・ シモネッタ・ヴェスプッチ ルネッサンス期の美女の原型と、死因の新研究

シモネッタ・ヴェスプッチ、と言う名を聞く時、読むとき、
皆さんはどんなイメージを持たれますか? 

少しでもイタリア・ルネッサンスに興味をお持ちの方は、やはりボッティチェリ
描く所の「ヴィーナス誕生」のヴィーナスであったり、

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はたまた「春」のフローラ・花の女神、だろうと思います。

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ボッティチェリ描く、儚げな、エレガントな美女が余りにもイメージにピッタリで、
他の追随を許さず、現在も未だルネッサンス期の美女の代名詞となっていますね。

shinkai自身ウッフィッツィ美術館でボッティチェリの作品を実際に見る迄は、
それ迄画集で何度見てもピンとこず、逆に軽い絵、失礼!位に思っていたのが、
実物を前にしイチコロ! 大好きになった画家の1人で。

彼女についてのサイト記事を随分前にストックしたままだったのですが、
つい最近のニュースで、ボッティチェリのモデルのシモネッタ・ヴェスプッチの
死因はずっと肺結核と言われていたのが、
550年振りにそうでなかったのが明らかに、と言うのがあり、

そんなこんな、はたまたshinkaiの単純な疑問も含め、今回のお話を。

参考にしたサイトは
シモネッタ・ヴェスプッチ:ルネッサンスの「生きたヴィーナス」の伝説

ボッティチェリのヴィーナスは稀な腫瘍で死亡、500年以上の後の診断

同様の記事

他に、各人物については、ウィキペディアの伊と日の各記事を参考に。
取分けウィキ伊の、カッターネオ家の項にシモネッタについて書かれており、
これは大きな参考に。


シモネッタ・カッターネオ・ヴェスプッチ・Simonetta Cattaneo Vespucci
(1453-1476.4.26) あの時代、女性でありながら生年月日はともかく、
亡くなった月日はしっかり記録に残ります!
中のカッターネオが生家の姓で、ヴェスプッチは16歳で結婚しての姓。

カッターネオの生家は分家ながらも由緒正しいジェノヴァ貴族の家柄で、
多分本家筋と政治的に相容れずポルトヴェーネレに逃れたのであろうと。

そしてシモネッタの異父姉バッティスティーナが結婚していた先に、
フィレンツェ貴族のピエロ・ヴェスプッチが商用で訪れる時に逗留していたそうで、
その息子マルコ・ヴェスプッチとシモネッタが知り合い、彼は一目ぼれとなり、
1469年4月に結婚。

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この画は、メディチ家のカテリーナがフランスのアンリ2世に嫁いだ時の
1533年のもので、中央はクレメンテ7世教皇。

カトリーヌ・ド・メディシス  フランスへの香水貢献とちょっぴりの暗黒面と



マルコは父親からジェノヴァに、サン・ジョルジョ銀行について学ぶ為
派遣されており、

この銀行について良く分からぬまま  ジェノヴァの街角 ・見下ろす守護神


ヴェスプッチ家は名前でお分かりの通り、フィレンツェ出身の貴族、後に
スペイン国王の信頼を受けカリブ海航海、ブラジル北岸発見などの探検家、
地理学者のアメリゴ・ヴェスプッチとマルコは従弟、縁戚になるそう。

カッターネオ家は、コスタンティノーポリ陥落で植民地を失うなど損失を受けており、
メディチ家に大変近いフィレンツェの銀行家ヴェスプッチ家との縁を結ぶのは喜き事。


こうして若きカップルは、当時ロレンツォ・ディメディチが共和国を事実上統治
していたフィレンツェに到着しますが、
ロレンツォとその弟ジュリアーノは現在のヴィア・カヴールのメディチ邸に招待し、
またヴィッラ・ディ・カレッッジで彼らの為の豪華な宴を設けたり。

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シモネッタ・ヴェスプッチ、で検索すると、ジュリアーノ・デ・メディチの愛人、
と出ますが、フィレンツェ中の人々をその美しさと優雅さで魅了したと言われる
彼女の美しさにやはり彼も夢中になったのでしょうね。

彼らのみならず、当時のフィレンツェの人文学者ポリツィアーノ、プルチ、
ピコ・デッラ・ミランドラ、哲学者のマルシーリオ・フィチーノ、なども
彼女に魅せられ詩をささげたり、
ボッティチェリなどの若い画家は勿論、ミケランジェロなどもで、
芸術文化の季節の幕開け、と言うか、
まぁ当時のフィレンツェの男達は皆彼女に惚れ込んだ様子で、ははは。

こうした豪華な宴、楽しい娯楽の宮廷文化の年が続きますが、とりわけ有名なのが
1475年のロレンツォ・イル・マニーフィコの弟ジュリアーノが、
サンタ・クローチェの広場で行われた「騎士のトーナメント」で優勝したこと。

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この騎馬試合は、前年のロレンツォが他のイタリア勢力との和平調印を記念したもので、
ジュリアーノは輝石の散りばめられた銀の鎧と、ヴェロッキオがデザインした兜で出場、
見事多くの対抗者を勝ち抜き、



この時の「トーナメントの女王」となったのがシモネッタで、多分ボッティチェリの
企画した、燃えるオリーヴの枝に足を乗せたアテネの女神の装いで登場、
壊れた弓を持つキューピッドがオリーヴの木に鎖でつながれ、という意趣だったそう!

誰一人知らぬ者はいないシモネッタの美と優美さと、ジュリアーノの喜びとで、
この騎馬試合は「ジュリアーノのトーナメント」として当時の知識人に称賛され、
大衆に知られる大イベントだった様子。
そして、多分この時に2人は愛人となったのではないかと。



が、この騎馬試合を頂点とし、2人の運命は下り坂に。 

2人ともが特権的な生活を享受する立場にいたものの、1476年4月26日に
シモネッタは23歳の若さで、結核により、他の情報ではペストにより世を去り、

ジュリアーノは1478年4月26日、なんと2年後の同じ4月26日、パッツィ家の陰謀に
より復活祭のミサの最中を襲われ、兄のロレンツォは助かったものの、彼は死亡。



パッツィ家陰謀の後1478年5月26日生まれのジュリアーノの庶子ジューリオは、
上に名の出たクレメンス7世となり、母親はフィオレッタ・ゴリーニ。 

ボッティチェリ描く「若い女の肖像」が彼女といわれ、パラティーナ美術館蔵。

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所で、シモネッタがジュリアーノの愛人だった、というのは以前から知っており、
今回16歳でマルコ・ヴェスプッチと結婚していた、それもマルコが彼女に
我を忘れる程の恋をして・・、と知ると、

愛する妻が「ジュリアーノの愛人」と世間に公表される程になって、
夫としてどうしたか? 何もしなかった? と単純に疑問でしたが、

やはりマルコとその父ピエロはメディチ家の2人に対し、仮借ない敵となったそうで。


それと共に、最近の研究では「毒殺されたのかも」の線もあるそうで、
原因は「嫉妬」と。

当時のフィレンツェの男達の様子をこうして知ると、それもありかも!ですね。



という所で、つい最近の研究発表、「シモネッタの死亡は稀な腫瘍によるもの」
についてですが、

イタリアの様々な大学の専門家や科学者のグループにより署名されているもので、
診断はアメリカ内分泌学会の公式機関「内分泌診療」によって行われた研究から
始まったものと。

研究目的は3つ。 まず、ボッティチェリが描いた異なる絵の中の女性が、同一人物を
描いている事を確認。

成長ホルモンとプロラクチンを分泌する腫瘍の進行により、影響を受ける
顔の特徴を特定し、

そしてシモネッタ・ヴェスプッチの肖像画に見られる、観察された顔の
特徴の変化が、以前の研究で特定された顔の特徴の変化と互換性がある事を
確認する、というもの。

で、この研究から、シモネッタの特徴の変化が際立っている事から、
「シモネッタ・ヴェスプッチがプロラクチンと成長ホルモンを分泌する
下垂体腺腫に苦しんでいた事を示唆する十分な証拠」と。

使われている難しい言葉はすべて翻訳ソフトによるものですが、shinkaiは
最初この診断を読んだ時、ボッティチェリの絵の中の如何にも同一人物、
シモネッタと思われる女性の顔がかなりあれこれ変化している事には
以前から気が付いていますから、

ああ、そういう研究もあり、判断できるのか、と思ったのでしたが、

以下にご説明する様に、ボッティチェリがシモネッタを描いたのは、
殆ど彼女の没後何年も経っての事で、これは勿論研究者達もご存じでしょうが、
こういうのは医療診断の判断基準にならないのではないかなぁ、とも。


つまりボッティチェリが「ヴィーナスの誕生」を描いたのは、
1485年頃、つまりシモネッタ没後9年の作品で、
「春」のほうが早く、1477-1478頃、没後1年経っての作品。


という事で、以下に主な作品を年代順に。

捨て子養育院 「聖母子と天使」は 1465-67年 聖母は余り美人ではなく!

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その代わり天使と幼子の顔は後のボッティチェリに通じるものがありながら、
聖母の顔を自分好みにするのを恐れたのかなぁ?



