33. 1959
   映画「サウンド・オブ・ミュージック」の後、ブロードウェイで
   ミュージカルもデヴュー。 舞台上のフォン・トラップとマリーアの結婚式。

34. 1960
   有名シンガー、エッタ・ジェームスが歌った「アット・ラースト」は、
   世界中の結婚式で好まれている。
こちらで。  https://youtu.be/1qJU8G7gR_g


35. 1961
   ベルリンの街の真ん中に、街を、家族を2分する壁が築かれた。
   花嫁が泣いているのは、彼女の両親がベルリンの街の東側に住み、
   西側での結婚式に参加出来なかったから。

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そう、様々な悲劇がこの壁の両側で起こりました。
そして壁崩壊の時は、1989年11月9日、まるで実況中継みたいに記憶。

蛇足ながら、事件がまるで目の前で起こった様に記憶しているのは幾つかあり、

最初は先回の結婚式のケネディ大統領の暗殺事件の時、1963年11月22日
前日の運動会で学校がお休み、朝寝坊の寝床の中でラジオを聞いている耳に
飛び込んで来た時。
後で知ったのは、ちょうどあの日に太平洋海底に、アメリカとの直通ケーブルが
通った最初のニュースが、ケネディのニュースだったと。

そして、チェルノヴイリの原子発電所事故、1986年4月26日。

その後もあれこれありますが、世界が段々狭くなり、瞬時にニュースが
伝わるようになると、だんだん慣れるのか、鈍くなるのか・・!


36. 1964
   エリザベス・テイラーと、リチャード・バートンの最初の結婚式。
   花嫁は奇抜な黄色の衣装と花の髪飾りで。
   2人は1974年に離婚したものの、1年後に再婚を。

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髪飾りの白い花は、ジャスミン、香りが何とも強く素晴らしい、ではないかな?


37. 1965 
   女優歌手のアネット・ファニセロと、彼女のエージェントの結婚。
   彼女はディズニーの秘蔵っ子だったそう。


38. 1967
   プリシラ・ボーリュー、またはワグナー、21歳、ラス・ヴェガスで、
   王様エルヴィス・プレスリー、32歳 と結婚した時は、
   世界中の若者のハートを打ち砕いたもの。
   ウェッディング・ケーキは3200ドル、現価で言うと約22000ドルと。

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39. 1968
   航空便の需要は1960年代にピークに達し、1968年には最初の
   747ジャンボ・ジェットが運航し始め、新婚旅行にエキゾチックな
   土地に出かけるカップルが急増。


40. 1969
   オードリー・ヘップバーンがイタリア人ドクターのアンドレア・
   ドッティとローマで再婚。
   彼女の衣装の、短いスカートと帽子は60年代花嫁の流行。 

1969-image-ini-620x465-downonly-1520609186.jpg


41. 1970
   70年代の始まり!


42. 1971
   ビアンカとミック・ジャガーの結婚式。 彼女はプリンセス式花嫁衣装を
   拒否し、イヴ・サンローランの上着とスカートで。

1971-image-ini-620x465-downonly-1520609276.jpg



43. 1972
   映画「ゴッド・ファーザー」の最初の場面、コルレオーネ家の娘、
   コニーの結婚式。

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かっての良き時代、イタリア式結婚の雰囲気が良く出ていて、好きな場面。



44. 1973
   エリザベス女王の唯一の女子アン王女と、最初の夫マーク・フィリップス、
   72年のミュンヘン・オリンピック馬術で金メダルの方と。
   花嫁衣装は70年代の典型的なもので、タートル・ネック。

1973-image-ini-620x465-downonly-1520609276.jpg


45. 1975
   70年代の結婚式ナンバーは、エルトン・ジョン、スティーヴィー・ワンダー、
   ジョー・コッカ―、ビートルズ、そしてジャクソン・ファイヴ。
   あなたは何人、何曲、覚えてます?!


46. 1979
   ロッド・スチュワートと、アラナ・ハミルトン、彼女は2度目の結婚。
   彼は現在、サーの称号を。

1979-image-ini-620x465-downonly-1520609276.jpg

shinkaiめは、ロッドの声、歌が大好きで、へへ、ドラマーの打ち込みが
ズンズンと響く彼の歌を聞くと、それだけで浮かれますぅ!


47. 1980
   肩紐は広く、レースと飾りはたっぷり。 過剰な80年代にようこそ!


48. 1981
   レディ・ダイアナ・スペンサー、7月29日イギリス皇太子チャールズと結婚。
   7500万人がTV前で結婚式中継を視聴!
    
1981-img.jpg

いやぁ、結婚式中継もですが、お葬式の中継も多分凄い数の視聴だったと。
花の命は短くて、をそのまま生きた方でしたね。


49. 1982
   ドロシー・ハミルと、ディーン・ポール・マーティンとの結婚。
   レディ・ダイアナの花嫁衣裳の影響が、衣装にも大きなブーケにも。
     
50. 1984   51. 1985
    結婚式、衣装、ウェッディング・ケーキ、すべて大袈裟な80年代。

52. 1986
   セーラ・ファーガソンと、イギリス皇子アンドリューとの結婚。
   長男であるチャールズとダイアナ妃の結婚式ほどではなくとも、
   ヨーク公の結婚は当時はやはり一大エヴェント。
   但し、この結婚は彼女の男で入りで、はは、数年しか持たなかったと。


53. 1988
   トム・ハンクス、リタ・ウィルソンと結婚。 現在まだ幸せにお2人で!

1988-image-ini-620x465-downonly-1520609516.jpg

すっかり貫禄がついた現在のトム・ハンクスですが、この時はまだ
「ビッグ」の童顔が残っていて、懐かしい!



54. 1989
   映画「マグノリアの花たち」の結婚式、ジュリア・ロバーツ。

1989-image-ini-620x465-downonly-1-1520610008.jpg

この映画も素晴らしく、彼女は未だに大輪の花!


