・ ジューリア・ファルネーゼ  教皇アレッサンドロ6世の愛人の・・

先回の、10世紀ローマの教皇庁を手玉に取り、政治の実権を
握ったというマローツィアのお話に続き、

今回は15世紀ルネッサンス期の教皇、アレッサンドロ6世の愛人として、
「ジューリア・ラ・ベッラ・麗しのジューリア」と呼ばれた美人のお話を。


但しジューリアの場合は、彼女自身が政治の表に立つことはなく、
彼女に魅せられた教皇の引き立てにより、
ファルネーゼ家が一気に隆盛の門口に立ち、権力と富を持つ一家となり、
またその幸運に応えるだけの才を持っていた兄アレッサンドロも
後に教皇パオロ3世になる、という経緯で。


同じ15世紀の美人として有名なシモネッタ・ヴェスプッチ・
Simonetta Vespucci(1453-1476)の肖像は、ボッティチェッリが
彼女をモデルに何枚も「春」「ヴィーナスの誕生」等を描き現在に残りますが、

1-1-Simonetta-Vespucci-Copertina-900x473.jpg



ジューリア・ファルネーゼ・Giulia Farnese(1475-1524)は
美人の誉れが高かったにも関わらず、その肖像画が残っておらず、

こちらはその数少ないうちの1枚、ラファエッロ描く、1505
ジュリアであろうと言われる、作品。

1-2-Dama-Unicorno-Giulia-Farnese.jpg



なぜ彼女の肖像が残らなかったのか、という謎も含め、彼女についての
記事は、こちらを参考に。

ジューリア・ファルネーゼ:教皇ボルジャの愛人は「キリストの花嫁」だった
Giulia Farnese: Amante di Papa Borgia era la “Sponsa Christi”


ジューリアは1475年に北ラツィオ州のボルセーナ湖に近いカポディモンテ・
Capodimonteの生まれで、家は田舎の小さな貴族、彼女の上に
2人の兄、アンジェロと後の教皇アレッサンドロがいて、妹にジローラマ。

彼女の教育は、当時の田舎の貴族女性同様つつましく、
残る3通の手紙の筆跡は殆ど幼いものと。


9歳の時に父親のピエール・ルイージ1世が亡くなり、彼女の母親
ジョヴァンネッラ・カエターニ・Giovannella Caetani、

カエターニの姓から分かる通り、彼女は教皇ボニファーチョ8世なども輩出の
カエターニ家の出身で、

ジューリアがまだ幼い数年前に、父親のピエール・ルイージと枢機卿の
ロドリーゴ・ボルジャの間で交わされた子供の婚約に関しての合意を、

ジューリアとオルシーノ・オルシーニ・Orsino Orsini(1473-1500)
枢機卿の甥であるオルシーニとの婚約の確認を。

こうして1489年5月にジューリアとオルシーノは結婚契約を交わし、
翌年1490年5月、恒例のローマ貴族による華やかな騎馬行進の
儀式が行われ結婚を。

美しい15歳の若き花嫁は結婚の後、花婿の領土である現ヴィテルヴォ
にあるバッサネッロ・Bassanelloに従いますが、

多分この時点で既に、強力な夫の叔父であるボルジャ枢機卿、
若い少女の熱心な愛人でもあるロドリーゴ・ボルジャの許に
通っていたであろうと。

これは1492年8月教皇アレッサンドロ6世となって後の
ロドリーゴ・ボルジャ、お気に入りの画家であったピントゥリッキオの作

2-Alessandro-VI.jpg



ロドリーゴ・ボルジャ・Rodrigo Borgia、教皇アレッサンドロ6世
(1431-1503)はスペイン出身で、母方の伯父カリストゥス3世教皇の
引き立てにより、ボローニャ大学で法学を学んだ後、司教、枢機卿と
なった方で、
ジューリアのオルシーノとの結婚当時、彼は既に59歳!

彼には既に有名な愛人ヴァノッツァ・カッタネイ・Vanozza Cattanei
(1442-1518)との間に4人の子がおり、他にも数人、子供もで、はぁ、

3-Vannozza_Cattanei.jpg


彼女との間のチェーザレ・Cesare(1475-1507) ホアン・Juan、
ルクレツィア・Lucrezia(1480-1519) ゴッフレード(ホフレ)・Goffredoと、
歴史上にも名を残す子供たちがおり、

こうして見るとチェーザレとジューリア・ファルネーゼは同い年だった訳で!

ロドリーゴとヴァノッツァの関係は、ゴッフレードの誕生頃より疎遠に、と
言う事らしいですが、


ジューリアとボルジャ枢機卿との関係は偶然に始まった事ではなく、
多分彼女の母親ジョヴァンネッラと、夫の母、姑のアドリアーナ・ミア・オルシーニ
が、各家の利益を望み、仕組んだことであろうと! 

まさにで、その報酬は即現れ、ジューリアの兄のアレッサンドロは枢機卿に、
オルシーニ家はカルボニャーノ・Carbognanoとヴィニャネッロ・
Vignanello、いずれもヴィテルヴォ県の土地を領土に。

オルシーノ・オルシーニは、オルシーニ家の名にふさわしくない、へへ、
弱々しく鈍く、片目が不自由、戦闘に参加するのを避ける為には何でも、
というタイプだった様で、
妻と教皇との関係には、多分何も言えなかったらしく、気の毒にねぇ、はは。


ジューリアの兄のアレッサンドロ(1468-1549)が枢機卿に任命されたのは
1493年9月の事。
彼は始めローマに出て古文学、歴史、数学、科学の手ほどきを受けるも
芳しくなく、監獄にも入った様子でローマを離れ、

フィレンツェのロレンツォ・デメディチの宮廷に送られ、マルシーリオ・フチーノ、
当時の一流の人文学者に学び、ピコ・デッラ・ミランドラとも知り合い、
当時の一流イタリア貴族出身の若者たち、後の教皇、国王、
枢機卿、芸術家、文学者、詩人たちとの出会いがあり、
後の教皇レオ10世、クレメンテ7世との出会いも。

こうしてローマに戻ったアレッサンドロは教皇インノチェンティ8世に使えますが、
この教皇の亡くなった後跡を継いだアレッサンドロ6世により、
枢機卿に任命されたわけで、

妹ジュリアーナが教皇の愛人である事から、姓になぞり「枢機卿フレニェーゼ」、
フレーニャとはローマ俗語で女性X器を指すそう、というニックネームを。

まぁ、辛い時期であったでしょうが、彼の出来具合も良かったのでしょうね、
次々と昇進を重ね、教皇ボルジャが1503年に亡くなった後も
後継の教皇4代に仕え、家の封土も増えて行き、

遂に1534年教皇パオロ3世として戴冠を。

こちらは、その10年後1543年の、ティツアーノによるパオロ3世の像。

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一代の教皇で終わったボルジャ家と違い、
次々の人物輩出を重ねたファルネーゼ家の隆盛の様子をどうぞ。

n.2 ヴィテルボ ・ サンタ・ローザ ジェズ教会 泉 ファルネーゼ邸
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471536148.html

n.3 ヴィテルボ ・ コンクラーヴェ(教皇選出)なる言葉の始まり、聖堂
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471536593.html

パオロ3世の孫のアレッサンドロ枢機卿の時代の勢力を示す

カプラローラ ・ ファルネーゼ家邸宅のある町
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467764132.html

n.1 ファルネーゼ邸 カプラローラ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467879883.html

n.2 ファルネーゼ邸 カプラローラ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467880189.html

n.3 ファルネーゼ邸 カプラローラ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467880454.html

ここにも   パルマの街 10の 見るべきもの、すべきもの
https://www.italiashiho.site/archives/20181125-1.html

ファルネーゼの大遺産 ナポリ カポディモンティ博物館のご案内ちょっぴり
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468061515.html



ファルネーゼ家の未来について先に述べましたが、またジューリアに戻り、

彼女はローマ滞在中は、ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼーノ枢機卿の館に、
ヴァティカンに近く、生き生きとした知的環境に囲まれ、教皇の娘
ルクレーツィアと一緒に暮らしており、

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1492年についに教皇位に上り詰めたロドリーゴ・ボルジャ61歳は
カトリック教会の絶対的権力を獲得、
一方ジューリアに対する思いは強く、非常識な程の渇望の対象となり、

1493年13歳のルクレーツィアがペーザロの領主ジョヴァンニ・スフォルツァ・
Giovanni Sforzaと結婚しローマを去るのに、

ジューリアと妹、そして姑のアドリアーナ・ミーラが、夫婦を送りがてら
マルケ州に旅立ちますが、
数週間後も教皇の帰ってくるようにという催促にも戻らず、



折も折、ナポリ王国の後継者問題から、相続を主張するフランス王
シャルル8世がイタリアに侵入、徐々に南に下りはじめ、

6-Carlo-VIII.jpg


その心配と、彼女に会いたいのみの教皇は、戻らないと破門に付し、
領土財産もすべて没収する、という脅しの手紙も送りつける様!