ウフィッツィ 「東方三博士の礼拝」 1475年頃

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そう、この顔はシモネッタですね。 一番右に立つ男性がボッティチェリ自身と。



ベルリン Staatliche Museen 「若き女性の肖像」  1475年頃  

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この作品の制作年と収蔵先について混乱しておりますが、一応この説明に。



この辺りで「春」が描かれ、

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ポルディ・ペッツォーリ博物館 「書物の聖母」 1481-82年  没後5年
この辺り本当に麗しく!

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シュテーデル美術館 「若い女性の肖像」 1480-85年  没後4年

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ロンドン、ナショナル・ギャラリー「ヴィーナスとマルス」1483年 没後9年

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ウフィッツィ美術館  「マニフィカートの聖母」  1483-85年 没後7年

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「ヴィーナス誕生」はこの辺りに。

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ウフィッツィ美術館  「ザクロの聖母」  1487年  没後10年

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こうして年代を確認していくと、なんとなしに後年のサヴォナローラの
影響後の作品と思っていたのもそうでない事も分かり、

シモネッタの亡後も執拗に彼女の面影を追いかけ、その間ボッティチェリの
作品はどんどんと円熟味を増し、麗しい女性像を描き出しますが、



シモネッタ・ヴェスプッチの肖像は他の画家も描いており、

こちらはピエロ・コシモ描く クレオパトラを模した肖像画 1480-83年頃

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ピエロ・ディ・コシモは1461年生まれですから、シモネッタが亡くなった時は
まだ15歳ですか。

この絵を画集で始めて見た時の衝撃ともいえる感覚、未だによく覚えています。



15世紀当時貴族女性、ブルジョワ階級の女性が画家の前でポーズをすることは
礼儀や社会慣習に反しており、それが一般的になったのは16世紀になってと言い、

つまりシモネッタ・ヴェスプッチが実際に肖像画を描かせたことはないのですが、

それでもボッティチェリの描いた女性像全体に大きな類似性があり、
シモネッタ・ヴェスプッチを、洗練された優雅な空気で包み、描き、
今日もルネッサンスの美的規範、と結び付けて考えさせます。

上のピエロ・ディ・コシモをはじめ、ヴェロッキオの大理石胸像(国立美術館)、
本画は失われたものの、ルカ・シニョレッリの描いた「パンの教育」などなど、

シモネッタが亡くなった15世紀後半に、フィレンツェにわずか7年余りしか
住んでいなかった彼女に対する芸術家たちの熱狂が、ボッティチェリ以外にも
ずっと続いていた事にも驚きますね。


最後に好奇心を。  
シモネッタ・ヴェスプッチの遺体が安置されているオンニサンティ教会には、
サンドロ・ボッティチェリも埋葬されており、

こちらがヴェスプッチ家の礼拝堂。  ウィキペディアから拝借。

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伝説によると、ボッティチェリは、シモネッタの足元に埋葬する様頼んだとか。

が、フィリッポ・リッピの子、フィリッピーノは、自分の師のボッティチェリの
遺骨を自家の礼拝堂に、どちらも同じ教区に住み、ヴェスプッチ家と同様に
墓所を持っていた同教会に、離れて、埋葬したそうで、はは。


というルネッサンスの美人、いや、500年を超え未だその香しさが伝わる
不滅の佳人、のお話でした。


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・ スコミーゴ村 葡萄摘みが始まって、 秋の色と空気

昨日朝、今月初めの旅行以来の歩きを開始しました。 
すっかり朝の開けるのが遅くなり、そして雨模様続き、横着とで
先伸ばしして来たのが、お天気も良さそうと、前日から気合を入れ!

ついでにとコンパクト・カメラを持って、朝7時50分頃出発。
夏の間は5時~5時半に出かけ、戻って来てちょうど朝ご飯、と
都合良かったのが、どの時間帯に予定を入れたらと迷っていたのも
横着の原因の1つでしたが、漸くに朝ご飯の後に出かける事に決め。


で、家から東の道に出た所。  斜めから射す朝日に浮き上がる
坂下の光景は素晴らしく、まさに光と影、それに斜めに続く道。

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ですが、どうもいつもと違い、道が騒がしく・・。
そのうちに気が付いたのは、近くの小学校に子供を送って来た親の車の列と、
あと5分程で門が開くのを待つ親と子、狭い道を急ぐ通勤者の車の行き交いで、
スコミーゴ村のラッシュ時!なのでしたぁ。 

こちらの小学校は、学校には親の送り迎えが義務付けられているので、
こんな光景が繰り広げられるのですね。

なので、日本の小さな子がランドセルを背負い、1人で街中を歩いたり、
電車で通う風景、Youtubeの動画に、こちらの人々は驚愕をね。



北のヴィットリオ・ヴェネト方面。 手前に右から延びる山並みと背後の
山間を辿るとヴェネト、イタリアが終わり、オーストリアに続く道。

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道を左に折れ、村の教会隣の司祭さまの住居の庭、
射し込む光に光る庭いっぱいの猫じゃらし。

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教会の裏を回り、坂道を下り、右手に広がる葡萄畑と、奥に見える
ヴェネト端っこの雲をかぶる山の峰々。

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ン?!と気づくと、葡萄摘みの為の運搬トラック2台! あっ、葡萄摘みだ!!

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畝の隙間から覗くと、始まってます。  左側は昨日済んだ所、と後に判明。

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遠い所からでなく撮りたい、と畝の間の道を進んでいくと、左の緑の男性が
奥から寄って来たので、ボンジョルノ! 写真を2,3枚撮らせて下さい。

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ぺルケ?!  私ブログをしていて、日本に葡萄摘みが始まったと見せたいので。
と言うと、了承の様子で、この1枚を。



緑の男性は丸顔で、なんとなし笑った感じでしたが、

次にこの手前側で撮った時、畝のこちら側にも1人いたのが顔を隠し逃げたので、

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即ハハ~ンと気が付き、心配しないで、顔は撮らないからと。
つまり密入国の人たちで、届なしで働いている人達だったのですね。



そんな事はshinkaiには関係なしで、2枚以降はもっぱら収穫された葡萄を。

と言うのも、緑の男性に、この葡萄は?と聞くと、プロセッコ。 わぉ!
記憶では、何年か前に植え替えられた畑で、収穫の時を迎えていたのですね。

この高さにまで延び、

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朝8時過ぎ、既に向こうのプラスティックの箱も埋まり加減!

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こちらがshinkaiが入り込んだ畝の並び!

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収穫されたばかり、葉っぱの付いた、朝日に輝くプロセッコになる葡萄の房。
綺麗でしょう?!  今年もおいしいワインになるかな?!

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中にはうまく隠れて、摘み取りを逃れた房もあり・・。

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畝の最後まで来た時、既に彼らは奥の畑に移っており、そのまま挨拶せず。

道を進むと、すぐお隣の畑でも今朝が葡萄摘みの日と分かる話し声、
トラクターの音。


そして畝の先頭に咲くバラの花、これは葡萄の木に付く病気を発見する
役割のバラで、写真を整理中、この畑が白ではなく、赤ワイン用葡萄を発見。

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この一帯は殆ど白ワイン用で、とりわけプロセッコが有名になり売れ行きが
良い事から古い葡萄の木を引っこ抜き、プロセッコ用のグレーラ・glera種に
植え替えているのが、既に収穫を迎えているのですね。

スコミーゴ村の坂下に赤用の畑が1つあるのを、ずっと以前に、
葡萄摘みがそろそろ ・ スコミーゴ村、コッレウンベルト村

プロセッコの葡萄について 久しぶりのお天気に誘われ、スコミーゴ村を一回り



北に延びる緩やかな坂道を行き始めると、グィーンと飛行機雲。

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鉄柵から覗く、はは、並木道。

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広い、長~く続く葡萄畑。 上の丘がshinkaiが何度か描くモチーフで~す。

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紅葉の殆どない、イタリアの黄葉。

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丘の下に射し込む朝日と、大好きな葡萄畑の畝の姿。

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道脇に並ぶオリーヴも実がそろそろ熟れ始め、こちらは10月末~11月に。

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畑の真ん中の坂道を、うんうんと上って行くトラクター。 やはり葡萄満載で、
では、この畑も今日が葡萄摘み・ヴェンデーミア・vendemmiaね。

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畑の様子を観察しつつ道を進み、殆ど北の端で一同が仕事中の姿を。

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この畑の、丘の葡萄畑の摘み取りは  葡萄摘みが始まったスコミーゴ村


運ばれるトラクターの葡萄の量から見ても、仕事始まりは夜明けと同時かも!



大変な仕事だろうなぁ、と思いつつ、カルページカのいつもの教会前まで。

これは名前知らずですが、漸くに秋らしい色の葉を見つけ。

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その内に空の雲が多くなり、教会前で折り返し戻ってくると、
皆さんは畝の奥の方に。

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収穫を運ぶトラック、トラクターも準備万端で畑の隅に。

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これはスコミーゴ村まで戻って来ての畑で、こちらも今日が葡萄摘み。
雨が続いた後の晴れの何日かの予報で、葡萄栽培農家が待っていた事でしょう。

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秋の葡萄摘み、ピティリアーノの場合は



最後は家の近くのシナノキの、名残りの実と、

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足元の、軽い、フワフワの落ち葉。 

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分家・絵のブログでは今回、少し秋の色の様子を。 見てやって下さい。



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・ イタリアにある3枚のクリムトの絵の1枚 「婦人の肖像」の逸話 あれこれ!

