・ 3月25日 ヴェネツィアは1600歳のお誕生日!

今年2021年3月25日は、我がヴェネツィアは1600歳のお誕生日!!

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というニュースで、朝サン・マルコ大聖堂でお祝いのミサが行われ、

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夕方16時には大司教様の要請により、ヴェネツィア中の教会の鐘が
打ち鳴らされたそうです。 これは聞いてみたかったですねぇ!



正面写真もあったのが消え、後姿で申し訳ありませんが、
真ん中が大司教フランチェスコ・モラーリア卿、左3色のたすきが
ヴェネツィア市長ルイージ・ブルニャーロ、
右が県知事ヴィットリオ・ザッパロルト。

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こちらはお祝いに発行された記念切手。 
原画は1500年のキシログラフ、イアコポ・デ・バルバーリ・Iacopo de’ Barbari
「鳥の飛行から見たヴェネツィア」

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右上に見えるロゴはこちらで、サン・マルコ小広場に立つ円柱の、
上にサン・マルコのシンボルの有翼のライオン像、大聖堂の丸天井、そして
パラッツォ・ドゥカーレの特徴ある花模様のアーチですね。

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421+2021 の数字は、421年にヴェネツィアが基礎をなし、
そして今年2021年 1600年のお誕生日、を示します。


この421年に、という数字については後程あれこれ興味ある事柄を。
この記念切手はフォルダーに4連切手も含まれ、15エウロで発売されたそうで、
う~ん、なかなか郵便局に行くチャンスもありませんが、近いうちに・・。



そして現在はコロナ禍によるロックダウン中でもあるので、ただ3月25日
一日のみのお誕生日ではなく、先には少しでも自由に動ける様にも願い、

1年間に渡り様々な催し、235もの企画があるそうで、行われる様子!

まずこちらの、お誕生日お祝いの美しいヴィデオをどうぞ!
https://youtu.be/2ISrLVq60Bc

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魚の形をしたヴェネツィアの街! 
干潟に杭を打ち込み硬め、その上に徐々に、営々と築き上げて出来た、
世界で唯一の特異で驚異な美しい街。

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北からの蛮族に襲撃され逃げ込んだ、こんな干潟から始まったのですね。

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「421年3月25日」がヴェネツィア誕生の日、は公的に定められており、
その元は11世紀に記されたクロニクロンアルティナーテ・Chronicon Altinate
の中に記された日付を基に、という事ですが、

おめでとう ヴェネツィア・Auguri Venezia 
の中に、興味深い事を見つけましたので、ご案内致しますね。

ヴェネツィアは何歳? というのは、最近の研究では421年よりも
もっと2世紀程後、サン・マルコ聖堂の建設と同じ、という研究があり、

これを支持する根拠として、サン・マルコ聖堂の床モザイクの床下
4,2mの深さに保存されている2つの桃の種があり、

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ほぼ化石化した種を調べたアメリカ・ニューヨーク州コルゲート大学の
アルバート・アマーマン教授の調査によると、
この桃の種は650~770年の物で、ヴェネツィアの起源はこの時代から始まる、
という説ですね。

この桃の種の近くから幾つかの金属と陶器の破片も見つかっており、
これらは当時、町の建設で水路を作る為に使われたものと考古学学者は
考えているそうで、未だ科学的研究は済んでいないと。



また一方1800年半ばに発見された、サン・マルコ聖堂の向かい側の
サン・ジョルジョ島の古い遺跡について、考古学者たちは
大変に古い塩田であると推測していましたが、

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上記のコルゲート大学の研究で、再度また2世紀程後の時代に
ヴェネツィア誕生が移されそうなのだとか!


そしてつい最近の2018年8月のサン・マルコ聖堂の南の壁と、
ドゥカーレ宮のカルタ門、現在のドゥカーレ宮見学の出口の門の
高潮対策の防水工事中に、人間の骸骨2体が見つかったのだそう。

最初の研究発表によると、1000年以上前に遡る地質で、
ヴェネツィア文化財監理局は更に発掘を進めたものの、未だ特別な
発見はなく、現在の所最初の報道のみで済んでおり、

つまり最初の仮説の域は出ないものの、男と女の遺骨は多分
828年の聖堂建設以前に埋葬されたものであろうと。
またはも少し前の9世紀初頭の物であろう、というのは、

当時ヴェネツィア総督の本拠地、居住地がリアルト地区に
移されたから、というのですが、

この引っ越しと埋葬との関係が、shinkaiには意味が分かりません。



という様な、つまりヴェネツィアの街建設は421年ではなく、
もっと後である、というのがお話の筋なのでした。 

と言うと納得する所もあり、日本の起源についても、以前はもっと古く、
神代の時代を含めたような計算もあったのと同じで、

これは人間心理も含めて、愛するヴェネツィアの起源は古いんだ、と
言いたいのであろう可愛さもありますよね?!

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もう1つ、ヴェネツィアの美しさを映し出したヴィデオをどうぞ!
このヴィデオにはたくさんの音楽家たち、作家、芸術家たちが参加し、
ヴェネツィアの魅惑を見せてくれる、

ヴェネツィア・夢の1600メモ」 https://youtu.be/LREm_daSLj0

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最後はゲーテの言葉を。

 (ヴェネツィアで)私を取り巻くすべては高貴さに満ち、偉大な作品と
  尊敬すべき調和の取れた人間の力による、素晴らしい記念碑で、
  それらは主権者の為ではなく、庶民の物なのです。


ヴェネツィア  のご案内はこちらから                                        



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もう一度、「お誕生日おめでとう、ヴェネツィア!!

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・ 対コロナヴィールスの、ワクチンを接種して来ました。

イタリア、ヨーロッパ全体で1月27日から対コロナヴィールスの
ワクチン接種が始まっており、

プリムラの花をシンボルの、対コロナ・ヴィールス、対コーヴィッド-19
のワクチン接種キャンペーン

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まず医療関係者、感染者に近い距離で接する方たちが接種、
そして80歳以上、持病持ちの方々が続き、

我が仲間内の3人は既に2月中に済み、最後にジュリアーナも3月6日に。

州によって自分で予約しなければいけない州もあり、その辺りがどうなのか、
少し気になったのですが、
ジュリアーナの話で、最初に受けた3人にはそれぞれAULSS・国の医療機関の
トゥレヴィーゾからメッセージが届いたそうで、
では待っていればOKなのね、という事で気楽に待機を。


で、3月初め、いつも朝のTVニュースを見るSKYで、「私のワクチン接種はいつ」
というソフトがSKYのサイト内に出来た、と言うので訪問を。
やはりまるで分からないよりも、少しは心づもりが出来た方が良いですものね。

で、サイトに行き、州を選び、年齢、何かのグループに属しているか、
持病はあるか、等などをクリックしていくと、
最後に「多分いつ頃」と出て、それによるとshinkaiは5月頃に!

