こちらイタリアは月曜26日からほぼ全土が黄色ゾーンになり、市内から州に、
他の黄色ゾーンにも動けるようになりました。
他の黄色ゾーンにも動けるようになりました。
と同時に知ったニュースではヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレ、そして
長い事閉鎖していたコッレール博物館も遂に開館したとの事!
長い事閉鎖していたコッレール博物館も遂に開館したとの事!
と、ペギー・グッゲンハイム・コレクションも、28日から予約によるオープンで
準備中とあり、近くのアッカデミア美術館も開館、との事で、
準備中とあり、近くのアッカデミア美術館も開館、との事で、
他にもピアチェンツァの市美術館にあるクリムトが修復され、改めて展示、
というニュースも知り、一気に出かけたい願望が吹き出しました。
というニュースも知り、一気に出かけたい願望が吹き出しました。
とりわけヴェネツィアのコッレール美術館が目的で昨年6月に行ったものの
サイトには開館とあったのが閉めていて、今回のニュースにも
サイトには開館とあったのが閉めていて、今回のニュースにも
「長らく閉館だった・・」のが、ヴェネツィア1600歳記念プロジェクトの為に
開館されるとの事。
コロナ感染者数等についての色分けの見直しは2週間に1度づつで、
ヴェネト州は少し危険度に入っているというのも見ましたので、
またいつオレンジになるかも、で、
なにせ3週間前か、サルデーニャ島がイタリアで唯一白ゾーンになったのに、
即赤ゾーンに戻り、という事もありましたので、
即赤ゾーンに戻り、という事もありましたので、
出来たら早めに行った方が安心かも、と!
が、雨と寒さが続く今週の様で、天気予報を睨んでいます。
という様な事で、今回はちょうど今日から再オープン、という
ペギー・グッゲンハイム・コレクション・Peggy Guggeheimと、
コレクション収集のご本人ペギー・グッゲンハイム個人についてのあれこれを。
と、彼女個人についてのあれこれは、こちらのサイト
ペギー・グッゲンハイム・Peggy Guggenheimu
ペギー・グッゲンハイム・Peggy Guggenheimu
「ドガレッサ」とは、ヴェネツィアのドージェ・総督の夫人、の意味で、
ヴェネツィアを知り大好きになり、現在のペギー・グッゲンハイム・コレクションの
展示会場でもある、大運河に面した白いパラッツォ・ヴェニエール・デイ・レオーニ・
Palazzo Venier dei Leoniを1948年に買い取り、住まいにもした彼女。
展示会場でもある、大運河に面した白いパラッツォ・ヴェニエール・デイ・レオーニ・
Palazzo Venier dei Leoniを1948年に買い取り、住まいにもした彼女。
周囲に子犬を引き連れどこにでも出かけて行き、ヴェネツィアで唯一個人用の
ゴンドラを持っていた、彼女に捧げられたニックネーム。
実際にペギー・グッゲンハイム・コレクションを見たのは1度のみで、
余り現代美術には魅かれないshinkaiでもあり、
勿論好きな作品、素晴らしい、と思うのも幾つもありますが、
今回はあれこれ読んで初めて知った彼女自身の事が興味深く、
有名な美術館については皆さんの方がよくご存じ、検索するとたくさん出ると
思いますので、それについてはざっとで、
あれこれのサイトで知った、あれこれ興味深い細かい事を、どうぞ!
有名な美術館については皆さんの方がよくご存じ、検索するとたくさん出ると
思いますので、それについてはざっとで、
あれこれのサイトで知った、あれこれ興味深い細かい事を、どうぞ!
