・ マイヤーリンク事件  オーストリア皇后シシーの1人息子ルドルフの心中

先回ヴェネツィアのコッレール博物館のご案内をした中に、

そこにはイタリアのロンバルディア、ヴェネト州がナポレオン以降の
オーストリア・ハンガリー帝国の下にあった1850~60年代には何度か
皇后エリーザベトが、愛称シシーで知られる皇后が最初は皇帝と共に、
後には彼女のみで数か月を滞在した、と書きました。

で、今回はその皇后シシーに関連し、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世との間の

1人息子ルドルフ・Rudolf(1858-1889)が、

1-Mayerling10.jpg



17歳の愛人、男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツェラ・Marie von Vetseraと、

2-Maria-Vetsera.jpg



1889年1月29日、ウィーンから南東に30kmほどにあるマイヤーリンクの
王室狩猟用の城館に於いて心中した、

当時ヨーロッパ中に大変な反響を引き起こした「マイヤーリンク事件」と
呼ばれる悲劇について、です。

マイヤーリンクの城 1889年

3-1-Schloss_Mayerling_after_the_restruturing_of_1889.jpg



位置は

3-2-mayerling.jpg

王室の狩猟用城館、と書きましたが、当初、実際は王室の持ち物ではなく、
皇太子ルドルフが1887年だったか、自分の狩猟用に購入したものだそうで、
多分狩り用にだけでなく、堅苦しいウィーンの宮廷から逃れ一息入れる
目的だったのだろうと。


shinkaiがこの事件を知ったのは、高校の時図書館で見つけた
クロード・アネの「うたかたの恋」原題は「マイヤーリンク」

その後2度ほども映画化されており、ご存知の方も多いかと思いますが、
高校生の多感な心にどの様に響いたか、ご想像くださいませませ。

ずっと記憶に残っており、その後1991年になって初めてウィーンに行った時は
半日間のウィーンの森ツァーに加わり、ハイリゲンクロイツ修道院に案内され、
マイヤ―リンク事件についての話も改めて聞き、

事件の後シシー皇后が1人息子の死を嘆き、城館を壊し、供養の為に
修道院を建設し、当時の城は無いと説明されました。

それにしても各国からの観光客が一緒のツァーで、ガイド氏は英、仏、独、伊を
順番に語る凄いガイドで! 何とか分かっただけでも偉いやんかぁ、と、ははは、
当時は自分を褒めなだめたshinkaiでした。

が、今回これは半分本当、マイヤーリンク城のルドルフの寝室があった場所と
その周辺を破壊し、礼拝堂が建設されている、と知り、

つまりハイリゲンクロイツ修道院とは近くとも別物、ただしここには心中の片割れ、
マリー・ヴェッツェラが埋葬されている事を知りました。

今回参考にした記事は
シシーの宮廷の悲劇:マイヤーリンクでの2重の愛の自殺
Dramma alla Corte di Sissi: il doppio suicidio d’Amore di Mayerling

マイヤーリンク事件、130年前   
L’incidente di Mayerling, 130 anni fa

そしてウィキペディアのイタリア版 Fatti di Mayerling  写真も拝借
日本語版のあれこれも。


オーストリア-ハンガリー帝国の、ハプスブルグ=ロートリンゲン家の跡継ぎ、
フランツ・ヨーゼフ1世皇帝と、エリザーベト皇后の1人息子、
4人の内唯一の男子ルドルフ、他の3人は女子、長女のゾフィーは2歳で死亡、
広大なオーストリア-ハンガリー帝国の後継者と、生まれながらに。

父皇帝フランツ・ヨーゼフ1世  1903年

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エリーザベト皇后 ルドルフの亡くなった後は終生黒色の衣装のみを。

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幼少の頃より皇帝たるべき厳しい軍事教練、スパルタ式教育で鍛えられ、
神経過敏、内気、意固地というように育った様子。

彼の好んだ学問は自然科学、とりわけ鳥類学と地質学を好み、
「オーストリア-ハンガリー帝国の歴史、文化」辞典の編纂、文章も
かなり彼自身が書いていると。

当時の中欧の政治情勢についてはとても手に負えずご案内はパスですが、

母親エリザベートも逃げ出したかった、スペイン式の厳しい宮廷生活の中で
お世継ぎの皇太子」と、きっとがんじがらめの生活だったのでしょうし、
本当に心からの同年代の友もいなかったのではないかと想像を。


1881年23歳のルドルフはベルギー王レオポルド2世の次女ステファニー・
Stéphanie(1864-1945)当時17歳と結婚。

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1883年には娘エリーザベトが誕生するものの、結婚当初はまだしも、
次第に性格の不一致、無理解と喧嘩と続き、遂には静かで冷たい
すり切れた関係に。

確かに写真で見ても余り美しい方でなく、髪の毛も少なそうで、失礼。

そしてお気の毒ながら、ルドルフは数知れぬ遊び相手から貰った淋病持ちで、
ステファニーも感染、次の子が生まれぬ体になっていたとか。

蛇足ながら、このベルギー王の長女シャーロットは、フランツ・ヨーゼフ1世の
弟で、トリエステのミラマーレの城を建設後、メキシコ皇帝となって行くものの、
かの地で革命が起こり、革命軍に銃殺されたマキシミリアンの妃。

図らずも当時の世界情勢の激しい中で、姉妹2人ともに不幸な結婚生活を
送った事になりますね。



そんな情況にあった1888年の秋、ウィーンの競馬場でと言いますが、
30歳のルドルフと、17歳になったばかりの男爵令嬢マリー・ヴェッツェラが知り合い、
小柄で目の美しい生き生きとした優雅な少女に、ルドルフは一瞬に捉えられ!

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エリーザベト皇后の姪、つまり皇后の兄が身分違いの結婚をしての娘、
ラリッシュ伯爵夫人マリー・ルイーゼが2人を知っている事から間を取り持ち、
11月頃より2人は秘密の関係を持つように。

ルドルフは、「マリーはマダム・ポンパドールには憧れていない。 
私の階級は彼女には無関心であり、彼女は単純に私が愛している女性である。
彼女についてたくさんの事を知ったし、それに大変に美しい。 が、これ程にも
貞節な心に出会った事が無い」と書いているそう。

マダム・ポンパドール夫人とは、かの有名なフランスはルイ14世の御愛妾で、
大いに権勢をふるったという方で、マリーはそんな女ではなく、
またそういう関係には置けない、という気持ちだったのでしょう。

こんな言葉からも、宮廷で出会う人々との関係、お世継ぎの皇太子に
対する人びとの接し方が想像され、
なおの事初めて接した、若く率直、純真なマリーに一直線に惹かれたものと。


2人の出会い、逢瀬についてはラリッシュ伯爵夫人マリー・ルイーゼがいつも
お膳立てし、皇太子の不倫についても隠していたものの、

年が明け1889年には次第に噂が広がり、皇太子の単なる遊びでない
婚姻外の関係について宮廷に大きなスキャンダルが起こり、遂に父皇帝が
皇太子との2人での話合いに呼び出し、愛人との即の別離を言い渡すものの、

ルドルフは逆にステファニーとの婚姻消滅を願い、もし聞き入れられない場合は
死ぬと迄願いますが、勿論父皇帝が聞き入れる筈もなく。

父皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は保守的で、皇帝とは神に選ばれての道、と
言う様な絶対君主の考え方だったそうですし、
勿論一国の世継ぎの身の処し方としては到底無理な事。

