・ 絵の個展準備の為 ブログお休みと、 スコミーゴ村 夜明けの空

あっという間に1月も下旬となりました。

この3月21日から27日迄、東京八重洲地下街のギャラリーでの個展
1年越しに決まっているものの、
未だに本当に開催できるのかどうかの判断が出来ずにおります。 が、

それでも日程通りOKとなった時は大丈夫な様に、絵の詰めをしつつ、
我が絵の師である二木一郎さんが、既にDMのデザインをして下さいました。


肝心の絵の仕上げがまだで、へへ、色が実際とは違うのですが、
描いた本人が感激する程のデザインなので、見てやって下さいませ!

作品面デザイン原案_edited-9_GF.jpg

宛名面デザイン原案_edited-9_GF.jpg



日程通り個展が出来るかどうか、というのは

11月初めに、仕事で日本に帰国する場合、その受け入れ側から申請を
すると、査定の後自粛期間を3日間に、という通知があり、

既に日程は決まっていたものの、いつ飛行機の切符の手配などを、と
考えていたshinkaiは大喜びで、
申請書に書き込む為の飛行機の時間から切符も買い、ホテルの予約も取り、
ギャラリーの方から申請を出して貰いました。

なにせこのチャンスが無いと、日本到着後の14日間の自粛待機、というのは、
既に日本に家族も家もない私めには到底無理なので、喜んだのはご想像を!


所が申請を受け付けて貰って何日もしない内にオミクロンの発生があり、
と同時にこの度は即日本は鎖国となり、その後イタリアからの入国者は
6日間の隔離措置、という事になりました。

で、申請書はそのまま宙ぶらりんとなり、年を越しました。

そして1月10日過ぎ、隔離措置は2月末迄そのままに、但し入国後の
自粛期間は14日から10日、という通知が届き、

まぁ、政府としても、ヨーロッパを始め、世界の状況を見つつ、オミクロン対策も
考慮中なのだと思いますが、

2月末迄の措置がどの様になるか、出した申請書に対しては幾らかの対処を
して下さるのかどうか、今の所その様子見なのです。

つまり安い飛行機の切符を買っているshinkaiは、もしこのチャンスが
パーとなると、飛行機の切符代も戻らず、会期中のホテル代も既に支払済みで、
会期前後のホテルのみ解約OKという事になります。


また一方、日本も現在オミクロンが大幅に感染者数が増加しており、
万一個展を開催しても、皆さんに来て頂けない状態になると、それも困ります。

と言うような事で、いずれにせよ、準備はしつつ、状態の改善を待とう!と
毎日絵の仕上げに励みつつ、春の来るのを待っているshinkaiで~す。


写真は、1月7日の朝7時53分からのスコミーゴ村の朝焼け

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昨年1年間は白内障の手術3回、眼鏡の買い替え5回!という年で、
絵を描きつつも見えず、まずは一応出来た、という所で置いていたのでしたが、

今お尻に火が付いた状態になり、ははは、それと暫く前から漸くに視力が
落ち着いてきた様子で、少し長い時間粘って描けるようになり、

それもあり、やれやれと「一応仕上げ」だった作品を見て、手を入れ出すと、
なんとなんと描き込み不足ばかりが目につき!! きゃい~~ん。



日本の友人からのメールには、日本とイタリアの間の飛行機便が止まっている、
という知らせもあり、先日焦って郵便局に行き、

今日本には船便しかないと聞いたけど、一体何日で届くのかと尋ねると、
調べてくれ、大体10日から15日位と。 まぁ、今の時期だからね、というので、
では20日見て発送したら、日本に絵が送れるな、となり、

ではとにかく仕上げを頑張って、2月5日前後には送り出しますので、
額装の件お願いします、と広島の画材店にもお願いメールを出した所です。


そんなこんなで、少しでも他の事に頭が行かずに済むように、
2週間ちょっとの間、絵の発送が済むまでブログをお休みさせて頂きたく
どうぞ、宜しくお願い致しま~す!