55. 1990
   ファッション・デザイナー、ヴェラ・ウォンが、ニューヨークに
   ブティックを開き、最初の花嫁衣裳のコレクション展を開催。

56. 1991
   映画「花嫁の父」リメイク版では、スティーヴ・マーティンが父親、
   母親はダイアン・キートン。 楽しい笑える映画でしたぁ。

57. 1992
   高価なヴィデオ「11月の雨」がリリースされ、モデルのステファニー・
   シーモアは結婚式のシーンで、非対称のミニスカート・ドレスで歴史を作り、
   これは次年にコピーされます。
つまり、ミニの花嫁衣装で、片脚にガーター・ベルト!を。


58. 1993
   女優のマーラ・メープルズと、ドナルド・トランプが結婚。
   90年代の衣装はこの様にずっとシンプルになりますが、と同時に
   このヴェールに見える様に、一点スタイルのタッチが。

1993-image-ini-620x465-downonly-1520610141.jpg

トランプ氏は未だ若く、大統領任期の最後をあの終わり方で、とは、
夢にも思っていなかったでしょうね。



59. 1994
   映画「タイタニック」の主題曲が大ヒットのセリーヌ・ディオンは
   マネージャーのレネと結婚。 ティアラは当時の大流行でしたが、
   まぁ、彼女が選ぶ程には大きくなかったかも。

1994-image-ini-620x465-downonly-1520610011.jpg

「タイタニック」は後半を見ただけで、なぜか前半も、という気が起こらず、
そのまま見ておりませんがぁぁ、やっぱり見るべき?


60. 1997
   90年代、もう一つの花嫁衣装の傾向は、肩紐が大変に細い事。


61. 2000
   ハリウッドのカップルでは成功例として愛されたブラッド・ピットと
   ジェニファー・アニストンの、カリフォルニア州マリヴで7月29日結婚。
   が、数年後アンジェリーナ・ジョリーの登場で離婚に。

2000-image-ini-620x465-downonly-1520610298.jpg


62. 2008
   キャリー・ブラッドショーの結婚は、映画「セックス・アンド・シティ」
   で明らかに。ヴィヴィアン・ウェストウッドのゴージャスなドレスでの
   結婚式は失敗するものの、
   結局、彼女はシンプルなヴィンテージ・スーツでビッグ氏と結婚を。

この映画は大変面白く、興味深く、はは、何度か録画を見直し楽しみます。


63. 2011
   4月29日、世界中の視線がウェストミンスター寺院に集中。というのも、
   イギリス皇嗣ウィリアムと結婚する花嫁ケイトの衣装が最後まで秘密で、
   見た多くの人が、ウィリアムの母、亡くなったダイアナ妃の衣装とは違い、
   モナコ王妃となったグレース・ケリーの衣装を思い出したのでした。
    
2011-image-ini-620x465-downonly-1520610297.jpg


64. 2014
   リアリティショーのスターで現在はメディアの女王キム・カーダシアンは、
   クリス・ハンフリーズと初めて結婚し、数か月後に離婚を。
と読んだものの、何が何やらちんぷんかんぷん。


65. 2014
   ジョージ・クルーニー、ハリウッドの著名独身者は、弁護士のアメールと
   ヴェネツィアでの市民結婚では、ステラ・マッカトニーがデザインの
   シンプルで派手なパンタロン姿、
   教会での式は、オスカー・デッラ・レンタの花嫁衣裳で。

2014-image-ini-620x465-downonly-1520610296.jpg

ステラ・マッカトニーとは、ポール・マッカトニーの娘だそうで、はぁ、無知で。
    

66. 2015
   アメリカの最高裁判所は、2015年6月26日同性間の結婚を認定します。


67. 2015
   ニッキ―・ヒルトンはヴァレンティーノの素晴らしい衣装で、
   ジェームス・ロスチャイルドと結婚を。

2015-image-ini-620x465-downonly-2-1520610495.jpg

はぁ、花婿の姓がロスチャイルドと知っただけで、成る程ぉ、の結婚式ね。



68. 2015
   スエーデン皇太子チャールズ・フィリッポと、民間人の
   ソフィア・ヘルクビストの結婚式が。


69. 2015
   ベアトリーチェ・ボッロメオが、ピエール・カシラギと結婚するのに、
   7日間の祝宴がモンテカルロからマッジョーレ湖に続き、衣装も変わり、
   ここでは教会の式後の披露宴でのジョルジョ・アルマーニ・プリヴェの衣装を。

2015-image-ini-620x465-downonly-1520610496.jpg

結婚式の様子も  15世紀 ミラノの貴族のお遊びは、 ボッロメーオ邸 
http://www.italiashiho.site/archives/20170203-1.html



70. 2016
   花婿ルパート・マードック、85歳、花嫁ジェリー・ホール、59歳、
   彼女はミック・ジャガーの元妻で、衣装はヴィヴィエンヌ・ウェストウッド。
   愛は年齢関係なし、おめでとうございま~す!

2016-image-ini-620x465-downonly-1520610654.jpg

花婿はきっと大金持ちと思い、はは、調べましたら、なんとメディア・
コングロマリットのニューズ・コーポレーション所有の、
世界的メディア王なんだそうで、はい。
これが4度目の結婚で、現在89歳、お元気で~す。


という様な世界の著名人の結婚と、花嫁衣裳についてでしたぁ。
最後が渋い、はは、大人の結婚でお終いに、というのが良かったでしょう?
皆さんも、頑張ってぇ!!


*****

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・ n.1 花嫁の結婚衣装  1910年代から1世紀間の歴史を振り返り

イタリアのクリスマスから年明けにかけての「全土レッド・ゾーン」の規制が
一応6日の祭日で終わり、7日8日とヴェネト州はイエローになりましたが、
明日9日から15日迄、遂にオレンジ・ゾーンに規制されました。

何せ感染者数がイタリアで一番多い程で、ロンバルディア州、エミーリア・
ロマーニャ州、カラーブリア州、シチーリアと共にオレンジに。

イタリア全体の感染者数も2万人台に近い数が続き、死者も減らず、
ワクチン接種者も昨日の段階で50万人を超えたというものの、
良い見通しが立たずの状態が続いています。

日本も東京都を始め3県に緊急事態が発動されたようですが、
どうぞ、めげずに、自衛をしつつ、頑張って行きましょうね!!


*****

人間の愛情表現に関しては、太古より余り変わっていないと思うのですが、
結婚する2人にとって特別な日に纏う、それもとりわけ花嫁の衣装は、
記念の日に何か特別で、唯一である事をも願っているもの、ですよね?!