どうやらマリーは妊娠していた様子で、ルドルフは教皇レオ13世に
ステファニーとの婚姻消滅願いを書き送るものの、
教皇はこの不届きな要求を勿論許さず、

おまけにこの返事をフランツ・ヨーゼフ1世当てに送ったとかで、
なおの事皇帝の態度は固くなり、事態は急速に悲劇の影を帯びる事に。


こうして自分の立場、環境から逃れ道はなく、かといって真実に愛し始めた
マリーとの関係は断ちがたく、遂に2人はある道を選ぶ事に。

1887年の皇太子ルドルフ

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1889年1月29日ロドルフは両親に気分がすぐれず、公式晩餐会には
出席できないと言い、マイヤーリンクの狩猟館に引きこもりますが、
マリーも一緒に。

前夜に、明朝暁には狩りに行くので早く起こすように、と言われていた従者は、
1月30日早朝部屋のドアをノックするものの、返事もなく、音もせず。

これからの事は、後に従者が語った所によると、

何度か試すうちに、部屋の中から内にこもった銃声が聞こえ、
扉を力ずくで開けようとするも果たせず、斧を取りに行き、扉の板を打ち破り、
漸くに部屋の中に入る事が出来たと。

部屋の中はカーテンが引かれていて暗く、中に入った従者と小間使いは
座っているか、ベッドに横になっているルドルフの形を垣間見ます。

彼の口から血が流れ、近くには空のグラスが見え、
傍らには、横たわり、動かない、ヌードの若い女性の姿が。

従者が即考えたのは、皇太子は愛人に毒殺されたのだと思ったそうで、
がこれは、最初に見たイメージからの発想で、
これが元になり、たくさんの陰謀説理論の組み立てが続いたそう。

従者は直ちにウィーンの王宮にニュースを伝え、幾人かの皇帝側の貴族等が
やって来て様子を見ると、どの様に皇帝に伝えるかの議論となり、

最後は皇后シシーより、という事でお願いし、皇帝は息子ルドルフの死を
妻の皇后から知ります。

両親の嘆き

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どの様に両親が息子皇太子の死を知ったか、反応などは知られておらず、
嘆いた事は確かでしょうが、とにかく最初は一切秘密裡に運ばれたといい、

緘口令も引かれ、その日の午後遅く警察が城館周囲を閉鎖し、
皇帝の医師達が2人の遺体観察に。


部屋にルドルフの2通の遺書があり、自分の妻と、母親シシーに。
妻ステファニーにあてたルドルフの遺書には、

  親愛なるステファニー、君にとってまさに襞であった自分の存在なしで
  君は自由だ。 君のやり方で幸せであれかし。

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手紙は長い間「自殺説」を通す為に作られた偽物とされていたのが、
2度に渡っての別々の鑑定により、例え日付が無いにせよ、
本物と鑑定されたのだそうで。

マリーの遺書は無かった、と長い事言われていたのが、実際にはあり、
それも近年公開されたとかで、
  今迄こんなに幸せだったことはない、という様な文章と記憶にあるのですが、
どこで読んだのか、残念今回は見つけられませんでした。



残された医者のレポートも、後の研究者によると、書き換えたらしいとも。

いずれにしても、ルドルフは頭を撃っての自殺であろう、そして自殺する前に
マリーのこめかみを撃ち、殺傷したのであろうと。

翌31日のウィーンの新聞に、ルドルフ皇太子は動脈瘤で亡くなった、と
公表されたものの、暫く後にはウィーンの宮廷は真実、ルドルフとマリーが
死んだ、と認めざるを得ませんでした。

この時期1900年代末はオーストリア-ハンガリー帝国にとっては大変難しい
時代で、このルドルフの死は大きな痛手で、
歴史家はいずれにしてもこの事件が第1次世界大戦発端に繋がったと。

というのも、オーストリア-ハンガリー帝国の後継者は、ルドルフの死後
フランツ・ヨーゼフ1世の末の弟が即辞退したため、その息子フェルディナンド・
Ferdinandになったものの、

マイヤーリンク事件後25年にはサラエヴォでフェルディナンドは暗殺され、
これが第1次大戦の緒となったのは皆さんも良くご存知で。



マリーの遺体は医者の検査を受けた後すぐ、秘密裏に、母親の最後の
挨拶も間に合わない内に、すぐ近くのハイリゲンクロイツ修道院に埋葬され、

ルドルフの死は最初動脈瘤によると発表されたものの、医師の検察が済み
遺体表敬を受ける様になると、死の原因を隠す訳に行かず、

ルドルフ皇太子の遺体

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特別に教皇に埋葬許可を貰い、約150代に渡るハプスブルグ家のご先祖
同様、ウィーンの王家の埋葬所に。


様々な秘めた一連の動きと共に、大帝国後継者である皇太子の、
愛人との自殺は、様々な憶説をかもし、陰謀説も生み、
当時のヨーロッパ中の大スキャンダルとなったそう。

最初に遺体を発見した従卒が考えた、マリーによるルドルフの毒殺は、
銃による傷がある事から直に否定され、

次に、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の命令による、2人の殺傷説もあったものの、
皇帝命令、の説明がつかず、

ドイツや、フランスによる陰謀暗殺説も根強いものがあったそう。

そして、医者の観察により、マリーの方が数時間か先に亡くなっている事から、
彼女が受けた堕胎手術の事後経過が悪く、出血して先に亡くなった、とも
言われているようですが、

いずれにしても、2人は一緒に死のうと決め、決行したのに間違いは無いようで、

私めは、「2重の自殺」という言葉ではなく、日本の言葉「心中」を捧げます。

なぜならこの言葉には、
愛する2人が、愛する事を禁じられる今の世から、もう1つの世、
死んで、2人が一緒にいられる世に行こうとするのを哀れみ、
例え残された者の悲しみは深くとも、2人を寿ぐ意がある様に
感じられるので。



こちらが、マイヤーリンクの城館のルドルフの寝室一帯を壊し、
冥福の為に建設された礼拝堂。

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知り合って僅か4か月間ほどの、本当に短い2人の愛のお話。

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19世紀末のウィーンの、どこか陰鬱でもあり、また秘められた華やかさの
空気が滲む、マイヤーリンク事件のあれこれでした。


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・ n.3 ヴェネツィア行き  ムゼーオ・コッレール ・ コッレール博物館 その2

先回に続きまして、ヴェネツィアのサン・マルコ広場、聖堂の向かいにある
ムゼーオ・コッレール、 コッレール博物館の展示品紹介その2のご案内を
続けますね。

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コッレール博物館の2階には、日本流にいうと3階になりますが、
絵画の展示がある様子ですが、うん十年前に見た記憶がしっかりの
絵画展示はどうやら現在閉鎖中の様子で残念でしたが、
まぁ、またコロナ終焉の時には再開してくれるものと期待し!



今回はサン・マルコ広場の南側の棟の、そのまた南側の部屋の展示で、
国立考古学博物館収蔵品らしき物、そして市博物館の品らしき物など、


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そして南側一帯は、ナポレオンが1797年にヴェネツィア共和国を倒した後
パラッツォ・レアーレ・Palazzo Reale、王宮と呼ばれる居住地となり、
義理の息子、ナポレオンの最初の妻ジョゼフィーヌの子ウジェーヌ・
ド・ボアルネの下にあったのが、

1814年にヴェネツィアはオーストリアの治世下に入り、この王宮も
オーストリア皇帝一家のヴェネツィア滞在所となり、
イタリア統一後にはイタリア国王の物となった、という由来があり、

長い間閉鎖されていたのが修復され、2000年から幾つかの部屋が公開
されているというもので、美しい部屋が見事でしたので今回最後に。



まず市博物館の所蔵品と思われる、皿絵の2枚。
いつの時代の物か、左で動物たちに音楽を聞かせている楽人が、
右では女達にこん棒でボコボコにされている図で、ははは。

3-DSC05325_01_GF.jpg



黄金のブチントーロ・ドージェの御座船 の模型。

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ブチントーロの再建造という話が随分前にあり楽しみにしていたのですが、
カナレットの展覧会を見に行った時にやはりブチントーロの模型があったので
管理の方に尋ねましたら、

プロジェットはヴェネツィア市ではなく市民側から出ていて、なかなか資金が
集まらず・・、という事の様で。

カナレット と ヴェネツィア展 ・ ドゥカーレ宮 ヴェネツィア
https://www.italiashiho.site/archives/20190313-1.html



これはカルネヴァーレの時期に行われる「ヘラキュレスの力試し」とでも言うか、
いわゆる人間ピラミッドの競技ですね。

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最初のは単純な5段ですが、2枚目のは樽を繋いだ上に8段(3段目は2重に)
のピラミッド!

