・ チョピン、またはショピン、15世紀のサンダル・つっかけは、50cmの高さ迄!

日本は梅雨期ですね。 コロナ禍の今夏ですが、梅雨の蒸し暑さにもめげず、
皆様にはお元気でお過ごしのことと存じます。

こちらイタリアも暑い日が続いており、とりわけシチーリアでは
このところ40度を超す毎日の様で、45~44度と言う日も!

が北イタリアは、と言うよりヴェネトの奥は30度を超す程で留まっており、
お陰様で我が家はテントを張り出し、鎧戸をうっすら開けて閉め、
それだと日中でも25、26度程度でひんやりと、有り難く過ごしています。

1-S10_9928_GF.jpg


対コロナのワクチン接種も毎日ぐんぐん進み、1回目が済んだ接種者も
含めると全体の55,4%、 330535558人、70歳以上では88,4%と。
はい、お陰様でshinkaiも2回目接種が済み、上の55,4%内に。

昨日の新感染者数は838人、死亡者数40人、検査数における
感染者数は0,4% と、暫く前より数値はかなり落ち着いており、

明日からは全イタリアが白ゾーンに移行し、マスクもポケットに携行でも、
普通の状態ではかけずにOK、となりました。


が、デルタの新型感染が世界的に進んでおり、イギリスも大きな数値を
記録、オーストリアのシドニーはロックダウン15日間、となり、
イタリア内でもデルタ型の感染者数が16%とか。

で、現在一応大丈夫な状態になって来ているが、危機を脱出した訳では
ないので、状況により各自マスク着用も、と。

今朝のニュースでは、ヴァカンスは2回目の接種が済んでから、という項目も
流れ、昨夏の様にヴァカンス後の感染者増加を防ぐためにも、

秋以降の国の経済再出発に関し、ワクチン接種にも一層力を入れ、
とにかくコロナの封じ込めを期待している様子。


shinkaiも一応接種は済み、やれやれの気持ちですが、かといって
急に暑い状態に出かけていくには億劫な気持ちで、

はぁ、1年半の自粛期の習慣も身に付き、特別に不便な気持ちもなく、
これはもう大いに年の効かもしれずで、ははは、

とにかく秋まで様子見を、と思っている所です。

皆様にもどうぞ、コロナにも、梅雨にもめげず、お元気でどうぞ!!


*****

今回の話題はチョピン、またはショピンと呼ばれる15世紀に大いに流行ったと
言われる女性の履物です。

Chiopineと書き、どうやらフランス語が起こりの様で、最初どう読むのが
正しいのか、どの様に表記したらよいのかと迷いましたが、

サイト記事のヴィデオでも呼び方についての説明があり、一応イタリア語でも
納得できるチョピン、という事でと。


実はこの履物については、5月早々に出かけたヴェネツィアのコッレール博物館
内の、多分ヴェネツィア市博物館区画で見た履物だったので、

2-DSC05334_01_GF.jpg

興味を持って読み、新しいこともあれこれ知りましたので、今回ここに。


参考にしたサイト記事は
ル・ショピン:15世紀のレ・ゼッペは、50センチもの高さに
Le “Chopine”: le Zeppe del XV Secolo alte sino a 50 Centimetri


「ゼッペ」と呼ばれるのは、イタリアのいわゆる「つっかけ」で、家の中が
石とかタイル敷きが多い、近頃は木の床も増えているようですが、
家の中ではスリッパは使われず、踵のあるつっかけ式が多いのですね。

で、現在世界中に贅沢な様々な履物があふれているが、
過去の靴職人もあらゆる種類と形の靴を製造していた、という事から始まりますが、

が依然偶然に知った事は、ヴェネツィアでは靴職人と、つっかけ製造の
職人は別物だったという事。

ヴェネツィア ・ ゴルドーニの家博物館、サン・トマ広場周辺
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463330953.html



また書きながら思い出したのは、ゼッペと言う言葉よりチャバッテ・ciabatte
が通常使われているなぁ、と思ったことでした。

チャバッテ(複、単数はタ)、と言うのは、ペチャっと丸みのある細長い形を
指すのかもで、


道草すると、  ピッツァにもチャバッタ、と言うのがあり、

3-2-IMG_1205.jpg



また電源コンセント口がいくつも並んだ差し込みもチャバッタと呼ぶのを
暫く前にPCのテクニコから知り、今回PCを変えた時についでに5口のを
持って来て貰い、せっせとコードを丸めて整理し、机の上の長年の
タコ足配線を、はは、纏めた事でした。 

3-3-DSC05527_01.JPG

このチャバッタ自体にスイッチがついているので、夜とか雷の時に一発で
すべての電源を切ることができ便利です。



という所で本題に戻りまして、

つまり、この種の靴は必要性から生まれており、つまり女性にとっては
道のぬかるみから衣類を守り、汚さない為に必要だったわけで、

3-1-Chopine-Calzatura-01.jpg

そしてこのチョピンなる靴がヴェネツィアで有名だったのは、例え元々が
ヴェネツィアで生まれた靴では無くとも、言葉からしてフランス製のようですが、

ヴェネツィアの富裕層では、履いている人物の階層を明らかにする為でもあり!

つまり靴の高さが高いほど、それを身に着けた女性の重要性が高まるという訳で!!


高さを定めるために1430年にヴェネツィア共和国政府は、踵の高さが約8cmと
定めたものの、完全に無視され、はは、なんと高さが50cmにも!

4-Chopine-Calzatura-1.jpg
Fotografia di Arne Hendriks condivisa con licenza Creative Commons 2.0 via Flickr



現在ムゼーオ・コッレールとパラッツォ・モチェニーゴに収蔵の品のかかと部分は、
木製かコルク製だそうですが、スペイン製の物は金属製だそう。


こちらは革で包まれ、ブロケード綿とビロードが使われたもの。

5-Chopine-Calzatura-6.jpg
Fotografia di Rama condivisa con licenza Creative Commons via Wikipedia



そして、チョピンに使われる布は決まりはなかったものの、しばしば衣装の布と、
色もね、合わせて用いられたそう。 

つまり大変高級な装飾が施されていたものの、もちろん靴はスカートの下に
隠れていることが多く、

着用して歩くためには、まるで竹馬の様に不安定でもあり、貴族女性はしばしば
使用人2人に支えられ、という有様だったようで!

