今日はウィーンにある、グスタフ・クリムト(1862-1918)のアトリエ博物館、
画家没後の長い年月を経て修復され、2012年秋から公開されている
アトリエのご案内を。
画家没後の長い年月を経て修復され、2012年秋から公開されている
アトリエのご案内を。

ウィーン西駅から約5kmの位置にある、かっては田園風の美しい公園内に
あったのが、改装され、また第2次大戦後の放棄時を経て後、
あったのが、改装され、また第2次大戦後の放棄時を経て後、
クリムトの絵を愛する人びとのグループが、建物を残すために闘い、
遂に「国の記念物」の指定を受け、オリジナルの図面も見つかった事から
かっての面影を留める様に修復され、現在公開されているののですね。
遂に「国の記念物」の指定を受け、オリジナルの図面も見つかった事から
かっての面影を留める様に修復され、現在公開されているののですね。
参考にしたサイトは
本日、クリムトの唯一生き残ったアトリエが公開 で、2012年9月30日の記事。
本日、クリムトの唯一生き残ったアトリエが公開 で、2012年9月30日の記事。
修復経過について書いてあるのを読みながら、なんとまぁ、大変な
経緯があったものと驚き、よくぞ、よくぞ残ったものと、残すために努力して
下さった方々に感謝したい思いを強く感じました。 少し省略しお伝えを。
経緯があったものと驚き、よくぞ、よくぞ残ったものと、残すために努力して
下さった方々に感謝したい思いを強く感じました。 少し省略しお伝えを。
まずアトリエのある位置ですが、
ウィーン西駅から西に約5kmの位置にあり、分かり易いのは地下鉄4号線の
「Unter-St.-Veit(ウンター・サンクト・ヴァイト)」駅から徒歩で南に。
「Unter-St.-Veit(ウンター・サンクト・ヴァイト)」駅から徒歩で南に。


現在の姿はこの様に白塗りの2階建てですが、

かってはこの様に平屋で、庭に小屋があり、美しい庭に面した建物。

家具生産のヨセフ・ヘルマン・Josef Hermannが借りていたもので、
が、どうやらいつの時か、彼が家の持ち主になった様子で、
その娘がクリムトの友人で、彼に家を借用するよう助言し、
が、どうやらいつの時か、彼が家の持ち主になった様子で、
その娘がクリムトの友人で、彼に家を借用するよう助言し、
クリムトは庭の小屋に手を入れたり、大きな北窓をアトリエ用に開き、
建物の外側を白く塗ったりし、
彼はここで1912年から、亡くなる1918年まで制作を続けます。
建物の外側を白く塗ったりし、
彼はここで1912年から、亡くなる1918年まで制作を続けます。
で、彼の没後、ヘルマン夫人は設計士を雇い、庭に家を建てたり、
元の平屋の家の上に2階を建設したりで、元よりもずっと大きな建物に。
元の平屋の家の上に2階を建設したりで、元よりもずっと大きな建物に。
ですが、1922年に夫のヨセフが亡くなった時にはまだ完成しておらず、
多分経済事情があった様子で、家を建設途中のままで
エルネスティン・ヴェルナー・Ernestine Wernerに売却し、
多分経済事情があった様子で、家を建設途中のままで
エルネスティン・ヴェルナー・Ernestine Wernerに売却し、
じきにエルネスティンは結婚、クライン夫人・Klaeinと。
こうして家は図面通り、クリムトのアトリエの上と周囲にも建て増しの、
バロック様式の大きな建物となります。
バロック様式の大きな建物となります。

が、1938年のオーストリアがナチス・ドイツとの併合の後、クライン一家は
ロンドンに逃亡、1939年には家は押収され、ユダヤ人以外に売却され、
第2次大戦後の1948年、オーストリア政府はクライン家に建物を返却
しますが、被害は大きく、1954年クライン家は政府に少額で売却。
しますが、被害は大きく、1954年クライン家は政府に少額で売却。
家の状態は衰え果て、取り壊しも予想されるほどだったのが、
1957年に政府は学校に使用する事に。
1957年に政府は学校に使用する事に。
この時点で「クリムト」は忘れ去られた状態だったのですが、
60年代になり、ロンドンとニューヨークで「ショー」が開かれ、人々の意識を
目覚めさせることに。
60年代になり、ロンドンとニューヨークで「ショー」が開かれ、人々の意識を
目覚めさせることに。
この2つの大都会で開かれた「ショー」というのがどんなものか分かりませんが、
いずれにせよ、オーストリア内では未だ知られており、建物は
「ヴィッラ・クリムト」と呼ばれてはいたものの、既に「無きもの」同様で、
1998年には限界で、
土地は区画分けされ、アパート用の建物やプロモトーリに売られるか、
老朽化した建物は取り壊し、という様子に。
老朽化した建物は取り壊し、という様子に。
この時になり市民グループが、建物を残すために立ち上がり、
1922年のオリジナル図面、アトリエの様子が正確に分かる図面を見つけ、
クリムトの生きていた時代とは、いくつかの壁が取り壊され、ドアも移され、
窓も変わりと様子が違ていたものの、
建物自体はそのままで、元の様に修復可能という事が分かったのですね。
窓も変わりと様子が違ていたものの、
建物自体はそのままで、元の様に修復可能という事が分かったのですね。

