・ マレーネ・ディートリッヒ の 「リリー・マルレーン」「モロッコ」       ご存知ですか?

イタリアは先月26日からかなり規制事項が緩み始めておりますが、
先日ドラーギ首相が、来週5月半ばから観光客を受け入れる方向に、
という事で、多分6月からと思いますが、

国内のみでなく、外国観光客にも開く、という事で、
対コロナ・ワクチンを受けた証明の、グリーン・カードを携行が条件で、
但し入国後の自粛期間は無し、という事の様子。

漸くにイタリアのほぼ全土が黄色ゾーンになり、感染者数も、死者も
緩くながら減りつつあり、対コロナ・ワクチン接種の影響も感じられるのを受け、

もうこれ以上この夏は観光業界も閉めておけない、という事でしょう。
バールやレストランはまだ屋外のみOK、夜間も10時で外出禁止ですが、
夏に向かい、様子を見つつ、6月からはも少し条件が緩んで行く事と!

ヴェネツィアのサン・マルコ広場のカフェ・クワードリが漸くに開店したそうで、
明日9日には、shinkaiめもほぼ1年ぶりにヴェネツィアに出かけて来ま~~す!

日本からイタリアへの旅行計画も、まずワクチン接種をどうぞ、ね。

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暫く前に見つけたサイト記事に

マレーネ・ディートリッヒ: ヒトラーとナチズムにノーと言ったドイツの女神
Marlene Dietrich: la Diva tedesca che disse NO a Hitler e al Nazismo
  
と言うのがあり、読んでいて、彼女のあの低いセクシーな声、哀愁の歌、
素晴らしい脚、男装した粋な姿、などなど思い出し、

1-Marlene_Dietrich 1951.jpg

と共に、殆ど知らなかった彼女の人生についても知り、とりわけ私生活!
ふ~~ん、という懐古の情と共に、

やはり同じ女性の1人として、強く自由に生きた歩みにも改めて想いを馳せ、
皆さんにもと今回ここに。

例の如くウィキペディアのイタ版、日本版も参考に、写真も拝借を。

まずは、彼女が歌い世界中に大ヒットした「リリー・マルレーン・lili Marlean
美しい彼女の様子も。 これは今回の最初に是非見て下さいませませ。

「リリー・マルレーン」の歌詞は、若いドイツ人作家が、第1次世界大戦で
ロシア戦線に出征する前に書いた、若き歩哨が主人公で、

兵舎の前の街灯の薄暗い光の中で毎晩会っていた最愛のリリー・マルレーンに、
自分を忘れてしまったのではないかと恐れ、訴える、

 もし自分に何かが起こったら、 誰が街灯の傍に、
 以前のように リリー・マルレーン、 君と一緒に リリー・マルレーン



これはドイツのプロパガンダの絵葉書で、1942年にフランスで出回ったものと。

2-Cartolina tedesca di propaganda, realizzata in Francia – 1942.jpg

1938年に「街灯の下の少女」というタイトルでレコードになり発売され、
翌年単純に「リリー・マルレーン」と。

が、ほとんど売れずだったのが、1941年ドイツ陸軍のラジオ放送が、
アフリカのロンメル将軍のアフリカ大隊に放送した所が大変に評判となり、

ドイツ・ナチス軍占領のユーゴ・スラヴィアのベルグラード・ラジオでも大評判。

ナチスの宣伝相ゲッペルスは、この憂愁の響きの歌が大嫌いで、戦争中の
ドイツ兵士の士気昂進にはまるで似合わない、と一旦禁止したものの、

たくさんの軍から、すべての階級からの抗議が届き、禁止取り下げとなり、
毎晩放送終了の歌となって流れたのだそう!

