・ 「アンネの日記」 出版75周年にちなみ

昨日6月25日、朝いつもの通りグーグルの検索ページを開くと、
こんな「アンネ」のイラストが。

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すぐ、ああ、アンネだと分かったものの、なんで今日?と思い、
イラストの下にポイントを合わせると、
「アンネ・フランク」に敬意を表して、と。

それでもなお分からず検索すると、
70か国語に翻訳:「アンネの日記」本日出版記念日

つまり75年前の6月25日にドイツ語版「裏の家・ 」として
出版された記念日と分かったのでした。

ついでに、この何かの記念日、記念物で出るのは、
Google Doodle(グーグル ドゥードゥル・落書きの意)
というのですと。


であれこれ読みつつ、これまでなんとなしに分かっていたつもりの
詳細が、単に昔読んだ彼女の日記の表面のみでなく、

詳しく日取りを追いかける事により、そうだったんだ、という部分が
あれこれあり、皆さんも既によくご存じかと思いますが、
日記の外側周辺、あれこれをご紹介したくなりました。

参考にした記事は
「アンネの日記」 75年前
Il “Diario di Anna Frank”, 75 anni fa

アンネフランク、なぜ6月25日に落書き・ド-ドゥル。 日記の歴史
Anna Frank, perché un doodle il 25 giugno. La storia del Diario

75年前、出版された「アンネの日記」
75 anni fa veniva pubblicato il “Dario” di Anna Frank

全てを救おうとした後、アンネ・フランクの日記を救ったミープ・ヒース
Miep Gies, che ha salvato il diario di Anna Frank dopo aver cercato di salvare tutti 

ホロコーストの犠牲者の記念に捧げられた記念日
Il Giorno della Memoria, dedicato alla commemorazione delle vittime dell’Olocausto


この、赤と白のチェック柄、ポッチン付きの日記帳は、
1942年6月12日 彼女の13歳の誕生日に受け取ったもので、

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女の子に人気のある「キティ」宛に書いていると想像しつつ、
オランダ語で日記を書き始めたのでした。

そうなのです、彼女は15歳で亡くなりましたから、わずか2年程の間、
それも生活が激変し、隠れ家に潜んでいた間が殆んどの事。


通称「アンネ・Anne」、Annelies・アネリーズ・ Marie Frankは
1929年6月12日にドイツのフランクフルトで生まれましたが、

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1933年ヒトラーが政治の表舞台に登場し、「人種法」が定められ、
反ユダヤ主義が始まった事から、父親オットー・Otto Heinrich Frankは
同年の夏オランダのアムステルダムに移住する事を決め、

妻のエディス・Edith Hollanderと共に家を見つけ、会社を持ち、
アーヘン・ドイツとオランダの国境の祖母の家に居た長女のマーゴット・
Margotが最初に、そして1934年2月にアンネが加わります。


という事は、アンネが7歳、この家族皆が外で笑顔の頃でしょうか。

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生活が落ち着き、幸せな期間が始まり、
姉のマーゴットとアンネはユダヤ人の高校に在籍し、様々な制限にも
拘らず、状況を回避する努力を続ける両親のお蔭で、激しい社会の
中での生活を続けます。


が、7年後の1940年5月10日には、ドイツ軍がオランダに侵攻、
ユダヤ人迫害がドイツ国境を越え広がっているという恐れが広がり、
大変に先見の明のあるオットーは、非難するのに安全な場所を
捜しはじめ、

というのも、ドイツの労働キャンプに送られた、という名目で多くの
ユダヤ人家族が跡形もなく消え、ナチスが建設しているという
「ガス室」の噂が強くなっていたからで。

そして1942年7月に届いたマーゴットの召喚状、「東」での仕事に
出頭する様にという命令に、家族はパニックに。

既に時間は無く、家族全員ナチの総括から逃れる為に地下に潜り、
友人一家であるヴァンピール家・Van Peelsと、これはヴァン・ダーン家・
Van Daanと記しているのもあり、ユダヤ人歯科のリッツフェファー・
Rritz Pfefferと一緒に、

オットー・フランクの会社の上裏スペースの2階建て、
アハテル・ハウス・Achterhuisに隠れる事を決めます。


こちらが通りに面した建物正面で、

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これは現在博物館となっている、標識と。

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「アンネの日記」の最初の出版タイトルが」裏の家」という通り、
運河沿いの表の建物に続いて、裏の建物が連絡していた様で、

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表の建物3階部分から例の本棚で隠された奥の家に通じ、
奥の家は2階分と、屋根裏部屋、という事ですね。



こちらが、有名な本棚を模した隠れ家への入り口。

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ドイツの市民権は既に1935年に拒否されており、これ以降一家は
無国籍者で、市民権も無く、

という事は最低の食糧を受け取れる配給クーポンも無く、
が、食物に関しては、ナチス政権に敵対し、ユダヤ人の不法移民を
援け、食物や基本的必需品を持ち込む友人たちのグループがおり、

一家は1942年7月6日から、1944年8月4日までの2年間、
遅かれ早かれ戦争が終結する事を期待し、この隠れ家に移りました。



ご覧頂いた赤白チェックの日記帳はここに移る直前、
1942年6月12日の誕生日に貰ったものだったのでした。

「私は誰ともできなかった事、あなたを全面的に信頼し、打ち明ける
事が出来るように願い、あなたが私を大いに支えてくれる事を
望みます」
確かこの文章から始まった、というのを覚えていますし、

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読んだ時の記憶が良く残っているのは、引っ越しの夏の暑い日に
何枚もの衣類を着込み、確か冬のコート迄も、隠れ家に持ち込んだ、
という一行で、そう、7月の初めだったのですね。



漫画「アンネの日記」・Anne Frank-Diario a fumetti
から拝借の隠れ家内部の図解で、

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一番左に「秘密の入り口」があり、中に入り、右手に洗面所とトイレ、
奥の部屋のこちら手前がアンネの部屋、右奥がオットー夫妻と
マーゴットのベッド。

階上に階段上がって直ぐがペーターの部屋、そして右奥に居間と台所、
そして壁の奥にヴァンダール夫妻のベッド、歯科医のベッド、と
あったのでしょう。



こちらの図の方がよく分かるかな?

