先回は、大運河に面する美しい館カ・ダーリオ邸の、その裏に潜む
様々な暗い歴史についてお話しましたが、
様々な暗い歴史についてお話しましたが、
今回は続いて、はは、「人殺しの橋・ポンテ・デイ・アッサッシーニ」のお話を。
がこの名の橋は既になく、残念、いやなに、無くて良かったですねぇ、へへ、
「人殺し通り・リオ・テラ・デイ・アッサッシーニ・Rio Terrà dei Assassini」
という小路の名が残っています。
という小路の名が残っています。
内容はタイトルに比し、まるで怖かったりしませんので、ご心配なく!!
場所はどこかと言いますと、リアルト橋とサン・マルコ広場のちょうど中間位で、
リアルト橋から南西、アッカデミア美術館の方に向かって歩くと、
カンポ・マニン広場・Campo Maninに出て、広場の中程から南に小路を入ると、
有名なコンタリーニ邸のボーヴォロ階段・カタツムリ状の階段があり、
有名なコンタリーニ邸のボーヴォロ階段・カタツムリ状の階段があり、
コルテジーア橋・Cortesiaを渡り、まっすぐ行くと、アンゾロ広場(アンジェロ広場)
に出る小路がいわば大通りですが、
に出る小路がいわば大通りですが、
今日ご案内の「人殺し通り・リオ・テッラ・デイ・アッサーシーニ」はその1本南を
通る小路ですね。
通る小路ですね。
「リオ・テラ・Rio Terrà・・」というのは、かって小運河があったのが
埋められて出来た小路を指しますので、
地図を見ながら考えると、多分北に向かって続き、大運河からの小運河に
繋がっていたのだと思います。
繋がっていたのだと思います。
n.2 ヴェネツィアの新名所 ・ コンタリーニ・デル・ボーヴォロ の階段
http://www.italiashiho.site/archives/20170515-1.html
http://www.italiashiho.site/archives/20170515-1.html
アンジェロ広場は n.1 ヴェーラ・ダ・ポッツォ ・ ヴェネツィアの井戸
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/472981530.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/472981530.html
「アンジェロ広場」と書いておりますが、イタリア語だと「カンポ・サンタンジェロ」
広場は他の街と違い「カンポ・原っぱ、または畑」を使い、
ヴェネツィアで「ピアッツァ」と呼ばれるのは、「サン・マルコ広場」のみです。
広場は他の街と違い「カンポ・原っぱ、または畑」を使い、
ヴェネツィアで「ピアッツァ」と呼ばれるのは、「サン・マルコ広場」のみです。
今日の記事の参考にしたのは、
殺人者の橋:ヴェネツィア人に長い髭を禁止する元になった場所
Ponte dei Assassini: il luogo che ha impedito ai veneziani di portare la barba lunga
で、本日主題の「人殺しの橋・ポンテ・デイ・アッサッシーニ」ですが、
単数だと「アッサッシーノ」が、「アッサッシーニ」と敢えて複数形で残るのは、
単数だと「アッサッシーノ」が、「アッサッシーニ」と敢えて複数形で残るのは、
かっては大変に多くの殺人事件が起こった橋なのだそうで!
というのも、街でもここは大変に暗い場所、そして逃げる場所がなく、
一方殺人者にとっては、証人になる人間に見られたり、誰かと確認される事なく
殺す事が出来る! そんな暗黒の橋だったそう。
一方殺人者にとっては、証人になる人間に見られたり、誰かと確認される事なく
殺す事が出来る! そんな暗黒の橋だったそう。
はい、現在はこんな風に街灯、照明がちゃんとあり、多少暗いながらも大丈夫、
安全な街になっていますが、これで照明が無かったら、という夜の暗さでしょう?!
安全な街になっていますが、これで照明が無かったら、という夜の暗さでしょう?!
で、1128年35代のドージェ、ドメニコ・ミキエル・Domenico Michielの時に、
「ヴェネツィア人は「ギリシャ人風の」髭、または長くみっしりの髭にするなかれ」
というお触れが出されます。
「ヴェネツィア人は「ギリシャ人風の」髭、または長くみっしりの髭にするなかれ」
というお触れが出されます。
つまり、当時のならず者達は「ギリシャ風」の濃くて長い髭を蓄え、つまり人相が
明らかにならない様な髭を蓄えていたからでもあり、
明らかにならない様な髭を蓄えていたからでもあり、
こんな感じかな? モデルのシニョーレ、写真拝借失礼を!
ギリシャ風のつけ髭をして犯行に及ぶと、例え捕まったとしてもつけ髭を取れば
言い逃れが出来る訳で!
言い逃れが出来る訳で!