そう、お洒落の為には、そしてお洒落をほのめかす為には、何事も乗り越えるのが、
はは、女性なのですよね。



ある人はなかなか歩行の難しさに慣れずにいても、ある人々は自然に切り抜ける
事が出来たので、ダンスのマエストロであるマルコ・ファブリツィオ・カローゾは、

1600年の著書「貴族女性・Nobiltà di Dame」の中で、
女性はチョピンを履いていても、優雅で美しく踊るべきである、と書いているそう。

6-Cattura1.PNG


所でチョピンは、貴族女性のみに使われていたわけでなく、一般女性や、
高級娼婦たちにも、階級区別なく用いられていたのですね。

はぁ、実際shinkaiはずっと、今回のこの記事の説明に至るまで、
高い踵の靴は、ヴェネツィアの高級娼婦たちが用いたもの、と思い込んでいました。
今迄読んだ本では、そういう形で出てきましたし・・。

が、今回一般女性も用いた、という事を知ったわけで、
そうですよね、泥道で衣類を汚さずに、という事であれば、もちろんそうでなくてはね。


で、ヴェネツィアでこのファッションが大きく普及した以上に、大人気を博したのは
スペインで、大変な人気で、1400年代にはコルクの国内生産の殆どが、
チョピンの生産に、という有様だったと。


7-Chopine-Calzatura-5.jpg
Fotografia di Wuselig condivisa con licenza Creative Commons via Wikipedia


この状況からファッションの歴史家達は、靴の起源はイタリアではなくスペイン
であるとしており、14世紀に遡るスペイン製の靴が発見されている為でも
その説なのだそう。

で、この高い靴はイタリアやスペインのみでなく、フランスやイギリスにも広がります。



イタリア語に「チョピン・Chopine」は存在しませんが、

ピアネッラ・Pianellaと呼ばれるのが、現代のイタリア語では反対の意味を持つ、
低く、足首が開いた靴を識別する名だそう。

で、今回の記事のタイトルにある「チョピン」は、こうした混乱を招かない様
靴の国際名、によって付けられた、とのこと。



で、こちらはカルパッチョの「ヴェネツィアの貴婦人」の中に描かれた、
「赤いピアネッラ」。 画面左端の少年の足元に。

9-Pianella.jpg

とすると、今回最初に載せたコッレール博物館で見たチョピンの写真の手前に
見える、いわゆる高下駄式の物が「ピアネッラ」なのかもで、



こちらもいかにも室内用に見える装飾性の高いものですよね?

10-Chopine-Calzatura-2.jpg

Fotografia condivisa con licenza Creative Commons 2.0 via Flickr



案外この辺りに、チョピンを用いるにも階級差がほのめかされていたのかも、とは
shinkaiの考察ですが・・。



ヴェネツィアでは貴族女性はすべてチョピンを用い、当時の街訪問者達は
街の少路を動き回る「台座彫刻」を楽しむ為だけも喜んだそうで、ははは。


高い踵を持つゼッペだと、もちろん動きは制限されるので、男性たちは
高い踵の靴使用を支持し、と言うのも、

11-Chopine-Calzatura-3.jpg
Fotografia di Daderot condivisa con licenza Creative Commons via Wikipedia


つまり、こういう動きにくい靴であると、女性たちの外出はほんの少しに
限られるので、ヴェネツィアの商人達が家を留守にした場合にも、
女房達の裏切りの機会は限られるであろうという、ははは。


贅沢なファッションを好まない聖職者たちも、こういった高い踵のチョピンの普及を
支持したというのも、

当時「罪深い」とみなされていたダンスを大幅に制限させる、と言う事に由来と!



12-Chopine-Calzatura-4.jpg
Fotografia di pauroso condivisa con licenza Creative Commons via Wikipedia




現在かっての歴史的な靴の複製品はたくさんあるそうですが、

この様に靴底全体が高い形は、もちろん現在では完全に時代遅れとなっており、

13-Chopine-Calzatura-7.jpg
Fotografia condivisa con licenza Creative Commons via Wikipedia


踵のみが高く、動きやすい現在の靴がもちろん素敵で、それに爪先も、脚も、
見た目に大変美しい!のは皆さんもよくご存じですよね?!

いやぁ、お洒落心と虚栄心も交じり、当時の道路状態にもよるとはいえ、
なんとも大変な苦労を伴ったのですねぇ!!

今の軽い、楽な靴で動ける有難さを振り返った事でしたぁ。


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・ ゴッボ・ディ・リアルト(リアルトの背むし)と ピエトラ・デル・バンド(公示の石)

ヴェネツィアの事をあれこれ、分かったつもりでいたのも、知らなかった事も、
ちょっと引っ掛かりができると次々と芋づる式に掘り出され、ははは、
ブログにご紹介するshinkai自身も、お陰様で大いに楽しんでいます。

いよいよ再度新しく観光にも目途が付きそうなイメージが開けてきていますので、
お出でになられる皆さんにも、と思って、あれこれ伝えしていきますね。

という事で、今回はリアルト橋の北にある広場、カンポ・サン・ジャコミーノ・
Campo San Giacominoの

1-campo-san-giacometto.jpg



北側にうずくまっている男の像、
親しみを込めて「ゴッボ・ディ・リアルト・リアルトの背むし男」と
呼ばれている像と、その横に見える赤茶色の円柱についてのご案内を。

2-10212719402530468_162062411_n.jpg



リアルト橋を北に渡ってくると両側に屋台店が続き、そして広場が開けますが、

広場の南にあるこの可愛い美しいロマネスクの教会は、伝説による起源は
ヴェネツィアで一番古い教会で、聖別されたのが421年と言われますが、
確かな記録での建設は1152年と。

3-chiesa-san-giacomo-rialto.jpg



内部もかなり豪華な様子ですが、見た記憶がなく、はぁ、

4--San_Giacomo_di_Rialto_(interno).jpg


ただ教会前に見えるロッジャに腰を下ろしパニーノを食べた時に、少し分配した
パンが集まった鳩たちに大うけで、足の上を踏んづけて歩き回ってくれ、はは、
その時に鳩たちの足がいかに温かいのかを、身をもって知った記憶が残り、はは。


教会左に見える赤い壁の建物は裁判所で、広場に向かって開くポルティコは
「ソットポルテゴ・デル・バンコジーロ・Sottoportego del Bancogiro」

今回これについても新しく知りましたので、今回「絵のブログ」のほうでご案内を。



裁判所の建物は広場を囲み、このように北側にも続き、ちょうど北の真ん中ほどに
見えるのが、「リアルトのゴッボ」像と、赤茶の円柱。

5-unnamed.jpg

6-CampoSanGiacometto_17.jpg

7-CampoSanGiacometto_08.jpg

実は「ゴッボ像」は、いわば隣の公示の柱、赤色の斑岩のお供で、
公示を読み上げる人が円柱の上に上るための階段の役を果たしている訳で、



その姿勢からまぁ「ゴッボ」と単純に呼ばれた訳で、こんな姿と顔で、

8-chiesa-di-san-giacomo.jpg

彫られたのが1541年と言うので、その以前からあった筈の「公示の円柱」が主、と
いう訳ですね。



と言うのも、この「公示の円柱・ピエトラ・デル・バンド」はヴェネツィアに2本あり、
もう1本はサンマルコ広場にあり、この後そちらもご案内を。


で、このリアルト橋の「公示の柱石」ゴッボの像の階段を上り上に立ったお役人が、
このリアルト橋の市場周辺、一番人出で賑わう広場で何を告げたかと言いますと、

ヴェネツィア共和国政府の重要な法律の布告、そして死刑判決を受けた罪人の
名を告げたのだそうで、罪人は階段の足元に立っていたそう。

が、死刑執行は多分この広場ではなく、サン・マルコ小広場と思いますが、
これはまた調べてみる必要がありそうです。


と、ここには、鞭打ち刑を科せられた罪人達、主に泥棒達が、サン・マルコ広場で
裸にさせられ、鞭打たれながらメリチェリーア通りを通り、リアルト橋を渡って
辿り着き、最後は過酷な罰が終わるのを願い、ゴッボ像に接吻したのだそうで。



