・ ペッギー・グッゲンハイム・コレクション と、 彼女についてあれこれ

こちらイタリアは月曜26日からほぼ全土が黄色ゾーンになり、市内から州に、
他の黄色ゾーンにも動けるようになりました。

と同時に知ったニュースではヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレ、そして
長い事閉鎖していたコッレール博物館も遂に開館したとの事!

と、ペギー・グッゲンハイム・コレクションも、28日から予約によるオープンで
準備中とあり、近くのアッカデミア美術館も開館、との事で、

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他にもピアチェンツァの市美術館にあるクリムトが修復され、改めて展示、
というニュースも知り、一気に出かけたい願望が吹き出しました。

とりわけヴェネツィアのコッレール美術館が目的で昨年6月に行ったものの
サイトには開館とあったのが閉めていて、今回のニュースにも
「長らく閉館だった・・」のが、ヴェネツィア1600歳記念プロジェクトの為に
開館されるとの事。


コロナ感染者数等についての色分けの見直しは2週間に1度づつで、
ヴェネト州は少し危険度に入っているというのも見ましたので、
またいつオレンジになるかも、で、

なにせ3週間前か、サルデーニャ島がイタリアで唯一白ゾーンになったのに、
即赤ゾーンに戻り、という事もありましたので、

出来たら早めに行った方が安心かも、と!  
が、雨と寒さが続く今週の様で、天気予報を睨んでいます。


という様な事で、今回はちょうど今日から再オープン、という
ペギー・グッゲンハイム・コレクション・Peggy Guggeheimと、
コレクション収集のご本人ペギー・グッゲンハイム個人についてのあれこれを。

参考にしたサイトは
ペッギー・グッゲンハイム:ヴェネツィア最後ドガレッサ
Peggy Guggenheim: l’ultima dogaressa di Venezia

と、彼女個人についてのあれこれは、こちらのサイト
ペギー・グッゲンハイム・Peggy Guggenheimu

「ドガレッサ」とは、ヴェネツィアのドージェ・総督の夫人、の意味で、

ヴェネツィアを知り大好きになり、現在のペギー・グッゲンハイム・コレクションの
展示会場でもある、大運河に面した白いパラッツォ・ヴェニエール・デイ・レオーニ・
Palazzo Venier dei Leoniを1948年に買い取り、住まいにもした彼女。

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周囲に子犬を引き連れどこにでも出かけて行き、ヴェネツィアで唯一個人用の
ゴンドラを持っていた、彼女に捧げられたニックネーム。

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実際にペギー・グッゲンハイム・コレクションを見たのは1度のみで、
余り現代美術には魅かれないshinkaiでもあり、
勿論好きな作品、素晴らしい、と思うのも幾つもありますが、

今回はあれこれ読んで初めて知った彼女自身の事が興味深く、
有名な美術館については皆さんの方がよくご存じ、検索するとたくさん出ると
思いますので、それについてはざっとで、
あれこれのサイトで知った、あれこれ興味深い細かい事を、どうぞ!


彼女の両親は、父ベンジャミン・Benjamin 鉱山王の息子、ユダヤ人
母Florette Seligman・フロレット・セリグマン、ニューヨークの裕福な銀行家
の娘、2人は1894年に結婚。

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ペギーは1898年8月26日ニューヨーク生まれ、3人姉妹の真ん中で、
写真では左に。

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彼女の人生に突然の転機が訪れたのは、1912年4月15日のタイタニック号の
沈没で、浮沈と言われたタイタニック号の初航海、イギリスからニューヨーク
への旅で氷山にぶつかり沈没したタイタニック号に、父のベンジャミンが
乗っていたのですね。

彼は暫く前からパリに滞在しており、これはエッフェル塔に蒸気ポンプの
エレベーターを設置する仕事だったそうで、
ニューヨークに戻るのに予約していた汽船が航海できなくなり、やむを得ず
タイタニックに変更し、シェルブールから乗船したのだそう。

愛人と、その小間使いも一緒だったそうですが、彼は映画「タイタニック」に
描かれた様に、正装のまま悠然と座り、シャンペンを飲みつつ、だったそうで、
彼の遺体は遂に見つからずのまま。

こうして父親が亡くなると、一家は父の債権者達への返済の為、財産が減少
したものの、それでも当時13歳だったペギーが受けた遺産は40万ドル、
これは当時としてはやはり相当な額だったと。


1919年にカレッジを卒業、国内旅行の後ヨーロッパ、パリに行き、様々な
芸術家たちとの交際を深め、後の彼女が目覚め始めます。

先にニューヨークで知り合っていたフランス人、ダダイスト派の画家
ローレンス・ヴェイル・Laurence Vailと1922年に結婚、
シンドバッド・Sindbadと、ペギーン・Peggen(女子)の2人の子を。

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2人の結婚生活は混乱を極め、ある友人によると、ローレンスが攻撃的と言い、
他の友人はペギーだと言い、つまり喧嘩が絶えなかったのでしょう、
で、1928年離婚となりますが、
後年のペギーによると、ローレンスは「永遠の夫」だったそうで。

こうして有名なペギーの愛のお話が始まったというのですが、彼女の自叙伝作者に
よると1000人以上もいたそうで、これには驚くと共に笑いましたが、
これについてはまぁ、ここで止めますね。

というのも、彼女はヨーロッパに来た事で芸術への大いなる目を開き、
コレクションを始め、自分のギャラリーを開く、という、
後年の彼女の仕事、姿が生まれ始め、その活動力は驚くべきものに。


1920年代パリで知り合い、交際を深めたピカソ、カンディンスキー、コクトー、
ドゥカンプなどの芸術家、画家達の幾人かはその後の彼女の人生においても
常に連絡を取り合う中であり、

1938年ヨーロッパ大陸が第1次大戦から息を吹き返し始めた時、ロンドンに
彼女の初の現代美術の画廊「グッゲンハイム・ジューン・Guggenheim Jeune」
を開き、最初の個展はジャン・コクトーの作品を中心に、

そして続いてワシリー・カンディンスキー、イヴ・タンギー、サルヴァドール・ダリ、
ピカソと、前衛派の最高画家を紹介し、この画廊は大変に良く知られ、評価される
画廊の1つとなります。

とはいえ、画廊の宣伝にはなったものの利益にはならずで、
第2次世界大戦が始まり、彼女の夢のモダンな現代美術の素晴らしい画廊、は
ドイツ空軍の爆弾の下に打ち砕かれ、



彼女は「博物館」を開く夢の為、芸術の歴史家、評論家でもある友人
ハーバート・リード・Herbert Readに連絡を取り、
というのも、彼女自身が優秀な芸術評論家ではないので、彼は彼女の為に
購入すべき作品リストを作り、

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彼女はリストにある画家の名前に従い、ピカソ10点、ミロ8点、マグリット4点、
エルンスト40点、マン・レイ3点、ダリ3点、クレー1点、シャガール1点、
そして他のたくさんの作品も購入!