横にあった説明を写して来たのでご案内すると、元々13世紀頃からあったのが、
1705年に有名になったもので、というのも、
それ迄あった欄干の無い橋の上でする「拳骨戦争」が禁止されたのだそう。

で、カーニヴァルの最後の木曜日、四旬節(復活祭前の摂食の40日間)が
始まる前の、「大食の日」で、ジョヴェディ・グラッソと呼びますが、

ヴェネツィアの各地域が南北の2つに分かれ、大運河の北側がカステッラーニ・
Castellani、シンボル色は赤、
南はニコロッティ・Nicolotti、色は黒、
で、ドージェを始め、著名の招待者、行政関係者、一般民衆と大勢の前で、
サン・マルコの小広場前で行われるもの。

樽を繋いだ土台の上に、一番下は10~12人の人間の上に、木の板と人間で
次々にピラミッドを高くして行き、最後は子供が上り、
でんぐり返しをしたり、飛んだりするのだそうで!

まぁ、これだと欄干の無い橋の上での拳骨闘技よりも、怪我人が少ないかも!
今もあるのだろうか? 写真も見た事が無いですが。



家庭用品類で、手前真ん中はパスタ茹での鍋、大きいので嬉しくなって!

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サン・マルコのシンボル、有翼のライオン君の小さな碑ですが、
よくもこう可笑しなライオンの顔を彫るもの、と、ははは。

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右下は、秘密の密告口で、いわゆる目付箱。

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最初に「省と他への秘密の告訴・・」とあり、何度も告訴の投書に使われた
様子で、口の周りが黒くなってますねぇ、ははは。


秘密の告訴、といっても、告訴するには必ず本人と承認者の署名が
必要で、これは!となると呼ばれて直接に訴えを、という手順だったと。

ドゥカーレ宮の中にも勿論、ヴェネトのあちこちでも口を開けているのをね。

怖い人間の顔をしたのは n.1 パラッツォ・ドゥカーレ・ディ・ヴェネツィア
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464578376.html



こちらは小さな小さな、一番小さなのはブローチの大きさ位な肖像画の
コレクションで、なかなか興味深くもあり、素敵なのもあり、

10-DSC05351_01_GF.jpg



展示前のガラスに灯や窓からの光が反射し、上手く撮れずこの面だけですが、
こちらは他の展示の中の、少し大きな、素敵な女性の顔。

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いよいよ王宮部分に差し掛かると、向かいのサン・ジョルジョ・マッジョーレ島が
こんな風に見えるのです! 

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大快晴の日、まだ木々の葉が茂り切っておらずで、素晴らしい眺め!!
部屋のすぐ下は「王宮庭園」と呼ばれる公園になっていて、たくさんの人が
一休みを。

庭園と建物の間には運河が通り、近づけませんので、誰が?! ご安心を! 



で、いよいよ王宮の部屋になりますが、あれこれ読んで分ったのは、
現在の姿は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリーザベト・
シシーの、1856年の初のヴェネツィア訪問前に改装された姿に、修復したもので、
この時は38日間のヴェネツィア滞在だったそうですが、

皇帝も一緒に38日間の滞在だったのか、ロンバルディアーヴェネツィアが
オーストリアの治世下の為のミラノも含めての滞在だったのか不明です。


美しい青と金の壁布の、皇后エリーザベト・シシーの寝室。

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こちらは書斎。

15-1-Stanza-da-studio-dellImperatrice-Museo-Correr-Venezia_GF.jpg



素晴らしい螺鈿が施された宝石箱の様な文庫、で良いのかな。 
扉が開き、中が覗けるようになっており・・。

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フランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベトは1854年4月に結婚しており、
エリーザベトの姉のヘレンが当初の結婚相手に、という予定が、

フランツ・ヨーゼフは姉と一緒に来た彼女を見た途端に我を忘れる程の
一目ぼれだったとか、
彼の母親はエリーザベトの母親の姉で、まぁ、バイエル地方の田舎でのんびりと
野性的に育った彼女を、姑になった叔母のゾフィーは厳しく躾をしたがったとか、
ゴシップの話題に事欠きません、ははは。

こちらがオーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世皇帝1853年の肖像。
ちょうど結婚する前年に当たります。

17-francesco giuseppe I 1853_GF.jpg



こちらが1855年結婚翌年のシシー。 未だ17歳! 

18-Elisabeth_in_Bayern,_Kaiserin_von_Österreich 1855_GF.jpg

若く美しく、長い髪を見事に保つ為に、それぞれ何時間も手入れをしたとか、
なんだかんだと書かれてあるのも読みましたが、まぁね、出来る人、したい人は
したら良いのですしね、はは、
単純shinkaiは、いやぁ、どちらも美男美女のカップルだなぁ、と。


それはさておき、ウィーンの厳しい宮廷から逃れる事はシシーにとっては
大変嬉しい事だった様子。

ヴェネツィアに到着し大運河を皇帝、皇后が船で行かれるにも、大運河に面した
どの窓もぴったりと締め切られ、サン・マルコ広場に到着しても凱歌を揚げるのは
オーストリアの兵士達のみで、

ヴェネツィア人たちはむっつりと占領国の皇帝皇后を眺めるのみ!
広場にたくさん集まったのは、単純に「美しい」と評判の皇后を見る為だったとか。


それでも彼女にとってはヴェネツィアの印象は大変想い出に残るものだった様で、
その次には1861年10月から1862年5月までの長期間の滞在に。

この部屋はちょうど建物の角に当たる「接見の間」、素晴らしく美しい部屋で、

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赤と金の壁布が素晴らしく!

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椅子の背には王冠が織り込まれており、  

まぁさか、剣を持ったサン・マルコ像は皇后のご滞在中はここには
無かったろうと思いますがぁ・・。



ヴェネツィア装飾のシャンデリアも大きな華麗なのが下がっておりました。

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たまたま角の窓が開いており、ふっと覗くとジュデッカ島の教会が見え、
サンタ・マリーア・デッラ・プレゼンタツィオーネ・S.M.della Presentazioneと。

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建物の足元からゴンドラがお客を乗せて出かけて行き、

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小さな橋をくぐり、大運河に。

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そうそう、ゴンドラに乗られる時は、どんな景色を見たいのかを考え
乗り場を決めて下さいね! ヴェネツィア全部は到底回りませんけんね、はは。



王宮の部屋に戻り、こちらは「ウィークデイの昼食の部屋」。

26-DSC05368_01_GF.jpg

となると、日曜の晩餐の部屋、とかありそうな気がしませんか?!


shinkaiが見た部屋は通りすがりに見れる5つ程だったと思うのですが、
公開している部屋は9つとかいうのは本当かなぁ?!
続き部屋でも2つに数えているとか?

で、あちこちのサイトから集めた不足部屋の写真、装飾をどうぞ!
「ムーア人の部屋・サーラ・モレスカ」という、異国趣味の部屋で、

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本当にここにあるの? と名前を確かめましたぁ。
これと色違いの、赤と金色の部屋の写真も!