が、教会はこの行為が「異教徒の行為」とみなしたため、1545年に接吻する為の
新しい場所として、金属製の十字架を隣接の柱に設置したそうで、

現在はこの十字架はもう無いものの、その跡がみられる、とあり、
多分この十字架跡と。  

9-gobo03_croxeta.jpg

実際に柱のどちら側かが分からずなので、またちゃんと見て置かないと、はは。


今回の参考にしたサイト記事は

リアルトのゴッボ:Il Gobbo di Rialto 

ピエーレ・デル・バンド:Piere del Bando

ウィキペディアのイタリア版の各記事、

ピエーラ・デル・バンド:Piera del Bando

エル・ゴボ・デ・リアルト:El Gobo de Rialto

とりわけ「ピエーレ」「ピエーラ」と表記が違い、何を指すのか分からずで、
最後にウィキで「ピエトラ」と出て、ああ、石の事か、と分かった次第。



で、こちらがヴェネツィアにあるもう1本の「バンドの石」、サン・マルコ広場の物。

10-CAmpanile-Venezia-Ricostruito-3.jpg



実際どこにあるのかを探し回り、ご覧頂くにも分かりやすいのを、と探し、

まず、この図面の[6]の位置にあり、

11-exploring-st-marks-basilica-in-venice9.jpg



サン・マルコ小広場側に、ちょっと突き出したバルコニー部分の左に、
という事で、 はぁ、今までまるで目をとめた事もありませんで!!

12-48132068268_5114ce3fba_h.jpg



で、おまけに記事を読むと、1265年のジェノヴァとの戦争勝利に分捕ったもの
とあり、場所はイタリア語で「アクリ・Acri」と。


ジェノヴァとの戦闘であれば、当然海戦でしょうし、アクリとはどこ?と辿ると、
「現イスラエル」。 にゃ、にゃに?!

13-Cattura1.PNG

14-City_of_Acre,_Israel_(aerial_view,_2005).jpg



最初に読んだ記事がこれだったので、頭の中が大混乱、ははは。
で、あれこれ読む内に分かったのは、アクリ・日本語のウィキにはアッコと、

で、このアクリ=アッコにあったヴェネツィアとジェノヴァの移植地、移植民の
関係が良くなかったのが、1256年サン・サッバ教会の所有権から争いとなり、
ジェノヴァが要塞を築き、ヴェネツィア地区を攻撃したのだそうで。

ヴェネツィア側にはピサ共和国、プロヴァンス、テンプル騎士団が付き、
ジェノヴァ側にはカタルーニャ、アンコーナ、ホスピタル騎士団、
そして地元貴族たちはそれぞれに分かれて戦ったそう。

で、ヴェネツィア本国から1257年に派遣された、ロレンツォ・ティエポロ率いる
1艦隊、13隻のガレー船が1258年6月にアッコに到着、海戦となり、
ヴェネツィアが勝利し、サン・サッバの海戦と呼ばれるそうで、

戦賞品として、この「公布石」を分捕って戻り、サン・マルコ広場と
リアルト広場に設置した、という様子ですね。


そう、ヴェネツィアの守護神サン・マルコの遺骸もアレキサンドリアから盗み、
サン・マルコ聖堂の正面上の4頭の黄金の馬像も、イスタンブルの大競馬場から、
そしてこの「公布石」もイスラエル、元はシリアかな、からね、ははは。

ヴェネツィア、サン・マルコ聖堂入り口上の4頭の馬について



で、このサン・マルコ広場にある石は、設置されていた位置により、
サン・マルコ聖堂に及んだかもの大きな被害から守った事があるのですね。

と言うのも、この写真をどうぞ。

1902年7月14日にサン・マルコの鐘楼が崩壊したのですが、

15-thumbnail_crollo_0.jpg

赤丸で囲った中に見えるのが、「赤い円柱」の布告石で、



こちらも元々は上に上るための石段が傍らにあったのが、鐘楼の崩壊により
押し倒され、ともに布告石も倒れた物の、聖堂の端っこの張り出しの
ベランダ部の支えの円柱に直に鐘楼崩壊の瓦礫が当たるのを食い止め、

つまりは聖堂の大きな災害を食い止めた、と言うのですね。



現在のコッレール博物館に続く、考古学博物館辺りも鐘楼に近いですから
被害も大きかったようですし、

16-unnamed (1).jpg



傍らの人と比べると、かなり太い円柱ですね、 次回はちゃんと見に行こう!

17-unnamed.jpg

幸いなことにこの鐘楼の崩壊では人間の被害はなく、ただ鐘楼の管理人が
飼っていた猫ちゃんが犠牲になったとか。 
これはずっと以前、ラジオのニュースで知りましたっけ。 可哀そうに。


こちらの布告石でもやはり、死刑宣告者の名前とか、そうそう、
それと街からの追放者の名前も読み上げられたそうで、
かっては街からの追放は、死刑宣告に次ぐ大きな罰だったのですよね。

という、長らく活用された、ヴェネツィアにある
「公布石・ピエトラ・デル・バンド」でした。


ヴェネツィア以外にウーディネにも1つあるそうで、ロッジャ・プッブリカから
お城への登り道の足元にあるそうで、 ・・何度も以前通っているのにねぇ!



伝説的歴史では既に1600歳を数えるヴェネツィアには、
様々な国から分捕ってきた美しいもの、学んで得た文化もいっぱい詰まり、

Venezia-piazza-San-Marco.jpg

それらを少しでも知る事ができると、何か自分自身が冒険をしている様な
気持ちがし、嬉しくなりますが、

shinkaiが知っている事など、スズメの涙か、ネズミの糞か、きゃはは、程で、
まだまだたくさんあり、  これからも皆様どうぞよろしくぅ!!


