・ レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ、ジョコンダ」の真のモデルは?

謎の微笑を浮かべる「モナ・リザ」の絵、パリのルーヴル博物館収蔵で、
世界中の観客を引き寄せるレオナルド・ダ・ヴィンチの名画、
勿論皆さんも良くご存知と思います。

1-Gioconda-Parigi.jpg


で、今回はこの有名な絵のモデルについての記事をご紹介ですが、
まず見つけたのはこの記事で、

もしモナ・リザがリーザ・デル・ジョコンドでなかったら?
E se la Monna Lisa non fosse Lisa del Giocondo?

で興味を引かれ、好奇心に満ちてサイトで検索すると、あれこれたくさん!!

ジョコンダのすべての秘密 と、存在の真実についての推測
Tutti i misteri della Gioconda. E un’ipotesi sulla sua vera identità

ジョコンダはウルビーノの人だった。 レオナルドの絵の秘密に関する証拠
La Gioconda era di Urbino. Le prove del mistero sul dipinto di Leonardo

他にも登場人物についてはウィキペディアも調べましたが、
上記の3記事を参考にお話を。


約500年前に描かれたこの絵のモデルは「モンナ・リザ・Monna Lisa」、
つまり1550年に「画家・彫刻家偉人伝」を著したジョルジョ・ヴァサーリ・
Giorgio Vasari(1511-1574)が書いた所の、

  描かれた女性はリーザ・デル・ジョコンド・Lisa del Giocondo、
  フランチェスコ・デル・ジョコンド・Francescoの妻であり、
  彼らの2番目の息子が生まれた記念に、レオナルドに肖像画を依頼した、

というのがすっかりそのまま、現在に至るも絵のタイトルになっている訳ですが、

  レオナルドは女性の眉毛と、そして両頬にえくぼを描いた、

とあるそうで、済みません、shinkaiは読んでおりませんで・・、
 
と書いた所で、何、この横着は!本を持っているのに肝心な調べをせんのかいな、
と反省し、寒いガレージ脇の本棚から探し机に持ち帰り、読みましたです、はい。


ヴァザーリ殿が熱を込めて書いているのを抜粋しますと、

目は生きているものに常に見られる、あの輝きとうるおいを持っている。
そして周囲には赤味を帯びた鉛色がつけられ、睫毛はまた繊細きわまりない
感覚無くしては描きえないものである。
眉毛は毛が肌から生じて、あるいは濃く、あるいは薄く、毛根によって
さまざまに変化している様子がえがかれているため、これ以上自然であることは
不可能である。
鼻孔の美しいその鼻はばら色でやわらかく、まるで生きている様である。
口はその開きぐあいといい、また口唇が赤で描き出されているさまや、
顔色が真に迫っているところなど、色が着けられたのではなく、肉そのものと
思われれるほどであった。
喉のへこみを気をつけて見る人には脈が打つのが見える。
実にかくなる方法で描かれたこの絵は、すべての作家、いかなる才人をも
戦慄させ、恐れさせてしまうことが出来る。 中略

レオナルドのこの作品には心地良い微笑があるが、そこからは人間的と
いうより神的なものが見てとれる。   以下略

とあり、両頬にえくぼが、については書かれておりませんでしたぁ。


ええと、レオナルドの生きた時代は1452~1519年ですから、
ヴァサーリが生まれた時は既に49,50歳の時で、1516年には
フランス国王フランソワ1世に招かれ、生涯を終えるクルーの館に行っており、

つまりヴァザーリは彼に会った事無く、「モナ・リザ」の絵も、レオナルドが
フランスに持参していますから見た事も無いのですね。

が、それにしては素晴らしく巧みに描写しておりますねぇ!!
はぁ、ヴァザーリの描いた人物像の引用には良く出会うのですが、
何となく、「講釈師、見て来た様な嘘を言い」が頭に浮かぶ程で。

で、上記した様に、モナ・リザには眉が描かれておりません。

2-1-20210314_14104848.jpg



既に大画家であったレオナルドが描いた女性像であれば、どの方の、と
由緒正しくフィレンツェに残る筈で、大金を払って描いて頂くのであるし、
大自慢で見せびらかすでしょうしね。

それにレオナルドはどんな貴族でも、貴族でなくとも、お金を払ってくれれば描く、
という様なイメージは無く、その辺りも疑問がありますし、

もし大金持ちであり、2人めの息子が生まれた記念、というのであれば、
衣装もも少し煌びやかで、子供も一緒に、というような絵を希望すると
思われませんか? 