今月初めに出かけたエミーリア・ロマーニャの旅の締めくくりに、前夜急遽決め、
ピアチェンツァにあるリッチ・オッディ現代美術館収蔵のグスタフ・クリムトの絵を。

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2泊したグラッツァーノ・ヴィスコンティの宿を8時前に出て、朝のラッシュ時で、
それでも20分ちょっとで目指した美術館近くの大駐車場に着いたものの、

入り口のチケットがボタンを押しても出ず、焦って電話すると、
バー・横棒が開いている? 開いてます。 テレパス? そうです。
じゃぁ、それで入って、出る時はバーの傍によると開くし、
料金はテレパスから請求されます。 良かった、安心しましたぁ!

事前に知っていれば何も問題は無いのですが、無知はいつもの事で!!

美術館が開くのは10時からと、まだ早いので、ではまだ来た事のない
ピアチェンツァの中心のドゥオーモと、カヴァリエーリ広場位は見に行こうと、
道の標識と簡単すぎる旅行案内から切り取った地図で見当を付け、
それに何度か近くにおられる方に尋ねつつ。

顔を見て外人と見ると、こちらがイタリア語で尋ねているのに、
「ディス・ウェイ」と手でまっすぐ示し、次いで左に「エ・ポイ、ディス・ウェイ」
って教えてくれた方おおきに!  
つい「エ・ポイ、シニストラね」って繰り返してしまったよ、ははは。



ドゥオーモから回り、表だけね、

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次いで広場も見て、

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う~~ん、何かイマイチピンとこない街で、 ・・ピアチェンツァの方、ごめんなさい!


まぁね、クリムト見れたらOKだから、とだいたいの方角を目指すものの、
これがかなり迷い、同名の通りでも近くにいた女子学生らしき方に
尋ね、これで漸くに。 ああ、やっと!

1人旅のいつもはもう少し事前調査をするのですが、今回は緊急に決め、
地図も資料もなく、という状況でしたので、ゆる~く、ね。



有難い事に、10時と思っていた美術館は9時半からオープンで、

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9時45分位に到着したのが正解で、すらっと入場でき、
おまけに黙っていてもシニア料金の2エウロに! ははは。



所で、タイトルに書いた「イタリアにある3枚のクリムトの絵」の、他の2枚は
・ローマの国立近代美術館 「3世代の女」1905年作 180x180cm

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これは未だ見ておらずで。



・ヴェネツィア カ・ペーザロ国際美術館「ユーディット」1909年 178x46cm

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にあり、そう、3枚のうちの1枚がここピアチェンツァのリッチ・オッディ美術館
Galleria d'arte moderuna Ricci Oddi にあるのですね。

が、そんなリッチ・オッディ現代美術館の名前さえ正直な所知らずで、はぁ。

創立者は名前が冠されたジュゼッペ・リッチ・オッディ・Giuseppe Ricci Oddi 
(1868~1936)が、ローマ、トリノでの法学の勉強を終え故郷ピアチェンツァに
戻って来た1897年、我が邸宅が余りにも空っぽなのを装飾しようと思い、

彫刻家、会計士(が参加、というのが正しくも、少し可笑しく)、商人などの
援助の元、現代美術、ロマン主義の作品に絞ることを定め、
1897年に最初の2作品のコレクションを。

そして次々と作品数が増え、1915年には100作品程、第一次大戦後にも
作品収集は続きますが、

1913年頃収集した作品を整理し、市に贈呈する事に。
で、市の方は彼に美術館建設の地を献呈し、そこにリッチ・オッディは自費で、
ルネッサンス様式風の建物を建設、という由来。

1931年に開館、現在の美術館は400作品以上の収蔵だそうで、
各地で土地の市美術館を見た事もあるshinkaiには、
やはり、それよりかなり上レベルの美術館の印象を受け、

それプラス「クリムト作品」1925年購入、という事で、
もっと知られても良い美術館と!



shinkaiがピアチェンツァにクリムトの絵がある、と知ったのは今年の春過ぎで、
盗難にあった絵が無事戻り、それも不思議な事に美術館建物の外壁内で
見つかった、というサイト記事をちらっと読んでで、

まぁ、ピアチェンツァは旅行の目的地から、月曜美術館休み、で外したまま
ちゃんと読んでおらず。

皆さんは、クリムトの絵が盗難にあった、そしてそれが無事戻った、という
ニュースをご存じでした?!
shinkaiは盗まれたのも、戻って来たのもまるで知らずで、はぁ、ムチ無知!


が、こうして敷地内に入り、展示室入り口に続くロッジャ風通路に様々な
新聞や、雑誌記事の様子が並んでおり、へぇ~っと。

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ですがこの時も、記事の並びをちらっと見たのみで、展示室入り口に。

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という所でリッチ・オッディ美術館の様子を上からの眺めをどうぞ。

上に見える通りがサン・シーロ通りで、 住所はVia S. Siro 13

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通りから入り、最初の角、入り口を入った所に切符売り場があり、
四角く屋根に明り取りのついた部屋に、現在クリムトの「婦人の肖像」が。

そして緑のまっすぐの線の両脇に展示室が続き、一番奥が放射線状に
展示室が付き出す形に。

こうして見ると、脇に沿って回廊風にロッジャが続き、庭園もあるのですね!
絵を見て、そのまま戻ってしまったっす。

所で赤丸を付けた所は、屋根の上の丸が泥棒が入ったか、上から鉤を吊るし
絵をひっかけて盗んだ場所で、というのも、屋根の上に額が残されていたそうで、

斜め下の赤丸の位置、蓋付きの場所から、絵が見つかった、という位置で、
後程詳しく。



さて、クリムトの絵の展示の現在は、最初の部屋の真ん中に1点、
こんな風に無反射ガラスの大きなケースに入っての展示で、

10-Klimt_FMS_7047_02_GF.jpg



ガラスに近づいてしげしげと観ることも出来、写真のフラッシュ無しOK.
「婦人の肖像」 1916-17 60x55cm

11-P76_1549_01_GF.jpg

12-P76_1553_01_GF.jpg


一番上の美術館の、2020年11月28日からクリムトのこの絵が再展示されますよ、
の写真でも分かるように、

左目斜め下のホクロは、紫がかった青色で、鼻の下左側のアウトラインと
唇の下にはエメラルド・グリーンが入り、額の絵の具の厚塗りの流れにも
エメラルド色が潜む、という様子、

そして煙ったような目の、瞳孔の周囲の色は点描風に厚塗り、と言う様な、
これはもう実際の絵をまじかに見ることが出来て分かる、

はぁ、やはり見に来て良かったぁ!! という至福の時。


上の展示写真では台が左側で壁で塞がれてますが、shinkaiが見た先日は
部屋の真ん中で左の壁はなく、自由に周囲を回って歩け、

キャンバスの裏側も、額の裏板無しで、キャンバス裏に記された番号や、
貼られた札も見ることが出来ます。

きっと作品が戻って来た後の鑑定で、本物であると証明されたのも見せる為と。

つい迷いつつ、なんとなし写真を撮らずのままになったのですが、
今考えると少し残念、はは。



そしてその脇に、普通展示で、クリムトのデッサン「老人」 1917-18.

13-P76_1555_GF.jpg

これはもう少し周囲に紙の余白があり、そして薄いグレー・ベージュのマット、
でしたがピンが甘く撮れたので、こちらを。

1918年クリムトは56歳で亡くなりましたから、どちらも彼の最終期ですね。



そして「婦人の肖像」のキャンバスの裏側を見れる横に、この絵の写真。

14-Cattura12345_GF.jpg



この絵は1912年に描かれ、ドイツのドレスデンでの展示会に展示の後行方不明、
だったのが、

リッチ・オッディ美術館に展示されていた1996年4月頃、研究課題に取り上げた
美学生クラウディア・マーガ・Claudia Magaが絵を眺めつつ、
絵の下にもう1枚というか、もう1人の婦人がいる予感が発端でレントゲン検査となり、

この黒い衣装、黒い帽子の、行方不明の絵の上に、クリムトが顔の部分のみ残し、
明るい衣装の婦人を描いていた事が判明したのだそう。

15-mostra-Klimt-_GF.jpg

これは美術界にとっては大きな発見だったでしょうね。


クリムトについてのあれこれは
クリムトの傑作 「アデーレ・ブロッホ-バウアーの肖像I」に纏わるお話

クリムト・ヴィッラ   クリムトの最後で唯一残る、ウィーンのアトリエ

グスタフ・クリムトと、  黄金衣装背後の女性、エミーリエ・フローゲ

グスタフ・クリムトの風景画



こちらは古い写真で、きっとリッチ・オッディ邸の壁に掛けられたものと想像され、
絵の購入後5,6年程こうして少人数に鑑賞されていたのでしょうね。

16-Catturacvbnmk_GF.jpg



現在の展示室は、最初の特別室から延びる通路の左右に部屋があり、

17-jpg-120293.660x368_GF.jpg



一番奥に中央の部屋から突き出す展示室で、あれこれ見ごたえ十分で、

18-RICCI-ODDI-32-_GF.jpg

欲を言えば、通路がも少し広いと、通路の壁の絵も見易いだろうという事で、
これは展示室もも少し広ければ、とも言え、
美術館建設当時の絵は、教会の祭壇画などは別として、一般鑑賞の絵は
多分そう大きなのはなかったから、という理由によるのでしょうね。



という所で、いよいよこの「クリムトの絵の盗難事件」について、ですが、

これは1997年2月22日美術館が改修工事で閉館の際に発見されたもので、
2月22日以前の3日間の間であろうと、正確な日も、様々な作業員の出入りも、
証言も確認が取れずのまま。

19-P76_1567_GF.jpg

この記事の図の様に、屋根の明り取りを開け、そこから紐の先に引っ掛ける鉤を
垂らし、絵を釣り上げたのではないか、というのも、
屋根の上に絵の額と紐が残されていたのだそうで!


