ヴェネツィアの事をあれこれ、分かったつもりでいたのも、知らなかった事も、
ちょっと引っ掛かりができると次々と芋づる式に掘り出され、ははは、
ブログにご紹介するshinkai自身も、お陰様で大いに楽しんでいます。
いよいよ再度新しく観光にも目途が付きそうなイメージが開けてきていますので、
お出でになられる皆さんにも、と思って、あれこれ伝えしていきますね。
という事で、今回はリアルト橋の北にある広場、カンポ・サン・ジャコミーノ・
Campo San Giacominoの
北側にうずくまっている男の像、
親しみを込めて「ゴッボ・ディ・リアルト・リアルトの背むし男」と
呼ばれている像と、その横に見える赤茶色の円柱についてのご案内を。
リアルト橋を北に渡ってくると両側に屋台店が続き、そして広場が開けますが、
広場の南にあるこの可愛い美しいロマネスクの教会は、伝説による起源は
ヴェネツィアで一番古い教会で、聖別されたのが421年と言われますが、
確かな記録での建設は1152年と。
内部もかなり豪華な様子ですが、見た記憶がなく、はぁ、
ただ教会前に見えるロッジャに腰を下ろしパニーノを食べた時に、少し分配した
パンが集まった鳩たちに大うけで、足の上を踏んづけて歩き回ってくれ、はは、
その時に鳩たちの足がいかに温かいのかを、身をもって知った記憶が残り、はは。
教会左に見える赤い壁の建物は裁判所で、広場に向かって開くポルティコは
「ソットポルテゴ・デル・バンコジーロ・Sottoportego del Bancogiro」
今回これについても新しく知りましたので、今回「絵のブログ」のほうでご案内を。
裁判所の建物は広場を囲み、このように北側にも続き、ちょうど北の真ん中ほどに
見えるのが、「リアルトのゴッボ」像と、赤茶の円柱。
実は「ゴッボ像」は、いわば隣の公示の柱、赤色の斑岩のお供で、
公示を読み上げる人が円柱の上に上るための階段の役を果たしている訳で、
その姿勢からまぁ「ゴッボ」と単純に呼ばれた訳で、こんな姿と顔で、
彫られたのが1541年と言うので、その以前からあった筈の「公示の円柱」が主、と
いう訳ですね。
と言うのも、この「公示の円柱・ピエトラ・デル・バンド」はヴェネツィアに2本あり、
もう1本はサンマルコ広場にあり、この後そちらもご案内を。
で、このリアルト橋の「公示の柱石」ゴッボの像の階段を上り上に立ったお役人が、
このリアルト橋の市場周辺、一番人出で賑わう広場で何を告げたかと言いますと、
ヴェネツィア共和国政府の重要な法律の布告、そして死刑判決を受けた罪人の
名を告げたのだそうで、罪人は階段の足元に立っていたそう。
が、死刑執行は多分この広場ではなく、サン・マルコ小広場と思いますが、
これはまた調べてみる必要がありそうです。
と、ここには、鞭打ち刑を科せられた罪人達、主に泥棒達が、サン・マルコ広場で
裸にさせられ、鞭打たれながらメリチェリーア通りを通り、リアルト橋を渡って
辿り着き、最後は過酷な罰が終わるのを願い、ゴッボ像に接吻したのだそうで。
が、教会はこの行為が「異教徒の行為」とみなしたため、1545年に接吻する為の
新しい場所として、金属製の十字架を隣接の柱に設置したそうで、
現在はこの十字架はもう無いものの、その跡がみられる、とあり、
多分この十字架跡と。
実際に柱のどちら側かが分からずなので、またちゃんと見て置かないと、はは。
今回の参考にしたサイト記事は
リアルトのゴッボ:Il Gobbo di Rialto
ピエーレ・デル・バンド:Piere del Bando
ウィキペディアのイタリア版の各記事、
ピエーラ・デル・バンド:Piera del Bando
エル・ゴボ・デ・リアルト:El Gobo de Rialto
とりわけ「ピエーレ」「ピエーラ」と表記が違い、何を指すのか分からずで、
最後にウィキで「ピエトラ」と出て、ああ、石の事か、と分かった次第。
で、こちらがヴェネツィアにあるもう1本の「バンドの石」、サン・マルコ広場の物。
実際どこにあるのかを探し回り、ご覧頂くにも分かりやすいのを、と探し、
まず、この図面の[6]の位置にあり、
サン・マルコ小広場側に、ちょっと突き出したバルコニー部分の左に、
という事で、 はぁ、今までまるで目をとめた事もありませんで!!