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・ ヴェネツィア  オッパイの橋と、 あれこれ掘り出しの・・

先回の「人殺しの橋」に続き、今回は柔らかく、はは、「オッパイの橋」を。

1-Ponte_delle_Tette.jpg


「オッパイ」をひらがなにしようか、それとも「乳房」か、ちっと迷いましたが、
ご訪問くださる方に、あまり剝き出しでないようにと、上記の様に、はい。

イタリア語では「テッテ・tette」、ヴェネツィア訛りでは「テテ・tete」で、

今回見つけたサイト記事は
オッパイの橋・Ponte delle tete https://arzana.org/ponte-delle-tete/

と、ウィキペディアの、イタ版、日本語版ともに。



で、どこにあるのかと言いますと、 リアルト橋から西に入った場所で、

2-map1.JPG

カンポ・サン・ポーロ・サン・ポーロ広場に近い場所に。



で、こうして地図を拡大してみると、あれ、ここ?!という訳で、グーグルの
ストリート・ヴューで確認を。

3-map2.JPG



カンポ・サン・ポーロから東に向いてくると、サンタポナール教会・Sant'Aponal前の
広場に出ますが、

4-Cattura.PNG



写真左に見える少路を入っていくと、地図に囲った橋・ポンテ・ストルテに出て、

5-Cattura8.PNG



橋の上からの眺めがこちら。

6-Cattura7.PNG

小運河の右側の狭い通りを抜けていくと、奥に見える高い橋に出て、
渡るとカンポ・サン・ポーロに出れるという、いわば裏通りで、

この眺めを、最初のストルト橋の下から描いた事があり、
一帯の雰囲気は知ってました。

日曜の朝 ヴェネツィア



で、ストルト橋を渡り、少路を辿る途中に「レ・アンティーケ・カランパーネ・
Le Antche Carampane」というレストランが見え、

7-carampane.JPG

この店については大変興味深い写真が見つかりましたので、後程。



少路の突き当り、小運河の手前を右に曲がると、「オッパイ橋」がこんな様子に。

8-ponte delle tete.JPG



この表示は橋を渡った向こう側から見える様子で、

9-1-IMG_2844.jpg

上から、サン・ポーロ地区  オッパイ橋  カ’ボッラーニ建物の下、内庭と。



橋の上から見る向こう側の少路で、壁に「オッパイ橋」の表示。

9-2-Cattura6.JPG

10-Ponte_delle_Tette.jpg



つまりこの密集した一帯に15世紀頃、ヴェネツィア共和国政府の肝いりで
売春婦達が集められた、遊郭街だったのだそうで。

来る途中で見えたレストランの名前に「カランパーネ」とありましたが、
つまりランパーニ家・Rampani家が共和国政府に遺したこの一帯を使い、

「閉じられた家・カーザ・キューザ」と呼ばれる「お遊びの家」を作り、
一体どの位の数があったのか分かりませんが、

マトゥローナ・Matronaと呼ばれる女主人を置き、彼女は遊女屋の経営をし、
しっかりと税金を払っていたのだそうで。

日本版ウィキによると、この一帯の家々から上がる税金は共和国政府の財政に
大きく貢献しており、1519年の税収はヴェネツィアの国営造船所の建造に
充てられた、とあります。

1508~1516年にかけての対ヴェネツィアのカンブレー同盟戦争があり、
新しい技術による金属製造、、新しいドック建設という問題があった様ですから、
どんどん注ぎ込まれる財政は有難い事だったに違いありませんね。



「テッテ橋」の由来は、当時流行っていた男色に歯止めをかけるため、
橋の近くから窓枠、ベランダに乗り出し、胸をはだけたり、足を広げたり、
大いに呼び込みをかけたことに由来すると。

11-mercante-di-Venezia-di-Michael-Radford-2004.jpg

映画「ヴェニスの商人」の一場面ですが、他の映画でも似た様な場面を何度か。

つまり政府からのお達しにより、広範囲な同性愛者の阻止と、外国からの多数の
商人や訪問者達による、一般のヴェネツィア女性に及ぶかもの問題解決を、
という厳しい職業でもあったわけで、はい。


笑ったのは、この一郭に来るのにはかなり歩くわけで、南からリアルト橋を渡ったり、
または西のカンポ・サン・ポールからは近いですが、
北からだと、リアルト橋近くの魚市場隣の野菜市場に大運河を渡るトラゲット・
大ゴンドラの渡し、対岸のサンタ・ソフィーアとのトラゲットがありますが、

このトラゲットのニック・ネームが「トラゲット・デル・ブーゾ・
Traghetto del Buso」と言われたそうで、
はぁ、ブーゾはヴェネツィア訛りで、ブーコ・穴 の事! 



という事で、少し少路を戻り、レストランかオステリーアか知りませんが、
この一帯の「カランパーネ」の名がついた店のお話に。

こちらが昼食時のお店の写真ですが、ほら、張り出したテントに見えるマーク、

12-carampane2.JPG



こちらの女性の像に似ていません?! 

13-tettekkk.jpg

ちゃんと胸に「ポンテ・デッレ・テッテ」と入っているし、サイト記事を
読もうと思ったら接続拒否され、残念。



店に興味を持ったのは、最初に見ていただいた地図に、店名の横に$$$と、
入り込んだ場所にある店にしてはお値段がお高い印が見えたからですが、

こうして投稿された写真を見るとぉ、美味しそう!!

14-Cattura1.JPG

15-Cattura3.JPG

そしてメニューには、リアルトの魚市場での値段、扱いによる、ともありつつ、
アンティ・パストが25エウロとあり、プリモも、セコンドも大体そのお値段で、

という事は、大体普通一般の店のほぼ倍近い値段なのですね。

こちらに店のサイト、 https://www.antichecarampane.com/it/
最後に、予約をお勧め、 日曜・月曜休み、tel 041-5240165



この店は偶然で来る場所ではない、とサイトにある通り、かってのお遊び場所に
あった秘められた格式を持っている店なのかも。

店の外の張り出しに、ノー、ラザーニャ、ノー、ピッツァ、
ノー・メニュー・ツーリスト、とありました。

一度行って、新鮮な魚料理を食べてみたいもの!!



で、あれこれ写真を見ていると、見つけたのがこれ!
つまり店内装飾にあった写真を、客が撮って投稿しており、

一番上に、「お愉しみの家の奉仕のお値段」 とあり、

16-Cattura4.JPG

シンプル 1.5リラ、  2度 2.5リラ、  15分 3.1リラ、 
30分 5リラ、  1時間 7,2リラ

タオルと石鹼  0,5リラ 
1927年。



そしてもう1枚。  ははは、済みません、shinkaiは物好きで・・。

写真入りで、「有名な歓びの家の価格表」

17-Cattura5.JPG

値引きは、お若い兵士のみに。

普通のお約束  1.3リラ、 2度 2,5リラ、  15分 3,05リラ、
30分 4,5リラ、 1時間 7リラ、 2時間 10リラ

石鹸とタオルは店が提供します 
1932年 6月。

5年間経て、値上がりもあり、値下げもあり、
まぁ、こうして売春宿が法律で廃止になるまで、1958年9月20日、
この一帯の営業も続いていたのかも、ですね。

一番最後に・・。 山の家の夏休み ・ ドロミーティの山 ・ ハイキング

やはり山の家よりも、ヴェネツィアのほうがいささかお高かったようで!


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・ ヴェネツィア  人殺しの橋  そして民間伝説

先回は、大運河に面する美しい館カ・ダーリオ邸の、その裏に潜む
様々な暗い歴史についてお話しましたが、

今回は続いて、はは、「人殺しの橋・ポンテ・デイ・アッサッシーニ」のお話を。

がこの名の橋は既になく、残念、いやなに、無くて良かったですねぇ、へへ、

人殺し通り・リオ・テラ・デイ・アッサッシーニ・Rio Terrà dei Assassini」
という小路の名が残っています。

1-rio terà dei assassini-2.jpg

内容はタイトルに比し、まるで怖かったりしませんので、ご心配なく!!