右上の記事タイトルで、Nel ’25 fu acquistato per trentamila lire
と見えるのは、
1925年に3万リーレで購入、という事で、現在では6千万エウロの価値だそうで!



こうして22年間様々な憶測が流れ、文化財盗難を探す警察の方は大変だったでしょうが、

2019年12月10日午後3時頃、庭の手入れで働いていた庭師が触れた、美術館外庭の
壁を覆う蔦が動き見えた、半ば開いた扉の中に、

20-klimt trovato 01-2-2.jpeg

21-la-nicchia-nella-quale-e-stato-ritrovato-il-dipinto-_GF.jpg

黒プラスティックのゴミ袋に絵があるのを見つけ、警戒警報発令、警察が駆け付け、
という騒ぎに。 

この見つかった位置の壁、というのは、美術館の上からの写真に真ん中下に赤丸を
付けた位置ですね。



この記事を読んで後も、shinkaiは勝手に、ゴミ袋に入っていたにせよ、22年間、
外壁で雨風の浸食はなかったのか?!という思惑、懸念が当然ありましたが、

あちこちのサイト記事を漁るうちに、はは、こんな写真も見つけ、

22-cattura1 ricci oddi_GF.jpg

何枚のゴミ袋が重ねられていたのかも分かりませんが、写真のはかなりの年月を
経て、ごわっとボロになっているのが見え、 そうでないと一層疑いますが、ね、


なんとまぁ、無事に上手く過ごしてくれた事!と感謝ですねぇ。

まぁ、犯人はどんな考えで、いつ戻したのかも分かりませんが、戻した彼らも
それなりに、はは、いつ見つけるかとヤキモキしたことでしょうねぇ。



これは雑誌の記事タイトルだけで、つい、フフと笑ってしまったもので、

上には、イタリアで絵を盗むのはいかに簡単か、とあり、

23-mostra-Klimt-2015-pannello_GF.jpg

下の方には、盗まれた100万もの絵の、遂に見つからなかったもの。
      イタリアを略奪するのは簡単、誰も払わない。
      過去のナチスから、現在のマフィアまで。

とあり、これだけで大体内容がね?! 持ち主にはお気の毒ながら・・。


という事で、クリムトの絵の22年間の不在は、きっと関係者一同、
脅迫状は来ないし、きっと絵は戻らない、と思っていた事でしょうね!

本当に嬉しく、ちょっと早いクリスマスのプレゼントみたい!
というコメントの気持ちも分かりますね。



絵が無事に見つかった、というものの、本物かどうかの鑑定が必要で、
本当に修復無しでOKなのかもの検査も必要で、秘密の場所に保管され、

美術館内の展示室の入れ替え、新しい設えも行われ、遂に発見後1年近くの
2020年11月27日に、関係者達へのお披露目が行われ、

24-ricci-oddi-sindaco-klimt-172252.660x368_GF.jpg

真ん中女性がピアチェンツァ市長パトリーツィア・バルビエーリ・Patrizia Barbieri、
両脇の男性2人は評議員。



所でこちらも捜査癖が付き、おっ、右の男性はすらっと背も高く、栗色の癖毛、
何者?!  なんでこういう行事に市長の傍?と思ってましたらぁ、

あれこれ記事、写真を漁りつつ、おっ、マスクの下は髭面だ、とも分かり、へへ、
遂に、文化評議員のジョナサン・パパマレンギ・Jonathan Papamarenghi氏と。

25-jonathan-papamarenghi_GF.jpg

うん、マスクの方がカッコ良いかも!



こちらが開館時間で、月曜休館 火、水、木曜 9時半~13時
          金、土、日曜 9時半~13時 15時~18時

8月15日休館、とありますが、大概の美術博物館は、他に 元旦、メーデー、
クリスマスがお休みですので、お確かめを。

P76_1568_GF.jpg


と言う様な、イタリアに3点のクリムトの1点、幸いにも難儀から免れたクリムト様に
会えた事、そしてこの絵に纏わる様々な逸話、についてでした。

ミラノに行かれお時間があったら、ピアチェンツァまで足を延ばされても、ですね。


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・ ジュゼッペ・ヴェルディ  19世紀の大作曲家・オペラ王 の生家訪問

皆さまも大変良くご存じと思う、あのヴェルディのオペラの旋律!

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椿姫」の「乾杯の歌」
ナブッコ」の「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」はイタリア国歌にも
選ばれるか、という程に国民の熱狂を煽った調べ。

他にも様々な、耳にするとすぐ、ヴェルディだ、と分かる親しみやすく
覚えやすい、聞く者の心を、耳をとらえて離さないメロディが思い出され、

多分オペラ・ファンのみならず、世界中にその旋律が
愛されていると思われるジュゼッペ・ヴェルディ・Giuseppe Verdiですが、

今日は彼の生家博物館、田舎の道端に位置する質素な、かっての食堂、
食料品店だった生家と、
後に国民的英雄、オペラ王となった彼の幼少時代についての様子を。



ヴェルディの生家はどこにあるかですが、エミーリア・ロマーニャ州
ピアチェンツァ市ブッセート・Bussetoの近郊ロンコーレ・Roncoleに。

2-map  di casa_GF.jpg

3-Cattura roncole_GF.jpg

上の地図北上に見えるピッツィゲットーネ・Pizzighettoneのご案内は
戦国明暗二人妃(渡辺一夫) ・ フランソワ1世 ・ ピッツィゲットーネ

クレモーナについては
n.1 ヴァイオリン博物館・クレモーナと、ヴァイオリン、ストラディヴァリあれこれ 

n.2 ヴァイオリン博物館・クレモーナと、ヴァイオリン、ストラディヴァリあれこれ 

n.1 クレモーナの聖堂と鐘楼と洗礼堂 ・ 中世の典雅さと時代毎の改装 

n.2 クレモーナの聖堂と鐘楼と洗礼堂 ・ 中世の典雅さと時代毎の改装  



生家は既に国の記念物で、単に「ヴェルディの生家・Casa Natale di Verdi」
と地図検索に打ち込むだけで、即出てくれますが、
Via della Processione 1 Roncole Verdi が住所。

道角に位置し、

4-1-R04_0755_GF.jpg

現在の生家博物館は2014年の修復後に、様々な現代の先進ヴィジュアル技術が
取り入れられ、入り口で希望者にはiPadとイヤホーンが貸与され、
その場所に行くと説明と画像が見れる仕組みに。

この生家博物館見学は、旅行初日の見学3番目で、高速や道路を3時間走り、
要塞見学2つ、主塔にも上った後に到着した所で!
やはりいささか疲れ、頭の方もね、で、周囲の様子も何も撮っておらずで、へへ、
外側はこの1枚だけでしたので、



グーグルのストリート・ヴューから拝借し、
左角に生家博物館、十字交差道を挟んでレストランがあり、
手前に延びる道を入って行くと、大きな駐車場、

4-2-_GF.jpg



道を西に少し進んだ所から、右奥に生家、そしてレストランと駐車場、
この右手前には教会があり、

4-3-_GF.jpg

道の左側には無人のサーヴィス・ステーション、という具合。



で、この家を描いた絵があり、いつの作か分かりませんが、客が訪れている様子から、
ヴェルディが生まれる以前の家の姿と。

5-formis-casa-natale-verdi_GF.jpg 

屋根の勾配があり、大扉が左に、そして四角い井戸があり、真ん中に入り口扉、
という特徴ある家ですから間違いありませんね。

というのも、ジュゼッペ・ヴェルディが生まれる30年程前に既にこの家が存在し、
1781年、我らが未来の大作曲家の祖父母である、同名のジュゼッペと
フランチェスカが、1階を食堂に、上階を住居にするつもりで借ります。

所が窯は役立たず、床石は崩れ剥げ、驚くほどのゴキブリが潜んでおり!!
多分左に見える大扉は、荷車とか家畜収用の扉で、つまり農家だったのでしょう。

というので、1783年に改装工事が始まります。


祖父のジュゼッペ・アントーニオ(1744-1798)と祖母フランチェスカは
このロンコーレから北西に8km程辺りに住んでおり、ジュゼッペの家は代々商人、
どうやら以前も食堂をしていた様子。

こうして農作も続けながら食堂も繁盛させますが、1798年祖父ジュゼッペが亡くなり、
息子のカルロ・Carlo(1784-1867)が母親を援けつつ跡を継ぎます。

どうやらこの時に貯金していた物と父親からの遺産で、この家を買ったのだろうと。


そして1805年カルロ21歳、若い花嫁ルイージャ・ウッティーニ・Luigia Uttiniを
迎え、一緒に店を切り回すように。

彼女は「糸取り女」、絹の繭から糸を取りだす仕事、と思いますが、
彼女の実家も実は食堂をしていたと言い、しっかり嫁選びをしたのであろうと!


