11月最後の今回は、ラファエッロのロッジェ・Le Rogge di Raffaello
と呼ばれる素晴らしいガッレリーアが、ローマはヴァティカン市国にあり、
その精密なコピーがロシアのサン・ピエトロブルゴのエルミタージュ美術館に!
というご案内です。
こちらがヴァティカンにあるものですが、
「ラッファエッロのロッジェ」なるものを勿論見た事も、聞いた事もなく、
おまけにエレミタージュ美術館に素晴らしいコピー作品があり、
オリジナルの修復の際には、修復者たちがサン・ピエトロブルゴまで
視察に行った、というので、へぇ~っと驚き、
序に、そのガッレリーアの忠実な、原寸大のコピーを欲しがり造った
エカテリーナ女帝の私生活、とりわけ夫を退廷させ、自分が女帝となり、
何十人もの愛人を次々に持った、とか読むと俄然興味が増し、ははは、
おまけに、おまけに、「エルミタージュの猫」と呼ばれる猫たちが何十匹も!
宮殿内、庭にいる!となっては、はぁ、頑張って読むしかなく、
今回参考にしたサイト記事は
ロシア皇帝宮殿のラファエッロのロッジェ これを最初に見つけ
ラファエッロのロッジェ・Logge di Raffaello ヴァティカンのサイト
ラファエッロのロッジェ・LE LOGGE DI RAFFAELLO
他にもそれぞれウィキペディアの記事などを参考に。
shinkaiめは、ロシアにも、サン・ピエトロブルゴにも行った事なく、
読みながらの疑問を埋めるには、あれこれ読む、写真を見つけるしかなく・・。
という事で、ではどうぞ!
まずオリジナルのラファエッロのロッジェ、単数だとロッジャですが、
ロッジェと呼ばれるのは2つあるからでして、
ヴァティカンのどこにあるのかと、アポストリ宮殿の3階・イタリア式には2階、
という説明からヴァティカンの地図を探し、印を。
このロッジァ部の建設はブラマンテ・Bramante(1444-1514)が、
ジューリオ2世(1443-1513)の意によるニコロ3世教皇を偲ぶ意図で設計。
ジューリオ2世・ユリウス2世。 「闘士の教皇」とも呼ばれ、
システーナ礼拝堂に、壁画を嫌がるミケランジェロに描かせた事でも有名な方。
ブラマンテの没後は、ラファエッロ(1438-1520)の監督により、レオ10世の
元で作業が継続されたというもの。
ラファエッロ自画像。
ほじくりshinkaiは、なぜ昔のニコロ3世教皇(1216-1280)を偲ぶ為に、と
思いちょっと検索しましたら、
ヴァティカン内に住み亡くなった、最初の教皇様なのだそうで、成程ぉ。
ヴァティカンの「ラファエッロのロッジェ」は、漆喰とフレスコ画での装飾で、
「ラファエッロ」の名が冠されていても、
ラファエッロ自身が壁にフレスコ画を描いたわけではなく、
「ラファエッロと彼の工房に委任」され、というのも、当時のラファエッロは
同じヴァティカン内の部屋に描いており、他にもたくさんの仕事を抱え忙しく、
ラファエッロは装飾全体のデザインをし、それを工房の画家たちに渡し、
監督をという、1517から1518年、そして1519年最初の数か月間の仕事に。
ガッレリーアの長さは65m、幅は4mで、それを半円をかたどるアーチで13に
区切られ、
その最初の12区画には旧約聖書の逸話を、最後に福音書の逸話を。
フレームで囲まれた4つの物語があり、
隅にはグロテスク模様などがあり、中央には紋章、その他の人物が、というデザイン。
ヴァティカンにあるロッジェについては、
ラファエッロのロッジェ・古代、聖書、工房、富・幸運 という本が出版され
Le Logge di Raffaello: l’Antico, la Bibbia, la Bottega, la Fortuna
著者はベルギー出身ニコール・ダコス女史、「ヴァティカンの記念碑」の第2巻。