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いずれにしても、狭い場所に何とかベッドを入れて、という状態だったろうと。



日記の中にもよく登場するミープ・ヒープさん・Miep Gies、オットーの
会社でも働いていた方だそうで、彼女のみでなく、彼女の夫も大いに
一家を援けていた様子ですが、

彼女が予期せぬ用で訪れた時、台所でアンネが1人で、テーブルは
彼女が1人で使えるようになっていた時間帯だったらしく、

突然にミープさんを見て刺すような眼ざしで見つめ、それまでの彼女が
深い考え、集中力に入り込んでいた様子に、
ミープさんも戻ってから、あれはいつものアンネではなく作家の顔だった、と。



1944年3月28日のラジオ・オレンジ、オランダ政府のラジオ局が亡命し、
海外からラジオ放送を続けていたのが、

この日、非占領期間の記録を書面で保管するよう、国民に訴えたそうで、
アンネも戦後に出版されることを期待し、日記を再調整する事にしたそう。


日記はご存じの様に、1942年6月20日から、1944年3月29日迄、
つまりゲシュタポが隠れ家に侵入してくる数か月前迄、
彼女と家族、同居者の変遷が描かれており、

13歳だった少女は徐々に深い思考を持ち、日常生活に恐れを持ちながら、
作家になるという野心、同居している家族の息子ペーターへの感情、
子供時代から青年期への移行、そして両親との衝突も・・。

繊細で深い感受性を持つ彼女は、日記に向かい合い、日々の様子を
記しながら成長し、2年という年月以上に大人になっていたのでしょうね。

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午前中8時半から12時半は物音を立てないよう、トイレにも行けず、
どうしてもの時は囁き声で、暗くした部屋の中で、空を見るのは
屋根裏部屋の天窓を通してだけ、という毎日。

食物は乾燥食品、豆や、野菜、これは腐ったものも含め、珍しい
何か分からない肉、圧倒的にジャガイモが多く、午後は皮むきに
追われる生活が2年間ちょっと続いたのでしたが、


1944年8月4日金曜日の朝、全ての人と同じ様に見えた静かな朝、
ゲシュタポはタレコミを受け、下の事務所と奥の隠れ家を襲撃し、
全ての隠れ人と、その救助者が逮捕され。

こうして隠れ家への強制期間を終え、一家は地獄への旅を。
1944年8月8日、フランク一家とヴァン・ダーン家はオランダの
ヴェステルボルク収容所・Westerborkに移送され、

ここは区分けの為の収容所で、1944年9月2日アンネと姉のマーゴット、
他グループは絶滅収容所行の貨物列車に詰め込まれ、

1944年10月6日ポーランドのアウシュヴィッツ絶滅収容所・
Auschwitz-Birkenauに。

ここで姉妹2人は約1か月過ごした後、1944年10月28日
ベルゲンベルゼン収容所・Bergen – Belsen、ドイツ・ハノーヴァーに。

ベルゲンベルゼン収容所は絶滅収容所ではなく、交換所であり、
ガス室も無く、姉妹の救いの希望があったのですが、

1945年2月姉妹2人はチフスに掛り、ベルゲンベルゼンを生き延びた
女性の1人が、熱により引き起こされた幻覚の中で、服を脱ぎ棄て
毛布のみでいるのを覚えており、

「私にはお母さんも、お父さんももういない、もう何もない・・。」
と呟くのを。

栄養不足の2人はますます弱り、マーゴットが最初に、そしてアンネが。

2人が亡くなったのは、従来1945年の3月と言われていたのですが、
医師によると、チフスの最初の症状の発症後12日以内に発生という
事から考え、2月に死亡したのであろうと。


一家で、隠れ家にいた人の中で唯一生還したのはオットー・フランクで、
回復した後アムステルダムに戻り、

そこで床に散らばっていた「アンネの日記」を拾い集め、決して読まず、
ずっと秘匿していたのを渡したのは、
一家を実質的に援助していたミープ・ヒースでした。


こうして父親オットーは、娘が構成した資料を使用し、いくつかの
変更と削除を行い、
1947年6月25日に「Het Achterhuis・裏の家」というタイトル、
独語で出版、というのが、

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75年前の昨日だった、という記念日でした。


その後1952年に英語版で出版、1980年8月19日にオットーの亡後、
バーゼルのアンネ・フランク財団は、アンネの著作に忠実なバージョンを
作家に依頼し、父親が修正、削除した部分を復元した公式版を。

現在では70国語以上に翻訳され、3000万部以上販売されているのも、
15歳になる以前の少女の、真摯で、生き抜きたいと願っていた様子、

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ギリシャ、ローマの神話、ヨーロッパ中の王室の系図を愛し、映画が
大好きな、作家を夢見る少女の姿が、

時を経て世相の違いがあっても、いつも心に直接に響くのを感じ取れ、
共感するからだろうと考えます。


この右に見える表紙に見覚えがありますから、私が読んだのはこれかも!

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そうなんです、今回中学1年の時に彼女の事を知って以来、
私にとっては様々な原点となった「アンネ」を改めて思い出し、

もう一度今の時点でどう感じるかと、オリジナル本を読んでみたく、
早速キンデル本を注文し、ダウンロードした所です。


現在のウクライナでの戦争の様子と常に重なる思いがしますし、
当時よりももっと悲惨な戦争禍のニュースをTVで眺め、

今ほど戦争についてニュースを追いかけた事が無かったと自覚しており、

かって、身をもって巻き込まれた15歳の少女がとても愛おしい!です。


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posted by shinkai at 01:59Comment(0)・欄外

・ 中世ヨーロッパの素晴らしい細密画に残る、10の街 

今日のご案内は、中世に描かれたヨーロッパの町々の細密画を。

つまり中世期の街の構造は今も多くの街、村にその構造を
残しているので、今と似ている、またはほぼ同一、というのが多く、

中世の細密画家は町の構造と形を詳細に説明する図を
作成、残している事が良くあり、
今の時代にもその細密画を見ると、当時を偲び、辿る事が出来ます。

という事で、中世においての大きな街の細密画15点、から
10点を選んで、皆様にも知的に! 地理的な復習も兼ね!

というのもshinkai自身、あれ、正確に言うとどこにある?
と迷ったのが幾つもありましたので、へへへ、

を参考に、どうぞご覧に。


1. エルサレム  6世紀

1-1-gerusalemme-medioevali-nei-disegni-dellepoca-15_GF.jpg

ヨーロッパのキリスト教徒にとって、一番重要だった町の1つエルサレム。

この画像は、なんと「聖地の地図」と呼ばれる大きなモザイクの1部で、
ヨルダンのマダバ・Madabaの、サン・ジョルジョ教会がかっての
ビザンチン教会の跡に建設された時に発見されたのだそう。

紀元560年に遡るこのモザイクは、聖地エルサレム全体の完全な地図を
表しており、エジプト、パレスティナ、レバノンなどなど、
150を超える土地からエルサレムに到達する為の行程図が含まれているそう!

上のモザイク図でも、右と左、そして上にも見える町の門への到達、
なのでしょうね。

素晴らしい作品と!


エルサレムの位置

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高い城壁に囲まれ、この中何キロメートルか四方に、ユダヤ教、キリスト教、
イスラム教の聖地がある、という何とも不可思議、密な土地ですねぇ。

1-3-gerusalemme m_GF.jpg



2. ロンドン 13世紀

2-1-londra-nei-disegni-dellepoca-05_GF.jpg

細密画、という触れ込みでしたが、これは余り細密でなく、へへ、
おまけに13世紀とで、当時のロンドンがいかに田舎であったか・・!



ロンドンの地図は必要なし、と思ったのですが、後でヨーク・Yorkも
登場しますので・・。

2-2-york_GF - Copia.jpg

ハードフォードシャー・Hertfordshire・ロンドンの北、のベネデット派の
セント・オールバンズ・St. Albans修道院で人生の殆どを過ごした
重要な歴史家、細密画家、地図製作者であった

マシュー・パリス・Matthew Parisが、1250年頃に作成した
ロンドンの街の最初の描写、だそう。



これは見つけたロンドンの地図ですが、15世紀かな、不明で済みません。

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3. コスタンティノーポリ = イスタンブル 15世紀

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地図製作者、地理学者、修道士、イタリア人(1386-1430)の
クリストフォロ・ブオンデルモンテ・Cristoforo Buondelmontiが
1422年に作成した地図。

とてもすっきりした図で、色、彩も素敵と思われませんか?!