1月8日の朝、8時ちょうど。 チラッと太陽が光った時。

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1月9日 7時42分。  煌めきが素晴らしく、

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南の空が見える方に移動したものの、陰り始め、

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また木々の隙間から、  7時46分。

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1月10日 7時33分。  南側が先に良い色になり始め、

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7時49分 日の出。

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絵の仕上げが出来たら二木さんに写真を送り、DMの写真を差し替えて頂き、
印刷所に、という事で、

皆さんへの発送はとにかく様子を見ての、3月に入ってから、という事で


その時にはブログで良いお知らせも出来、新しいDMも見て頂ける様
願っています!
宜しく応援お願い致しま~~す!!


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・ 描画鉛筆のファーバー・カステル社 創業由来と、オッティリーなる人物

絵のブログの昨年最後にちょっと登場した描画の為の鉛筆、色鉛筆、
パステルなどで世界的に有名な、「ファーバー・カステル」でしたが、

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ファーバー・カステル社のあれこれ


あの時はたまたま見つけたYoutubeの「こんな風に作ってます」ヴィデオで、


ご先祖様が作り始めた鉛筆工房が工場となり、事業成功で男爵位を授かり、

そして後継者となった「オッティリー」という若き女性が伯爵と結婚、

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ファーバー家の名も残し、伯爵家と一緒に事業を引き継いで行くのに、
ファーバー・カステル・Faber-Castell となった、という事を知りました。



その時に「後継者となった若き女性」オッティリー・Ottilieと、結婚した
アレクサンダー・ツー・カステル・リューデンハウゼン伯爵の顔を知ったものの、

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ふ~ん、という位で、そのままに。



所がこの13日! TVでの映画放映のサイトを見ていて唖然としたのは、
12日の夜に「オッティリー・フォン・ファーバー・カステルの実話。勇気ある女性」
というTV映画が放映された、というので、あちゃぁ、

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いつもはサイトの「映画」番組のみの項を見、「テレビ映画」の項は
見ないので見落としで、とても残念に思ったのでしたが、

段々あれこれを調べつつ分かったのは、「実話」とは言え、元になった小説を
参考に映画化で、ドラマにするのにかなりそれらしく盛り上げた、
というのが分かり、ああ、それならいいや、と。


つまり、彼女の結婚前に2人の男性がおり、その1人に彼女はより愛を感じて
いたものの、結婚し事業を進める為にも、彼女の財産により多くの興味を
持っていた男性、つまりアレクサンダー伯爵と結婚した、という荒筋。

まぁ、当時の19~20世紀初頭において、女性が事業家として企業を
率いるには幾つもの困難があったという、彼女の生涯を描いては居るものの、


へぇ~、と俄然興味を持ってあれこれ読んでみると、アレクサンダー伯爵は、
共同事業家として責任をもって企業を盛り上げ育て上げた実力者で、
               
オッティリー自身も伯爵に大変熱を上げており、TV映画のCMに描かれて
いた様な、2人の男の間での彼女を巡っての決闘など無かった様子!

で、実際にその男性フィリップ・フォン・ブランド男爵・Philipp Paul 
von Brand zu Neidsteinとは後20年後位に知り合い、
彼女は本気となり、離婚し再婚を、だった事も知り、

こうなると、尚の事本当の所はどうだったか興味が湧くでしょう?! ははは。
という事で、今日のブログに、という訳で~す。

参考にした記事は 




他にもあれこれ・・。


まず、元々のファーバー・カステルの鉛筆製造からお話しますと、

1761年ドイツのニュールンベルグ近郊のスタイン・Steinで、

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カスパー・ファーバー・Kaspar Faber(1730-1784)が
自分の工房で鉛筆製造を始めます。

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学校卒業後大工として訓練を受け、1758年にスタインに引っ越し、
そこで息子アントン・ウィルヘルム・Anton Wilhelmが生まれ、定住。

アントン・ウィルヘルム(1758-1819)は、ファーバー・カステル社2代目と。

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1761年、現在もファーバー-カステルの商標にもしっかり出ている年号で、
彼は小さな工房を持ち、当時の大工仕事の典型であった鉛筆製造を。

鉛筆製造を、ギルドが承認する工芸品に変えるには、ニュールンベルグの
街とその周辺の商業監督のラグサムト・Rugsamtからの承認が
得られなかったものの、鉛筆製造を続けます。