で、おまけに記事を読むと、1265年のジェノヴァとの戦争勝利に分捕ったもの
とあり、場所はイタリア語で「アクリ・Acri」と。
ジェノヴァとの戦闘であれば、当然海戦でしょうし、アクリとはどこ?と辿ると、
「現イスラエル」。 にゃ、にゃに?!
最初に読んだ記事がこれだったので、頭の中が大混乱、ははは。
で、あれこれ読む内に分かったのは、アクリ・日本語のウィキにはアッコと、
で、このアクリ=アッコにあったヴェネツィアとジェノヴァの移植地、移植民の
関係が良くなかったのが、1256年サン・サッバ教会の所有権から争いとなり、
ジェノヴァが要塞を築き、ヴェネツィア地区を攻撃したのだそうで。
ヴェネツィア側にはピサ共和国、プロヴァンス、テンプル騎士団が付き、
ジェノヴァ側にはカタルーニャ、アンコーナ、ホスピタル騎士団、
そして地元貴族たちはそれぞれに分かれて戦ったそう。
で、ヴェネツィア本国から1257年に派遣された、ロレンツォ・ティエポロ率いる
1艦隊、13隻のガレー船が1258年6月にアッコに到着、海戦となり、
ヴェネツィアが勝利し、サン・サッバの海戦と呼ばれるそうで、
戦賞品として、この「公布石」を分捕って戻り、サン・マルコ広場と
リアルト広場に設置した、という様子ですね。
そう、ヴェネツィアの守護神サン・マルコの遺骸もアレキサンドリアから盗み、
サン・マルコ聖堂の正面上の4頭の黄金の馬像も、イスタンブルの大競馬場から、
そしてこの「公布石」もイスラエル、元はシリアかな、からね、ははは。
ヴェネツィア、サン・マルコ聖堂入り口上の4頭の馬について
で、このサン・マルコ広場にある石は、設置されていた位置により、
サン・マルコ聖堂に及んだかもの大きな被害から守った事があるのですね。
と言うのも、この写真をどうぞ。
1902年7月14日にサン・マルコの鐘楼が崩壊したのですが、
赤丸で囲った中に見えるのが、「赤い円柱」の布告石で、
こちらも元々は上に上るための石段が傍らにあったのが、鐘楼の崩壊により
押し倒され、ともに布告石も倒れた物の、聖堂の端っこの張り出しの
ベランダ部の支えの円柱に直に鐘楼崩壊の瓦礫が当たるのを食い止め、
つまりは聖堂の大きな災害を食い止めた、と言うのですね。
現在のコッレール博物館に続く、考古学博物館辺りも鐘楼に近いですから
被害も大きかったようですし、
傍らの人と比べると、かなり太い円柱ですね、 次回はちゃんと見に行こう!
幸いなことにこの鐘楼の崩壊では人間の被害はなく、ただ鐘楼の管理人が
飼っていた猫ちゃんが犠牲になったとか。
これはずっと以前、ラジオのニュースで知りましたっけ。 可哀そうに。
こちらの布告石でもやはり、死刑宣告者の名前とか、そうそう、
それと街からの追放者の名前も読み上げられたそうで、
かっては街からの追放は、死刑宣告に次ぐ大きな罰だったのですよね。
という、長らく活用された、ヴェネツィアにある
「公布石・ピエトラ・デル・バンド」でした。
ヴェネツィア以外にウーディネにも1つあるそうで、ロッジャ・プッブリカから
お城への登り道の足元にあるそうで、 ・・何度も以前通っているのにねぇ!
伝説的歴史では既に1600歳を数えるヴェネツィアには、
様々な国から分捕ってきた美しいもの、学んで得た文化もいっぱい詰まり、
それらを少しでも知る事ができると、何か自分自身が冒険をしている様な
気持ちがし、嬉しくなりますが、
shinkaiが知っている事など、スズメの涙か、ネズミの糞か、きゃはは、程で、
まだまだたくさんあり、 これからも皆様どうぞよろしくぅ!!
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