私の前に130万人以上が待っている、と出るので、そりゃぁまぁね、仕方ないね。
ジュリアーナとの年の違いも5歳ありますしね。


イタリアで使われているワクチンは、まずファイザー・Pfizer、

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そしてアストラゼネカ・AstraZeneca、 

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そしてモデルナ・moderna

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で、ジュリアーナ達はファイザーだったと聞きました。

追々に、ジョンソン&ジョンソンの、1回で済むワクチンも届きそうですし、
ロシアのスプートニクの話も。 
サン・マリーノ共和国での接種は、スプートニクだそう。


そして先週だったか、北ヨーロッパの国でアストラゼネカによる問題、
死者も出たそうで、イタリアも含め接種禁止措置が取られ、

ちょうど仲間のエレオノーラに接種の案内が届いていたのが
延期になった、というのも聞きましたが、

大丈夫と言う発表で、首相のドラーギ氏が、イギリスにいる息子も
昨日アストラゼネカを接種したし、自分もアストラゼネカを接種する、といい、
3日後に接種再開に。


多分5月頃接種になる、というお告げですので、はは、まだまだ先、と
考えていた20日土曜の朝AULSSからメッセージが届き、

23日15時55分に接種できますので、ゴーデガ・Godegaの会場に。
日時を変えたい場合はここに電話、予約取り消しの場合はこちらに、と。


あれこれブログを拝見すると、接種はどうしようとか、迷っている、
という方もおられるようですが、

shinkaiめは今迄の毎日の死者の数、感染で入院、集中治療室が
間に合わず、という様な、とりわけ昨年の酷さもニュースで見ましたので、

ワクチンが出来、政府がキャンペーンをするほどに、とにかくヴィールスを
抑え込む、そして経済問題にテコ入れしたい、というのは良く分かりますし、

私の様な独り暮らしが、ワクチン接種せずでもし感染したらの恐れや、
迷惑も考えると、接種どうしようか、なんぞもまるで考えず、
とにかく順番が来たら接種して貰おう、と考えていました。

それにヨーロッパで今頃持ち上がっている、ワクチン接種をしている、
という証明パスの問題もあります。

先行きこのパスが無いと、博物館美術館、公的施設、体育館等への
入場が出来なくなるかも、という問題。

そして海外渡航にも義務付けられたら、来年春予定している、
個展の為の日本行きにも支障が出るやもしれずで、
到底接種無しは選択の余地がなく、考えません。

今迄一度もした事が無かった昨冬のインフルエンザの予防注射も
しっかり受けに行きましたし、
独り身での生活を全うする為にも、必要な事だと考えていました。


という事で、ゴーデガの会場はどこに、と地図を調べると
こんな様子で、以前3度ほど通った眼科の白内障検査をした
病院から少し先の位置で、OK分った。

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15時55分の予約でしたので、3時10分程に家を出て3時半頃に到着。
こんな風に「ワクチン接種場所」と分かり易く矢印が出ていて、
これは国道筋からの曲がり角にも出ていて良く見え、

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但し最初に衛星地図で見た大きな駐車場の奥に、もっともっと広い
大きな駐車場があり、突き当りに大きな体育館があり、そこが会場。

突き当りに見える出入り口は、ワクチン接種後の出口になっていて、
どなたか気分が悪くなったかどうか、救急車が止まっていましたが、
大したことはなかった様子。

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上の写真に見える「入口・Entrata」に添って行くと、入り口ドア前に
かなりの人が待っていて、入り口内の係のシニョーレが5分おき位に
予約時間の「15時40分」、「45分」と声を上げ、

その時間予約の人々が額の体温検査の後に中に入れ、
中で、椅子に座り、先の人々の並び順が進むのを待ちます。

但し段々込み始め、3時55分予約のshinkaiが中に入れたのは、
4時15分程。

私の座った位置からの写真で、私の後ろにもほぼ同数の椅子が並んでおり、

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係のシニョーレが、では45分、50分(の人)と言うと、部屋の一番端に
作られた通路を進み、先に少し人々が固まって見える場所に受付があり、

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あそこで自分の健康保険カードを提出し、受け付けて貰い、
真向いの壁際にドクターたちが一列に10人程も並んで座っておられるのに、
貰った診断書の紙を持って、質問に答えOKを貰います。

番が来るまでに質問内容を読みましたら、通常の、熱はあるか、
何か持病はあるか、今迄感染者と接触した事は、今迄検査を受けたか、
等などで、shinkaiめは何もなく、

薬は何も飲んでいない、と言うと、ああ、それは素晴らしい、と、
これは病院でいつも褒めて頂ける唯一の事で、ははは、
診断書の下に、薬は何も飲んでいない、と書いて頂きましたぁ。


で、ドクターの問診が住むと、真ん中のゾーン、両脇にオレンジの
小部屋が並んでいる所に入り、前の人がすんだ仕切りに入り、
ワクチン接種を。


ああ、そうそう、最初に座って待っていた時、他の人の質問に答え、
管理のシニョーレが、「ファイザー・ワクチンは80歳以上の人で、
今はアストラゼネカね」と言っているのが聞こえたので、ああ、そうか。

で、これは受付の女性も教えて呉れましたし、2回目は3か月後に、と
いう事も知りました。 再度知らせが来るそう。



こちらはワクチン接種が済んだら、ここで15分ほど待って、それから帰る様に、
という事で待機している所。

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両脇に見えるオレンジと白の衝立部分が接種場所。

shinkaiに接種して下さった中年看護婦さんは、なかなか私めのシ
発音できず、でも彼女の娘さんは日本大好きで、今ヴェネツィア大学で
日本語と韓国語を習っている、という話になり、

どこに住んでいるの? スコミーゴに。 何をしている? 絵を描いてます。
売るのか? 日本で。 電話番号を教えて、絵を見に行きたいから。と
ははは。 という、ワクチン接種の仕切り内での会話でしたぁ。

これをジュリアーナに無事行って来た、の報告と共に話すと、
本当にねぇ、日本人というとすぐそういう待遇になるんよね、と。

以前に病院での白内障手術前の検査にジュリアーナが同伴。
その時のドットーレが絵が好きで、彼女共々大いに検査室で盛り上がり、
時間を取った事もあり、ははは、少し悔しいんだろうな、という感じ、へへ。



という事で15分経過、出口ドアから出たのが、ちょうど5時15分、
1時間45分程のイタリアでのワクチン接種の様子でした。

入り口前にはまだまだかなりの人が待っているのも見え、
早く、明るく、まだ暖かいうちに済んでやれやれ!

ゴーデガの教会の鐘楼が向こうに見え、

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細長い大きな体育館で、さすがの広い広い駐車場もほぼ埋まっておりました。

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こんな様子で、毎日ドクター、看護婦さん、管理の方々の奮闘が
多分秋口まで続くのか、と思うと、ホント大変だなぁ、と頭が下がります。



今朝のニュースに出た、現在のワクチン接種が済んだ方の数で、
上が1回目が済んだ人、下が2回共に済んだ人。
はい、お陰様でshinkaiは上の数の中に!

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イタリアの人口は、2019年度で6000万人ちょっと。 ほぼ日本の半数で、
その内のどの程度がワクチン接種対象か知りませんが、
いずれにしても漸くに始まった段階で、秋の終わり頃には様子が見えるのかと?



イタリアの現在の三色地図ですが、圧倒的に赤ゾーンが増え、

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パスクワ4月4日前後はイタリア中がすべて赤の、ロックダウンに。


今ヴェネト州は赤になっていて、今日お昼前にスーパーに買い出しに行くと、
オレンジでもそう駐車場の車も少なくなっておらずだったのが、
赤になると本当にガランとして、一般の店は閉じていますし、
本当に大変だろうなぁと。

やはり1人1人が危機感を持ち、対処、自衛していくしかないのでしょね。
昨年の夏以降のぶり返しを思いだし、自分の為に、自粛して行く心算です。

皆さんもどうぞお気をつけて、頑張りましょう!!