「お化粧室」の天井。 繊細な大理石と、極小クリスタルの装飾で、
真ん中のメダルは美術の女神を表しているのだそう。

29-Boudoir-dell’Imperatrice-Sissi-Museo-Correr-Venezia_GF.jpg



最後の部屋は、舞踏室! 細長い広い部屋で、歩くと大理石の床模様が
足に当たり、うっかり踊っていて引っ掛からないかなぁ、と余計な心配を!

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部屋の四隅はこんな風に桟敷席になっており、

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ここのシャンデリアも大変豪華なもの!

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細長い大きな鏡があったので、部屋の様子を覗きましたが、少し食い違い。

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という事で、1時間半以上ゆっくりと回り楽しみましたが、お腹が空き、

博物館を出る時に見たサン・マルコ広場の人出、賑やかになっておりましたぁ!

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この後大勢の観光客を見ながらマルチャーノ図書館下の石段に座り、
近くの店で買ったトマトとチーズ入りのパニーノ、オレンジ・ジュースを。

いつもは食べないパニーノですが、お腹が空いており、しっかり美味しく食べ、
その後はいつもながらのサン・マルコの正面などの写真を撮りつつ、
少し東のサン・ザッカリーアの方まで行きましたが、余りの人出に恐れをなし、
自粛するに越した事は無い、とサン・マルコまで戻りヴァポレットで駅まで。

サン・マルコ聖堂内も、鐘楼もすべて予約だそうで、お昼にはすっかり終了、と
入り口のシニョーレが説明しているのを聞き、そうかぁ、暫く聖堂内も
見てないけど、と、いずれにしても様子見をして、と言い聞かせ。


今朝スマホに届いたヴェネツィアのニュースには、建築のビエンナーレ展が
人出ではちきれ、ヴァポレットの中でも喧嘩があったとか、
コロナ前の状態にヴェネツィアが戻ったとか・・!

そう、皆さん、お出かけ緊縮で飢え切っていたですものね。

でも、もうちょっとの辛抱が肝心ではないかなぁ、と思っているshinkaiで、

6月中旬にはマスク無しOKになるかも、とか、6月1日からフリウリなどが
白ゾーンに、ヴェネトも7日から白に、というニュースにも、

う~~ん、と半分疑いの目の、老婆心満開の、きゃはは、shinkaiで~す。


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・ n.2 ヴェネツィア行き  ムゼーオ・コッレール ・ コッレール博物館 その1

先回に続き、1年振りのヴェネツィア行き  n.2は、昨年の再挑戦
コッレール博物館・Museo Correrの様子をご案内です。

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但しず~~っと念願にしていたカナレットが使ったというカメラ・オブスクーラ・
暗室カメラは見れず、管理の方に聞くと、ありません、と言われましたがぁぁ、

以前何十年前に見た記憶にある様々な絵画、ムゼオ・コッレールの看板
ともなっているカルパッチョの「ヴェネツィアの2人の貴婦人」も見当たらず、

その後にゆっくり考え、またウィキの説明によると、絵画の部屋は2階にある
というので、きっと現在の所は閉めているのであろう、
カナレットのカメラ・オブスクーラもきっとそこに!と推察をし、
ならば再度オープンの時にまた来ようと!

但し細い部屋が幾つも幾つも続き、以前見た考古学博物館蔵に関する
品ではなかろうか、という様な部屋もいくつか、また様々な生活物品など、

そして最後にはパラッツォ・レアーレ・王宮の華やかな部屋も見れましたので、
今回興味深かったそれらの様子を、2回に分けてご覧頂きますね。


上の写真はサン・マルコ広場、サン・マルコ聖堂の向い合せに位置する
ムゼオ・コッレールで、


ナポレオン棟と呼ばれる白い建物に入口が。

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これは昨年行った時の写真で、カルパッチョの「ヴェネツィアの2人の貴婦人」
を使った看板で、今年も勿論表に。

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週末は予約必須で、ドゥカーレ宮との一緒の切符で、時間指定と、
コッレール博物館のみでは買えず、何をどうせいと言いたいのか分からずの
アナログshinkaiは切符購入に2日掛り!ははは。

でも何とか購入、シニア料金 コッレール11時 14エウロ券を握りしめ、はは、

11時開館と同時に入場でき、やれやれとお向かいのサン・マルコ聖堂の眺めを。

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ほらね、また観光客が少なめでしょう? これが徐々に増え、見学を終え
戻りの時にはどうなっていたか、をまた次回の最後に。



最初の展示はアントニオ・カノーヴァの部屋があり、そしてヴェネツィア共和国の
海軍総大将、並びに108代ドージェのフランチェスコ・モロジーニ・
Francesco Morosini(1619-1694)の
「セレニッシマの最後の英雄 歴史と伝説の間」が展示中。

様々なガレー船の模型や、ヴェネツィア共和国の大きな旗、本等々興味深く、
中には小ぶりの聖書に隠したピストルなどもあり!
たまたまやって来た子供達が大喜びでしたが、また機会を見てご案内を。


という事で、これは途中窓越しの広場の様子で、カフェ・クワードリが見えます。

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どの様に回ったかを図でご説明すると、
ナポレオン棟の入り口を入り2階に上がり、まず南に、そして広場に面した
北面の展示室をずっと進み、角の広間を見物し、一旦少し戻り、

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そして今度は中庭を挟んだ南側の部屋部屋を進み、部屋の窓からは
庭園が見え、ちょうど南西の角辺り、両側に幾つかの王宮の部屋を見学、
最後は舞踏室、で、入り口に戻ってくる行程。


今回こうして図を眺めながら、ドゥカーレ宮に面するマルチャーナ図書館の
西背後にあるのがラ・ゼッカ・貨幣鋳造所だったのも知り、

以前見た考古学博物館やら、ヴェネツィア市民博物館の展示なども
さまざまに入り混じっている事を納得したのでした。



という事で、今回は北面の部屋の展示は省略し、

こちらが突き当りの大きな素晴らしい部屋、マルチャーナ図書館に含まれる
部屋と思いますが、正面左がここに入って来た場所。

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で、高い窓が並ぶのに、こんな風に赤褐色のカーテンが掛かり、

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窓のガラスがこんな少し色が入った丸ガラスで、とても綺麗!

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壁にも大きな絵が掛かり、天井も大変豪華な造り!

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で、この部屋にあった地球儀は、よく見ると星座表になっているのでした。

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部屋の外にはこんな豪華な漆喰造りの階段があり、下の図書館に連絡と。

パラッツォ・ドゥカーレにも似たような階段がありましたっけね。

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ここで少し引き返し、 ヴェネティエ・1500年・VENETIE MD と入った
有名な、大~きな地図。

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元の版画銅板も南側の展示部屋にありましたが、部屋が暗すぎ撮っても見えず。



南側の部屋に移動した所だったと思うのですが、
丸天井の漆喰装飾と、

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騙し絵の格天井、これも素晴らしかった!

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こちらは床の大理石模様。 少しモダンな柄でしょう?

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ドゥカーレ宮に面した窓の、先程より少し濃い色ガラスと、

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三角の隙間から覗くドゥカーレ宮の壁面。 ちょうど中程にある77代目のドージェ、
アンドレア・グリッティが献じたバルコニーが見えます。

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彼についてはこちらに  ヴェネツィア、 朝のサン・マルコ広場
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464497590.html



そしてまた考古学博物館の所蔵品が並ぶ部所があり、 大きな足指。

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ギリシャの壺など。

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ここからはエトルスクの品。 ギリシャの絵付けよりも少し骨太で、味があり。

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考古学博物館ちょっぴり n.1
http://italiashinkai.seesaa.net/archives/20170912-1.html

ヴェネツィアの考古学博物館 n.2
http://italiashinkai.seesaa.net/archives/20170916-1.html



今回初めて実物を見た、かってヴェネツィアの高級娼婦たちが履いていたなる
「高下駄」というか、はは、我が国の花魁と同じだぁ、と感激する

木製のゾッコリ・zoccoli・木靴、チョピン・Chopin、またはゼッペ・zeppe.

