・ 今年最後のブログとなりました。 大きな思い出に残るのは、映画の・・

皆様には、クリスマスの思い出ももはや遠く、・・日本は忙しなく、
既に年越しの様々な準備に追われておいでかも知れませんね。

こちらイタリアは25日のクリスマス、26日のサント・ステーファノの
祭日は連休となりますが、その後はずっと平常運転のカレンダーで、
1日は元旦の祭日の後、6日までがクリスマスの余韻が残り、
飾りつけもそのままで過ぎます。

ので、クリスマスは友人のジュリアーナが来て、飲み食い、はは、
DVDフェスタ2本立て!をしたものの、それ以外は平常運転。

これを書いている28日も特別な事もなく、大掃除もなく、へへ、
野菜類は24日にお隣からど~んと届きましたので!!
明日はスーパーに果物類を買いに、と思っています。

今年も暫く前からスーパーに並ぶ「Shinano gold」のリンゴ!
こちらでは「Yello」という名でも出ており、
シャキシャキと甘くジューシーで、今年も友人達にもね。

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昨年のクリスマスの朝、ベルギーのファイザーの工場から第1弾の
ワクチンが届いた、と先日TVニュースに出て、ああ、そうだったっけと。

国中がワクチン接種に追われつつ、この1年は少し気持ちが慣れつつ、
時に息抜きをしながら、でも季節の移り変わりを余り感じる事もなく
過ぎてしまった、そんな気がします。

机に向かい絵を描きつつ、PCに向かう毎日ですが、
それでも時に大いに気持ちが高揚し、元気を貰える事があり、
案外皆さんも同じかも、とそんな幾つかを、今年の最後にここに。


映画大好きのshinkaiですが、映画館には行かず、TV放映を録画で
楽しみ、気に入ったDVDを、という流れですが、

今迄で一番に、自分も絵を描いている者として嵌ったのが、
ある画家の数奇な運命」、イタリアでは「作家名無しの作品」とでも。

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ドイツの画家ゲルハルト・リヒター・Gerhard Richter(1932-) 
現存の世界的に有名な画家を取り上げた作品であることも知らずに
見たのでしたが、

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今迄画家が主人公の映画を何本も見ても、1度も画家らしいと思わず、
まぁ、どんな人間が画家かと言われると、それも答えに困りますが、
絵を描く場面でちょいちょいとなぞる、というか、描くふりをする、と
いうのがモロでしたが、

今回初めて何とも素晴らしい「描く場面」が見れ、画家が次の段階
へのインスピレーションを得、新しい世界に踏み込んでいく様子が、
大変明快に描かれていて、初めて映画の「描く」場面に魅せられました!


未だ戦時中のナチス統治下の、かっての東ドイツのドレスデン生まれ、
叔母さんが精神病と診断され強制入院、そして優勢政策により殺害。

そして後年美術学校で知り合った恋人、後に結婚、の父親が、
叔母の処刑に手を貸していたナチの医師であったこと等などが絡みますが、

東ドイツ側で美術学校に通い、優秀な画家として労働者賛歌の
スローガン壁画を描いていた彼が、他のモチーフは堕落、という
社会的に描けなかった事情もあり、

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ベルリンから東西ベルリンに分断される、その数カ月前に西側に脱出し、
今度はまるで空気の違うデュッセルドルフの美大に。

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西ドイツでは既に「古い絵は死んだ」という空気で、新しい美術、
絵画に取り組むものの、

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新しいアトリエを与えてくれた教授の言葉通り、「自分は何を描きたいのか」
に迷い、答えも出ず、何も描けない状態に。

そんな時に出会った1枚の写真、ナチスの優勢政策に加担した
医者逮捕の新聞写真に目が留まり、
叔母の死にも関係がある事から彼の内に潜んでいた何かが触発され、
写真を元に描き、

持ち出していたかっての家族写真の中から、叔母に抱かれた自分の
ポートレイトを。

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映画に使われた絵は、実際に画家が描いたモチーフ写真とは違い、
最後の写真で分かるように、映画の中の叔母さんは年齢が上ですし、
アトリエの写真右下に見える様に、医者を描いた写真も違うもの。

映画の中で描いたのは、実の画家のお弟子さんだと読みましたが、
グレイの濃淡の諧調の美しさと、緩めに溶いた絵の具で描き、
アウトラインで締める的確さ! その達者さに魅せられました!!


そして上の3枚目写真で分かる様に、彼は一旦描きあがった絵を前に暫し考え、

アトリエの大きく開いた窓の外では木の葉が揺れ、空気、風が流れ込む、
というシーンで表現されますが、

彼は太い刷毛で、まだ乾ききらない画面の上をそ~っと横に掃き、
線、筋を付けるのですね。


この線、筋を入れる事により、生の写真から絵画作品になるというか、

画家の今迄の作品との一線を画す、画家が今迄の自分の作品を
飛び越える印象を明確に表している事に、

今まで見た画家の映画では見なかった場面に、
一気にこちらもカタルシスを感じ、大いに高揚したのでした!!



画家は、映画化の話にはOKを出したものの、実際の映画には
大いに不満を持った、怒った、とも知りましたが、

そう、多分画家が話した自分の過去の逸話も、映画の嘘ではなくとも、
他人が実在の場面として描くとまるで違ったものになる、という
見本の様な物と想像します。

百聞は一見に如かず、という言葉通り、映画の中の1枚の絵、
1つの場面が画家の話以上に説得力を持つ、という事だと。


画家のその後の絵の変遷では、人物画、風景があり、その後は抽象画に
なっている様子ですが、

今回あれこれ探した過去の作品に、私めの好きなもの、美しい、凄い、と
思うものが何枚もあり、その中の幾つかをここに。

10-S. mit Kind, 1995  b9d7-4bf0-bc0f-c317a09ec421_GF.jpg

11-Ella, 2007  -6a8f-447d-8dd4-db0ec5563991_GF.jpg

12-Lesende, 1994 f08-45bd-9dcc-cf6c991bbf6b_GF.jpg

14-Gerhard Richter, Iceberg, 1982, olio su tela_GF.jpg

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16-Richter Studio di Nuvole Grigio Blu – 1970_GF.jpg

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これは映画の中に出てくる場面、但し、これは絵ではなく、叔母さんが
バスの駐車場で止まっている何台ものバスに一斉にクラクションを鳴らして貰い、
その騒音の中で恍惚とした状態になる、という場面で、

10-Opera-senza-autore-Never-Look-Away-_GF.jpg

これはちょっと凄かった!

映画の最後では、初の個展を終えた画家が、同様にバスの駐車場で頼み
クラクションを鳴らして貰い、思い出を回想する場面に。


他にも何本も楽しみ、興味を持った映画もあったのですが、
この映画には強烈な印象を受け、何度か見直し、
絵を描く者としても、具象画の方には学ぶ点を幾つか見出したのでした。


***


もう1つこの夏大きな感銘を受けたのに、
松岡和子さん、シェークスピア全集33巻を完結」というニュース!

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28年間の歳月をかけ、シェークスピアの戯曲37作品を訳し、
今年5月に全集33巻を完結させた、というもので、

若い頃はシェークスピアの大きさに圧倒され遠ざかっていた松岡さんが、
遂に覚悟を決め翻訳に取り掛かったのは54歳の時、

そして28年の歳月をシェークスピア一筋に! というので凄い、凄い!!