市民グループは「グスタフ・クリムト・メモリアル・ソサエティ」を1999年に
結成、クリムトのアトリエを、画家が使っていた時の姿で残す事、で闘い始め、
2000年に、「オーストリア共和国の、歴史的住居」のリストに掲載を、
少なくとも、家の重要な歴史を公的に認められることに漕ぎつけます。
少なくとも、家の重要な歴史を公的に認められることに漕ぎつけます。
が、まだまだ問題は続き、「政治闘争」という言葉で語られる、
リストからの削除問題、ロシアの開発者に売却問題とかあったものの、
リストからの削除問題、ロシアの開発者に売却問題とかあったものの、
遂に2009年「国の記念物」指定があり、破壊問題から逃れ、
翌年、建物の中に「クリムト博物館」が建物の中に作る案が出来、
政府の経済省が200万エウロの改修費を承認、2011年から工事開始。
翌年、建物の中に「クリムト博物館」が建物の中に作る案が出来、
政府の経済省が200万エウロの改修費を承認、2011年から工事開始。
改修には、同時代の画家エゴン・シーレ・Egon Schieleが残した記述や、
応接室、庭の3枚の写真を参考に、
クリムトの時代の雰囲気にいくらかでも近づける様にと。
応接室、庭の3枚の写真を参考に、
クリムトの時代の雰囲気にいくらかでも近づける様にと。
エゴン・シーレの「ブルーの仕事着のクリムト1913年」

エゴン・シーレがクリムトの亡くなってすぐに残した記述では、
毎年クリムトはフェルドミュールガッセ・Feldmühlgasseにある家の
周囲を花壇で飾り、
何世紀も経た木々や花に囲まれた家を訪れるのは喜びだった。
周囲を花壇で飾り、
何世紀も経た木々や花に囲まれた家を訪れるのは喜びだった。
扉の前にはクリムトが掘った2つの魅力的な頭部像があり、
最初の扉を入ると控室に入り、その左のドアからは居間に続いた。
中央に四角なテーブルがあり、その周囲には日本の版画が纏まって
開かれており、2つの大きな中国の絵があり、
床にはアフリカの彫刻と、窓に近い角には赤と黒の日本の鎧があった。
開かれており、2つの大きな中国の絵があり、
床にはアフリカの彫刻と、窓に近い角には赤と黒の日本の鎧があった。

この部屋から別の2つの部屋に続いており、薔薇の茂みに向いていた。

アトリエには2つのイーゼルに掛かった、クリムトが1917年に描いていた
絵が2枚あり、
絵が2枚あり、

右に、「扇を持った婦人」

左に「花嫁」。 これは未完のままに。

どちらも現在は私的コレクションに入っており、ここのはコピーと。
どちらの部屋の家具もヨセフ・ホフマンの企画によるもので、
殆どが戦争を生き延びたものだそうで。
殆どが戦争を生き延びたものだそうで。
大きな衣装箪笥には、当時クリムトのコレクションである、多量の
アジアの布等があったのが、彼の没後同伴者エミーリエ・フレーゲに渡り、
彼女のアパートは第2次大戦終戦間際の火事の為、損失。
アジアの布等があったのが、彼の没後同伴者エミーリエ・フレーゲに渡り、
彼女のアパートは第2次大戦終戦間際の火事の為、損失。
多分この写真のものと。

他の調度類は現在個人所有で、
1人はアトリエにある、アフリカの椅子を貸しており、
1人はアトリエにある、アフリカの椅子を貸しており、

アトリエの様子を。


多分、こういう様子が他にも続くでしょうし、アトリエの当時の雰囲気を
求めての正確な複製品が作られたり、
求めての正確な複製品が作られたり、
控室のカーペットも、オリジナルのBackhausenの物が、幸いに見本が
記録にあり、作られたり、
記録にあり、作られたり、
2階が博物館となっており、参観者は1910年代の一連の衣装や、
クリムトのデッサンのコピーも見ることが。
クリムトのデッサンのコピーも見ることが。



エゴン・シーレによる記述
どんなものも動かされてはならない。 なぜならクリムトの家の
全てが関連しており、それ自体が芸術なので、壊されてはならない。
全てが関連しており、それ自体が芸術なので、壊されてはならない。
未完成の作品、筆、作業台、パレットには触れてはならないし、
アトリエは「クリムト博物館」として、彼の芸術を愛する少数の
人々の為に公開されるべきである。と。
アトリエは「クリムト博物館」として、彼の芸術を愛する少数の
人々の為に公開されるべきである。と。
画家の若い死から約1世紀を経て、大変な時代だった1世紀を経て、
漸くに、少なくともシーレの結論に至った訳ですね。
クリムト・ヴィッラ ・ Klimt Villa
Feldmühlgasse 11, 1130 Wien, Austria
開館時間 月曜休 火曜~日曜 10時~18時
Tel +43 1 8761125
Tel +43 1 8761125


我がコネリアーノからは、ウィーン迄国鉄で直通で行けるのです。
サイト記事を読み、初めて「クリムトのアトリエ」があるのを知った夜、
夢を見ましたっけ。 いつかね!
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