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・ マリーア・ロマノフ と ルイス・マウントバッテンの 儚く消えた愛のお話

マリーア・ロマノフ、ロマノフという姓で、皆さんも良くご存知と思う、
革命の背後に消えて行ったロシア皇帝一家の3女マリーア、と、

イギリス王室に近く、現エリザベス2世女王の叔父にあたり、1979年
アイルランドでIRA暫定派により暗殺されたルイス・マウントバッテン卿、

今回は、この2人の若き儚い愛、ずっとマウントバッテン卿の心に
残り続けたマリーア・ロマノフとのお話を。

今回参考にした記事はブログのタイトル通り 
マリーア・ロマノフとルイス・マウントバッテンの消えた愛のお話
La storia d’Amore perduta fra Maria Romanov e Louis Mountbatten

で、記録、写真はウィキペディアやネットでの検索からも拝借です。


以前この白黒写真をカラーに直し、ロマノフ朝最後の大舞踏会に参加の、
帝政ロシア時代最後の佳人達の姿をご覧頂いた事がありますが、

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ロシア20世紀初頭  ロマノフ王朝最後の大舞踏会の美しい女性たち
https://www.italiashiho.site/article/478345334.html

3女マリーアは左から2人め、父皇帝ニコライ2世(1868-1918)の左背後の立ち姿、
皇帝の右背後は母皇后アレクサンドラ(1872-1918)
前列は左端から長女オルガ、 皇帝ニコライ、 アナスターシャ4女、
長男(末子)アレクセイ(1904-1918) そして2女タチアーナ。



女性だけの写真で、母皇后と、後列左からオルガ(1895-1918)
タチアーナ(1897-1918) 末娘アナスターシャ(1901-1918)
そしてマリーア(1899-1918).

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母皇后のアレクサンドラは大変美しい事で知られていましたが、
娘のオルガ、そしてマリーアもその美しさが有名でした。



一方のルイス・マウントバッテン卿は上記通り、イギリス海軍の重鎮として
第2次大戦にて活躍、元帥に迄の方で、写真は1977年。

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所でこちら、イギリス王室と、ロシア皇帝家との繋がり系図をどうぞ。

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19世紀のイギリスを繁栄に導いたヴィクトリア女王は、夫君アルバート公
との間に9人の子をもうけ、「ヨーロッパ王室の祖母」と言われるほどに、
ヨーロッパ全体の王室、その家系に結婚による繋がりを持っていて、

ニコライ2世と結婚したアレクサンドラは、ビクトリア女王の次女アリスの2女、

ヴィクトリア女王の次女アリス・Alice(1843-1878) 

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その次女 ニコライ2世妃 アレクサンドラ

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アレクサンドラの姉のヴィクトリア、の娘アリスはギリシャ王室の
アンドリューと結婚、
2人の息子のフィリップ卿が現イギリスのエリザベス女王の夫君であり、

図には出ませんが、このギリシャ王妃となったアリスの弟が、
今回のルイス・マウントバッテン卿、という訳で、

マリーア・ロマノフよりは家系がほんの少し下になりますが、
彼女と、ルイス・マウントバッテンは従姉弟同士、
マリーアがちょうど1歳年上という事になりますね。

所でフィリップ卿と、マウントバッテン卿は顔立ちが良く似ていません?!
それに、次代国王になるかもの、現チャールズ皇太子も、ね。


ついでですが、図の左列にヴィクトリア女王の跡を継いだエドワード7世が
いて、その下にジョージ5世次代国王がいますが、
顔がロマノフのニコラス2世にそっくりと思われませんか?


1913年のベルリンでの2人の写真で、左がニコラス2世、右がジョージ5世で、

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王室の集まりで2人が一緒だと間違える人もあり、後年生き延びた
ニコライ2世に仕えていた近習がジョージ5世にあった時、
ああ、生きておられた!と間違え、喜びの余り跪いた、という逸話も
読みましたが、
この様にヨーロッパ王室はそれぞれの繋がりを持っているのですねぇ。



という2人の系図を見て頂いた所で主題に戻りますと、

マリーアは幼い頃は大変に大きな体つきで、姉妹たちの間で
からかいの種になったり、

部屋を一緒していた下のアナスターシャが姉妹の中で一番活発で、
少し押され気味の所もあったかも、と。

が、長じるにつれ、すらりと細く背が高くなり、「マリアのお皿」と呼ばれた
コバルト・ブルーの瞳は大きく美しく、
姉妹の中で一番美しい、と評価されるようになったそう。

1910年マリーア11歳。

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家庭医の息子グレブ・ボトキン・Gleb Botkinが書いているマリーアは、

  4人の内で勿論一番可愛く、ロシア女性の典型的な美しさで、
  ぽっちゃりと、林檎の様に赤い頬で・・、と。

そして彼女の美しさは、性格が優しく愛情深く、人々に会えて良かった、と
いう印象を残す魅惑的なものであった、と言い、

余り健康が優れなかった母親と、生来の血友病で苦しむ弟アレクセイの
面倒も見る優しさもあった様子。


思春期に入り、マリーアは皇帝一家のヨット、シュタンダート・Štandart
でのバカンスで、乗り込んでいた海軍士官、名前は不詳、との間に
淡い恋心を抱いた様で、
船員や将校たちの間に目くばせや笑いを誘ったそう。 可愛いなぁ!



ルイス・マウントバッテンとマリーア・ロマノフは、1910年ドイツでの一族の
会合に参加し、ロマノフ一族、そしてニコライ2世の妻アレクサンドラの姉の
ヴィクトリアと夫のルイス・ディ・バッテンベルグ、

つまりルイス・マウントバッテンの両親と息子2人、兄のジョージも参加、

マリーア・ロマノフ11歳、ルイス10歳の、最初で最後の出会いが。

左ルイス12歳、父ルイージ、兄ジョージ。

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姓をマウントバッテン、と書いていますが、当時はバッテンベルグ・Battenbergで、
アンティ・ドイツの空気が満ちて来た1917年に、
一家の姓をマウントバッテン・Mauntbattenに変えています。

これはエリザベス2世女王の夫君フィリップ殿下の姓も同様ですね。


で上の写真よりも1~2歳若かった、というよりも幼かったルイスが
マリーアに出会った訳ですが、様子を後年自叙伝に書いており、

 姉妹は愛らしく、恐ろしい程甘美で、写真で見るよりずっと美しかった。
 自分はマリーアに恋をし、結婚する事を決意した。
 彼女は無条件に愛らしかった。 
 彼女の写真を自分の寝室に飾った。 ずっと。

10歳の少年にしては、大変に情緒面が大人であるという感じで。



マリーア 1914年。 15歳。

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第一次大戦の混乱状態で、若きマウントバッテンは愛するマリーアに
もう一度会う事は出来ませんでしたが、

彼の兄ジョージはイギリス海軍士官で、1914年にロシアに行き、
かなりの時をロマノフ一家と過ごす事が出来、

2女のタチアーナと友情を育みますが、1916年にはロマノフ家の一員である
ナデジダ・ミチャイロフナ・デ・トルビー伯爵婦人・Nadejda Michajlovna
de Torbyと結婚。