日本には素晴らしい着物の花嫁衣裳があるので、細部の装飾は違っても
着物自体にあまり変化はありませんが、

西洋における花嫁衣装は、衣装自体の歴史的変化、1910年代の
シンプルでゆったりしたスタイルから、80年代の贅沢過剰へという変遷があり、

今回はその変化を、時代の著名人の結婚式写真70枚で辿った記事
Abiti da sposa, la storia del matrimonio in 70 foto d'epoca
から2回に分けてご紹介を。

ですが、70枚はブログには多すぎるので、
当時の背後事情のご説明を加えながら1回分を20枚ほどに絞り、

皆さんよくご存じの方々が登場されますので、お楽しみを!
ではどうぞ。

1. 1916年
  第1次世界大戦中、顔を合わせた事もなく、ただ手紙で知り合った
  戦場にいる男性との結婚が行われました。
  こうして急いだ結婚の結果は、後にあれこれ問題が起こりましたが、
  これはイギリスのカップル。

1916-image-ini-620x465-downonly-1520606323.jpg



2. 1917
  花嫁の付添人達が同じ衣装を纏う伝統は古代ローマに遡り、
  当時は、なんと花嫁と同じ衣装を纏ったそうで、これは悪霊と、
  花嫁の元彼に対しても、機能する様に、と・・。
   
1917-image-ini-620x465-downonly-1520606325.jpg



3. 1918
  イギリスのヴィクトリア女王は1840年に白い結婚衣装を纏う伝統を開始し、
  20世紀初頭迄ある程度の社会階級の花嫁は白い衣装で結婚を。
  が、貧しい階級の花嫁は第2次大戦が終わり、衣類洗浄が良くなるまで、
  待たねばなりませんでした。
   
1918-image-ini-620x465-downonly-1520606325.jpg

   
イギリスのヴィクトリア女王と、従僕ジョン・ブラウンの・・
https://www.italiashiho.site/article/478780372.html



4. 1919
  第1次大戦の終わりに結婚式の大宴会が広がり始め、経済状態が
  許す人々は、宴会や招待状、花屋への手配の管理を依頼し始め、
  ここに結婚式プランナーの誕生と。

1919-image-ini-620x465-downonly-1520607143.jpg



5. 1920
  当時もっとも有名なカップルに代表されるジャズの時代、作家の
  F.スコット・フィッジェラルドは社交家で作家のゼルダ・セイヤーと、
  1920年4月にニューヨークのサン・パトリック聖堂において、
  僅か8名の招待客の前で結婚を。

1920-image-ini-620x465-downonly-1520606575.jpg



6. 1921
  無声映画女優のナタリー・タルマッジは、偉大なるバスター・キートンと、
  当時のアメリカで流行していた、薔薇のブーケと長いリボンで結婚。
   
1921-image-ini-620x465-downonly-1520606642.jpg



7. 1923
  1920年代典型の花嫁衣装を着た3人のモデル。
  花嫁のヴェールも当時人気のあった帽子クローシュに付けられて。

1923-image-ini-620x465-downonly-1520606643.jpg



8. 1926
  皆さんも良くご存知の映画監督アルフレッド・ヒッチコックの結婚式。
  花嫁は彼の映画助手アルマ・レヴィッレ。

1926-image-ini-620x465-downonly-1520606642.jpg



9. 1928
  最初の全自動カメラは1928年に特許を取りますが、既に19世紀の
  終わりには、裕福なカップルは結婚式の最後に記念写真を撮るための
  カメラマンを希望。
  が、漸くに第2次大戦の終わりになり、フィルムと照明技術の向上により、
  カメラマンが結婚式のすべてに出席するように。

1928-image-ini-620x465-downonly-1520606641.jpg



10. 1930
   ウェディング・ケーキは、アイシングに必要な砂糖が高価だったので、
   当初は豪華な品でした。
   ヴィクトリア女王が、彼女の贅沢な多層のウェッディング・ケーキで
   この傾向を広めたのでした。

1930-image-ini-620x465-downonly-1520606643.jpg



11. 1932
   カップルはいつも彼ら唯一の結婚式を望み、カリフォルニアでは
   水上サーフィンをしながらの結婚式も。

12. 1934
   有名なブライド誌「マリッジ」創刊号には、
   「この様にあなたは結婚する」というタイトルが。
    
13. 1935
   映画「フランケンシュタインの妻」は、女性に結婚を無理強いする
   災いを描いたもの。

14. 1936
   イギリスのテニス・チャンピオンのアイリーン・ベネットは帽子が好きで、
   コートでも、勿論結婚式でも帽子をかぶり。



15. 1937
   イギリス王エドワード8世は、アメリカの離婚女姓ウォーリス・シンプソン
   と結婚する為退位し、1937年6月に結婚。

1937-image-ini-620x465-downonly-1520607424.jpg


n.2 英国王エドワード8世 と ウォーリス・シンプソン 世紀の恋
https://www.italiashiho.site/article/479131814.html



16. 1938
   ロンドンで開催された花嫁衣裳のショーは、何メートルものチュールと
   絹のとても膨らんだスカートで、流行を変えました。
   
1938-image-ini-620x465-downonly-1520607576.jpg



17. 1941
   遺産相続したグローリア・ヴァンダービルトはビヴァリー・ヒルズで
   映画製作者のパット・ディ・チッコと結婚。
   ウェッディング・ケーキの上に乗った人物像は、50年代になり、
   すべてのカップルの慣習となりました。



18. 1942
   16歳のマリリン・モンロー、当時の名はノルマ・ジェーン・ベイカー、
   1942年6月19日家が近くのジェームス・ドハティと結婚。
    
1942-image-ini-620x465-downonly-1520607653.jpg



19. 1943
   素晴らしい女優キャロル・ランディスの結婚衣装。

1943-image-ini-620x465-downonly-1520607651.jpg

   

20. 1945
   第2次大戦が終わり、結婚式ブームが。

21. 1946
    アメリカ・ニュージャージ州、遊園地のメリーゴーランドでの結婚式。



22. 1948
   ニューヨーク・ハーレムにて、ジャズ・スターのナット・キング・コールと
   マリーア・エリントンの結婚式。

1948-image-ini-620x465-downonly-1520607650.jpg



23. 1949
   もう1つのスタイルの変更、より目立つ広いネック・ライン、肩迄の髪、
   ヴェールはもっと短くシンプルに。 と、50年代の到着。



24. 1950 
   18歳のエリザベス・テイラーが、7人の夫の最初であるコンラッド・
   「ニッキー」・ヒルトンと結婚。 ベル・エアーのカントリー・クラブでの
   披露宴は、この年のイヴェントとなりました。
   エリザベス・テイラーは、後にグレース・ケリーの結婚衣装もデザインした
   デザイナーのヘレン・ローズの衣装を。
    
1950-image-ini-620x465-downonly-1520607927.jpg



25. 1951
   ジャネット・リーとトニー・カーティス、50年代ハリウッドの
   「お手本」カップルともいえる2人の結婚証人はジェリー・ルイス!