作り方としての大雑把な製法は、鉛筆の芯となる黒鉛に、粘土と水を加え
ミキサーで攪拌細かくし良く練り混ぜ、芯の太さに押し出し、長さを切りそろえ、
乾燥させた後焼き固める、という訳で、

黒鉛と粘土との割合により芯の硬度が違い、など、様々な工夫が凝らされて
現在に至っている様子。


純粋な黒鉛のみだと崩れやすく、1771年に硫黄、アンチモン、
バインダー樹脂を混合した粉砕黒鉛を使用した、鉛筆改良の最初の試みをし、

木の棒に鉛筆の芯を接着する技術は、当時ニュールンベルグでは既に知られて
いたものの、ファイバーはそれをしなかった、と。



ただファーバー・カステルのサイトで、1905年にアレクサンダー伯爵が発表した
カステル9000番鉛筆は鉛筆のスタンダードで、木軸と芯を全面接着で行い、
非常に折れにくい芯で、全16硬度での展開で、使いやすく幅広い表現が可能、
とありましたので、後に新発展が行われたのかも、ですね。


が、カスパーの生涯の間の鉛筆製造業事業はまだ小規模だったのを、
息子のアントン・ウィルヘルムが工業化したのだそうで、

https://www.faber-castell.com/ の、会社 歴史 と辿ると出ます。



3代目アントン・ウィルヘルムの息子ゲオルク・レオンハルト・
Georg Leonhard(1788-1839)と、妻アバーティン・Albertine.

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厳しい経済状況の中、工場を維持し、妻も積極的に彼をサポート。
彼らには3人の息子と2人の娘が。



4代目ゲオルグ・レオンハルトの長男ローター・Lothar(1817-1896)が
後継者となり、彼の管理下で工場は国際的な会社となり、

彼の経済的な成功と進歩的な社会的貢献により、1862年に貴族となり、
姓がフォン・ファーバー・von Faberとなります。

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5代目となるウィルヘルム・Wilhelmと、母親のオッティリー・Ottilie.

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ローターとオッティリーは1847年に結婚。今回の主人公のオッティリーは
この祖母の名を受け継いだのですね。



こちらが5代目ウィルヘルム・フォン・ファーバー(1851-1893)
スイスの学校でのビジネス・トレーニングを経て会社を継いだ、とありますね。
他の子供は幼くして亡くなり、彼は1人息子の立場。 男爵の称号を受けます。

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が42歳の若さで心臓発作で、3人の娘を残し亡くなり、



愛称をティリーと呼ばれた当時16歳のオッティリーは父親の死により
大きな財産を相続、
会社は当初ウィルヘルムの妻であったバーサ・Berthaの手に渡るものの、

祖父ローターの指示は当然オッティリーが後継者となる事で、彼女は1896年
成人となり会社で働き始め、



1898年21歳のオッティリーは、アレクサンダー・ツー・
カステルリューデンハウゼン伯爵・Alexander zu Castell-Rüdenhausen
(1866-1928)と結婚。

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バイエルン国王の承認の下、ファーバーの名を残したい祖父の希望をいれ、
企業はファーバー・カステル・Faber-Castellという、ロゴは変更したものの
現在の名に変わります。


こうして2人は長い新婚旅行で各国を見て回り、アレクサンダーは工場の
正面に居城を建設、常に仕事を綿密に追跡出来ることを目指し、

祖父の亡くなった後、後見人を務めていた祖母も「彼は責任を負い、
全ての事について相談することが出来、息子と同じである」と。

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2人の間には3人の娘と2人の息子が生まれ、1902年生まれのウォルフガングは
同年に亡くなりますが、

1905年には待望の男子ローランド・Rolandoが誕生。

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1903年に祖母が亡くなり、企業は完全に2人の手に渡り、彼の革新的な
ビジョンにより、企業は大きな成功を遂げ、全世界への道を歩み始め、
2つの世界大戦を挟んでも、オーストラリア、オーストリア、ペルー、
アルゼンチンに新しい工場が出来、

現在では120か国以上に普及しているブランドは、素材、デザインにおいて
最高のブランドの1つと見なされている事は、皆さんも良くご存じですね。


という事で、当時の社会事情から、女性1人が企業を引き継ぐには難しい問題も
多々あったろうとは思われますが、

家族経営企業であることは良く知られていたでしょうし、まして頭脳明晰な
伯爵と結婚、彼が最高経営者となっているには、余り問題がなかったのでは
ないか、と考察しますが、