翌年生まれた女子には、ロマノフ公女に敬意を表し「タチアナ」という名を。


ロシアの10月革命が起こり、ロマノフ家は引き裂かれますが、
当時18歳のルイス・マウントバッテンは、彼らのニュースを焦燥の思いで待ち、

後年1969年のインタヴューで語った所によると、
 ボルシェビキが主導権を握った後、我々は家族のニュースを殆ど知らず、
 皆が最終的には追放されるであろうと望んでいましたが、
 最悪の事態をも恐れていました。
 そしてそれが起こった時も、エカテリンブルグでの死刑執行の
 恐ろしい詳細を知るまでには、長い時間がかかりました。と。


既によく知られている様に、ロマノフ一家は1918年7月16~17日にかけ
全員が虐殺され、

ルイス・マウントバッテンとマリーア・ロマノフの淡い恋については、
愛情こもった記憶だけが残る事に。


洋の東西を問わず、かって大勢力を握った執政者の最後は
時に悲惨な事があったとは知っていても、
ロマノフ家の最後は、まるで門外漢のshinkaiでも極端さを感じますから、
愛おしく思っていた彼にとっては、納得仕切れない哀切な最後だったでしょうね。

イギリス王家としても、救助の道を探る事も勿論出来たのでしょうが、
国内に左翼運動を持ち込むのではないか、という恐れから、
そのままの成り行きに任せた、というのも読みました。
政治というのは、やはり無情、非情なものですね。



1930年代のルイス・マウントバッテン。

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そして彼は成長するにつれ、英海軍、国内の重要人物になり、

1943年1月連合国の首脳のカサブランカ会談、チャーチル英首相
アメリカのルーズヴェルト大統領と。

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最後は英海軍の元帥にまでなったルイス・マウントバッテンですが、

1922年に結婚した大遺産相続者のエドウィナ・アシュレイ・
Edwina Ashleyとの間は、2人の娘を得たものの、
お互いの裏切りと絶え間ないスキャンダルで!

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いやぁ、寝室の自分のベッドの横に、かっての想いを寄せた女性の写真がある、
というのは、妻にとってどんな気持ちがするものか、と
いささか同情を感じたshinkaiですが、

なんとなんと、彼女の方は結婚してからずっと浮気続きで、
夫に隠しもせず、家に呼び、家の友人状態となり、

後年娘が書いた本には、母方の「叔父さん」という感じで付き合い、
母親は「男食い」だった、とあるそうで、ははは、

相手の名を次々と並べたのも読みましたが、はぁ、ここでは主題が
違うので割愛します。


一方彼の方も、イギリスでは1967年迄イギリスではホモセクシュアルは
犯罪扱いでしたので、バイセクシャル者として控訴されたり、
1960年に妻のエドウィナが亡くなりますが、最後まで彼は婚外の
男女共の関係があったそうで!


多分結婚生活における彼の感情面は常に嵐の連続で、その為逆に
ルイスは清純に愛したマリーア・ロマノフの面影を大事に持ち続け、

世界のどこに行っても、彼のベッド脇の小卓には彼女の写真があったと!


1979年8月27日、80歳を前にして未だに海の男、英国男の精神を
持ち続けるマウントバッテン卿は、アイルランドのマラモア・Mullaghmoreの
小さな港に係留していた自分の船で海に出かけようと。

が、IRA暫定派によりエンジンに22kgのコマンド爆弾が仕掛けられており、
ドニゴール湾の直前で爆発。

操船していたマウントバッテン卿はほぼ即死、孫の1人と14歳の水兵、
娘の姑が死亡、もう1人の孫と婿、娘が重症というテロ事件でした。



マリーアとルイスの、ルイスのみが長く生きましたが、
2人ともに同じ悲劇的な最後、それもどちらも革命軍による無残な死を、
愛する家族、愛する人の傍らで遂げたのでした。

12-57c954c6250a016b1f7b87fbb637c889.jpg

未だ子供の域を出ないうちに会い、大きな強烈な印象を受けたのを
抱き続ける事により、同じ運命をたどった、という事なのかなぁ、と、
いささか考えた事でした。


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posted by shinkai at 03:10Comment(0)・欄外

・ レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ、ジョコンダ」の真のモデルは?

謎の微笑を浮かべる「モナ・リザ」の絵、パリのルーヴル博物館収蔵で、
世界中の観客を引き寄せるレオナルド・ダ・ヴィンチの名画、
勿論皆さんも良くご存知と思います。

1-Gioconda-Parigi.jpg


で、今回はこの有名な絵のモデルについての記事をご紹介ですが、
まず見つけたのはこの記事で、

もしモナ・リザがリーザ・デル・ジョコンドでなかったら?
E se la Monna Lisa non fosse Lisa del Giocondo?

で興味を引かれ、好奇心に満ちてサイトで検索すると、あれこれたくさん!!

ジョコンダのすべての秘密 と、存在の真実についての推測
Tutti i misteri della Gioconda. E un’ipotesi sulla sua vera identità

ジョコンダはウルビーノの人だった。 レオナルドの絵の秘密に関する証拠
La Gioconda era di Urbino. Le prove del mistero sul dipinto di Leonardo

他にも登場人物についてはウィキペディアも調べましたが、
上記の3記事を参考にお話を。


約500年前に描かれたこの絵のモデルは「モンナ・リザ・Monna Lisa」、
つまり1550年に「画家・彫刻家偉人伝」を著したジョルジョ・ヴァサーリ・
Giorgio Vasari(1511-1574)が書いた所の、

  描かれた女性はリーザ・デル・ジョコンド・Lisa del Giocondo、
  フランチェスコ・デル・ジョコンド・Francescoの妻であり、
  彼らの2番目の息子が生まれた記念に、レオナルドに肖像画を依頼した、

というのがすっかりそのまま、現在に至るも絵のタイトルになっている訳ですが、

  レオナルドは女性の眉毛と、そして両頬にえくぼを描いた、

とあるそうで、済みません、shinkaiは読んでおりませんで・・、
 
と書いた所で、何、この横着は!本を持っているのに肝心な調べをせんのかいな、
と反省し、寒いガレージ脇の本棚から探し机に持ち帰り、読みましたです、はい。


ヴァザーリ殿が熱を込めて書いているのを抜粋しますと、

目は生きているものに常に見られる、あの輝きとうるおいを持っている。
そして周囲には赤味を帯びた鉛色がつけられ、睫毛はまた繊細きわまりない
感覚無くしては描きえないものである。
眉毛は毛が肌から生じて、あるいは濃く、あるいは薄く、毛根によって
さまざまに変化している様子がえがかれているため、これ以上自然であることは
不可能である。
鼻孔の美しいその鼻はばら色でやわらかく、まるで生きている様である。
口はその開きぐあいといい、また口唇が赤で描き出されているさまや、
顔色が真に迫っているところなど、色が着けられたのではなく、肉そのものと
思われれるほどであった。
喉のへこみを気をつけて見る人には脈が打つのが見える。
実にかくなる方法で描かれたこの絵は、すべての作家、いかなる才人をも
戦慄させ、恐れさせてしまうことが出来る。 中略

レオナルドのこの作品には心地良い微笑があるが、そこからは人間的と
いうより神的なものが見てとれる。   以下略

とあり、両頬にえくぼが、については書かれておりませんでしたぁ。


ええと、レオナルドの生きた時代は1452~1519年ですから、
ヴァサーリが生まれた時は既に49,50歳の時で、1516年には
フランス国王フランソワ1世に招かれ、生涯を終えるクルーの館に行っており、