1951-image-ini-620x465-downonly-1520607927.jpg

ジャネット・リーは、ヒッチ・コックの「サイコ」で、シャワー室で、の彼女で、
トニー・カーティスは長い睫毛のハンサムでしたが、覚えておいでかな?
前に座っているジェリー・ルイスも若いなぁ。



26. 1952
   将来のアメリカ大統領ロナルド・リーガンと、女優ナンシー・デイヴィスの
   結婚は52年間、リーガンが2004年に亡くなるまで続きました。

1952-image-ini-620x465-downonly-1520607927.jpg

ロナルド・リーガンも最初はハリウッドの映画俳優で、若い頃の出演作を一度
見たことがありますが、う~ん、彼は政治家になって良かったかも、はは。



27. 1953
   この年9月のマスコミの関心は全てロード・アイランドで行われた
   J.F.ケネディと、ジャッキィ・ブーヴィエの結婚式に。
   花嫁はレースの幅広い衣装と、祖母のヴェールで。

1953-image-ini-620x465-downonly-1520607926.jpg



28. 1954
   アメリカのCBSテレビは、リアリティ・ショウの先祖に当たる番組
   「花嫁と花婿」を放送し始め、カップルは番組中でライヴ結婚を。
    


29. 1955
   女優オリヴィア・デ・ハヴィランドは、クリスチャン・ディオールの衣装を纏い、
   映画「大使の娘」の撮影を。
   
1955-image-ini-620x465-downonly-1520607928.jpg 

オリヴィア・デ・ハヴィランドは、映画「風と共に去りぬ」のアシュレイの妻
メラニーを演じた方ね。

左の男性は、では、クリスチャン・ディオール氏?



30. 1956
   歴史書にも載る女優グレース・ケリーとモナコの王子ラニエレの結婚。
   ヘレン・ローズのデザインした彼女の衣装は、
   現在フィラデルフィア・芸術博物館に展示中。

1956-image-ini-620x465-downonly-1520608906.jpg

この結婚式については、近日中にブログで見て頂けるよう予定していま~す。
と、ここにちょっぴり宣伝を!

最初はイギリスの結婚式から始まった写真が、あっという間にアメリカに移り、
著名人、映画関係者の結婚模様となり、やはりスターは強いですねぇ。

それにやはり、やはり、花嫁の喜びが伝わる笑顔ですねぇ!


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posted by shinkai at 01:50Comment(0)・欄外

・ 17世紀 ルイ14世のフランスと ヴェネツィア間の「鏡の戦争」

先回はヴェルサイユに宮殿と政府機関を移し、第2の首都とした
太陽王ルイ14世の1日の日程をご紹介しましたが、

ちょうどこの時期、フランス政府とヴェネツィア共和国間に起こった
鏡戦争」についてご案内を。
  
最初ナショナル・ジェオグラフィックのサイトで記事をちらっと読んだ時は、
La "guerra degli specchi" tra la Francia e Venezia
大した問題でないのを大袈裟に書いたんだろう位に、はは、失礼、
と思ったのでしたが、

落ち着いて読んでみると、なんとなんと、かなり深刻な底深い闘争で、
(読むには面白い) 現在で言うとさしずめ「産業スパイ」問題。

それも同業者間では無く、国相手の大産業問題、輸出入の大金が掛かった、
軍隊無し、ただし兵隊は。 戦闘無し、ただし死者は。 大将はおらず、
ただし巧みな戦略対比の駆け引きありで、

「ヨーロッパにおける最初の産業スパイ」の1つと見なされる戦争だったと。

問題、争いを引き起こした「高価な物件」は、当時のヨーロッパ上流階級
において大流行の「ガラスの鏡」! そう、ムラーノ産の「ガラスの鏡」



こちらティツィアーノの「鏡のヴィーナス」 1555年頃 124,5x104,1cm

1-titian_venus_mirror_furs.jpg

現在は「鏡」は特別な物でも何でもないので、考えた事も無かったですが、
改めて考えると、16世紀頃にはこうして重要な絵画モチーフになり得た、
そう、大変に高価なものだったのですねぇ!

ルネッサンス期において、「ガラスの鏡」の質は、製造技術において進展を遂げ、
ガラス表面はかっての薄緑色から透明になり、映る姿も歪まなくなり、
大きさも40cmから50cmにもなったそうで。


そして17世紀になると、ガラス鏡は装飾素材として用いられるようになり、
壁にかけ、反射する事自体が魅力で、
有力、裕福家族のステータス・シンボルという事に!

つまり大きなサイズの鏡は大変に高価で、有名画家の絵に匹敵する程の値で、
これが「鏡に額を付ける」動機でもあったそう。


こちらは古いフランス製の鏡で、

2-antico_specchio_francese.jpg



こちらはヴェネツィア製。

3-specchiera_veneziana_2.jpg



で如何に高価なものであったにしろ、こうした流行には抵抗できず、
宮廷は莫大な金額を鏡購入に支払ったわけで。

で、すべての支払いは、実際にヨーロッパで鏡の独占専売をしていたような
ヴェネツィア共和国に流れ込んだのですね。


実際12世紀からヴェネツィア共和国の、ムラーノ島に集中させた
ガラス製造の発展は著しく、

15世紀にこの島でアンジェロ・バロヴィエール・Angelo Barovierが
考案した、透明度の高い「クリスタル・ガラス」製造も行われるようになり、

16世紀初頭にヴェネツィア政府は「本物のクリスタル、貴重で特異な物
として鏡の製造に弾みをつけ、
ヨーロッパ市場においてドイツとオランダの鏡の競争相手を真っ青に!