フィレンツェの重要な貴族家の生まれで、コスタンティノープルのみならず、
ロードス島、クレタ島、キプロス島、ダーダネルス海峡なども訪れ、

ダーダネルス海峡、ってどこだったっけ? と検索し、へへ、
エーゲ海と黒海に繋がるマルマラ海を結ぶ挟溢な海峡と。

ええとつまりです、イスタンブルの街をアジア側、ヨーロッパ側と分けて
通っているのがボスフォラス海峡で、

ダーダネルス海峡はそこから南に下った所、マルマラ海とエーゲ海を
結ぶ海峡。

とね、このブログを読まれる方、お勉強になるでしょう?!
ははは、でも知らぬはshinkaiだけだったりしてね。


という事で、地図にもダーダネルスの位置を入れましたです。

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上の地図が作製されたのは1422年。1453年のトルコによる征服前の
コスタンティノープルの地図、
現在も未だある都市のもっとも古い地図、となるのだそう。



こちらはそれ以前、ローマ期のコスタンティノープルの姿、想像図。

3-3-costantinopoli_GF.jpg

素晴らしく立派で巨大な競馬場については
ヴェネツィア、 サン・マルコ聖堂入り口上の4頭の馬について
https://italiashinkai.seesaa.net/archives/20210524-1.html

イスタンブルのご案内は、こちらから
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460834203.html



4. シエナ  14世紀

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「都市における善政と悪政の効果」のフレスコ画は、1338、39年の間に
アンブロージョ・ロレンツレッティによって描かれたもので、

「善政」の方は良い統治のために調和がとれた秩序ある社会を示し、
「悪政」は、悪い政府による廃墟、という寓話が描かれている物。


シエナと、相克のフィレンツェの位置も。

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シエナの中心にあるカンポ広場。 奥に政府が置かれていたプッブリコ宮
があり、その前に広がるカンポ広場は、当時政治を司っていた
「9人政府」にちなみ、
貝殻状に広がったカンポ広場が、9つに区切られているのが分かりますか。

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ロレンツレッティの壁画と、「9人政府」に関する記事は
n.5 シエナのプッブリコ宮 内部の2
https://www.italiashiho.site/archives/20200410-1.html

その他のシエナのご案内は、こちらから
https://www.italiashiho.site/article/473810580.html



5. ヨーク・York  15世紀

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これは15世紀の初め、イギリス北部のヨークの様子を描いた手稿本の1部と。
としか説明が無いのですが、

城壁に囲まれた町の中を川が流れ、教会や大きな館があり、
中では上層部の皆さん方が結構な生活をしておられる様子で・・!

かなり洒脱な筆さばき、と見ますが、
注文主か、または画家は、庶民生活には興味が無かったのかな?



ヨークの位置は。

5-2-york_GF - Copia.jpg



現在のヨークの街。  やはり大きな教会、聖堂が見えますねぇ。

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6. ニュールンベルグ  15世紀

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「ニュールンベルグ年代記」と呼ばれる世界の図解歴史書は1493年に描かれ、
1800以上もの図解がこれに付随している、当時のもっとも重要な
印刷物の1つ。

ヨーロッパのたくさんの街が描かれており、このニュールンベルクの街は
見開きの2ページに渡るものだそうで、見事ですねぇ!



位置をどうぞ。

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人口50万を超える、ドイツ全体では14番目、バイエルン州では2番目の、
中世から続く伝統あるドイツ史にとって極めて重要な街なんだそう。

ナチス政権の要人を裁いた「ニュルンベルク裁判」がこの街で開かれたのも、
歴史的に重要な街であったことからナチス政権は政権掌握後一貫して
ナチ党党大会をこの街で開いていた事、などから象徴的に行われたのだと。



現在の街の姿を探し、その重厚な美しさに驚きましたが、
この水辺の風景は本当に見事ですねぇ。

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余りドイツの街に興味を持ったことが無かったのですが、
少し興味が開けたような・・。



7. フィレンツェ  14世紀

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この洗礼堂が美しいフレスコ画は、ビガッロ博物館にある
マドンナ・デッラ・ミゼルコルディアに捧げられた物、と。

あれ、ビガッロ博物館てどこにあったっけ?と探しましたら、


はは、何のことは無い、ドゥオーモの文字通りおひざ元、正面左向い角、
これをご覧になると即お分かりですね、この博物館にあり、

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画家の名が分からないこのフレスコ画は1342年に描かれており、
既に当時のフィレンツェの街の並外れた概観を示します。



こちらも。

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ビガッロ博物館についてのあれこれは
花のサンタ・マリーア大聖堂 ・ フィレンツェ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466186883.html

フィレンツェの街のご案内あれこれは
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460834440.html



8. ロードス島  15世紀

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1487年頃に書かれた、ドイツの騎士コンラッド・フォン・グリューネンベルク・
Konrad von Grünenbergによる、コスタンツ・Constanceからエルサレム
への巡礼日記には、旅の途中で出会った幾つかの街についての説明があり、

歴史地理学の本としても、旅行文学に先駆ける作品としても、手稿本と
しても大変に意義があり、1700年代に大変に流行したのだそう。

エーゲ海にあるロードス島の港は、巡礼旅の段階の1つだったと。
という事で、大変に繫栄している港町の様子ですが、



ロードス島の港の位置を。

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現在の港、多分旧港と思いますが、なかなか趣があるでしょう?

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かっては、港の入り口に、アポロ神の大彫像が脚を広げて建っていた、
という言い伝えがあるそうで、繁栄を偲ばせます。


shinkaiには巡礼の旅説明の、ドイツのコスタンツから、というのが
大変懐かしい思い出を引き出し、というのも、


ヴェネト州のカステルフランコ・CasterFrancoの町は、画家ジョルジョーネ・
Giorgioneの生地、生家とされる博物館もあり、
彼の描いた素晴らしい祭壇画もすぐ隣のドゥオーモにあるのですが、

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左のマルタ騎士団の鎧の若者、マッテオの父親トゥーツィオ・コスタンツォ、
その父親ムーツィオはキプロス島の副王であり、
トゥーツィオはヴェネツィア共和国で傭兵隊長として働いていたのが、

キプロス島の関係からも、キプロス女王であったカテリーナ・コルナーロと
信頼関係を結び、いや、もうちょっと進んだのかも、などなどのあれこれを
かなり調べた事がありましたが、はぁ、

カテリーナ・コルナーロ・Caterina Cornaro(1454-1510)について
アーゾロを彩る女性ふたり ・ アーゾロ市立博物館 n.2
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463693935.html

ジョルジョーネ、トゥーツィオ・コスタンツォについて
カステルフランコの町 ・ ジョルジョーネ展
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462522712.html

その時に、コスタンツォ家はドイツのコスタンツから来た、という事も知り、
そんなこんなが一度に思い出され、懐かしかったのでした。



地図を。

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コスタンツの街を。

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9. パリ  15世紀

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フランスの歴史家ジャン・フロワサール・Jean Froissartの「年代記」
これは中世の最も重要なものの1つから取られたこの画、
パリの街で歓迎された「フランスのイザベラ女王」、という説明で!