そしてジューリアの兄アンジェロ・ファルネーゼが郷里の城で重体に
なった知らせが届き、教皇の怒りに挑戦する様な形で兄の枕元にと
駆け付けますが、既に7月12日(1494年)に亡くなっており、

ジューリアも、やって来た兄のアレッサンドロも寝付いてしまい、
教皇は侍医を送るものの、事態は好転せず、そうこうするうちに秋に。

教皇は苛立ち、脅しの手紙を送り、ジューリアのローマへの帰還を促し、
一方夫のオルシーノも精一杯の誇りで、妻に自分の領土への帰宅を督促。


教皇の脅迫は成功し、遂にジューリアとその妹、姑はローマに向かいますが、
ヴィテルボ近くまで来た所で、教皇が送った30騎の騎士に守られた一行は
フランス軍の前衛軍に取り囲まれ、

30騎の騎士は戦うどころか抵抗も出来ず、これ幸いとフランス軍は
3000ドゥカートの身代金を要求する有様で、ははは、

この時点で教皇はすべての外交手段を通じ、フランス王シャルル8世も
じかに巻き込み、女性達は無事2週間後、12月1日にローマに。


一旦はこうして教皇の元に戻ったジューリアは、誘拐の経験に怯え、
またシャルル8世の南下に恐怖を感じ、兄のアレッサンドロ枢機卿の
援けにより、教皇の知らぬ間に娘のラウラを連れ、ローマから去り、
これ以降2人が会う事は無く、

1503年8月18日に、教皇アレッサンドロ6世は亡くなります。


そうそう、話が遅れましたが、娘のラウラ・Lauraは1492年11月30日生まれ、
夫オルシーノの、はたまたボルジャの娘であるのか微妙で、

ファルネーゼ側は、とりわけ兄のアレッサンドロは彼女が幼い頃より
良き夫を見つけるべく、教皇の娘と、宣伝していた様子で、

が、教皇は常に子供たちに寛大に接していたのが、ラウラに対しては
殆ど何もせず、ただファルネーゼ側の思惑を有利にさせる為に自分は沈黙し、
嘘を通させたのではないかと。


ジューリアの夫、ラウラの父のオルシーノは、1500年に亡くなり、
彼の資産は娘のラウラが受け継ぎ、

ローマを去った後のジューリアの行方は分からずのままだったのが、
教皇が世を去った1503年の末になり、カルボニャーノの城にいたのが明らかになり、

「麗しきジューリア」もすでに30歳、娘ラウラの良き結婚相手探しにローマに。
そして当時絶頂の勢いであったデッラ・ローヴェレ家の二コロ・Niccolò、
当時の教皇ジューリオ2世の、妹の息子と、1505年11月15日に結婚を。


年代記によると、1506年にカルボニャーノの城を、アレッサンドロ6世が
夫のオルシーノに与えたのを継ぎ、
熟練した、しっかりしたエネルギッシュな手腕で、封土を治めたと。


これはルーカ・ロンギの描いた、多分ジューリアであろうという作品

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1509年、ジューリアはナポリ貴族ジョヴァンニ・カぺーチェ・ボッツゥート・
Giovanni Capece Buzzutoと再婚。
1517年10月ジューリア43歳、再度未亡人に。

1522年までカルボニャーノの城に住み、最後ローマに戻り2年間を過ごし、
1524年3月23日48~49歳で、兄のアレッサンドロ枢機卿の館で亡くなり、
これは枢機卿がパオロ3世教皇となる10年前の事と。


という15世紀の「麗しきジューリア」の人生のお話でしたが、
「教皇の愛人」という、流されそうな道を選びながら、いざという時は
しっかりと自分を保ち、すっと立ち去り、兄のアレッサンドロも賢く援け、

田舎の一貴族から身を起こし、ファルネーゼ家の隆盛の緒となった
女性とその兄の生涯で、あれこれ読みながらふ~~む、と。



所で、なぜ彼女を描いた肖像が無いのか、という最初のタイトルに戻りますが、

アレッサンドロ6世は、現在ヴァティカン博物館の「ボルジャの間」に残る
ルクレーツィアの肖像同様に、きっとお気に入りのジューリアの肖像も、
と思われるのがこれで、

ちょっと皮肉を込め「キリストの花嫁」と呼ばれる絵で、
聖母マリーアとキリスト、そして教皇ボルジャが前に膝まづいている様子で、

9-Alessandri-VI-Giulia-Farnese.jpg

但しこの絵はオリジナルのピントゥリッキオの絵をピエトロ・ファッケッティが
模写したもので、余り出来が良いとも思われずの作品で残念。



で推測として考えられるのは、兄のアレッサンドロが、ジューリアが
教皇アレッサンドロ6世の愛人だったから、自分が出世した、と
言われ続けるのを嫌い、憎み、

彼がすべて取り除いた、消し去ったのではないか、というのですね。


確かにそうかも、ですね。 ここ迄見事に確かな肖像画が残らない、
というのは意図しないと無理ですものね。

となると、なおの事、アレッサンドロ・ファルネーゼ、教皇パオロ3世の
見事な手腕も感じ取れるというもので、



最後はこれもヴァティカン収蔵の、ラファエッロの「変容」
一番手前の膝まづく女性が、ジューリア・ファルネーゼだろうと。

10-La trasfigurazione -Raffael_096.jpg


ルネッサンス15世紀の、爛熟したローマの空気に生きた美女のお話、
如何でしたか? こういう消え方も良いと思われません?!


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・ 10世紀ローマ  教皇庁を美貌と色で手玉に取った女性がおったそうな ◆追記

いやぁ、最初ちらっと覗いた時は、美人の色仕掛けに引っ掛かった
ローマ教皇がおったかやと、軽~く考えたのでしたが、

なんとなんと読んでいくとなんとも凄まじい、しかも母親その娘と2代、
それも娘の方が母親以上の権力欲で、自分の美貌を武器に、
という事で、はぁ、

参考にしたサイト記事はこちら
マローツィア:ポルノクラーテの女王
Marozia: la storia della Regina Pornocrate

事情はまるで知らず、ポルノクラーテとは何ぞや、からで、

ポルノは、なんとギリシャ語源で、売春婦、ポルノグラフィー、
クラーテ、やはりギリシャ語源で、権力者 という事で、ふむふむ。
ポルノなる言葉が、この様に歴史を持つ深い言葉とは! ははは。

で、日本語では「ポルノクラシ―」という言葉が当てはまり、使われ、
「娼婦政治」「婦娼政治」などと言われるのだそう。

「ポルノクラシ―」に当たる元の「ポルノクラーテ」なるイタリア語は、
枢機卿で歴史家のチェーザレ・バローニオ・Cesare Baronio(1538-1607)
が作られた言葉で、この方は「教会年代記」を書かれた方と。


今回、事情を確かめる為、また各人物名もそれぞれウィキペディアで
確かめましたが、確かに10世紀前半に起こった事実である事を!