17世紀の、豪華な装飾が素晴らしいヴェネツィアの鏡。 

4-specchio-veneziano-riccamente-decorato-xvii-secolo_fbb78a1e_800x800.jpg


ムラーノ島の朝散歩 ・ ヴェネツィア
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/472981774.html

ヴェネツィア観光、 島巡りツァーはいかが?
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/472823808.html

ヴェネツィア ・ ムラーノ島、サン・ミケーレ島
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463330379.html


市場で優位に立つヴェネツィアの鏡製造は、その製造法を隠す事になり、
政府の「10人委員会・コンシーリオ・デイ・ディエチ・国の安全を監督する」は、

8-il-consiglio-dei-dieci-incaricato-della-sicurezza-della-repubblica-di-venezia.jpg

ガラス製造のマエストロたちを守り、製造技術に関するすべてを安全管理し、
競争相手の外国人が盗む事が無い様に、と確認。



コルベールの戦略

一方フランスの見通しは違い、高価貴重なもの大好きのルイ14世が

luigi-XIV.jpg

ヴェネツィアの鏡をどんどん買い込む事に、警鐘を鳴らしたのが



経済省のジャン・バプティスト・コルベール・Jean-Baptiste Colbert
(1619-1683)

5-jean-baptiste-colbert-opera-di-marc-nattier-1676-versailles_3645db67_800x824.jpg



1676年の肖像というには、余りにも若く見えるので、はは、こちらもどうぞ。

6-551px-Colbert-5.jpg

コルベールの目的は、自国に、鏡、陶器、綴れ織りなどの産業を興し、
国王の高級品志向に応えられる高価貴重な品を自国産とし、
外国への莫大な支払いを抑える事。

で、ヴェネツィアのみが質とサイズの要求に応えられる
優秀な鏡製造職人を抱えている事から、
貴重な技術を盗むための産業スパイ作戦を行う事に!


1664年コルベールはヴェネツィア共和国に派遣の外交官ピエロ・ボンシ・
Piero Bonsiに意向を伝え、
幾人かの鏡制作のマエストロに、ムラーノの工房を捨て、
フランスに移住するよう、働きかける様にと。

ボンシは巧みに話を進め、数ケ月間に何人かの職人に、
フランスに連れて行く話を納得させます。

鏡制作のマエストロをフランスに移させる話を容易にするために、
他の秘密機関員や、鏡職マエストロたちも噛んでいた様で、
話しに関わった者たち全てが、どんな危険を冒すのかを自覚しており、

フランス人スパイの説得により逃げる事に、
生きているというより死んだ」様になり、
「真夜中に、24名の全身武装の男達の乗った船で逃げ出し」
まずフェッラーラに到着、そこから馬車でパリに。

到着するや否や、財務大臣コルベールが新しく造っていた工場に収容、
コルベールの個人的友人でもあるニコラス・ドゥ・ノイヤ・
Nicolas du Noyerの指揮の下に。

この工場の位置は、ナショナル・ジェオグラフィックによると、パリ近郊の
サン・アントワン・Saint-Antoineとあり、
もう1つ見つけたPDF記事「ガラス戦争」によると、ラウリ―通り・rue de Reully
とあり、パリ中心より東に同方向、やや近くか遠いの違いで。


このPDFの記事が大変詳しいので、これ以降どちらをも参考に致しますね。

この逃げだした最初のグループ、つまりこの後にも出た訳で!の、
いわば先導者となったのがアントニオ・チメゴット・Antonio Cimegotto、
通称リヴェッタ・Rivetta.


ヴェネツィア共和国がムラーノ島にガラス職人をひと纏めに
移したのは、ガラス工場からの火事を避ける為と、
島だと秘密の技術を持った職人たちが逃げない様に
警備しやすかったから、と言われておりますが、

警察国家としても有名なヴェネツィア共和国ですが、やはりその気で
逃げると、逃げられるのですねぇ!

結局他にも、先に逃げたリヴェッタのグループの職人たちもパリに辿り着き、
総勢で20人程にもなった、というので、これにも驚きですが、
さぞかし大金を払ったのだろうと!

1665年の秋には、ルイ14世自身も工場を訪問し、満足感を現し、
職人たちに多額の褒賞も与えたそうで。



こちらは1687年作の版画  鏡の前の貴婦人。

7-una-dama-davanti-allo-specchio-.jpg



ヴェネツィアの反撃

ヴェネツィアの反応は素早く、フランス宮廷における外交大使ジョヴァンニ・
セグレード・Giovanni Segredoは、即自国政府の10人委員会に
新しい鏡工場のニュースを伝えると共に、
工場では、単に25cmの大きさの鏡しか製造出来ない、残念な最初の
出来具合となっている、と。

とはいえ、泣く子も黙る怖い「10人委員会」、マエストロたちと職人を
なんとしてでもヴェネツィアに戻らせる事に決め、

パリの新しい外交大使マルクアントーニオ・ジュスティニアン・
Marc’Antonio Giustinianに、働きかけるよう伝えます。

雨と鞭の使い分けで、戻る場合には「安全通行証」を、つまり戻れば
処罰は無く、
一方、残された家族、ムラーノ島の個人的知り合いに対する脅迫を。


にもかかわらず、コルベールの守備は早く、秘密裏にヴェネツィアに船を送り、
逃げたマエストロと職人たちの妻と子供をパリに連れてくるのに成功、
こうして10人委員会と国の調査審問官から逃れる事に。

この時点でヴェネツィア共和国は、以後何人をも逃亡を許さない姿勢に。

後コルベールが3人のスパイを送り、ガラスの1面に銀加工して鏡に仕上げる
熟練職人を探させた時、ヴェネツィアの秘密警察は捕まえるのに
スイスのバーゼル迄追跡したそう!


