・ 17世紀 ルイ14世のフランスと ヴェネツィア間の「鏡の戦争」

先回はヴェルサイユに宮殿と政府機関を移し、第2の首都とした
太陽王ルイ14世の1日の日程をご紹介しましたが、

ちょうどこの時期、フランス政府とヴェネツィア共和国間に起こった
鏡戦争」についてご案内を。
  
最初ナショナル・ジェオグラフィックのサイトで記事をちらっと読んだ時は、
La "guerra degli specchi" tra la Francia e Venezia
大した問題でないのを大袈裟に書いたんだろう位に、はは、失礼、
と思ったのでしたが、

落ち着いて読んでみると、なんとなんと、かなり深刻な底深い闘争で、
(読むには面白い) 現在で言うとさしずめ「産業スパイ」問題。

それも同業者間では無く、国相手の大産業問題、輸出入の大金が掛かった、
軍隊無し、ただし兵隊は。 戦闘無し、ただし死者は。 大将はおらず、
ただし巧みな戦略対比の駆け引きありで、

「ヨーロッパにおける最初の産業スパイ」の1つと見なされる戦争だったと。

問題、争いを引き起こした「高価な物件」は、当時のヨーロッパ上流階級
において大流行の「ガラスの鏡」! そう、ムラーノ産の「ガラスの鏡」



こちらティツィアーノの「鏡のヴィーナス」 1555年頃 124,5x104,1cm

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現在は「鏡」は特別な物でも何でもないので、考えた事も無かったですが、
改めて考えると、16世紀頃にはこうして重要な絵画モチーフになり得た、
そう、大変に高価なものだったのですねぇ!

ルネッサンス期において、「ガラスの鏡」の質は、製造技術において進展を遂げ、
ガラス表面はかっての薄緑色から透明になり、映る姿も歪まなくなり、
大きさも40cmから50cmにもなったそうで。


そして17世紀になると、ガラス鏡は装飾素材として用いられるようになり、
壁にかけ、反射する事自体が魅力で、
有力、裕福家族のステータス・シンボルという事に!

つまり大きなサイズの鏡は大変に高価で、有名画家の絵に匹敵する程の値で、
これが「鏡に額を付ける」動機でもあったそう。


こちらは古いフランス製の鏡で、

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こちらはヴェネツィア製。

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で如何に高価なものであったにしろ、こうした流行には抵抗できず、
宮廷は莫大な金額を鏡購入に支払ったわけで。

で、すべての支払いは、実際にヨーロッパで鏡の独占専売をしていたような
ヴェネツィア共和国に流れ込んだのですね。


実際12世紀からヴェネツィア共和国の、ムラーノ島に集中させた
ガラス製造の発展は著しく、

15世紀にこの島でアンジェロ・バロヴィエール・Angelo Barovierが
考案した、透明度の高い「クリスタル・ガラス」製造も行われるようになり、

16世紀初頭にヴェネツィア政府は「本物のクリスタル、貴重で特異な物
として鏡の製造に弾みをつけ、
ヨーロッパ市場においてドイツとオランダの鏡の競争相手を真っ青に!



17世紀の、豪華な装飾が素晴らしいヴェネツィアの鏡。 

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ムラーノ島の朝散歩 ・ ヴェネツィア
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/472981774.html

ヴェネツィア観光、 島巡りツァーはいかが?
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/472823808.html

ヴェネツィア ・ ムラーノ島、サン・ミケーレ島
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463330379.html


市場で優位に立つヴェネツィアの鏡製造は、その製造法を隠す事になり、
政府の「10人委員会・コンシーリオ・デイ・ディエチ・国の安全を監督する」は、

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ガラス製造のマエストロたちを守り、製造技術に関するすべてを安全管理し、
競争相手の外国人が盗む事が無い様に、と確認。



コルベールの戦略

一方フランスの見通しは違い、高価貴重なもの大好きのルイ14世が

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ヴェネツィアの鏡をどんどん買い込む事に、警鐘を鳴らしたのが



経済省のジャン・バプティスト・コルベール・Jean-Baptiste Colbert
(1619-1683)

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1676年の肖像というには、余りにも若く見えるので、はは、こちらもどうぞ。

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コルベールの目的は、自国に、鏡、陶器、綴れ織りなどの産業を興し、
国王の高級品志向に応えられる高価貴重な品を自国産とし、
外国への莫大な支払いを抑える事。

で、ヴェネツィアのみが質とサイズの要求に応えられる
優秀な鏡製造職人を抱えている事から、
貴重な技術を盗むための産業スパイ作戦を行う事に!