で、ではレオナルドが描いた神秘的な女性は一体誰だったろう、となると、

まるで手掛かりが無い訳でなく、既に彼がフランスのクルーの館に行った後

2-2-Clos_luce.jpg


1517年10月10日枢機卿ルイージ・ダラゴーナ・Luigi d'Aragonaが、
この方はナポリ王国王フェッランテ・ダラゴーナの甥にあたる方で、
フランスへの旅の途中に大マエストロに挨拶に寄り、 

その秘書で一緒にいたアントニオ・デ・べアティス・Antonio de Beatisが
レオナルドの作品を見に伺った様子を書き残しており、

3枚作品を見、・サン・ジョヴァンニ・バッティスタ ・サンタンナSant'Anna
そしてもう1枚は、ジュリアーノ・デ・メディチ・Giuliano de'Medici、
偉大なロレンツォ・メディチの息子3人男子の末、が依頼した
女性の肖像画であったと。

でこの絵が現在、レオナルドの研究者達により「真実のジョコンダのモデル」
とされている女性だろうと言うのですね。



ラファエッロ描く 依頼主ジュリアーノ・デ・メディチ像 (1479-1516)

3-Giuliano_de_medici.jpg

ラファエッロ作、と知った時、少し驚きましたのです。
良く本人に似ているのでしょうが、なんとも絵として味が無く、失礼!
ティツィアーノ描く男性肖像画の素晴らしさに比べ、とつい思った次第です。
ですが、女性像を描くと、私めの感想がまるで逆になるので・・、むにゃむにゃ。



偉大なるロレンツォが1492年43歳の若さで亡くなった後、長子であるピエロ・
Pieroが、ナポリ王国の後継者問題で南下してきたフランス王シャルル8世に
まるで抵抗せずに城門を開いた事から市民の反発を食らい、
メディチ家は追放されます。


この時の亡命生活中ジュリアーノは様々な文化人を訪れもしましたが、
ウルビーノの滞在中に知り合ったパチフィカ・ブランディーニ・
Pacifica Beandini、

モンテフェルトゥロ公に大変近く、影響を持つ裕福なジョヴァンニ・アントニオ・
ブランディーニ・Giovanni Antonioの庶子、後に嫡子となった娘で、

既に既婚者でしたが、ジュリアーノの愛人となり、
1511年男子を出産するものの、彼女は亡くなります。


歴史家ロヴェルト・ザッペッリ・Roberto Zapperi(1932-)が
2012年に出版した「モンナ・リーザ さようなら・Monna Losa Addio」
によると、

4-1-monna lisa addio..jpg


彼の研究の前に、レオナルドの最大の学者であるカルロ・ペドゥレッティ・
Carlo Pedretti(1928-2018)が既に「パチフィカ・ブランディーニ」
に言及していたのが最初の直感に繋がったそうですが、

ザッペリの研究は大変に厳しく深刻なもので、絵の依頼主とオリジナルの
作品について、未だ書かれた事のない物で、
記録を探しつつ、繋いで行かないといけませんものね。



レオナルドは勿論ジュリアーノ・デ・メディチと繋がりはありますが、
ジュリアーノとリーザ・ゲラルディーニ・ジョコンドは会った事が無いので、
ジュリアーノが彼女の肖像を依頼する事は無く、

レオナルドがローマに滞在中の1512-13年に、ジュリアーノが
自分の子を産んで亡くなったパチフィカの像を依頼したのであろうという事に。



この生まれた子についての記録は、ウルビーノ大学人文化学図書館の
古文書に列挙されており、パスクワリーノ・Pasqualinoという名があり、
復活祭の土曜の夜、ここからパスクワリーノという名前が付けられたものと。