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いやぁ、余りにも綺麗な象眼細工が施され、まぁ、可愛い美しいおみ足に
使うものですし、殿方の目にも止まりますものね。



そしてこれはもうめちゃくちゃ高い! 恐ろしい程の、50cm程の高さかな?!
歩けたの?! よりも、どうやって履く?! 材質は何だろ?

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コッレールに収蔵されている筈の、カルパッチョの「ヴェネツィアの2人の貴婦人」

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奥の女性の足元は隠れてますけど、足首の位置からすると裾の位置と共に、
髪型などからも、
「ヴェネツィアの(本当の)貴婦人」ではない、と言われております。



これは多分化粧品収容セットと思われ、大変手の込んだ上等な品の様で、

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最初パッと見た時は1つ1つの手描きかと思ったのですが、どうやら印刷彩色の
絵を貼り、ニスを塗り重ねたものだろうと気が付きました。

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ほら、デコパージュといいましたっけ、あの手法で、というのも、
上辺に剥げかけた紙の様子が見えるでしょう?

それにしても、こんなのを使うのはやはりかなりお金持ちの婦人でないとね。



こちらはべっ甲の櫛で、やはり上同様18世紀の品、
真ん中の丸めのは、王冠をかたどっているのだそう。

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今回最後の写真、右側上下4つはシャトレーヌ・Chatelaine、腰に吊るし、
様々な日常小物を入れたり、下げたりの・・。

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「ル・シャトレーヌ」をご存知? 宝石、アクセサリーでなく、でも・・
https://www.italiashiho.site/article/480082295.html



そして左上は煙草入れ、その右はアクセサリー入れ、なんですと。

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この辺りの大変に細かい手仕事には、本当に驚き!


という事で、ムゼーオ・コッレールのその1をお終いにし、

次回にはオーストリアの最後の皇妃シシーが滞在された王宮などを。


*****

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・ n.1 ヴェネツィア行き 快晴、1年ぶり ヴェネツィアはいつもヴェネツィア

この9日日曜、ほぼ1年ぶりにヴェネツィアに行って来ました。

漸くにイタリア全土がほぼ自粛解禁、お天気も大快晴となり、
朝の内はやぁ、やはりまだ観光客は少ないなぁ、と思っていたのが、

なんのなんの、お昼頃にはサン・マルコ広場もほぼいっぱいの人となり、
街の小路も人通りが多く、外の席のみOKという事で、
サン・マルコ裏の通路の外のテーブルも満員状態となり、

駅までゆっくり歩いて写真をと思っていたのも、これは危ないかもと自粛、
またサン・マルコ迄戻り、ヴァポレットで駅まで戻りました。

が、本当に雲一つない青空のヴェネツィアで、
いつも通りのヴェネツィアですが嬉しくて、かなり撮って来ましたので、
何回かに分けてご覧頂こうと思いますので、よろしくお願い致します!

今回はまず、サンタ・ルチーア駅から西の外回りのヴァポレットで、
サン・ザッカリーア(サン・マルコ広場東)迄の様子を、
皆さんもヴァポレットに乗られたおつもりで、お楽しみ下さいね!!

メストレの駅で見かけた、高速鉄道「イタロ・Italo」のナポリ行き。

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今回は毎月初めの日曜に出かける、ヴェネツィア・メストレの墓地を済ませ、
5分程のメストレ駅裏の通りの駐車場に車を止め、サンタ・ルチーア駅まで
電車で、という行程で出かけました。

これだと日曜は駐車料金無料、メストレからの電車賃も片道1,5エウロ!
何よりもコネリアーノから混んだ電車に揺られる事無く済み、
月半ばの日曜に出かけるなら、もっと早い時間に出かける事も出来るし、

暑さが過ぎる頃にはまたしっかり計画できるなぁ、という目論見も出来、
先の楽しみとなりました。


どちらの窓からも海が干潟が見え始めると、ボート漕ぎの練習の人、

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すいすいと自転車でヴェネツィアに向かう人々が見え、

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わぁ~い、ヴェネツィア! 何十年前に見た初めてのヴェネツィアと
同じ感慨の駅前、サン・シメオンの眺め。

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ね、人の姿がまだ少ないでしょう?!



ゴンドラもいつもの姿、はは。

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今回は西周りのヴァポレットで、  駅前のスカルツィ橋。
大運河も空いています。

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1年前の6月、コロナでの自粛間を縫って出かけた時。
n.1 ヴェネツィア行き ・ カナルグランデをヴァポレットで その1
https://www.italiashiho.site/archives/20200621-1.html

n.2 ヴェネツィア行き ・ カナルグランデをヴァポレットで その2
https://www.italiashiho.site/archives/20200625-1.html



西の大駐車場トロンケットからの連絡電車ピープル・ムーヴァー。 空いてる。

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問題になっている大型クルーザー船の姿もなく、ジューデッカ運河に入り、

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散歩を一休みのシニョーラと、その影に入り込むワン君。

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運河に張り出したテラスのカフェ席にはかなりの人々が憩いを。

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この辺り、ず~っと運河沿いに河岸の道、散歩道が続き、冬も暖かく。
ザッテレの、サンタ・マリーア・デル・ロザーリオ教会。

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振り返って見るジューデッカ島の、ムリーノ・スティッキ・現ヒルトン・ホテル。

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ヴァポレットの一番後ろの外の席に座っていたので、水しぶきが写っていて、
時には小さな虹も。



橋の上の2人。

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そろそろサン・マルコの鐘楼が見え、パラッツォ・ドゥカーレも。

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ドガーナに続く、ザッテレの倉庫群は今は船、舟の倉庫になっている様で、
かっては塩倉庫だったと見え、上にDEI SALI と、

今クレーンでボートを釣り上げている所。 釣り下げの漕ぎ手共を見た事あり。

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サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ聖堂の丸天井裏側から。

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そして、ドガーナの先っちょまで来て、

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風見の女性像、金の球、捧げる2人の男。

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サン・マルコ小広場が見えて来るとぉ、

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素晴らしいお天気の下の、小広場真正面からを。

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ドゥカーレ宮も本当に美しく!!

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東隣の監獄宮とを結ぶパーリア橋。  

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なぜパーリア橋・藁の橋、という名前なのか、今回の分室ブログで。



サン・ザッカリーア停留所で降り、ドガーナからS.M.デッラ・サルーテ聖堂を。

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少し動いて。

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サン・マルコの鐘楼から、ドゥカーレ宮、監獄宮。

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余りの雲一つない快晴の青空にただ嬉しく、ヴェネツィア再確認を! はは。


サン・ジョルジョ・マッジョーレ島。  ここも暫く渡っていないなぁ。

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高級ホテル、ダニエリのゴンドラ・サーヴィス。 初めて気が付いた、はは。

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ホテル入口扉上の天使の碑。 ここは確か回転ドア―だったと。

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ホテル横の小運河、射し込む光と、揺れる反射光の美しさ。

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この日のヴェネツィア行きの第一目標は、昨年6月に行ったコッレール博物館
が閉館だったのが、漸くに開いたと知り、これは是非、だったのですが、

まずは余りにも素晴らしい快晴ですっかり嬉しくなり、コロナ自粛が1年続き、
漸くに病気快癒からの回復期のお出かけみたいで、ははは、

一応ワクチンは1回接種済みですが、そろそろと、余り人の多い所に近づかず、
大声で喋りまくるロシア人家族にも背を向け、はは、鼻マスクのお父さん、
動き回る3人の子、お母さんも大声だし、ね、ロシアのどこから?と思うやん、

そんなこんなの1人遊び、新発見のヴェネツィアへの行き方、などなど、
そろっと出かけ、適当に切り上げ、またの楽しみに戻りましたが、

喜んで撮って来た光満ちたヴェネツィアを、
漸く観光地として再度動き始めたヴェネツィアの様子を

次回も宜しくお願い致しま~す!