場所はどこかと言いますと、リアルト橋とサン・マルコ広場のちょうど中間位で、

2-ponte dei assassini.jpg

リアルト橋から南西、アッカデミア美術館の方に向かって歩くと、
カンポ・マニン広場・Campo Maninに出て、広場の中程から南に小路を入ると、
有名なコンタリーニ邸のボーヴォロ階段・カタツムリ状の階段があり、



コルテジーア橋・Cortesiaを渡り、まっすぐ行くと、アンゾロ広場(アンジェロ広場)
に出る小路がいわば大通りですが、

今日ご案内の「人殺し通り・リオ・テッラ・デイ・アッサーシーニ」はその1本南を
通る小路ですね。

3-1-map.jpg


「リオ・テラ・Rio Terrà・・」というのは、かって小運河があったのが
埋められて出来た小路を指しますので、

地図を見ながら考えると、多分北に向かって続き、大運河からの小運河に
繋がっていたのだと思います。

n.1 ヴェネツィアの新名所 ・ コンタリーニ・デル・ボーヴォロ の階段  
http://www.italiashiho.site/archives/20170514-1.html

n.2 ヴェネツィアの新名所 ・ コンタリーニ・デル・ボーヴォロ の階段 
http://www.italiashiho.site/archives/20170515-1.html

アンジェロ広場は n.1 ヴェーラ・ダ・ポッツォ ・ ヴェネツィアの井戸
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/472981530.html

「アンジェロ広場」と書いておりますが、イタリア語だと「カンポ・サンタンジェロ」
広場は他の街と違い「カンポ・原っぱ、または畑」を使い、
ヴェネツィアで「ピアッツァ」と呼ばれるのは、「サン・マルコ広場」のみです。


今日の記事の参考にしたのは、
殺人者の橋:ヴェネツィア人に長い髭を禁止する元になった場所
Ponte dei Assassini: il luogo che ha impedito ai veneziani di portare la barba lunga


で、本日主題の「人殺しの橋・ポンテ・デイ・アッサッシーニ」ですが、
単数だと「アッサッシーノ」が、「アッサッシーニ」と敢えて複数形で残るのは、
かっては大変に多くの殺人事件が起こった橋なのだそうで!

というのも、街でもここは大変に暗い場所、そして逃げる場所がなく、
一方殺人者にとっては、証人になる人間に見られたり、誰かと確認される事なく
殺す事が出来る! そんな暗黒の橋だったそう。

はい、現在はこんな風に街灯、照明がちゃんとあり、多少暗いながらも大丈夫、
安全な街になっていますが、これで照明が無かったら、という夜の暗さでしょう?!

3-2-A-Venezia-Un-Dicembre-.jpg



で、1128年35代のドージェ、ドメニコ・ミキエル・Domenico Michielの時に、
「ヴェネツィア人は「ギリシャ人風の」髭、または長くみっしりの髭にするなかれ」
というお触れが出されます。

つまり、当時のならず者達は「ギリシャ風」の濃くて長い髭を蓄え、つまり人相が
明らかにならない様な髭を蓄えていたからでもあり、

こんな感じかな?  モデルのシニョーレ、写真拝借失礼を!

3-3-barba-fashion.jpg


ギリシャ風のつけ髭をして犯行に及ぶと、例え捕まったとしてもつけ髭を取れば
言い逃れが出来る訳で!

で、昼も夜も「ギリシャ風髭」はダメというお触れが出され、それに違反すると
「絞首刑」にと。

ドージェ、ミキエルはもう1つ、暗く、余り安全でない橋のある場所の近くには、
夜中蝋燭を灯しておくように、

その近くには、聖人画像を掲げる場所も作り、暗殺者達が自分のしようとする
行動と罪についてもう一度考える様に、という事もしたのですね。

これは市内で最初の公共照明の例の1つですが、元々は殺人者達のお陰と
言うのかなんというか・・、なんですと。


長く濃い髭はダメ、というお触れは、ドージェ、ミキエルもお触れの2年後に
亡くなり、結局余り長く続かず、うやむやになった様ですね。

そしてこの「殺人者の橋」が実際どこにあったのかが確認できませんが、

元の小運河は1971年迄通っており、埋められたのだそうで、
そう遠い昔ではありませんね。



現在の「殺人者通り」はこんな様子で、細い小路が続きますが、

4-25981300648_1040eafeb0_b.jpg

5-Rioteradeiassassini_SANMARCO_03.jpg



「オステリーア・アイ・アッサッシーニ・殺人者食堂」なるレストランもあり、
中の写真もありましたが、かなり広く良さそう、美味しいものが食べれそうで!

6-osteria-ai-assassini.jpg



ほら、突き当りは運河ですね。

7-Rioteradeiassassini_SANMARCO_15.jpg



で、道突き当りから見る、カンポ・マニンからのコルテジーア橋の眺め。

8-Rioteradeiassassini_SANMARCO_20.jpg



グーグルのストリート・ヴューで位置を確認していて、あれ?と気が付いたのは、

橋の上からの眺めは、以前描いた「運河を渡る陽」の風景で、
https://italiashinkai.seesaa.net/category/26672310-2.html

絵の左側背景に描いた建物は、上の通りの突き当りの建物で、あれま!

次回ヴェネツィアに行った時は、「アッサッシーノ通り」に行って見なくては!



で、あれこれ写真を拝借のサイトに、
http://www.veneziatiamo.eu/Rioteradeiassassini_SANMARCO.html

殺人者通り・カッレ・デイ・アッサッシーニ」という記事があり、
見ると、上の地図のご案内に、カンポ・マニンから道なりに西に進むと
アンゾロ広場があるという、そのサンタンジェロ広場のすぐ近くで、はは、

いやぁ、こちらは本当に幅の狭い小路で・・、逃げ場がありませんねぇ!

9-Calledeiassassini_SANMARCO_03.jpg

10-Calledeiassassini_SANMARCO_01.jpg



で、「殺人者の橋」で検索していて引っ掛かったのがこの写真で、

11-fornaretto_di_venezia_scena_4b2dd.jpg

映画の1シーン、タイトルは「ヴェネツィアのパン職人・フォルナレット・ディ・
ヴェネツィア・Fornaretto di Venezia」という、
ヴェネツィアの民間伝承として有名なお話。



何度も映画化されており、これは多分無声映画時代の物から、

12-Fornaretto_di_Venezia_1923.jpg



懐かしいミッシェル・モルガン(お若い方はご存じないかも)出演の
フランス映画やら、

13-LE_PROCES_DES_DOGES_poster.jpg



若いジャック・ぺランが主人公の映画も。

14-dd93f782bd33396943507c28c00377a.jpg

15-l400.jpg



お話は、1507年パン職人ピエロ・ファシォール・Piero Dasiolが朝
勤めの店に行く途中、「人殺しの橋」の近くで、小刀の銀の鞘を見つけ、
婚約者への贈り物としようとするも、婚約者は断り、誰かが落としたのを
探しているかも、というので、戻ると、