実際問題は、結婚生活が安定していた1914年に起こった第一次世界大戦で、
アレクサンダーはベルギーの戦線にと家を離れた時に起こったのですね。

まぁ、夫が家におらず寂しいとか、企業の相談問題もあったのかも知れず、
また改めて結婚してからの事を振り返っての事からかも、
その辺りは分かりませんが、

オッティリーはフィリップ・フォン・ブランド・ツー・ネイドスタイン男爵・
Philipp von Brand zu Neidstein(1868-1935) と知り合い、恋に落ちます!

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オッティリーから夫アレクサンダーに   1916.6.22
 1年間私は我々のお互いの感情が既に同じでない事に気づきました。

 この1年半良く知る事を学んだ所の・・・彼と一緒に幸福でいたい、
 親愛なるアレクサンダー、今日は大きな要望と一緒に貴方の所に行きます:
 お互い自由になりましょう!

 ・・・誰も知りません、私が内部でどれほど、私が決断を下すまで
 どれほど苦しんだか。  ・・どうぞ、私の為にこの犠牲を払って下さい。
 私は偽る事は出来ず、そうは出来ず、だからです。

 ・・・私はあなたに息子を与えました、以前の様に彼の為に全てを管理
 して下さい。 あなたは私よりも上手く出来ます。


結局アレクサンダー伯爵は、妻のオッティリーと離婚することに同意し、
彼女は夫に企業を譲り、息子のローランドに彼女の持っていた半分の
企業株を渡し、居城を出て、フィリップ・フォン・ブランド男爵のもとに。



この辺りを読み、shinkaiには、これは財産を持っている女性だから
出来たことでもありましょうが、

彼女の映画評の「勇気ある女性」という言葉が一番相応しいのは
この場面ではなかろうか、という印象を持ったのでしたが、如何でしょう?!


アレクサンダー伯爵 50歳  オッティリー 39歳  フィリッポ男爵 48歳
というそれぞれの年令。 

この辺り、女性のみでなく、男性にとっても、あれこれ分かる事が増えて来ての
年代、そして先行きに対しても思いがこもる年令なのかも、ですね。



ファーバー・カステル社はローランドが、アレクサンダーとオッティリーとの息子
が7代目となり、唯一人の所有者として50年近い経営を保ち、

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8代目は2016年に亡くなった、アントン・ウォルフガング・Anton Wolfgang.

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既に9代目もおられるのでしょうが、知りませんで。
ローランド辺りから、王朝物語にも似た、広く深い婚姻関係で手におえず!

ですが、企業熱が今もしっかり生き続けている伯爵家であろうと想像し、

全世界に15の工場を持ち、セールス・オフィス18ヵ所、従業員8000人
2016年の総売り上げ 667000000エウロ、桁間違えてませんように!
という世界企業ですが、


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かってその中で生きた、若きフォン・ファーバー・カステル伯爵夫人が
居られた事を知り大変興味深く、そこから企業の経緯も辿った事でした。


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posted by shinkai at 02:43Comment(0)・欄外

・ パッラーノ ・ ウンブリアの中世からの歴史ある小さな村、競売、そして

先日偶然に目に留まったサイト記事に、
君主国競売に:ウンブリアの中世からの所有地が売り出しに

というもので、ウンブリアのテルニ県のパッラーノ・Parranoという
中世からの村が競売にかかる事になった。

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これは英国の不動産コンサルタント会社のChristie&Coを通じ、
不良債権の管理と回収を専門とする会社であるBayviewItaliaが
2021年10月に開催され、開始価格は1500万エウロ。

というもので、以下に、26のマスター・スイートとウェルネス・センターのある
パッラーノの城、これらは改装済み、そして村の中の4つの建物、
23の農家と農場、12の小さな湖、2500エーカーの農地、
741エーカーの保護された狩猟地、いくつかの厩舎、25000平米の
射撃場、宿泊施設、ウェルネス・センター、ゴルフ場開発の可能性、等など。