つまりヴァザーリは彼に会った事無く、「モナ・リザ」の絵も、レオナルドが
フランスに持参していますから見た事も無いのですね。

が、それにしては素晴らしく巧みに描写しておりますねぇ!!
はぁ、ヴァザーリの描いた人物像の引用には良く出会うのですが、
何となく、「講釈師、見て来た様な嘘を言い」が頭に浮かぶ程で。

で、上記した様に、モナ・リザには眉が描かれておりません。

2-1-20210314_14104848.jpg



既に大画家であったレオナルドが描いた女性像であれば、どの方の、と
由緒正しくフィレンツェに残る筈で、大金を払って描いて頂くのであるし、
大自慢で見せびらかすでしょうしね。

それにレオナルドはどんな貴族でも、貴族でなくとも、お金を払ってくれれば描く、
という様なイメージは無く、その辺りも疑問がありますし、

もし大金持ちであり、2人めの息子が生まれた記念、というのであれば、
衣装もも少し煌びやかで、子供も一緒に、というような絵を希望すると
思われませんか? 


で、ではレオナルドが描いた神秘的な女性は一体誰だったろう、となると、

まるで手掛かりが無い訳でなく、既に彼がフランスのクルーの館に行った後

2-2-Clos_luce.jpg


1517年10月10日枢機卿ルイージ・ダラゴーナ・Luigi d'Aragonaが、
この方はナポリ王国王フェッランテ・ダラゴーナの甥にあたる方で、
フランスへの旅の途中に大マエストロに挨拶に寄り、 

その秘書で一緒にいたアントニオ・デ・べアティス・Antonio de Beatisが
レオナルドの作品を見に伺った様子を書き残しており、

3枚作品を見、・サン・ジョヴァンニ・バッティスタ ・サンタンナSant'Anna
そしてもう1枚は、ジュリアーノ・デ・メディチ・Giuliano de'Medici、
偉大なロレンツォ・メディチの息子3人男子の末、が依頼した
女性の肖像画であったと。

でこの絵が現在、レオナルドの研究者達により「真実のジョコンダのモデル」
とされている女性だろうと言うのですね。



ラファエッロ描く 依頼主ジュリアーノ・デ・メディチ像 (1479-1516)

3-Giuliano_de_medici.jpg

ラファエッロ作、と知った時、少し驚きましたのです。
良く本人に似ているのでしょうが、なんとも絵として味が無く、失礼!
ティツィアーノ描く男性肖像画の素晴らしさに比べ、とつい思った次第です。
ですが、女性像を描くと、私めの感想がまるで逆になるので・・、むにゃむにゃ。



偉大なるロレンツォが1492年43歳の若さで亡くなった後、長子であるピエロ・
Pieroが、ナポリ王国の後継者問題で南下してきたフランス王シャルル8世に
まるで抵抗せずに城門を開いた事から市民の反発を食らい、
メディチ家は追放されます。


この時の亡命生活中ジュリアーノは様々な文化人を訪れもしましたが、
ウルビーノの滞在中に知り合ったパチフィカ・ブランディーニ・
Pacifica Beandini、

モンテフェルトゥロ公に大変近く、影響を持つ裕福なジョヴァンニ・アントニオ・
ブランディーニ・Giovanni Antonioの庶子、後に嫡子となった娘で、

既に既婚者でしたが、ジュリアーノの愛人となり、
1511年男子を出産するものの、彼女は亡くなります。


歴史家ロヴェルト・ザッペッリ・Roberto Zapperi(1932-)が
2012年に出版した「モンナ・リーザ さようなら・Monna Losa Addio」
によると、

4-1-monna lisa addio..jpg


彼の研究の前に、レオナルドの最大の学者であるカルロ・ペドゥレッティ・
Carlo Pedretti(1928-2018)が既に「パチフィカ・ブランディーニ」
に言及していたのが最初の直感に繋がったそうですが、

ザッペリの研究は大変に厳しく深刻なもので、絵の依頼主とオリジナルの
作品について、未だ書かれた事のない物で、
記録を探しつつ、繋いで行かないといけませんものね。



レオナルドは勿論ジュリアーノ・デ・メディチと繋がりはありますが、
ジュリアーノとリーザ・ゲラルディーニ・ジョコンドは会った事が無いので、
ジュリアーノが彼女の肖像を依頼する事は無く、

レオナルドがローマに滞在中の1512-13年に、ジュリアーノが
自分の子を産んで亡くなったパチフィカの像を依頼したのであろうという事に。



この生まれた子についての記録は、ウルビーノ大学人文化学図書館の
古文書に列挙されており、パスクワリーノ・Pasqualinoという名があり、
復活祭の土曜の夜、ここからパスクワリーノという名前が付けられたものと。

4-2-nome di pasqualino.jpg



その後ジュリアーノ・デ・メディチの庶子と認められ、後に嫡子に直され、
名前もイッポリート・Ippolito(1511-1535)と変え、

5-Ippolito_de_Medici.jpg



ローマに連れていかれ、ジュリアーノの兄のジョヴァンニ、
教皇レオ10世の下で枢機卿への道を歩みますが、

僅か24歳で、後の教皇クレメンス7世の庶子アレッサンドロ・
Alessandro(1510-1537)により毒殺されます。

6-Alessandro_de'_Medici_Bronzino.jpg


クレメンス7世はやはりメディチ家出身、偉大なロレンツォの弟ジュリアーノ・
Giuliano、パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノの庶子で、

この辺り頭の中がこんがらかりそう!

先回ご案内したフランスにお輿入れの「カトリーヌ・ド・メディシス」は
フィレンツェに居た頃イッポリートと恋仲だったのを、結婚を仲介した
クレメンス7世が阻止したとかも、ありましたっけ。

いずれにしても、イッポリートを殺害させたアレッサンドロもその2年後には
自分も暗殺されるという・・!



そしてもう1つ、モンナ・リーザに描かれたのはフィレンツェの女性ではなく、
ウルビーノ近郊モンテフェルトゥロの土地に関係のある女性、という
その証明の1つであるというのが、

モナ・リザの絵の背後に描かれている風景ですが、

この場面は以前からトスカーナの奥、ヴァル・ディ・キアーナ・
Val di chiana、アレッツォからシエナ、ペルージャ、テルニに至る
広い平野の、キアーナ川沿い、であるという説が有名ですが、

8-Mona_Lisa_detail_right.jpg



今回見つけた記事は、この顔の左に描かれた場所がバーショの丘・
Colle di Bascioである、というもので、

9-comparazione-colle-di-Bascio-con-la-torre-sulla-cima-.jpg


そう言えば現在の地形ともよく似ている、とどこかと探しましたら、

北がエミーリア・ロマーニャ、南がトスカーナ、そして東がウンブリアと
グレイの点線が州境を示す、その接点近くにあり、

10-torre di bascio 1.jpg

11-borgo e torre di bascio.jpg

下の地図の、川と道のカーヴ具合が余りにも絵とそっくりで笑いが。



読んでいて、あれ、これは?と思ったら、以前ピエロ・デッラ・フランチェスカの
描いた背景の舞台はここ、という記事を読んだ女性2人、
オリヴィア・ネーシ・Olivia Nesci、ウルビーノ大学の地形学の教授、
ロゼッタ・ボルキーア・Rosetta Borchia、画家、写真家の2人で、

