・ アウシュヴィッツのタトゥー係  1月27日ホロコースト記念日に寄せて

毎年1月27日は、ナチス・ドイツの殲滅作戦によるホロコースト、

600万人によるユダヤ人、そ例外にロマ人、ジプシー、知的に遅れた人々、
政治犯、同性愛者などが絶滅収容所に送られ、命を奪われた人々を、
ロシア軍によりアウシュヴィッツ・Auschwitzの収容所が解放された
1月27日を、2005年国連で「ホロコースト記念日」と定めたものと。

暫く前に読んだサイト記事に
「アウシュヴィッツのタトゥ―係・ラリー・ソコロフの愛と秘密」があり、
Il Tatuatore di Auschwitz: l’Amore e i Segreti di Lale Sokolov
 
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全世界で大ヒット、日本でも既に翻訳出版され反響を呼んでいるというので、
まだご存知の無い方、読んでおられない方に、かくいうshinkaiもですが、
感動を呼ぶ彼ら2人のお話をご紹介致しますね。


イタリア、ヨーロッパに住むようになり、如何にナチによるホロコーストが
大きな傷跡を残したかが身に迫り良く分かり、
が、それも年月と共に薄れ始めている事もあり、「忘れてはならない事!」
として、この記念日は存在していると思います。

記憶の日 ・・忘れないために!  1月27日
https://www.italiashiho.site/archives/20180126-1.html

ヴェネツィアのゲットー ・ 追悼の日に寄せて
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463740335.html

ジョルジョ・ペルラスカ ・ 「追悼の日」1月27日に寄せて
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461060318.html

イタリア唯一の絶滅収容所 ・ リジエーラ・ディ・サン・サッバ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461762321.html


日本のサイトでは「強制収容所」という言葉になっていますが、
「強制収容所」と「絶滅収容所」とでは意味が違い、
「絶滅収容所」とは、「収容者を殺害するのが目的」だった収容所、
つまりガス室があった収容所を指します。



ラリー・ソコロフ・Lale Sokolov、落ち着いた外見の底に、50年以上に渡り、
重く耐えがたい秘密を自分の内に秘め、
他人には、自分の唯一の息子にも話さずに過ごし、

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2003年、愛し続け、秘密を分かち合って来た最愛の妻が亡くなった後、
漸くにあの恐ろしかったナチの絶滅収容所の経験、

ユダヤ人であった為に拘留され、死と隣り合わせ、自分の存在を無くす恐怖と共に、
彼の人生でもあった女性ジゼーラ・フルマノーヴァ・Gisela Fuhrmannova、
愛称ジータ・Gitaとの出会い、について語る事を決めたのでした。

アウシュヴィッツ絶滅収容所の入り口。

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彼がアウシュヴィッツで「番号32407」に変わる前の名は、
ルートヴィヒ・「ラリー」・アイゼンバーグ・Ludwig “Lale” Eisenberg.
1916年にスロヴァキアの小さな町で、両親ともユダヤ人家庭に生まれます。


40年代の初めドイツ軍が、ユダヤ人一家から少なくとも1人、働きに出る事を
要求した時、彼は男兄弟のうちで1人だけ結婚しておらず、
自分が出る事で家族は大丈夫だろうと思い、応募し出発します。

26歳、家族から離され、家畜の様に運ばれ、初めはチェコ・スロヴァキアの
プラハに、そしてアウシュヴィッツに。



地図を。 アウシュヴィッツはクラコヴィア・Cracoviaの西にある
オスヴェインチム・Oswiecimの事で、他の国との関係もどうぞ。

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ラリーが知らずに運ばれたアウシュヴィッツは、ナチの絶滅収容所の最大の物で、
ビルケナウ・Birkenauも含まれるたくさんの他の収容所と一体となっており、

ここに連行され収容された多くの人々が、人間としてのアイデンティティを失い、
命も失ったのでした。

写真上部がアウシュヴィッツ建物群のメイン部で、下に長くバラックが続きます。

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収容者は左腕に番号を刺青され、それにより存在を確認されましたが、

こちらが彼の名と番号が記された書類、と、刺青された左腕。

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この「番号を刺青」執行は、唯一アウシュヴィッツで行われたもので、
というのも余りにも犠牲者数が多く、死後に存在確認をするのが難しく、
採用されたものだそう。

悪名高い囚人を運ぶ列車が到着し、仕事に向かないと判断されると、
名前を記録する事もなく、勿論刺青される事もなく、
直接ガス室に送り込まれたと。


腕に囚人番号を刺青は、どこの収容所もと思っていたのでしたが、
アウシュヴィッツのみだった、というのは初めて知りました。 


ラリーは到着後新しいバラックの建設に働かされますが、暫く後チフスになり、
死にそうな彼が他の遺骸と共に堀・墓に投げ込まれそうになった所を、
フランス人囚人医者で、新着者に刺青を施していたドクター・ぺパン・Pepan、
ラリーの腕に32407の番号を入れたドクターに助けられます。

助けられた彼は刺青の技術を習い、ぺパンの代わりに働くようになります。
というのも、後にぺパンはどうなったのか分からずのままに姿を消し、
フランス語、ロシア語、そしてドイツ語を話すラリーが仕事を受け継ぎ、
相手の目を見る事なしに刺青仕事をこなします。