にこやかに猫ちゃんを抱いている姿の中には、芯がピチッと通った
凄い人がおられるのですねぇ。

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400年以上前に生き、書いたシェークスピアと向き合い、作中人物とも
向き合い、そして今回あれこれ書かれた記事を読み、

一番shinkaiが「これ、これ!」と思ったのは、 中略で


翻訳は当初から、女性の言葉遣いに気を配ろうと決めていた。 
例えば、『ロミオとジュリエット 』で主人公二人が、バルコニーの上と下で
語り合う場面。 多くの先行訳はジュリエットがへりくだった口調だが、
松岡さんは「二人は対等です」。

原文で、ジュリエットがロミオに対して「you(あなた)」ではなく、
よりくだけた当時の言葉「thou」を使っているからだ。

その集大成が、『終わりよければすべてよし 』。 主人公のヘレンが、 
青年伯爵との身分違いの恋を成就させる物語だ。 松岡さんは、
結婚の条件をクリアしたへレンが、青年伯爵に問いかけるせりふに
悩んだ末、こう訳した。
<これが二つとも果たされたいま、あなたは私の夫、いかが?>

原文「Will you-?」を踏まえ、ヘレンががさつ者にならず、かつ、
へりくだらない表現を探し当てた。』


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これは私にとって、本当に、大変大きな答えを与えてくれたもので、
イタリアに来て以来、ずっと日本との男女間の立場、関係の違い、
言葉の違いに気が付いて以来に、やはり!という答えだったのですね。

つまり、日本での男女間の言葉使いでは、既に、常に、上下関係があり、
丁寧に呼びかけるのは良くとも、それに続く言葉は、見上げる形となり、

翻訳された日本語の本でも、全然問題なく今まで通りの風習に従って
いるのが気になっていたのですね。

それを松岡さんは、何とかがさつではなく、へりくだらずに、の表現を
探され、ご苦労された、というのが、

人生の先輩であり、女の大先輩が示して下さった、というのが嬉しく、

次回のチャンスには何とか松岡さんの文庫本を買い込み、
有名作品のみでも読もう、と決めたのでした!

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シェークスピア戯曲全集の日本語訳は、坪内逍遥、小田島雄志さんに
続く3人目となった松岡和子さん。

大仕事の完了、本当にご苦労様でした!!
女性の先輩としても大尊敬。  この先もお元気でお仕事を!!


では、

皆さま、今年も1年間のご愛顧、有難うございました!!

来る年もどうぞ、よろしくお願いいたします!!


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・ フラ・アンジェリコの「受胎告知」 いったい何枚描いた? どこにある?   ◆追記◆

クリスマスももうすぐ! で、昨夜はいつもクリスマスに我が家に来る
ジュリアーナから電話で、彼女が何を持ってくるか?の打ち合わせを!

いつも美味しいパネットーネと果物が定番ですが、今年はなんと
ルイーザから彼女に電話があって、24日の夕方にプレゼントを取りに来い、
との事で、中にはきっとワインとスプマンテも入っている事であろう!!
ならば明日午後のshinkaiの買い出しでは飲み物は要らないね、イヒヒ!

てな事で、明日からの忙しさの前に、ブログ更新をまず!で、

はい、クリスマス前という事で、タイトル通り、
フラ・アンジェリコの「受胎告知」についてのあれこれを。

勿論、はい、クリスマスは、キリストさまの受胎告知の日でもない事は
よぉく知っておりますが、   
で知った、

フラ・アンジェリコの「サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの受胎告知」。
これは知らずにいたのと、その美しさにいつか必ず見たいもの、と思いつつ、

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で、フラ・アンジェリコは一体何枚の「受胎告知」を描いたのだろう?
それは今どこにある?

という疑問が沸き、調べ始めました。 なかなか正確な数が掴めなかったのが、

 ベアート・アンジェリコのすべての「受胎告知」が1分間で

というYoutubeを見つけ! 皆さまも、まず是非ご一見を!

はい、世の中には奇特な方、いや、これはフィレンツェのサン・マルコ博物館の
物ですから、きちんとした! 研究者のヴィデオなのでshinkaiも報われ、はい。

2-san-marco-convento-domenicano-di-firenze_GF.jpg


で、この中で紹介されているのが、世界も含め、祭壇画、フレスコ画、
板にテンペラ画、羊皮紙の細密画、などで少なくとも、13枚と。

で、今回はそれをご案内しようと、絵の細部なども集めたのでしたが、

最後にウィキペディア、イタ版の「フラ・アンジェリコの作品」を検索すると、
また少し違った結果が出て、こちらでは15枚!という事に。

多分皆さんも、これだけの数があるとはご存じないでしょうから、
年末一掃展示、という事で、ははは、お忙しい事でしょうが、
一服のご休憩方々、ご覧くださいね。

1枚すべてが「受胎告知」というのではなく、画家にとっても「聖なる場面」は、
様々な画面の中に現れ、

まずはサン・マルコ博物館のヴィデオに従い、

1.サン・ドメニコの細密画 Graduale 558 1425年頃 Museo S.Marco蔵 

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2. 殉教者サン・ピエトロの祭壇画 1428年   Museo S.Marco蔵
  これは祭壇画の上部に、なんと呼ぶ? に描かれたもの

  ◆追記 シニョレッリさんからコメントにて教えて頂きました。
      クスピデ・cuspide と呼ぶそうです。

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5-aa3  trittico_san_pietro_martire_GF.jpg

殉教者サン・ピエトロは、ヴァティカンのサン・ピエトロとは別人の、
ドメニコ会派の殉教された方で、頭に斧、が刺さった、または頭から血を、
シンボルで描かれ、
祭壇画の中の下に並ぶ、右から2番目の方ですね。



3. フランチェスコ会派の三幅対祭壇画 1420年頃 Museo S.Marco蔵
  trittico della certosa del galluzzo

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7-aa4  Fra+Angelico-_GF.jpg

サン・マルコ博物館に収蔵、とありますが、検索しても全体図が見つからず、
遂に執念で見つけた、はは、

元はフィレンツェのヴェッキオ橋から歩いて1時間程、南西にあるガルッツォ・
Galuzzoの、フィレンツェ修道院にあった祭壇画。

現在は中央パネルはサン・マルコ博物館にあり、裾画・プレデッラは散逸し、
あちこちにコレクションされているそう。



4. コルトーナの祭壇画   1436年頃  ディオチェザーノ博物館収蔵
  こちらも祭壇画の聖母子脇の聖人たちの上に。

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9-aa5  Angelico,_cortona_poliptych-aa5_GF.jpg



5. ペルージャの祭壇画  1437年 ペルージャの国立絵画館収蔵

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11-Perugia_altarpiece,_angelico_GF.jpg

脇聖人の上に見える大天使ガブリエレと聖母マリア像が四角なので、
一瞬あれっと思いますが、額により、随分と見栄えも違う事が良く分かりますね。



6. 壁祭壇-聖遺物箱 4つの内、「受胎告知と4博士の礼拝」 1430-1434
  Museo S.Marco蔵

12-aa7_GF.jpg

13-aa7  annunciazione_GF.jpg

これは聖母に関する4連作で、上の作品の他に「聖母被昇天」「星の聖母」が
サン・マルコにあり、「聖母の死」は現在ボストンに。



黄金背景の金を貼っての仕事振りが良く分かる部分を見つけましたので。

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フラ・アンジェリコの作品は、最初から色が鮮やかで明るい、という特徴が
あったと言いますが、確かに、明るく軽やかで、金箔、金を使い、
青は高価なラピスラズリも用い、作品としての価値も随分とお高いもので
あったろうと!

当時は金箔や金、そしてラピスラズリ、もちいる絵の具、溶剤もすべて計算し、
注文主と画代を決めたそうで、画家はそれらを使う時には大変注意したと。


フラ・アンジェリコは、ご存じの様に、僧侶アンジェリコ・天使、の意味で、
描く画風からそのように呼ばれたそうですが、

またベアート・アンジェリコ・福者アンジェリコ、とも。 実際没後にはカトリック教会
から「福者」の祝福を受けていますが、

ドメニコ会派に属し、生涯を「聖なる絵」を描くことに捧げた画家(1395-1455)
で、「画家彫刻家偉人伝」を現したヴァザーリもべた褒めの画家でした。


生まれはフィレンツェから北東に、車で約1時間程のヴィッキオ・Vicchioで、
本名はグイド・ディ・ピエトロ、父親の名がピエトロ、と分かる程度で、

地元で徒弟の後、フィレンツェに出てロレンツォ・モナコ、
ゲラルド・スタルニーナの下で修業した様子。

1418年、23歳ですか、この年の記録に、画家グイド・ディ・ピエトロと名が残り、

この年にドメニコ会派に入り、フィエーゾレのサン・ドメニコ修道院で誓願を。

15-convento di san domenico di fiesole_GF.jpg

ドメニコ会派の規則によると、いわゆる初心修学者は厳しい修行と禁欲が
課され、最初の年は描くのもダメで、

この後の最初のフラ・アンジェリコの作品は1423年に記録が。



作品群に戻り、

7. 2枚のパネル   米デトロイト・イスティトゥーテ・オブ・アーツ

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これはサン・マルコ博物館のヴィデオに出たものの、制作年も分からず。



ですが、素晴らしい天使像の描写アップが見つかりました。!