2-IMG_6701-e1519915591425_GF.jpg

というものですが、

タイトルから見て、まず驚いたのは、えっ、村全体が競売なの?で、
これはニュースの発表されたのが2021年7月13日だったようで、

即パッラーノの市役所に事情についての問い合わせが殺到し、
翌日には、
という記事も出され!


shinkaiも見つけた時、今年になってでしたが、??!!で、
なんでウンブリアの山中に君主国が?! という疑問と好奇心も。

そして記事を読み、関連項目を探し、写真を探す内に、長い歴史の変遷に
浮かび上がる人物像、そして村の素晴らしいたたずまい等に惹かれましたので、
今回はそれらを皆様にも。


まずパッラーノの位置ですが、

3-map parrano_GF.jpg

ご覧の様に、山中ではあるものの、フィレンツェから南に下る高速のファブロ・
Fabroのインターで降りると、10k程で村に到着する、という事で、



城も豪華ホテルに改装されており、他にもヴァカンス用の豪華ホテル、
そして村の周辺は緑豊かな自然と、「悪魔の洞穴」や「悪魔の浴場」と
呼ばれる温泉、約28度ですと、もあり、

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5-terme-del-diavolo-parrano-gole_GF.jpg



村の人口は500人ほど、が実際に村に住んでいる人は19人とか!でも、
写真でご覧になるとお分かりの様に、大変に手入れが行き届いた様子で、
村の人々が誇りをもって守っているのが良く分かります。

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周囲を囲む広いオリーヴ畑や、ワイン、ハチミツ、果物のジャムが産物で、
村の若い人々の努力で様々な催しも開催されている様子。

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海抜441mに位置し、それも小高い丘の上にある村で、

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周囲が開け、何とも素晴らしい位置! 

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かってのエトルスク遺物の発掘も不思議ではなく、

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旧石器時代後期、約2万年前の、「緑のヴィーナス」と呼ばれるこんな像も、
上に出た「悪魔の洞穴」辺りで発掘されたそう。  写真はwikipedia.

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丘の上に細長く広がる村の、東の門はポルタ・ピアッツァ・Porta Piazza.

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この門を入ると、右手に城の一部で右奥に広がり、左に市役所。

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少し先にこの村唯一の教会サンタ・マリーア・アッスンタ。 
教会と城とは連絡道で、君主たちは村の通りを通らずに礼拝堂に入れたそう。

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内部はバロック様式に改装。



西の門は、ポルタ・リーパ・Porta Ripa.

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このパッラーノの城は、元々ローマ期の要塞があった跡に建設された様で、
1118年オルヴィエートの司教グリエルモ・Guglielmoが、ロンゴバルド出身の
古いトスカーナの家系のブルガレッリ・Bulgarelliに村と伯爵位を与え、
それがパッラーノの出発点となった様子で、

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次々とこの一帯に領土を広げ、1世紀程後のマルシャーノ・Marsciano、
パッラーノから40kmほど東、の征服の価値は大きく、
一族は名をディ・マルシャーノに。

まずガレアッツォ・バリオーニ・Galeazzoが、持参金に城を持ってきた
ラヴィーニア・ディ・マルシャーノ・Laviniaとの婚姻から娘のジョヴァンナ、
跡継ぎのラヌッチョ・Ranuccioが生まれます。


で、ラヌッチョが1549年に結婚したのがオルテンシア・ファルネーゼ・
Ortensia Farnese、ヴィニャネッロの伯爵夫人オルテンシアは、
姓のファルネーゼから分かる通り、教皇パオロ3世の姪に当たり、

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この結婚が3回目! で、前の結婚の夫2人はいずれも殺害されており、
どちらの疑いもオルテンシアにかかっており、おまけに2人の子供の殺害を
火かき棒で!4人の子が中毒、少なくとも2人の子の殺害は間違いないと、
ジャンジャン!!