彼女はまずパリに避難し、そして、マルセイユ、グルノーブルと移り、その合間にも
コレクションを続け、1日に1枚の絵を買う、という目標で!

凄まじい情熱と、戦争下における安値で買える、という事もあったのかもですね。

が、フランスは既にドイツ占領下にあり、彼女はニューヨークに戻らざるを得ず、
作品をどうするかが問題で、彼女はルーヴル博物館に連絡を取った所、
彼女のコレクションは重要作品ではなく、そんなに古くはないので、
ルーブルの貯蔵庫に置くほどのスペースはない、という返事。

で、最後に出た解決策の、荷作りの票に「家庭用品」と記す事で、
無事にコレクションはヨーロッパを出発する事が出来たと。

で彼女は単にコレクションのみでなく、既に成人の2人の子、元夫のローレンスと
彼の彼女たち、そして画家マックス・エルンスト・Max Ernst、後1941年に結婚、
つまり彼女の言葉によると、「夫1人、2人の元妻、7人の子供達、未来の夫1人」
を無事にヨーロッパから連れ出したわけですね。



シューレアリズムの画家マックス・エルンストは、暫く後にニューヨークに到着し、
ホテル代、食事代は彼女が払い、エルンストは描いた絵を渡し、ははは、
この方法でペギーのコレクションには一連のエルンストの作品が揃っているのだと!

1940年の作品 

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こうして渋々ペギーと結婚する事を決めたエルネスト、じきにこちらも離婚に。



生地のニューヨークに戻ったペギーは、1941年10月に新しい画廊を開きます。
「今世紀の芸術・Art of This Century」と名付け、ここにはキュビズム、
シューレアリズム、未来派、表現主義の作品と、現在のヨーロッパからの作品が
展示されますが、

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今迄の展示方法と違い、会場スペースいっぱいに展示の作品には広く評価され、
ニューヨークのアートに於ける第一線に彼女を押し出しました。



そしてこの時期にジャクソン・ポロックを、彼女自身は余り印象は
受けずだったのが、顧問たちが名を知られていない画家を大いに薦め、

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当時ペギーの叔父が設立したソロモン・R・グッゲンハイム博物館で大工仕事を
していたポロックにペギーは大きく支払いを弾み、

彼は郊外の広い干し草置き場のアトリエとアパートを得る事が出来、
縦にしか出来なかったキャンバスではなく、ずっと大きなキャンバスを
寝せて描く事も出来る様になったと。



第2次大戦が終わり、ニューヨークのギャラリーを閉じ、
1947年にマックス・エルンストと離婚、ヨーロッパに戻ったペギーですが、

1948年に初めてヴェネツィアのビエンナーレ展にコレクションを出品します。

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そして内戦の為参加を断念したギリシャのパビリオンが無料となり、
彼女によると、「一番気に入ったのは、公園にあった地図にグッゲンハイムの
名が、イギリス、フランス、オランダと並んでいるのを見た事で、
・・新しいヨーロッパの国の様に感じた」と。



そしてヴェネツィアの大運河に面した、アッカデミア美術館から東にある
パラッツォ・ヴェニエール・デイ・レオーニ・Palazzo Venier dei Leoni、
18世紀のルネッサンス、バロック様式の建物を、未完成でほって置かれた建物を、
自身がより良く格着けされた中で落ち着ける場所と、
長年の夢である「ペギー・グッゲンハイム・コレクション」を新しく開くために購入。

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「ヴェネツィアに住む、または単純に訪問する事は、ヴェネツィアに恋をする事であり、
心には他の場所は無くなります」と。
こうして1951年、美術館は一般公開される事になり、

フィレンツェ、アムステルダム、ブリュッセル、ストックホルムと企画展が
ヨーロッパの各地で開かれる様になり、新しい画家のコレクションも増えます。

1662年遂にヴェネツィア市は、彼女の芸術向上への仕事に対し、「名誉市民」
として報います。

芸術への熱情のみでなく、彼女のコレクションの情熱は犬たちと、
「犬を連れたアメリカ女性」のお高い小型犬達はどこにでもついて行き、

もう1つのコレクションの情熱は男たちにあり、ははは、
上る名前の中には1969年ノーベル文学賞を受賞のサミュエル・ベケットもと!



1979年12月23日81歳、ヴェネツィアの最後のドガレッサは亡くなり、
生前の彼女のたっての望みで、庭の隅に彼らは葬られ、「私の愛する子供達」と
犬達の名前と生没年の彫られた碑、そして彼女も横に葬られ。

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「ペギー・グッゲンハイム・コレクション」は今やイタリアにおけるモダン・
現代美術の一番有名な美術館の1つであり、年間35万人以上の訪問者数。


こちらのサイトで収蔵作品が見れます。 
https://www.guggenheim-venice.it/it/arte/opere/

映画『ペギー・グッゲンハイム アートに恋した大富豪』があるそうで、予告編を。
https://youtu.be/0X2p5-IJgMg


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わたしは自分のコレクションに完全に専念して来ました。コレクションは要求が
厳しいですが、しかしそれは私が望んだ事であり、自分の人生の仕事にしました。
私は1人のコレクターではありません。 私は美術館です。

「私は美術館です」  なんと誇りの込められた言葉!
ペギー・グッゲンハイム、芸術に費やした人生、そしてその人生そのものが芸術。と。



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・ 春5月 トスカーナはシエナのクレーター  白い道 再訪

暫く雨の日が続いた後に、春の煌く陽が戻って来ています。

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来週月曜26日から、イタリアはほぼ大部分の州が黄色ゾーンになり、
レストラン・バールも再開、ただし外の席のみ、映画館、プールも、と
かなり制限はあるものの、イタリア再出発に向けて発進の準備中。

州内は動けるようになるので、少しウズウズしますが、
1年以上の自粛生活か、年のせいか、生活状態にぴったりとハマり、
スーパーへの買い物位でも余り不自由を感じない、という、はは、
かなり可哀そうな精神状態になっているのかも、です。

そんな自分を少しでも奮い立たせる為に、また行かなくっちゃ!
の気持ちを呼び起こす為にもと、3年前のトスカーナ行き未整理の写真を、
はぁ、たくさん残っているので、へへ、整理し、

今日はシエナのクレーターの地道、一名「白い道・ストラーダ・ビアンカ」
を再訪した様子をご覧下さいね。

以前のご案内は  春5月 シエナのクレーターの道を行く その1
https://www.italiashiho.site/article/451140915.html

春5月 シエナのクレーターの道を行く その2
https://www.italiashiho.site/article/451141527.html   



どの道か、の地図をどうぞ。
シエナから南東に、SS438/国道438号線が白く少し太く見えますが、
この道も素敵ですが、も少し東に向かいトッレ・ア・カステッロからの地道、
これはアシャーノ・Ascianoの町を出た北にある墓地前に連絡する道。

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自転車競技などによく使われている道の様で、
車は殆ど通らず、好きな所で止められ写真が撮れる、という素晴らしい道。

アシャーノから入ると、時に道のカーブで逆光状態になりますが、
ほぼ順光で撮れる、という訳で、この時もアシャーノから辿りました。

道が辿る様子は上にリンクした以前のご案内があるので、
今回は少し細部を狙った写真でご覧頂きますね。



かなり麦が延びており、緑がとても美しくなっており、シエナのクレータ独特の
土地のうねりが良く見えます。

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上がって、下がって、カーブして、という地道、小砂利の道をカップルが
行くのに出会いました。

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こちらは車で行っては景色を見て止め、写真を撮り、また出発、なのが、
彼らはこんな道をビチで進むのをshinkaiが追い抜き、
写真を撮っていると追いつく、という見事さで、ははは、
抜きつ抜かれつ、遂に2人に、あなた方は本当に素晴らしい!と誉め言葉をね。



この道、また他の道でもトスカーナの白い道、またオルチャの谷でも言えるのが、
なんとも素晴らしい眺めを展開してくれる事!