1664年コルベールはヴェネツィア共和国に派遣の外交官ピエロ・ボンシ・
Piero Bonsiに意向を伝え、
幾人かの鏡制作のマエストロに、ムラーノの工房を捨て、
フランスに移住するよう、働きかける様にと。

ボンシは巧みに話を進め、数ケ月間に何人かの職人に、
フランスに連れて行く話を納得させます。

鏡制作のマエストロをフランスに移させる話を容易にするために、
他の秘密機関員や、鏡職マエストロたちも噛んでいた様で、
話しに関わった者たち全てが、どんな危険を冒すのかを自覚しており、

フランス人スパイの説得により逃げる事に、
生きているというより死んだ」様になり、
「真夜中に、24名の全身武装の男達の乗った船で逃げ出し」
まずフェッラーラに到着、そこから馬車でパリに。

到着するや否や、財務大臣コルベールが新しく造っていた工場に収容、
コルベールの個人的友人でもあるニコラス・ドゥ・ノイヤ・
Nicolas du Noyerの指揮の下に。

この工場の位置は、ナショナル・ジェオグラフィックによると、パリ近郊の
サン・アントワン・Saint-Antoineとあり、
もう1つ見つけたPDF記事「ガラス戦争」によると、ラウリ―通り・rue de Reully
とあり、パリ中心より東に同方向、やや近くか遠いの違いで。


このPDFの記事が大変詳しいので、これ以降どちらをも参考に致しますね。

この逃げだした最初のグループ、つまりこの後にも出た訳で!の、
いわば先導者となったのがアントニオ・チメゴット・Antonio Cimegotto、
通称リヴェッタ・Rivetta.


ヴェネツィア共和国がムラーノ島にガラス職人をひと纏めに
移したのは、ガラス工場からの火事を避ける為と、
島だと秘密の技術を持った職人たちが逃げない様に
警備しやすかったから、と言われておりますが、

警察国家としても有名なヴェネツィア共和国ですが、やはりその気で
逃げると、逃げられるのですねぇ!

結局他にも、先に逃げたリヴェッタのグループの職人たちもパリに辿り着き、
総勢で20人程にもなった、というので、これにも驚きですが、
さぞかし大金を払ったのだろうと!

1665年の秋には、ルイ14世自身も工場を訪問し、満足感を現し、
職人たちに多額の褒賞も与えたそうで。



こちらは1687年作の版画  鏡の前の貴婦人。

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ヴェネツィアの反撃

ヴェネツィアの反応は素早く、フランス宮廷における外交大使ジョヴァンニ・
セグレード・Giovanni Segredoは、即自国政府の10人委員会に
新しい鏡工場のニュースを伝えると共に、
工場では、単に25cmの大きさの鏡しか製造出来ない、残念な最初の
出来具合となっている、と。

とはいえ、泣く子も黙る怖い「10人委員会」、マエストロたちと職人を
なんとしてでもヴェネツィアに戻らせる事に決め、

パリの新しい外交大使マルクアントーニオ・ジュスティニアン・
Marc’Antonio Giustinianに、働きかけるよう伝えます。

雨と鞭の使い分けで、戻る場合には「安全通行証」を、つまり戻れば
処罰は無く、
一方、残された家族、ムラーノ島の個人的知り合いに対する脅迫を。


にもかかわらず、コルベールの守備は早く、秘密裏にヴェネツィアに船を送り、
逃げたマエストロと職人たちの妻と子供をパリに連れてくるのに成功、
こうして10人委員会と国の調査審問官から逃れる事に。

この時点でヴェネツィア共和国は、以後何人をも逃亡を許さない姿勢に。

後コルベールが3人のスパイを送り、ガラスの1面に銀加工して鏡に仕上げる
熟練職人を探させた時、ヴェネツィアの秘密警察は捕まえるのに
スイスのバーゼル迄追跡したそう!


自国政府の意を受け、大使ジュスティニアンが職人たちに働きかけた
最初の成功は、職人たちの間に意見の違いや不和を起こさせ、
また嫉妬の喧嘩などで、リヴェッタは怪我をしたとか。

そして1666年8月、10人委員会は最終解決案、毒を使う、に達します。

彼らの目的は、フランスに逃げた一番優秀なマエストロ中の「リヴェッタ」で、
「彼が倒れれば、皆総崩れに」と。

1666年から1667年1月にかけ、職人が2人不審な状態で死亡し、
解剖により毒殺と判明し、

殺害の恐れから、1667年4月にヴェネツィアの鏡職人たちの
大多数が公的に国の調査官に謝罪を表明、自国に戻ります。


と言う所でナショナル・ジェオグラフィックの記事は、
戦争は終わった」と決着をつけますが、

5年後のヴェルサイユ宮殿の鏡のギャラリーの鏡が、
フランスの工場で造られた事、

そしてその後イタリア人でフランスに帰化したベルナルド・ぺロット・
Bernardo Perottoにより、鋳造方式による大型ガラスの鏡、
2mを超すガラス製造に成功した事が語られますが、