今回参考にしたサイト記事はあれこれあるのですが、
パッラーノの旅、ウンブリアの村の歴史、自然と伝統   が大変詳細で。


オルテンシアについてはウィキのイタ版で、生年は不明、が没年は1582年と。

2人めの夫とは1539年に結婚、1545年に未亡人に、
3人目のこのラヌッチョとは1549年5月に結婚したものの、1553年に
大工の手にかかり死亡という・・。

勿論取り調べもおこなわれたものの、いずれも犯行を証明できず、
彼女は無罪となり、「パッラーノのルクレツィア・ボルジャ」の名が。

上の写真のように、彼女についての本も出版されている様子で、
何とも傍から見るのには久方ぶりの興味津々の人物の存在があり!



で、パッラーノの城を彼女の跡に継いだのは、彼女の最初の結婚での子、
生き残ったアルフォンソ・マレスコッティ・Alfonso Marescotti.

この絵画は1750年のマレスコッティの子孫オッターヴィオの家族を
描いたもので、彼が君主国パッラーノの初代と。

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こんな田舎の小さな君主国の存在を不思議に思ったのですが、
元々教皇領であり、教皇が旅行の際にはこの城にお泊りもあった様で、
そんな事で、オッターヴィオの願いが叶えられたものと読みました。

で、1773年クレメンテ7世がパッラーノを君主国に昇格させますが、
1818年にはピウス7世が教会領地を抑圧し、城の所有者として
残っていたであろうマレスコッティは1873年に売却を。


城の持ち主が変遷する間、村は過疎化を経験しますが、住民たちは
村の活力と伝統を維持するために最大限の努力を払い、という事で、

確かに現在の村の様子を見ると、努力が続いているのが良く分かりますね。


城には立派な時計塔も残り、

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城内もかなりの威容を保った素晴らしい調度が残っており、

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城内を彷徨う女性の幽霊もいると!



問題の昨年10月の競売について調べて見ましたら、Asteannunci.itと
いうサイトで、何度かオルヴィエートで開かれた様がわかり、

11月23日に€22.088.767,40まで行ったものの、不調停となった様子で、
未だ行方が分かりません。



不思議な巡りで知った古い中世からの村と、その変遷に驚くと共に、
保っている美しさに惹かれ、チャンスがあったら訪問してみたくなり、

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村がどうぞ今後とも頑張って、美しく生き抜いて欲しいものですね!!


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・ チベットの砂曼荼羅  描き方、そして色、形、最後が意味するものは

色鮮やかな砂で描かれた、円、方形のチベット仏教の砂曼荼羅は
皆さんも良くご存じですね。

時にその制作過程をTVでご覧になった事もおありかと。

1-mandala-2_GF.jpg

何とも緻密な幾何学模様で、しかもそれを砂で描く!という、
その技術に感嘆すると共に、最後にはいともあっさり消される砂曼荼羅。
そこに込められた意味を知ると、暫しその深さに改めてふ~むと。

ずっと昔から惹かれていた曼荼羅について、実際にはいくつかの
サイト記事を読んでいたものの、なかなかご紹介するちゃんがなく、
まぁ、今回は年明けで良いかな、という事で、はい。

参考にしたサイトは
チベットの砂曼荼羅、信じられない程の精神性の円のデザイン

チベットの僧侶によって描かれる素晴らしい砂曼荼羅

チベットの曼陀羅:どんなのか、どの様に描かれるか知ってる?



「曼荼羅」という名はサンスクリット語、古代のインド・アーリア語に属する言語で、
現在の日常語では余り使用されないとのことですが、ヒンドゥー教の礼拝用言語
との事ですから、古代から伝承して残っている言葉と。

で、曼荼羅はサンスクリット語で「円」を意味し、そこからチベットの曼陀羅は
「全体・総体」を意味するもので、

それはまた「生命そのものの組織構造のモデル」ともみなされ、
我らの「体と心の、内と外に広がる無限の世界」とを思わせる「宇宙図」と。

2-mandala-5_GF.jpg


と、まぁ、あまり難しくなると、書いているshinkai自身が付いていけませんので、
へへ、論理的な事はさておき、


チベットの曼陀羅は、いくつかの円、または正方形がある円を含む正方形で、
これは、ご覧になって良くお分かりの通りで、


多くの幾何学的な形や、精神的な意味を持つ、古代のシンボルを含む
伝統的な図像に従い装飾されますが、


さて、ではどの様に描かれるかですが、色付きの砂が使われますが、
これは「dul-tson-kyil-khor」と呼ばれる特別な慣習に従っており、
文字通り「着色された粉末の曼陀羅」の意味なのだそう。