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・ マレーネ・ディートリッヒ の 「リリー・マルレーン」「モロッコ」       ご存知ですか?

イタリアは先月26日からかなり規制事項が緩み始めておりますが、
先日ドラーギ首相が、来週5月半ばから観光客を受け入れる方向に、
という事で、多分6月からと思いますが、

国内のみでなく、外国観光客にも開く、という事で、
対コロナ・ワクチンを受けた証明の、グリーン・カードを携行が条件で、
但し入国後の自粛期間は無し、という事の様子。

漸くにイタリアのほぼ全土が黄色ゾーンになり、感染者数も、死者も
緩くながら減りつつあり、対コロナ・ワクチン接種の影響も感じられるのを受け、

もうこれ以上この夏は観光業界も閉めておけない、という事でしょう。
バールやレストランはまだ屋外のみOK、夜間も10時で外出禁止ですが、
夏に向かい、様子を見つつ、6月からはも少し条件が緩んで行く事と!

ヴェネツィアのサン・マルコ広場のカフェ・クワードリが漸くに開店したそうで、
明日9日には、shinkaiめもほぼ1年ぶりにヴェネツィアに出かけて来ま~~す!

日本からイタリアへの旅行計画も、まずワクチン接種をどうぞ、ね。

*****

暫く前に見つけたサイト記事に

マレーネ・ディートリッヒ: ヒトラーとナチズムにノーと言ったドイツの女神
Marlene Dietrich: la Diva tedesca che disse NO a Hitler e al Nazismo
  
と言うのがあり、読んでいて、彼女のあの低いセクシーな声、哀愁の歌、
素晴らしい脚、男装した粋な姿、などなど思い出し、

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と共に、殆ど知らなかった彼女の人生についても知り、とりわけ私生活!
ふ~~ん、という懐古の情と共に、

やはり同じ女性の1人として、強く自由に生きた歩みにも改めて想いを馳せ、
皆さんにもと今回ここに。

例の如くウィキペディアのイタ版、日本版も参考に、写真も拝借を。

まずは、彼女が歌い世界中に大ヒットした「リリー・マルレーン・lili Marlean
美しい彼女の様子も。 これは今回の最初に是非見て下さいませませ。

「リリー・マルレーン」の歌詞は、若いドイツ人作家が、第1次世界大戦で
ロシア戦線に出征する前に書いた、若き歩哨が主人公で、

兵舎の前の街灯の薄暗い光の中で毎晩会っていた最愛のリリー・マルレーンに、
自分を忘れてしまったのではないかと恐れ、訴える、

 もし自分に何かが起こったら、 誰が街灯の傍に、
 以前のように リリー・マルレーン、 君と一緒に リリー・マルレーン



これはドイツのプロパガンダの絵葉書で、1942年にフランスで出回ったものと。

2-Cartolina tedesca di propaganda, realizzata in Francia – 1942.jpg

1938年に「街灯の下の少女」というタイトルでレコードになり発売され、
翌年単純に「リリー・マルレーン」と。

が、ほとんど売れずだったのが、1941年ドイツ陸軍のラジオ放送が、
アフリカのロンメル将軍のアフリカ大隊に放送した所が大変に評判となり、

ドイツ・ナチス軍占領のユーゴ・スラヴィアのベルグラード・ラジオでも大評判。

ナチスの宣伝相ゲッペルスは、この憂愁の響きの歌が大嫌いで、戦争中の
ドイツ兵士の士気昂進にはまるで似合わない、と一旦禁止したものの、

たくさんの軍から、すべての階級からの抗議が届き、禁止取り下げとなり、
毎晩放送終了の歌となって流れたのだそう!

おまけにドイツ人だけでなく、軍用ラジオの強力な電場を受信する民間人にも
広く愛され、「リリー・マルレーン」の歌詞は多くの言語に、イタリア語にも、
歌詞が適応する様、翻訳され、

つまりこの歌詞は、戦争の前線から、前線を越え、広がって行ったのですね。

最初に歌ったのはドイツ人歌手ラーレ・アンデルセン・Lale Andersen.
で、余りヒットしなかった、レコードが売れなかったと上記しましたが、

こちらにラーレ・アンデルセンが歌ったYoutubeを。
https://www.youtube.com/watch?v=O6GFioNt1QA


ほぼ戦争が終わりかけの時にマレーネ・ディートリッヒが歌った時、
彼女が暖かくセクシーな声で歌った時、歌も彼女も不滅となり、

哀愁を含んだメロディーは戦争の歌ではなく、多分平和への賛歌となったと。

驚くべき事は、この偉大な女優はドイツ人である事を誇らしく、
「神に感謝します、私はベルリンで生まれました」と繰り返していたそうで、


彼女は1942~43年にはアメリカで、そして1944~45年にかけてはアルジェリア、
フランス、イタリア、英国で、
米軍兵士への慰問ツァーで「リリー・マルレーン」を歌い。

1942年ハリウッドの食堂で、リタ・ヘイワ―スと共に兵士にサーヴィスを。

3-Dietrich e Rita Hayworth servono cibo ai soldati alla Hollywood Canteen – 17 novembre 1942.jpg



1944年の慰問ツァーにおいて、フランス、英国、ベルギーで。

4-Dietrich e soldati statunitensi in Francia durante il suo secondo tour – 1944.jpg

5-Dietrich con gli aviatori del 401° Bomb Group – 29 settembre 1944.jpg

6-Dietrich firma il gesso di un soldato in Belgio – 24 novembre 1944.jpg



マレーネ・デートリッヒは、1901年12月27日プロイセン王国の警察官の
娘として生まれ、生活の為ベルリン南のちょっと放縦な舞台やキャバレーで
自由、芸術的に。

1929年大抜擢で選ばれたのが、映画「嘆きの天使」の主役!

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映画の粗筋は、学校教授の中年謹厳実直男性が、生徒たちの間で評判の
キャバレーに、生徒たちに酒と女に溺れぬよう説得する為に様子を見に出かけ、
ミイラ取りがミイラに、つまり若い踊り子に溺れてしまい・・、というもの。

映画は大成功、彼女は一躍女神に、ファム・ファターレ・運命の女、男を
破滅させる魔性の女、の伝説が、
この後の6本の映画でコンビを組んだフォン・スタンバーグ監督によって形作られ、
生まれます。



1930年2本目の映画「モロッコ」では、若きゲーリー・クーパーと共演。

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映画のラスト・シーンでは、アルジェリアの傭兵部隊の彼が出かけて行く後を追う、
砂漠の砂に足を取られ、ヒールを脱ぎ捨て裸足で追う彼女の姿が大ヒット!

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アホちゃう?! 裸足で暑い砂漠を歩ける訳ないじゃん! とは分かってますけどぉ、
若かったshinkaiも最初映画を見た時は、ああ~!と熱い溜息もので、ははは。



この2本指をピュ、ピュと振って別れを告げる仕草も、カッコ良かったなぁ。

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そう、美人女優の中でも女性達に好かれる人もいるでしょう? 逆も勿論。
なぜかこのディ―トリッヒはカッコ良い、と思える、べたつかず、
どこか超越している様な、そんな感じを受けません?



彼女はまた、映画の歴史の中で、この「モロッコ」で、男装してキャバレーで歌う
シーンで、客の女性の口にキスをした、最初の女優なんだそうで!