彼女の両親は、父ベンジャミン・Benjamin 鉱山王の息子、ユダヤ人
母Florette Seligman・フロレット・セリグマン、ニューヨークの裕福な銀行家
の娘、2人は1894年に結婚。
ペギーは1898年8月26日ニューヨーク生まれ、3人姉妹の真ん中で、
写真では左に。
写真では左に。
彼女の人生に突然の転機が訪れたのは、1912年4月15日のタイタニック号の
沈没で、浮沈と言われたタイタニック号の初航海、イギリスからニューヨーク
沈没で、浮沈と言われたタイタニック号の初航海、イギリスからニューヨーク
への旅で氷山にぶつかり沈没したタイタニック号に、父のベンジャミンが
乗っていたのですね。
彼は暫く前からパリに滞在しており、これはエッフェル塔に蒸気ポンプの
エレベーターを設置する仕事だったそうで、
ニューヨークに戻るのに予約していた汽船が航海できなくなり、やむを得ず
エレベーターを設置する仕事だったそうで、
ニューヨークに戻るのに予約していた汽船が航海できなくなり、やむを得ず
タイタニックに変更し、シェルブールから乗船したのだそう。
愛人と、その小間使いも一緒だったそうですが、彼は映画「タイタニック」に
描かれた様に、正装のまま悠然と座り、シャンペンを飲みつつ、だったそうで、
彼の遺体は遂に見つからずのまま。
描かれた様に、正装のまま悠然と座り、シャンペンを飲みつつ、だったそうで、
彼の遺体は遂に見つからずのまま。
こうして父親が亡くなると、一家は父の債権者達への返済の為、財産が減少
したものの、それでも当時13歳だったペギーが受けた遺産は40万ドル、
これは当時としてはやはり相当な額だったと。
したものの、それでも当時13歳だったペギーが受けた遺産は40万ドル、
これは当時としてはやはり相当な額だったと。
1919年にカレッジを卒業、国内旅行の後ヨーロッパ、パリに行き、様々な
芸術家たちとの交際を深め、後の彼女が目覚め始めます。
芸術家たちとの交際を深め、後の彼女が目覚め始めます。
先にニューヨークで知り合っていたフランス人、ダダイスト派の画家
ローレンス・ヴェイル・Laurence Vailと1922年に結婚、
シンドバッド・Sindbadと、ペギーン・Peggen(女子)の2人の子を。
シンドバッド・Sindbadと、ペギーン・Peggen(女子)の2人の子を。
2人の結婚生活は混乱を極め、ある友人によると、ローレンスが攻撃的と言い、
他の友人はペギーだと言い、つまり喧嘩が絶えなかったのでしょう、
で、1928年離婚となりますが、
後年のペギーによると、ローレンスは「永遠の夫」だったそうで。
他の友人はペギーだと言い、つまり喧嘩が絶えなかったのでしょう、
で、1928年離婚となりますが、
後年のペギーによると、ローレンスは「永遠の夫」だったそうで。
こうして有名なペギーの愛のお話が始まったというのですが、彼女の自叙伝作者に
よると1000人以上もいたそうで、これには驚くと共に笑いましたが、
これについてはまぁ、ここで止めますね。
よると1000人以上もいたそうで、これには驚くと共に笑いましたが、
これについてはまぁ、ここで止めますね。
というのも、彼女はヨーロッパに来た事で芸術への大いなる目を開き、
コレクションを始め、自分のギャラリーを開く、という、
後年の彼女の仕事、姿が生まれ始め、その活動力は驚くべきものに。
コレクションを始め、自分のギャラリーを開く、という、
