シモネッタ・ヴェスプッチ、と言う名を聞く時、読むとき、
皆さんはどんなイメージを持たれますか?
少しでもイタリア・ルネッサンスに興味をお持ちの方は、やはりボッティチェリ
描く所の「ヴィーナス誕生」のヴィーナスであったり、
はたまた「春」のフローラ・花の女神、だろうと思います。
ボッティチェリ描く、儚げな、エレガントな美女が余りにもイメージにピッタリで、
他の追随を許さず、現在も未だルネッサンス期の美女の代名詞となっていますね。
shinkai自身ウッフィッツィ美術館でボッティチェリの作品を実際に見る迄は、
それ迄画集で何度見てもピンとこず、逆に軽い絵、失礼!位に思っていたのが、
実物を前にしイチコロ! 大好きになった画家の1人で。
彼女についてのサイト記事を随分前にストックしたままだったのですが、
つい最近のニュースで、ボッティチェリのモデルのシモネッタ・ヴェスプッチの
死因はずっと肺結核と言われていたのが、
550年振りにそうでなかったのが明らかに、と言うのがあり、
そんなこんな、はたまたshinkaiの単純な疑問も含め、今回のお話を。
参考にしたサイトは
シモネッタ・ヴェスプッチ:ルネッサンスの「生きたヴィーナス」の伝説
ボッティチェリのヴィーナスは稀な腫瘍で死亡、500年以上の後の診断
同様の記事
他に、各人物については、ウィキペディアの伊と日の各記事を参考に。
取分けウィキ伊の、カッターネオ家の項にシモネッタについて書かれており、
これは大きな参考に。
シモネッタ・カッターネオ・ヴェスプッチ・Simonetta Cattaneo Vespucci
(1453-1476.4.26) あの時代、女性でありながら生年月日はともかく、
亡くなった月日はしっかり記録に残ります!
中のカッターネオが生家の姓で、ヴェスプッチは16歳で結婚しての姓。
カッターネオの生家は分家ながらも由緒正しいジェノヴァ貴族の家柄で、
多分本家筋と政治的に相容れずポルトヴェーネレに逃れたのであろうと。
そしてシモネッタの異父姉バッティスティーナが結婚していた先に、
フィレンツェ貴族のピエロ・ヴェスプッチが商用で訪れる時に逗留していたそうで、
その息子マルコ・ヴェスプッチとシモネッタが知り合い、彼は一目ぼれとなり、
1469年4月に結婚。
この画は、メディチ家のカテリーナがフランスのアンリ2世に嫁いだ時の
1533年のもので、中央はクレメンテ7世教皇。
マルコは父親からジェノヴァに、サン・ジョルジョ銀行について学ぶ為
派遣されており、
この銀行について良く分からぬまま ジェノヴァの街角 ・見下ろす守護神
ヴェスプッチ家は名前でお分かりの通り、フィレンツェ出身の貴族、後に
スペイン国王の信頼を受けカリブ海航海、ブラジル北岸発見などの探検家、
地理学者のアメリゴ・ヴェスプッチとマルコは従弟、縁戚になるそう。
カッターネオ家は、コスタンティノーポリ陥落で植民地を失うなど損失を受けており、
メディチ家に大変近いフィレンツェの銀行家ヴェスプッチ家との縁を結ぶのは喜き事。
こうして若きカップルは、当時ロレンツォ・ディメディチが共和国を事実上統治
していたフィレンツェに到着しますが、
ロレンツォとその弟ジュリアーノは現在のヴィア・カヴールのメディチ邸に招待し、
またヴィッラ・ディ・カレッッジで彼らの為の豪華な宴を設けたり。
シモネッタ・ヴェスプッチ、で検索すると、ジュリアーノ・デ・メディチの愛人、
と出ますが、フィレンツェ中の人々をその美しさと優雅さで魅了したと言われる
彼女の美しさにやはり彼も夢中になったのでしょうね。
彼らのみならず、当時のフィレンツェの人文学者ポリツィアーノ、プルチ、
ピコ・デッラ・ミランドラ、哲学者のマルシーリオ・フィチーノ、なども
彼女に魅せられ詩をささげたり、
ボッティチェリなどの若い画家は勿論、ミケランジェロなどもで、
芸術文化の季節の幕開け、と言うか、
まぁ当時のフィレンツェの男達は皆彼女に惚れ込んだ様子で、ははは。
こうした豪華な宴、楽しい娯楽の宮廷文化の年が続きますが、とりわけ有名なのが
1475年のロレンツォ・イル・マニーフィコの弟ジュリアーノが、
サンタ・クローチェの広場で行われた「騎士のトーナメント」で優勝したこと。
この騎馬試合は、前年のロレンツォが他のイタリア勢力との和平調印を記念したもので、
ジュリアーノは輝石の散りばめられた銀の鎧と、ヴェロッキオがデザインした兜で出場、
見事多くの対抗者を勝ち抜き、
この時の「トーナメントの女王」となったのがシモネッタで、多分ボッティチェリの
企画した、燃えるオリーヴの枝に足を乗せたアテネの女神の装いで登場、
壊れた弓を持つキューピッドがオリーヴの木に鎖でつながれ、という意趣だったそう!