かってはラピスラズリやルビーなどの貴石が使われた事もあったそうですが、
現在は「粉砕された単純な白い石を、不透明染料で染めた」のを使用
しますが、

10-mandala_sabbia_8.jpg


後程ご紹介するヴィデオのご紹介の中にも出てきますが、

まず制作に取り掛かる前に、僧侶がマントラ・祈りの言葉を唱え、
笛やドラムの演奏する開会式から始まり、

最初にチョークを塗りつけた紐で、平面に曼陀羅の輪郭を注意深く
測定し、決めて行きます。

ええと、大工さんが使う墨紐、ですか、あれと同じ要領の紐ですね。

3-mandala_sabbia_1.jpg



こうしてパターンの準備ができると、色付きの砂の粒はチャクプルー・
chakpurと呼ばれる細い金属漏斗・ロート、じょうごから、
図の表面に注がれますが、
時には指でつまんで注いだり、手のひらから薄くばらまいたり、も。

4-mandala_sabbia_3.jpg

5-mandala_sabbia_2.jpg

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伝統では4人の僧侶が同じ曼荼羅で同時に、つまり曼荼羅の4つの
象限の1つ、つまり2直線で仕切って出来る4部分の1つ、が割り当てられ、

僧侶たちは中心から外に向かい、とにかく非常に非常に忍耐強く、
色砂の粒を配置していきますが、

単に平面のみならず、こんもりと盛り上がっているのにも感嘆します!!

6-2-Realizzare-un-mandala-tibetano-1024x683_GF.jpg

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そうそう、使われる色が持つ意味ですが、

1. 白  は、直感と神聖なものに関係し、白を置いたスペースから
       離れる時は、インスピレーションの源として超越的なものと触れたい、
  を意味すると

2 .赤  は、進取の気性、勇気と機知に富んでいる事を現し、

3. 黄  は、知性と知恵の色

4. 黒  は、反省の瞬間の必要性を

5.  青  は、精神の本質な存在、夢と想像力の力を現し

6.  緑  は、我々の内に芽生える地球の色を指し

7.  紫  は、遊び心と超越の間に存在する調和を

8.  茶  は、肥沃、多産の色

9.  オレンジ  は、満足と幸福の状態を表す、

という事で、全部で9色ですが、その濃淡も含め、色の鉢を見ると19色程かも。

11-mandala_sabbia_9.jpg


ですが、各色にその持つ意味はあっても、こうして曼荼羅を見るとです、
なんとなしshinkaiが描くときと同じ様に、へへ、
この色の隣はこの色が良いなぁ、あっちの色の方が良いかも、
と選ぶ様な事は無い? あるだろうけどなぁ、と思うのですがぁぁ。



こうして一つの曼陀羅を完成させるには、時間と忍耐力、そして正確さが
必要で、細部の描きこみの量によっては、数週間かかる場合があるそうで!

出来上がった所で、やはり記念写真を撮る事もあるのでしょうね。

12-mandala_sabbia_13.jpg


で、こうして数週間かけて出来上がった曼荼羅の命は非常に短く!


完成後まもなく、細心の注意を払い、精魂込めて描いた曼荼羅を、
完全に破壊、消していきます。

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14-mandala_sabbia_12.jpg

これは、「非執着」を学び、「永遠に続くものは何もない」を理解する事と。


「平家物語」の始まりの有名な言葉、

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

そうなんだ、仏教の教えはチベットも日本も同じなんだ、と思い、


色砂のチベット曼荼羅の、あの鮮やかな美しさも、花の命の短さと同じ、と
教えているのだなぁ、と、とりわけ今の時期、心に響いた事でした。

15-Mandala-tibetano-768x447_GF.jpg



最後、こちらで曼荼羅制作のヴィデオをどうぞ。

16-mandala 1_GF.jpg

タイトルは「チベットの砂の曼陀羅の素晴らしさと、その色に隠された裏の意味」

このヴィデオで見る曼荼羅は、中央が何層にもなった素晴らしく大きなもので、
チベットの寺院の中の作と想像され、是非ご覧下さる様、お勧めいたします!