そして1813年10月10日夜8時、若い両親に小さなジュゼッペが生まれ、
という事で、我らの主人公、未来の大作曲家の誕生です。

10月11日の洗礼記録に、「昨日生まれた」とあるそうなのが、当時の日付は
日没で変更されていたそうなので、9日の可能性もあるそうで。

そして3日後父カルロは5km離れた、中心地のブッセートに誕生届を出しますが、
当時ブッセートはパルマ公国を併合したフランス領に組み込まれており、

父親の命名したイタリア名は、ジュゼッペ・フォルトゥーニーノ・フランチェスコ・
ヴェルディ・Giuseppe Fortunino Francesco Verdiですが、

役所ではフランス語名、ジョセフ・フォルテュナン・フランソワ・Joseph Fortunin 
François と記録しているそうで・・。 



ここで博物館内の様子を少しご覧くださいね。

正面左の大きな扉が入り口となっていて、切符販売とブック・ショップで、

その隣の薄暗い部屋は、こんな大樽が貯蔵されている納屋、というか、カンティーナで、
子供がちょっと指を突っ込み、という影絵が出ますが、ワイン樽ではね。

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そしてその隣の部屋には、こんな調度が残されており、何の部屋かなと思ったものの、

7-R04_0725_GF.jpg

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博物館のサイトの写真で、そうか、塩の専売や、食料品を売っていた場所ねと納得。

9-vDoT-ZELnK0nVtIj26w_GF.jpg



そしてもう1枚、これも博物館のサイトから、まず部屋の全体をご覧いただく
食堂、飲み屋の部分を。

10-osteria-grande_GF.jpg



大きな暖炉があり、長めのテーブル、椅子。

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食事用の皿、ワイン瓶、パン、そして奥に壁に彫り込まれた棚。

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窓際に小さく切り込まれた窪みは、下に小さな火を入れ、上に鉄格子を載せ、
ちょっと肉を焙ったり、温めたりしたのかも、と。

16-R04_0730_GF.jpg



ここも今の様子では、当時の使われ方が分かりませんが、様々だったでしょう。

17-R04_0729_GF.jpg



ここは隣の部屋との境の通路脇にあった流し台、下に水の入った桶が置かれたと。

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2階への階段下の隙間利用で、様々な用途があったでしょうね。

20-R04_0733_GF.jpg



家全体の背面図が見つからずですが、今手前左に見えるのが2階への階段で、
正面がきっとかっての家、食堂部への入り口だった、家の真ん中の扉と。

21-1-R04_0740_GF.jpg



父親カルロは、当時としては珍しく読み書きができ、家博物館には勘定書きなども
残されており、食堂のみでなく、塩や一般の食糧販売も、そして郵便取り扱い等も
行う働き者で、

生まれて来た「小さなジュゼッペ」も利発で、父親の仕事を良く手伝う少年だったと。

彼の後に妹ジュゼッパ・Giuseppaが生まれますが、髄膜炎の為大変若い時から
衰弱しており、1833年17歳で亡くなります。


ジュゼッペは4歳から、村の先生であり、教会のオルガン弾きでもあった
ピエトロ・バイストロッキ・Pietro Baistrocchiにつき、個人教授で
ラテン語とイタリア語のレッスンを受けます。

確かな事は分かっておりませんが、多分このバイストロッキ先生が父親に助言し、
ジュゼッペに音楽の勉強を始める様にさせた可能性が強いとか。

6歳になると彼は土地の学校に通いつつ、バイストロッキからオルガンの
レッスンを受けますが、彼の音楽に対する興味は両親にも明らかで、

近くのマドンナ・デイ・プラティの礼拝堂の長であるドン・パオロ・コスタから
スピネッタ・Spinetta、クラヴィチェンバロの様な楽器、を買い与えます。


これが2階の部屋にあった、スピネッタの模型。

21-2--R04_0752_GF.jpg



ジュゼッペの生い立ちについて書いているのを読んでいて、
  有難い事に、彼の両親が無知無毛の農民ではなく、小さくとも土地持ちの
  商人であった、とあり、
両親共に彼の才能を感じ取り、何とか一門の者に、と熱望応援したのが
よく分かります。

余りにも熱心にスピネッタを弾き続けるジュゼッペで、遂に修繕の為に職人が
呼ばれ、修繕の後彼が弾くのを聴き、彼は支払いを要求しなかったという逸話も。


ヴェルディの卓越した作曲の才能は、勿論彼自身の勉学により育成されたものの、
息子の優秀さを感じた父親の大きなサポートもあり、
バイストロッキ先生からも愛され、無料でオルガンとピアノの実践レッスンを。

そしてバイストロッキ先生が亡くなった後、ジュゼッペはわずか8歳で、
彼の後を継ぎ、支払いを受けるオルガニストとなります。

後年、ブッセートの裕福な大商人であり、音楽愛好家で、自身も土地の
「音楽愛好家協会」長をしていたアントーニオ・バレッツィ・Antonio Barezziも、

彼の才能を信頼するのを疑わず、彼のパトロンとなり、勉学を続ける為に
様々な支援を与えるようになります。

ジュゼッペ自身は大人の間では、自分の希望を隠し勝ちだったものの、こうした
世間の評判、そして何よりも父親の強い野心に押され、進みます。



ここで生家博物館の2階の様子をどうぞ。
2階への階段。

22-R04_0741_GF.jpg



2階の屋根裏部屋。 太い梁がそのまま見え、

23-R04_0742_GF.jpg



階段からも見えた屋根の瓦葺きの様子は、こんな風に見え、

24-R04_0743_GF.jpg

ええと、いかにも隙間だらけに見えるのですが、半円形の瓦を下に並べ、
その上から逆に被せていくので、余程の横殴りの雨でない限り吹き込まないそう!


というのは、その日ロッカビアンカの城で見た、屋根裏のバルサミコ酢の
醸造場の屋根がこんな形で、吹き込まない、というのを教えて貰ったのですが、

バルサミコ酢は、夏、冬の温度差がそのまま届くのを狙っている訳で、はぁ、
このままだと人間様には暑さ、寒さが厳しいだろうなぁ、と。

住居ではなく、博物館だからこれでOK、というのでその儘置いているのかも!
ですが、細い受け材も今にも折れそう!



壁の下に置かれた小さい机に置かれたノート。 手書きの、父親カルロの
物だったと読んだ記憶が。

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かっての見学者、ヴェルディの足跡の巡礼者、達の献呈碑の様。

26-R04_0745_GF.jpg



ここが両親たちの寝室。 つまりジュゼッペ・ヴェルディはここで誕生、と。

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この窓からは下の、現在の入り口部が見え、この右横に楽器スピネッタが置かれ。

28-R04_0751_GF.jpg



窓から覗いた東裏側の、レストランの建物。 暑い日でしたので、
庇下に設置された2か所だったかの霧噴霧器から、シューシューと霧が吹き出し。

30-R04_0753_GF.jpg



少し上からの、建物の全体の形。 これで、正面から見る印象よりも、
奥が深いのが分かりますね。

31-casa_verdi-busseto-camper_GF.jpg

多分一番最初の建物は、正面の井戸の所迄、屋根の勾配がちょうど同じ長さ迄で、
左側に増築された形であるのは、壁の色がうっすらと違うので分かりますね。




1823年10歳のジュゼッペは、両親が登録したブッセートの上級学校に進み、
イタリア語、ラテン語、人文科学、修辞学を学び、

規則的に、日曜にも5kmほどの距離を戻り、教会のオルガンを弾いたそう。

続く年にもさまざまな学問、そして作曲法の初歩、様々な楽器の実践も受け、

1827年に上級学校を卒業、音楽のみの勉学を続けられるようになりますが、

13歳の彼を指導していたプロヴェージ・Provesi・礼拝堂のマエストロが、
音楽家の代理を頼み、これが彼の生地での最初の演奏お披露目となり、
大きな成功を。


1829年末にはプロヴェージの授業を、既に教えることは何もない、
との言葉で終了し、

こうしてヴェルディはブッサートのパトロン、バラッツィの家に引っ越し、
こちらが彼のパトロンになった、アントーニオ・バラッツィ氏の肖像で、

32-Ritratto_di_Antonio_Barezzi_GF.jpg



ブッサートの中心にあるバラッツィ邸。 現在はヴェルディ博物館に。

33-Dům_Antonia_Barezzi,_Busseto_GF.jpg



豪邸!