誰一人知らぬ者はいないシモネッタの美と優美さと、ジュリアーノの喜びとで、
この騎馬試合は「ジュリアーノのトーナメント」として当時の知識人に称賛され、
大衆に知られる大イベントだった様子。
そして、多分この時に2人は愛人となったのではないかと。
が、この騎馬試合を頂点とし、2人の運命は下り坂に。
2人ともが特権的な生活を享受する立場にいたものの、1476年4月26日に
シモネッタは23歳の若さで、結核により、他の情報ではペストにより世を去り、
ジュリアーノは1478年4月26日、なんと2年後の同じ4月26日、パッツィ家の陰謀に
より復活祭のミサの最中を襲われ、兄のロレンツォは助かったものの、彼は死亡。
パッツィ家陰謀の後1478年5月26日生まれのジュリアーノの庶子ジューリオは、
上に名の出たクレメンス7世となり、母親はフィオレッタ・ゴリーニ。
ボッティチェリ描く「若い女の肖像」が彼女といわれ、パラティーナ美術館蔵。
所で、シモネッタがジュリアーノの愛人だった、というのは以前から知っており、
今回16歳でマルコ・ヴェスプッチと結婚していた、それもマルコが彼女に
我を忘れる程の恋をして・・、と知ると、
愛する妻が「ジュリアーノの愛人」と世間に公表される程になって、
夫としてどうしたか? 何もしなかった? と単純に疑問でしたが、
やはりマルコとその父ピエロはメディチ家の2人に対し、仮借ない敵となったそうで。
それと共に、最近の研究では「毒殺されたのかも」の線もあるそうで、
原因は「嫉妬」と。
当時のフィレンツェの男達の様子をこうして知ると、それもありかも!ですね。
という所で、つい最近の研究発表、「シモネッタの死亡は稀な腫瘍によるもの」
についてですが、
イタリアの様々な大学の専門家や科学者のグループにより署名されているもので、
診断はアメリカ内分泌学会の公式機関「内分泌診療」によって行われた研究から
始まったものと。
研究目的は3つ。 まず、ボッティチェリが描いた異なる絵の中の女性が、同一人物を
描いている事を確認。
成長ホルモンとプロラクチンを分泌する腫瘍の進行により、影響を受ける
顔の特徴を特定し、
そしてシモネッタ・ヴェスプッチの肖像画に見られる、観察された顔の
特徴の変化が、以前の研究で特定された顔の特徴の変化と互換性がある事を
確認する、というもの。
で、この研究から、シモネッタの特徴の変化が際立っている事から、
「シモネッタ・ヴェスプッチがプロラクチンと成長ホルモンを分泌する
下垂体腺腫に苦しんでいた事を示唆する十分な証拠」と。
使われている難しい言葉はすべて翻訳ソフトによるものですが、shinkaiは
最初この診断を読んだ時、ボッティチェリの絵の中の如何にも同一人物、
シモネッタと思われる女性の顔がかなりあれこれ変化している事には
以前から気が付いていますから、
ああ、そういう研究もあり、判断できるのか、と思ったのでしたが、
以下にご説明する様に、ボッティチェリがシモネッタを描いたのは、
殆ど彼女の没後何年も経っての事で、これは勿論研究者達もご存じでしょうが、
こういうのは医療診断の判断基準にならないのではないかなぁ、とも。
つまりボッティチェリが「ヴィーナスの誕生」を描いたのは、
1485年頃、つまりシモネッタ没後9年の作品で、
「春」のほうが早く、1477-1478頃、没後1年経っての作品。
という事で、以下に主な作品を年代順に。
捨て子養育院 「聖母子と天使」は 1465-67年 聖母は余り美人ではなく!