つまりラファエッロは37歳の若さで亡くなったものの、その芸術的、組織的な
天才的な業績の最高なものの1つであり、
ルネッサンスから20世紀にかけて、芸術家たちに大きなインスピレーションを
引き起こし続け、
ロシアのエルミタージュ美術館の大きなものから、アメリカはワシントンの
大統領官邸の廊下に至るまで、受け継がれているものと。
工房の作品の中には、余り上等でないものも含まれているのは仕方なく、
保存も悪く、後に既に描き直されたものもあると言いますが、
見つけたフレスコ画は、かなりラファエッロの面影を感じさせるので、どうぞ。
場面が、何の逸話からか分からないのが残念。
現在このロッジェは見学できずですが、いつかチャンスがあるよう
願いましょう。
という所で、イタリアはローマのヴァティカン市国から、ロシアに移りまして、
サン・ピエトロブルゴ、かっての帝政ロシアの首都に、2世紀以上に渡り
ロシアを統治したロマノフ家の王宮として生まれ、
かっての冬宮殿が現在のエルミタージュ美術館の本館に。
ネヴァ川を挟んで見るエルミタージュ建物群で、左から劇場、橋、旧殿、
小殿、そして一番右の大きなのが冬宮殿と。
新エルミタージュは旧殿の背後にあり、ここからは見えないと!
1762年エカチェリーナ2世(1729-1796)は、夫のピョートル3世を
クーデターにより退位させ、ロマノフ朝の第8代ロシア皇帝となりますが、
2人ともドイツ系家系からのロシア入り、つまりどちらもロマノフの血も引かず
ロシア人でも無い、いわゆる外国からの取り婿、取り嫁、という形で、
結婚後も夫婦仲は良くなく、婚姻関係無しも同然で、
彼女はロシア語を習得、貴族国民に支持される努力を惜しまないのに対し、
夫はドイツ風にこだわり続け、周囲の反感を買い、
皇帝に即位後6か月で、エカチェリーナ2世皇后は近衛連隊を始め主要軍、
反ピョートル3世の貴族たちを味方に、ほぼ無血のクーデターに成功。
皇帝は廃位幽閉の後、暗殺され、公式には持病の痔の悪化で急逝と。
余り美貌とは言えなくも、優れた頭脳を持ち、知性や教養を磨く努力をし、
皇帝となってからは啓蒙君主を目指し、近代化諸政策に着手したり、
それらはあまり成功せずも、大エカチェリーナ、と呼ばれる、
34年に及ぶ在位を保ち、立派!
6人の子を出産、うち男子2名。 が、最初の2子は夫ピョートル3世が父、
との公式発表ながらも、後の子もすべて父親が違う、はは、立派さで、
生涯に約10人の公認の愛人を持ち、凄い数になる伝説もありますが、
45歳頃10歳年下のポチョムキン・タヴリチェスキー公爵と結ばれ、
家庭に恵まれなかった彼女にとっては生涯唯一の真実の夫、ともいえる、
私生活のみならず政治家、軍人として、女皇帝にとっての不可欠の
パートナー。
秘密結婚をしたとも言われ、1775年彼女が46歳の時に2人の実の娘
エリザヴェータ・ポチョムキナも生まれますが、
1791年ポチョムキンは先立ちます。
彼の死後にも若い美貌のご寵臣2名程名が上がり、これもご立派、ははは、
67歳の生涯を全うされた大エカチェリーナ皇帝の生涯でした。
さてエカチェリーナ2世は戴冠後、宮廷を存在する最高の作品で飾る、
最高の宮廷としたく、
フランス人の百科全書家、言葉の意はそのまま、フランスの百科全集の
編集執筆者で哲学者のデニス・ディドロ・Denis Diderotに、
市場に出回っている全ての傑作を、とりわけフランス市場での作品を
全て購入する、という任務を。
と、1764年ドイツのゴッツコフスキー・Johann Ernst Gotzkowskyが
エカチェリーナ2世に売った絵画がエルミタージュ・コレクションの基礎となった、
というのもあり、
この後に欲が出て、本気でフランス市場の絵画を全部集めようとしたのかも、
ですね。
こうして女皇帝は世界最大のコレクターとなった訳で、いずれにしても