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谷のうねり、光と影の交差、緑色の豊富さ、時に点景を作ってくれる糸杉、
そして濃い緑の雑木林・・。 他にこれほどの風景は見つかりませんね。



この傾斜には、最初の時は本当にビビり、ブレーキを引いても小砂利で
ズッズッと行き、はい、今回もここでは確か車の中から撮ったと、ははは。
白い傾斜道の続いていく様子をどうぞ!

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うねる谷に陽が射し、影を落とし、まだ若い麦畑が光ります。

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流れる雨水は低い場所に流れ、集まると、こんな谷の流れを。

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空に向かう道。

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向こうからの道をやってくる、1台のバイク。

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麦の穂が、そろそろ黄ばみだす頃。

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地道に流れる雨が渇く前に通ると、こんな感じに抉られ、乾き、
これがまた次回繰り返され、ひどい箇所を作ります。

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一番底に見えるグレイの色は、多分粘土質ではないかと。



丘の上、手前の大きな農家が2泊したB&B。 

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左側に谷を挟んでの道を一旦奥に見える農家まで上り、そこからぐるっと回り、
今のこの地点まで歩きましたっけ。

左端上にちょっと見える濃い緑の場所が、素晴らしい、凄いクレーターに
なっていて、絵の良いモチーフに。

このB&Bのご案内は シエナのクレーターの宿 2軒 と、 朝と夕暮れの色
https://www.italiashiho.site/archives/20190226-1.html

シエナのクレーターの道を歩く ・ ポデーレ・カザルッチャの宿から
https://www.italiashiho.site/archives/20190221-1.html



少し先に進むと鉄道線と交差し、ちょうど出会えました。 

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この鉄道線は多分シエナから連絡し、アシャーノを通り南にも連絡し、
通勤通学用かもで、B&Bに泊まっている間に何度か通る音を聞きました。



こういった緑の中、喧騒の無い世界で生活できるのは夢でもありますが、
若い人達、農業以外の仕事、また学生にとっては大変な面もありますね。

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オリーヴの花の蕾、薄い黄みがかった小さな花をつけます。

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トラクターのタイヤ跡から始まる、抽象画にも似た水の流れの細い筋目が
徐々に集まり、太く育ちます。 自然の力は凄い。

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ふと近くの上で音がするので見上げると、この羊君が見つめていて。

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よじ登って見ると、かなりの数の群れがおり、あれこれ撮り、
この後の行程でもあれこれ見かけましたので、また羊特集を、はは。



こちら側の傾斜の麦はしっかり育っていますが、右上低地の方は地盤が弱いのか、
かなり落盤した様になっていますね。 

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余りにも美しいグレーに見える色、小さな薄青の花が混ざって咲いているのと、
黄色の小さな花、ちょうどどこの畑でも盛りの時期で、美しい色の対比が。

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こちらは手前の傾斜には、小さな赤い花が咲いて。

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中高年ライダー達の一服!

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shinkai車のリア・ウィンドウ。 はぁ、「白い道、砂ぼこり」の威力!!
これでも半日分なんですよぉ。

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・ クリムトの傑作 「アデーレ・ブロッホ-バウアーの肖像I」に纏わるお話

グスタフ・クリムトの金箔を使った期間作品の大変有名な傑作の1点が

この「接吻」 1907-1908 180x180cm

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そして今回の「アデーレ・ブロッホ-バウアーの肖像I」 1907 138x138cm

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アデーレ・ブロッホ-バウアー・Adele Bloch-Bauerの肖像、となると
勿論肖像のご本人がいる訳で、絵の依頼主は誰か、で、

今迄考えた事が無かったのが、偶然に見つけた記事からあれこれ確認も含め、

またこの作品の持ち主の変遷については暫く前に映画
「黄金のアデーレ 名画の帰還」原題「黄金の女」にもなりましたので、
それについても、様々な作品周囲を巡ってのお話を今回。

参考にしたサイトは
アデーレ・ブロッホ-バウアー:グスタフ・クリムトの女神、真実の話
Adele Bloch-Bauer: la vera Storia della Musa di Gustav Klimt
全体として纏まり、良く事情が分かったのがこのサイト。

マリーアと黄金の女  Maria e la donna d’oro
こちらは絵の返還を求め闘い、遂に法廷で勝ち取った方の話。

アデーレ・ブロッホ-バウアー、 グスタフ・クリムトの女神
Adele Bloch Bauer, la musa di Gustav Klimt

そしてウィキペディアの「アデーレの肖像」イタリア、日本版を。
映画「黄金の女」についても同様に。


という様子ですが、今迄のグスタフ・クリムトに関しての記事はこちらに。
グスタフ・クリムトと、 黄金衣装背後の女性、エミーリエ・フローゲ

クリムト・ヴィッラ   クリムトの最後で唯一残る、ウィーンのアトリエ


という事で、まず肖像画ご本人のアデーレ・ブロッホ-バウアーについて。

生まれはオーストリアのウィーン、大変裕福な実業家モーリス・バウアー・
Maurice Bauerの美しく愛された娘、1881年生まれ。

18歳でフェルディナンド・ブロッホ・Ferdinand Bloch、17歳彼女より
年上の男爵家の跡継ぎであり、砂糖工場の大資産家と結婚を。

どちらもユダヤ人一家で、育った家庭環境も文化的で優雅な物でしたが、
結婚生活はウィーン貴族の伝統的な狭い厳しい中で、

つまり大変教養があり、古典文学を学びたく思っても、当時の大学は女性には
門戸が閉じられており、結婚後に2度の流産、生まれた男の子も亡くし、
生涯子供を持つことが不可能かものコンプレックス、神経質、頭痛持ち、
ヘビー・スモーカーという、

真価を認められない生活の中で、大変知性的な美しい彼女は
憂鬱さを加えた謎の魅力を増した様子。

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こちらは多分後年の彼女と思えますが、

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いやぁ、写真を見た時は、クリムトの絵に描かれた肖像の顔と余りにも似ていて、