その代わり天使と幼子の顔は後のボッティチェリに通じるものがありながら、
聖母の顔を自分好みにするのを恐れたのかなぁ?
ウフィッツィ 「東方三博士の礼拝」 1475年頃
そう、この顔はシモネッタですね。 一番右に立つ男性がボッティチェリ自身と。
ベルリン Staatliche Museen 「若き女性の肖像」 1475年頃
この作品の制作年と収蔵先について混乱しておりますが、一応この説明に。
この辺りで「春」が描かれ、
ポルディ・ペッツォーリ博物館 「書物の聖母」 1481-82年 没後5年
この辺り本当に麗しく!
シュテーデル美術館 「若い女性の肖像」 1480-85年 没後4年
ロンドン、ナショナル・ギャラリー「ヴィーナスとマルス」1483年 没後9年
ウフィッツィ美術館 「マニフィカートの聖母」 1483-85年 没後7年
「ヴィーナス誕生」はこの辺りに。
ウフィッツィ美術館 「ザクロの聖母」 1487年 没後10年
こうして年代を確認していくと、なんとなしに後年のサヴォナローラの
影響後の作品と思っていたのもそうでない事も分かり、
シモネッタの亡後も執拗に彼女の面影を追いかけ、その間ボッティチェリの
作品はどんどんと円熟味を増し、麗しい女性像を描き出しますが、
シモネッタ・ヴェスプッチの肖像は他の画家も描いており、
こちらはピエロ・コシモ描く クレオパトラを模した肖像画 1480-83年頃
ピエロ・ディ・コシモは1461年生まれですから、シモネッタが亡くなった時は
まだ15歳ですか。
この絵を画集で始めて見た時の衝撃ともいえる感覚、未だによく覚えています。
15世紀当時貴族女性、ブルジョワ階級の女性が画家の前でポーズをすることは
礼儀や社会慣習に反しており、それが一般的になったのは16世紀になってと言い、
つまりシモネッタ・ヴェスプッチが実際に肖像画を描かせたことはないのですが、
それでもボッティチェリの描いた女性像全体に大きな類似性があり、
シモネッタ・ヴェスプッチを、洗練された優雅な空気で包み、描き、
今日もルネッサンスの美的規範、と結び付けて考えさせます。
上のピエロ・ディ・コシモをはじめ、ヴェロッキオの大理石胸像(国立美術館)、
本画は失われたものの、ルカ・シニョレッリの描いた「パンの教育」などなど、
シモネッタが亡くなった15世紀後半に、フィレンツェにわずか7年余りしか
住んでいなかった彼女に対する芸術家たちの熱狂が、ボッティチェリ以外にも
ずっと続いていた事にも驚きますね。
最後に好奇心を。
シモネッタ・ヴェスプッチの遺体が安置されているオンニサンティ教会には、
サンドロ・ボッティチェリも埋葬されており、
こちらがヴェスプッチ家の礼拝堂。 ウィキペディアから拝借。
伝説によると、ボッティチェリは、シモネッタの足元に埋葬する様頼んだとか。
が、フィリッポ・リッピの子、フィリッピーノは、自分の師のボッティチェリの
遺骨を自家の礼拝堂に、どちらも同じ教区に住み、ヴェスプッチ家と同様に
墓所を持っていた同教会に、離れて、埋葬したそうで、はは。
というルネッサンスの美人、いや、500年を超え未だその香しさが伝わる
不滅の佳人、のお話でした。
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