おまけにドイツ人だけでなく、軍用ラジオの強力な電場を受信する民間人にも
広く愛され、「リリー・マルレーン」の歌詞は多くの言語に、イタリア語にも、
歌詞が適応する様、翻訳され、

つまりこの歌詞は、戦争の前線から、前線を越え、広がって行ったのですね。

最初に歌ったのはドイツ人歌手ラーレ・アンデルセン・Lale Andersen.
で、余りヒットしなかった、レコードが売れなかったと上記しましたが、

こちらにラーレ・アンデルセンが歌ったYoutubeを。
https://www.youtube.com/watch?v=O6GFioNt1QA


ほぼ戦争が終わりかけの時にマレーネ・ディートリッヒが歌った時、
彼女が暖かくセクシーな声で歌った時、歌も彼女も不滅となり、

哀愁を含んだメロディーは戦争の歌ではなく、多分平和への賛歌となったと。

驚くべき事は、この偉大な女優はドイツ人である事を誇らしく、
「神に感謝します、私はベルリンで生まれました」と繰り返していたそうで、


彼女は1942~43年にはアメリカで、そして1944~45年にかけてはアルジェリア、
フランス、イタリア、英国で、
米軍兵士への慰問ツァーで「リリー・マルレーン」を歌い。

1942年ハリウッドの食堂で、リタ・ヘイワ―スと共に兵士にサーヴィスを。

3-Dietrich e Rita Hayworth servono cibo ai soldati alla Hollywood Canteen – 17 novembre 1942.jpg



1944年の慰問ツァーにおいて、フランス、英国、ベルギーで。

4-Dietrich e soldati statunitensi in Francia durante il suo secondo tour – 1944.jpg

5-Dietrich con gli aviatori del 401° Bomb Group – 29 settembre 1944.jpg

6-Dietrich firma il gesso di un soldato in Belgio – 24 novembre 1944.jpg



マレーネ・デートリッヒは、1901年12月27日プロイセン王国の警察官の
娘として生まれ、生活の為ベルリン南のちょっと放縦な舞台やキャバレーで
自由、芸術的に。

1929年大抜擢で選ばれたのが、映画「嘆きの天使」の主役!

7-Den_blaa_Engel_(The_Blue_Angel)_(film)_Danish_poster,_Marlene_Dietrich,_Emil_Jannings.jpg

8-Marlene Dietrich è L’angelo Azzurro.jpg


映画の粗筋は、学校教授の中年謹厳実直男性が、生徒たちの間で評判の
キャバレーに、生徒たちに酒と女に溺れぬよう説得する為に様子を見に出かけ、
ミイラ取りがミイラに、つまり若い踊り子に溺れてしまい・・、というもの。

映画は大成功、彼女は一躍女神に、ファム・ファターレ・運命の女、男を
破滅させる魔性の女、の伝説が、
この後の6本の映画でコンビを組んだフォン・スタンバーグ監督によって形作られ、
生まれます。



1930年2本目の映画「モロッコ」では、若きゲーリー・クーパーと共演。

9-Morocco1930.jpg

10-8449b6a9a383717acf31c5d509979d33.jpg



映画のラスト・シーンでは、アルジェリアの傭兵部隊の彼が出かけて行く後を追う、
砂漠の砂に足を取られ、ヒールを脱ぎ捨て裸足で追う彼女の姿が大ヒット!

11-PDVD_019-59e86.jpg

アホちゃう?! 裸足で暑い砂漠を歩ける訳ないじゃん! とは分かってますけどぉ、
若かったshinkaiも最初映画を見た時は、ああ~!と熱い溜息もので、ははは。



この2本指をピュ、ピュと振って別れを告げる仕草も、カッコ良かったなぁ。

12-2-AAMZOI.jpg


そう、美人女優の中でも女性達に好かれる人もいるでしょう? 逆も勿論。
なぜかこのディ―トリッヒはカッコ良い、と思える、べたつかず、
どこか超越している様な、そんな感じを受けません?



彼女はまた、映画の歴史の中で、この「モロッコ」で、男装してキャバレーで歌う
シーンで、客の女性の口にキスをした、最初の女優なんだそうで!