はい、おフランスのパリ、の位置にてござります。

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で、調べましたが、この「イザベラ・オブ・フランス」なる方(1295頃ー1358)
フィリップ4世(美男王)の王女、イングランド王エドワード2世の王妃、

その美貌は「ヨーロッパ一」と謳われた、とあるものの、です、

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夫王を押しのけ、愛人の貴族と組み実権を握り、15歳の息子を即位させ、
云々と続き、
「フランスの雌狼」と呼ばれた方らしゅうございまして・・!

ご興味のある方、ウィキペディアに詳しくありますので、どうぞ!



10. 理想の街  15世紀

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架空の都市の広場は、ルネッサンス期の都市計画の理想を示し、
この1480年の絵は、アメリカはボルティモアのウォルターズ美術館・
Walters Art Museum di Baltimoraに所蔵。

多くの仮説、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、フラ・カルネヴァーレ等の
名が挙がっているものの、誰の手になるものかは分かっていないと。



◆ 訂正 ◆
こちらも、「理想の街」として知られる、ピエロ・デッラ・フランチェスカ作で
あろうとされる作品で

シニョレッリさんからコメントを頂き、教えて頂きましたのでここに訂正を。
ピエロ・デッラ・フランチェスカ作、というのは既に訂正され、
ウルビーノのドゥカーレ宮の設計をしたルチャーノ・ラウラーナ作(1420-1479)、
というのが定説になっていたのが、そうでない、という証拠が出て、
現在は作品のあるドゥカーレ宮の美術館でも、作品紹介板にも
「中部イタリアの無名作家」と出ているそうです。

shinkaiは、如何にも怜悧な色形、遠近法、というのがピエロらしいなぁ、と
好きだったので、違うとなると少し残念です。

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マルケ州ウルビーノの、ドゥカーレ宮の美術博物館に。

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ウルビーノのドゥカーレ宮に、フェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロは
ルネッサンスの宮廷文化を持ち込み、今もその素晴らしい宮廷と、

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文化の香りを残す町が残ります。


ウルビーノはまた、ラファエッロの生地としても有名で、生家博物館も。

ウルビーノの、パラッツォ・ドゥカーレ・Palazzo Ducale di Urbino
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463304758.html

ラッファエッロの生家、そして、殺人的坂道のウルビーノ!
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463304481.html


今回の記事は、中世期の街の構造、地図に焦点を当てたものが多く、
その分人間社会の色々が少なく、それが少し残念でしたが、
またしっかり取り戻し、御覧に入れれる様に頑張りま~す!


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・ 世界の、水中に沈んでいる街8つ 目の暑気払いに!

今日のご案内は、世界で水中に沈んでいる街、町、村、8つ。

というと、すぐ思われるのはダム建設で湖に沈んだ村々でしょうが、
他にも地震で海中に沈んだ港町とか、旱魃と疫病で放棄された町が
その後水没、そしてダム建設により出現、とか、原因はいろいろ。

で、今回は世界で有名な「水中に沈んでいる街8つ」を、
最近の暑さ払いを兼ね、ご案内致しますね。

参考にしたサイトは、ブログのタイトル通り
CITTÀ SOMMERSE NEL MONDO: 8 MERAVIGLIE DA VEDERE ASSOLUTAMENTE!

ではどうぞ!

1. ドゥワルカ・Dwarka キャンベイ湾 インド

1-1-cambay 2_GF.jpg



どこにあるか、地図を。

1-2-Golfo di Cambay_GF.jpg

最初町の名で検索すると、左のKutch湾が出たのですけど、
キャンベイ湾で再度検索し、この湾の奥にある街がKyambhatで、
観光の印が付いているので、右の湾と。



このいわば伝説の町は、2002年初めに海洋学者によって発見。
長さ8km、幅3km、9500年前のものと推定され、
キャンベイ湾の海抜約37mに位置しているそう。

科学者たちの驚きは、まだ無傷の建築遺構が発見された事で、

1-3-Dwarka-Gulf-of-Cambay-India_GF.jpg


インド人がこの発見された町に「黄金の町・Dwarka」と名付け、
というのも、ヒンドゥー教の神クリシュナが持っていた町、
神話によると、7万もの金、銀、他の貴金属の宮殿があったそうで。

検索していてこんなYoutubeも見つけました。https://youtu.be/XTfrPBbgyKs

ドゥワルカ:ヴィマーナ・Vimana・悪魔の王により神の作った町が失われた

1-4-Lost-City-of-Dwarka-680x350_GF.jpg



2. アレクサンドリア エジプト

2-1-egitto 3_GF.jpg



地図をどうぞ。

2-2-Alessandria_GF.jpg


海洋考古学者のチームが、現在のアレクサンドリアの街の沖合で、
長い間海中に沈んでいたにもかかわらず、保存状態の良い記念物で
いっぱいの古代都市の遺跡を発見たもの。

おそらくクレオパトラが所有していたと思われる宮殿、神殿の円柱、
スフィンクス、等などが沈没したのは、多分大地震によるものと。

2-3-Alessandria – Egitto_GF.jpg

2-4-Alessandria – Egitto 1_GF.jpg

アレクサンドリアは世界で最も豊かな遺跡の1つと見なされており、
遺跡のみでなく、生活場面を描いた絵画も見つかっているのだそうで。


なんと、クレオパトラが所有していた宮殿の、とか、伝説、神話、
はたまたハリウッド映画の一部が蘇った様な感じですが、はは、
沈んでいる遺跡、遺物は、さすがぁ、というイメージですねぇ!



3. パブロペトリ・Pavlopetri  ギリシャ

3-1-pavlop 4_GF.jpg



地図をどうぞ。

3-2-Pavlopetri, Grecia_GF.jpg



パブロペトリは世界最古の水中考古学遺跡という位置で、
ギリシャの沖合の島に位置。

沈没を引き起こしたのは、紀元前1000年頃の一連の地震だろうといい、
他の不完全で解釈や再構築が難しい水中遺跡とは違い、
パブロペトリは通り、建物、さらにはお墓を含む完全な都市計画が
見られること。

3-3-Pavlopetri, Grecia 2_GF.jpg

3-4-Pavlopetri, Grecia_GF.jpg


全体で約15の構造物で構成され、約5~6mの深さにあり、
1967年に発見され、ケンブリッジ大学、ノッティンガム大学によって
調査され、ノッティンガム大学は、海底での遺物を見つけ、
そのデータを纏めるプロジェクトを進行中と。



4. ポート・ロイヤル・Port Royal  ジャマイカ

4-1-giamaica 5_GF.jpg



地図をどうぞ。

4-2-port royal giamaica_GF.jpg



ポート・ロイヤルは、かって海賊たちの巣窟として大変有名だった!と。

つまり、商戦を略奪しつつ何か月も海で過ごした男達が、その後
ここにやって来て、女と酒に稼いだ金を使っての放逸生活。

で、安ホテルの主人達は儲けた金で次々と家を建てて、
大きくなった港町なんですと! ははは。

4-3-La-storia-di-Port-Royal-in-Giamaica-4_GF.jpg



こうして地震が町を海中に沈める迄豊かだった町は、

4-5-the-disappearance-of-port-royal-in-1692-andrew-howat_GF.jpg



現在水位から13m下にあるものの、不安定な砂床に沈み続けているのだそうで、
遺跡を探索した所、いくつかの手工品が良い状態で見つかったと。

4-4--Port_Royal_from_Kingston_Harbour_Jamaica_ca.1875-ca.1940_GF.jpg

このポート・ロイヤルは現在、世界遺産に指定されているそうで!