「コーディチェ P」という図解アトラスの本を出版されているそう。

12-9788837092771.jpg


ピエロ・デッラ・フランチェスカの地 ・作品背景に残る風景を探し訪ね
https://www.italiashiho.site/archives/20181210-1.html



レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作に描かれた女性は、ウルビーノの
パチフィカ・ブランディーニで、ジュリアーノ・ディ・メディチと恋仲になり、
子を産み落とした後亡くなった、幸薄い女性であったろう、と
あれこれ書いて来ましたが、


1人ぽっちでこの世に生まれて来た息子の為に、母の面影を、と
レオナルドに肖像を依頼したジュリアーノの気持ち、

そしてそれをまた自分が生まれた環境、母親の地位、関係を思い起こし、
指輪もネックレスも何の装飾も身に着けず、ただ優しい、慈愛溢れた目で
じっとこちらを見つめる女性に描いたレオナルド。

7-Gioconda-Parigi - Copia.jpg


それらを思うとちょっと心が、目が熱くなります。


レオナルド・ダ・ヴィンチの母親について
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463017660.html

レオナルド・ダ・ヴィンチの生家と、その周辺
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463017233.html


でも残念ながら、この絵はジュリアーノの1516年の早い死で
依頼主に届かずのままに終わります・・。

一度はルーヴルに会いに行きたいなぁ!


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・ カトリーヌ・ド・メディシス  フランスへの香水貢献とちょっぴりの暗黒面と

カトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589)、イタリアはフィレンツェの
メディチ家出身、かのロレンツォ・イル・マニーフィコのひ孫にあたります。

1-Caterina-de-Medici1.jpg



彼女は14歳の時、当時のフランス王フランソワ1世の子
後の国王アンリ2世(1519-1559)と結婚。

が夫の国王アンリ2世を26歳の時に、騎馬試合の大惨事事故により
亡くして以来、69歳で亡くなるまでを王妃、そして国王母公としての
55年に渡るフランス生活ですので、

彼女の名前もフランス風に、カトリーヌ・ド・メディシスと記しますね。


当時はイタリアの方が文化的に進んでおり、美味しいイタリア料理や、
フォークをフランスに持ち込んだとかの逸話があれこれありますが、

当時のフランスはカトリック教徒とプロテスタント教徒(ユグノー)との
対立が激しく、遂に1572年にはサン・バルテルミ―の大虐殺も起こり、

また彼女の産んだ男子3人がつぎつぎと国王となりますが、いずれも長く続かず、
という大変な時代、人生を生きた女性でした。



暫く前に「王妃マルゴ」という、アレクサンドル・デュマの作品を映画化
したのを見た時に、豪華な衣装、舞台設定にかかわらず大変ややこしく、
はぁ、shinkaiには、俳優の顔と扮する人物とがピンと来ずで、へへ、

映画を見た後、改めてあれこれ読み、なんとまぁ、大変な時代だったと感嘆、
到底少々調べた程度では及ばぬ深刻さで、

が、イタリア料理以外にも、今やフランスがご本家とされている香水も
かってカトリーヌが持ち込んだ、つまり調香師を連れて行ったと知り、
今も健在に残る香りのお話と、

はたまた「毒」使用についても出て来たので、それについてもちょっぴりと。


参考にした記事は
カテリーナ・デメディチとレナート・ビアンコ、フランス宮廷における香水と毒
Caterina De’ Medici e Renato Bianco tra Profumo e Veleni alla corte di Francia

レネ・レ・フロランタン、フランス宮廷における調香師
René Le Florentin: Profumiere Alla Corte Di Francia



という事で、カトリーヌと、当時オルレアン公アンリ2世の結婚式は
1533年10月28日にマルセイユで行われましたが、

2-le_nozze_di_caterina_di_jacopo_da_empoli_di_proprieta_della_galleria_degli_uffizi.jpg



イタリアはフィレンツェから花嫁が、花嫁介添え人、近習たち、
警備員を引き連れマルセイユに到着した時、

フランス側の迎えの人々、そして地元民たちは、女性達が首やベルトに
付けていた金や銀の球、そしてそれを時折鼻に使づけ香りをかぐ様子に
魅力と疑問とを感じた様子でしたが、

その仕草はマルセイユの港町の悪臭を打ち消すための物で、
中に香料入りのエッセンスが詰められた、練り香の様なものと、
フィレンツェではブッソロッティ・Bussolittiと呼ばれる球体で、

その後大変に人気の出た香りのエッセンスが含まれた軟膏で、
ポマンダー・Pomanderという名が付けられたと。


写真は、「中世における琥珀の卵・Il pomo d’ambra nel Medioevo
という文献に載っていたポマンダーと書かれたもので、
多分こういった形であったろうと。

3-img_5960.jpg



「香水」使用はローマ期において大変に栄え、後忘れ去られていたのが、
当時のフィレンツェでは高貴な女性の間で定期的に用いられており、

イタリアの殆どすべての修道院には、ハーブ処理と、そのエッセンス抽出に
専念する修道士が少なくとも1人はいたのだそうで。


そしてフランスの宮廷入りをするカトリーヌには、レナート・ビアンコ・
Renato Bianco、後にフランス名レネ・ル・フロランタン・
René le Florentinとなる調香師が従っており、

こうして彼女が持ち込んだ香り、レナート・ビアンコによる香水が
フランス貴族、裕福な階級の社会における不可欠要素になったのですね。


レナート・ビアンコの正確な記録は残っておらず、

4-Renato-Bianco.jpg


伝説的に、フィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴエッラ修道院の使用人と
して入り込み、後にアルキミスティ・alchimistiの僧の助手となり、
ハーブの抽出法についての秘密、技術を学んだと。

またある説では、ヴェネツィアの港で香辛料の取引をしていたフリウリの
商人の息子とも言い、フィレンツェに引っ越した後、
1519年にメディチ家と接触したと言い、

またはフィレンツェのヴェッキオ橋近くの薬草店の見習いとして10年程
働いている内に、エッセンスのマエストロとなり、ここで著名な画家達、
またミケランジェロと出会い、
このおかげでルッカとカッラーラの貴族一族に紹介され、後にメディチ家にも、と。


という様に様々に彼の成り立ちが語られますが、
要は、サンタ・マリーア・ノヴェッラ修道院、という大きな背後関係を
持っていた、という事でしょうね。

師の亡後は、修道院唯一人のこの分野の豊富な知識技術所持者となり、
他の僧たちからの羨望を招きますが、

カトリーナが彼の熟練度に魅了され、専用の調香師に任命されたのが
彼にとっては大きな出世の糸口に。


上に「アルキミスティ・錬金術師」という言葉が出ましたが、
これは普通の金属を金に変える、という通常の錬金術師を指すのではなく、

化学、物理学、占星術、冶金学、医学等々、様々な分野の言語を通じて
表現される哲学システムであり、その考え方は科学的方法が誕生する以前の
現代の化学の先駆けである、という事で、

修道院にいたアルキミスティの僧、とは、医学、占星術、美術なども収めた
科学的分野の専門僧を指すのだろう、と思います。

そしてカトリーヌはアンリ2世と結婚の後、イタリアからフランス宮廷に
重要な天文学者、医者、アルキミスティ、僧、教皇庁の護衛兵、
これはスイス衛兵の事と、お付きの女性達を呼び寄せているそうで、

上記したレナート・ビアンコもこうして移住した人物の中で飛びぬけており、
パリの・サン・ミッシェル橋の近くに店を持ち、
裕福な貴族達の為に香水や化粧品を提供して繁盛したのが、
フランスにおける無数の新しい調香師の誕生に貢献したと。


彼の貴族社会における成功のレベルは、多くの敵を作りもし、
また彼自身の権力への欲望は、道徳に反し、殺人者にさえなった程に!

