ヴェネツィアにお出でになられた方、または実際にご覧になられた事がない方でも、
かく言うshinkaiも何度も店の前は通りながらも未だ入った事がありませんが、へへ、
かのヘミングウェィがご贔屓にして通った、と言うので有名なハリーズ・バー。
前を通る時は、ああ、ここね、といつも。
場所はサン・マルコ小広場から西に河岸沿いに行き、橋を渡っての次の角に。
今回「ハリーズ・バーの歴史、お話」と言うサイト記事を見つけたのが切っ掛けで、
ヘミングウェイのみならず、たくさんの著名人がご贔屓していた事などなど。
店の発端についても、少し驚きの逸話でしたので、ここにご紹介を。
La storia dell’Harry’s Bar
写真は記事から、またウィキペディアからも拝借を。
ハリーズ・バーが開店したのは1931年、創業者は現在の2代目である
アリンゴ・チプリアーニ・Arringo Cipriani(1932~)の
父親ジュゼッペ・Giuseppe(1900-1980)で、
創業の逸話に少し驚いた、と言うのが、父親ジュゼッペが4歳の時
一家はドイツに働きに行きますが、第一次大戦勃発の為戻っ来て、
ジュゼッペは兵隊に徴収。
戦争終了後彼はカメリエーレ・給仕人としてあちこち、外国でも働きつつ
イタリア・ヴェネツィアに戻ってきた時にホテル・エウローパ&ブリターニアの
バー・マンとして働くように。
そして1927年、彼の人生を変える出来事が起こります。
当時アメリカの青年ハリー・ピカリング・Harry Pickeringが叔母と一緒に
アルコール依存症を治すためにやって来ていて友達になりますが、
ある時ハリーと喧嘩した叔母さんは、ほぼ一銭なしのハリーを残したまま帰国。
青年の事情に哀れを感じたジュゼッペは、彼が無事に帰国できる様、
当時としてはかなりの金額であった10000リラを貸します。
そして2年後か数年後か、青年ハリーはアルコールから抜け出し、ヴェネツィアに
戻り、借金に利子を付けて戻し、その上に30000リラを、
ジュゼッペが自分個人の店を持てるように渡したのだそう!
多分ジュゼッペはホテルのバーで働きながら、いつかは自分の店を持ちたいと願い、
コツコツとお金を貯めていたのを、ハリーの事情に同情し、そのへそくりを
貸したのでしょうし、
ハリーはハリーで、ジュゼッペが出してくれたお金が、どの様な事情だったのかを
きっとよく知っていたのでしょうね。
この辺り、単なる男同士の友情を超え、お互いの意気に感じ頑張った様子が
うかがえ、ちょっとした企業創設の出世物語みたいでしょう?!
こうして30歳のジュゼッペは1931年5月13日、所船のロープや索具の貯蔵庫で
あった建物に店を開き、アメリカ青年に敬意を表し「ハリーズ・バー」と。
はい、チプリアーニ、と姓を読んだ時、えっ、あのチプリアーニ?!と
驚いたのも、トルチェッロ島にレストラン、ロカンダ(宿)があり、
サン・マルコ小広場の対岸ジューデッカ島には有名なチプリアーニ・ホテルも。
shinkaiはハリーズ・バーがチプリアーニの持ち物であるのも知らなかったのですが、
男意気を見せたジュゼッペ・チプリアーニの、人生が開けた転機の店なのですね。
当時は上記したサン・マルコ小広場からの道に橋がなく、店はサン・マルコ広場から
西に1つ目の角を回った少路ヴァッラレッソ・Vallaressoの突き当りでしたが、
ジュゼッペは逆に通りを行く一見の客ではなく、贔屓客が来る店になると確信、
店の面積は45平米、バールでもありレストランでもあり、たちまちに繁盛し、
とりわけインテリ層、貴族層、そしてヴェネツィアを訪れる芸術家達の特別な店に。
唯一の記帳本には、たくさんの著名人の名前が並ぶと、いくつも抜き書きされて
いるものの、shinkaiが知っている少人数の名前を挙げますと、