で、上に出た「マローツィア・Marozia」なる女性がこのご本人で、

1-La-storia-di-Marozia-dei-Teofilatti-1.jpg

残念ながら当時の人物像としては教皇様方の肖像は何とかあるものの、
それも年齢などにまるで関係のない、多分後世に描かれた肖像で、
まして一般人などは・・。
この鉛筆による「マローツィア像」も1861年のものと。


10世紀、一般に5世紀から15世紀までを中世とするそうですが、
となると、厳しく暗い中世のど真ん中にあり、

ローマにある教皇庁はカトリックの最高の権威として、人間行動のすべてを
定め決定する場所でありましたが、

枢機卿間の内部対立、貴族の家柄間の陰謀、同盟裏切り、教皇選挙、
凶悪犯罪、破門、クーデターと、すべてが揃っている場所でもあり、
当時の教皇位にあった多くの教皇様方は、華やかさと悪徳、淫らと堕落、と
いう特徴を持ち、


904年1月29日に119代教皇位に就いたセルギウス3世(860頃~911)
戴冠時44歳、も例にもれず。

2-1-Pope_Sergius_III.jpg

ローマから北西に約45kmに位置する、現チェルヴェーテリ・Cerveteriの
司教から教皇になったセルジョ・デイ・コンティ・Sergio dei Contiは
邪悪で容赦のない性格を持ち、強い野心の達成の為にはためらうことなく、

トスカーナの侯爵アダルベルト・Adalbertoが調達した兵と共に
ローマに入り、長老のクリストフォロを倒し、(投獄、殺害)、彼の位置に。

こうした奇襲が成功したのは、侯爵アダルベルトの援助のみでなく、
ローマの強力で影響力を持つ一家テオフィラット・Teofilattoの
支えがあったからと。

テオフィラットの妻テオドーラ・Teodoraは容姿が魅惑的のみならず、
賢く、貪欲で、上院議員・senatrixに選ばれ市内で高く評価され、
この上院議員とは一種の外交特権を与えた称号で、
その上vestaratrix、つまり教会財政の管理者、という権力者。

とはいえ、文盲であったという彼女がこれらの権力を手にしたのは、
恋愛関係を介し、影響力ある人物とのエロチックな政治の闇取引で、

とりわけ新教皇となった夫の従弟でもあるセルギウス3世とは、
夫の知らない不倫関係にあり、 ・・とありましたが、いや、
知っていて知らぬ顔でさせていた、という事だったろうと。

こうしてテオフィラットとテオドーラ夫妻は、ローマで誰もが認める権力を手に。

10世紀当時の教皇庁は、こうして何でもする気の貪欲な貴族たちや、
強力な枢機卿たち、邪悪で好色な教皇たち、美しく淫らな女たちにとって
格好の獲物、狩猟場であったと。


で、904年1月教皇セルギウス3世戴冠式の日、テオドーラとテオフィラットの
当時14歳ほどの大変に美しい娘マローツィアが出席しており、

新教皇が彼女に目を止めるのに母親のテオドーラが気づき、
今迄の自分の引き換えに差し出し、美食家の教皇が捉えた訳で、

主役は替わったものの母親同様、そしてそれ以上に度を越えていた様で、
クレモナの司教リウトプランド・Liutprandoが書き残した記録によると、
「女神の様に美しく、熱情は雌犬の様」と。

教皇は14歳の彼女をラテラーノのアパートに連れてゆき、そこで夫婦の様に
暮らし、大きなスキャンダルを巻き起こしたものの、2人は別に恥も知らず、
彼女の両親は2人の絆から恩恵を受けたと。

こちらは19世紀の、サン・ジョヴァンニ・ラテラーノ聖堂。

2-2-Roma-_San_Giovanni_in_Laterano xix.jpg

このラテラーノのアパートというのは、現在のラテラーノの聖堂のある位置に、
かってローマ期に貴族の豪華な邸宅があり、コンスタンティヌス帝の妻が住み、
多分313年頃にキリスト教徒たちが邸宅を譲り受け、

以降ここに教皇が暮らすようになり、敷地内のバジリカが聖堂に転用されたりで、

後年アヴィニョンからローマに教皇庁が戻って後は、テーヴェレ河沿いの
サンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂に暮らす事になり、
ヴァティカンの教皇宮殿のアパートはその後の事と。



そしてまだ若いマローツィアが妊娠し、大論争を巻き起こすものの、
910年頃に男子が生まれ、ジョヴァンニ・Giovanniと名付けられ、

この子が後の教皇ヨハネ11世に。

3-Ioannes_XI.jpg


一方スポレート公アルベリーコ1世・Albericoとの息子であるという説もあり、
マローツィアがセクシーであると同時に不貞であり、教皇セルギウス3世以外に
複数の関係があったという事で。

アルベリーコの目的の1つのイタリア国王戴冠を、909年に果たし、
多分お腹の子は教皇の子でしょうが、マローツィアとアルベリーコは結婚。

マローツィアは強い勢力の男がお好み。 アルベリーコの様に裕福で、
トスカーナとカメリーノの侯爵、スポレート公、それも正統な跡継ぎを
惨殺して手に入れたもので、中央イタリアに領土を広げ、
となると、分かりますね?


1000年当時のイタリアの地図を。 アドリア海側に広がるスポレート公国・
Ducato di Spoletoと、西に広がる黄色のトスカーナ侯爵領・
Marchesato di Toscanaの広さが良く分かります。

4-Italy_1000_AD-.jpg



セルギウス3世は未練たらたらでも、既にマローツィアの気持ちは離れており、
2年後911年に教皇は死亡、マローツィアが毒を、という疑いも。
というのも、毒を与えるのは、見知らぬ人間では出来ぬからですね。


マロ―ツィアとアルベリーコの間には4人の息子が生まれ、アルベリーコ2世、
コスタンティーノ、セルジョ、そしてデオダートで、
先に生まれていたジョヴァンニも、2人の間の嫡子となります。



セルギウス3世の後、短い期間の教皇が2人続き、
914年3月に122代のヨハネス10世が即位を。


5-Giovanni_X disegno tratto da Franco Cesati, 1861..jpg

この肖像も1861年に描かれたもので、何か難しそうな顔を。

彼もマローツィアの母テオドーラの愛人だったとあり、
夫テオフィラットと様々に画策を。


性格が強く支配的でもあった教皇は、915年12月に神聖ローマ帝国皇帝冠を
戴いたフリウリの、ベレンガーリオ1世侯爵・Berengarioに近づくものの、

様々に変わる中世の政治情勢で、ベレンガーリオは924年4月ヴェローナの
教会で殺害され、イタリアは再度混乱に陥り、

その隙に入り込もうとしたマローツィアの夫アルベリーコは、教皇がそそのかした
民衆の動乱により殺害され。


イタリアの君子達はイタリア王にプロヴァンスのウーゴ・Ugo(ヒュー・Hugues)
を選び、

なぜイタリア王にプロヴァンスから、と質問しないでくださいませませ。
はぁ、勿論彼の経歴も読みましたがぁぁ、読んだ所で頭にすらっと入らぬ程で・・。
ここではshinkaiの書いている、マローツィアに関する事のみを、よろしくぅ!!

◆ 追記 ◆

クリスさんが「イタリア王ウーゴ」についてコメントで教えて下さいましたので、
感謝し、それをご紹介しますと、

家系の上では母方にカロリング朝の血筋をひくので、中部フランク王国の
一地域であるプロヴァンスに所領を有しておりました。
イタリア半島も同じ中部フランク王国の所領ですから、
本人としては相続権を主張する理由があった、

という事なのだそうで、詳細はコメントをどうぞ!

クリスさん、いつも有難うございます!



夫を亡くしてもめげないマローツィアは、イタリア王となったウーゴの異父弟
グイド・Guido、トスカーナ侯爵と結婚し、狡猾な手段で愛と権力を手に。


こうして彼らの敵、結婚に反対した教皇ヨハネス10世を投獄、
枕で窒息させ。

6-Maroiza-Giovanni-X.jpg

恐ろしい目つきで、教皇殺害を見守るマローツィア。
どうしてこんな挿絵が出て來るのか笑えますが、やはりこういうお話は
歴史の中で語り継がれ、絵を見て納得という人々も多かったかと、へへ。


クレモナの枢機卿リウトプランドは語ります。
「テオードラは彼に冠を与えた。 マローツィアは彼から冠を取り、命も」と。

ヨハネス10世の在位は当時の教皇の中では大変に長く、14年2か月。


その後2人の短く弱々しい教皇が続き、勿論マローツィアが選んだ
動かしやすい教皇で、


931年3月ヨハネス11世の名で、彼女の産んだ子が教皇位に就き、
935年12月までの4年10か月を。

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彼も性格が弱く、母親の支配下に置かれ、マローツィアが政治を、
教皇庁の実権を握ります。



929年夫グイドを亡くし再度寡婦となりますが、悲しみに長くは泣かず、
大胆な女性の貪欲な欲望は、亡くなった夫の兄、プロヴァンスと
イタリア王であるウーゴに目を付けます。

