マリーア・ロマノフ、ロマノフという姓で、皆さんも良くご存知と思う、
革命の背後に消えて行ったロシア皇帝一家の3女マリーア、と、
革命の背後に消えて行ったロシア皇帝一家の3女マリーア、と、
イギリス王室に近く、現エリザベス2世女王の叔父にあたり、1979年
アイルランドでIRA暫定派により暗殺されたルイス・マウントバッテン卿、
アイルランドでIRA暫定派により暗殺されたルイス・マウントバッテン卿、
今回は、この2人の若き儚い愛、ずっとマウントバッテン卿の心に
残り続けたマリーア・ロマノフとのお話を。
残り続けたマリーア・ロマノフとのお話を。
今回参考にした記事はブログのタイトル通り
マリーア・ロマノフとルイス・マウントバッテンの消えた愛のお話
La storia d’Amore perduta fra Maria Romanov e Louis Mountbatten
マリーア・ロマノフとルイス・マウントバッテンの消えた愛のお話
La storia d’Amore perduta fra Maria Romanov e Louis Mountbatten
で、記録、写真はウィキペディアやネットでの検索からも拝借です。
以前この白黒写真をカラーに直し、ロマノフ朝最後の大舞踏会に参加の、
帝政ロシア時代最後の佳人達の姿をご覧頂いた事がありますが、
ロシア20世紀初頭 ロマノフ王朝最後の大舞踏会の美しい女性たち
https://www.italiashiho.site/article/478345334.html
https://www.italiashiho.site/article/478345334.html
3女マリーアは左から2人め、父皇帝ニコライ2世(1868-1918)の左背後の立ち姿、
皇帝の右背後は母皇后アレクサンドラ(1872-1918)
前列は左端から長女オルガ、 皇帝ニコライ、 アナスターシャ4女、
長男(末子)アレクセイ(1904-1918) そして2女タチアーナ。
長男(末子)アレクセイ(1904-1918) そして2女タチアーナ。
女性だけの写真で、母皇后と、後列左からオルガ(1895-1918)
タチアーナ(1897-1918) 末娘アナスターシャ(1901-1918)
そしてマリーア(1899-1918).
タチアーナ(1897-1918) 末娘アナスターシャ(1901-1918)
そしてマリーア(1899-1918).
母皇后のアレクサンドラは大変美しい事で知られていましたが、
娘のオルガ、そしてマリーアもその美しさが有名でした。
娘のオルガ、そしてマリーアもその美しさが有名でした。
一方のルイス・マウントバッテン卿は上記通り、イギリス海軍の重鎮として
第2次大戦にて活躍、元帥に迄の方で、写真は1977年。
第2次大戦にて活躍、元帥に迄の方で、写真は1977年。
所でこちら、イギリス王室と、ロシア皇帝家との繋がり系図をどうぞ。
19世紀のイギリスを繁栄に導いたヴィクトリア女王は、夫君アルバート公
との間に9人の子をもうけ、「ヨーロッパ王室の祖母」と言われるほどに、
ヨーロッパ全体の王室、その家系に結婚による繋がりを持っていて、
との間に9人の子をもうけ、「ヨーロッパ王室の祖母」と言われるほどに、
ヨーロッパ全体の王室、その家系に結婚による繋がりを持っていて、
ニコライ2世と結婚したアレクサンドラは、ビクトリア女王の次女アリスの2女、
ヴィクトリア女王の次女アリス・Alice(1843-1878)
その次女 ニコライ2世妃 アレクサンドラ
アレクサンドラの姉のヴィクトリア、の娘アリスはギリシャ王室の
アンドリューと結婚、
アンドリューと結婚、
2人の息子のフィリップ卿が現イギリスのエリザベス女王の夫君であり、
図には出ませんが、このギリシャ王妃となったアリスの弟が、
今回のルイス・マウントバッテン卿、という訳で、
今回のルイス・マウントバッテン卿、という訳で、
マリーア・ロマノフよりは家系がほんの少し下になりますが、
彼女と、ルイス・マウントバッテンは従姉弟同士、
マリーアがちょうど1歳年上という事になりますね。
彼女と、ルイス・マウントバッテンは従姉弟同士、
マリーアがちょうど1歳年上という事になりますね。
所でフィリップ卿と、マウントバッテン卿は顔立ちが良く似ていません?!
それに、次代国王になるかもの、現チャールズ皇太子も、ね。
ついでですが、図の左列にヴィクトリア女王の跡を継いだエドワード7世が
いて、その下にジョージ5世次代国王がいますが、
顔がロマノフのニコラス2世にそっくりと思われませんか?
いて、その下にジョージ5世次代国王がいますが、
顔がロマノフのニコラス2世にそっくりと思われませんか?
