暫く前から、フィレンツェのドゥオーモが生誕600年に、というサイト記事。
またそれに関しての逸話が出て、何が書いてあるか知りたく、
時に??となりながら必死に読んでおりますが、へへ、
そうなんだ、600年間フィレンツェの街の中心に存在し続けているんだ、
という感嘆の念と共に、暫くあの美しい姿を見ておらず、いつまた?
という昨今の事情からも、少しでも近しく感じたい、という気持ちもあり、
という感嘆の念と共に、暫くあの美しい姿を見ておらず、いつまた?
という昨今の事情からも、少しでも近しく感じたい、という気持ちもあり、
ブルネレスキがかけたドゥオーモのクーポラ・丸天井屋根架設につき、
大聖堂建設が始まった1296年から120年後にブルネレスキに至った事情が
かなり詳細で興味深い記事を、皆さまにもご案内をと思います。
参考にしたサイトは
Il Duomo di Firenze, un'opera immortale です。
大聖堂建設が始まった1296年から120年後にブルネレスキに至った事情が
かなり詳細で興味深い記事を、皆さまにもご案内をと思います。
参考にしたサイトは
Il Duomo di Firenze, un'opera immortale です。
花の大聖堂のクーポラ建設については、こちらに記事にしており、
クーポラ登頂と、建設のあれこれ ・ フィレンツェのドゥオーモ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466188299.html
クーポラ登頂と、建設のあれこれ ・ フィレンツェのドゥオーモ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466188299.html
これを見て頂けると多少は分かり易いと思うのと、ダブらぬ様、
こちらにはブルネレスキのクーポラ建設迄の経過を主にご案内です。
こちらにはブルネレスキのクーポラ建設迄の経過を主にご案内です。
1296年、フィレンツェの大聖堂の建設が始まった時の建築の監督は
アルノルフォ・ディ・カンビオ・Alnolfo di Cambio(1245頃–1302~1310)
アルノルフォ・ディ・カンビオ・Alnolfo di Cambio(1245頃–1302~1310)
ヨーロッパ各地で普及しているゴシック様式の穏やかなバージョンである
イタリアン・ゴシックの建築家ですが、彼の死後工事は中断に。
イタリアン・ゴシックの建築家ですが、彼の死後工事は中断に。
彼の生地コッレ・デル・ヴァル・デルザにある肖像を。
1330年フィレンツェの政治活動にも強力な力を持つ組合の1つである
羊毛組合の資金提供で、聖堂建設が再開され、
羊毛組合の資金提供で、聖堂建設が再開され、
この時より大勢の現場監督が出ますが、その中には1337年に、ジョットーの
最初の計画による鐘楼建設に着手したアンドレア・ピサーノ・Andrea Pisanoも。
最初の計画による鐘楼建設に着手したアンドレア・ピサーノ・Andrea Pisanoも。
が、1348年にはフィレンツェは激しいペストに襲われ、工事は再び中断。
外国人労働者を加えての建設続行の努力もあったものの、1355年には
側壁と、正面壁の一部のみが完成。
側壁と、正面壁の一部のみが完成。
この年現場監督であったフランチェスコ・タレンティ・Francesco Talennthiが、
主廊の拡張を提案し、計画は2年後に承認を。
主廊の拡張を提案し、計画は2年後に承認を。
図をどうぞ。 一番小さいサンタ・レパラータ・Santa Reparataというのが、
大聖堂の位置にあった古い教会で、それを取り壊し新しい聖堂建設に、で、
大聖堂の位置にあった古い教会で、それを取り壊し新しい聖堂建設に、で、
オレンジ色が、アルノルフォ・ディ・カンビオの案で、
ベージュ色がフランチェスコ・タレンティの案、承認された現在の聖堂の大きさ。
ベージュ色がフランチェスコ・タレンティの案、承認された現在の聖堂の大きさ。
という事で、タレンティが指揮を執りますが、2年後1359年タレンティは、
アルノルフォ・ディ・カンビオが設計した、身廊と外陣の交差部を覆うに相応しい
クーポラを造る、問題に直面し、ジョヴァンニ・ディ・ラーポ・ギーニ・
Giovannni di Lapo Ghiniに道を譲ります。
アルノルフォ・ディ・カンビオが設計した、身廊と外陣の交差部を覆うに相応しい
クーポラを造る、問題に直面し、ジョヴァンニ・ディ・ラーポ・ギーニ・
Giovannni di Lapo Ghiniに道を譲ります。
ギーニは伝統ゴシック様式の、控え壁の肋骨で外側を支えられた薄い壁を備える、
という解決策を提案しますが、
という解決策を提案しますが、
フィレンツェの建築家ネーリ・ディ・フィオラヴァンティ・Neri di Fioravantiは、