そこに貴族の、小刀で刺された遺骸があり、ピエロはやって来た警備隊に捕われ、
ドゥカーレ宮に連行。 無実だと抗議するものの、監獄に収監。

遂には殺人罪で死刑の判決を受け、斬首されますが、じきに真犯人が捕まり、
無罪の若者に死の判決を下した政府の裁判官たちは、大いに後悔を・・。


各映画により、様々なヴァリエーションがあると思いますが、shinkaiも昔1度
TVで見た事があり、 細かい筋はともかく、法廷場面で使われた背景が
パドヴァのラジョーネ宮の、あの密なフレスコ画の壁であったのが記憶に強く。

ですがこの事件は、1507年という年代にも、その前後にもまるで歴史上の
記録に無く、ヴェネツィアの年代記で名高いマリン・サヌード・Marin Sanudoの
日記(1496~153年)にも、当時は大変な評判を呼んだであろう事件の記載が
無いのだそうで。

なので、19世紀中頃に「パン職人。歴史のドラマ」を表した
フランチェスコ・ダッロンガロ・Francesco Dall'Ongaroが、歴史古文書を基に、
というのも怪しく、

様々な民間口承伝説を混ぜ合わせ、それに有名な「人殺しの橋」を
組み合わせた物ではないか、というサイト記事もありました。

ヴェネツィアには400もの橋があり、「拳骨橋」や「悪魔橋」等々様々に
名付けられた橋があり、ネーミングの良さについ観光客は惹きつけられますが、

作家の中にもその上を行く凄腕があると見え、幾つもの実際事件が起きた橋も
逆に作家宣伝に、そしてヴェネツィアの民間伝承にも花を添えたのかも、ですね。

パドヴァのラジョーネ宮  n.2 パドヴァ ・ 黄金の世紀 の 1
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462330115.html



左の写真に見える、カッレ・デッラ・・マドネッタ・Calle della Madonnettaに
接しているこちら側が、
サン・タンジェロ広場のカッレ・デイ・アッサッシーニ・人殺し通り。

16-scollage nizioletti-2.jpg

すぐ近くに位置する「人殺し」関係の通りの名を並べ、驚かせ、喜んで
にやにやのヴェネツィア人の顔が見えそうでしょう?! ははは。


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・ ヴェネツィアの カ・ダーリオ邸  あれこれの暗い評判をご存知ですか?!

ヴェネツィアのカ・ダーリオ・Ca' Dario邸、大運河がアッカデミア美術館前
を過ぎ、南側に白いペギー・グッゲンハイム博物館が見える、その2軒先の
この美しい、半分ゴシック風、半分ルネッサンス風の館ですね。

1-Palazzo_Dario_Cropped.jpg

ご覧の様に、建物の両脇には小運河が通るので、横幅は約10mと。



地図でいうと、一番左端切れた所にアッカデミア美術館があり、
そこから小路をずっと東にやってくると、自然にカ・ダーリオ邸の裏側に出て、

2-Cattura.jpg



こんな感じで、回り込む形の橋が架かり、塀越しに見える建物がダリオ邸、

3-4000.jpg

4-ca-dario-3.jpg



赤い塀に沿って巡って行くと、裏の門があり。  

5-IW_CaDario_06.jpg

アッカデ―ミアから東のこの辺りはとても良い感じの小路で、
何度も通った想い出が浮かびます。




大運河側からの眺めは、1908年にクロード・モネ・Monetが描いており、

6-Claude_Monet_-_Palazzo_Dario,_Venice.jpg



こちらが何年の物か、特徴あるヴェネツィア風の煙突も見えず、
また屋根の上にヴェランダがあり、今残る3階のヴェランダの形とは違います。

が、特徴的なヴェネツィアの館としての、多色の大理石を使った円盤、そして
四つ葉の形、1階の大運河側には中央に船からの入り口があります。

7-1-venezia-2.jpg

ウィキペディアのイタリア版によると、この円盤の形が全部で80あるというので、
せっせと数えましたが、shinkaiの計算では81になるか、79で。

いずれにしても、1479年の建設当時は華やかな彩と、当時はまださきがけの
ルネッサンス様式が入った見事は館であったに違いありませんね。

7-2-image.jpg

7-3-particorale.jpg



こちらの古い写真がいつの物か、住まわれている姿で、これには現在見えない
屋上のヴェランダがあり、逆に煙突も小さく、時代の中で何度か修復があったものと。

8-Cattura.jpg



ダリオ邸は私邸で公開されておらずですが、内部写真が幾つか見つかりましたので、
さすがぁ!という素晴らしい様子をどうぞ。

9-vestibule.jpg

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16-IW_CaDario_12.jpg

1479年、ジョヴァンニ・ダーリオ・Giovanni Darioが娘のマリエッタ・
Mariettaの婚資として建設し、婚約者は裕福な香辛料商人ヴィンチェンツォ・
バールバロ・Vincenzo Barbaro.

ジョヴァンニ・ダーリオは貴族でなくダルマチア出身の資本家で、
商人でもあり、またヴェネツィア共和国の重要な職に就き、
トルコとの和平を結び、「祖国の救済者」というニックネームを貰った程の人物。

ダーリオ邸の1階、大運河に面した壁には「VRBIS GENIO IOANNES DARIVS・
ジョヴァンニ・ダーリオ、街の天才に敬意を表し」と刻まれているそう。


という様に、建物の美しさ、評判の由来などを語って来ましたが、

実はこの館は、不幸なというか、呪われた館という、幾つもの一連の歴史があり、

17-1-ca-dario.jpg


検索すると、幾つもの記事が見つかりましたが、参考にしたのはこちらを基に。
カ・ダーリオ、1479年以来購入者や滞在者を殺した呪いの館
Ca' Dario, il palazzo maledetto che dal 1479 "uccide" chi lo acquista o vi soggiorna

ウィキペディア・イタリアにも記述されていますが、日本版には
記述はありませんので、どうぞ!

では カ・ダーリオと、この館に繋がる、破産、突然の死亡等の年代順記述を。

ダーリオ邸はジョヴァンニ・ダーリオが娘の婚資の為に建設したと上述通り、
娘とその婚約者だったヴィンチェンツォ・バールバロは結婚したものの、
じきに夫の経済は破綻し、そして刃物で刺され(多分死傷と)、
妻はそのニュースにショックを受け自殺。

その後暫く後、2人の間の息子のヴィンチェンツォはギリシャで亡くなっているのが
発見され、待ち伏せによる強盗の仕業であろうと。

こうしてダーリオ邸は19世紀初め迄バールバロ家の持ち物として残りますが、

アレッサンドロ・バールバロ(1764-1839)の時に、アルメニア人の宝石商の
アルビットゥ・アブドゥール・Arbit Abdollの手にダーリオ邸は渡ります。

が、そう時も経ない間にアブドゥールは破産し、1838年僅か480ステッリーネ
(イギリス貨)で、

イギリス人歴史家ロードン・ブラウン・Rawdon Brownの手に。

17-2-Sir Austen Layard Rawdon Brown.jpg


が、改装費の不足で4年後にハンガリーの伯爵に売却、後裕福なアイルランド人
マーシャル氏に、

1896年にイザベル・ゴントラン・デ・ラ・ボーム・プルヴィネル伯爵夫人・
Isabelle Gontran de la Baume-Pluvinelの手に渡り、大きな修復が
なされた模様。