1913年のベルリンでの2人の写真で、左がニコラス2世、右がジョージ5世で、
王室の集まりで2人が一緒だと間違える人もあり、後年生き延びた
ニコライ2世に仕えていた近習がジョージ5世にあった時、
ああ、生きておられた!と間違え、喜びの余り跪いた、という逸話も
読みましたが、
ニコライ2世に仕えていた近習がジョージ5世にあった時、
ああ、生きておられた!と間違え、喜びの余り跪いた、という逸話も
読みましたが、
この様にヨーロッパ王室はそれぞれの繋がりを持っているのですねぇ。
という2人の系図を見て頂いた所で主題に戻りますと、
マリーアは幼い頃は大変に大きな体つきで、姉妹たちの間で
からかいの種になったり、
からかいの種になったり、
部屋を一緒していた下のアナスターシャが姉妹の中で一番活発で、
少し押され気味の所もあったかも、と。
が、長じるにつれ、すらりと細く背が高くなり、「マリアのお皿」と呼ばれた
コバルト・ブルーの瞳は大きく美しく、
姉妹の中で一番美しい、と評価されるようになったそう。
コバルト・ブルーの瞳は大きく美しく、
姉妹の中で一番美しい、と評価されるようになったそう。
1910年マリーア11歳。
家庭医の息子グレブ・ボトキン・Gleb Botkinが書いているマリーアは、
4人の内で勿論一番可愛く、ロシア女性の典型的な美しさで、
ぽっちゃりと、林檎の様に赤い頬で・・、と。
そして彼女の美しさは、性格が優しく愛情深く、人々に会えて良かった、と
いう印象を残す魅惑的なものであった、と言い、
いう印象を残す魅惑的なものであった、と言い、
余り健康が優れなかった母親と、生来の血友病で苦しむ弟アレクセイの
面倒も見る優しさもあった様子。
面倒も見る優しさもあった様子。
思春期に入り、マリーアは皇帝一家のヨット、シュタンダート・Štandart
でのバカンスで、乗り込んでいた海軍士官、名前は不詳、との間に
淡い恋心を抱いた様で、
船員や将校たちの間に目くばせや笑いを誘ったそう。 可愛いなぁ!
でのバカンスで、乗り込んでいた海軍士官、名前は不詳、との間に
淡い恋心を抱いた様で、
船員や将校たちの間に目くばせや笑いを誘ったそう。 可愛いなぁ!
ルイス・マウントバッテンとマリーア・ロマノフは、1910年ドイツでの一族の
会合に参加し、ロマノフ一族、そしてニコライ2世の妻アレクサンドラの姉の
ヴィクトリアと夫のルイス・ディ・バッテンベルグ、
会合に参加し、ロマノフ一族、そしてニコライ2世の妻アレクサンドラの姉の
ヴィクトリアと夫のルイス・ディ・バッテンベルグ、
つまりルイス・マウントバッテンの両親と息子2人、兄のジョージも参加、
マリーア・ロマノフ11歳、ルイス10歳の、最初で最後の出会いが。
左ルイス12歳、父ルイージ、兄ジョージ。
姓をマウントバッテン、と書いていますが、当時はバッテンベルグ・Battenbergで、
アンティ・ドイツの空気が満ちて来た1917年に、
一家の姓をマウントバッテン・Mauntbattenに変えています。
一家の姓をマウントバッテン・Mauntbattenに変えています。
これはエリザベス2世女王の夫君フィリップ殿下の姓も同様ですね。
で上の写真よりも1~2歳若かった、というよりも幼かったルイスが
マリーアに出会った訳ですが、様子を後年自叙伝に書いており、
マリーアに出会った訳ですが、様子を後年自叙伝に書いており、
姉妹は愛らしく、恐ろしい程甘美で、写真で見るよりずっと美しかった。
自分はマリーアに恋をし、結婚する事を決意した。
彼女は無条件に愛らしかった。
彼女の写真を自分の寝室に飾った。 ずっと。
10歳の少年にしては、大変に情緒面が大人であるという感じで。
マリーア 1914年。 15歳。
第一次大戦の混乱状態で、若きマウントバッテンは愛するマリーアに
もう一度会う事は出来ませんでしたが、
もう一度会う事は出来ませんでしたが、
彼の兄ジョージはイギリス海軍士官で、1914年にロシアに行き、
かなりの時をロマノフ一家と過ごす事が出来、
かなりの時をロマノフ一家と過ごす事が出来、
2女のタチアーナと友情を育みますが、1916年にはロマノフ家の一員である
ナデジダ・ミチャイロフナ・デ・トルビー伯爵婦人・Nadejda Michajlovna
de Torbyと結婚。
ナデジダ・ミチャイロフナ・デ・トルビー伯爵婦人・Nadejda Michajlovna
de Torbyと結婚。
翌年生まれた女子には、ロマノフ公女に敬意を表し「タチアナ」という名を。
ロシアの10月革命が起こり、ロマノフ家は引き裂かれますが、
当時18歳のルイス・マウントバッテンは、彼らのニュースを焦燥の思いで待ち、
当時18歳のルイス・マウントバッテンは、彼らのニュースを焦燥の思いで待ち、
後年1969年のインタヴューで語った所によると、