34-Casa-Barezzi-Busseto-674x438_GF.jpg


Via Roma 119 Busseto 見学もできる様子。



彼の娘マルゲリータ・Margheritaに歌とピアノのレッスンを施すようになり、
こちらがマルゲリータ・バラッツィ像。

35-Margherita_barezzi2-1-_GF.jpg


彼女とは、ジュゼッペが同居し、2年ほどレッスンを重ねる内恋仲となり、
1836年に2人は結婚します。

子供も2人生まれますが、どちらも幼くして亡くなり、最後はマルゲリータ
自身も脳炎にて死去という、わずか4年ほどの結婚生活に終わります。



その間にもミラノの音楽学校を目指すなど、この道は結局閉ざされたものの、
作曲家としての道が徐々に開け、ミラノでの芸術的刺激多い生活を
味わった彼はもう留まることが出来ず、

こうして少しづつ生地ロンコーレから、そしてブッセートからも遠ざかり、
晩年にはすぐ近くのサンターガタ・Sant’Agataに自分の農場を持ったり、
生活もしますが、


オペラ作家として大きく世界に羽ばたき、飛び出したジュゼッペ・ヴェルディ、

36-Casa-Natale-di-Giuseppe-Verdi-GF.jpg

その一番の基礎にあった、ヴェルディの生家博物館ご案内でした。


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・ 予定外だった、  山村の「ブルニャテッロ」発見、訪問記

4日から出かけて来たエミーリア・ロマーニャ州はピアチェンツァ周辺の旅、
無事に7日午後、日焼けし、あちこち筋肉痛、でも無事に戻って来ました!

何せ久し振りの車の長距離運転で少し心配でしたが、何よりも
事故もせず、危ない思いもせずに戻れたのは幸いでした、へへ。
   
予定していた計画は皆こなし、それも思いがけず上手く行ったこともあり、
  
何よりも出発の朝メールを頂いたクリスさんからの情報、最後の予定に入れていた
ボッビオの橋から12kmほど先の山中にある村が素晴らしいらしい、で出かけ、
思いがけず渓谷の間を流れる川の美しさも見ることが出来ました。

そんなこんなで最終日の午前中どうしようか、と迷っていたのが夜中に目が覚め、
そうよ、ピアチェンツァに寄って、クリムトの絵を見て戻ろう、と思いつき、
美術館近くの駐車場を探したり。

それも無事こなし、久し振りのクリムトの絵に満足し帰宅、という旅でした。


このブログは旅行の第1回報告で、3日半で撮ってきた写真が1100枚程、
で、写真整理が一番少なくて済んだ、はは、クリスさんに教えて頂いた
ブルニャテッロ・Brugnatelloの村の様子をどうぞ!

まず地図をどうぞ。

1-Cattura1b_GF.jpg



6日の朝まずボッビオ・Bobbioに出かけ、橋を2度ほど往復し、河原にも降りたり、
町中も少し歩きましたが、計画の時に感じたように町には余り特別の感じはなく、
そのままトムトムに「コルテ・ブルニャテッラ」と打ち込み、出かけました。


で、20分で到着の印が出た所は、何の変哲もない田舎の街道筋、という様子で!
横に見える道路標識にはいくつもの名があり、?!と思いつつ狭い坂道に入り込み、
直ぐ左手に見えた広い前庭で洗濯物を干していたシニョーラの姿を見つけ降り、

ブルニャテッラに行きたいのですが、この道ですか? と聞くと、
この一帯がブルニャテッラですよ。  駐車場はどこに?
下のコムーネの横にありますよ。  グラツィエ!

と前庭で車を回し、すぐ下の道斜め前に見えた「ムニチーピオ」の横のPの印に
沿って中に、確かに結構広い駐車場があり、木陰もOK.  
が川の流れは一段低い川原がすぐ横に広がるものの、「渓谷美」には程遠く!

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3-B06_1359_GF.jpg

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道路筋に出て、道向こうに見えるバールに行きジュースを頼み、ついでにトイレも。

で、日本の友達が、ここは素晴らしい渓谷美があると教えてくれ来たのだけど、と
いうと、あの山の上の教会を見たか? あっ、あれ、お城ではなく、教会ですか?

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6-1-B06_1364_GF.jpg

そうなのですね、こうして望遠で撮ってみると確かに教会の鐘楼ですが、
遠目には古い要塞跡か、と思う感じで。

歩き? と聞くので、車です、というと、2k程で行けるし、途中道端には石や木の
彫刻もあり、古い美しい教会で、道も舗装が出来ているよと。

ここまで来て「何もなかったっすよ」とではねぇ、 行ってみることに。



という所で、第2の地図をどうぞ。

6-2-Cattura3b_GF.jpg


最初の地図でもお分かりかですが、実際コルテ・ブルニェッラという村もある様で、
がコムーネ自体の名がコルテ・ブルニェッラで、その下にたくさんの村がね。


で、shinkaiが止まった所は、後で考えると大変都合の良いマルサーリア・
Marsagliaという場所で、ちょうど工事中の橋がすぐ先に見え、

バールのシニョーレが教えてくれたのは、橋を渡ってすぐ先を右に入り上って行く、
で、確かに橋を渡ってすぐの道、右に入り込む所に「教会」の印も見えたので、
ここ、ここ、と。

2kmと聞いたのに、ホンマに2km? もう2kmは過ぎたのじゃない?という程に
感じるカーヴ続きの道で、途中で左に入る道があり、ついこれかも?!と入り込むと、
坂道を降りようとする車とのギリギリのすれ違いで、
たまたま首を伸ばして様子を見ていた奥の中年のご夫妻。

別にぶつかりもせずでしたが、よそ者が入り込んできた、毛色が違うよそ者だ、と
笑いながら見ているので、車を止めて出て行き、ブルニェッラの教会があると
聞いたのですが、と尋ねると、
「ブルニェッロ」と訂正してくれ、ははは、分岐した道から左に900mだよ、と。 

左?! 右じゃないの?と一瞬思ったものの、
そうそう、ここから降りて行ったら左折だよね、と気が付き、グラツィエ!

確かにバールのご主人が言ってたように、道端には2,3か所か、石や木で作った彫刻も
見え、ほどなく終点に。 いや、もうそれ以上は車が入れないような道で、
道脇に止めるには道幅が狭すぎ、つい道脇に見えた駐車場に突っ込み止めました。

レストラン「ロッカ・ローザ」駐車場、と書いてあるのは見えたのですが、
クリスさんのメールに、美味しいレストランだそうです、ともあったものの、
この日は月曜でお休みだしとお邪魔を。



石造りのがっしり頑丈な家並みが続く中を緩やかな坂道が続きますが、
ひとまず、教会はどこ?と進むと、

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こんな風に突き当りに小さな教会が見え、あれま、修復されている、と少しがっがり。

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が、横壁も、奥の鐘楼も古い石組が見えるので安心を。



こちらは中で貧者のお賽銭を上げたついでに頂いてきた絵ハガキ。

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教会前の標識によると、サンティ・コズマ・エ・ダミアーノ教会、という名で、

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3世紀、コズマとダミアーノは双子の兄弟でどちらもローマの医者で、
シリアで殉教をされたそう。
この教会はトゥレッビア川・Trebbiaを望む岩の山頂の古い領主であった
ブルニャテッリの城跡に造られたもの、と。

コズマというので、姉か妹かと思ったのでしたが、どちらも男性の様で。



内部は少し歪な感じの、まぁ、土地柄ですね、小さな礼拝堂の様な感じで、

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左壁にあった十字架のキリスト像、 これは素晴らしいもの!

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そして素朴な聖女像。 どなたかな?

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聖水入れの鉢の上に、と思う、これはなんでしたっけ?

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内部から入り口扉に向かい。

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教会前から。

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こちらの家は、上でっ最初に様子の出たお家の壁で、

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岩盤に沿うような形で建てられているのが分かります。

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手前に、教会の周囲を巡るように道が付いており、石を使っての装飾が施され、

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教会背後は鉄柵がめぐらされ、そこに寄りかかり漸くに鐘楼と後陣の膨らみを!

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そして鉄柵から下と覗くと、これ! 
トゥレッビア川が蛇行している様子が遥か下に!!

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向こう岸に見える山を巡って続く道が、そうよ、今朝来た道じゃん!

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上の写真の左側の山の上には、この高さにまた集落が!!

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そうなんですね、地図に川の蛇行で出來た3つの空間に円を入れて見ましたが、
教会の背後から、ちょうど3か所、川原というか、蛇行の隙間が見えるのです。

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上の最初の道の曲がりは、地図での一番上左の最後の位置の小さい洲で、



そしても少し大きな洲が見え、

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そして最後、右に動いていくと、上流側に一番大きな洲が出来ており、

28-1-B06_1385_01_GF.jpg

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地図にある「Spiaggia xx・スピアッジャ」というのは、浜辺の意味で、

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ほらね、実際に水遊びしている家族の姿が見え、

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川原にはタオルが広げられているのも見えます。 
水深が深い所は美しい緑色で!