自国政府の意を受け、大使ジュスティニアンが職人たちに働きかけた
最初の成功は、職人たちの間に意見の違いや不和を起こさせ、
また嫉妬の喧嘩などで、リヴェッタは怪我をしたとか。

そして1666年8月、10人委員会は最終解決案、毒を使う、に達します。

彼らの目的は、フランスに逃げた一番優秀なマエストロ中の「リヴェッタ」で、
「彼が倒れれば、皆総崩れに」と。

1666年から1667年1月にかけ、職人が2人不審な状態で死亡し、
解剖により毒殺と判明し、

殺害の恐れから、1667年4月にヴェネツィアの鏡職人たちの
大多数が公的に国の調査官に謝罪を表明、自国に戻ります。


と言う所でナショナル・ジェオグラフィックの記事は、
戦争は終わった」と決着をつけますが、

5年後のヴェルサイユ宮殿の鏡のギャラリーの鏡が、
フランスの工場で造られた事、

そしてその後イタリア人でフランスに帰化したベルナルド・ぺロット・
Bernardo Perottoにより、鋳造方式による大型ガラスの鏡、
2mを超すガラス製造に成功した事が語られますが、

PDFの記事により、大方の職人がヴェネツィアに戻った後の
詳細も知ったので、もう少し続けますね。


フランスの再勝利

1666年2月22日、こうした困難の中から、工場管理のドゥ・ノイヤから
誇りをもってコルベールに「最初のヴェネツィア風鏡が誕生」との知らせが。

一方、この時期のヴェネツィアからの鏡の輸入は、未だかって無かった
278箱にも及ぶ、という国庫にも響くような大出血。

工場の方はもっと困難な時期になり、フランス人労働者とヴェネツィア人との
協同労働の難しさなどもあったものの、なんとか地味な活動を続けており、

そんな中1669年に戻った職人たちが、ムラーノ中の敵対する空気に疲れ、
パリに戻る用意のある事が伝えられ、

工場の方では、フランス人ガラス吹き職人の頑固さが実を結び、
仕事に十分な成果を見せる様になり、残ったムラーノの職人たちとの
共同作業も出来る様になり、

ヴェネツィア産鏡との競争もほぼ17世紀末まで続いたものの、
絶え間ないコルベールの支えで仕事を続けられ、
鏡の品質向上で良い物が、半分の価格で出荷出来るようになったそう。

こうしてこの工場が「ヴェルサイユ宮殿の鏡のギャラリー」を生産する事に!



これは未だかってない大仕事で、70mの長さの部屋、17の窓があり、
その向かいの壁に、窓と同じ大きさの偽の窓があり、それに鏡を入れる仕事で、
鏡の総数306枚。

9-galleria-degli-specchi-nel-palazzo-di-versailles-.jpg

10-viking-rinda-viking-river-81922.jpg


1684年に仕上がった仕事はガラス工場を救ったのみならず、
計り知れない宣伝にもなり、
始めてフランスの工場がヴェネツィアの有名さを超えたものに!!

現在当時のガラスは10枚残っているそうで、
但し当時の鏡の大きさはまだ小さく、1つの窓の17枚のパネルは、
実際には21枚の鏡で出来ており、

当時の吹きガラスで作れるガラス技術の限界である
90cmを超えるものは無かったのですね。


結び

1672年にヴェネツィアからの輸入が禁止されたにも拘らず、1680年代
未だにヴェネツィアの鏡がフランス市場において大きかったものの、

1687年ベルナルド・ペロット・Bernardo Perrot(1640-1709)
イタリアのアルターレ・Altare生まれ、19歳からベルギーに働きに行き、
後に叔父ジョヴァンニ・カステッラーノ・Giovanni Castellanoが
ガラス工房を持っていたヌヴェール・Neversで働き、

フランスに帰化、1668年ルイ14世の「自分の秘密を実現する許可証」を受け、

1687年革新的な板ガラスの製造、溶解したものを鋳型に流す方法を、

これだと薄板の大きなサイズが可能になる方法を発明、紹介。

11-unnamed-600x300.jpg

完全な製造法になるには、何年間かかかったそうですが、

1695年にルイ14世が新しいフランスの鏡工場Saint-Gobainを造った時、
ムラーノ人が働いていた古い工場も合流し、世界的技術を持った
工場となったそうで、
1700年にはなんと2,7mもの鏡が認可されたそう!

いう様な、フランスとヴェネツィア共和国間の「鏡戦争」でした。


今回私めがちょっと感動を受けたのは、
ヴェネツィアからの職人が殆ど国に帰った後、残った者とフランス人職人が
いがみ合いつつ働き、
それでもガラス吹きを頑固に続けたフランス人職人の仕事が何とか
基準線に達し、遂に品質の良い鏡をヴェネツィアの鏡の半分の値で
出荷できるようになった、という所で、

フランス職人の仕事にかける情熱、というか、意地というか、
そうよ、仕事人としての意地はそうでなくてはね、

文句を言いつつ、死の脅迫を受けつつ、それでも一旦来た、
引き受けた仕事を、恐怖を感じながらも続ける意地、心意気!


ほら、日本の時代小説にも、藤沢周平さんの小説に見るような、
そんな同じ心意気を感じ、

shinkaiめの父も若い頃建具師で、子供の頃は家に父が作った鏡台
などもあり、やはり職人同士、私にも職人の血が幾らか、と思い、
話せる内に知ったなら伝えたかった、とも思ったのでした。

2回に渡るヴェルサイユ宮殿、太陽王ルイ14世がらみのお話、
楽しんで頂けてると嬉しいです!


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・ ヴェルサイユ宮殿における 太陽王ルイ14世の1日は

皆さま、新年明けましておめでとうございます!
本年もどうぞ宜しくお願い致します。

今年がどうぞ良い年であるように願いつつ、頑張って参りましょう!

  
さて今年第1回目のブログに少しでも明るい相応しい話題は、と考え、
ヴェルサイユ宮殿における太陽王の1日」というナショナル・ジェオグラフィックの
記事を見つけましたので、それをご紹介致しますね。

そうです、この方、フランスの絶対王権を築いたと言われる「太陽王ルイ14世」
(1638年 - 1715年、在位1643年 - 1715年)ですね。

1-Portrait-of-Louis-XIV-Hyacinthe-Rigaud.jpg

ヴェルサイユ宮殿、パリの南西22k、最初は前王ルイ3世の狩猟の館があったのを、
1661年頃より広大な庭園あれこれとトリアノン宮等の増築、改築が続きますが、
1682年に宮殿と政府を、前の宮殿ルーヴルから移し、つまり第2の首都とし、
ここにルイ14世の王国基本が示された、という事に。

国王44歳、即位後5年。
単に王宮だけでなく、貴族、廷臣、政府関係者、勿論それに仕える者たち、
全てヴェルサイユに住む事を義務付けられ、これも「絶対王権」を築いた一因に。