というのも、当時の人々は余り入浴せず、また呼吸器疾患を恐れ沐浴を避けたり、
また建物の広い部屋は決して十分に暖かくはなく、
そういった衛生状態から来る体の悪臭をカバーする為には香水が
欠かす事が出来ないようになり、

当時は彼の店に貴族階級の顧客は自身のリネンの下着類を預け、
香りを付けて貰うのが一般的となったのですが、

彼はその香りをつける前に、処方を研究した不活性毒を下着に浸ませ、
その後に店の使用人たちが香りを付けた下着は、
体の熱や汗に反応し強力な酸のようになり、皮膚や肉を燃やし、
耐えがたい苦痛で死に至ったと。

この衣類にしみ込んだ毒、については、宮廷陰謀を描いた映画にも出ますし、
南アフリカのアパルトヘイト政策の時にも使われた、と
いう恐ろしい事を知りましたから、
大袈裟な嘘話ではなく、実際に行われた様子ですね。


レナート・ビアンコは、カトリーヌの為に皮なめしの悪臭を取り除いた
香りの手袋とか、手の肌を水溶性に保つ為の香油なども使い、
フランスの手袋メーカー連合に、大きな名声を与える事も。

但し一方、カトリーヌの娘マルゴと結婚したプロテスタントのアンリ4世
の母親ジャンヌ・ダルブレは、
カトリーヌから贈られた「毒のしみ込んだ」香りの手袋で死に至った、
という伝説も。



ブロア城ではカトリーヌが、彼女の書斎の秘密のキャビネットに、
毒を隠しているのではないかと、長い事信じられていたそうで、

5-Castello-Blois-Caterina-de-Medici.jpg



上記した1994年仏映画「王妃マルゴ・La Reine Margot」の中に、

6-Margot00.jpg


占いでフランス王になると出た、娘マルゴの結婚相手のナヴァール王アンリを、
息子たちの為に、とカトリーヌが暗殺を画策するものの、

彼は実際に後にアンリ4世として、フランス国王になりますが、

彼に渡る筈の毒を含んだ本を、マルゴの兄王シャルル9世が気に入り読みふけり、
閉じられたページを開くのに指で舐め、徐々に確実に死に至る場面があり、
最後は母親のカトリーヌが仕組んだことと知りつつ、という恐ろしい経緯も。



映画の結婚式の場面。 実際はカトリックとプロテスタントの結婚の為、
花婿のアンリは聖堂の外に、という事だったらしいですが、

7-qm1.jpg

式で、イエス、じゃなかった、ウィ、の返事をマルゴが躊躇っているのを、
兄王シャルルが怒り、背後から彼女のうなじを抑えて頭を下げさせ、
強引に同意の印とさせる場面があり、実際その様だったようで!



こちらはカトリーヌ、イタリアの名女優ヴィルナ・リージと、
兄王シャルル9世。

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1572年8月24日には、それ迄も闘争の続いていたプロテスタントとの争いで、
遂に「サン・バルテルミ―の大虐殺」と呼ばれるカトリック教徒側が大虐殺を、
という大惨事も起き、

9-Francois_Dubois_001.jpg


犠牲者数の数については現在も正確に算定されておらず、
2000人から70000人という差で、

戦争でない日常生活における殺人場面が映画の中で繰り広げられるのは
非常に恐ろしく、豪華絢爛でもありながら、暗い凄惨な印象が残りました。


蛇足ながらシャルル9世の跡を継いだアンリ3世の、ちょっと興味深いお話は

ちょっぴり歴史に名が残る、 我が町コネリアーノの様子を
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467229891.html



レナート・ビアンコの様々な製品のレシピはその後の長い時代の中で
失われてしまいましたが、
「女王の水・l'Acqua della Regina」というオーデコロンは
現在も残っており、

これはカラーブリアのミカンの一種であるベルガモットの強い香りがあるもので、
カトリーヌの依頼によって創られた、という事実に由来し、

現在もフィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂の脇にある薬局、
聖堂名と同名の薬局で売られている「アックワ・ディ・コローニア
がそれなんだそうで。

santa-maria-novella-441.jpg

10-nd.11472.jpg



非常に高く評価されている製品の為、オリジナルのレシピがほんのわずか
修正された様ですが、何世紀にもわたって復活しており、

フィレンツェのお土産に、自分自身へのお土産にされている方も多い様ですね。


レナート・ビアンコは、パリにおいて最も嫌われ、また最も愛された人物
でしたが、宮廷の中における様々な陰謀にも関わらず、

その卓越した個性は現代の香水のパイオニアの1人として、
フランスを香水の偉大な故郷にした人物として記憶され、

また共に自身の故郷フィレンツェを、香水と自然の美容製品の
故郷として残す貢献をもしたのでした。


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・ 鉛、水銀、砒素などなど  過去の恐ろしい致命的美容術、化粧品

我らが知っている限り、我々人間はずっと身体的外観が良くなるようにと
望み、努力する固定観念を持ち、

そしてまたその時代によって無視できない美の基準があり、

その基準は時により過激的に挑発、挑戦させるものであり、
幾つかのケースは死に至るものだったのですね。

古の時代から、美容の為にたくさんの自然物質が使われましたが、

と同様に化学物質が使われ、その中の幾つかは、ほんの少し前の時代に
大きな有害性を持つ事が発見され、
美容術の世界から完全に消去されたものが多くありました。

という事で、今回はかっての化粧品に使われていた恐ろしい化学物質、
タイトルに述べた鉛、水銀、砒素等々、どの様に使われたかのお話を。

参考にしたサイト記事はこちらです。
Piombo, Mercurio e Arsenico: i letali intrugli della Cosmetica del Passato



古代エジプトにおける美とは、視線を広げる為の形を目に与える事で、

1-Donne-Antico-Egitto.jpg


この化粧法は、単に美的なものでなく、太陽光線と砂ぼこりから
目を守る為のものであり、

コール・Kohl またはミルエッド・Mirwedと呼ばれ、いわば現在の
アイライナーに当たるもの。


物質は主として、孔雀石から取った炭酸銅、これは深緑色となり、
また方鉛鉱、または硫化鉛、これは濃く強い色となり、

2-kujyakuisi315840098.jpg

これらの粉末を水、樹脂、死亡と混ぜ合わせて使ったのですね。



ギリシャ人、ローマ人にとっての化粧品の最上品は中近東から来るもの、
つまり最上の物質を使っているものであり、

がこれらの製品には美しさと高貴さの象徴である、肌を綺麗にする、
肌を白くする物質は無く、

で、ローマ人の間に「鉛の白」、絵を描くのに使う顔料の白が広がります。

こちらは、ポンペイの壁画から。

3-Affresco-a-Pompei.jpg



この白色は16~17世紀のバロッコ時代まで使われ、
芸術家たちは色をより良く合わせて使う為の助言者、つまり
現代のメーキャップ・アーティストの先駆けともなったのですね。