遠くに渡って来た橋も見え、町の左奥にも川原が広がり、
きっと水遊びの場所もね。

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教会後陣を回り、北側の壁。

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教会前の、道の左側のお家、村で一番高い位置になるお家で、屋根は石葺き、

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お家の呼び鈴は羊君。 

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道もすべて石敷で、

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下のお家。 きれいに整えられていますねぇ。

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下ってくると、こんな感じの小さな広場もあり、

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脇に、共同の洗濯場があり、水貯めと、石鹸をつけての洗い場と。

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この村のすべての住民数は11人なんですって!と教会前で出会った、
自転車で来たシニョーラが教えてくれましたっけ。

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このお家の前庭も石を使った飾りで、椅子も石製で、

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窓の覆いも、自家製の頑丈な板に手彫り彫刻で。

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がっしりの石の家に、きっと何世紀前からのご先祖様からの石造りの家で、
窓の覆いも木製手作りで、夏の今はこんな様子ですけど、冬はどんな?!

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こちらが村の入り口にあるレストラン「ロッカ・ローザ」で、これはgoogleの
ストリート・ヴューから拝借を。 右奥にテラスのテントも見えました。

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内緒で駐車させて貰っているので、中から大きな話し声は聞こえるものの、
休みのせいか看板も無し、「バールはしてません」の札も見えたので、
そそくさと引き上げ、車を回し山を下ります。



きっとこういう山の中の店は、肉料理が多いのだろうと思ったですが、

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トリフをのせたニョッキの写真もあり、そうか、これなら食べられたなぁ、と!
まぁ、お休みでしたし、早々に退散したのでした。

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行く時はまるで目に入らなかった山頂が、帰りには良く見える位置に、これ!!

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かなり遠くから、あっ、あんな岩山の天辺にあの教会があったんだねぇ!!


まぁ、いずれにしてもあの道は、ボッビオからも、宿をとったガレッツァーノ・
ヴィスコンティからの途中からも山道にかかり、細いカーヴ続きの上り下りで、
だいたい車が何台か連なり、70k制限の道でも80~90kで走る
緊張を強いられる道でしたから、

余程の興味が再度見つからない限り、今回で最後ですねぇ、ははは。


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・ 旅の計画 ピアチェンツァ周辺・ 要塞、城4、庭園1、生家博物館1、橋1、村1

4日朝から出かけて来ますので、更新予定を早め、旅行日程を。

昨年、今年にかけコロナでのロックダウンの為、ヴェネツィアに2度行ったのみで、
まるで旅行とは縁のないままで過ぎた生活でした。 が、

この夏はイタリア中が白ゾーンになり、ワクチン接種も進み少し収まりつつの
感ありで、観光客密の夏の暑い間は避け、9月早々には出かけたいと、
7月末頃より計画を。

が、それでもひょっとして黄色ゾーンに変更になるかも、との懸念もあり、
実際に宿や見学予定の予約を入れたのは8月20日過ぎでしたが、
お蔭で宿は1か所予定外となったものの、見学予約はすべてOK、
黄色ゾーンに変更も無しでやり過ごすことが出来・・、  という事で、

4-7日迄3泊で、エミーリア・ロマーニャ州のピアチェンツァ周辺に行って来ま~す!

ピエンツァ周辺にという狙いの発端は、ピアチェンツァから南西50k程にある
ローマ期の橋ポンテ・ゴッボと呼ばれる橋、2年前に知り一目ぼれ、見たい!!
いつか!と思い込んでいた橋を見に行こうと決め、

1-panorama-di-Bobbio-e-Ponte-Gobbo-o-del-Diavolo_GF.jpg

n.1 イタリアで一番美しい橋30 ・ ローマ期 中世、近世の


ではその近辺で他に見たい場所は? と地図を広げてみると、なんとパルマ南の
トッレ・キアーラのあの素晴らしい要塞を自分の愛人の為に作った
ピエール・デ・ロッシの本城のあるサン・セコンド・パルメンセ、
そしてそのすぐ近くにこれまた愛人ビアンカの冬の城として造った
ロッカビアンカがあるのに気が付き、

n.1 トッレキアーラの城、パルマ ・ 美しく、守備堅固、そして愛の巣の

n.2 トッレキアーラの城、パルマ ・ 美しく、守備堅固、そして愛の巣の


2つの城とも土曜、日曜にガイド付き見学OKとも知り、さっそく計画に。

もう1か所はかなり以前にネットで見つけたグラッツァーノ・ヴィスコンティ
という村、中世風を残した村で、城と庭園が見学OKという事でこれは是非にと。

そしてその他にもう1か所回れそう、と調べた所、やはりヴィスコンティ家の
要塞の残るカステル・アルクワートが良さそう、
そしてロッカビアンカの要塞見学の後、近くにあるジュゼッペ・ヴェルディの
生家博物館にも寄れそう、とこれも追加。


という事で、3泊4日と、最初の予定を1日伸ばした計画を作りましたので、
嬉しいぃ、へへ、予定を見てやって下さいね。


1日目 9月4日土曜
我が家を朝7時出発、サン・セコンド・パルメンセ・San Secondo Parmense
迄2時間47分。
この行程で高速を行く時はヴェローナ・Verona近くのSSで一服、で、

2-1. conegliano-san secondo parmense  2 ore 47 min_GF.jpg



サン・セコンドの城の見学予約は11時ですので、急がずに到着できると。

3-ssecond1_GF.jpg

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大体1人で車で出かける時は、グーグル・マップで到着地の駐車場事情を調べ、
焦らずに済むようにしますが、今回も大丈夫と。



サン・セコンドの城の見学は約1時間15分程という事で、次の予定の
ロッカビアンカ城までは10分程で、城見学は15時からですので、
お昼もゆっくり済ませられると。

5. san secondo- roccabianca  9 min_GF_1.jpg


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この城の見学も約1時間で、



見学後20分程で行けるジュゼッペ・ヴェルディ・Giuseppe Verdiの生家博物館に。

8-roccabianca-casa natale di verdi 20min_GF.jpg


生家の西上に見えるブッセート・Bussetoには、国立のヴェルディ博物館も
ありますが、音楽勉強の為の見学ではなく、生家の方が親しみが湧くだろうと
思いこちらの見学を。

9-Casa-Natale-di-Giuseppe-Verdi-674x438_GF.jpg

10-Casa-natale-Giuseppe-Verdi-interno-580x380_GF.jpg



まぁ5時頃には見学も済み、初日の宿をとったカステル・アルクワート・
Castell’Aequatoに向かいます。 24,3km 26分

11-casa natale di g.verdi - str. fiorenzuola2_GF.jpg

本当は小さな町の中に宿を取りたかったのですが、閉めている宿が殆どで、
後は空きがなく、でも偶然に見つけたのが安くて良さそうな宿で満足。



2日目 5日 日曜
カステル・アルクワートのヴィスコンティ要塞の見学は、日曜は30分おきに
というので一応10時からと予約したものの、ひょっとしてちゃんと見ない内に
締め出されたら意味ないやん、とメールで尋ねると、
(辞書を引かないといけない知らない単語で、はは)これは割り当て時間の配分です、
と返事が来たので、
ではぁ、11時からの予約も、と送ると、予約確認しました、とのみの返事、きゃはは。

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13-castarq12_GF.jpg

カステル・アルクワートの駐車場は町の裏側の無料駐車場を見つけたので、
そこから細い道を辿り、表の要塞側に出てくるつもりです。
ちょうど古い町の細い坂道の様子も分かるし、ここはとても楽しみです。



そして最後に予約したグラッツァーノ・ヴィスコンティ・Grazzano Visconti
城と庭園はいずれも1時間15分程で、先行予約のみOKという事、
しかも土・日のみで、日曜にどちらも見たいと思うと城を14時半、庭園を16時に、
という予約しかshinkaiには都合付かずで、

カステル・アルクワートの要塞見学が済んだら、お昼を済ませ
グラッツァーノ・ヴィスコンティ迄来て、宿の駐車場に車を置き、見学に。

14-castell'arquato-grazzano visconti 32min_GF.jpg



グラッツァーノ・ヴィスコンティの町、というより村は、映画監督ルキーノ・
ヴィスコンティのご先祖様が持っていた地だったのが、巡り巡って彼のお祖父様の
手に戻ってきて、ルキーノのお父様が、中世風の面影漂う村に変身させたのだそうで!

それを読んだ時に、なんとまぁ、ルキーノ・ヴィスコンティのあの映像美の
素晴らしさは父譲り、いや、ご先祖様からの血なのかもと驚いた事で、
ゆっくり見る為にもここに2泊を。

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そしてここから40分ほどで行ける念願のボッビオの橋に出かけますが、

17-grazzano visconti-ponte di bobbio 37min_GF.jpg



橋の架かる位置が東から西に直線の位置なので、光の当たり具合がどうなのか、
あれこれ写真を集め、朝から昼の影の位置は分かったものの、何とか午後の陽差しも
見たいと思い、5日の夕暮れ時に、そして翌日か翌々日の午前中に再度と。

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まぁ、6日月曜は1日中、7日はお昼過ぎまでの予約なしの日なので、
お天気と相談しながら、と。



目の問題を抱えているので、この時間帯までは、とぉぉ、ですがぁ。

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いずれにしても、久し振りの旅行で焦らず、ゆっくり楽しみたいと思います。

では、行ってきま~~す!  お天気になるよう、願ってやって下さいませぇ。


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・ 夏休みも、夏も終わり・・、 突然に訪れた変化、アフガニスタン・・

皆さま、お久し振りです、こんにちは!
1か月半の長い夏休みを頂き、元気に無事ブログ復活に戻って来ました。
有難うございましたぁ!!