が、兄弟は異父同母、つまり教会法では近親相姦に当たるとして
反対されるものの、マローツィアは実の兄弟ではないとでっち上げ、

実子であるヨハネス11世の祝福の下、カステル・サンタンジェロで
盛大な結婚式、祝宴を。

8-Marozia-dei-Toefilatti-4.jpg

が、この結婚は悪い予言の下に始まり、マローツィアが相談した
占星術師は、この日は注意する事、非常に注意するようにと警告し、

結婚に漕ぎつけたものの彼女は用心深く、会場に入る前に招待客
全部の武器を預かり、自分と夫の料理の味見もさせる程に。


アルベリーコ1世、マローツィアの最初の夫アルベリーコ1世との子が、
勇気と不屈の誇り高い性格で美男のアルベリーコ1世は近くの席から、
会場のすべての臨席者に、彼が不満と嫉妬、近親相姦の侮辱的な
結婚をした母親への、花婿への軽蔑を見せており、

夫になったウーゴは、義理の息子アルベリーコを触発し、反応すると
満席の中で平手打ち、という場面となり、
おまけにウーゴは隠していた短剣でアルベーリコの目を突こうと。


淫乱な母親と、それにふさわしい夫に対し激しい言葉を投げつけた後、
サンタンジェロ城から飛び出し、

ローマの人々を呼び集め、彼の心からの反逆と憤慨の叫びは、
既に暫く前からマローツィアに対する恨みと反逆を抱いていた
ローマの街と市民全体に広がり、

「ローマの街の尊厳は、売春婦の政府に従う程の愚かさになったのか!」
という演説は、市民の驚きと称賛を集め、

「売春婦・meretrici」という言葉を、アルベリーコは祖母のテオドーラと
母親のマローツィアに強調して使い、

「1人の女の近親相姦の為に、ローマの市民権全体が破滅するよりも
恥なスキャンダルは一体何なのか?!」と。



こうしてローマの多くの鐘が鳴り始め、市民権を救うように促し、
駐屯中のウーゴの軍隊が城門内に入るのを防ぎ、市民達は突進し、
披露宴会場に襲いかかり、

恐怖に駆られたウーゴは、花嫁を残し城砦からロープを下ろし逃げ出し、

マロ―ツィアは修道院に、カステル・サンタンジェロの牢にとも、閉じ込められ、
人生舞台のまばゆいばかりの光の中にいたのが、永遠に影の中に。

生年月日が正確に分からないのと同様、多分937年だろう
確かな死亡年も分らぬままで、 多分42歳~47歳の死だったろうと。

リウトプランド司教は、マローツィア・デイ・テオフィラッティの人生を
「高位聖職者と枢機卿と一緒に横たわり、統治し、恩恵を受けた
恥知らずの娼婦」と。


実の息子で、彼女の人生を閉じたアルベリーコ2世は、
「解放者」として称賛され、「すべてのローマ人の王子、及び上院議員」に
選出され、市の支配者として、954年に彼の死迄統治を。



という10世紀ローマに起こった、母子2代が教皇庁の政治を引きまわした
「ポルノクラシ―」の時代は、

119代のセルギウス3世教皇時から、マローツィアが権力を失った932年迄、
という見方と、

その後の、アルベリーコ2世の子の、130代のヨハネス12世の時代までの
約60年間を指す、というのと2点あり、

このヨハネス12世がまるで出来の悪い教皇だったのと、

9-GiovanniXII.jpg


アルベリーコ2世がローマ支配を思いのままに、教皇を続けて擁立、
親族からも、という事で、

見方を変えれば、如何にもマローツィアの息子であった、とも!


それにしても、日本史にも何人か政治に加わった女性達がおりましたが、
どうも桁が違うなぁ、という感じで、ははは、イタリア女性は凄いなぁ、
という単純率直な感想を持ちましたが、皆さんは?!


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・ 「ル・シャトレーヌ」をご存知? 宝石、アクセサリーでなく、でも・・

イタリアは、先週土曜にマリオ・ドゥラーギ・Mario Duraghi氏に
よる内閣が組閣され、大統領官邸で各大臣の宣誓が行われ、
今週上院、下院の承認を受けます。

イタリア新首相マリオ・ドゥラーギ氏

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宣誓式と、新しいイタリア内閣 大臣23名、うち女性8名

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大変に真面目な方で、はぁ、余り笑顔が見れないので、これを。

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マリオ氏 73歳  結婚生活47年の奥様はセレーナ・カッペッロ・Serena.
イタリアは夫婦別姓ですが、大変思慮深く、慎み深い方と。



で、首相交代のこの日、首相官邸を去るコンテ氏。
公式には初めて、という婚約者と一緒に手を繋いで去られ、
官邸職員から熱い拍手を。 2年半、良い首相だったと思います。

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政治からは離れないものの、元の大学教授に、フィレンツェ大の法学、
に戻られるそうで、きっといつかまたお顔を、という気がしますが。

56歳、結婚後間もなく離婚し、13歳の1人息子。
こういう記述は、首相になった時に書く事でしたね、へへ。

オリヴィア・パラディーノ・Olivia Paladinoという彼女は
暫く前からゴシップ誌に載っていたみたいで、見たい方はこちらで


*****


今回は先日偶然に見つけた興味深いものをご案内しますね。

ル・シャトレーヌ、腰に吊るした有益な宝石
Le Chatelaine: un utilissimo Gioiello appeso alla Vita
を先に見つけたのでしたが、検索をかけ別の記事も見つけ、

シャトレーヌに触らないで!!
Non toccatemi la Chatelaine!!!

写真を見て頂くと良く分かりますし、少しレトロな感慨も込め、ご案内を。


この絵は1901年に描かれた2人の少女で、左側のピンクの衣装の腰に
下がる3つの物、右に金属製の小さな袋、左に時計、真ん中の物は
何かはっきりしませんが、
黒い紐に金属のピンかな?を付け、細い鎖で下げているのが分かります。

1-Dipinto-Chatelaine.jpg

これがシャトレーヌ・chatelaineと呼ばれ、
とりわけ19世紀に、女性の間に流行った物なのですね。

ほら、かっての時代、と言っても近代の貴族の館とかで働いている、
召使の長である女性管理者が、腰にすべての家の鍵、
食料品庫、棚、寝具類、衣類等などの鍵を下げ管理していて、
用がある時はその鍵を召使に渡し取って来させる、
という場面を小説の中とか、映画の中でも見ますよね。

あれが所謂シャトレーヌの言葉の起こり、つまりフランス語での
「城の婦人・夫人」から来ている言葉で、

時代と共に、この必要なものを腰に下げる便利さから、
ポケットが未だ無い時代に時計、小さな鋏、メモ、ナイフ、等など、
毎日の生活に必要な物を下げた、持ち主にとって親愛な物、だったのですね。

シャトレーヌは中世から使われていたものの、所有者が増え、
男性、女性共に流行したのはヴィクトリア朝時代、
つまりイギリスのヴィクトリア女王の統治時、1837~1901だったそう。

ポケットは14世紀以前には用いられず、袋はとても小さく繊細なもので、
大きく、強い袋は、所謂上流社会の男性、女性には使われずで。

写真をご覧下さいね。

2-La-Chatelaine.jpg

3-La-Chatelaine-4.jpg

4-La-Chatelaine-2.jpg

5-La-Chatelaine-3.jpg

下げられている物は、上記の通り、時計、小さな袋、メモ、鉛筆、鋏、
針ケース、糸、気付けの塩、等など、その持ち主に必要な物ですが、


最後の写真のはどうやら眼鏡ケースの様で、ベルトに挟んで下げる様で、
日本の印籠とか、煙草袋、火付けとか、を思い出しますね。



そうそう、上に家の鍵をすべて預かる家事担当の女性、日本語でなんと
呼びましたっけ? はいわゆる奥の仕事の支配で、

「執事」と呼ばれる男性は、一家の主人の世話、食卓のサーヴィス、
祭りごと、そして訪問客の世話をする係ですね。



こうして日常生活に必要な物、として使われ始めたシャトレーヌですが、
徐々に持ち主の見栄もあり、女性たちの見せかけ、はは、もあり、
宝石ではなかったものが、エレガントなすべて銀製の物となったり、

これは1850~1890の、舞踏会用の物で、小さな鏡、メモ帳、香水瓶、鉛筆、
小さな袋・ハンカチとか小銭用、が下がり、   失礼! 写真添付忘れを

6-Two-Silver-Chatelaines-1850-1890-.jpg



こちらは男性用の物で、右から眼鏡、塩入れ、時計、鉛筆で、
金属面の彫りが薄れる程に良く使い込まれており、

7-chatelaine-maschile.jpg



こちらはやはりヴィクトリア朝時代の、幸せを齎すもの一式!
となると、現在のブレスレットと変わりがありませんね。

8-Victorian-Lucky-13-Charm-Chatelaine-Enamel-Sterling-Silver-Italian-Amulet-.jpg



持ち主が看護婦であると、小さな体温計、錠剤、笛、時計であったり、
縫子であれば、定規、鋏、針ケース、そして指ぬき、
スポーツに出かけるには、点数を書くメモ、鉛筆、という具合で、
服喪の勤め人には、十字架とか、元気をつける錨、ハートなども。