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8. 銀の箪笥・アルマーディオ・デッリ・アルジェンティの1場面 1451-1453
  Museo S.Marco蔵

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19-aa9  unnamed_GF.jpg



全体は様々な意匠と、場面が描かれている箪笥、というのか、アルマーディオ
という元の言葉自体が「武器収蔵」から来ていると思われ、
現在残っている以外に、かなりの場面が失われたものと。

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注文主はピエロ・ディ・コジモ・デメディチ・Piero di Cosimo de'Medici
(1416-1469) ゴットーゾ・痛風病みピエロ、と呼ばれた、
「偉大なロレンツォ」の父親。

サンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂、同名の広場にあり、向かい側には
捨て子養育院がある場所ですね。 
箪笥は聖堂に奉納されたもので、聖堂礼拝堂と修道院図書館との間に
ピエロは家族の礼拝堂を造る大きなプロジェクトの一部だったそう。

フラ・アンジェリコの工房に依頼されたもので、彼自身が描いた部分、
デザインをしたのであろう部分などがあり、
最後の支払いは1453年の記録があるそう。

フラ・アンジェリコは1455年にローマで亡くなっておりますが、1461年に
「武器庫の絵を教える」という名目で、ピエトロ・デル・マッサイオという画家に
支払いがされており、当時まだすべて出来上がっていなかったか、
途中で場所を移したか、など、いろいろ考えられますね。


さてここから、フラ・アンジェリコの「受胎告知」の最高3作が続き、

9. マドリッド、プラド博物館の「受胎告知」 1433-35年

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お告げを受ける聖母の顔色がとても青白く、気になる程ですが、

室内の天井の星の装飾も美しく、



庭園の草花の描写が大変に美しく華やか。

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左側に描かれている楽園追放のアダムとエヴァの姿は、3作の内では一番大きく
描かれています。

24-aa10 Angelico,_annunciazione_del_prado,_detail_GF.jpg



こうして全体を見ていて、初めて室内の床の色模様が、天使の衣に対応して
いるのかなぁ、と気が付いた次第です。

25-aa10  Annunciazione (Angelico Prado)_GF.jpg



10. コルトナのディオチェザーノ博物館蔵 「受胎告知」 1430年

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3大作の「受胎告知」の内でこの作品のみに、大天使ガブリエルとマリーアの
間に言葉が交わされており、上と下の言葉が天使がマリアにかけており、
真ん中のマリーアが答えている言葉は逆さまに、つまり天の神に答えている形に。

27-aa11  Angelico-Annunciazione-di-Cortona-01_GF.jpg

天使の羽、翼も光り輝き、マリーアに向ける目もしっかりと見つめ、
指は天とマリーアを指していて、雄弁に。



庭の草花の典雅さ!

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コルトナでこの作品の前で、美しさと仕事の見事さに見惚れた事を思い出します。

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11. サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノのサンタ・マリーア・デッレ・
   グラツィエ博物館蔵の「受胎告知」 1430-32年

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マリーアと天使の関係も、穏やかな中にも強い緊張感が漂いますが、

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とりわけ、このマリーアのつぶらな瞳! しっかり天使の言葉を受け止め、
受け入れている表情に見えますね。


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12. サン・マルコ教会内 部屋3番 の「受胎告知」 1438-1440

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37-aa13  Annunciazione-cella-3_GF.jpg


現在のサン・マルコ博物館は、かってはドメニコ会派の修道院であり、
各僧の私室があり、その部屋部屋にフラ・アンジェリコがフレスコ画で描いており、
質素な部屋の素晴らしい装飾となっていて、

背後にいるのは、殉教者サン・ピエトロ。



13. サン・マルコ修道院 北廊下の「受胎告知」 1440年頃 

38-aa14_GF.jpg



この廊下に描かれた「受胎告知」を初めて見た1984年、だったと。 
この場所は階段を上がってすぐ前の壁、

39-aa14  corridoio-nord_GF.jpg



つまり階段下から正面に見える場所で、

40-aa14  scale-accesso-dormitori-beato-angelico-annunciazione_GF.jpg

修復が済んでまだすぐの事だったと聞きましたが、色も鮮明で、
すっきりとした構図の中にゆったりと広がる全体が素晴らしい印象でした。

テンペラ画と違い、金箔も、金も使っていませんが、「受胎告知」の主題に
一番合った素晴らしい表現なのかも、と。



という所で、サン・マルコ博物館のヴィデオにあった「受胎告知の
13作は終わりですが、

ウィキペディアのイタ版にはもう2つあり、

14. ドイツ、ドレスデンのGemäldegalerie Alte Meister・オールドマスターズ
   ピクチャーギャラリー、 「受胎告知」1435年頃 27,5x44cm

41-Annunciazione, 1435 circa, tempera su tavola, Gemäldegalerie Alte Meister, Dresda.jpg

42-annunciazione angelico.jpg

同時代の作品と比べ、構図も印象も違い、本当にフラ・アンジェリコの作品? 
と思うのですが、一応そうなっている様子で。



15. ドイツのHildesheim ディオチェザーノ博物館「受胎告知」1450年
   と出たのですが、

フラ・アンジェリコの絵は見つからず、博物館のみが! ご勘弁を。

43-Hildesheim,_das_Dommuseum_GF.jpg

追記 こちらはクリスさんが、コメントにて博物館のサイトを教えて下さり、
    そこに雰囲気が如何にもアンジェリコな、フィエーゾレの祭壇画、と呼ばれる
    作品があるのも見つかりました。

こちらです。

fiesole-altar-190px.jpg
    
数年ぶりに再展示されたそうで、天使も素晴らしく、全体がアンジェリコの
雰囲気を持っていると思うものの、マリア様の顔がちょっと気になりますが・・。

シニョレッリさん、クリスさん、いつも教えて頂き、本当に有難うございます!!



と言うような、フラ・アンジェリコが画業40年程の間に、
心を込めて描いたと思われる15点ほどの「受胎告知」の作品の数々で、
作品のテーマと、彼の思いが重なる部分が多いのかも、と。

やはりテンペラの3点と、サン・マルコ博物館のフレスコ画が本当に素晴らしく、
マドリッドのプラド博物館は遠くとも、フィレンツェには改めて見に行きたいもの!



フラ・アンジェリコの肖像は、ルーカ・シニョレッリがオルヴィエートの
大聖堂の壁画に残した彼自身(左)との肖像が有名の様ですが、

43-Selfportrait of Luca Signorelli (left) with Fra Angelico-6890_GF.jpg

シニョレッリが1505年に描き、ルーカ・シニョレッリは1441-45生まれ
1523年没の生涯で、フラ・アンジェリコは1395-1455年と、
シニョレッリとは10年ほどしか重なっておらずですが、

オルヴィエートの壁画の仕事をどちらもしているので、アンジェリコの
作品を見て感銘を受けたのかも、と推測し、大変興味深く思った事でした。


追記 こちらもシニョレッリさんからコメントで教えて頂きました。
   1447年、フラ・アンジェリコと、ベノッツォ・ゴッツォーリが請け負い、
   描き始めた所で教皇ニッコロ5世から、ローマの仕事の請求で
   オルヴィエートを離れ、描きかけのヴォールトはそのままになり、

   それを1499年になり、ルーカ・シニョレッリが描きさしを補筆する事から
   完成させた、という経過でした。

   shinkaiもオルヴィエートのこの礼拝堂を見たのをブログに書いており、
   その引き継いだ様子なども書いておりますので、どうぞ。

オルヴィエートの煌き、 大聖堂
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471737591.html



一方こちらは、サン・マルコ教会(フィレンツェ)の祭壇画、と
呼ばれるもので、近年修復されたとか、

44-pala-san-marco_GF.jpg



この中に右側に並ぶ3人のドメニコ会派の僧侶の一番奥、こちら向きが、

45-Beato-Angelico-Pala-di-San-Marcoi-San-Domenico_GF.jpg

フラ・アンジェリコの自画像ではないか、と言われているそうです。

彼の作品に登場する丸顔で、ほぅ~とした様な目で、白百合を持ち・・。

シニョレッリの描いたアンジェリコは、バリバリと力強い絵を描きそうで、はは、
こちらは、如何にも彼の作品に相応しい顔に思えるのはshinkaiだけ?