こちらが1668年、とあるヴェルサイユ城の様子で、

2-1-Chateau-de-Versailles-1668-di-Pierre-Patel.jpg



これが正面玄関、入り口ですね。

2-2-Royal-Palace-of-Versailles-exterior-1.jpg



「ヴェルサイユ」と言うと、広大で豪華な噴水のあるとてつもない大きな宮殿、
というイメージがすぐわきますが、shinkaiは未だ未訪問ですが、へへ、

つまり広大な庭園があるのは、宮殿建物の裏側、というか、北側で。

3-reggia_di_versaille.jpg



こちらが建設第2案というか、右上に(1680-1683)とある様に、
最初の案に変更を加え、王の住居、政府となった時の物。

若草色部分が王のアパート・住まい部分で、その下の赤色が王妃の住まい、
そして上の黄色部分が、多分政府関係の部屋と。

4-1-Grand-Appartement-du-Roi-seconda-versione-.jpg

右上に、Quarta Cappella Reale・第4の王室礼拝所、とあるので、
どうやらあちこち住まいながらの変更もあった様子で。



こちらが現在の図で、礼拝堂も少し離れた位置となっているのが分かります。

4-2-Grand-Appartement-du-Roi-oggi.jpg



こちらが庭園を含めた図で、建物類は右寄り中央に赤線で囲った部分が、
上の図にある当初の建物類で、左右に広大な、まさに広大な庭園が
広がるのが良く分かり、

5-c.jpg

多分これ以外に、狩猟が好きだったルイ14世の為に、
100万平米に渡るという狩猟場があったそう。

と、十字形の運河の東側に、大小のトリアノン宮があり、

今回「絵のブログ」ではこの近くの菜園で働いているイタリア人の若者に
ついて取り上げましたので、この後どうぞご訪問を。


という事でヴェルサイユ宮殿全体のご案内が済みましたので、
本日の主題である「ルイ14世の一日の推移」をご案内致しますね。

王の毎日は、きちんと決められた時間によって進行し、

後に残されたサン・シモン公爵の有名な言葉、
「アルマナッコ(月の満ち欠け、祭日等の記述のあるカレンダー)と、
時計があれば、たとえ300リーグ(1リーグ4-5km)離れていても、
王が何をされているか、確実に知る事が出来ます」と。


王の1日は、8時半に始まります。  こちらが王の寝室で、

6-1-camera da letto del re.jpg

ベッドの傍で警護し、1時間前に起きている第1の従者がベッドに近づき、
「陛下、お時間です」と声をかける事から始まり、

ベッドから出て、洗顔、衣類の着付け、髪を整え(カツラをつけ)、
毎日の祈りの言葉を唱える、これが毎日の儀式で、1時間。

部屋の外には10人程もの廷臣たちが待ち構えているものの、
身分の違いが部屋に入る順番が決められており、

まず皇嗣たちと王の身内、そして大臣、閣僚たち、次が廷臣たち、で
部屋への入り口は全部で6つ!あったそうで。


王に目通り出来るのは情報を伝えたり、恩恵を受けたりの大きなチャンスで、
時に他よりも先に部屋に入れる許しを得られる場合があり、
これは身体機能、欲求を果たすために座る時、

はぁ、「chaise percée」とあり、何かと検索しましたら、「画期的椅子」
つまり椅子の下にオマルを仕込んだ画期的なるものの写真が出て!きゃは、
この身体欲求を果たすのに30分間! 
これは証言によらずとも、「王には儀式以上に、必要なもの」だった訳で。



そして、洗って(これは洗顔のみだったと思うのですが)、衣類を着て、
礼拝堂に向かう前にあったのは、従者たちに靴の紐を結ばせる事。

6-2-rappresentazione-della-conclusione-della-cerimonia-del-lever-du-roi--.jpg



で、shinkaiが心配したのは、起きて後、何も食べずに礼拝堂に
行ったのか?という事ですが、
他のサイトの記事に、「ティザーナ・煎じ薬、茶、を飲む」とあり、納得。

こちらが王の礼拝堂で、礼拝堂行きは毎朝の重要な行事。

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国王が信仰篤いという事を見せる為でもあり、誰もが王に従い行進でき、
礼拝堂に入れ、入る所を見せたり、もありで。
礼拝堂はご覧の様に上下になっており、上の階が宮殿の2階と同階、



つまりこの様で、ここで王は跪き、毎日のミサ、30分間拝聴したと。

9-luigi-xiv-assisteva-alla-messa-da-questo-palco-di-.jpg

年に5回特別な祭日の日に、王は聖体拝受・つまり薄いパンを受け、
この時は下の階に降りて跪き、ミサに参加。

そしてこの日は礼拝堂を出た所で、「皮膚結核の患者に触る」儀式が行われ、
皮膚結核というのは、肺以外の結核症状で、数多い患者が国の各地から
集まり、王の通る道に膝まずき待つのに、王は1人づつに触り、
「王がお前に触る、神よ、治したまえ」と唱えたのだそう。



ミサに行くには、王の部屋の背後にある「大ギャラリー」を抜け、そして
「大アパート」、多分黄色の部屋の幾つかを抜けて行ったのだそう。

10-Galleria delle Grandi Battaglie-2.jpg

そうなんですよね、この様に如何に大きな宮殿でも、城でも、当時は
プライヴァシーが無かったというのか、部屋の外に廊下は無く、
直接に部屋を抜けて行く、という様子だったのですね。



ミサから戻ると、または起きた後にすぐ、この場合はミサは後刻に行われ、
王のサロンに続いてあった会議場に入り、毎日議会があったそうですが、
この部屋は1701年に王の寝室となったそう。

大臣たちはテーブルの周囲に座り、その日の様々な問題について順番に
話したり意見を言ったりで、王は最後に認可や承認を与えたりで
解決したそう。

この画は、科学アカデミーのメンバーたちと王の会見。

11-luigi-xiv-con-i-membri-dellaccademia-delle-scienze-.jpg



そして昼食というか、朝食というか、最初の食事となりますが、

1686年から王はいつも自分の部屋で食事をしたそうで、四角なテーブル、
恒例の決まった「6皿の3コース」を。 これは「小さなコペルト」と呼ばれ、

12-Luigi_XIV_a_pranzo.jpg

13-pranzo del re card-Art-Buffet-Gerome-620x388.jpg

自分の部屋と言っても、公開の、部屋のドアは開けられ、大勢が見つめ、
という状態で!