5. ファナゴーリア・Phanagoria 黒海のロシア領にあるギリシャの街

5-1-russia 6_GF.jpg



地図をどうぞ。

5-2-.BlackSeaMSinope.gif.76227abcc8fde7162e6efb51f09d7574_GF.jpg



紀元前6世紀に設立された町で、黒海東岸にあり、ロシアの土壌に
あるギリシャ最大の街だったのだそうで。

現在街の約3分の1が水中にあり、「ロシアのアトランティス」と呼ばれ、
町のネクロポリスの大部分や、港湾施設は砂で覆われており、

科学者たちは遺跡の基礎となっていた大理石の台座とか、大きな彫像など、
過去に町を占領した民族の手工品などを発見しているそう。

5-2-Phanagoria_sphinx_GF.jpg

5-3-ea8fb31978698e218b08189f831c28db_GF.jpg

美しいスフィンクス像や、ヴィーナス像、驚きですねぇ!!



6. 新安江・Shicheng  中国

6-1-Shi-Cheng- 7_GF.jpg



地図をどうぞ。

6-2-Shicheng, Cina_GF.jpg



1300年の歴史を持つ、ライオンの街と知られていた新安江の街は
1959年新安江水庫の水面下に、というのも、

近くの杭州市に電力を供給する為の水力発電用貯水池を
造る為に、水中に没しました。

6-4-Shi-Cheng-la-Città-dei-Leoni_GF.jpg

6-5-Shicheng, Cina_GF.jpg

現在26~40mの深さにあり、家、寺院、舗装された通り全てが
非常に良好な状態に、

というのは写真でもよく分かりますが、これをねぇ、そのままダムの貯水地
の底に、というのがねぇ、もったいないというか、なんというか。。



7. ケキュラ・Quecula  メキシコ

7-1-quechula 8_GF.jpg



地図をどうぞ。


7-2-quecula messico_GF.jpg



18世紀の終わりにペストの流行で町が放棄されたケキュラの
古代神殿が、ダム建設で水没していたのが、

メキシコ・シティ周辺の大旱魃がグリハルヴァ川流域の水位を
25メートル下げた時に再出現。

7-3-Chiesa-Messico-2_GF.jpg

という、如何にもご霊験が薄そうな神殿で、というと大変失礼ですが!
罰が当たりませんように!

う~ん、写真を探しても余り見つからず・・、
メキシコの首都メキシコ・シティは、世界一犯罪の多い街、と読みましたが、
余り観光に行くとか、歴史の隙間を覗いてみる、という様な気持ちの
余裕も、皆さん、余り無いのかなぁ?



8. ヴァーリ・Vagli  イタリア、トスカーナ

8-1-vagli 9_GF.jpg



地図をどうぞ。

8-2-vagli_GF.jpg


トスカーナはフィレンツェから西、ガルファニャーナ・Garfagnanaの
中心部にある中世からの村で、

水力発電所に水力供給の為のダム建設で封鎖されたエドロン川に
水没を。

15~20年ごとに湖が空にされ、幽霊の村が現れますが、
これはこの場所を訪れるかっての村人や、観光客の為の
イベントにもなるチャンスに。

8-3--Fabbriche_di_Careggine_GF.jpg



こちらは湖の傍らにある高所の位置の村。
かっての村人たちがこちらに移住もしたのだろうと。

8-4-Vagli_Sotto-panorama6_GF.jpg



という様な、世界の8か所で水中に眠る街や村のご紹介でしたが、
街の建物、彫像など海中にそのまま残っているのには、少々驚きました。

まぁ、こうして撮って来られた写真を拝見するには大丈夫ですが、はぁ、
自分で潜って訪問する、探検する、という度胸はまるでない私めで、へへ、

少しは皆さまに涼しい風をお届けできたでしょうか?
今回は絵のブログの方でも、涼しいのをお届けしますので、どうぞ。


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posted by shinkai at 01:19Comment(0)・欄外

・ ヴィスコンティ家の 香り付きおしろいと、香水のお話 そして

今回はちょっぴりロマンチックな香りも漂う、ヴィスコンティ家の逸話、
20世紀初頭のアール・デコのイメージ濃い世界にお遊び下さいね。

参考にしたサイト記事は
VISCONTI, UNA STORIA PROFUMATA
ですが、他にもあれこれ。



こちらは「おしろい・チプーリア・Cipria」の宣伝に使われた音楽、
フォックス・スローの楽譜なんだそう。

1-cipria-copy-788x1024_GF.jpg

一番上に見える AL CONTE GIUSEPPE VISCONTI DI MODRONE・
モドゥローネのジュゼッペ・ヴィスコンティ伯爵、

はい、かの有名な映画監督ルキーノ・ヴィスコンティ・Luchinoの
お父様の名前。



箱に見えるサイン部分 がこちらで

2-cipria-detail2_GF.jpg

"Giacinto innamorato" di Gi.vi.emme の
Gi.vi.emmeが、自分の名を冠したメーカー名。
 
emmeは、Mのイタリア語読みで、モドゥローネを表し、

Giacinto innamorato ・ジャチント・インナモラートが、
香料入りおしろいの商標名「恋するヒヤシンス」

この素敵な名前を付けたのは、作家であり家族の友人でもあった
ガブリエーレ・ダヌンツィオだそうで、
香水の主成分のヒヤシンスにちなんでの名前で、
なにせ彼は言葉使いの名人でしたものね。


で、Gi.vi.emmeは1920年代、30年代のイタリアの大きな
香料メーカーの1つだったそうですが、
それ以前もヴィスコンティ家はビロードの織物工場でも有名だったと。


こちらが、モドゥローネのジュゼッペ・ヴィスコンティ伯爵(1879-1941)

3-1-tumblr_pt7j6y9F201sniqlho1_1280_GF.jpg
鼻下のお髭が見えないので、お若い時の写真と。



こちらがお髭のある肖像画。

3-2-Ritratto_di_Giuseppe_Visconti_di_Modrone_GF.jpg



彼は1900年ミラノの大製薬会社の娘、優雅なカルラ・エルバ・
Carla Erba(1879-1939)と結婚。

4-CARLA_ERBA2_GF.jpg

5-image-12_GF.jpg

大変な美人で、当時の女性のドレス姿というのは、なぜこんなに
ロマンチックなのでしょうねぇ!