エカチェリーナ2世がラファエッロに出会う事は避けられず、
1778年9月1日、秘書のフリードリヒ・メヒオール・フォン・グリム男爵に、
18世紀末のイタリアの重要な版画家であったジョヴァンニ・ヴォルパート・
Giovanni Volpatoが描いた、
ローマの「ラファエッロのロッジェ」の天井の版画を見たと書いており、
このロッジェの雰囲気に打たれたエカチェリーナ2世は、同じ大きさのロッジェ、
同じ絵画を自分の宮殿に持つ事を切望します。
こうしてイタリアの建築家ジャコモ・クワレンギ・Giacomo Quarenghiが
命に従い、ヴァティカンのアポストロ宮殿のロッジャの正確なコピーを、
非常に短期間で設計、構築を。
ジャコモ・クワレンギ(1744-1817)は画家建築家で、ヴェネツィア共和国出身。
新古典主義の建築家で、A・パッラーディオの作品に心酔し、ロシアに於ける
新古典主義建築の主たる建築家として活躍、
エルミタージュの建築群の、劇場とその横の橋は彼の作品で、他にもあれこれ
ある様子ですが、この橋から受けるイメージは、まさに溜息橋ですよね?!
彼はサン・ピエトロブルゴで亡くなっています。
そしてヴァティカンのロッジェに描かれた絵の模写は、オリジナルはフレスコ画、
実際の壁に下地を作り、その上から水溶きの色で描くフレスコ画ですが、
このサン・ピエトロブルゴのロッジェの絵は、カンバス地に油彩で描かれました。
エカチェリーナ2世が絵の注文を出したのはクリストフォロ・ウンテルペルジェル・
Cristoforo Unterperger(1732-1798)
彼はイタリアのトレント出身ですが、ローマに行き、40歳位から活躍し、
新古典主義画家として、値段の相場が高い画家の1人として有名で、
彼の作品「聖母と聖女アニェーゼ」 聖母の顔の絵の具が剝げ、残念!
1778年エルミタージュの宮殿用に、「ラファエッロのロッジェ」の
コピーを描く、という注文をエカチェリーナは出します。
こうして何年もの間、ウンテルペルジェルの工房は「ラファエッロのロッジェ」
の作品工場!となり、ローマの街の主要なアトラクションの1つだったと、ははは。
1787年9月、ローマにいたゲーテは、出来上がった作品を梱包する前に、
この有名な新しい作品を称賛する時間があったそうで!
つまり作品、並びにロッジャの準備に約11年間かかり、装飾用の画布、
漆喰の準備、そして天井を同じ長さの長方形に分割する半円形アーチの
再現には、多大な注意が必要だったと言いますが、
出来上がり、現在も残る「エルミタージュのラファエッロのロッジャ」は
この様に大変に煌びやで、美しい物!!
ヴァティカンに残るロッジェも美しいでしょうが、こちらは金色が盛大に
使われ、如何にも女皇帝の宮殿らしく、華やかに、ね。
中には、こんな猫ちゃんの絵も混ざっている様子で。
サン・ピエトロブルゴとローマの繋がりが、16世紀に生きたラファエッロの
ロッジャが、19世紀に遠いサン・ピエトロブルゴで蘇り、再生された
このお話は、ロシアの女皇帝が持っていた莫大な財産の証言でもあり、
また何世代にもわたる芸術家たちにインスピレーションを与える為の、
「世界の芸術学校」ともなった、と。
最後は、夜の明かりが輝くエルミタージュを、広場の方から。
エルミタージュ美術館にはルネッサンス期のイタリア絵画がたくさんあるのは
知っていましたが、余りにも建物がキンキラキンで避けていたのが、
興味深い逸話を知り、なんとなぁ、という感嘆のshinkaiで~す。
でも、もともとフランス語を宮廷で喋る程だったロシアのフランス寄りが、
ラファエッロの絵にイチコロとなった、というのがね、うふふん。
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