と言う事で、クリスマス前にあれこれフラ・アンジェリコの作品に触れ直し、
改めて、かっては可愛いなぁと、あまりピンと来なかった彼の作品ですが、

漸くに彼の精神の強さにも触れた思いがした事でした。


ではでは、皆さま、良いクリスマスをお迎え下さ~~い!!

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それもご了承下さいませ。

・ イタリアの現情と、ワクチン3回目接種  そして日没の色

昨日17日 1か月ほど前に予約していた対コロナワクチン接種3回目・
ブースター の日でしたので、14時24分の予約時間に行き、

今回のワクチン接種会場

1-1-DSC05950_01_GF.jpg



無事接種を済ませ、昨夜は少し腕が痛い、という程でも無いものの、
重く感じましたが、

今朝起床後のいつもの体操では腕を上げ、振るのを敬遠したものの、
午後の今は何ともありません。

1回目、2回目もこの程度で済んでいますので、shinkaiめは
ワクチン接種に強いタイプなのかも!


私は1回目のワクチン接種が3月23日、そして2回目が6月15日、
ファイザー・ワクチンであればもっと短い間隔で2回目がありましたが、
私はアストラゼネカでしたので、6か月後、という事で。

が、暫く前から、2回目は6か月後と言ってたのが、5か月が良いとなり、
実際私が予約をして3日ほど後からは5カ月、となりました。
が、まぁ、ちょうど6か月の2日後で予約を頂いたので、Okと。


1回目  対コロナヴィールスの、ワクチンを接種して来ました

2回目の様子を少し  イタリアの現在の様子と、shinkaiの日常生活


今迄2回はアストラゼネカのワクチンでしたが、今回は何?と尋ねましたら、
モデルナの半分、を接種します、という事で、

1,2回目と場所は同じでしたが、以前のバカでかいスポーツ・センターではなく、
その前にある小さな、普通の体育館より少し狭い位の場所で、
次々と時間に従い人々がやって来、済ませて出て行くのもスムースで、

予約時間の14時24分よりも早い14時20分には済み、その後の15分の
様子見を済ませ、戻って来ました。



イタリアは現在新感染者が増え続け、他のヨーロッパの国よりも多少は
マシですが、じきに3万人に迫ろうかという様子で、

クリスマスを控えた今、ボルツァーノ県、フリウリ州は既に、来週からリグーリア州、
マルケ州、そして我がヴェネト州、トレント県が黄色ゾーンに。

ワクチン接種者は82%となり、ブースターも1200万人を超え、5歳~12歳の
子供たちの接種も先日から始まっています。

一時ワクチン接種反対、グリーン・パス反対の運動の声が高く上がり、
接種率も伸びが悪い時があり、
それ以降は感染率の上り坂から、政府がかなり強硬にワクチン接種を進め、
今になり他のヨーロッパ国の状況を見ると、良かったね、という様子。

経済状態も最初の予想よりも伸びが良く、ドラーギ首相の采配に
ヨーロッパ各国、アメリカなどからも称賛の声が聞こえ、

と共に、年明け1月に大統領任期7年が済む、現マッタレッラ大統領が
退去声明があり、国民からも延期を求められたものの意思は変らず。

1-2-Presidente_Sergio_Mattarella_GF.jpg


となると、今のドラーギ首相が即大統領に、と最初の声が聞こえたものの、
現在の国の政情、世界の様子となると、大統領となって一段奥にではなく、
今のまま国政に携わる事を求める声が出てきています。

となると誰が大統領に、ですが、なかなか年齢と言い、力量と言い、
匹敵する程の方がおいそれとは浮かばない様で、

なんと右派は、あの恥知らずのベルルスコーニを、と言い出しており!
物凄いヨイショ、だと思うものの、ああいう政治家達は皆恥知らず!!

せっかくここ3代良い大統領に恵まれたイタリアが、ここにきてまた
政党の思惑通りのみの大統領に戻らないでほしいもの!

という事で、さて、どうなりますか、という現在の国内情勢で、

3月末迄は「国の緊急事態」。 進捗状況も分かりかねますが、

とにかく慌てずじっくりと、先の様子を見据えながら、自分の出来る事を
進めて行くしかない、と思っております。

***


こちらは奥に長く続いている建物が、先回のワクチン接種会場で、

2-DSC05953_01_GF.jpg

奥に見える山並みは、西から東、ヴェネトからフリウリにまで延びる山脈で、
あの奥には3000m級のアルプスからの流れがあります。



接種会場のあるゴーデガ・Godegaの、村の教会。

3-DSC05952_01_GF.jpg



お天気が良く、暖かくもあった日で、そうだ、カメラを持って行き、帰りに、
思った通り、

これは戻り道のコッレ・ウンベルト・Colle Umbertoから西への道。

4-DSC05960_01_GF.jpg

こうして写真を撮ると、緩やかな坂道に見えますが、長い一直線の坂道で、



道の向こうに見える城館は18世紀頃からの物で、伯爵領、だったと。
今もご子孫がお住いの様子で。

5-DSC05961_01_GF.jpg



この一帯の小高い温暖な土地には、前石器時代からの移植があったそうで、

ここから少し南に下った所には、かのティツィアーノの別荘も!

ヴェネトの春、 そして ティツィアーノの家 n.1 

ヴェネトの春、 そして ティツィアーノの家 n.2

古きロンゴバルドの教会と、 「ティツィアーノの家」始末記 n.2



ゴーデガからコッレウンベルトへの裏道は、かなりな傾斜道が2度続き、
そして今下って来た所のサッカー練習場の脇道の奥には、

ゴーデガからも見えた山並みが見え、こちらは東側で、

6-1-DSC05956_01_GF.jpg

6-2-DSC05968_01_GF.jpg

山裾から這い上がる村落の幾つかが見え、先日の雪はかなり解けており、



こちらは西側の山並み。 夕方近い陽、少し靄が、で見えにくいですが、
東からの山裾が低く手前に入り込んでおり、奥の山との間を国鉄と道が通り、
オーストリアに連絡する道。

7-DSC05957_01_GF.jpg

右手前に見える赤煉瓦の建物は、Kapuziner Hof・カプツィナー・ホフ
というビア・ホールで、

◆ クリスさんがコメントで、Kapuziner のnが抜けているのを指摘くださり、
  nを入れましたぁ。



shinkaiも入って来た道はこのビア・ホールに続き、南ドイツ・バイエルン、
と見え カプツィナーとは、オマキザル、と出ましたよ。

が、これもクリスさんが教えて下さったのは、カプツィナーとは、カプチン修道会の
事だそうで、ですから、この修道会で作っていたビールが美味しい、という意味からの
命名の様子。

9-2-DSC05971_01_GF.jpg



西側のこの山の高所に電波中継所があり、見えますか? 
あの近くにはスキー場もあるとか。

8-DSC05958_01_GF.jpg



ちょうど飛行機雲も見えたので。

9-1-DSC05959_01_GF.jpg



葡萄畑の葉も全て落ち、まだ剪定されていない枝が赤く映えます。

10-DSC05967_01_GF.jpg



道の南側にも葡萄畑ですが、奥は丘を段にしての、何の畑かな?

11-DSC05970_01_GF.jpg



西日が強いものの、ここコッレ・ウンベルトの高さから見ると、
一番北の高い山並みはそのまま西に続き、鐘楼が見える丘の流れは

12-DSC05964_01_GF.jpg

一番手前は我がスコミーゴの丘が続いており、shinkaiんちは左に切れる
辺りから奥に入り込んだ所、

間に挟まれ、真ん中から左に見える木々の丘は、オリアーノの丘。


で、この後スーパーで買い出しをして家に。



所で、11月末から朝夕の雲の流れ、色が素晴らしい時に何度か撮り貯めし、
今朝整理して見て頂こうとしたら、160枚ほどあったのがぁ、

コンパクト・ディスクからPCに移すのに、ついうっかりアイコンをドロップし、
無事にPCに移ってくれたのは、なんと29枚!! う・う・う。 馬鹿がぁ!