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そしてまた彼女は映画のセット以外でも男装するのが好きで、

当時は未だパンタロンを女性がはくのはスキャンダルで、彼女がタキシードで
到着すると、有名なクラブの幾つかは入場を断ったそうで。

1933年の彼女

13-Marlene-Dietrich-vestita da uomo nel 1933.jpg


また服装に関わりなくディートリッヒは自由女性で、これは性的な事も含め、
戦前の寛容なベルリンのみでなく、後に移住したピューリタンなアメリカでも
隠すことなく。

1924年に結婚したルドルフ・シーバーとの間には娘が生まれたものの別居、
但し良い関係を保ちお互いに往き来し、経済的にも援けていたそうで、

で、何十人もの、男性も女性もの、コレクターだったそうで! ははは。
ハリウッドの男優、女優の名も幾人も並び、

私生活で超越的であると同様に、仕事に於いても正確、時間厳守、規律があったと。



1930年、映画「嘆きの天使」が大ヒットし、一躍大スターになったものの、
まだベルリンでのお披露目前に、彼女は既にアメリカに旅立ち、

パラマウント映画は興行収入を待たずに契約し、それも女優による監督の
選択等、面倒な条項も受け入れており、

つまり彼女のプロとしての選択のアメリカは、短時間での正確で劇的分野の
選択であり、

ドイツ人としての誇りは、まるでヒトラーやナチズムとの関係を望んでおらず、

ゲッペルス宣伝相はナチのシンボルとして彼女を欲し、ドイツに戻る様に
気前の良い条件で持ち掛け、ヒトラーはまた愛人として欲しがりますが、
彼女は一切受け付けず、

1939年にはドイツの国籍を放棄、アメリカの市民権獲得を。


30年代末には、大勢のオーストリア人、ドイツ人の国を離れた人々と一緒に
救助活動を設立し、経済的にも、またユダヤ人と反対者たちをドイツから
逃亡させるための援助も。

1937年には、映画「モスクワからの最後の列車」の出演料450000ドルを
全額、難民支援の保証として出費。

1941年12月に米国が第2次大戦に参戦すると、戦時国債を売るために
顔を貸し、イニシアティブを援け、兵士達の前での公演の為全国を巡ります。

1944年、45年には海外の前線に行き、彼女のレパートリーに加え、すべての
軍隊に愛されている、憂愁な「リリー・マルレーン」を歌い、

ドイツではパットン将軍がドイツに入った時一緒になり、
なぜこのような危険、ナチの前線にこんなにも近い所で危険を冒すのか、
と聞かれると、単純に「品位の為に」と尋ねた人に答えたと。


1948年の彼女。

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戦争が終わった時、ずっとベルリンに残っていた母親と会う事が出来、
母親はその後じきに亡くなり、
ベルゼンで数年を過ごした、夫と子供達と一緒の姉とも会えましたが、

最初は彼らに保証を与えたものの、その後姉とその夫、息子たちが
ベルゼンで、ベルゼン強制収容所の上層階級たちが頻繁に訪れる
映画館を運営していた事を知ると、

彼らとの関係を永久に閉じ、彼女の人生から消し去り、
後には一人っ子であると主張するようになったそう。



彼女の」ドイツには、60年代になって舞台巡りで戻りますが、
歓迎は良くなく、彼女は「裏切者」、または「アメリカの売春婦」と。

1975年に足の骨折から引退、

1992年5月6日90歳で、ディートリッヒはパリの自宅で亡くなり、
パリの葬儀の後望み通りベルリンの母親の墓の隣に。

彼女と旅を共にした、旅行鞄セット。

15-Set_di_valigie_personale_di_marlene_dietrich.jpg


1970年大阪万博でのコンサートの、ニュースで見たピンクのイヴニング姿や、
華やかな映画の中の彼女の姿しか知りませんでしたが、

こうして知ってみると、大変に固い信念のもとに生きた彼女が見え、
そんな事が滲み出て、美しいだけでなく、1人静かに進む女性に見えたのかも、
と納得したのでした。

きっと大変に頭の良い人で、冷静で、甘い美しさではなく、麗人の様な、
という言葉が正しいのかどうか分かりませんが、

映画出演は大抜擢の最初からの6本だけ、とも知って驚きましたが、
やはり世に出るにして出た逸材だったのかも!ですね。

うん、今夜は久し振りに「モロッコ」のDVDを見よう!


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・ 太陽王ルイ14世の愛人、 結婚したかったマリア・マンチーニとの若き恋

ええと、今日は知ってみると意外に奥行きが深く、へぇ~と好奇心満開の、はは、
フランスの太陽王ルイ14世若き時代の、最初の本気な恋愛、愛人のお話を。

ルイ14世のご寵愛を受けた女性方は多いので、まぁ、イタリア名前の
読んだ事も無いような、殆ど行きずりの方かと思いましたら、
なんとあちこちに、日本版ウィキにもちゃんと個別事項で載っておられ、
はぁ、例の如く、知らぬはshinkaiなりけり、へへ、なのかもの、

1-Dipinto di Maria Mancini.jpg

マリーア・マンチーニ:ルイ14世のイタリアの愛
Maria Mancini: l’amore italiano di Luigi XIV

そして例により、ウィキのイタリア版、日本版を参考に。
写真もサイトで見つけたり、ウィキペディアから拝借を。


フランスの17~18世紀、太陽王として、フランス国家の繁栄、貴族文化の絶頂を
築かれたルイ14世(1638-1715)については、以下にも取り上げましたが、

ヴェルサイユ宮殿における 太陽王ルイ14世の1日は
https://www.italiashiho.site/article/479317225.html

17世紀 ルイ14世のフランスと ヴェネツィア間の「鏡の戦争」
https://www.italiashiho.site/article/479383538.html


いつも残された画像で見るルイ14世はすっかり太陽王になった大人の、
中年の王様の顔、様子ですが、

こちらは1661年未だ23歳の若い様子で、こうして見るとなかなかのハンサムで!

2-Louis 1661.jpg



彼女マリーア・マンチーノ(1639-1715)は、ローマ生まれのイタリア女性。
貴族の3女として生まれ、姉にラウラ、オリンピア、妹にオルタンス、
マリー・アンヌ。


母親のジローラマ・マザリーニ・Girolama Mazzarinoは、マザリーノの姓で
お分かりの様に、

ルイ14世の宰相でもあったジュール・マザラン枢機卿・Jules Mazarin・
イタリア本名Giulio Mazzarinoの妹に当たり、

3-Kardinaal_Mazarin.jpg



夫が早く亡くなった後、兄の枢機卿を頼りにパリに出て来て、年頃になる
娘たちの良い結婚を頼み、

マザランは上の妹ラウラ・マッツァリーニの娘アンヌ・マリー、ラウラ姉妹も含め
7人の姪のそれぞれの嫁ぎ先を、自分の立場を上手く使い王侯貴族に嫁がせ!!

これらの姪っ子たちはマザリネット・混ざりネット・Mazarinettes、ははは、
なる言葉で呼ばれるほどで!

皆大変美しく、かなりの策士でもあり、はは、それぞれが良い結婚をしたと。

そうなんですね、後程それぞれがどういう夫を見つけて貰ったか、
興味あるお話も。


マザラン枢機卿なる方が元はイタリア人だったというのも、以前知った時には
驚いたのでしたが、
1634年に教皇から派遣され南仏アヴィニョンに行き、そしてパリに。
その後、スペイン側に嫌われ再度アヴィニョンに。

そしてリシュリュー枢機卿・宰相の知己を得、後継に相応しい人物と見なされ、
枢機卿となり、リシュリュー、並びにルイ13世が亡くなった後、ルイ14世の母
アンヌ・ドートリッシュの相談役、ルイ14世の実質宰相に、フランスに帰化と。


という様な周辺事情のご案内で、本筋のマリア・マンチーニに戻りますと、

ルイ14世は、父王ルイ13世が41歳で亡くなった後、わずか4歳で即位し、
母后アンヌ・ドートリッシュが摂政となり、マザランは実質的な宰相となりますが、

1652年満13歳になったルイ14世は成人を宣言したものの、まだ国王の勢力も弱く、
フロンドの乱、30年戦争、その後のスペイン戦争と続きます。

1658年と思われる、ルイ14世20歳か19歳頃、未だスペイン王女との結婚の
話が起きていない時、スペインを威嚇する意味のサヴォイ家の姫
マルゲリータとの結婚話が持ち上がり、

が、フランス南東部のリヨン・Lyonで王と姫の顔合わせが会った時、
ルイ14世が目を止めたのはマザリンの姪のマリーア・マンチーニで、

4-Marie_(Anna_Maria)_Mancini_by_Jacob_Ferdinand_Voet.jpg

まさに2人にとっては、「稲妻の一撃」 一目惚れだったそう!