9-vittoriana powXgGN.jpg



これは1750年製の時計で、金製の大変豪華なもの、どなたの物だった?
ヴィクトリア・アルバート博物館収容。

10-ca.1750.-Watch-and-chatelaine-Pyke-John-VA.jpg


という、大変に流行し、様々に使われた日常小物ですが、
19世紀末になると徐々に衰退。

というのも、時の身分解放、自由獲得が女性に齎した急激な変化、
つまりたくさんの物が入り、実用性に富むバッグが現れ、
と共に腕時計の出現、という訳なのでした。



ですがぁ、思いがけない写真も見つけたサイト記事があり、

CHE COSA È LA CHATELAINE E PERCHÉ NON PASSA MAI DI MODA
写真をご覧下さいね。

この女性はロザリンド・ラッセル・Rosalind Russell(1907-1976) 米女優
手首に「特に親しい友人達から贈られたプレゼント」を付けており、はぁ、

11-portrait-of-actress-rosalind-russell-making-a-phone-call-.jpg

こういう使い方もあるのですねぇ、ははは。



と思うと、

アレクサンダー・マックィーン Fall/Winter 2019/2020のモード

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フェンディ  Fall/Winter 2020/2021

13-model-fashion-detail-walks-the-runway-during-the-fendi.jpg



プラダ  Fall/Winter 2020/2021

14-february-20-bag-detail-during-the-prada-fashion-show.jpg


という様に、タイトル通り「モードは決して終わらない」で、
また新しく姿を見せた「ル・シャトレーヌ」なのでしたぁ。


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posted by shinkai at 01:32Comment(0)・欄外

・ ヴァレンタイン・デーもすぐ!  我が愛しの男優たちに愛をこめて

2月14日はヴァレンタイン・デー! 日本では「チョコレートの日」ですが、
イタリアは「愛の日」!!

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ですので、shinkaiから「愛をこめて」、きゃはは、逃げないでぇ!
今回は久し振りに映画、何度も繰り返してみる程に好きな映画、
私の場合は今頃もっぱらDVDですが、最近のお気に入りのご紹介を。



最初は、1930年5月31日生まれというので、今年91歳におなりの
クリント・イーストウッド様! はい、大いなる尊敬をこめ。

ええ、こんな若い頃の、TVの「ローハイド」シリーズに出ていた時から
お知り合いにさせて頂き、

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マカロニ・ウェスタン時代の数々の傑作があり、カラガン警部シリーズがあり、

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映画監督、主演を兼ね始めると、
マディソン郡の橋」  1995  では落涙させられ、はぁ、

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ミスティック・リヴァー」 2003年があり、 これは監督のみ

ミリオンダラー・ベイビー」が続き、 2004  監督出演

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2008年 「グラン・トリノ」  監督と出演

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2012年 「人生の特等席」     なぜこんなタイトルになるんだろ?

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この時も久し振りに彼の様子を見て、あっ、少しお年になったなぁ、と思いつつ、
そのお元気さに安心し、

到底記憶に残る映画タイトルも、全部ここに書き出せませんが、

今回の監督出演映画が

運び屋  2018 米  
 
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 出演  クリント・イーストウッド
     ブラッドリー・クーパー
     ローレンス・フィッシュバーン
     アンディ・ガルシア



園芸家で成功していた彼が、最近のネット販売について行けず没落、

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80歳を過ぎて麻薬の運び屋とし大金を得る様になり、

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それ迄触れ合いの無かった家族ともよりが戻るものの、
最後は・・、というお話。

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相変わらずのひょうひょうとした彼の持ち味は変わらずでしたが、
やはりお年を取ったなぁ、でも、まだまだお元気な姿に安心もさせられ、

お元気で長生きして下さ~い! 生きておられるのが、我らの活力ですけん!!



昨年2020年10月31日には、数々の映画で楽しませて頂いた、
ショーン・コネリーも90歳で亡くなり、彼の場合は2006年に引退されてましたが、
私が見ている最後の映画は、

小説家を見つけたら  2000年 

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ニューヨークの下町に隠棲している作家と、文学的才能を持つ
黒人少年との触れ合いを描いており、



映画の最後は、生まれ故郷のスコットランドに戻ると告げた作家が、
こんな風に自転車で街の雑踏の中をさっそうと去っていく姿で、

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ショーン・コネリーの映画を思い出す時、この姿が想い出されます。



と、もう1人つい最近、今年2月5日に亡くなった、クリストファー・プラマー

1965年「サウンド・オブ・ミュージック」で颯爽と登場したのが記憶の最初で、
お年を取ってからも元気であれこれ映画に出ておられるのを近年知り、

つい最近のは、

偽りの忠誠 ナチスが愛した女 2016年 米、英

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監督  デヴィッド・ルボー
出演  クリストファー・プラマー
    リリー・ジェームズ
    ジェイ・コートニー


ナチスの台頭でオランダに亡命している元ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を。
内容は、護衛任務で派遣されたドイツ軍将校と、屋敷にメイドで入り込んでいる
ユダヤ人の、イギリスからのスパイの恋愛を描いており、
いわば歴史的事実にファンタシーを加えたものと。

映画的には甘い部分もあるものの、個人的には、ヴィルヘルム2世の左手が
不自由だった事、1人で屋敷を囲む林の中で槇割りをしていたリ、
それでもやはり、お付きの将校と戦争の軍略を練ったりの様子が興味深く。

彼の映画では、2015年「手紙は憶えている」原題・「記憶」も良かった。

92歳で亡くなりましたが、病気ではなく転倒して頭を打ったのが原因と言い、
2019年にも映画出演しており、勿体ない事でした。



イタリアは多分日本よりも、一般にTV放映される映画が多いだろうと思いますが、
ネットで映画放映番組を見てはせっせと予約録画し、見るのもせっせと、ははは。

大体サイトでの批評家と聴取者の票が50%を超え、良さそうと思うのを選びますが、
でも実際に見て好みでないのはせっせと消し、また見たいかな、と思うのみを残しますが、
それも既にかなりの数になり、

その中でもこれはDVDで欲しい、つまり次回見るのにCMが無いのを見たい、
で、安く見つかればDVDを買いますが、それも既に500本ほどに。

若い頃から映画が好きでしたが、お小遣いの関係からそうたくさんも見れず、
ずっと映画に飢えていたのが、1人暮らしになると歯止めが効かず、という所で!

で、昔は見る映画の数が少なく、その為に見るのがいつも最高、みたいに
思っていたのが、飢えることなく、次々と見れるようになると目も肥えたというか、
自分の好みもはっきり自覚できるようになり、ははは、楽しんでいる毎日です。

ホラー映画はダメ、血潮たっぷりもダメ、ファンタジー、SFもダメですが、
ウェスタンも戦争映画も好きで見ま~す。



そんな調子で、なぜか気に入り、ずっと録画で置いていたのがこれ、

ハート・ロッカー   2008 米

 監督  キャスリン・ビグロー  
 出演  ジェレミー・レナー  ウィリアム・ジェームズ軍曹
    アンソニー・マッキー  
    レイフ・ファインズ

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イラクを舞台としたアメリカ軍爆弾処理班の活動を描いたもので、タイトルは
アメリカ軍のスラングで「苦痛の極限地帯」、「棺桶」だと、日本版ウィキに。


先任がいわば囮に誘われ、死亡した後に送り込まれたのが、

16-hurt-locker-film-trama-attori.jpg



まるで危険がないかのように振舞う、振舞える優秀なジェームズ軍曹で、
上級隊員やチームといささか問題を起こしますが、

17-Hurt Locker (1).jpg

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まるで童顔の様にも見える丸顔の彼に驚き、惹かれました。

休暇でアメリカの家に戻ってのんびりしていても、どこか戦場の緊張感を
懐かしむ気持ちが、というのに、成程なぁ、と思い、

休暇から戻り、また重装備で爆弾処理に出かける軽い足取りが、
水を得た魚の様に見え、危険の中の緊張が彼にとって生きる意味なのだろうと。



この作品監督が女性で、史上初の女性のアカデミー監督賞受賞者と知ったのは、

ブログ 「糸島くらし弁当生活」 https://furushima-ario.com/ で、

映画関係ブログは多くとも、封切り作品とか、お若い方向きが多い中で、
好きな作品紹介が幾つも重なる古島さんのブログで、私の方が娯楽寄りですが、

おかずたくさんの美味しそうなお弁当に溜息をつきながら、
猫ちゃんの姿ともども楽しませて頂いてます。 ご訪問どうぞ!