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彼女の顔の特徴である眉、少し目尻が下がった目、そして唇、とそっくりながら、
絵画的に一層美しく表現しているクリムトに、改めて凄いなぁ!と、はぁ。



所でこの肖像画は夫のフェルディナンドがクリムトに依頼したもので、
彼は自宅のサロンを解放し、そこは文化人芸術家たちの交流の場所でもあり、
大資産家の彼はいわゆる芸術家たちのパトロンでもあり、
1903年にアデーレの両親への贈り物、として依頼した様子。

こちらは、クリムトのデッサン。

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1907年当時クリムトは44歳ですか、「黄金の絶頂期」と呼ばれる金箔を
散りばめた彼の作品は、イタリアはラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂にある、
ヴィザンチンのモザイク壁画に残るテオドーラ皇妃から強い印象を受け、

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また一家の起源の金細工師の伝統からのインスピレーションと共に、



クリムトは衣装のデザインに象徴的な細部を多用に使い、エジプトのホルス神の
目があちこちに散らばり、彼女は玉座に座っている様に見えますね。

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両手のポーズはよくある形と違い、セクシーであると共に、彼女の指の1本に
僅かな変化、歪みがあり、それを隠そうとしている様子が窺えると。

この手指の歪みについては、他の記事にも1ヵ所みられ、

そのつもりで見ると「接吻」の絵の、男性の肩に回す右手の指も
折り曲げられているのに気が付きました。

n.1 ラヴェンナ ・ モザイク詣で
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463938572.html


所で、最初に「アデーレ・ブロッホ-バウアーの肖像 I」 と書きましたが、
そうなんですね、実は「アデーレ・ブロッホ-バウアーの肖像 II」もあり、
こちら。

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こちらは黄金背景ではなく壁紙を背景にした、優雅な柔らかい布の服装と、
上部の赤い色をバックに、明らかにアデーレと分る、細面の女性ですね。

この絵は1912年の作で、今回これを書きながら気が付いたのは、

今迄まるでバラバラに個々の作品を眺めていたのが、
「接吻」が1907-1908年作、 「アデーレの肖像I」が1903-1907年
「アデーレの肖像II」が1912年と続いており、

知性に溢れ、憂鬱の影に沈む美女、という、「女の目利き」と言われた
クリムトにとっては、願ってもないモデルだったのかもしれずで、
最もフェルディナンド家のサロンで以前から出会っていたと思いますが、

肖像画の2点ははっきりとアデーレである事が分かり、

実は「接吻」のモデルも彼女、アデーレである、と書いてある記事もあり、
その面影を宿しているかも、という所ですね。



そして、この「ジューデットI」もと。 1901作。

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長い憂鬱な睫毛で覆われた非常にセクシーな強烈な顔、半ば閉じられた唇、
神経質でエレガントな手と。

クリムトはたくさんのモデルがいて愛人がいて、と有名な画家ではありますが、
明らかに分かる個別のモデルとしては、長年お互いの仕事の良き協力者で
あったエミーリエ・フローゲを描いた作品が1点あるものの、



この様にアデーレがモデル、と分る確かな2点と、他にも何点か、というのは
他のモデルたちには例が無く、
単なるモデルでなく、絵にインスピレーションを与える相棒、
協力者だった事も想像でき、

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この事から、愛人だったろう、と書いてあるのもありますが、これは確証なく、

夫婦間の信頼からも、出来上がった肖像画2点に夫のフェルディナンドは
大変に深い印象を受け、他にも3枚ほどの作品も購入したそう。


そして彼女アデーレは、1925年1月24日に強力な髄膜炎で、わずか数日で
44歳の若さで世を去りますが、
亡くなる前に夫に、彼の亡後は「アデーレの肖像」はベルヴェデーレ美術館に
遺贈してくれるようにと、遺言を残します。

が、その後1918年にクリムトはスペイン風邪と心臓発作による55歳の若い死、

オーストリアは1938年にナチス・ドイツと併合され、絵はナチスに押収され、
「黄金の女性」と名前を変えられ、
これはタイトル通りだと主人公がユダヤ人である事が明確に分かるからで、
展示はその後ベルヴェデーレ美術館に。


夫のフェルディナンドはナチスに併合後の裕福なユダヤ人達同様逃亡
スイスに、一家の他のメンバーたちはアメリカに渡ります。
そしてフェルディナンドは自分の財産のすべてを一家のメンバーに残し、

クリムトの描いた「アデーレの肖像」は彼の直接の姪に、と記しますが、
彼自身も1945年に亡くなります。

こうしてクリムトの絵は戦時中の押収リストに載ったままかと思われましたが、

1990年後半になり、オーストリア政府は、ナチによって押収された
作品返還の法律を定めたので、


姪のマリーア・アルトマン・Maria Altman、子供の頃賑やかで活発な
叔父さんのフェルディナンドの家のサロンに通い、叔母さんのアデーレからも
実の子供の様に可愛がられたマリーアは、

その幼い時の懐かしく楽しかった思い出からも、美しく優しかった叔母さんの
肖像画を取り戻したく、長い間闘い、

これが2015年の映画「黄金の女」のお話の骨子で、

13-wkomdbpicf8bw0eizqliygcvdm1.jpg 



オーストリア政府は、あまりにも有名な「我らのモナ・リザ」ともなっている
絵の返還は認められないと拒み、

遂にアメリカ最高裁判所に対しオーストリア国を訴え、訴訟に引きずり込み成功、
これはアメリカの書店で売られているクリムトの画集が発端、という事で、

遂に訴訟に勝ち、絵はアメリカに渡る事に。

クリムトの絵がウィーンから去ります、というキャンペーン。

14-Adele-Bloch-Bauer-5.jpg



その後、余りにも高額な保険料にマリーアは屈し、多分歴史的名画を普通の家の中に
展示する為の保険金には頭が行かなかったのだろうと思いますが、
結局ウィーンのベルヴェデーレ美術館にあった絵は
クリスティーズ・Christie'sによってオークッションにかけられ、

常に公開展示する、という条件で、135000000ドルでノイエ・ギャラリー・
ニューヨークが落札、
ガラスケースに入れた状態で、多分防弾ガラスでしょうね、展示されていると。

このノイエ・ギャラリーというのは、Neue Galerie di New York di Lauder、
最後のローダー・Lauderとは、かの化粧品メーカーのエステー・ローダーの
ローダーで、創業者の息子がノイエで、このギャラリ―の創始者、
オーストリアとドイツの国境以外にある最も重要な中欧芸術美術館と。

という事でマリーアの手元には、競売での巨額金とこのコピー作品が、という事と。

15-mariaatp.jpg

裁判当時既に89歳とか読みましたが、まだお元気なのかな?