北ヨーロッパで使われている外側の支え無し、の案を提案。
北ヨーロッパで使われている外側の支え無し、の案を提案。
彼が想像したのは、石と木の輪の使用で、つまり樽の鉄のタガの様に、
クーポラが横方向への推力を阻むであろう、というもので、
ジョヴァンニ・ディ・ラーポ・ギーニのゴシックの伝統に添った提案とは違う、
ネーリ・ディ・フィオラヴァンティの提案は大きな議論を引き起こしますが、
クーポラが横方向への推力を阻むであろう、というもので、
ジョヴァンニ・ディ・ラーポ・ギーニのゴシックの伝統に添った提案とは違う、
ネーリ・ディ・フィオラヴァンティの提案は大きな議論を引き起こしますが、
1367年聖堂建設委員会は、翼廊の柱を太くする事、そしてドームの直径が
55mに、という条件付きで、ネーリの案を決定。
55mに、という条件付きで、ネーリの案を決定。
想像するに、建設委員会、並びにフィレンツェ人は、やはり従来通りのゴシック、
古いイメージの、控え壁から延びる肋骨で支えられた、というのではなく、
新しいイメージの大聖堂、を見たかったのでしょうね。
古いイメージの、控え壁から延びる肋骨で支えられた、というのではなく、
新しいイメージの大聖堂、を見たかったのでしょうね。
フィオラヴァンティの解決案は2重構造、2つの重ねられた層の構築で、
内部の層は強度が強く、2番目の層は軽く、内部の壁を保護する機能を持ち、
この方式は元々ペルシャの物で、イスラム建築ではとても評判が高かったと。
彼の提案では、8角形のドームを8つの石の部分に分割、高さ91mに達する
高さの、西洋史上最大となる、尖塔ドーム、で、
高さの、西洋史上最大となる、尖塔ドーム、で、
彼は高さ約4mx長さ9mの煉瓦のモデルを工事現場内に具体化し、将来の
工事はこのオリジナルのプロジェクトから外れてはならない事を示しました。
工事はこのオリジナルのプロジェクトから外れてはならない事を示しました。
何となし、クーポラはブルネレスキが設計した形と高さの様に考えていましたが、
実は既にこの時に決められていたのですね。
実は既にこの時に決められていたのですね。
つまりこの1367年というのは聖堂建設にとっては重大な年で、市民投票により
石工と画家による「5人委員会」が選ばれ、ここでプロジェクトが選出され、
工事に掛かる事が出来る訳で、
フィオラヴァンティが煉瓦モデルを工事現場内に築いて見せた、というのも
関連していると思いますし、
関連していると思いますし、
毎年委員会と建築家達は、聖書に片手を置き、彼らの仕事任務を確認し、
誓いを立てる事を義務付けられた、と。
誓いを立てる事を義務付けられた、と。
ただ問題は、その並外れた仕事を成し遂げる方法を、誰も知らなかった!
という事なのでした。
という事なのでした。
考えてみると、恐ろしい事で、ははは。 と、今は安心して笑えますがね。
こうして1418年に、クーポラの基部のドラムの建設が完了すると、
聖堂建設工事を完了する為のコンクールが開催され、著名な2人が、
ロレンツォ・ギベルティ・Lorenzo Ghibertiと、フィリッポ・ブルネレスキ・
Filippo Brunelleschiが挑戦を。
1418年ブルネレスキは41歳、有名な金細工師で、彼は1377年に、
彼の父親も参加しフィオラヴァンティのプロジェクトに賛成投票した10年後に
生まれ、彼の家は大聖堂建設現場の真正面にあり、
建設途上の聖堂の影が徐々に大きくなり、未知のドーム・モデルの前での
彼の子供時代と青春を想像するのは難しい事ではありませんね。
彼の子供時代と青春を想像するのは難しい事ではありませんね。
1330~1336年の、洗礼堂の3つある扉の最初のは、聖堂の工事監督だった
アンドレア・ピサーノが獲得しており、
1401年のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の北の扉のコンクールには、
ブルネレスキも参加したもののギベルティに負け、
友人のドナテッロと共にローマに行き、何度かフィレンツェに戻ったものの、
15年間に渡り勉学に費やします。
1416年から1417年にかけ最終的にフィレンツェに戻り、家に落ち着いて
間もなく、委員会は煉瓦のモデルから始まるデザインを依頼します。
間もなく、委員会は煉瓦のモデルから始まるデザインを依頼します。
つまりフィオラヴァンティのプロジェクトの実現のためのシステムの確立で、
委員会の選んだ人物の中には、ライヴァルのギベルティも。
委員会の選んだ人物の中には、ライヴァルのギベルティも。
つまりこの形まで出来たドゥオーモの、この上にクーポラを架設する事で、
この図を見るといつも、なんとも不思議で、こういう形の時もあった、
というのがとても不思議で! そう思われません?