レポートには、「女性に対するすべての親切さを、彼・王が出来る事を彼女の為に、
音楽、朝食、乗馬での散歩をし、彼は自分の馬の一番美しいのを彼女に貸し、
彼女に2台の馬車を作らせ・・」

こうして2人は逢瀬を重ねる様になり、即、王がイタリアから来た貴族女性に
恋をしているらしいという噂が広がり、

ルイ14世は本気である事をマゼランに、つまり彼女と結婚をしたいと。


スペインとの和平を結ぶ1659年のピレネー条約締結の為の立役者はマゼランで、
王のご寵妃ならともかく、結婚となると国政に関する事で、

彼はマリーアを諦める様説得すると共に、母后からの説得も含め、あらゆる手段、
影響力を行使しますが、

ルイ14世王は交際をやめると約束するものの、また元に戻るという有様。

娘を心配する母親、マゼランの妹が死の間際に囁いた、不思議な星占いの事も
あり、遂にマリーアをラ・ロシェル近くのブルアージュ修道院に押し込め、

フランス国王ルイ14世の最後の決定を引き出したのは「国、国政の道理」で、
ここに若き太陽王のロマンスが終わり、彼は2度とマリーアに会わず。

1670年のルイ14世。

5-Luigi-XIV 1670.jpg



こうしてスペインとの和平、ピレネー条約が締結され、国王フェリペ4世の姫
マリーア・テレーザとの結婚が決まり、
条約締結の際の、2人の顔合わせ。

6-LIsola-dei-Fagiani-sul-fiume-Bidasoa-01.jpg

条約が締結された   半年毎に主権が替わるファザン島をご存知ですか
https://italiashinkai.seesaa.net/article/480331752.html



1660年6月3日、最初に代理人結婚、が行われ、
6月9日にフランス・スペインの国境の街サン・ジャンド・リュスの、
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会で正式に結婚式が。

結婚式の様子の絵・原画と、 つづれ織り。 ルイ14世の右背後にマゼラン。

7-Louis_XIV_wedding.jpg

8-Marriage_of_Louis_XIV_with_Marie-Therese_of_Austria.jpg



結婚式のサン・ジョバンニ・バッティスタ教会の祭壇。

9-L’altare della Chiesa di San Giovanni Battista di Saint-Jean-de-Luz.jpg



国王の結婚式の後は、2人の恋人の間の儚い書簡も無くなり、


1661年にマリーアはパリでロレンツォ・オノ―フリオ・コロンナ・
Lorenzo OnofrioColonna(1637-1689)と結婚した後、イタリアに戻ります。

10-Lorenzo Onofrio Colonna.jpg

偉丈夫、家柄も良く、教養も素晴らしい公爵、法王庁での外交関係で
力量を発揮、結婚後2人の間には子供も3人生まれますが、

3人目の子が生まれて後は、夫が自分を殺したいのではないかと恐れ始め、
何度か家出を繰り返し、遂には1681年修道院に。

そして夫が1689年に亡くなるまでを過ごし、その後の事は余り記録が無く、
1715年5月8日にピサで最後を。

これは愛し愛された想い出の残る、ルイ14世の亡くなる4か月前で、
彼女の遺品はピサのサント・セポルクロの教会に休んでいるそう。

棺の中には夫からのダイアモンドと、強制的別離の少し前にルイ14世から
贈られた真珠のネックレスを希望したと。


一方ルイ14世はあらゆる種類の気まぐれにふけり、女性をリボンを変える様に
取り換え、アジア、アフリカでのフランス植民地の拡大に伴い、フランス国を
ますます強大に、影響力を与え、絶頂に至る72年間の在位人生。

後に出て來るご寵愛人達の多さと派手さに、王の若き日の恋は薄れて
しまいましたが、

マリア・マンチーニを主人公にした本は、フランソワーズ・マレット-ジョリス・
Françoise Mallet-Jorisの「Maria Mancini」
他 2冊出版されているそうです。


過去の中でずっと生きたのであろうマリーアの生涯は、いささか哀れを誘いますが、

ちょっと元に戻り、マザリネットと呼ばれたマザリンの姪っ子たち7人のその後を。
姪のみでなく3人の甥の世話も見たそうで。

彼女たちがフランス王家の宮廷に現れた時は、それ迄色白のふくよかな美人を
見ていた目には、すらりとして、少し浅黒い肌が大変新鮮に映った様で、
大きな評判になったそう。

いずれもルイ14世の母后の住まいの翼に引き取られ養育されたそうで、
それも叔父マザリン枢機卿の力ですね。


ラウラ・マルゲリータ・マッゼリーノ・Laura Margherita Mazzarinoと、
伯爵ジェローラモ・マルティノッツィの娘2人

・アンナ・マリーア・マルティノッツィ・Anna Maria Martinozzi(1367-1672)
 アルマンド・ディ・ボルボーネ-コンティ・同名傍系の始祖に

12-Anna_Maria_Martonozzi,_Princess_of_Conti_by_an_unknown_artist_(Palace_of_Versailles).jpg



・ラウラ・マルティノッツィ・Laura Martinozzi(1639-1687)
 モデナ公爵アルフォンソ4世デステと結婚

13-Laura_Martinozzi_duchessa_Modena.jpg



ジェロニーマ・マッザリーノ(1614-1656)と男爵ロレンツォ・マンチーニの娘

・ラウラ・マンチーニ・Laura(1636-1672) ルイ・ドゥ・ヴァンドーム
 5代目ヴァンドーム公と結婚

14-Laura_Mancini_01.jpg



・オリンピア・マンチーニ・Olimpia(1639-1708) エウジェーニオ・
 マウリーツィオ・サヴォイア-カリニャーノ、 ソワッソン公爵と結婚
 彼女は後に黒ミサ事件に関与したと言われ、ルイ14世により追放、ベルギーに。

15-Olympia_Mancini_by_Mignard.jpg

彼女も最初ルイ14世の愛人だったとか、 確かではありませんが。



・マリーア・マンチーニ  今回の主人公

11-MarieManciniJacobFerdinandVoet1665.jpg



・オルテンシア・マンチーニ・Oltensia(1646-1699) 叔父のマザリンのお陰で、
 公爵夫人の爵位を創設、ラ・メイユレイユ公となるアルマンド-チャールズ・
 デラ・ポルタと結婚、後離婚。
 暴力をふるう夫から逃げロンドンに行き、国王チャールズ2世の愛人に!

16-_Portrait_of_Ortensia_Mancini.jpg



・マリーア・アンナ・マルチーニ・Maria Anna(1649-1714)ラ・トゥール・
 ドーヴェルニュのモーリス・ゴデフロイ・Maurice Godefroy de La
 Tour d'Auvergne、3代目ブロス公爵と結婚

17-Marie-Anne_Martinozzi_(née_Mancini),_Duchess_of_Bouillon_by_Benedetto_Gennari.jpg


なんとねぇ、どなたもが本当に上流貴族と結婚をねぇ!

いずれにしても、身分高く財力豊かな男性と結婚する事が一番大事であった
当時の女性たちの、大変さを思った事でしたぁ!!


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