こうした絵画以外に、フェルディナンドは妻の所有していた美しい宝石の1つ、
有名な指輪「Toi et moi」、なんと指輪に「あなたと私」という名がある!
シンプルでエレガントな2つの色違いのダイヤモンド、を他の姪に残しており、

16-Adele-Bloch-Bauer-4.jpg

この指輪は2018年12月にサザビース・Sotheby'sのオークッションに出された折、
40000ステッリーネ以上の値が付いたそうで。


はい、最初はクリムトの絵で始まったのでしたが、戦争を挟み、戦後の混乱で、
最後は桁を間違えませんように、と何度も0の数を数える、という、はは、
お終いになりましたぁ。

疑問が湧いたのは、shinkaiがクリムトを見にウィーンに、ベルヴェデーレに行った
1989年、「接吻」や他の作品の記憶は幾つもあるのですけど、
「アデーレの肖像I」は記憶が残っておらず、50年間ベルヴェデーレに展示、と
いうので、確かにあった筈ですねぇ。

エミーリエ・フローゲの作品も記憶に、でもこの作品はウィーン博物館にあり、
あれ、なぜここに?!と驚いた記憶も。

そんなウィーン訪問も思い出した、クリムトの作品に纏わるあれこれでした。


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・ ヒットラーのお毒見役を務めた女性  マルゴット・ヴェルク

今日は少し怖いお話を。

タイトル通り、2年半に渡りアドルフ・ヒトラー・Adolf Hitler、
ナチス・ドイツ総統の食事のお毒見役を務めさせられた
15人の若い女性の中で唯一生き残った女性マルゴット・ヴェルク・
Margot Wölkが、

戦後70年を過ぎた2012年、95歳のマルゴットが亡くなる2年前に
始めてインタヴューに応えて明かした、第2次大戦時の恐怖の経験談。

「私の体は総督の食物を吸収し、総督の食物は私の血の中を巡った。 
ヒトラーは生きている。 私は再び食欲を感じた」と。

1-img.jpg


今回参考にした記事は

マルゴット・ヴェルク:アドルフ・ヒトラーのお毒見役
Margot Wölk: l’assaggiatrice di Adolf Hitler
このサイトが最初に読んだもので、一番情報が多くあり。

マルゴット・ヴェルクの真実の話、ヒトラーのお毒見役
La vera storia di Margot Wölk, l’assaggiatrice di Hitler
上のマルゴットの顔写真は、このサイトから拝借です。

ウィキペディアのイタリア版 Margot Wölkも参考に。 
他にももう1記事読みましたが、ウィキペディアのほぼコピーでしたので。


マルゴットは1917年にベルリンのヴィルマースドルフ区域で生まれますが、
彼女の父親は「ドイツ国家社会主義労働者党」に加入せず、
彼女自身も「Lega delle ragazze tedesche・ドイツ女子同盟」に
参加せず、秘書として働き始めます。

1939年第2次世界大戦が始まると、ベルリンのヴェルク家は爆撃を受け、
結婚した夫のカール・Karlと一緒に彼の母親の家がある東プロシャ、
現ポーランドのパルチ・Parczに。

どこにあるのか、地図をどうぞ。

2-2-map.jpg


戦況は日に日に厳しくなり、夫のカールも前線に出発して行き、
1人になったマルゴットは新しい仕事を、再度秘書か女中の仕事を探す事に。

所がそんな彼女の想定からは程遠い仕事が、1942年25才のマルゴットを
他の14名と一緒に市長が、アドルフ・ヒトラーの公認お毒見役として
選んだのですね。

というのも、「オオカミの巣」と呼ばれるヴォルフシャンツェ・Wolfsschanzeが
村から僅か数キロメートルの所、針葉樹の森林に囲まれた沼沢地に
1940年から建設されており、
これはヒトラーの各地に建設された耐弾薬式ブンカ―の、総督大本営の1つで、


1941年6月、ここに対ロシア侵攻戦・バルバロッサ作戦前に移って来て、
1944年11月20日にここを去るまでの2年半、ヒトラーはほぼここで過ごし、
つまりマルゴット達のお毒見役が、この期間必要とされた、という事で。



写真は1945年1月27日ソ連軍が東プロイセンに侵入してきた時、
全てがドイツ軍に爆破され残った、現在のヴォルフシャンツェの姿。

3-Adolf_Hitler's_Bunker_in_Wolfsschanze.jpg

4-Margot-Wolk-assaggiatrice-Hitler-2.jpg



1940年6月建造中に訪れた際の、幕僚たちに囲まれたヒトラー。

5-1940年6月、建造中のヴォルフスシャンツェ.jpg


8平米の広大な土地に、約40棟に及ぶ施設があり、6~8m厚さの
鉄筋コンクリートのブンカ―が大7棟、小40棟あり、全てトンネルで連絡し、
隠された鉄道引き込み線、駅、航空機発着場も2か所。



この大本営で「ヴァルキューレ作戦」と呼ばれるクラウス・フォン・
シュタウフェンベルク大佐による、
1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件が起こった事でも有名ですね。
これは確か、トム・クルイーズ主演の映画があったので、ご存知の方も多いかと。

6-Margot-Wolk-assaggiatrice-Hitler-6.jpg



既に世界を相手に闘い初めて3年、スターリンやチャーチルのライバルたちは
徐々に地盤を築き、最初は不可能と思われていた勝利を収め始めており、

上部に対し不寛容の兆候を示し始めた多くの階層と部下達、また彼への
多分SS関係からと思われる直接攻撃も生まれ始め、

おまけにこの「オオカミの巣」がある針葉樹林の森の中はいつも薄暗く、
ヒトラーの精神状態も不安定になり始め、夜も眠れなくなり始めたと言い、

彼は内部陰謀者の存在を恐れ始め、

マルゴット達が毒見役に選ばれた1942年当時、既に「総督が毒を盛られるかも」
という秘かな声が囁かれており、

大変危険な仕事である事は察せられても、彼女たちの状態では断れない、
という事ですね。


彼女たちの日常はどの様であったか、と言うと、

マルゴットは毎日SS・ナチ親衛隊に姑の家に迎えに来られ、近くの兵舎に
連れていかれ、総督用にコック達が料理した特別料理を
11時から12時まで、味見をしたと。

部屋に入ると、大きな木のテーブルがあり、各自がお皿いっぱいに盛られた
料理を食べる様にと。

最初に記したように、料理は大変美味しく、野菜、ソース、パスタ類、そして
外来種の果物などで、ヒットラーは菜食主義者だったので、肉は無し。

が、緊張と恐れですすり泣く声も聞かれ、幾ら料理が美味しくとも楽しめず、
最後を食べ終わると、安堵と喜びで再びの泣き声が洩れたそう・・。

こういうのを読むだけで彼女たちの気持ちが察せられ、こちらも辛くなりますね。

そして味見が終わって後1時間留め置かれ、完全に安全な料理であると
見極められてから、SSによって総督の下に運ばれたのだそう。


で、shinkaiが考えたのは、朝食はともかく、ここに出て來るのは昼食ですよね?
夕食はどうしたのか、と思われません?