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・ スコミーゴ村から、 新年のご挨拶を!

皆さま、新年明けましておめでとうございます!

どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます!

実は年明けのブログをどうしようかと考えていたのですが、
新年早々にはアフリカから高気圧、凄く暖かいのが届くと言い、
昨夕天気予報を見ると、1日の朝は朝7時54分に日の出、との事。

では日の出を撮りに行こう!と考えていたのが、
朝7時のTVニュースを見た後、鎧戸を開けると、なんと、真っ赤か!!

きゃぁ、と即ブーツをはき、厚いダウンを着こみ、お隣のオリアーノ村に。

ここは我がスコミーゴ村よりも確かうん十メートル高いので、
見晴らしが効くのですね。

オリアーノ村の鐘楼と、小さなロータリーの横にはAUGURIのネオン。

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見下ろす平野は靄がかかり、でも明るい色の空には一筋の
煌めく雲が走り、

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見えますか、左から延びるヴェネツィア方面への高速を走る
車のライトが、ここでは2つほど動いて行きます。

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空は色が良い色に染まり。 家を出てここまで来る間にも、見えた真っ赤は
既に柔らかい色になっていたのですけど、まぁね。



東のフリウリ方面には明るい色の雲の縞。

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時計を見て、まだ日の出の時間までは15分以上もあるので、歩いて
見晴らしの良い先に向かい、

こんな風に、日の出の予感を示す色が出ているのを見て、安心。

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南東側の空の色。

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ふと見ると、北のベッルーノとヴェネト平野の間に屏風となっている
ビゼンティンの山に朝日が射しピンク色に!

居る場所からは先っちょしか見えず、この厚い雲だと日の出が見えないかも、
との危惧もあり、ではあれを撮りに、と100mほど引き返し。

何とかお家の屋根の間から撮りつつ、

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ふっと隙間から見ると、なんと日の出! ピッっと木立の向こうに光ってるぅ!!

焦って走りましたよぉ、ははは。

最初の1枚は、木の枝が少し邪魔ですがぁ、雲の隙間で撮れ。

2022年スコミーゴ村、オリアーノ村の初日の出。 7時59分

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少し移動し、半分出て来た所を。

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これが最後に撮った、半分以上出て、実眼ではもうまぶしくて見れない所。

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3枚の間に実際は何枚も撮っていますが、本人以外には大した違いはね、と
かなりの間引きね。



東側の良い色。

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これは南、コネリアーノ方面のお城の高台の位置で、塔が見えますか?

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周囲の木々から露がぽたぽた落ちる音が聞こえ、
草の先の露が太陽の光を浴び、ピンクに染まり。

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東側の、丘の上に見えるカステル・ローガンツゥオーロの教会と鐘楼。

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この丘の姿を眺める毎に、ティツィアーノが大金で描いた祭壇画とその行く末、
村の人々が未だに持つ想いを思い出し、ふっと笑いが沸きますが、不謹慎で!


ヴェネトの春、 そして ティツィアーノの家 n.1 

ヴェネトの春、 そして ティツィアーノの家 n.2

古きロンゴバルドの教会と、「ティツィアーノの家」始末記 n.2



そろそろと駐車場に戻りますが、北寄りの、既に薄めのピンクになった空。

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コネリアーノに向かって下って行く、かなりの坂道。

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この坂道を、鹿たちが横断した時に出会った事があり、
冬枯れの丘、色  オリアーノ村散歩 



道脇のお家の庭に咲き残る、生き残る、薔薇、ですよね?

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少路の隙間から平野を見下ろすと、この高低差!

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北のピンクに染まっていたビゼンティンも、もう白い残り雪だけに。

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という事で、約1時間の朝散歩、焦って走ったりも含め、ははは、
一応ミッション成功で家に戻りました。



お正月の何日かは暖かいとのことですが、その後はね、こんな予報です。

この100年無かったほどの「寒い冬」に備えてね! って!!

meteo-inverno-2021-2022-previsioni_GF.jpg

きぇ~! オミクロンに寒い冬、雪たっぷり、って可哀そうすぎるやんかぁ!!


でもね、新しい1年の始まり、頑張って生き抜きましょう!!

良いお正月休暇をどうぞ、ね!


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