後年の彼女の仕事、姿が生まれ始め、その活動力は驚くべきものに。
1920年代パリで知り合い、交際を深めたピカソ、カンディンスキー、コクトー、
ドゥカンプなどの芸術家、画家達の幾人かはその後の彼女の人生においても
常に連絡を取り合う中であり、
1938年ヨーロッパ大陸が第1次大戦から息を吹き返し始めた時、ロンドンに
彼女の初の現代美術の画廊「グッゲンハイム・ジューン・Guggenheim Jeune」
を開き、最初の個展はジャン・コクトーの作品を中心に、
彼女の初の現代美術の画廊「グッゲンハイム・ジューン・Guggenheim Jeune」
を開き、最初の個展はジャン・コクトーの作品を中心に、
そして続いてワシリー・カンディンスキー、イヴ・タンギー、サルヴァドール・ダリ、
ピカソと、前衛派の最高画家を紹介し、この画廊は大変に良く知られ、評価される
画廊の1つとなります。
ピカソと、前衛派の最高画家を紹介し、この画廊は大変に良く知られ、評価される
画廊の1つとなります。
とはいえ、画廊の宣伝にはなったものの利益にはならずで、
第2次世界大戦が始まり、彼女の夢のモダンな現代美術の素晴らしい画廊、は
ドイツ空軍の爆弾の下に打ち砕かれ、
ドイツ空軍の爆弾の下に打ち砕かれ、
彼女は「博物館」を開く夢の為、芸術の歴史家、評論家でもある友人
ハーバート・リード・Herbert Readに連絡を取り、
というのも、彼女自身が優秀な芸術評論家ではないので、彼は彼女の為に
購入すべき作品リストを作り、
購入すべき作品リストを作り、
彼女はリストにある画家の名前に従い、ピカソ10点、ミロ8点、マグリット4点、
エルンスト40点、マン・レイ3点、ダリ3点、クレー1点、シャガール1点、
そして他のたくさんの作品も購入!
エルンスト40点、マン・レイ3点、ダリ3点、クレー1点、シャガール1点、
そして他のたくさんの作品も購入!
彼女はまずパリに避難し、そして、マルセイユ、グルノーブルと移り、その合間にも
コレクションを続け、1日に1枚の絵を買う、という目標で!
凄まじい情熱と、戦争下における安値で買える、という事もあったのかもですね。
が、フランスは既にドイツ占領下にあり、彼女はニューヨークに戻らざるを得ず、
作品をどうするかが問題で、彼女はルーヴル博物館に連絡を取った所、
彼女のコレクションは重要作品ではなく、そんなに古くはないので、
ルーブルの貯蔵庫に置くほどのスペースはない、という返事。
彼女のコレクションは重要作品ではなく、そんなに古くはないので、
ルーブルの貯蔵庫に置くほどのスペースはない、という返事。
で、最後に出た解決策の、荷作りの票に「家庭用品」と記す事で、
無事にコレクションはヨーロッパを出発する事が出来たと。
無事にコレクションはヨーロッパを出発する事が出来たと。
で彼女は単にコレクションのみでなく、既に成人の2人の子、元夫のローレンスと
彼の彼女たち、そして画家マックス・エルンスト・Max Ernst、後1941年に結婚、
つまり彼女の言葉によると、「夫1人、2人の元妻、7人の子供達、未来の夫1人」
を無事にヨーロッパから連れ出したわけですね。
シューレアリズムの画家マックス・エルンストは、暫く後にニューヨークに到着し、
ホテル代、食事代は彼女が払い、エルンストは描いた絵を渡し、ははは、
ホテル代、食事代は彼女が払い、エルンストは描いた絵を渡し、ははは、
この方法でペギーのコレクションには一連のエルンストの作品が揃っているのだと!