昼食のみの味見だったとは思われず、多分インタヴューに応えた、唯1人の生き残り
だったマルゴットおよび数人が昼食係、そして他は夕食係だったとも思えますし、
案外朝食も味見があったかもで、
そうすると5人ずつに分かれて受け持っていたのかも、と考えられますね。



そして1944年7月20日の、ヒトラーの時限爆弾による暗殺計画が挫折した後は、
一層警備が厳重になり、15人の味見係は家に戻る事が出来なくなり、
近くの空の学校の建物に寝泊まりさせられるようになり、
毎日朝8時にSSが窓の外から、「マルゴット、起きろ!」と声をかけに来たそう。

ヒトラーを実際に見た事が無かったものの、その時点で、本営に総督がいるかどうか、
が分かったそうで、

ほとんど毎日ヒトラーの愛犬のジャーマン・シェパードを見たり、良く彼女たちの
建物の外で遊んでいるのも見たと。


ソビエト兵の侵入も迫り、「オオカミの巣」の安全も危うくなるとヒトラーは
ベルリンに戻る事を決め、1944年11月20日引き上げを。

マルゴットは1人の中尉にベルリン行きの列車に乗せられ、首都に戻りますが、
戦争終了後、マルゴットがこの中尉に再会した時に聞いたのは、
他の14人の味見係は皆、侵攻して来たソヴィエト兵に殺戮されたと。


最初に記した通り、15人の毒見係のうちマルゴットのみが生き残った、と読み、
最初は毒見生活の2年半の間に、1人、2人と亡くなったのかと思ったのでしたが、

4つほども読んだ記事で中尉の事を知り、どうやら中尉がマルゴットに好意を寄せ
援ける為に、彼女1人を何とか列車に乗せたのだ、と理解したのでした。


ベルリンで生まれ育った彼女が、遠く離れた夫の生まれ故郷に逃げたのが、
すぐ近くにヒトラーの大本営があった事から毒見係に選ばれ、
が、この中尉のお陰で生きて「オオカミの巣」から出れた、という、

なんとも悲しく凄まじく、大変な人生、運命を背負った人が、それでも何とか
生き抜けられた、という、どこか特別な運を併せ持った人なのでしょうね。



ですがベルリンに戻ったものの、1945年4月23日ソヴィエト兵はベルリン市の
郊外に侵入、包囲戦、凄まじい市街戦の後に、
遂に5月2日ドイツは降伏したのでしたが、

7-o0787054214744250157.jpg



マルゴットはベルリン戦の後ソヴィエト軍に捉えられ、2週間に渡り凄まじい
暴行を受け、後に子供を持つ事が出来ない体になったそうで、
彼女のみでなく、この時のソヴィエト兵士による婦女暴行の数は10万人を超えたそう。



ヒトラーは4月28日深夜に、長く付き添ったエヴァ・ブラウンと結婚、

8-cc102e32400003200e40197.jpg

4月30日午後に2人ともに自殺、2人の遺骸は燃やされたと。



1946年、便りが届かず亡くなったと思っていたマルゴットの夫カールが
前線から戻って来たのに巡り合い、
1980年に彼が亡くなる迄、幸せに暮らす事が出来たそうで、せめてもでした。


マルゴットは戦後決してあの毒見係であった事を語らずでしたが、
それでも夢に中に何度も出て来て、
本当に食事を楽しめる様になるまで、何年もかかったと言い、

そして遂に2012年12月95歳の誕生日、Berliner Zeitungの記者の
質問に答え始めた時、初めて彼女の人生に起こった事を語ったのでした。

最初の写真をもう一度。 下の若い写真は、ちょうど毒見係を
していた頃の物と。

9-img - Copia.jpg


マルゴットの地獄にも似た経験は「オオカミのテーブル」、または「毒見係」
としてロゼッラ・ポストリーノ・Rosella Postorinoによって著され、
2018年のイタリアの文学賞「カンピエッロ賞」を受賞しています。

10-9786866.jpg


ヒトラーが引き起こした戦争は世界中を巻き込み、なんとも表現できない
大きな苦しみをどちらの側にも齎しましたが、

こうして長い年月の後に漸くに語る人びとの話は、やはり忘れてはならない
人間全体の歴史で厳粛に受け止め、未来にも語り継ぐべき話と思いご案内を。


*****

お陰様で4月9日に受けた右目の白内障再発のレーザ手術は上手く行き、
なんと何年ぶりかと思う程に、はっきり見える目、メガネ3組が必要ですが、
本当に嬉しく、感謝なのです!

が、これで、目が良くないため、お絵描きが、という口実が使えなくなり、
はぁ、これがちょっぴり残った心配の種、へへ、ですが、頑張りま~す。


*****

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・ クローンの鐘楼伝説  レージア湖に半ば埋もれた

皆さんの、多分たくさんの方が、名前は知らずとも、どこにあるかも知らずとも、
湖に半ば埋もれた鐘楼のこの写真はご覧になった事はお有りと。

1-lago_di_resia_e_campanile_sommerso_1.jpg



今の季節でしたら、背後の山はまだ白く、湖の氷も解けかけ、でしょうか。

2-383870ae13.jpg

こういうshinkaiも様々な季節の写真を何度も見かけ、素敵だ、と思いつつも
実際どこにあるかも知らず、湖の中に不思議な写真、とは思いつつ、
調べてみようとも思わずに過ぎて来たのでしたが、

つい先日思いがけず、この鐘楼について書いたサイト記事を見つけ、

アルト・アディジェ州のクローン・Curonというコムーネの、
レージナ湖・Resinaであると知りました。

となると例によりあれこれ好奇心が湧き、あれこれ読みましたので、
今回皆さんにもご案内を。



ええとまず、どこにあるかの地図をどうぞ。
ボルツァーノ自治県クローンで、

3-map 0.jpg

メラーノ・Meranoから西に行き、ほぼ突き当りのグロレンツァ・Glorenza迄は
グループ旅行で行ったので、そこから北に20km、20分程の距離、という事も。

イタリアの北西部のほぼ頂点で、西隣はスイスで、北はオーストリア。


n.1 グロレンツァの町 ・ 「イタリアで一番美しい村々」の一つ  
https://www.italiashiho.site/archives/20170530-1.html

n.2 グロレンツァの町 ・ 「イタリアで一番美しい村々」の一つ 
https://www.italiashiho.site/archives/201705-1.html


が、地図を眺めていても1つ驚いたのは、なんと西上に見つけた
Liechtenstein・リヒテンシュタインの文字!

にゃ、にゃに?! リヒテンシュタインって、こんな所にあった?!
もっとヨーロッパの北だと思っていたのにぃ!