で、昼も夜も「ギリシャ風髭」はダメというお触れが出され、それに違反すると
「絞首刑」にと。
「絞首刑」にと。
ドージェ、ミキエルはもう1つ、暗く、余り安全でない橋のある場所の近くには、
夜中蝋燭を灯しておくように、
その近くには、聖人画像を掲げる場所も作り、暗殺者達が自分のしようとする
行動と罪についてもう一度考える様に、という事もしたのですね。
行動と罪についてもう一度考える様に、という事もしたのですね。
これは市内で最初の公共照明の例の1つですが、元々は殺人者達のお陰と
言うのかなんというか・・、なんですと。
言うのかなんというか・・、なんですと。
長く濃い髭はダメ、というお触れは、ドージェ、ミキエルもお触れの2年後に
亡くなり、結局余り長く続かず、うやむやになった様ですね。
そしてこの「殺人者の橋」が実際どこにあったのかが確認できませんが、
元の小運河は1971年迄通っており、埋められたのだそうで、
そう遠い昔ではありませんね。
現在の「殺人者通り」はこんな様子で、細い小路が続きますが、
「オステリーア・アイ・アッサッシーニ・殺人者食堂」なるレストランもあり、
中の写真もありましたが、かなり広く良さそう、美味しいものが食べれそうで!
中の写真もありましたが、かなり広く良さそう、美味しいものが食べれそうで!
ほら、突き当りは運河ですね。
で、道突き当りから見る、カンポ・マニンからのコルテジーア橋の眺め。
グーグルのストリート・ヴューで位置を確認していて、あれ?と気が付いたのは、
絵の左側背景に描いた建物は、上の通りの突き当りの建物で、あれま!
次回ヴェネツィアに行った時は、「アッサッシーノ通り」に行って見なくては!
で、あれこれ写真を拝借のサイトに、
http://www.veneziatiamo.eu/Rioteradeiassassini_SANMARCO.html
http://www.veneziatiamo.eu/Rioteradeiassassini_SANMARCO.html
「殺人者通り・カッレ・デイ・アッサッシーニ」という記事があり、
見ると、上の地図のご案内に、カンポ・マニンから道なりに西に進むと
アンゾロ広場があるという、そのサンタンジェロ広場のすぐ近くで、はは、
いやぁ、こちらは本当に幅の狭い小路で・・、逃げ場がありませんねぇ!
で、「殺人者の橋」で検索していて引っ掛かったのがこの写真で、
映画の1シーン、タイトルは「ヴェネツィアのパン職人・フォルナレット・ディ・
ヴェネツィア・Fornaretto di Venezia」という、
ヴェネツィアの民間伝承として有名なお話。
何度も映画化されており、これは多分無声映画時代の物から、
懐かしいミッシェル・モルガン(お若い方はご存じないかも)出演の
フランス映画やら、
若いジャック・ぺランが主人公の映画も。
お話は、1507年パン職人ピエロ・ファシォール・Piero Dasiolが朝
勤めの店に行く途中、「人殺しの橋」の近くで、小刀の銀の鞘を見つけ、
婚約者への贈り物としようとするも、婚約者は断り、誰かが落としたのを
探しているかも、というので、戻ると、
婚約者への贈り物としようとするも、婚約者は断り、誰かが落としたのを
探しているかも、というので、戻ると、
そこに貴族の、小刀で刺された遺骸があり、ピエロはやって来た警備隊に捕われ、
ドゥカーレ宮に連行。 無実だと抗議するものの、監獄に収監。
ドゥカーレ宮に連行。 無実だと抗議するものの、監獄に収監。
遂には殺人罪で死刑の判決を受け、斬首されますが、じきに真犯人が捕まり、
無罪の若者に死の判決を下した政府の裁判官たちは、大いに後悔を・・。
無罪の若者に死の判決を下した政府の裁判官たちは、大いに後悔を・・。
各映画により、様々なヴァリエーションがあると思いますが、shinkaiも昔1度
TVで見た事があり、 細かい筋はともかく、法廷場面で使われた背景が
パドヴァのラジョーネ宮の、あの密なフレスコ画の壁であったのが記憶に強く。
ですがこの事件は、1507年という年代にも、その前後にもまるで歴史上の
記録に無く、ヴェネツィアの年代記で名高いマリン・サヌード・Marin Sanudoの
日記(1496~153年)にも、当時は大変な評判を呼んだであろう事件の記載が
無いのだそうで。
なので、19世紀中頃に「パン職人。歴史のドラマ」を表した
フランチェスコ・ダッロンガロ・Francesco Dall'Ongaroが、歴史古文書を基に、
というのも怪しく、
様々な民間口承伝説を混ぜ合わせ、それに有名な「人殺しの橋」を
組み合わせた物ではないか、というサイト記事もありました。
ヴェネツィアには400もの橋があり、「拳骨橋」や「悪魔橋」等々様々に
名付けられた橋があり、ネーミングの良さについ観光客は惹きつけられますが、
作家の中にもその上を行く凄腕があると見え、幾つもの実際事件が起きた橋も
逆に作家宣伝に、そしてヴェネツィアの民間伝承にも花を添えたのかも、ですね。
逆に作家宣伝に、そしてヴェネツィアの民間伝承にも花を添えたのかも、ですね。
パドヴァのラジョーネ宮 n.2 パドヴァ ・ 黄金の世紀 の 1
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462330115.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462330115.html
左の写真に見える、カッレ・デッラ・・マドネッタ・Calle della Madonnettaに
接しているこちら側が、
接しているこちら側が、
サン・タンジェロ広場のカッレ・デイ・アッサッシーニ・人殺し通り。
すぐ近くに位置する「人殺し」関係の通りの名を並べ、驚かせ、喜んで
にやにやのヴェネツィア人の顔が見えそうでしょう?! ははは。
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