12-1-Marlene-Dietrich-marocco.jpg



そしてまた彼女は映画のセット以外でも男装するのが好きで、

当時は未だパンタロンを女性がはくのはスキャンダルで、彼女がタキシードで
到着すると、有名なクラブの幾つかは入場を断ったそうで。

1933年の彼女

13-Marlene-Dietrich-vestita da uomo nel 1933.jpg


また服装に関わりなくディートリッヒは自由女性で、これは性的な事も含め、
戦前の寛容なベルリンのみでなく、後に移住したピューリタンなアメリカでも
隠すことなく。

1924年に結婚したルドルフ・シーバーとの間には娘が生まれたものの別居、
但し良い関係を保ちお互いに往き来し、経済的にも援けていたそうで、

で、何十人もの、男性も女性もの、コレクターだったそうで! ははは。
ハリウッドの男優、女優の名も幾人も並び、

私生活で超越的であると同様に、仕事に於いても正確、時間厳守、規律があったと。



1930年、映画「嘆きの天使」が大ヒットし、一躍大スターになったものの、
まだベルリンでのお披露目前に、彼女は既にアメリカに旅立ち、

パラマウント映画は興行収入を待たずに契約し、それも女優による監督の
選択等、面倒な条項も受け入れており、

つまり彼女のプロとしての選択のアメリカは、短時間での正確で劇的分野の
選択であり、

ドイツ人としての誇りは、まるでヒトラーやナチズムとの関係を望んでおらず、

ゲッペルス宣伝相はナチのシンボルとして彼女を欲し、ドイツに戻る様に
気前の良い条件で持ち掛け、ヒトラーはまた愛人として欲しがりますが、
彼女は一切受け付けず、

1939年にはドイツの国籍を放棄、アメリカの市民権獲得を。


30年代末には、大勢のオーストリア人、ドイツ人の国を離れた人々と一緒に
救助活動を設立し、経済的にも、またユダヤ人と反対者たちをドイツから
逃亡させるための援助も。

1937年には、映画「モスクワからの最後の列車」の出演料450000ドルを
全額、難民支援の保証として出費。

1941年12月に米国が第2次大戦に参戦すると、戦時国債を売るために
顔を貸し、イニシアティブを援け、兵士達の前での公演の為全国を巡ります。

1944年、45年には海外の前線に行き、彼女のレパートリーに加え、すべての
軍隊に愛されている、憂愁な「リリー・マルレーン」を歌い、

ドイツではパットン将軍がドイツに入った時一緒になり、
なぜこのような危険、ナチの前線にこんなにも近い所で危険を冒すのか、
と聞かれると、単純に「品位の為に」と尋ねた人に答えたと。


1948年の彼女。

14-Marlene_Dietrich_1948_2.jpg


戦争が終わった時、ずっとベルリンに残っていた母親と会う事が出来、
母親はその後じきに亡くなり、
ベルゼンで数年を過ごした、夫と子供達と一緒の姉とも会えましたが、

最初は彼らに保証を与えたものの、その後姉とその夫、息子たちが
ベルゼンで、ベルゼン強制収容所の上層階級たちが頻繁に訪れる
映画館を運営していた事を知ると、

彼らとの関係を永久に閉じ、彼女の人生から消し去り、
後には一人っ子であると主張するようになったそう。



彼女の」ドイツには、60年代になって舞台巡りで戻りますが、
歓迎は良くなく、彼女は「裏切者」、または「アメリカの売春婦」と。

1975年に足の骨折から引退、

1992年5月6日90歳で、ディートリッヒはパリの自宅で亡くなり、
パリの葬儀の後望み通りベルリンの母親の墓の隣に。

彼女と旅を共にした、旅行鞄セット。

15-Set_di_valigie_personale_di_marlene_dietrich.jpg


1970年大阪万博でのコンサートの、ニュースで見たピンクのイヴニング姿や、
華やかな映画の中の彼女の姿しか知りませんでしたが、

こうして知ってみると、大変に固い信念のもとに生きた彼女が見え、
そんな事が滲み出て、美しいだけでなく、1人静かに進む女性に見えたのかも、
と納得したのでした。

きっと大変に頭の良い人で、冷静で、甘い美しさではなく、麗人の様な、
という言葉が正しいのかどうか分かりませんが、

映画出演は大抜擢の最初からの6本だけ、とも知って驚きましたが、
やはり世に出るにして出た逸材だったのかも!ですね。

うん、今夜は久し振りに「モロッコ」のDVDを見よう!


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