モルドーネのヴィスコンティ家というと、ミラノ公であったヴィスコンティの
本家筋ではなく傍系ですが、いずれにしても古い貴族家系に違いなく、
ただモドゥローネという所領地の位置が確認できず。
多分ミラノの西に位置するヴェルチェッリーナ・Vercellina周辺かと。


つまりイタリアでも最も古い貴族家系の1つと、
ミラノの薬品大産業帝国が結びつき、娘婿に香水、化粧品産業の
話を持ちかけたのは舅のルイジ・エルバだったそう。

元々多趣味で、貴族の義務としてのミラノのスカラ座理事会のメンバー、
おまけに彼自身アマチュア俳優で、化粧をし着飾るのも好きで、

自身の邸内のホーム・テアトルで。

6-teatro_casa_visconti_1911_GF.jpg



と並べると、どうやら家柄、格式、財産が上手くつり合った結婚で、
実業家としてのジュゼッペの才能も見込まれており、

彼は公然とバイセクシュアルだったというのも余り関係なかったのか、
2人は7人の子に恵まれ、


その内の4番目の男子が、映画監督となったルキーノ・ヴィスコンティ。

7-1-515753489_GF.jpg

7-2-305123628_GF.jpg



少しお話を元に戻すと、化粧品、香水に元々馴染んでいた様子の
ジュゼッペは、舅からの依頼で香水を作り始めると、
フレグランスの混合に夢中となり、

舅の工場内で1911年に"Contessa Azzurra・青い伯爵夫人"を作りだし、
これ想像するに多分自分の妻に捧げた作品ではと。


そして自分の会社Gi.vi.emmeを設立、ヴェネツィアのガラス製造、
小瓶への装飾技術を使い、貴族社会の肥えた目、趣味が生かされ、

ハーラー煙草・Tabacco di Harar、新鮮・Fresco、森林の水・
Acqua di Selva、など、これらは市場に出回っている製品の中で
数十年続いた製品だそうで、名前から見て男性用かな?


ムッソリーニがイタリアで権力を握った1922年のローマ進軍の後、
実業家たちは自分たちの専門社会の中でリーダーになる事を楽観し、
彼は革命的な時代を代表する新しい香水を作りたく、

この目的でイタリアで最初の全国市場調査も数か月に渡って続け、
そうして出来た新しい香水が「恋するヒヤシンス」だったのですね。

宣伝にもお金をかけ、瞬く間に有名になった新しいフレグランス、
「恋するヒヤシンス」

8-1-postkaart-giacinto-e1426349862933_GF.jpg

8-2-giacinto_GF.jpg
香水瓶も、金色をたくさん使った美しいアール・デコ調のパッケージ。



おしろい、タルカム・パウダー、ポマード、クリーム、石鹸、香りの煙草等、
新しい製品が続き、容器もガラス、陶器と当時にあっては特別製で、
アメリカへの輸出も始まりますが、戦争の為中断。

ミラノの香水店 1955

9-tumblr_nirxh0m4ue1qdtsn5o1_1280_GF.jpg


そして多分伯爵の没による会社の代替わり、映画監督となったルキーノ
以外に彼と同種の趣味、目を持つ跡継ぎ息子はおらず、だったものと。
で、1970年にGi.vi.emmeは活動を停止したのだそう。

時代の狭間にあって咲いた、まさに没落していく貴族社会の花の様な、
という感想を持ったのでしたが、



モルドーネのジュゼッペ・ヴィスコンティ伯爵とカルラ・エルバの結婚式が
行われ、カルラがこのヴィッラを相続、後に彼らの子供たちが夏を楽しむ
別荘となったヴィッラ・エルバ・Villa Erba、

コモ湖畔のチェルノッビオ・Cernobbioにあり、ヴィッラ・デステのすぐ近く、
の豪華な内装をどうぞ。

10-Villa_Erba_004_GF.jpg

11-villa erba 2._GF.jpg

12-villa erba 3._GF.jpg



現在は毎夏の終わりか秋の始まりに、イタリアの経済界の大物達が
集まる大講演会のニュースで有名な場所となっており、展示会もあるのかな、
というヴィッラで。

13-1-villa erba 5._GF.jpg


ヴィスコンティの持ち物ではなくなっておりますが、

ルキーノ・ヴィスコンティの映画の中に何度か登場したり、
彼自身がここに引きこもり、映画の編集をしたりで、
どうやらその一郭が博物館となっている様子で、公開されていると。

13-2-villa erba 4._GF.jpg



こちらはかっての写真で。 下手な宮殿よりも凄い感じ!

15-Villa_Erba,_Cernobbio_-_veduta_dell'Atrio_e_dello_Scalone_(1904)_GF.jpg

16-Villa_Erba,_Cernobbio_-_camera_da_letto_del_Signore_(1904)_GF.jpg



14-villa erba1_GF.jpg



ともう1つ、モドゥローネのジュゼッペ・ヴィスコンティ伯爵という名前で
有名なのは、ピアチェンツァの南にあるグラッツァーノ・ヴィスコンティ
Grazzano Visconti という小さな村。

17-Borgo_di_Grazzano_Visconti_GF.jpg



小さな中世の面影を残す村が、ジュゼッペが父親から引き継いだ時
彼は映画の舞台の様に、中世の村にせっせと村中を模様替えし、


古い城もあったのを自分のイマジネーションを加味し修復。

18-Castello_di_Grazzano_Visconti_visita-img2490-02-1_GF.jpg

ルキーノはこの城にも友人達を連れて行き、映画のシーンにも
登場しているとの事。



shinkaiは最初グラッツァーノ・ヴィスコンティの写真が検索で
見つかった時に、これは凄い!見たい!と驚愕し、
昨年秋に出かけたのでした。

が、実際に村中を巡っているうちに、段々に、これはやりすぎ!と
いう気持ちが強く沸いて来て、

つまり、中世風の建築法、装飾などは風化に晒され、ほんのちょっぴり
残っている姿が美しく見えるのであり、

中世当時城の広間に描かれていたジグザグ模様、格子柄などが、
田舎の農家の壁に描かれているのはやはり気になりますしね、

如何にもの姿は、過ぎたるもの、及ばざるがごとし、の言葉通りと。

まさに村は浜辺同様な観光客で溢れかえり、城見物も写真はダメ、で
がっくりと戻り・・、はぁ、未だにブログに挙げておりませんのです。
も少し時間が経ち、咀嚼できましたらね、ははは、です。



最後、こちらはミラノにある、モドゥローネのヴィスコンティ伯邸。

19-Conferenza-stampa-palazzo-Visconti-di-Modrone_GF.jpg


麗しのヒヤシンスの残り香が、皆様にも伝わりましたでしょうか?


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・ もしルネッサンス期に生きていたら、現代の著名人はどの様に?

今日はちょっと鬱な現在世界を忘れて頂き、フフっとお笑い下さいね。
という事で、お目にかけるのはこちら

上のタイトル通りの もし現代の有名人がルネッサンスに・・
Che aspetto avrebbero le celebrità moderne se fossero vissute nel Rinascimento?

古典絵画で見かける肖像画の主人公は、当時の貴族、聖職者、
そして著名人、と様々ですが、

では今の有名俳優が500年前に生きていたら、どんな風?
という事で、世界各国のグラフィック・デザイナーたちが腕によりをかけ、
「フォトショップ」を使い、良く知られている有名人の顔を、
かっての肖像画を現代的な傑作に!