で、落ち着いて考えて調べ、勝手にベルギーの南に位置する
ルッセンブルグと混同していたのを知りました、はぁ、無知。



で、こちらがクローンの地図。 湖に添って延びる国道SS40号は、
ローマ期のクラウディア・アウグスタ街道。

もともとはここに3つあった湖、北からレージア湖、
クローン湖、そして南にサン・ヴァレンティーノ・アッラ・ムータ湖で、

4-map 2.jpg

現在はレージア湖とクローン湖が一緒になり、というより、一緒にされ、
真ん中に「クローン・ヴェノスタの古い鐘楼」として印が付いている場所ですね。


そうなんですね、ここは1950年に2つの湖を繋ぎ拡張、深くしてダムが造られ、
湖岸にあったクローンの古い村は湖底に沈み、

14世紀のロマネスク鐘楼のみが、今もこうして水面から顔を出している、
という事なのです。


で、ダムはどこに?! と探しました。 というのも、普通はダムというと、
水を堰き止め、落下させ、電力を起こす装置、建物がありますよね?

だから何か見える筈と探したのですが、それらしき建物もグーグルの
ストリート・ヴューで見ても分からず、ただ地図を見ると
南端の湖岸が直線で終わっていて、

水が下の湖に流れて行く筈の川も見えずで、
ただ湖の南端に、Staudammと見え、これはダムと訳され、
湖の南西岸に近く、3つの円い水盤状が見えるので、

ははぁ、多分ここから水を地下に落とし発電し、水は地下を流し
南下の湖に通しているのだろうと、推察を。


今回のご案内は、3つのサイト記事からで、

レージア湖の水面に顔を出すクローンの鐘楼の伝説
La leggenda del campanile di Curon che emerge dalle acque del lago di Resia

湖の鐘楼  ヴァル・ヴェノスタのシンボル
Il Campanile nel lago  

湖に沈んだ村、クローンの話
La storia di Curon, il paese sommerso

最後の記事に、ダム建設に至る村の記録、イタリアのムッソリーニ政権下
における南チロルの併合、イタリア化においてどの様に村民を扱ったか、
等など詳しく書かれていて、

その後に起こったヴェネトとフリウリ州境のロンガローネ・ダムの悲劇に
重なる部分も思い出された事でした。

ロンガローネ、 54年前のダム出水大災害のまとめを
https://www.italiashiho.site/archives/20170727-1.html



かって湖岸にあったクローン村の様子で、ここに見える鐘楼が現在湖の中。

5-unnamed.jpg

6-curon-vecchia-demolizione-chiesa.jpg



上空からの写真で見える鐘楼の位置で、上の写真と見比べると、
鐘楼周辺が深く掘り込まれている事も分かりますね。

7-curon---resia-in-venosta.jpg

右上に見えるのが、現在のクローンの村で、



この様に高台にあり、新しい教会と鐘楼も。

8-Curon_Venosta-Graun_002.jpg



こちらがダム建設に際し、村の家屋を取り壊して行った様子。

9-curon-3.jpg

10-sehenswuerdigkeiten-altgraun-reschenpass-ls.jpg


上記した様に、この地域はかっては南チロル、元からのイタリアではなく、
2011年の国勢調査でも(イタリアは10年ごとの国勢調査なので、今年ですね)
この地域の住民98%がドイツ語を話す、というのに、

当時の村民たちが受けた扱い、かなり強引な、ペテンの様な印象を
shinkaiも強く受けた様子をお話しますね。


国の産業生産が増加し、電気エネルギーの増加が渇望され、
ダム建設のプロジェクトが持ち上がったのはもっとずっと以前だったのが、
遂に1939年ダム建設のプロジェクトが提示されます。

が、この地域代表の政治家がおらず、企業モンテカティーニ・Montecatiniは
住民に説明するのを1人の代表に委任したのだそう。

当時イタリアとドイツとの間に在り、イタリア内の「言語の島」のクローンの人々は、
どちらかの住民である事を選び、それに従い引っ越しする事を強制されたそうで、

こうして両方の強いプロパガンダが行われ緊張が高まる中、住民たちの1割が
イタリア側である事を拒否し去って行き、

ファシスト政権による南チロルのイタリア化が勧められ、

村民たちはダム建設について知らされ、ついで村が破壊される事の告示も、

イタリア語で書いたものが、6日間、村内に掲示されたのみ!

誰も見ないままで6日間が済むと、委任された委員は、異議がないので
議題は承認されたものとし、

つまり住民の誰もが気づかぬうちに決められ、進行し、
1940年、最初の接収作業隊が到着した時に、漸くに意味が分かるという。

幾らかのケースでは補償金が予想されたものの、金額はまるで少なく、
家族が引っ越すにも不足する程が、工事は速やかに始まり、
その背後には巨大な投資があったものと。

そして第2次世界大戦が始まり、ファシスト政権は戦略的に重要な
この工事を早く完了させたく急ぎ、

クローンの住民たちの幾人かは説明を求め、また技師たちと話し、
なんとか理解したいものの、まるで受け付けて貰えず、

工事はまず高台にある広大な草地、家畜たちに必要な草地が無くなり、
小作人用の住宅付き農地も無くなると、彼らにとっては不確かな未来か、
自分達の村を破壊する7000人の工事作業員の一員として働くかの
選択を迫られたのですね。

1943年に戦争が工事中断をさせますが、3年後にはスイスからの資金援助で、
工事が再開され、

最初のダム工事の試みとして、モンテカティーニ企業は住民たちに、
村の墓地の大理石の碑を動かさないと、セメントで覆われる、と通知。

ここで初めて本当の抵抗が始まり、漸くに工事の補償として新しい墓地建設
を獲得しますが、これが結局唯一の補償だったと。

1949年には何の知らせもないままに、ダムの水を流しこむ弾幕テストをし、
谷に彼らの家を押し流させ、

水位はどんどん上がり、補償金は不足で、土地の司祭は教皇に嘆願書を
出しますが、後に少しばかりの増額が。

2000人程の住民たちは急いで新しい住居を探さねばならず、
1950年の初めにダムの水が抜かれ、180程の建物の取り壊しが始まり、

家屋は1日1日と取り壊され、住民たちは近くに住める家を求め散って行き、
引っ越し出来ない家族には、モンテカティーニが高台に仮のバラック小屋を立て、
これが現在新しいクローンの村となっている所ですね。


こうしてクローンの古い村は爆薬により破壊され、人工的に深められた
ダムの下に埋もれ、住民たちは多分先祖代々の存在場所を失い、

唯一残されたのが14世紀建設の鐘楼で、文化財保護により護られているのだと。



約5mほどの水深が、冬に湖が凍結すると、歩いて鐘楼に近づけるそうで、

11-inverno_campanile_lago_curon_venosta_.jpg

伝説によると、冬に鐘楼の鐘が鳴るのを聞く人もいると!!



現在この一帯の大きな観光メッカとなっており、こんな遊覧船もある様子。

12-freizeit-hubertus-schiff-vinschgau-fb.jpg



クローンの最後は、今回のshinkaiの大いなる関心を引いたこの写真を。
これを見て、わぁ、見たい! 皆さんにも! と思ったのでした。

13-campanile_curon.jpg

神秘的で、埋もれた村のすべてを包み込み、今の我々に伝えている様な、でしょ?!