考えられる解決策の1つは、木製のセンタリング、または建設中途の壁を
立てておくための中央のサポート・システムの仕様で、
つまり上の図の下側に見える形ですね。
もう1つは、建設場所の下に土を盛り、ドームを置くための90mを超すマウンドを
造る事で、この方法はロマネスクやゴシック様式で既に使用された事があり、
造る事で、この方法はロマネスクやゴシック様式で既に使用された事があり、
1496年頃には高さ30mのマウンドが、フランスのトロイ大聖堂でも使用されて
いたものの、委員会はこれらの仮説を軽蔑し拒否を。
いたものの、委員会はこれらの仮説を軽蔑し拒否を。
ブルネレスキは、サポート・システム無しでクーポラを造る非常に異なる
提案をしますが、 このアイディアは、どの様に行われるのか誰も知らなかった為
大きな激論を巻き起こします。
提案をしますが、 このアイディアは、どの様に行われるのか誰も知らなかった為
大きな激論を巻き起こします。
ブルネレスキの手元に卵が見え、これはコロンブスの卵同様の例え話ですね。
が、彼の秘密の、技術への取り組みを明かさないに決めたにもかかわらず、
彼の名声と、羊毛組合の為の以前の任務での彼の経験が勝利を齎し、
1420年ロレンツォ・ギベルティと仕事を分ける方向で、という条件で彼の
解決策が選ばれますが、が、かってのライヴァルは今や2流の立場に。
解決策が選ばれますが、が、かってのライヴァルは今や2流の立場に。
同年に、プロジェクトの基本原則を記載した12の覚書が作成され、
それには、構造リングと2重の層の寸法、及び「如何なる支柱なしで」との
クーポラ建設が記載されている物の、再度、工事手順は定義されておらず。
それには、構造リングと2重の層の寸法、及び「如何なる支柱なしで」との
クーポラ建設が記載されている物の、再度、工事手順は定義されておらず。
従うべき手順を正確に説明する文書が無い場合、我々が現在知っている事は、
全て観察と事後分析から推測されたものになります。
全て観察と事後分析から推測されたものになります。
仕事当初ギベルティの党派は、様々なブルネレスキの提案妨害の戦略で、
フィオラヴァンティの元のプロジェクトの規定に従わなかったと繰り返し非難。
構造上の問題や、十分な窓がない事でも非難されたものの、
それらの意見の違いは、ブルネレスキの違法である事を立証できず、
1426年には、補助構造なしでの作業の継続が承認されます。
構造上の問題や、十分な窓がない事でも非難されたものの、
それらの意見の違いは、ブルネレスキの違法である事を立証できず、
1426年には、補助構造なしでの作業の継続が承認されます。
1429年に、クーポラの重さにより、いくつかの亀裂が出来、鉄と木でのリングの
補強の必要が生じます。
この木と鉄のリングでの補強が、どこにどのように、というのが、shinkaiには
分からず、どなたか詳しい方、または設計家の方にお尋ねできるチャンスを。
分からず、どなたか詳しい方、または設計家の方にお尋ねできるチャンスを。
ブルネレスキは建物の抵抗を改善できる新しい円形拝堂の建設を提案
しますが、委員会は承認せずで、
しますが、委員会は承認せずで、
1430年代は経済危機期間で、賃金引き下げや建築資材不足が続きましたが、
にも拘らず工事は続けられ、1436年に教皇の大聖堂での聖別式が出来、
同年、ブルネレスキはクーポラの上のランタン・明り取り、のプロジェクトも
与えられましたが、1446年、彼の仕事の最後を見ずに、69歳で亡くなり、
与えられましたが、1446年、彼の仕事の最後を見ずに、69歳で亡くなり、
1471年にランタンの上に金の球と十字架が置かれ、大聖堂が漸くに完成を!