まぁ、全部消えたのよりはマシと我が身を慰め・・、  見てやって下さいませぇ。


11月29日18時35分から45分のやつで、
ふっと窓の外の色に気が付きカメラを持ちテラスに出て、コンドミーニオの
庭の木々が邪魔で、徐々に外に出て行って、はは、撮ったものです。

これはまだテラスの端から。

13-V10_1929_01_GF.jpg



空を大きく撮れる所を探しつつ。 いやぁ、あの時の色は凄かったっすよ!
丘につきそうな下の赤色は、こんな鈍い赤ではなく、燃えるような赤で。

14-V10_1932_01_GF.jpg



日没の位置から少し遠い雲の色はほんのりめに染まり。

15-V10_1937_01_GF.jpg



徐々に暮れ始める色。

16-V10_1931_GF.jpg

17-V10_1938_01_GF.jpg



これは南の雲に反射した色。

18-V10_1939_01_GF.jpg



ひんやりと暮れ始め。

19-V10_1945_02_GF.jpg



この日最後の色。 すぅ~っと消えて行きます。

20-V10_1946_GF.jpg

じゃまな電線、済みません。 こういうのを消すソフトをと思いつつ・・。


朝日もねぇ、たくさん良いのが撮れたと思っとったのになぁ!
またぼちぼちトライしますです。


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・ 驚異のテルモポーリオ、 ポンペイ遺跡から完全な形で発掘の

今回ご案内のテルモポーリオ・Termopolio、日本語的に言うと
サーモポリーですか、つまりそこで煮炊きした料理や飲み物が食べられ、
お持ち帰りも出来る、という現在のスナック喫茶、ターボラ・カルダでしょうか。

藤沢周平さんの時代小説の中にも出てくる「煮炊き屋」に似た性質の、
約2000年前のポンペイの店が2019年に発掘発見され、

1-download17_GF.jpg


その当時は片側に見えたフレスコ画の素晴らしさから、住居跡かと思い、
また半面を発掘した所でその驚異的にも完全な形で残っている姿に、
一躍皆が励まされ、このコロナ禍の下でも一日も休まずの発掘が続き、

いよいよその成果がぼちぼちと発表されている様子で、
今日はそんな様子をご覧いただきますね。

参考にした記事は
ポンペイのテルモポーリオ:完全な形で発見、どこに

ポンペイ:発掘現場からテルモポーリオ再浮上 食物はまだそのまま

ポンペイ。レージョ5の並外れた新発見:当時のターボラ・カルダ・テルモポーリオがそのまま

発掘中の遺跡の前で、総監督のマッシモ・オザンナ教授が説明の
ヴィデオはこちら。 https://www.youtube.com/watch?v=vHlGzGEhr7k



所で今発掘が続いているポンペイの「レージョ5・regio5」の場所は、
地図をどうぞ。 

2-Pompei-a4 - Copia_GF.jpg


全体図の中で中央上(北)になり、通りもまだついておらずの未発掘部の
様子ですが、2,5km以上の古い城壁内の、22ヘクタールに及ぶ広さ。

1748年3月23日にポンペイ遺跡が見つかっての270年目を記念し、
2018年からかな、発掘が行われているのが、このレージョ5なのだそうで、
ここから続々と新発掘が続き、皆大喜び、という様子!

この新しい発掘現場からの新発見については、
今迄も不審があった  ポンペイ・ヴェスヴィオ山の噴火日が訂正

ポンペイ遺跡の新発掘の壁画

ポンペイ遺跡についての全体のご案内はこちらから

などご案内していますが、今回は「テルモポーリ完全版」という訳。


当時のポンペイでは、ローマ期でもその様でしたが、一般庶民の家では
火事の危険がある為に煮炊きする台所は無く、

ポンペイで80か所以上あったらしい道端の店、様々な食材を既に調理し、
暖かく食べさせる店で皆が買ったり、食べていた様で、

今回発掘された店は、大理石の美しい噴水のあった広場に面し、

3-pompei_termopolio-regio-v-02_veduta-generale_foto-luigi-spina_GF.jpg


すぐ近くには別のテルモポーリオもあり、そちらには剣闘士達が通っていたと。

そして付近に給水塔、貯水槽もあり、他の建造物もあり、最初の発掘で
カウンターのフレスコ画が見え、その素晴らしさから全体の発掘が決まったと。



つまりこの海馬に乗った女神ネレイスは、前に見える噴水への献呈であり、

4-download2_GF.jpg



脇には植物画も見え、

5-1-download1_GF.jpg



当時の店の情景も、達者な筆使いで描かれており、

5-2-download11_GF.jpg



こちら側に調理台の上に乗せられた鳥類、そして素晴らしい雄鶏の絵が。

6-download3_GF.jpg



L字型のカウンターに埋め込まれた甕には様々な料理が入れられており、

7-download9_GF.jpg

これは甕の中に入ったままであった調理を綺麗に発掘し、食べ物が何で
あったかの調査に回されましたが、

ヴィデオには、甕の口まで噴火物が埋まっている様子も写っており、



カウンターの前には、ワインなどの入ったアンフォラがこの様にあったそうで。

8-pompei_termopolio-regio-v-6-_foto-parco-archeologico-pompei_GF.jpg



そして、カウンターの雄鶏の絵の横には、繋がれた犬の絵があり、

9-download10_GF.jpg



ポンペイの絵で有名な、玄関先のモザイクのワン君の絵には「犬に注意」と
書かれていたのと同じように、ちょっとした客への注意書きかもしれず、と
思った事でしたが、


実はこのワン君の絵を黒く囲った縁の中に落書きが残っており!
見えますか? 

10-download13_GF.jpg

“Nicia cineade cacator” とあり、最後のcacatorは逆さまに!

Nicia・ニキアス、というのは、多分この食べ物屋のギリシャ系主人、
多分解放奴隷だったろう、か、使用人の男の名であろうと言い、

cacatorは、つまりcacca・ウンチ、からの言葉で、逆向きとなると・・、
ご想像下さい、の悪口で!


で、真ん中のcineadeが分からず、辞書を引いても出ず。
こうなると尚知りたい好奇心に燃えるshinkaiは、ジュリアーナに電話、
関係記事、ヴィデオのアドレスを書き送り、調べてぇ! おせ~て!と。

暫く後に大喜びのジュリアーナから電話で、ラテン語でcinede、
イタリア語ではcinedoとなる言葉で、
意味は、同性愛者の、受け手側を指す、のだそう!

夜の電話で、大喜びの、きゃはは、いい年した女2人!!
今回のご案内で、一番張り切って調べ、喜んだ場面だったのでしたぁ!

オザンナ教授のヴィデオで、あの手の悪口、とは分かったものの、
靴の上から水虫を掻く様に、肝心の所が分からないのが綺麗に解け、
shinkaiの誕生日に相応しい1日の終わりだったのでしたぁ、ははは。



そしてヴィデオでも見えますが、実はこのテルモポーリオには2人の男性の
遺骨が見つかっており、

1つは店の奥の部屋であったろう所に、50歳そこらの男性が、ベッドか
寝椅子に寝ていて、上階が噴火の瓦礫で落ち下になったろうと思われるのと、

泥棒か、食べ物を盗みに来たのではないかと思われる男の遺骨が
カウンターの奥にあり、食べ物の入った甕の蓋を取っての熱気にやられたのかも、
の可能性も想像できる、とのことですが、
1人の頭骨は、ワイン、オリーヴ油の貯蔵甕・ジャーラ・giaraの中に。

この場所は遺跡が最初に発掘された時、多分当時の大雑把な発掘で
こうなったかも、というような事を教授が話されておりました。

このブログでは写真はパスしますが、
研究心に富む方は、上記3つのリンク先の最後をご覧ください。
と、大変小型な犬の遺骨、成犬も、発掘されたそう。


そして、このテルモポーリオからは、9つのアンフォラ、1つの青銅の盃、
2つのフィアスコ瓶、一般的な陶器の鍋、が見つかったそうですが、

そうそう、甕の中の料理も分かり、子ヤギ肉、カタツムリ、ガルム・魚の内臓
から作ったソース、ソラマメ、ドライフルーツ、他のマメ科で味付けした魚、と。



部屋全体の床はコッチョペースト・cocciopestoと呼ばれる、テッラコッタの
破片でできた防水コーティングの層で覆われており、

11-cacciopesto5edd613da_GF.jpg



幾つかの場所にアラバスター、

12-marmi-onice-alabastro-_GF.jpg



ポルタサンタ、

13-portasanta marmo 0ed6269c0d98765_GF.jpg



ブレッチャ・ヴェルデ、

14-breccia verde 002124_GF.jpg


バルディーリオ、

15-bardiglio marmo_GF.jpg

などの多色大理石の破片が埋められているそうで、

かなり装飾にもお金をかけている店、というか、当時は皆そうだった?