伯爵夫人にフランス人詩人アンリ・ド・レニエ・Henri de Régnier(1864-1936)
が館に招待され1899年より滞在するものの、

18-Henri_de_Régnier-1917.jpg

重病にかかり、惚れこんだヴェネツィアを後にせざるを得ず。



第2次世界大戦後、アメリカの大富豪チャールス・ブリッジ・Charles Briggsに
館は購入されますが、じきに彼の同性愛性向の為ヴェネツィアを離れる様求められ、
メキシコに行くものの、愛人が自殺したとか。

この後のダーリオ邸に絡む不吉な話題は次々と続くようになり、


1964年には著名なテノール歌手のマーリオ・デル・モナコ・
Mario del Monacoに購入される事になりますが、

19-delmonaco 1982.jpg

契約書に署名の為ヴェネツィアに行く途中、車が事故に遭い重傷を負い、
署名せずのままに。  まぁ、亡くならずで良かった!



1968年トリノの伯爵フィリッポ、ジョルダーノ・デッレ・ランツェ・
Filippo Giordano delle Lanze、芸術と骨董品の目利き、が購入したものの、

20-filippo giordano delle lanze.jpg

1970年7月、46歳、関係のあったクロアツィア人水夫にダーリオ邸の庭で
刺殺されていたのが発見され、犯人は後に18年の懲役を科されたものの、
遺体が発見された日に逃亡しており、逃げたロンドンで殺害されたと。



そしてダーリオ邸はロック・グループ「ザ・フー・The Who」のマネジャー、

21-Who_-_1975.jpg



クリストファー・”キット”・ランバート・Christopher “Kit” Lambert
(1935-1981)の手に。 写真右側。

22-fea_stamplambert.jpg

ダーリオ邸に滞在中、彼はどんどん麻薬浸かりになり、バンドとの関係も
解消となり、麻薬所持で逮捕され、経済状態も破綻。



キット・ランバートは亡くなる3年前の1978年、ファブリツィオ・フェッラーリ・
Fabrizio Ferrariヴェネツィア人実業家にダーリオ邸を売り、

23-Conte-Fabrizio-Sardagna.jpg

フェッラーリは妹ニコレッタ・Nicolettaと一緒に移って来ますが、彼女は謎の
交通事故を遂げ、証人は無いままに。
ファブリツィオは暫く後に経済破綻を起こし、モデルを殴った事などで逮捕も。



80年代末、ファブリーツィオはラウル・ガルディーニ・Raul Gardini
(1933-1993)、実業家であり、ヴェネツィア・メストレのモンテディゾン・
Montedisonの責任者にダーリオ邸購入の導きを。

24-gardini-1992.jpg

ガルディーニはその後一連の経済問題が起こり、イタリアが大きく揺れた
タンジェント―ポリ・企業間と政府との賄賂による癒着の発覚、
にも巻き込まれ、1993年にミラノの自宅で自殺を。

このタンジェント―ポリの大揺れはshinkaiもよく覚えており、
またガルディーニはヴェネツィア・メストレのモンテディゾンの長でしたから、
夫の息子たちも関係しており、
1人は若い頃ガルディーニの運転手を務めた事もあったとかで、話も聞き、



1992年のアメリカズ・カップ、挑戦艇として決勝戦を戦った
「モーロ・ディ・ヴェネツィア」もガルディーニの肝いりで、
ヴェネツィア全体が大きく燃えたりで、

25-a6Y6suoIL.jpg

彼のダーリオ邸に「呪わしい話題が」という今度の記事も、
まずガルディーニの件が頭に浮かび読んだ事で、こんなに次々と
事件が関連していたのに驚きました!!

このライオンの顔、イル・モーロのデザインはとても気に入っており、
今も時に見かけ、ガルディーニを思い出します。



90年代終わりには映画の撮影で来た、ウッディ・アレン・Woody Allenも
ダーリオ邸の購入にかなり気乗りになった様子ですが、話は流れ、

27-Woody Allen 12-3b5104a465bf.jpg



マネージャーの代わりにダーリオ邸との関係が出来た「The Who」の
ベース・ギター、ジョン・エントウィッスル・John Entwistleが、
2002年のヴァカンスに貸り、1週間の滞在中に心臓麻痺にて死亡。

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そして2006年、アメリカの(投資)会社を通り、無名人がダーリオ邸を購入し、
現在はそのまま継続状態なのだそう。


長い歴史の中で、有名な城、住居などなど持ち主が替わり、その経過の中で、
様々な問題、事件が起こりますが、

それにしても、ダーリオ邸はなぜこんなに?!と思いますよね?!


ある人は、このダーリオ邸はかって「テンプル騎士団」の墓地の跡に
建てられたから、と言い、

ある人は、近くの建物の水門の上にある「おまじない」の印が影響しているのでは、
等など言われているそうですが、

勿論、真実はどうなのか分からずのまま。

つまりは、いずれにしても、悪魔祓いは避けて通るのが一番!!

皆さまは、大金持ちでも、チャンスがあっても、ダーリオ邸は買わないでねぇ!!

28-palazzo-dario-1604500035.jpg


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・ コジモ1世メディチの胸像の新発見 と、 ニューヨークでのメディチ家展

つい先日スマホに入るニュースで賑わったのは、ベンヴェヌート・チェッリーニ作
1545~1548年 フィレンツェのコジモ1世メディチの胸像についての新発見で、

つまり今迄こういう姿だったのが、   像の大きさは高さ96cm程。

1-1-c7a7717b39b8f63f6afd5edeedf4254e.jpg



こんな変化が分かったという、目にご注目を!
つまり銀の薄板が張られていた事が新しく発見されたというニュース!

1-2-_museodelbargello,benvenutocellini,cosimoi.jpg

この違い、凄いでしょう?!  ワァオ、と思いました、見た途端。

2-Museo-del-Bargello-Benvenuto-Cellini-Cosimo-I_.jpg

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メディチ家のコジモ1世(1519-1574)なる方、フィレンツェ公から後に
トスカーナ大公となった、位しか知りませんが、

一度ヴェッキオ宮の「秘密の行程」見学をしたブログ書きで読んだ時、
大変に気性が激しく、変わり易く、また内向的でもあった、と知り、

コジモ1世、奥方のエレオノーラなど一族の肖像を描いたアーニョロ・ブロンジーノ・
Agnoro Bronzinoの肖像を見ても、如何にも気難しい、激しい性格が想像され、

4-Angelo_Bronzino_036.jpg

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そんな事からも、この胸像の目が銀色に光る、というのは、如何にも!と。


胸像の制作をしたベンヴェヌート・チェッリーニは、貴金属製造もした人で、
銀箔を使う、という古くからの技術を、このコジモ1世の目に、
未だ20代後半の当時のフィレンツェ公の、激しい、強い目線を表すのに
使ったのだった、と知ると、ふ~む、と深く納得しますよね。

n.1 フィレンツェ ・ ヴェッキオ宮
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461595223.html



この発見は修復に携わったルドヴィーカ・ニコライ・Ludovica Nicolaiが、

6-download.jpg


像収蔵のバルジェッロ博物館の管理者イラーリア・チゼーリと相談の上、
目の表面の分析をした所銀が使われている事が分かったのだそう!