まずこちらを。  ロビン・ウィリアムス・Robin Williams

1.celebrita-oggi-dipinti-rinascimento-photoshop-modern-renaissance-60_GF.jpg

この画を見た時、これは凄い! フォト・ショップでこんなのが出来る?!
PCのテクニックも凄いのだろうな、と単純に驚き、興味を持ち、
で、ついている説明からオリジナルはどんなの? と検索し、


原画の、アルブレヒト・デューラー 1526 ヤコブ・マッフェルの肖像

1-1-Albrecht_Dürer_-_Jakob_Muffel_-_Google_Art_Project_GF.jpg

実在人物のマッフェルは、アルブレヒト・デューラーの友人でもあり、
ニュールンベルクの高官だったそう。


とにかく、この最初の画で興味をかき立てられ、60枚の絵の中から
勝手に選びましたが、原画を探しているうちに他の同種のサイトも見つけ、
その中には、既に奇特な方のオリジナル付きのもありましたので、へへ、
一緒にご案内を。

ハリウッドの俳優たちが大画家のキャンバスに。 ほら、10枚の肖像画
Gli attori di Hollywood nelle tele dei grandi pittori. Eccoli in 20 ritratti

アーティストは有名なキャラクターを古典的な絵画に「挿入」し、


こちらは最近大きなゴシップ種を提供してくれた ジョニー・デップ

2.celebrita-oggi-dipinti-rinascimento-photoshop-modern-renaissance-104_GF.jpg



オリジナル画は ジャック=ルイ・ダヴィッド 1794  自画像

2-2-avid_Autoritratto_1794_GF.jpg



もう1枚見つけた ジョニー・デップ   原画判明せず

2-3-Johnny Depp  sonaggi-famosi-dipinti-classici-kyes-12_GF.jpg



左 アマンダ・サイフリッド

4-img (1)_GF.jpg

右 ロシア皇帝アレクサンドロ2世の妃 マリア・アレクサンドロヴナ
  (1824-1880)

彼女はロシアの多くの慈善団体、とりわけ赤十字関わり、
その努力のお蔭で女子の為の学校や大学が全国につくられたそう。

どちらも大変お美しく!



左 ヒュー・ローリー・Hugh Laurie

5-img (4)_GF.jpg

右 ジャック=ルイ・ダヴィッド描く アルフォンス・ルロワ・医者、産科医
  (1742-1816)


左にあるランプがこの写真では隠れてますが、彼が発明したランプで、
見える本と共に書斎のシンボルですと。



左 エンマ・ワトソン

6-img (2)_GF.jpg

右 ウィリアム・アドルフ・ブーグロー・William-Adolphe Bouguereau描く
  入浴前 1900年

彼の描いた絵を見ると、この年代の女の子の絵も多く! 少しばかり
大丈夫かや、という気がしたのでしたが、ははは、

フランスのアカデミック画家、822枚の絵を描いたものの、
現在その多くがどこにあるか、なんですと。



左 オルランド・ブルーム  ロード・オブ・ザ・リング、
  パイレーツ・オブ・カリビアンシリーズの俳優さんと。

7-img (7)_GF.jpg

右 ラファエッロ・サンツィ画 リヒテンシュタインの男性肖像 
  1503-04



左 ミシェル・ファイファー

8-1-img (3)_GF.jpg

右 アデライド・ラビーユ=ギヤード・Adélaïde Labille-Guiard
  (1749-1803) 2人の生徒との自画像 1785


女性が目指せるのは主婦のキャリアのみの時代、数少ない女性画家
としてキャリアを積み、1783年にはヴィジェ=ルブランと共に
女性画家として初めて王立絵画彫刻アカデミー会員に、という方。



こちらが上の画の全体で、惚れ惚れと作品に見惚れる背後の
女生徒2人と共に。

8-2-Labille-Guiard,_Self-portrait_with_two_pupils_GF.jpg



左 ジャック・二コルソン 

9-img (9)_GF.jpg

右 ジョセフ・デュクルー・Joseph Ducreux(1735-1802)
  自画像 1793

ルイ16世の宮廷画家、結婚前のマリー・アントワネットの肖像も
描き、ルイ16世の処刑前の最後の肖像画も。
とはいえ、フランス革命後も成功した画家として活躍、という!

このポーズも画家の自画像としては異例と思いまずが、
でもジャック・ニコルソンの自画像となると、ぴったりくる、ははは、

他にも画家の自画像のポーズとして「あくび中」というのも!



左 ペネローペ・クルス

10-img (5)_GF.jpg

右 フレデリック・レイトン・Frederic Leighton(1830-1896)描く
  「ローマの女性」 1858

画家、彫刻家で、聖書や歴史題材を多く描き、初代レイトン男爵
に列せられたものの、翌日狭心症で急死。
生涯独身であったので、わずか一日でレイトン男爵家は断絶、記録ですと。



左 ブルース・ウィルス  顔の色が黄疸患者の様で、失礼、先ごろの失語症にて・・、
  という気の毒なニュースに重なりません?

11-img (10)_GF.jpg

右 アルブレヒト・デューラー描く、彼の父の肖像画 1497
 
同名のデューラーの父親はハンガリーから移住の金銀細工師だったと。



左 クリント・イーストウッド 女性にされ、でも特別に違和感なく!
  ははは。

12-1-img (16)_GF.jpg

右 息子デューラー描く、母親バーバラ・ホルパー・Barbara Hoolper



で、同じ原画を使っての アンジェリーナ・ジョリー もあり!

12-2-celebrita-oggi-dipinti-rinascimento-photoshop-modern-renaissance-11_GF.jpg



左 続いて、これもアンジェリーナ・ジョリー

13-img (6)_GF.jpg

右 エリザベート・ヴィジェ・ル・ブラン・Élisabeth Vigée Le Brun
  描く 若い女性の肖像 1797



左 きゃは、と笑いそう、 キアヌ・リーヴス 

14-img (11)_GF.jpg

右 エドゥアール・ルイ・デュビュフェ・Edouard Louis Dubufe描く 
  F婦人の肖像 1850-51

パリ生まれの肖像画家、優しい色使いとエレガントさで大変人気があり、
とりわけ女性の間で。

そう、も少しキアヌ・リーヴスの髭剃り跡の色を薄くねぇ、ははは。



左 これは大胆な女優選びで! ヘレナ・ボナム・カーター 
  でも笑えますね、ははは。

15-img (15)_GF.jpg

右 はい、お馴染みの方で、先日はクリーム・パイをなげられたりで。



左 少し顔色が白いですが、 スカーレット・ヨハンゾン

16-img (12)_GF.jpg

右 イザベル・クララ・ユージニア・Isabel Clara Eugenia王女
(1566-1633) アロンソ・サンチェス・コエロ・di Alonso Sánchez Coello描

スペイン王フェリペ2世と、3度目の王妃エリザベート・ド・ヴァロワの娘として、
セゴビアで誕生、オーストリア大公アルブレヒト(ルドルフ2世の弟)の妃に。

夫は一度は枢機卿になったものの還俗し、従妹のイザベラと結婚し、
スペイン領ネーデルランドを共同統治、と、この辺読んだままをここに。



左 顔は良く知っているものの、名は。 ジャック・ブラック

17-img (13)_GF.jpg

右 ヘンリー8世英国王、ハンス・ホルベイン・Hans Holbein描
この絵は現在失われていると。



お馴染み、ヨハネス・ヘルメール・Johannes Vermeer描く
真珠の耳飾りの少女像 ですが、

18-1-img (8)_GF.jpg

左のナタリー・ポートマンの目が強すぎて怖いので!