と、ご案内の様に、素晴らしいフレスコ装飾の店構えと、
店の窯の中の2000年前の食物! 
店に来る客たちが何を食べていたかも分かる、という凄い事で、

ダリオ・フランチェスキーに文化遺産大臣も、
「国の回復への、勝利的な例」と褒めたたえたそう。

左がフランチェスキーニ文化遺産大臣、右がオザンナ教授

16-download16_GF.jpg


既にこの完全に復元されたテルモポーリオは、今年2021年8月から
見学者に公開されているそうですので、

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18-download7_GF.jpg

次回のチャンスには、皆さんも是非、このレージョ5の区画への再訪問を!


*****

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・ ロドルフォ・シヴィエーロ  第2次大戦下に盗まれた絵画の回収を

今回ご紹介のロドルフォ・シヴィエーロ・Rodolfo Siviero(1911/1983)
一般的には余り有名ではありませんが、ウッフィッツィ美術館の作品作者と、
時に作品の歴史を簡単に説明するラベルに
「ロドルフォ・シヴィエーロにより回収された」と名前が記されていたりで、

つまりロドルフォ・シヴィエーロは第二次大戦中に、イタリアで
ドイツ軍により1938年から45年の間に盗まれた芸術作品回収の為に働き、
その数はなんと何百枚にも及ぶのだそう!


この写真は1943年に盗まれたティツィアーノ作のダナエで、
回収された1947年、作品の前のシヴィエーロ。

1-siviero-e-danae_GF.jpg



現在元のナポリのカポディモンテ博物館収蔵に戻っている作品で、

2-.siviero-danae-di-tiziano-vecellio_GF.jpg


ナポリから、ラツィオ州フロシノーネの山頂にあるモンテ・カッシーノの
修道院に秘密に預けられていた作品類が1943年10月に盗まれた内の1枚。

なんとこの作品は、1944年1月のヒトラーの右腕、国家元帥のヘルマン・
ゲーリングの誕生日に贈られる筈の作品だったそうで!

ですが後に、ドイツ軍の司令部があると思った英・米連合軍により
攻撃され、1944年2月には大空爆が行われ、修道院は廃墟と。

つまりそのまま修道院の奥に隠されていたら、大爆撃で消えていたのかもで、
こういう運命からも逃れた運の強いティツィアーノの傑作、という訳で、
いや逆に、真の傑作は強い運を持っている、というものかも。



パリのルーヴル博物館の絵画類も、ナチ・ドイツが持ち去ろうとしたのを
運ぶ汽車の機関手たち、レジスタンス達が国境を越えさせぬ様に列車を
迂回させたり、様々な抵抗をした、というお話も有名ですし、

ナチ・ドイツの占領下にあったヨーロッパの各国が様々な芸術品の盗難に
遭っているお話の映画も見ましたが、

イタリアでもやはり、えっ、この絵も盗まれたの?! という今回のお話で、
各国でのあれこれを知りながら、ついぞ今迄頭になかった事なので、
大変に興味を持って読みました。

参考にした記事は、
ロドルフォ・シヴィエーロ、秘密エージェントが救った、盗まれた傑作

ロドルフォ・シヴィエーロ、芸術の世界の伝説的人物

ウィキペディアのイタリア版 Rodolfo Siviero 


こちらは回収されたポントルモ・Pontormoの絵と共に。

3-Rodolfo_siviero_con_un_quadro_di_pontormo_in_un'immagine_degli_anni_cinquanta_GF.jpg


ロドルフォ・シヴィエーロは、父親がヴェネツィア人のカラビニエーリの下士官で、
トスカーナ州ピサ県のグアルディスタッロ・Guardistalloの分隊署長の時
土地の娘カテリーナと結婚しての、1911年生まれ、

その後1924年に一家は引っ越し、彼はフィレンツェ大学に進み、
芸術・文学の分野に学び、将来は芸術評論家になる希望だったと。

が1930年代に、イタリア軍情報部の秘密エージェントに。

1937年美術史の奨学金を受けて、というカバーの下に、ナチス政権に
関する情報収集でベルリンに行っており、

最初は軍の情報部に入ったのも、ファシズムに同調していたのが、
1943年9月8日以降、彼は反ファシストに。


1943年9月8日、というのは、第二次世界大戦の同盟国とイタリア王国の
バドリオ1世政府によって署名されたカッシービレ休戦の発効の発表があり、

この辺りshinkaiには説明できる程の知識もありませんが、1943年には既に
連合軍による進撃が続き、イタリア国内では大規模のゼネラル・デモも続き、
地中海海戦でも連合君が勝利、7月にはシチーリアに上陸、という戦況。

遂に7月25日にムッソリーニが独裁権を返上、バドーリオ政権下となった、と
いう状況で、イタリアは最後の混迷期に突入します。

この後ムッソリーニは幽閉され、ドイツ軍による救出後、1943年9月に
ガルダ湖畔のサロにおいてドイツの傀儡政府を設立、
イタリア社会共和国・RSI・ローマ以北のイタリアを含みましたが、

1945年4月28日レジスタンス軍に捕まり処刑、最期を遂げました。


という様なイタリアの終戦前の混乱期ですが、「芸術作品について詳しい
軍情報部の秘密エージェント」としてのシヴィエーロの仕事は、

1938年から45年の間にナチスによって盗まれた何百枚もの傑作を
回収する事で、

取分けKunstscutz・コンスショッツというドイツの機関、訳すと
「アート・プロテクト」なる団体は、戦争の危険から芸術作品を保護する、
爆撃から保護する、というような名目で、芸術作品を盗んだのですね。


シヴィエーロの救出作品の1つに、1432年作のベアート・アンジェリコ
サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの受胎告知」と呼ばれる作品があり、

4-96da2416f4f3fccd61232ce7ee7c73b0_GF.jpg



絵のあった教会は・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ・San Giovanni Valdarnoの

5-2_GF.jpg



サンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ・Santa Maria delle Grazie教会。

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6-4-basilica di Santa Maria delle Grazie a San Giovanni Valdarno.-9be4dbc5ab61_GF.jpg


後に絵は、近くのフランシスコ会のモンテカルロ修道院で発見されたと。

この経過は、1944年初頭、シヴィエーロの情報提供者のネットワークから、
ヒトラーの右腕のヘルマン・ゲーリング、芸術に夢中な彼が、ドイツの彼の
コレクションに加えたい、と望んでいる事を知り、

シヴィエーロはフィレンツェのサヴォナローラ修道院の2人のフランシスコ会の
修道士に警告し、
彼らはドイツ兵が到着する前日に仕事をし、隠した、という顛末。

よくぞイタリアに残ってくれたもの、と感謝する絵の1枚で、
このフラ・アンジェリコの絵が余りにも美しいので、一体どこにあるのか、と
場所を調べましたら、フィレンツェから電車で行ける近くなのが分かり、
またチャンスを見つけて、と。


シヴィエーロは1948年政府に、盗まれた作品を返還するという原則確立を
交渉する為に選ばれ、傑作の多くを何とか回収しましたが、

50年代になると、シヴィエーロは政府に代わり、体系的に研究を行い、
この激しい活動は彼が1983年に亡くなるまで続き、
「芸術の007」というニックネームも生まれたほどと!!