最後の最後は、はは、地図で気が付いたリヒテンシュタインを調べ見つけた、
現在も君主リヒテンシュタイン公のお住まいだという、ファドゥーツ城を。

14-Schlossvaduz.jpg

嬉しがりshinkaiの血がピクッと騒ぎましたもので、つい、へへ。


◆ 明日9日は右目のレーザー手術、で、その後の検査もありますので、
  次回のブログ更新は1~2日遅れるかもですが、ご容赦お願い致します!


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・ アッシジ サン・フランチェスコ聖堂の夜明け と ブオナ・パスクワ!

2021年の復活祭は4月4日。 イタリアの復活祭は2度目のロックダウン中ですが、
それでもやはり素晴らしく煌き始めている陽の光と、窓の外のコンドミーニオの
庭にたくさん咲き出している黄色いタンポポ、白い小さなデイジーに心ときめきます。

そんな感じをお伝えしたいと思うと、何が良いかなぁと考え、
暫く前に整理した、アッシジの春の夜明けの光、町の西端に位置する
サン・フランチェスコ聖堂に朝陽が射し始める風景をご覧下さいね。

1-DSC00877_01_GF.jpg

撮ったのは6年前の5月初旬、アッシジの町のお祭りカレンディ・マッジョを
見に行った時の物ですが、整理せずにそのまま置いていたもの。

上の写真は朝6時37分。 聖堂広場前から階段を上り上の院の前からで、
宿はもっと早く出たものの、あちこち歩いた後に聖堂前に着いた時は
既に殆ど下まで光が当たっておりました。



これはいつも正面から撮りたい時のお気に入りの場所からで、

2-1-DSC00891_01_GF.jpg

聖堂前向かって右側端の道をず~と上って来ると上の道に続き、
家並の前から右に入り込むと、小さなたまり場、みたいな所があるのですね。

はぁ、実際に夕方にもここで粘っていましたら、お祭りの中世風衣装の
若い女の子が2人やって来て、1人が彼の事で相談し始め、
はぁ、日本人観光客だから言葉が分からないと思ったのでしょうが、
しっかり内容が分かり、青春の悩みは尽きないなぁと、思った事でしたぁ。



地図で言うと、教会サンタ・マルゲリータ・Santa Margheritaの前辺りですが、
未だかって教会に気づいた事がありませんで、へへ。

2-2-assisi map1.jpg



朝陽の当たる聖堂正面。  手前の草原は、

3-DSC00883_01_GF.jpg



こんな感じで、シュッ、シュッとスプリンクラーが働いており、美しい緑を。


4-DSC00888_01_GF.jpg

がぁ、むか~しスケッチに来た時は、今は立ち入り禁止のこの草原にも入れ、
ペルージャでの戦争に負け戻ってきた姿のサン・フランチェスコの像もなく、
草原は禿ちょろけでしたけど、皆がくつろげる良い場所でしたっけ。



正面の、大好きな典雅で美しい薔薇窓。

5-DSC00884_01_01_GF.jpg



西に広がる下の平野にも光が当たり始め、

6-DSC00881_01_GF.jpg



暫くして後、光の中のサンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ聖堂。

7-DSC00887_01_GF.jpg


n.1 サン・フランチェスコ聖堂 ・ アッシジ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465045157.html

n.2 サン・フランチェスコ聖堂 ・ アッシジ
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アッシジの春 ・ 想い出の中でいつも静謐、端正な
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さてその翌朝、今度はしっかり朝陽が聖堂に届く瞬間を撮ろうと、朝一番に。
月がまだこんな風に残り、

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暫くして明るくなり始めた聖堂。

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西の平野と、サンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ聖堂。 
空の色が美しいでしょう?!

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で、いつもの指定場所に。 朝5時58分。

11-DSC01156_01_GF.jpg



石垣の塀、下から立ち上がる塀の下を覗き込むと、
前夜に町の人々が地区毎に集まり、喋り、食べ、飲みした残りが見え、

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道のあちこちにお祭りで設置したあれこれ、パッチワークの仕切りもそのまま、

14-DSC01161_01_GF.jpg

掲載パスしましたが、市を想定しての屋台や野菜などなど、
道は大変なゴミが散乱しており、ははは。



そうして待っている内に、掃除のシニョーレの大きな声が聞こえ、
「ピアーノ、ピアーノ! ゆっくり、ゆっくり」が口癖で、
すぐ傍に来たので、写真を撮らせて、と頼むと喜んで並んでくれ、

15-DSC01162_01_GF.jpg

おい、俺たちの写真が日本に行くんだぜ!と、左のピーアノ、ピアーノの
シニョーレ。
彼の「ピアーノ、ピアーノ」の大声で、町の人は目が覚めるのではないか、
と思った程で、ははは。



漸くに聖堂から見下ろす、北の平野に光が当たり始め、

16-DSC01166_01_GF.jpg



聖堂から斜め左奥にある山の上から光が射しこみ始め、

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鐘楼の一番上に射す光。   6時23分。

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待ちながら、あっ、下に下がった、と待ちきれず、はは、撮った写真の
2,3枚に1枚ずつを下に続けますね。

6時25分。

19-DSC01174_01_GF.jpg



6時26分。

20-DSC01176_01_GF.jpg



6時28分。

21-DSC01179_01_GF.jpg

22-DSC01181_01_GF.jpg



6時31分。

23-DSC01184_01_GF.jpg



最後は、6時32分。

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たまり場から出て道を上に上がり、サン・ジャコモ門の所から見る、
道の上をまたぐ建物にも今、陽が射しこみ、

25-DSC01186_01_GF.jpg



下のサン・フランチェスコ通りから上って来る小路サンタンドレアが
この建物の下を抜けますが、

この建物下の古い壁際の泉、朝の光が届かない場所では色あせた感じ。

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サンタンドレア小路側から見るとこんな感じで、

27-DSC01198_01_GF.jpg

サン・ジャコモ門からの道が手前で左に曲がり、メタスタージオ通りとなり、
下のサン・フランチェスコ通りと平行に、町の中心コムーネ広場まで続きます。



夕陽の射す中で撮った泉。  良い色でしょう?!

28-DSC01700_01_GF.jpg

斜めに射す影は、小路の入り口に作られていたお祭り用の門の柱の陰で
いつもはなく、朝陽は射しこまない泉という事も知りましたっけ。



で、最後はこの道角で撮らせて貰った、お祭り衣装のシニョーレ。 

29-DSC01712_01_GF.jpg

お顔もですが、なかなかの人物の衣装ですねぇ。 尋ねれば良かった、
と今になって思うアホ。

懐かしい写真を見ながら、道筋を思い出しながら、
ああ、また行けると良いなぁ!!



明日4日の昼食には、友人ジュリアーナがパスクワのお菓子コロンバ・鳩
を持って来てくれる事になっており、午後は2人でDVDタイムをね。

では皆さまも、良い復活祭をどうぞ!!  ブオナ・パスクワ!!

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