聖堂内の床の大理石模様の整備も16世紀に。
16世紀にはクーポラ内の壮大な装飾などの新しい工事が行われ、
「最後の審判」を描いたフレスコ画は、ジョルジョ・ヴァザーリ・Giorgio Vasariが
1568年から彼の亡くなった1574年まで描いた後、ヴィンチェンツォ・ボルギーニ・
Vincenzo Borghiniの援けを受け、フェデリコ・ズッカリ・Federico Zuccari
がお終いに。
1568年から彼の亡くなった1574年まで描いた後、ヴィンチェンツォ・ボルギーニ・
Vincenzo Borghiniの援けを受け、フェデリコ・ズッカリ・Federico Zuccari
がお終いに。
大聖堂のまだ完成していない正面壁は、ずっと提案と議論の対象で、
1587年フランチェスコ1世・デ・メディチの命令で取り壊され、遂に1887年、
5世紀前にジョットにより提案された様式の指示を回復する事を目的とした
ネオゴシックのプロジェクトに基づき再建を。
5世紀前にジョットにより提案された様式の指示を回復する事を目的とした
ネオゴシックのプロジェクトに基づき再建を。
聖堂の正面壁についてはこちらに
155年前 フィレンツェがイタリアの首都だった時 周辺事情あれこれ
https://www.italiashiho.site/category/26628538-1.html
155年前 フィレンツェがイタリアの首都だった時 周辺事情あれこれ
https://www.italiashiho.site/category/26628538-1.html
この図は、世界の有名なドゥオーモの図で、少しでもよく見える様にと
半分にして、縦に並べて見ました。
左から、ローマのパンテオン、クーポラの内側は5層に小さくなる四角の形で、
頂上は約9m直径の円窓が開く。 紀元後。 約10年の建築。
頂上は約9m直径の円窓が開く。 紀元後。 約10年の建築。
2番目はイスタンブルの、サンタ・ソフィア寺院・博物館。
大クーポラが中央身廊の上に聳え、4本の巨大なミナレットが聳える。
6世紀の建設。 建設期間5年と10か月、クーポラ建設は約2年。
大クーポラが中央身廊の上に聳え、4本の巨大なミナレットが聳える。
6世紀の建設。 建設期間5年と10か月、クーポラ建設は約2年。
左、フィレンツェのドウォーモ。 煉瓦作りでは世界で一番大きなもの。
ドゥオモ建設175年、クーポラ建設に51年間。
ドゥオモ建設175年、クーポラ建設に51年間。
右、ローマのサン・ピエトロ聖堂。ミケランジェロが1547年に設計し、
彼の弟子ジャコモ・デッラ・ポルタが、教皇シスト5世の元に仕上げを。
建設120年間、クーポラ建設に約5年間。
彼の弟子ジャコモ・デッラ・ポルタが、教皇シスト5世の元に仕上げを。
建設120年間、クーポラ建設に約5年間。
右下は、インドのタジ・マハール。インド北方のモグール建築の最高で、
17世紀、サハ・ジャハンの命により建設。 クーポラの建設はトルコの
イスマイル・カーン。 建設16年間、クーポラには約5年間。
17世紀、サハ・ジャハンの命により建設。 クーポラの建設はトルコの
イスマイル・カーン。 建設16年間、クーポラには約5年間。
所で言い伝えによると、大聖堂の下に、ジョット、アルノルフォ・ディ・カンビオ、
アンドレア・ピサーノ、フィリッポ・ブルネレスキが大聖堂の下に埋葬されている、
という伝説があり、
アンドレア・ピサーノ、フィリッポ・ブルネレスキが大聖堂の下に埋葬されている、
という伝説があり、
1972年の発掘で発見されたのはブルネレスキの墓のみですが、
ルネッサンスの偉大な先駆者たちが、彼らの不滅の仕事の傍らに、
彼らも休んでいると考えるのは、ちょっと魅力的ではありませんか?!
ルネッサンスの偉大な先駆者たちが、彼らの不滅の仕事の傍らに、
彼らも休んでいると考えるのは、ちょっと魅力的ではありませんか?!
そう、やはり不滅というか、魅惑され続ける永遠の凄さがありますものね。
花のサンタ・マリーア大聖堂 ・ フィレンツェ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466186883.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466186883.html
フィレンツェ ・ ジョットの鐘楼より
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464151136.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464151136.html
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