偉大な指揮者 アルトゥーロ・トスカニーニ・Arturo Toscanini(1867-1957)
キュービズモの画家 ジョルジョ・ブラック・Georges Braque(1882-1963)
「冷酷」等の作家 トルーマン・カポーティ・Truman Capote(1924-1984)
皆さま絶対ご存じ チャールズ・チャップリン・Charles Chaplin(1889-1977)
ヴェネツィアにコレクションが ペギー・グッゲンハイム・Peggy Guggenheim
(1898-1979)
バーバラ・ハットン・Barbara Hutton(1912-1979)名前だけ知っており、
日本版ウィキに詳細が
「月と6ペンス」の作家サマーセット・モーム・Somerset Maugham(1874-1965)
伝説的俳優 オーソン・ウェルズ・Orson Welles(1915-1985)
そして アーネスト・ヘミングウェイ・Ernest Hemingway(1899-1961)
ヘミングウェイは「川を渡って木立の中に」を執筆中には店の固定客だった様で、
お気に入りの彼の指定テーブルもあったそう。
その他ヴェネツィアという土地柄から映画撮影、観光に訪れた有名俳優たちも
多かったと見え、写真に知っている顔がいくつも見えたり、
ハリーズ・バーのサイトには、こんな写真も。
右ナンシー・レーガン、レーガン大統領の奥様 左マレッラ・アニェッリ、
フィアットのアニェッリ会長の奥様 真ん中マリーア・ピア・ファンファーニ、
多分イタリアのファンファーニ大統領の奥方。 2階でお食事。
アルトゥーロ・トスカニーニの生家 ・ 20世紀の偉大なる指揮者
ペッギー・グッゲンハイム・コレクション と、 彼女についてあれこれ
「武器よさらば」 若きヘミングウェイの戦場体験 n.1
「武器よさらば」 若きヘミングウェイの戦場体験 n.2
バールでもあり、レストランでもあり、有名なカクテルは1948年に
ジュゼッペが創作した「ベッリーニ・Bellini」と呼ばれる、
薄いピンク色をしており、
ベッリーニ、という名は、ヴェネツィアの画家ジョヴァンニ・ベッリーニの
描いた聖人の外衣の色を思い出し命名し、
一方「カルパッチョ・carpaccio」の一皿は、雄牛生肉の薄切りにソース、
そしてパルミッジャーノの薄片がかけられたもので、
名前の由来は生肉の赤色がジュゼッペにヴィットーレ・カルパッチョの描いた
強い赤色の印象を呼び起こしたからと。
90年に及ぶ店の歴史の中で、ファッシスト政権下では、店に通う
ホモセクシャルと裕福なユダヤ人の出会いの場所ではないかと疑われたり、
1938年に出された人種法の公布では、「ユダヤ人の入場禁止」という
札の張り出しが定められたものの、
ハリーズ・バーではこの札は入り口ドアではなく、キッチンの入り口ドア
の前に張り出されたと。
そして第2次大戦下では店は押収され、船員たちの食堂に変えられたりしたものの、
戦後にはまた元の営業に。
こういった店の歴史自体が20世紀の歴史を語るものとして、2001年には
文化省から「国の遺産」としての名称も受けたハリーズ・バー。
一度店を訪れた者は、また戻るしかなく、
美味しい料理の為のみでなく、そこが本当に自分の家の様に思えるから。
2代目、1932年生まれ アリンゴ・チプリアーニ。 良いお顔でしょ?!
ニューヨーク、ロンドン、ロスアンジェルス、香港にも、店や様々な展開を広げ、
暫く前には彼も80歳を超え、店を信頼のマネージャーに任せ引退、
が、経済的な低調問題も、というサイト記事も見ましたが、
どうぞヴェネツィアの顔の1つ、歴史を持つ店として頑張って欲しいものです!
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