で、このブログで教えて貰ったのがこちら、

ゼロ・ダーク・サーティ   2012 米

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監督  キャスリン・ビグロー
出演  ジェシカ・チャステイン  
    ジェイソン・クラーク  
    ジェニファー・イーリー


オザーマ・ビン・ラディンの殺害経緯に至る、CIAの分析官の活躍で
居住場所の割り出し、そして作戦実行の特殊部隊を描いたもので、
実話を元のフィクション映画。 タイトルの意味は、米軍俗語で「未明」の意味と。

で、この映画監督は、上の「ハート・ロッカ―」の女性監督作品で、

主演のCIA分析官はマヤという女性だった、という、これも仮名で、
まだ機密事項で公開されておらずで、

20-movies-1-700x466.jpg

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相手方の諜報員を拷問するシーンも凄く、これも問題になった様ですが、
見ていて、まずこうして、次にこうして、という順序が決まっている様子を知り、
成程なぁ、CIAだものね、と納得。

が、shinkaiなら、脅される前に、知らない事まで喋りそう! はぁ。



2011年5月2日、ビン・ラディンのパキスタンの家にヘリコプター2機の奇襲作戦成功。
アフガニスタンのジャララバード基地でビン・ラディンの遺体確認をするマヤ。

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という、今回の記事で唯一の女性監督、主役も女性という映画でした。

主役を演じたジェシカ・チャステインは、映画「ヘルプ・心がつなぐストーリー」で
首にされたミニーを雇う、お高い南部女性グループからはじかれたグラマー女性
を演じていた、と言うとお分かりでしょうか?

はぁ、俳優というのは、上手く演じるというか、良く化けますねぇ、ははは。
  


ラッセル・クロウ主演で、最初TV放映で見た時は迷っていたのが、
最近思い出し、遂にDVDを購入の作品で、

3時10分、決断のとき    2007  米  

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監督  ジェームズ・マンゴールド
出演  ラッセル・クロウ 
   クリスチャン・ベール  



西部の悪名高い無法者ベン・ウェイドを、明後日3時10分発の、
ユマの刑務所行きの汽車まで護送する、というお話で、
1957年に1度映画になったリメイク作品ですが、大変見所が深く、

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強盗団の首領ではあるもののかなり深い教養を持ち、寛容で残虐でもあり、

護衛団に加わる牧場主と徐々にお互いを認める様になるものの、

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その妻とはどうやらかって親密であったらしく、2人の間の息子は
ベン・ウェイドの子供ではないか、という伏線も。



大変賢く、銃も上手い青年になりかけの息子は父に従い町まで行き、

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偏執的な強盗団の副頭目も興味深く、首領を救う心算が最後逆に撃たれ、


ベンは汽車に乗り込み、ゆっくりと汽車は走り出し、カメラは馬達を映し出すのが、
ふっと1頭が耳を澄ませ、線路に沿って走りだす最後のシーン。

これが何とも快く、かなり厳しいシーンの連続もあった映画の、気持ち良い
結末暗示となり、 強盗団の首領が逃げるのが?とは言わないでね、
このシーンを思い出し、改めてDVDを求めたのでした。



荒野の誓い   2017  米

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監督 スコット・クーパー
出演 クリスチャン・ベール   
   ロザムンド・パイク  



西部開拓時代が終焉を迎えた19世紀末ニュー・メキシコの騎兵隊部隊から、
7年間牢に入れられていたシャイアン族の首長とその家族をモンタナに護送する旅。
シャイアン族の首長は癌を患っており、生まれ故郷で死にたいと言い、

護衛部隊の大尉は、かってシャイアン族に仲間たちが大勢殺された事から
激しく憎んでいるものの、長い道中の間に次第に援け会い、理解を含めて行くお話。

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夫と娘2人、生まれた子をコマンチ族に殺され、同行するロザリーは、
大尉の深い労わりの気持ちに援けられつつ、徐々に平常心を取り戻し、

最後に辿り着いたモンタナで、土地の所有者と主張する一家と撃ち合いになり、
残ったのはシャイアン族の一番年下の息子と、ロザリー、そして大尉のみ。

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この映画も、最語のシーンが素晴らしく心にしみる場面で、
ロザリーと大尉がお互い親しく思うものの、大尉は決めかねず、別れを告げ、
ロザリーとリトル・ベアはシカゴ行きの汽車に乗り込み、汽車は発車。

ホームの角を回った所で、出て行く汽車を見た大尉はゆっくりと汽車を追い、
プラット・ホームに乗り移り、一瞬の呼吸後、客車のドアを開け中に入る、という、
なんというか、時代小説の場面を思い浮かべる様なシーンでした。

そう、ユマ行き3時10分の汽車も、最後の〆が素晴らしいのと同様、
この映画も、最後の汽車の発車後が、大変に余韻を残す映画で。


クリスチャン・ベール、という俳優、顔が忘れられず、いつの間にか次々と出会い、
どこで見た顔?!とかなり苦しんだ挙句に思い出したのが、
若草物語」1994の、ローリー坊ちゃまに扮していたのを!

最近ではブッシュ大統領時の副大統領チェイニーに扮した「バイス」がありますが、
イタリア語で政治を語られて理解できるだろうか、と悩んでいます。

リンカーン」の時、大筋は分かったものの、細部がねぇ。 
細部が分からないと、本当に楽しめませんものねぇ・・・。



という所で、よく分かり、はは、最近録画し大いに楽しんでいるアニメというか、
生の人間混在の場合は何という?! の、

ピーター・ラビット   2018  米 豪 英

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監督  ウィル・グラック
出演  ローズ・バーン
   ドーナル・グリーソン
   サム・ニール



いやぁ、ピーター達、他の動物たちの表情もとても生き生きして良く、可愛く、
笑いながら、つい彼らの応援をしてしまう映画で、

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で、なんと2021年1月15日、アメリカで「ピーター・ラビット2」が公開されると!

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これは、た・の・し・みぃ!!  待ちましょう!!


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・ 「三銃士」のダルタニャン   物語の背後に居た真の銃士は

皆さんはアレクサンドル・デュマの「モンテクリスト伯爵」や、「三銃士」を
読まれた事がありますか?

shinkaiは「三銃士」は大変面白く読み、「モンテクリスト伯爵」に
いたっては、へへ、愛読書と言ってよい程何度も楽しんでおり、

但し映画になると、「モンテクリスト伯爵」は長い時間経過を要する為か、
はたまた余りにもドラマチックな紆余曲折の為か、
映画となり実際に俳優が演じると、少し胡散臭げとなる感じで、

その点「三銃士」の方が、銃士の大胆不敵な活躍と、お話の面白さに
単純に楽しめる感じがしませんか?