つまり16世期のチェッリーニの像は、その後の18か19世紀に於いて、
銀色の目はブロンズ像と同様な、古色を帯びた色で暗く隠されていたのが、

「検査結果はすぐに感動の結果を齎した」という事で、

おまけにこの修復というのは、この6月26日から10月11日迄ニューヨークの
メトロポリタン博物館で開催の「メディチ家:肖像と政治 1512-1570」展、

つまりフィレンツェの歴史におけるメディチ家、政治、芸術への後援、
そして権力の道具としての芸術の役割を探り、とりわけ16世紀コジモ1世によって
確立された様子を探る、という、はぁ、

つまりロレンツォ・デ・メディチの肖像、ラファエッロ画も1枚展示されるものの、
時代は少し後の、とりわけコジモ1世メディチに焦点が充てられ、

このチェッリーニの像もフィレンツェからニューヨークに行く為に、
最初は単純に襞の間の汚れなどの修復、と思われていたのが、
なんとも凄い迫力のおまけ付き、となり、ニューヨークの主催者側も大喜びと!


という事で、全部で90点の出品というのを、見つかった範囲の作品を
ご覧頂きますが、


その前に、チェッリーニの胸像の、甲冑の素晴らしさにも感嘆しましたので、
ご覧くださいね。

胸中央に見えるのはメドゥーサの顔、これはルネッサンス期の軍事力と神の象徴で、

7-Benvenuto-Cellini-Bust-of-Cosimo-I-detail-2-.jpg



肩の部分の凄い装飾と、肩に羽織っているのはトゾン・ドーロ・Toson d'Oro、
1545年にコジモ1世がカルロ5世から受けた騎士の名誉賞だそう。

8-Cellini,_Benvenuto._Bust_of_Cosmo_I._Bronze,_1545.jpg


今回参考にしたサイト記事はあれこれありますが、こちらが主なもの

フィレンツェでチェッリーニのコジモ1世像、銀色の目が再発見
A Firenze riscoperti gli occhi d'argento di Cosimo I del Cellini

フィレンツェからニューヨークへ:メトロポリタン博物館にてメディチ家の大展覧会
Da Firenze a New York: il Metropolitan Museum ospiterà una grande mostra dedicata ai Medici



展覧会の主な狙いは、コジモ1世という事で、ポスターもこちら、
ブロンズィーノ描く、若きコジモ1世像。

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元の全身像。

10-Angelo_Bronzino_063.jpg



これは展覧会に出品されないかもですが、1538年、ポントルモ描く
19歳のコジモ1世の姿。 

11-Cosimo_I_de_Medici 19anni_by_Jacopo_Carucci_(called_Pontormo).jpg

白いシャツの形は違うものの、黒い上着は上の肖像と同じものと思われ、
お気に入りの物だったのかも。



コジモ1世は、1537年僅か17歳でフィレンツェ北部の山中、育ったムジェッロ・
Mugelloから僅かな手勢を率いて出て来て、前フィレンツェ公アレッサンドロが
暗殺された後を継いだもので、

年が若いので扱いやすいと思われ選ばれたのが、ルネッサンスの歴史に残る
傭兵隊長、僅か28歳で世を去った父ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの
血をしっかり受けており、見事なフィレンツェ公と。



もう1枚ポスターが見つかり、これもコジモ1世かも。画家が分からず。

12-vd4arvl-1.jpg



そしてブロンズィーノ描く、コジモ1世像。 1545年頃、26歳。

13-Angelo_Bronzino_036.jpg



同様にブロンズィーノの手になる、奥方エレオノーラ・ディ・トレード像2枚。

2人は1539年、コジモ1世が20歳、そしてエレオノーラが17歳で結婚で、
こちらは大変有名な、素晴らしい豪華衣装の彼女と、息子のジョヴァンニ。

14-Bronzino_-_Eleonora_di_Toledo_col_figlio_Giovanni.jpg

1545年の作というので、彼女23歳。 

息子ジョヴァンニは4番目の子で、後に若くして枢機卿になったものの、
母親、妹のガルーツィア・Garziaと共にマラリアで死亡。



そして、プラハ国立美術館蔵のエレオノーラ像。 1543年作。

15-Agnolo_Bronzino_-_Eleonora_of_Toledo_1543.jpg


コジモ1世とエレオノーラは大変仲の良い夫婦だったことが伝わっており、
厳しく神経質だった夫をなだめ得る人で、唯一彼女の助言を聞き入れたそう。

仲が良いというよりも、熱烈に愛し合っていた、という言葉の方が近いかもで、
一緒に出掛けられず、彼女1人が留守の時など泣きじゃくり、少なくとも1日に
2通の手紙を待ち受けたといい、
彼女が生きている間には、彼が彼女の傍から逃げ出した、という事は無かったと。

1562年、23年間の結婚の後、彼女は40歳にして亡くなり、
コジモ1世は1569年にトスカーナ大公となり、55歳まで生きますが、
晩年は必ずしも良くなかった様で残念。



こちらは2人の長男フランチェスコ、トスカーナ大公2世に。
やはりブロンズィーノ作。

16-Bronzino-Francesco-de-Medici.jpg



ブロンズィーノ作 ラウラ・バッティフェッリ・Laura Battiferri(1523-1589)像。 
彼女はメディチ家の親類筋に当たる詩人との事。

17-Angelo-Bronzino-Laura-Battiferri.jpg



ポントルモ作 鉾槍を装備の兵。

18-alab-1.jpg



最後はメディチ家全体を代表し、ラファエッロ作 ロレンツォ・デ・メディチ像。

19-Raffaello-Ritratto-di-Lorenzo-de-Medici.jpg

「偉大なるロレンツォ」と呼ばれた人物だったのに、余り美男でなかったにせよ、
良いと思われる肖像が残っておりませんで、
それでもヴァザーリの作は、ロレンツォその人に迫ろうとしている感があるのに、

いやぁ、このロレンツォ像は素晴らしい衣装に身を包んでいるだけで、
重みも何も感じられず、 偉大なる画家ラファエッロは男の肖像を描くとねぇ、
といささか。

でも、バルダッサーレ・カスティリオーネとか、アーニョロ・ドーニなど
素晴らしいのもあるのに、ねぇ。

アーニョロ・ドーニの肖像画 ラファエッロ作 の周辺事情を
https://www.italiashiho.site/archives/20200707-1.html

レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ、ジョコンダ」の真のモデルは?
https://www.italiashiho.site/article/480499408.html


という、遥かなるニューヨークのメトロポリタン博物館にて2週間後に開催の、

メディチ家の大いなる文化擁護がフィレンツェの姿を変えた様子を、
今またニューヨークに於いて、フィレンツェが500年後に再度花開くかも、

という展覧会に関する話題のあれこれでした。


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