ボルシェビキが主導権を握った後、我々は家族のニュースを殆ど知らず、
皆が最終的には追放されるであろうと望んでいましたが、
最悪の事態をも恐れていました。
そしてそれが起こった時も、エカテリンブルグでの死刑執行の
皆が最終的には追放されるであろうと望んでいましたが、
最悪の事態をも恐れていました。
そしてそれが起こった時も、エカテリンブルグでの死刑執行の
恐ろしい詳細を知るまでには、長い時間がかかりました。と。
既によく知られている様に、ロマノフ一家は1918年7月16~17日にかけ
全員が虐殺され、
ルイス・マウントバッテンとマリーア・ロマノフの淡い恋については、
愛情こもった記憶だけが残る事に。
愛情こもった記憶だけが残る事に。
洋の東西を問わず、かって大勢力を握った執政者の最後は
時に悲惨な事があったとは知っていても、
ロマノフ家の最後は、まるで門外漢のshinkaiでも極端さを感じますから、
愛おしく思っていた彼にとっては、納得仕切れない哀切な最後だったでしょうね。
イギリス王家としても、救助の道を探る事も勿論出来たのでしょうが、
国内に左翼運動を持ち込むのではないか、という恐れから、
そのままの成り行きに任せた、というのも読みました。
政治というのは、やはり無情、非情なものですね。
国内に左翼運動を持ち込むのではないか、という恐れから、
そのままの成り行きに任せた、というのも読みました。
政治というのは、やはり無情、非情なものですね。
1930年代のルイス・マウントバッテン。
そして彼は成長するにつれ、英海軍、国内の重要人物になり、
1943年1月連合国の首脳のカサブランカ会談、チャーチル英首相
アメリカのルーズヴェルト大統領と。
アメリカのルーズヴェルト大統領と。
最後は英海軍の元帥にまでなったルイス・マウントバッテンですが、
1922年に結婚した大遺産相続者のエドウィナ・アシュレイ・
Edwina Ashleyとの間は、2人の娘を得たものの、
お互いの裏切りと絶え間ないスキャンダルで!
Edwina Ashleyとの間は、2人の娘を得たものの、
お互いの裏切りと絶え間ないスキャンダルで!
いやぁ、寝室の自分のベッドの横に、かっての想いを寄せた女性の写真がある、
というのは、妻にとってどんな気持ちがするものか、と
いささか同情を感じたshinkaiですが、
いささか同情を感じたshinkaiですが、
なんとなんと、彼女の方は結婚してからずっと浮気続きで、
夫に隠しもせず、家に呼び、家の友人状態となり、
夫に隠しもせず、家に呼び、家の友人状態となり、
後年娘が書いた本には、母方の「叔父さん」という感じで付き合い、
母親は「男食い」だった、とあるそうで、ははは、
相手の名を次々と並べたのも読みましたが、はぁ、ここでは主題が
違うので割愛します。
違うので割愛します。
一方彼の方も、イギリスでは1967年迄イギリスではホモセクシュアルは
犯罪扱いでしたので、バイセクシャル者として控訴されたり、
犯罪扱いでしたので、バイセクシャル者として控訴されたり、
1960年に妻のエドウィナが亡くなりますが、最後まで彼は婚外の
男女共の関係があったそうで!
男女共の関係があったそうで!
多分結婚生活における彼の感情面は常に嵐の連続で、その為逆に
ルイスは清純に愛したマリーア・ロマノフの面影を大事に持ち続け、
世界のどこに行っても、彼のベッド脇の小卓には彼女の写真があったと!
1979年8月27日、80歳を前にして未だに海の男、英国男の精神を
持ち続けるマウントバッテン卿は、アイルランドのマラモア・Mullaghmoreの
小さな港に係留していた自分の船で海に出かけようと。
が、IRA暫定派によりエンジンに22kgのコマンド爆弾が仕掛けられており、
ドニゴール湾の直前で爆発。
ドニゴール湾の直前で爆発。
操船していたマウントバッテン卿はほぼ即死、孫の1人と14歳の水兵、
娘の姑が死亡、もう1人の孫と婿、娘が重症というテロ事件でした。
娘の姑が死亡、もう1人の孫と婿、娘が重症というテロ事件でした。
マリーアとルイスの、ルイスのみが長く生きましたが、
2人ともに同じ悲劇的な最後、それもどちらも革命軍による無残な死を、
愛する家族、愛する人の傍らで遂げたのでした。
2人ともに同じ悲劇的な最後、それもどちらも革命軍による無残な死を、
愛する家族、愛する人の傍らで遂げたのでした。
未だ子供の域を出ないうちに会い、大きな強烈な印象を受けたのを
抱き続ける事により、同じ運命をたどった、という事なのかなぁ、と、
いささか考えた事でした。
抱き続ける事により、同じ運命をたどった、という事なのかなぁ、と、
いささか考えた事でした。
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