これら盗まれた作品の中には、1943年9月8日以前にイタリアに入り込んだ
上層階級のドイツ人たちが、ファシスト政権の共謀によりドイツに持ち帰った
作品も多数あり、

その中には、このミロン・Mironeによるローマ期のブロンズ像の、大理石の
コピーである、ディスコノボロ・Disconoboloの「円盤投げ像」もと。

7-.siviero-discobolo-lancellotti_GF.jpg



また上記したイタリア社会共和国・RSIに対し、ドイツ軍が南イタリアより
引き上げる際、ローマにおいてナポリ国立博物館から盗んだ芸術作品を
返還した、という事もあった様子。

8-Bundesarchiv_BildItalien,_Überführung_von_Kunstschätzen_GF.jpg

9-Bundesarchiv_BildItalien,_Überführung_von_Kunstschätzen_GF.jpg


またナチス占領下において、フィエーゾレのジョルジョ・デ・キリコの別荘から
彼が所有する絵画も、戦略を立て保護持ち出し、これら絵画は監督官庁の
寄託物の中に隠されたのだそうで。


ナチスの「縮小政策」と呼ばれる、これは単純にパトロールの際に捕獲、
また夜間民間に押し入り、着の身着のままの民間人を捕らえ、強制労働や
収容所送り、または交換要員に当てた、という非道残忍な作戦を指すそうで、

この「縮小作戦」を恐れ、デ・キリコは奥さんと一緒に逃げるしかなかった、と。



1944年7月3日、トスカーナ各地に移され隠されていたウッフィツィ美術館の
200点以上に渡る絵画を盗み、アルトアディジェに移し、

同じ1944年7月25日から8月11日にかけて、ドイツ軍はウッフィッツィ美術館、
フィレンツェのドゥオーモ博物館、他のフィレンツェの博物館等から彫像類を
運びだし、アルトアディジェのカンポ・トゥールスの城に運び込みます。

地図をご覧頂くと分かるように、これはもうオーストリアとの国境にすぐの所。

10-castello di campo tures_GF.jpg

11-castello di campo tures 2_GF.jpg


シヴィエーロの情報サーヴィスはこうした動きを掴み、後に全ての作品を
フィレンツェに返還した同盟国側の実際の発見にも貢献しています。



と、これは1943年のRSIに対する、ローマでの返還に含まれるのかもですが、
ナポリ国立考古学博物館からの多くの彫刻が盗まれた内の名品、

リュシッポスのヘルメス像と、

12-Lisippo_Hermes_in_riposo_laterale_GF.jpg



ポンペイのアポロ像、が含まれていたそう。

13-apollo_louv7_GF.jpg

14-apollo_louv5_GF.jpg

このポンペイのアポロ像には驚きましたぁ。 上半身のみの写真だと
女性像かと思うばかりの美しさで!

弓を射るアポロ像だそうで、右手には弓の一部を握っており、
左手は弦を引く手ですね。



そしてそして、なんとまぁ、この像をルーヴル博物館が買い取りたい、と
キャンペーンをしているんだそうで!

15-apollo-pompei-louvre_GF.jpg


予算の半分位は既にOKの様ですが、
呼びかけている5エウロの献金を、皆さんはしないでねぇ!!



そして同じく1937年から1943年の間にファシスト政権の共謀で、
ドイツに違法に持ち出された38の作品の中には、

ティントレットのレダ

16-Leda_mit_schwan_GF.jpg



そしてルーベンスの、ジョヴァンニ・カルロ・ドーリアの騎馬像があり、

17-Rubens,_Ritratto_di_Gio_Carlo_Doria,_Palazzo_Spinola,_Genova_GF.jpg



この作品はジェノヴァのドーリア邸にあったもので、ヒットラーが
来伊の際に訪問している写真も。

18-doria hitler_GF.jpg



マサッチョの「聖母子」の作品は、1947年にシヴィエーロが回収しており、

19-151103-e1515585087340_GF.jpg

20-Madonna con Bambino del Masaccio_GF.jpg

これは本当に愛らしい作品で、ほら、聖母が幼児キリストの顎の下を
こちょこちよっとくすぐり、幼子が笑っている声が聞こえそうな、でしょう?



所で、上にフィレンツェのウッフィッツィ美術館から盗み出された200点
以上の作品は、シヴィエーロの情報網、そして連合軍側との連携で
殆どが無事に戻ったと書きましたが、

アントーニオ・デル・ポッライオーロの「ヘラクレスの骨折り」の2点
傑作小品が見つからず紛失していたのでしたが、

ヘラクレスとヒドラ

21-ercole-di-antonio-del-pollaiolo_GF.jpg



ヘラクレスとアンテオス

22-Antonio_del_Pollaiolo_-_Ercole_e_Anteo_GF.jpg


その後の調査により、当時ドイツ軍の兵士で運搬に携わっていた人物が
盗み、その後アメリカに渡り、パサデナに住んでおり、絵も健在、が分かり、
シヴィエーロが渡米、説得、半ば脅しに近い、が合法でもある
強力な掛け合いで、無事1963年返還となりました。


そうなんですね、ロドルフォ・シヴィエーロは勇気と文化教養、能力を
備えた人物で、権力も上手く使える人物、と書いたのがありましたが、

まさに骨太の、当時のイタリアにあって政府側にも本当に欲しい働ける
人物だったでしょうし、
彼にとっても働き甲斐のある仕事だったのでは無いでしょうか?!


こうして救われた作品を見て行くと、なんとまぁ、これも! これも!と
驚くばかりの作品群で、
初めて今回知ったロドルフォ・シヴィエーロなる人物像を想像したり、

それに捜査官として追跡する様子など、まるで冒険談や探偵物語の様で、
興味津々で楽しめましたし・・。


彼の住んだ家は、現在「ロドルフォ・シヴィエーロの家博物館」として残され、

23-Casa_museo_rodolfo_siviero_GF.jpg

住所は、Lungarno Serristori 1-3 Firenze


寝室 天蓋付きベッドの側から

24-Casa_siviero,_camera_del_letto_a_baldacchino_03_GF.jpg



暖炉のある居間

25-Casa_siviero,_salotto_con_camino_01_GF.jpg



食堂

26-Casa_siviero,_sala_da_pranzo_02_GF.jpg



書斎、図書館

27-Casa_siviero,_studio-biblioteca_02_GF.jpg

そこかしこに見える古い彩色木像が素晴らしいですねぇ!
開館時間など見つからずですが、またの再開の時を待ちましょう。



最後に、これはアメリカのボストンの美術館に違法に売られていた、
ラファエッロの絵の回収をしたお披露目で。

28-Il Ministro Siviero presenta a Roma il dipinto di Raffaello appena recuperato dal Museo di Boston_GF.jpg

ジュリオ2世の姪の肖像、というような説明があったのですが、人物も
特定できず、絵も写真はこれだけですが、彼の顔が良く見えるので。

彼の顔を見ていて、どこか少し昔のイタリア男性の面影というか、
特に口元辺り、ロッサノ・ブラッツィとか、マルチェッロ・マストロイアンニと
似た所があるなぁ、と思ったのでした。


亡くなる最後まで仕事を続けられたそうで、本当にご苦労様でした!
そして、有難うございました!!


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・ カトリーヌ・ド・メディシスが、フランスお輿入れに持ちこんだお菓子は

遂に12月となりましたが、世界中がまたまた昨年同様ワサワサと
する年末となりました。
今年のクリスマスは何とかすんなりと、という皆の気持ちもあっという間に
ひっくり返された状況ですが、
でもね、落ち着いて、自衛の姿勢を崩さずに乗り越えたいと思っています!