という事で、何度も映画化されたのがTV放映されると、またか、と思いつつ
見て楽しんでおりますが、ははは、
ずっと「三銃士」は、時代の中の何かのネタを上手く使ったお話と
思い込んでいたのでしたが、

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そうではなく、実際のモデルとなった人物がおり、しかも大変勇敢な、
「フランスにかって存在したことの無かった価値ある銃士」であり、
それをまたアレクサンドル・デュマという、「不死身の筆者のペンにより、
話の主人公も不死身となった」というのを、最近知りましたのでご紹介を。

デュマのお話同様、お気楽にお楽しみ下さいね。

上の写真は、1960年にイタリアの「ルッキ出版」の一連の「ダルタニャン物語」で、

イタリア語で「三銃士」は「イ・トゥレ・モスケッティエーリ・I Tre Moschettieri」、
「マスケット銃士隊」という、16世紀から19世紀まで実際に存在した
マスケット銃装備の乗馬歩兵で、竜騎兵の一種、だそうですが、
銃を使っての戦闘場面は余りなく、もっぱら剣での突き合い試合ですね。

写真後ろに見える3冊の右が「二十年後」で、左上2冊が昔を懐しむ
「ブラジュロンヌ子爵」だそうですが、読んでおりません。



こちらが作者のアレクサンドル・デュマ・Alexandre Dumas (1802-1870)
大デュマ、父親の方で、息子のデュマの作品は「椿姫」が。

1-2-DArtagnan-il-reale-moschettiere-1.jpg



ダルタニャンは実在の人物、と上記しましたが、当時既に人気作家のデュマは、
クールティル・ドゥ・サンドラス・Courtilz de Sandrasが1700年に出した
「ダルタニャン氏の覚え書き」

これはシャルル・ド・バツ-カステルモール・ダルタニャン伯爵(1615?-1673)・
Charles de Batz de Castelmore, conte d’Artagnanの
生涯をロマンチックに描いたものだそうで、

こちらが「覚え書」にあるという、実際のダルタニャン氏の肖像。

1-3-D_DArtagnan-il-reale-moschettiere-8A.jpg



そこから「三銃士」のお話、「銃士」に憧れ、ガスコーニュ出身の若者が、
蛇足ながら、ガスコーニュの位置を。 はい、shinkaiは知らずで、へへ。

2-MapOfGascony.jpg



1625年パリに出て来て、(この年号はデュマが「三銃士」の中に書いた年で、
実際の生まれより10年近く年上になっており、これは作中の都合によるもの)
強剛の銃士アトス・Athos、ポルトス・Porthos、アラミス・Aramisと知り合い、
強い友情と揺るぎない兄弟愛で結ばれ、

枢機卿リシュリュー・Richelieu側の警護人達との絶え間ない衝突、
リシュリューが憎んでいる王妃アンヌ・ドートリッシュ・Anne d'Autriche、
はたまたその夫である、フランス国王ルイ13世・Louis XIIIの面子をも
策略から救う為、冒険活躍をする、というお話。


お話が単純な冒険談にしろ大変面白く、つい釣り込まれるのは、
周囲に登場する歴史上の実在有名人物が多いから、とも思うのですが、

物語では、悪の化身の様な、はは、リシュリュー枢機卿。 

3-Richelieu,_por_Philippe_de_Champaigne_(detalle) (1).jpg

実際にはルイ13世の時代、約40年間に渡り宰相として実権を握り、
国政において大きな役割を果たし、フランスが絶対君主に至る道を敷いた、
大物実力政治家だったのでしょうね。



国王ルイ13世。 (1601年 - 1643年)

4-Luis_XIII,_rey_de_Francia_(Philippe_de_Champaigne).jpg


父アンリ4世が暗殺後8歳半にして即位し、母親が摂政となり、その後も
自分のお気に入りを用いたりで、国王とも宰相とも合わなくなり
最後はブリュッセルに亡命、ケルンで没。



という母親は、イタリアはメディチ家から嫁いだマリー・ド・メディシス。 
ルーベンス画1622年。

5-mary de medici  Peter_Paul_Rubens_095b.jpg



ルイ13世の王妃アンナ・ドートリッシュ。 23年間の結婚の後、
遂に世継ぎ、後のルイ14世を得る。

6-Anna_of_Austria_by_Rubens_(1622-1625,_Norton_Simon_Museum).jpg



太陽王ルイ14世。

7-Louis_XIV_of_France.jpg

ヴェルサイユ宮殿における 太陽王ルイ14世の1日は
https://www.italiashiho.site/article/479317225.html



ルイ13世の王妃アンナ・ドートリッシュの愛人として登場の、ダイヤの
飾り紐事件、バッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズ・Gerge Villiers.

8-GeorgeVilliers I duca di Buckingham.jpg

ホンマに、愛人だったん?



この他にリシュリューは、美人の魅力を使って巧みにスパイし、純真な者を
罠に落とすミレディ・デ・ウィンターなる人物もいるし、

おまけに彼女には、かっての罪状を印す刺青があり、アトスのかっての
妻だった、という事も明らかになり、

バッキンガム公爵も暗殺され、これは実際に、ダルタニャンに恋する
コンスタンスも命を落とし・・、



こうして一連の大胆不敵な冒険活躍が一件落着の後、
4人の銃士はそれぞれの道を進む事となり、

ダルタニャンは国王補佐役に任命され、教養あるアラミスは僧侶となり、
強固なポルトスは結婚を。 

そして一番神秘的で魅力あるアトスは、遺産を受け継ぎますが、
彼らの冒険は続き、上記した2冊で語られます。

9-DArtagnan-il-reale-moschettiere-3.jpg



で、こちらが新聞「世紀・Le Siècle」に載った、1844年3月14日から
「三銃士」の連載が始まりますよ、というお知らせ。

10-DArtagnan-il-reale-moschettiere-2.jpg



所で、最初に実際のダルタニャンの名前を見た時「伯爵」とあるのに、
ちょっと驚いたのでしたが、

シャルル・ド・バツ-カステルモール・ダルタニャン伯爵なる方、
貴族の4男に生まれたものの、実際は経済的に大変貧しい家系で、
伝統的に男子は軍の世界での経歴を積む事になっており、

20歳の彼もこの道を進み、15年の軍勤めの後、リシュリューの後を継いだ
マゼラン枢機卿の下に。


マゼラン枢機卿・Jules Raymond Mazarinというフランス名になりますが、
元々はイタリア人の外交官でもあり、ルイ14世の元でリシュリューの跡を。

11-Cardinal_Mazarin_by_Pierre_Mignard_(Musée_Condé).jpg



1690年に描かれた、ダルタニャンの肖像。

12-DArtagnan-il-reale-moschettiere-7.jpg



ダルタニャンはマゼランの下で、マゼランが銃士隊を解散する1646年まで
働き、その後はマゼランの下で多分スパイの様なデリケートな仕事や、
政敵の逮捕、また保護などの仕事を続けており、

義務感と正義感が強く、優秀な分析力を備え、自分の理想への忠実さを
持ち、1661年マゼランの亡くなった後はルイ14世の信頼も厚く、
フランス北部、ベルギーに近いリール・Lilleの知事に任命をされます。

が、ダルタニャンは政治よりも戦争が好きで、
1672-1678年のフランスとオランダの戦争が始まり、ルイ14世によって
呼び戻されると、大喜びで闘いに参戦の為に戻り、

で、こうして1673年のマーストリヒトの包囲戦に参加の際、
6月25日頭にモスケット銃の弾が当たり、戦死、58歳の生涯でした。



アメリカで出版の「三銃士」の漫画本シリーズ。

13-DArtagnan-il-reale-moschettiere-6.jpg


こうして、「フランスにかって存在しなかった価値ある銃士の生涯」が、

不死身の筆者のペンにより、話の主人公も不死身となった」というお話でした。

まだ読んでおられない方、是非是非!! 

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・ モンテリッジョーニ ・ 塔の冠を戴いた、トスカーナの珠玉の町

イタリアはこの月曜から、5つの州をオレンジ・ゾーンに残し、
他はすべて黄色ゾーンになり、我がヴェネトも黄色となり、
お陰様でコムーネ内のみだったのが、州の中は自由に動けるようになり、
一般の店、バール、レストランも開き、少し息抜きが出来ます。

ですが、今現在の国の政治は、自分達が表に出たいからのみ、としか思えぬ
野党の突き上げでコンテ首相は辞任し、まだ次期首相の選定に動いており、
余り政治には興味のないshinkaiも、政治、政党の動きに少々ウンザリ。

政党内部にも、国民にも、かなりコンテ寄りの声が聞こえるそうで、
そうなるとなおの事ムッツリで、こちらにも待春の思いです。

◆ 追記 ◆

今朝3日のTVニュースで、昨夕迄の下院議長による政党との様々な折衝も
上手く行かなかったのを受け、

大統領マッタレッラが、今日のお昼にマリオ・ドゥラーギ、長年に渡り
ヨーロッパ銀行総裁を務められた、イタリアの誇りでもある方を官邸に召喚、
というニュース。

彼の名は、今回の混乱初めから出てはおりましたが、一応多数派政党による内閣を、
という工作が実らずの後ですので、多分これで決まる事になると思います。

イタリアは、政党間による政治が混乱すると、時に政治家でない方が大統領の
指名を受け首相になり、とても上手く行く事があり、今迄も何人か経験があり、
一番国民から愛された、と言われたチャンピ首相も、イタリア銀行総裁でした。

という様子で、今の世界中が揺れている困難な時に、なんとか一日も早く
優秀な方に国の方向付けに携わって頂けるよう、願っております。

*****

先日写真を探していた時、トスカーナのモンテリッジョーニ・Monteiggioniの、
2014年9月に行った時の写真がそのまま、整理せずのままで残っている事に
気が付き! あれま。 

1-M16_7787_GF.jpg

我が怠慢さに驚くと共に、はは、懐かしくもありで、見ていて、今のコロナでの
閉鎖から、そして待春の想いと共に、
皆さまにも、と思い、せっせと整理しましたので、見てやって下さいね。

モンテリッジョーニには2008年にシエナから出かけ、
様子はこちらに。 モンテリッジョーニ ・ 市壁と、中世巡礼街道の町
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462678404.html

町について調べた事なども書いておりますので、どうぞ!