PDFの記事により、大方の職人がヴェネツィアに戻った後の
詳細も知ったので、もう少し続けますね。


フランスの再勝利

1666年2月22日、こうした困難の中から、工場管理のドゥ・ノイヤから
誇りをもってコルベールに「最初のヴェネツィア風鏡が誕生」との知らせが。

一方、この時期のヴェネツィアからの鏡の輸入は、未だかって無かった
278箱にも及ぶ、という国庫にも響くような大出血。

工場の方はもっと困難な時期になり、フランス人労働者とヴェネツィア人との
協同労働の難しさなどもあったものの、なんとか地味な活動を続けており、

そんな中1669年に戻った職人たちが、ムラーノ中の敵対する空気に疲れ、
パリに戻る用意のある事が伝えられ、

工場の方では、フランス人ガラス吹き職人の頑固さが実を結び、
仕事に十分な成果を見せる様になり、残ったムラーノの職人たちとの
共同作業も出来る様になり、

ヴェネツィア産鏡との競争もほぼ17世紀末まで続いたものの、
絶え間ないコルベールの支えで仕事を続けられ、
鏡の品質向上で良い物が、半分の価格で出荷出来るようになったそう。

こうしてこの工場が「ヴェルサイユ宮殿の鏡のギャラリー」を生産する事に!



これは未だかってない大仕事で、70mの長さの部屋、17の窓があり、
その向かいの壁に、窓と同じ大きさの偽の窓があり、それに鏡を入れる仕事で、
鏡の総数306枚。

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1684年に仕上がった仕事はガラス工場を救ったのみならず、
計り知れない宣伝にもなり、
始めてフランスの工場がヴェネツィアの有名さを超えたものに!!

現在当時のガラスは10枚残っているそうで、
但し当時の鏡の大きさはまだ小さく、1つの窓の17枚のパネルは、
実際には21枚の鏡で出来ており、

当時の吹きガラスで作れるガラス技術の限界である
90cmを超えるものは無かったのですね。


結び

1672年にヴェネツィアからの輸入が禁止されたにも拘らず、1680年代
未だにヴェネツィアの鏡がフランス市場において大きかったものの、

1687年ベルナルド・ペロット・Bernardo Perrot(1640-1709)
イタリアのアルターレ・Altare生まれ、19歳からベルギーに働きに行き、
後に叔父ジョヴァンニ・カステッラーノ・Giovanni Castellanoが
ガラス工房を持っていたヌヴェール・Neversで働き、

フランスに帰化、1668年ルイ14世の「自分の秘密を実現する許可証」を受け、

1687年革新的な板ガラスの製造、溶解したものを鋳型に流す方法を、

これだと薄板の大きなサイズが可能になる方法を発明、紹介。

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完全な製造法になるには、何年間かかかったそうですが、

1695年にルイ14世が新しいフランスの鏡工場Saint-Gobainを造った時、
ムラーノ人が働いていた古い工場も合流し、世界的技術を持った
工場となったそうで、
1700年にはなんと2,7mもの鏡が認可されたそう!

いう様な、フランスとヴェネツィア共和国間の「鏡戦争」でした。


今回私めがちょっと感動を受けたのは、
ヴェネツィアからの職人が殆ど国に帰った後、残った者とフランス人職人が
いがみ合いつつ働き、
それでもガラス吹きを頑固に続けたフランス人職人の仕事が何とか
基準線に達し、遂に品質の良い鏡をヴェネツィアの鏡の半分の値で
出荷できるようになった、という所で、

フランス職人の仕事にかける情熱、というか、意地というか、
そうよ、仕事人としての意地はそうでなくてはね、

文句を言いつつ、死の脅迫を受けつつ、それでも一旦来た、
引き受けた仕事を、恐怖を感じながらも続ける意地、心意気!


ほら、日本の時代小説にも、藤沢周平さんの小説に見るような、
そんな同じ心意気を感じ、

shinkaiめの父も若い頃建具師で、子供の頃は家に父が作った鏡台
などもあり、やはり職人同士、私にも職人の血が幾らか、と思い、
話せる内に知ったなら伝えたかった、とも思ったのでした。

2回に渡るヴェルサイユ宮殿、太陽王ルイ14世がらみのお話、
楽しんで頂けてると嬉しいです!


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