イタリアは先週辺りから涼しくなり、日中は暑いものの、とは言え26,7度位で、
時に朝夕は肌寒い程の時もあり、あ、これは北イタリアのお話で、南はまだ少し
暑い様ですが、やはり季節は確実に秋に向かっている感じです。

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7月末からのオリンピック、イタリア勢の活躍が嬉しく、ついつい号外並みの
記事も2度更新しましたが、

オリンピックが済み1週間後の15日、浮かれ頭に冷や水をかけられたみたいに
世界状況が一転してしまいました。



そう、アフガニスタン情勢で、「タリバン軍が首都カヴールに迫っており、
早ければ明日、明後日にでも」と、13日だったか報道があり、

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それ迄は最近まるでニュースに出る事がなかった、そこまで世界情勢に
目を配っている訳ではない人間には驚きの突然のニュースで、


その通り、国からの脱出を試みる市民たちが飛行場に押しかけ、
飛行機にしがみつく様子もあり、

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大変悲惨な、飛行機から落ちる様子も報道されましたが、
それ程までにタリバンの侵攻を恐れ、自国から逃げようとしたアフガン人の様子。



これはアメリア軍による、800人もの!救助の写真は、驚きでしたね。

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機体の長さが53mもあるという巨大な運送機ですが、平常は150人程の兵隊や
パラシュート兵の輸送に使われるものが、機体実力としては!76655kg持ち上げられ、
つまり800人までが可能なのを活用した様子で、
到着したカタール空港の司令部は驚きのあまり、絶句したそう!



15日には早くもカブール市中のタリバン兵の情勢がニュースの殆どを占め、

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即イタリア空軍による第一陣の脱出が15日に、イタリア人、並びにアフガン人の
協力者たちの脱出が始まり、

既に各家を探し回るタリバン兵の様子も知らされていましたから納得で、

最終日8月31日を控え、28日に戻ってきた脱出の人々を乗せた何回目かの
空軍機が最後となり、5000人ほどのイタリア人、アフガン人を救出したそう。

今朝8月31日のニュースでは、アメリカ軍の最後の引き上げのニュース、
国奪回の喜びで空中に発砲するタリバン兵の様子が映りました。



日本からは遥か彼方の国アフガニスタンですが、イタリアは近く、国連軍も
派遣してましたし、とりわけ以前には特派員、ジャーナリスト達の死傷者もあり、
逐次報道され、大変身近に感じていた国ですので、改めて見つめています。

国の軍飛行機による脱出援助は最後になりましたが、イタリアの大学には
かなりのアフガン人学生が入学しているのだそうで、

ローマ大学の女学生81人がカブールに足止めを食っている、というニュースには、
80人、という数の多さにも驚きましたが、
パドヴァ大学在のアフガン学生からも学長宛に、学期初めには戻れないが、
授業迄には戻りたい、とのメールが、というニュースもあり、
これらは表面に現れたほんの一部でしょうし、

将来を夢見て頑張るアフガン女性、若者達にタリバンのイスラム原理主義が
及ぼすであろう再びの自由閉鎖、単なる形での存在のみ、を考えると
やり切れない思いが沸きます。

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既にアフガニスタンのラジオ、テレヴィからは女性の姿、声が消え、音楽も禁止、
有名なフォーク歌手やコミック役者が処刑された、という報道もあり、

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学校は既に閉鎖されたままで、とりわけ女性達の自由、権利を認めない
タリバン政権がイタリアの大学に学生達を戻すとは思えず。


この20年間のすべてが消えてしまい、あの国はどうなって行くのでしょうか?

様々な国の存在様式、形態がある事は承知していますが、非情、過酷です。



今日はそんな様々に報道された中から2つ取り上げてご紹介いたしますね。

1つは、かってイタリア軍に何度か協力していた、という女性の救出で、
名前はガザル・Ghazal 無事救出されたので、名前を出しても大丈夫と、28歳。   

詳細はこの記事から。 

ヘラ・Herat、カブールから西800kmに住むジャーナリストで、5人の同僚と
協会を作り、国のテレヴィ局やラジオにも出演し、国の事、女性の権利、
自由についても話し、
で、ヘラにイタリアの派遣軍が駐屯した際には何度か協力していたのだそう。

1年前に最初の脅迫状が届き、8月15日以降は家を捨て居場所を変えざるを得ず、
彼女はついにかって働いたイタリア軍に援けを求める決心を。

一方イタリア軍は彼女を覚えており、救出を決め彼女に連絡。
が救出機に乗るためにはカブールに行かねばならず、彼女は夫と2歳の息子と共に
月曜23日にヘラを出発。

800kの距離をどの様に?! この様子は分かりませんが、
カブールに到着後は空港を彷徨い、何とかイタリア軍に連絡を取ろうとしても
大変難しく危険。

遂にイタリア側から彼女にワッツアップの音声伝言で、
「トスカーナ」と叫ぶようにと。

が、彼女が「トスカーナ」と叫ぶと、それを聞いた周囲のアフガン人達も
救出の印と察し、一斉に同様に叫び出す始末。

最後にかって一緒に働いたイタリア軍から、彼女に段ボール紙に書くように、と助言。

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実際、軍警察カラビニエーリのパラシュート部隊「トスカーナ」が、遂に木曜26日に
彼女を見つけ出し、彼女の家族ともども救出したのだそう!

まさに最後の最後の救出に間に合って良かった!! 

  遠く離れていても決して我々に知らぬふりをしなかった、イタリア軍に感謝します。 
と、彼女は言い、同僚たちも救えるように、ジャーナリストの声、国の女性たちの声を、
我々の苦しみと問題を伝えられる機会を持てる事の幸運を感じます、と。


彼女と家族は既に4832人のアフガン人と共にイタリアに到着、何も持たず、
着たままの身一つで、コロナ検査を済ませ、現在は用意された
自粛の為の建物に収容中。

この5000人近いアフガン人のうち2000人近くが子供達で、イタリアで育ち、
教育も受け、そしていつか自国の為に働けるようになる事を願います!



もう1人お話ししたい方は、イタリア大使館のトンマーゾ・クラウディ・
Tommaso Claudi.
塀の上から、泣いている子供を救い上げている写真が大変有名になりましたが、

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防弾チョッキをつけ、ヘルメットでの彼。

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彼は緊急事態が始まり、最初の救出機でイタリア大使のサンダッリ氏・
Sandalliが帰国した後は、アフガンの外交官関係では唯一の代表者で、
大使が最初に帰国したのは、イタリア外務省の指示であった、との説明もあり、

残った彼をコンソリ・consoli・領事と報道することが多かったものの、
実際の肩書は二等書記官の31歳、8月30日の誕生日になったばかり。

マルケ州カメリーノ出身、パヴィア大の言語学、ミラノのカトリック大での
国際関係学の2つの学位を持ち、2017年9月から公使館勤めの試用となり、
2018年6月に確認決定、
2019年1月からカブール大使館2等商業秘書として赴任したのだそう。

がタリバン侵攻が始まり緊急事態となると、それまでもアフガン人援助に
尽くしていた彼のトゥイッターやインスタグラムには、カブールで身動きが
取れなくなった人々の救出願いが届き、

空港に寝泊まりしての、仕事、義務を超えてイタリア人、
関係アフガン人の救出に働き、


最後の救出機に乗っての帰国でした。

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ローマ・フィウミチーノ空港に迎えに出たルイージ・デ・マイヨ外務大臣は、
  君がしてくれたすべての事に感謝します。 君は国の名を高めました。
  君は我々全員の兄弟でした。 我々は欧州連合で最初の避難(を成し遂げた)
  国です。おめでとう!
と称えました。

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あの混雑の中、短い緊急の時にあり、イタリア軍と連絡を取りつつ、最後まで
残っていた30人ほどのイタリア人のみならず、
かってイタリアと関係を持ち、タリバン政権になった後は命の危険がある
アフガン人を救い出す作業は、言葉にできない程の難題だったでしょうが、

緊急の時に当たり、義務以上に人々を救う仕事に邁進された人々がいた事に、
日頃平和な中に暮らしている有難さを振り返り、改めて感謝したことでした!!


気が付かれましたか? カブール空港での彼の顔は髭面ですが、
ローマでの写真は綺麗に剃っていますね。 きっと飛行機の中でね。
アフガンでは、向こうの男性の中で違和感ないよう髭を蓄えていたのでしょうね。


同機で帰国した、NATOへの国の民間代表のステーファノ・ポンテチェルヴォ大使、

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デ・マイヨ外務大臣に、
 一県の人口並みの12万人を救助しました。(この数は救助に当たった国全部での数と) 
 救助に当たった飛行機の40%はアメリカ以外の飛行機ですが、
 アメリカの究極の技術的専門知識のおかげと、すべての援助でできた事、
と強調したそう。



カブール空港がこんな凄い地形の中に存在するのも初めて知りましたが、

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いつか再びニュースに、平和な話題の国、空港、として登場するのを願いつつ・・。


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