生き延びる為には、頭を低く、口を閉じ、問題を起こさない事を学びますが、
一方この役割にはいくらかの特権もありました。

つまりSSの政治部門で働くと、食べ物の配給量が多く、彼はこれを他人に分け、
個室も与えられ、刺青の仕事がない時は自由時間を持つことができ、
1人のナチの将校に見張られているとも、守られている状態。

が、「死の恐怖」は拘禁が続いている間中、常に忘れる事は無く、
とりわけ悪名高い死のドクター、ヨセフ・メンゲル・Josef Mengeleに
怒鳴られる事から逃れられず、恐怖に慄きつつ。


1942年7月、まだぺパン医師の助手をしていた時、既にあった刺青が薄れ、
もう一度し直すために彼の前に1人の少女が現れ、
彼は視線をあげ目を見た途端に彼女に恋を。

「番号34902」をジータの腕に刺青した時、自分の心にも刺青した様な
印象を受け、漸くに知った事は、彼女はビルケナウのキャンプに収容との事。

彼は幾人かのSSの看守に共謀者を見つけ、彼女との手紙交換を始め、
何度かの秘密の逢瀬も!


なんと! こんな事が出来たのは、きっと囚人とはいえ特殊な位置にあり、
一般の囚人ではなかったからでしょうねぇ、払いもしたでしょう、ね。

大変に美しい笑顔の彼女で驚き! これは彼ならずとも、ね。

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1945年初め、既に戦争は負けたと明らかになり、ナチスはアウシュヴィッツの
囚人たちを他の収容所に送り始め、こうしてラリーとジータは離れ離れに。

彼はマウントハウゼン・Mauthausenに送られ、彼女の運命を知らずのままに、
戦争は終わり、ラリーは家に帰ります。

が、家族の中で唯一姉が生きている事を知るものの、他の家族については
何も分からず、両親共にあのアウシュヴィッツで、到着後一日も経たずに
即ガス室に送られ亡くなった事も当時は分かりませんでした。


ジータを探し出す為にラリーは、収容所生活を生き延びスロヴェキアに
戻る人々が集まるブラティスラバ・Bratislavaに行き、
2週間の間、彼女を死なせない希望のみで、動転している人々の間を
探し求めます。

そして誰かが「赤十字に行って見たら」という助言を授け、行く途中、
彼の荷車と、若い見知った女性とがすれ違い、
なんとあのアウシュヴィッツの地獄を照らしていた目を持ったジータ!

夢も何も持てず、「将来」という言葉が無意味に思える場所で、
彼女と一緒なら未来を夢見る事が出来た、そのジータとの再会だったのですね。

1945年10月 2人は結婚を。

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が、まだ苦しみは終わらず。  というのも、既にロシアが占領していた
チェコスロヴァキアでは問題が少ないかと考え、2人は「ソコロフ」の姓を
名乗ったのでしたが、

イスラエル国建国の為に献金を送った事から収監され、
彼らの布の店が国から検閲を受けた時、2人はチェコスロヴァキアから
オーストラリアのメルボルンに逃げ、漸くに新しい生活が。

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その後何年もの間、地獄の記憶を2人で分け合いつつ、愛し合いますが、
収容所での飢えと虐待を受けたジータの体は子供に恵まれず。

が、1961年まるで奇跡の様に、彼らの人生を結び付けた極限の愛の証人の様に、
思いがけずの1人息子ゲリー・Garyが誕生。

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とはいえ、出会い、恋に落ちた時、場所の恐怖を忘れず、
ラリーは1度もヨーロッパに戻らず、ジータは僅か数回戻ったのみ。

ラリーは誰にも自分がアウシュヴィッツのタトゥ―係であった事を打ち明けず、
決して和らぐことの無い、罪の意識の重荷を背負いつつ、
またナチへの協力者と見なされる事を恐れたのでした。

カメラの前、年を取り、にこやかで元気な2人の姿にホッとしますね。

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彼らの人生の真実と愛情の物語からラリーが解放されたたのは、
2003年に妻ジータが亡くなって後で、

ラリーは2003年から2006年にかけて亡くなったと。



この本の著者ヘザー・モリス・Heather Morrisは、2人の話を
ルートヴィヒ・アイゼンバーグ(ラリーの本名)から聞き、
始めは映画の脚本にするつもりだったのが、
「アウシュヴィッツのタトゥ―係」の本となり、2018年初頭に出版と。

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なんとも重い話で、2人が極限状態の中で出会い、お互いに惹かれ、
生き残り、戦後に再会結婚。
が、ヨーロッパの状況は2人を安静には暮させず、遂に遠いオーストラリアの
メルボルンに逃れる。

子供にも恵まれ、生活は安静になったものの、それでも心の傷から離れられず、
というのが、読む者にも辛いですね。

アウシュヴィッツ絶滅収容所でタトゥ―係だったので、ある意味幸運、
恋した女性にも会え、戦後の生活も何とか順調に、「運が良かった2人」と
思いますが、やはり一生涯付きまとう陰、苦しみ、重荷があったのですね。

ちょっと特異なこの本は、やはり一読する価値があると思い
次回のキンデル本注文の時はこの本も、と考えております。


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posted by shinkai at 02:02Comment(0)・欄外