4-2-nome di pasqualino.jpg



その後ジュリアーノ・デ・メディチの庶子と認められ、後に嫡子に直され、
名前もイッポリート・Ippolito(1511-1535)と変え、

5-Ippolito_de_Medici.jpg



ローマに連れていかれ、ジュリアーノの兄のジョヴァンニ、
教皇レオ10世の下で枢機卿への道を歩みますが、

僅か24歳で、後の教皇クレメンス7世の庶子アレッサンドロ・
Alessandro(1510-1537)により毒殺されます。

6-Alessandro_de'_Medici_Bronzino.jpg


クレメンス7世はやはりメディチ家出身、偉大なロレンツォの弟ジュリアーノ・
Giuliano、パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノの庶子で、

この辺り頭の中がこんがらかりそう!

先回ご案内したフランスにお輿入れの「カトリーヌ・ド・メディシス」は
フィレンツェに居た頃イッポリートと恋仲だったのを、結婚を仲介した
クレメンス7世が阻止したとかも、ありましたっけ。

いずれにしても、イッポリートを殺害させたアレッサンドロもその2年後には
自分も暗殺されるという・・!



そしてもう1つ、モンナ・リーザに描かれたのはフィレンツェの女性ではなく、
ウルビーノ近郊モンテフェルトゥロの土地に関係のある女性、という
その証明の1つであるというのが、

モナ・リザの絵の背後に描かれている風景ですが、

この場面は以前からトスカーナの奥、ヴァル・ディ・キアーナ・
Val di chiana、アレッツォからシエナ、ペルージャ、テルニに至る
広い平野の、キアーナ川沿い、であるという説が有名ですが、

8-Mona_Lisa_detail_right.jpg



今回見つけた記事は、この顔の左に描かれた場所がバーショの丘・
Colle di Bascioである、というもので、

9-comparazione-colle-di-Bascio-con-la-torre-sulla-cima-.jpg


そう言えば現在の地形ともよく似ている、とどこかと探しましたら、

北がエミーリア・ロマーニャ、南がトスカーナ、そして東がウンブリアと
グレイの点線が州境を示す、その接点近くにあり、

10-torre di bascio 1.jpg

11-borgo e torre di bascio.jpg

下の地図の、川と道のカーヴ具合が余りにも絵とそっくりで笑いが。



読んでいて、あれ、これは?と思ったら、以前ピエロ・デッラ・フランチェスカの
描いた背景の舞台はここ、という記事を読んだ女性2人、
オリヴィア・ネーシ・Olivia Nesci、ウルビーノ大学の地形学の教授、
ロゼッタ・ボルキーア・Rosetta Borchia、画家、写真家の2人で、

「コーディチェ P」という図解アトラスの本を出版されているそう。

12-9788837092771.jpg


ピエロ・デッラ・フランチェスカの地 ・作品背景に残る風景を探し訪ね
https://www.italiashiho.site/archives/20181210-1.html



レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作に描かれた女性は、ウルビーノの
パチフィカ・ブランディーニで、ジュリアーノ・ディ・メディチと恋仲になり、
子を産み落とした後亡くなった、幸薄い女性であったろう、と
あれこれ書いて来ましたが、


1人ぽっちでこの世に生まれて来た息子の為に、母の面影を、と
レオナルドに肖像を依頼したジュリアーノの気持ち、

そしてそれをまた自分が生まれた環境、母親の地位、関係を思い起こし、
指輪もネックレスも何の装飾も身に着けず、ただ優しい、慈愛溢れた目で
じっとこちらを見つめる女性に描いたレオナルド。

7-Gioconda-Parigi - Copia.jpg


それらを思うとちょっと心が、目が熱くなります。


レオナルド・ダ・ヴィンチの母親について
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463017660.html

レオナルド・ダ・ヴィンチの生家と、その周辺
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463017233.html


でも残念ながら、この絵はジュリアーノの1516年の早い死で
依頼主に届かずのままに終わります・・。

一度はルーヴルに会いに行きたいなぁ!


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posted by shinkai at 03:18Comment(0)・欄外