鉛白、油絵具でシルヴァー・ホワイトと呼ばれる色で、まさに古くからある
白色ですが、描かれた後年数が経つと白色が薄く透き通る様になります。

後に別の形に描き直した時、下描きを消すのに使った鉛白が透け、
下の形が見えているのを、皆さんもご覧になった事があると思いますが、
これを「画家の描き直し、後悔・ペンティメント」と呼びます。

現在は少し黄味がかったチタニウム・ホワイトの様な被覆性が強い白色
がありますが、古くにはこの鉛白のみを画家が使っており、
ジオットーの骨の研究などでは、この鉛の影響がある、と読んだ事も。

「鉛」の恐ろしさは、体内に蓄積され骨に新着する事で、慢性中毒として
神経や腎臓に障害を引き起こすそうで、
古代の人々が知らずに、単に「白色」として使ったのは、お気の毒でした。



中世において、美の理想は進歩し、

「完全美人」の条件は、髪の色は明るく、顔立ちは丸く薔薇色、
口は小さく、目は大きく、で、
額は広く、で、


このアントニオ・ポッライオーロ描く貴婦人の肖像は、少し違う様で、はは。

4-Ritratto-Donna-Pollaiolo.jpg


額を広くする為には、生石灰と砒素を混ぜたもので毛根を焼く方法があり、
怖~いぃ、この方法による影響は長期的には死に至ったと!

この鉱石は砒素。

5-arsenico.jpg



目を大きくするには、ベッラドンナ・belladonnaという植物・
西洋ハシリドコロが用いられ、この目薬は瞳孔を広げるのだそうで、

6-belladonna.jpg


この植物はアトロピンという成分を含み、これは幻覚、混乱、中毒を
引き起こす、つまり有毒植物だったのですね。

瞳孔を広げる、と言うと、shinkaiなど眼科の検査で何度も瞳孔を
広げる目薬の経験があり、ありゃぁ、と思いますが、現代で良かったぁ!



美の探求はもっともっと度を越し深くなり、
バロック時代の女性にとっては、年を取る恐れ心痛が日常的になり、

それに対し、現在の「アンチ・エイジング用お顔パック」の様に発展したのが、
昇華水銀を使った湿布で、これは文字通り皺を消すものの、
たびたびグロテスクな影響も引き起こし、副作用として歯を黒くする迄も。


水銀。

7-Mercurio.jpg


水銀は、古くには逆に永遠の命とか美に効果を持つと考えられ、
その為に摂取して命を落としたりもあったそうで、
水俣病もメチル水銀による大きな公害となりましたね。



唇には明礬を、アラビアゴム、コチニール(臙脂虫、カイガラムシの雄から)
と混ぜたものを。

これは1700年にはマリーア・アントワネットのルージュ・口紅となったそうで、
赤くはなるものの、その部分が焼けたそう。

9-gioielli-di-Maria-Antonietta-5.jpg



コチニールは時に水銀か硫黄で代用され、これは腐食性を悪化させたといい!

これがカイガラムシで、潰すと真っ赤になるのですが、

8-images.jpg



こちらがコチニールから採取した顔料、大変美しい透明深紅色で、

10-rosso di cocciniglie.jpg


1度大変にお高い本物を、1グラムだったかな、買った事があり、
大変に軽く1グラムでも結構の量で、使えました。


が、今回これで検索していて、コチニールから食品用の色も作られ、
ジュースとか、アルコール類にも使われている事を知りました!

追及しているサイトによると、添加物に「+昆虫」と書くべきだ、とあり、
次回スーパーでその種を見た時は確かめよう、と思った事でした。



こちらは硫黄、

szolfo_XL.jpg

二酸化硫黄などは車の排気ガスに含まれ、大気汚染に挙げられますが、
やはり体内に入ると気管支炎、喘息なども引き起こすそう。



19世紀後半に入ると美の基準がもっと極端になり、細い腰を強調の
コルセットはもっともっと締め付ける様になり、
ヴィットリア朝時代の美しい少女とは、白く青白く、顔に青い静脈を描くほどに!
健康が気遣われるほどに繊細な女性がシンボルだったのですと!!

太陽は嫌われ、帽子、ベレー、そして日除け傘が散歩に欠かせず、
繊細な青白さを見せる為に、亜鉛の粉を、現在の頬紅と同じように使ったと。
まぁ、薔薇色とか赤く見せるのとは逆ですけど、ね。

この時代に流行ったアイシャドーとなると、鉛を含んだ粉、つまり白っぽく、
そして硫化アンチモン、常温で光沢のある銀白色の硬くてもろい金属、
とあるので、やはりシルバー系の白色でしょうね。


で、口紅となると、基本物質に硫化水銀と。
 
調べましたら、水銀朱、硫化第二水銀というのが古代から赤色として
使われていたそうで、日本画で使われる辰砂という深みを持つ赤色は、
硫化水銀だそうで、

絵画に使う色を、鉛の白同様、そのまま化粧用に使っていた訳ですね。


「薔薇のエプロン」 George Gordon Fraser (1859-1895)

11-Donna-Vittoriana.jpg



そして産業改革と新しい化学物質の発見により、大量加工による
ローションの生産が急増し、

肌の為の美容のみならず、例えば「そばかす」を無くすための、
Dr.Ch Berryの「そばかす軟膏」なるものがあり、

12-Unguento.jpg


これは10~15%の水銀を含んだ軟膏で、1940年代になり、水銀含有量は
5%に低下し、遂には完全に消滅しますが、それは1970年になっての事!

この軟膏がこれほどに広がり、有名だったのが不思議なようですが、



女性による1932年の大西洋単独横断で有名なアメーリア・イアハート、
これは1927年のリンドバーグに継ぐ快挙を成し遂げた方ですが、

13-Earhart.jpg

彼女の個人持ち物の中にもあったそうで!
う~ん、そう思ってみると、そばかす肌だったかも、ですね。



他にもアンティ・エイジング用のクリーム「若さの開花」というのが発売され、
無害、として売り出されましたが、酢酸鉛と炭酸塩が含まれており、
吐き気の様な軽度の副作用から麻酔のより深刻な副作用迄引き起こし、
その高い危険率への、低い毒性をもつ代替品は砒素錠剤だったと!

1900年に発明された「ラッシュ・ルアー・Lash Lure」は高い毒性の
コールタールを含み、失明を引き起こし、死亡者も。
他にも何件かの死亡の疑いが持たれ、1940年には販売禁止に。


漸くに20世紀後半になり、化粧品やメイクアップに使用される物質に
対しての認識が新しくなり、

INCI・製品に含まれる割合に従って並べられる物質リストが出来、
製品の基本物質は、完全に植物となりました。

有効成分と物質は植物に由来するか、天然由来の化合物に由来し、
化学薬品を使用する製品と比較すると、健康上のリスクは最小限となり、
皮膚への利益もかなりのもの、となっています。

というのが、今回の記事の結論でした。


shinkaiはまるで化粧なしで、ローションとアロエのクリームのみで
過ごしていますが、口紅も今のマスク生活では使う事なくで、

まさに過去の美容術、化粧品の内容を読むに従い、恐ろしくなった程で、

それにしても、美しくなる為に毒を使わされていた過去の女性たち、
知らぬ事だったとはいえ、哀し過ぎます。

元に戻る事無く、再度起きることない事を願います!


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posted by shinkai at 01:27Comment(0)・欄外