上の写真は、この時はサン・ジミニャーノ・San Gimignanoの宿から
移動の日で、いわば北から来て、平地の道から突然に目の前の丘の上に、
モンテリッジョーニ、塔の冠を戴き
とかってダンテが謳った通りの姿を見て、おお!と。



モンテリッジョーニの町は、13世紀初頭、シエナ共和国が対フィレンツェへの
防御のために造った要塞を兼ねての村、が起こりと言いますが、

どの位置になるのか、地図で見ると、はい、フィレンツェの南、シエナの北で、
シエナからだと20k弱、約30分程の位置に。

2-map1_GF.jpg



町の下の大駐車場に車を止め、坂道を上り、町の入口の門に。

3-M16_7788_GF.jpg



この門はシエナ側に向いたロメーア門・Porta Romea、またはレヴァンテ門・
Porta Levante.  以前のブログにはフランカ門となっておりますがぁ・・??

4-M16_7789_GF.jpg



という所で、町の地図をどうぞ。 町歩きには地図は要りませんが、ご説明にね。
つまり町の形は四角っぽい円形の中がすべてで、その中央に2列、3列の
家並があり、それで全部!

5-map2_GF.jpg

町の門は東と、真っ直ぐに行った北西にある門の2つ。



上空からの写真をどうぞ。  これは西側からの写真で、上側に見える広場が
ローマ広場で、その上に見える3つの塔の真ん中が東から入る門で、

6-1-cielo_GF.jpg

突き抜けて、写真の下側、塔の頭が切れている所が西のフィレンツェ側の門で、
町というよりは「村」と呼ぶ方が相応しい大きさ、「珠玉の村」ですね。



シエナ側の前線要塞として村が興され、間もなくこのサンタ・マリーア教会も出来、

7-1-M16_7797_GF.jpg



内部の様子。 

7-2-M16_7804_GF.jpg

以前の写真には、黄金背景の祭壇画もあった様なのが、どこに?



これは、教会入口前の石畳。 現在は広場もすべて石畳になっているのですが、
かっての要塞村だった時は、非常時に備えすべて地面のままで、つまりいつでも
籠城戦に備え野菜作りが出来る様になっていた、という事で。

8-M16_7802_GF.jpg



広場の井戸。 この周囲も囲われて石が敷かれていた様子で。

9-M16_7795_GF.jpg



教会左脇にインフォメーションがあり、そこにあったポスター。
毎年7月には時代衣装を纏い、甲冑姿のお祭りがあるそうで、復活を期待し。

11-M16_7806_GF.jpg



こちらは広場を囲む南側の建物の端。 古い建物らしく、壁の厚みが下側が
張り出しています。 端っこの店が以前は開いていたのが閉じられており残念。

12-M16_7857_01_GF.jpg

ですが、反対の端の階段が見える所、2階がちっちゃな中世博物館として開き、
はぁ、中世好きの物好きは見に行きましたが、・・中は、まぁね。



こちらが広場の東側の建物。 あの葡萄棚の下にレストランがあり、
あの風景は描いたのでしたが、店はこの日はお休みで。

13-M16_7858_GF.jpg

右端に女性が見える道を少し下ると、



この、フィレンツェ側に向いた村の門で、名前がどのサイトも違い・・、パス。

14-M16_7813_GF.jpg



この門のすぐ左側から城壁の上に上がれ、こんな感じ。 かってはこの上を
ぐるっと回りつつ、見張っていた訳で!

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城壁の上の塔は全部で14あるのが、現在は幾つかが城壁の高さに削られていると。



城壁の上から覗く古い農家、廃屋。

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この廃屋の意外な持ち主、現在は亡くなり、どうなったか、経緯はこちらに。
http://italiashinkai.seesaa.net/archives/201602-1.html



背後に広がる、色鮮やかな土の畑。

17-M16_7822_GF.jpg



城壁内は、すぐそこに家並が接し、

18-M16_7824_GF.jpg



上の写真の家並の背後、城壁の内側の道を歩きます。

以前見て大変強く惹かれ、苦労して描いた古い壁と扉も無事でしたが、

19-M16_7829_GF.jpg

村全体の美化運動なのか、植木鉢、花鉢が置かれ、印象が変わり、



お隣の、かっては無人だった家もスーヴェニール店に変わっており、

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モンテリッジョーニに行かれたら、是非この裏通りを通ってみて下さいね。
古い石組の、その美しさが何とも言えぬ良さが残っていますから。



オリーヴの木の周囲にも柵と、椅子が置かれた、6年後の変化。
そうですね、かなり観光地化していたのが目についたのでしたが。

22-M16_7844_GF.jpg



オリーヴの実。

23-M16_7843_GF.jpg



裏通りのこの建物も、あの太い丸い円柱等、古い印象のが残っていて、

24-M16_7849_GF.jpg



この古い家も、奥2階の家の扉がモダンになりましたが、
階段脇のアーチに見える壁の厚さ、凄いでしょう!?

25-M16_7850_GF.jpg



6年前の訪問では、時間の関係から上らなかった東側、入り口門脇から上る
城壁にも今回は。 旗の立っているのが、町の入り口門。

26-M16_7863_GF.jpg



こんな風に続き、奥辺り塔が削られた場所の様で、乗降の階段が2か所あり、

27-M16_7869_GF.jpg



広場の様子がこんな風に。

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29-M16_7868_GF.jpg



教会の裏側。 こちらの城壁内はかなり広く、果樹やオリーヴの木が茂っていて。

30-M16_7871_GF.jpg



城壁の外の眺め、葡萄畑が広がります。

31-M16_7867_GF.jpg



城壁から降りて、内側を歩き戻ります。 城壁は4mほどの高さでしょうか。

32-M16_7874_GF.jpg

庭、果樹の中には入れない様に囲いがあり、



見つけたトカゲ君。 緑の口ね! 

33-M16_7864_GF.jpg

1度トスカーナのどこだったか、全身緑青ラメ君を見ましたが、1度だけで残念!



旅を一緒していた友人と広場の白いテント張りのレストランでお昼を。

彼女が食べたインゲンのスープと、

34-M16_7888_GF.jpg



お肉が食べたい、が、ビフテキは大きすぎると言われ、タリアータ・taglitaを。
牛肩ロース肉で、美味しかったと。

36-M16_7890_GF.jpg



shinkaiのプリモ、幅広麺タリアテッレ・tagliatelleのポルチーニ。

35-M16_7889_GF.jpg

ですがね、その次に何を食べたかの写真が無く! 覚えておらず。
でもこの店、とても美味しかったのですよ! 行かれた時は安心してどうぞ。



さて広場の井戸の脇でスケッチ中の外人女性4人、かな。 アメリカ人の様であり、
真ん中の白いTシャツが先生の様子。

37-M16_7898_01_GF.jpg

そう、友人がスケッチしていると覗きに来る人がたくさんいますし、
私もかっては経験ありで、今は逆に、勿論覗きに行きますね、ははは。



先生の背後にこの丸いプラスティックのパレット、絵の具入れがあり、
初めて見たのと、便利そうなので、どこの製品かと蓋も写すと、

38-M16_7895_GF.jpg

39-M16_7896_GF.jpg

Quiller Travelerと。 旅行用は分かったけど、メイカーの名かな。
うん、確かにスケッチ旅行中ずっと使える程の絵の具が絞り出してあった、ははは。



最後はサイトで見つけた、夕暮れの明かりがついた町の様子を。

40-monteriggioni_drone_GF.jpg


早く旅行解禁になり、皆さんものんびり、ゆっくり訪問できます様に!!


**

暫く4日毎のアップでやって来ましたが、絵の方をも少し頑張りたくなり、時間が欲しく、
次回から5日毎更新、という事で、どうぞ宜しくお願い致しま~す。

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