とにかくヴェルサイユ宮殿においては、フランス人のみならず、外国人も
どこにでも立ち入ることが許され、すべて公開されており、

これによりフランス国の裕福さ、宮殿の豪奢さが外国にも伝わり、
国や宮殿の制度も他国が追従する元にもなったのだそうで。


他のサイト記事によると、王の好みによる食器類は重要で、銀かマヨリカ焼き、
グラス類は透明なヴェネツィア産、ナフキンは様々な形、兎とか犬等に折られ、

フォークは既に何世紀前にイタリアからお輿入れのカテリーナ王妃によって
伝えられたのは有名な話ですが、

ルイ14世はフォークを使わず! 一皿が終わる毎に、濡れたナプキンで指を
拭いたそうで。 となると、あまり熱い料理は出なかった、出せなかったのかも。

王と王妃が一緒に食事をして見せるのは「大きなコペルト」で、
「小さなコペルト」は王妃は時1人で自分の部屋で食べたそう。



もし議会の様子が大丈夫で、午後の予定がない時には王は自由で
庭園に散歩に出かけたり、とにかく園芸が大好きな王様だった様子で、

自分で「ヴェルサイユ庭園を見せる方法」なる本を書き、公開されている
庭園を訪れる民衆に、どこで何を見るかと、花壇や森の見方を書いているそう。

また庭園に彫刻類を置き、眺めるのも大好きで、彼の治世中のヴェルサイユの
庭園には約200体もの彫像があったそう。

これは北の花壇にある、セーヌ河を現す像で、

15-questa-statua-che-rappresenta-la-senna-e-situata-nel-parterre-nord-davanti-alla-grandiosa-facciata.jpg



こちらは、お付きの者、グループに囲まれ、多分狩猟に出かけるルイ14世。

14-sembra-dirigersi-verso-i-giardini-di-versailles-forse-per-una-battuta-di.jpg



もし王が出かける気分にならない時、また天候が良くない時は王宮に留まり、
1693年に拡張された「アパート部」には議会関係の部屋が15室あり、

気分を楽しませ、変化をつける為に様々な絵画が飾られたり、

レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」や、

16-Mona_Lisa,_by_Leonardo_da_Vinci,_from_C2RMF_retouched.jpg

貴石や、その鉢、銀や青銅の小さな彫像、ミニチュアの手稿や、メダル等々が。



ルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ・Marie Thérèse d'Autriche
(1638-1683)スペインからお輿入れの王妃でしたが、ヴェルサイユに移って後
僅か1年で亡くなり、

17-Detail_of_Marie_Thérèse_d'Autriche_by_Nocret.jpg



国王の愛人、公的な愛人もこれ以前から何人か続いており、こちらは有名な
モンテスパン夫人・Françoise de Montespan (1640-1707年)
王のご寵愛の深さに増長し、驕慢で、権力欲の強い女になり凋落したとか。

18-(Madame_de_Montespan)_(at_the_Musée_national_du_Château_de_Versailles).jpg



モンテスパン夫人が生んだ、王との間の庶子たちを愛情深く育て、
その慎み深さからも王の信頼を受け、遂に秘密結婚(1685~1686)に
至った、マントノン夫人・Françoise de Maintenon (1635-1719)

19-maintenon.jpg

1683年頃から、王は午後はマントノン夫人を訪問する事が多くなり、
夫人の人柄の影響は宮廷に大変良く広がったそう。



またこの当時から王は宮廷のメンバー達を週に何度か規則的に招く会、
パーティーを開く様になり、それも公衆が訪問しやすいアパート部で開き、

一般人達も自由にフランス王の生活や、芸術のコレクションへの努力なども
知る事ができ、
招待客たちは王と共有できる特権を楽しみ、規則無しの気晴らしも出来たそうで、
ビリヤード、様々なタイプの遊び、賭博もで、また会話する事、音楽を聞く、
ダンスをする、お菓子を食べるなども。

またこうした会で、ヴェルサイユが占める今までと違った位置を認識させ、
王とその権力について慣れさせる意味もあった様で、
高位貴族たちが不信や警戒を超え、王との絆を深める事にも。

また別の週にはフランス語かイタリア語のコメディ、または悲劇の上演もあり、
オペラ上演よりもずっと多かったと。


1683年からは、10時頃に王の控室において夕食がとられ、「大コペルト」
の「スープ」という決まりの、5コースで!

王族のメンバー何人かは王と同じテーブルに座る事が出来、
豊かな料理の量は王家の富のシンボルであり、王国の健康さの良い印とされ、

ミサに公衆が参加する事が出来たように、部屋の広さからして、いつも
皆が満足する程に入れたわけでは無くとも、これもまた公開の場であり、
音楽が演奏され、45分間に渡る儀式であったと。

ルイ14世は大変な大食漢だったらしく、平常よりも腸が長かったのかも!
とあり、ははは、

夜中に起こりうるかもの「飢え」に備え、従卒は部屋のテーブルの上に、
「応急食」の「冷肉と小さなお菓子」を用意していたそうで!

ヴェルサイユ宮殿の一番の有名所、「鏡のギャラリー」

22-la Galleria degli Specchi-Hall-of-Mirrors.jpg



そしてルイ14世のヴェルサイユにおける1日の最後は、「王のベッド」
文字通り「ベッドに行く時」で、

偶然に光栄にも王にベッド・ルームに入るのを許される廷臣たちがおり、
それはロウソク立てを持って、王が衣類を脱ぐのを手伝う事!で、ははは。


ヴェルサイユの世界、ルイ14世によって定められた組織の確立は、
従順な廷臣たちで構成された単なる政治システムではなく、
フランスの礼儀と政治家の特権的な空間、宇宙であり、

それは多くの外国人観光客や大使たちによって、フランスのみでなく、
ヨーロッパの他の地域にも広まって行った、
王国最高の芸術家たちにより考案作成されたシナリオの、
完全なる展開であった、と。



という所で、「ルイ14世のヴェルサイユ宮殿の1日」も終わりに。

ボンニュイ!  ドゥマン。 

23-210_0.jpg


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