という事で、今回のご案内は少しでも楽しく、と「お菓子と、料理」。
それも16世紀にフィレンツェのメディチ家からフランス王家にお輿入れの
カトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589)が持ち込んだものと。

1-Caterina-de-Medici_GF.jpg


後の国王アンリ2世となるオルレアン公と結婚したのが、2人とも14歳の時。
そして40歳の時にアンリ2世は騎馬試合での大事故により死亡したものの、
69歳で亡くなるまでを王妃、そして国王母としての55年に渡るフランス生活。

結婚後10年以上子供に恵まれず、でしたが、その後は次々と10人を出産!
で、国王になった息子が3人、という、大いにフランス王家に尽くした彼女。

が息子の国王達も余り長生せず、国内では新教徒との長い闘争期もあり、
波乱万丈の彼女の人生でしたが、


イタリアから持ち込んだ物はフォーク、テーブル・マナー、料理、そしてお菓子!
として有名で、とりわけお菓子類となると即彼女の名が出る程!


そしてまたこんなのも持ち込んだと、こちらで。
カトリーヌ・ド・メディシス  フランスへの香水貢献とちょっぴりの暗黒面と


で今回のご案内は、明るい美味しい面の、料理とお菓子についてを。

参考にした記事は
カテリーナ・デ・メディチとお菓子への自由奔放な情熱:真実のお話

Caterina de’ Medici e la pasticceria francese 

カトリーヌはフランス宮廷の料理人に完全には満足せず、イタリア人料理人を
強く望み、そしてこれが結果的にフランスとイタリア料理の融合ともなり、
新しい、素晴らしい発展を遂げた事になるのですが、


まず1533年オルレアン公との結婚式の宴に用意され、現在では世界中に
広まり、フランスのお菓子として現在に至っているマカロン・macarons!

2-Macarons-1_GF.jpg

shinkaiも完全に、マカロンはフランスのお菓子、と思っていましたが・・。
美味しいですよねぇ!

マカロンは元は多分16世紀にヴェネツィアで始まり、フィレンツェを通り
パリに到着、という経過になるのであろうと。



フランス宮廷にお輿入れした将来の王妃、とは言え、夫には20歳年上の、
始めは家庭教師でもあった、大変に美しく賢く、信頼も厚い、という
ご愛妾のディアーヌ・ド・ポワチエ・Diane de Poitiersがおり、

おまけに結婚式で初めて顔を合わせた2人。 アンリは明らかにハンサムで、
彼女の外見に非常に失望し、気の毒にねぇ、そしてフランスの民衆一般は
王家の出身ではない、血統、身分の低い外国人と見なしたと。


そんなこんなもあり、結婚後10年も妊娠しなかったカトリーヌですが、
賢い彼女は気力を失わず、当時一般に信じられていた様に、宮廷医師が
妊娠を援ける筈の食品を摂取する食事療法を勧めた時、

イタリアから連れて来た料理人、パティシェ、菓子職人達にそれを伝え、
彼らの仕事が成功したのかどうかは分からずとも、
まぁ、お菓子に使う食材はカロリーの多いものが多いですしね、

一旦生まれ始めると、10年間に12人(双子も1組、1年間に2人もあり!)
という多産を実証、王妃存在の確立を。


そして、ソルベット・sorbetto. 現在のシャーベットの元となった冷たく
香りのよい氷、で、

3-s-l1600_GF.jpg



ジェラート・gelato、も同様に、砂糖と香りの氷水で、フィレンツェの鶏売り
ルッジェーリ・Ruggeriが発明したものと言われ、

4-36_GF.jpg

「凍ったお菓子」をテーマにフィレンツェで催された大会で優勝したのだそうで、
これらもフランス宮廷でデヴュー!


カテリーナはずっと抵抗する彼をフランス宮廷に留める事を望み、兵士に
強制的にパリに連れてこさせたものの、

フランスにうんざりした彼は秘密にしていたレシピを、メッセージと共に
カテリーナに届け、
「あなたの許可を得て、自分は私の鶏のもとに戻ります。 私のジェラートを
味わうだけで人々が満足し、私の事を忘れ、ほって置いてくれる事を望みます」と。

このお話、なかなか良いでしょう?! 宮廷、それもフランス宮廷も、名誉も、
彼にとっては何ほどの事もなかった訳で、ははは。



そしてザバイオーネ・zabaioneも、

6-zabaione_GF.jpg

確かスタンダールの「パルムの僧院」の中に、訪問先のお家で、パドヴァの
カフェ・ペドロッキ・Pedrocchiからザバイオーネを届けさせ、もてなしを、
という一節をよく覚えていますが。



カスタード・クリーム、こちらではクレーマ・パスティッチェリーア・
crema pasticcera!

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そして、シュー皮・pasta choux. カテリーナが連れて行ったパティシェの
パンタネッリ・Pantanelliが発明したそう。

7-pasta-choux-bimby_GF.jpg

フランス語で「シュー」というと芽キャベツを示し、出来た形がよく似ている、
という事からの命名だそうですが、

カスタード・クリーム、そしてシュー皮となると、シュー・クリームが即
どうゆう経過でできたか、分かりますよねぇ。

フランス人にシュー皮はとても愛され、エクレアはフランス人が作ったものと。



こういったデザートのみでなく、カテリーナが連れて行ったフランス宮廷の
イタリア人シェフや料理人にカテリーナは自分の好きなレシピを作らせ、
一般的に広まったフィレンツェ料理もあるそうで、

彼女はカルチョッフィ・アーティチョークの料理が大好きだったそうで、 
この丸い形はロマーナと呼ばれるもので、細長く尖った形の物も。

8-raccolto-carciofi_GF.jpg



左上はグリル、右上はマリネ、下が揚げ物。 どれもが美味しいのですよぉ!!

9-Carciofi-alla-romana-alla-giudea-e-fritti_GF.jpg



肉汁

10-brodo-di-carne-google_GF.jpg



クレープにホワイト・ソース。 野菜をクレープで巻き、ホワイト・ソース
をかけフォルノで焼いたもので、上品で美味しい一皿。

11-crespelle-al-forno-2_GF.jpg



玉ねぎのスープ。 写真は所謂オニオン・グラタン式ですが、イタリアではもっと
単純に、玉ねぎをさっと炒め、スープにした形もあり、美味しいですよぉ。

12-zuppa-di-cipolle_GF.jpg



カリフラワーのパスタ。 

13-pasta-e-cavoli_GF.jpg

記事にはpasta con il cavoloとあり、カーボロとはキャベツの事で、
開花したキャベツ・cavoli fioriがカリフラワーなので、ブロッコリではないと。



そして、魚の卵! これがちょっとした驚きの発見で、これです。

14-DSC_0801ok2ghok2_GF.jpg

分かります? pesce d’uovo・シチリア風のオムレツ。 中身はハムと
プローヴォラ・provolaという水牛のミルクから作ったチーズを、
溶いた卵で巻いたもの。
簡単に作れ、夕食用にも美味しく、時間の無い時に助かるレシピと。


でもなぜ、これが「魚の卵」という名? と考えながら写真を眺めていて、
ああ、そうなんだ、魚のお腹の中の卵、いわゆる「子持ち」に似ているからだ、と!
多分、これが命名の由来でしょう。

興味深かったのと、簡単に作れそうなので、今回の「絵ブログ」にレシピを
載せますね。 お試しを!



これはお砂糖のペーストを作り、そして花の形を作り出すもので、
カテリーナがこうしたお花を食卓に飾り、陶器を使い、フォークを使う
テーブル・マナーをフランスに伝えた、という訳ですね。

15-SH_cupcake_pasta_di_zucchero_GF.jpg



と言う様な、16世紀にイタリアはフィレンツェから、シェフや料理人、パティシェを
引き連れてフランス王に嫁いだメディチ家のお姫様が、

当時は未だ手で食べていたフランス貴族たちにフォークを教え、美味しいお菓子を、
料理を味合わせ、後々にまで残り、世界中に広がって行った元となった、
というお話でした。

16-Caterina-de-Medici-_GF.jpg



ですがね、こうしてレシピ名を見ると、当時はお姫様、そして貴族たちのみが
口にしていた料理なのでしょうが、

今となるとレストランのメニューにも乗らないような、一般家庭で一般庶民が
食べる料理ですよね?

こんなにも我々の口は奢り、もっともっと贅沢な美味も時に、しばしば、いつも、
の方々もおられるでしょうが、ははは、


カテリーナのお蔭で、こうして料理革命、お菓子革命が起こり、彼女の名が
しっかり歴史に残っている、というのも興味深い事ですね。


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