1940年の作品
こうして渋々ペギーと結婚する事を決めたエルネスト、じきにこちらも離婚に。
生地のニューヨークに戻ったペギーは、1941年10月に新しい画廊を開きます。
「今世紀の芸術・Art of This Century」と名付け、ここにはキュビズム、
シューレアリズム、未来派、表現主義の作品と、現在のヨーロッパからの作品が
展示されますが、
「今世紀の芸術・Art of This Century」と名付け、ここにはキュビズム、
シューレアリズム、未来派、表現主義の作品と、現在のヨーロッパからの作品が
展示されますが、
今迄の展示方法と違い、会場スペースいっぱいに展示の作品には広く評価され、
ニューヨークのアートに於ける第一線に彼女を押し出しました。
そしてこの時期にジャクソン・ポロックを、彼女自身は余り印象は
受けずだったのが、顧問たちが名を知られていない画家を大いに薦め、
当時ペギーの叔父が設立したソロモン・R・グッゲンハイム博物館で大工仕事を
していたポロックにペギーは大きく支払いを弾み、
彼は郊外の広い干し草置き場のアトリエとアパートを得る事が出来、
縦にしか出来なかったキャンバスではなく、ずっと大きなキャンバスを
縦にしか出来なかったキャンバスではなく、ずっと大きなキャンバスを
寝せて描く事も出来る様になったと。
第2次大戦が終わり、ニューヨークのギャラリーを閉じ、
1947年にマックス・エルンストと離婚、ヨーロッパに戻ったペギーですが、
1948年に初めてヴェネツィアのビエンナーレ展にコレクションを出品します。
そして内戦の為参加を断念したギリシャのパビリオンが無料となり、
彼女によると、「一番気に入ったのは、公園にあった地図にグッゲンハイムの
名が、イギリス、フランス、オランダと並んでいるのを見た事で、
・・新しいヨーロッパの国の様に感じた」と。
名が、イギリス、フランス、オランダと並んでいるのを見た事で、
・・新しいヨーロッパの国の様に感じた」と。
そしてヴェネツィアの大運河に面した、アッカデミア美術館から東にある
パラッツォ・ヴェニエール・デイ・レオーニ・Palazzo Venier dei Leoni、
18世紀のルネッサンス、バロック様式の建物を、未完成でほって置かれた建物を、
自身がより良く格着けされた中で落ち着ける場所と、
長年の夢である「ペギー・グッゲンハイム・コレクション」を新しく開くために購入。
長年の夢である「ペギー・グッゲンハイム・コレクション」を新しく開くために購入。
「ヴェネツィアに住む、または単純に訪問する事は、ヴェネツィアに恋をする事であり、
心には他の場所は無くなります」と。
心には他の場所は無くなります」と。
こうして1951年、美術館は一般公開される事になり、
フィレンツェ、アムステルダム、ブリュッセル、ストックホルムと企画展が
ヨーロッパの各地で開かれる様になり、新しい画家のコレクションも増えます。
1662年遂にヴェネツィア市は、彼女の芸術向上への仕事に対し、「名誉市民」
として報います。
芸術への熱情のみでなく、彼女のコレクションの情熱は犬たちと、
「犬を連れたアメリカ女性」のお高い小型犬達はどこにでもついて行き、
「犬を連れたアメリカ女性」のお高い小型犬達はどこにでもついて行き、
もう1つのコレクションの情熱は男たちにあり、ははは、
上る名前の中には1969年ノーベル文学賞を受賞のサミュエル・ベケットもと!
上る名前の中には1969年ノーベル文学賞を受賞のサミュエル・ベケットもと!
1979年12月23日81歳、ヴェネツィアの最後のドガレッサは亡くなり、
生前の彼女のたっての望みで、庭の隅に彼らは葬られ、「私の愛する子供達」と
犬達の名前と生没年の彫られた碑、そして彼女も横に葬られ。
犬達の名前と生没年の彫られた碑、そして彼女も横に葬られ。
「ペギー・グッゲンハイム・コレクション」は今やイタリアにおけるモダン・
現代美術の一番有名な美術館の1つであり、年間35万人以上の訪問者数。
映画『ペギー・グッゲンハイム アートに恋した大富豪』があるそうで、予告編を。
https://youtu.be/0X2p5-IJgMg
https://youtu.be/0X2p5-IJgMg
「わたしは自分のコレクションに完全に専念して来ました。コレクションは要求が
厳しいですが、しかしそれは私が望んだ事であり、自分の人生の仕事にしました。
私は1人のコレクターではありません。 私は美術館です。」
「私は美術館です」 なんと誇りの込められた言葉!
ペギー・グッゲンハイム、芸術に費やした人生、そしてその人生そのものが芸術。と。
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