原画は分からないまま、こちらのナタリー・ポートマンも。

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左 こんな笑顔の 二コル・キッドマンもありね! と気に入った、

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右 若い貴婦人の肖像 ジョヴァンニ・バッティスタ・モロー二・
  Giovanni Battista Moroni描 (1524,25-1578)



画家の名を読み、即分かりませんでしたが検索して出た作品
「裁縫師・Il saruto」を見て、
渋く、素晴らしい色合いの画家だと思い出し。

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左 ブラッド・ピット 

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右 英のジョージ・ドー・George Dawe (1781-1829)描く
  ロシアのアレクサンドロ1世(1877-1825) 

エカテリーナ2世女帝が祖母と。 この辺りの政情複雑すぎ・・! 
大変な美男であり、愛嬌も良く、とあり、ひょっとして左の方より
ハンサムかも!



左 パトリック・スチュワート・Patrick Stewart あちこちで
見かける渋い脇役 1940年生まれ

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右 レンブラント描く 軍の衣装を着た老人

素晴らしい衣装、帽子の羽と、レンブラント特有の光と影の効果で、
役者の顔の方が引き締まった印象で、ふ~む。



アンソニー・ホプキンス 扮する 「年寄りの酒飲み」 1661-63
オランダのハブリエル・メツー・Gabriël Metsu 描

22-.celebrita-oggi-dipinti-rinascimento-photoshop-modern-renaissance-17_GF.jpg



ミック・ジャガー 扮する ベートーヴェン 
ヨーゼフ・カール・スティーラー・Joseph Karl Stieler描 1820

24-.celebrita-oggi-dipinti-rinascimento-photoshop-modern-renaissance-01_GF.jpg

ミック・ジャガーはあれこれと作品があったのですが、やはり彼には
古典音楽の大家がお似合いと。 楽譜の表紙にご注目を!



ダニー・デ・ヴィトー 原画が分かりませんが、この方は何に扮しても
彼の本質は全く変わらずで、好きで~~す!

25-.celebrita-oggi-dipinti-rinascimento-photoshop-modern-renaissance-84_GF.jpg



トム・クルーズ 若き日の彼。 う~ん、このデッサン見覚えが
あるんだけどなぁ・・。 

26-celebrita-oggi-dipinti-rinascimento-photoshop-modern-renaissance-65_GF.jpg

原画と彼を結び付けたデザイナーの作戦勝ちね。

明日は「トップ・ガン ー マーヴェリック」を見に。 楽しみぃ!!



左 トム・クルーズ 教皇に扮しても、この笑顔で一発ね、ははは。

27-img (18)_GF.jpg

右 ディエゴ・ヴェラスケス描く イノチェンツォ10世教皇 1650



ローワン・アトキンス というよりも、ミスター・ビーン!
カラヴァッジョ画く、「バッカス」  結びつけの発想に乾杯!

28-.celebrita-oggi-dipinti-rinascimento-photoshop-modern-renaissance-69_GF.jpg



ウーマ・トゥルーマン・Uma Thurman、 豪華衣装の元は誰?

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で、最後はやはりこの方、ショーン・コネリー

32-Sean Connery  personaggi-famosi-dipinti-classici-kyes-14_GF.jpg

これはもう、原画が誰であろうと、これはもう彼そのもの、
ショーン・コネリーの素晴らしい肖像ですねぇ!!


たくさんあり過ぎて、お見せ出来ないのがいっぱいで残念!

という事で、皆さん是非上に記した元のサイトを訪問され、
大いに楽しんでくださいませませ!!


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それもご了承下さいませ。

・ パリに住む、古典絵画の複製家 アンドレア・ドゥルーア

テクノロジーが素晴らしく進んだ現代では、皆さんも良くご存じの様に
古典絵画の複製も安価で一般に普及しており、

既に何人かとなっている様子古典絵画の複製家の、その1人である
アンドレア・ドゥルーア・Andréa Dlouhaについてのお話を。

1-vice-x-andrea-dlouharomainruiz-14-1_GF.jpg



彼女の事を知ったのはつい先日で、
有名画家の模写をし、生きるために稼いでいます
Mi guadagno da vivere copiando le opere di artisti famosi

で、今回これを書くためにちょっと検索をかけましたら、
彼女のサイト、仏語版が見つかり、http://www.andrea-dlouha.fr

イタリア語にも日本語にも自動翻訳でき、上記記事の裏付けも
も少し取れ、写真も増え、安心してお伝えを、はい。


「絵画の模写」というと、時に世間で問題となる贋作があり、

つい先日ご案内の「ティツィアーノの再発見作品は国に返還に」も。 
https://italiashinkai.seesaa.net/article/488271979.html


古典絵画の複製、模写というと、これはきっちりと定められた
規定を守りつつ、本作品とは違う事を明らかにしての作品で、

この規定とは、フランスでもイタリアでも、どうやら国によっても
多少の違いはあるようですが、

画家本人が亡くなって後70年を過ぎている事、そして大きさも実作品
とは違う事(プラス、マイナス5cm以上)画布の裏側に模写である旨を
記す事、実画家のサインを真似ぬこと等。


で、アンドレアは世界中からの顧客の注文により、ルノアールも勿論、
ピカソ、ヴァン・ゴッホまで、芸術の歴史の中でもっとも偉大な画家たちの
何十もの作品を模写しているのだそうで、
その内の幾作かを。

上の写真に見える、ルノアールの「舟遊びをする人々の昼食」

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ラファエッロの「バルダッサール・カスティリオーネの肖像」

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ヤン・ファン・アイクの「アルノルフィーニ夫妻」

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アルノルフィーニ夫妻の肖像(ヤン・ファン・エイク)についてのあれこれ
https://www.italiashiho.site/archives/20180216-1.html



ブリューゲル「フランドルの諺」

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こんなのを見ると、自分用にも欲しいなぁ! なんぞと儚い夢をね、
ははは。



この本画はベルリンにありますが、実際に美術館に行き、
前で描いた様子ですね。

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彼女が言うには、印刷物による僅かな色の違いを知る為に、
なるべく実物を見に行く、というように、

ルーブルでも実際の絵の前での写生、模写が美学生達にも
許される、というのは知っておりましたが、
彼女は「ルーブルの作家」としての認定も受けている様子。

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彼女の模写作品はこちらでご覧になれ、クリックすると大きくなります。
http://www.andrea-dlouha.fr/177282897


つまり19世紀には大変繁盛した複製画が、今現在では新技術の
進歩でほぼ消えつつあるにもかかわらず、
彼女の作品が生き残り人気があるのは、
ひとえにその勤勉さと、彼女の技術にあるのだそうで。


彼女は、この上の記事の中では中年くらいに見えるのですが、
自身のサイトの中の写真では、こちらで、お幾つくらいかな?

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ご自身のサイトで分かったのは、彼女はチェコのプラハ生まれ。

で、1986年パリのパスツール研究所で生物学の博士号を取得され、
何年間か製薬業界で働いていた事があり、

この経験が古典絵画の画材の理解とその後の模写実現に
大変役立っているのだそう。

というと、現在60歳位か、もう少しかな、ですね。

が、彼女は最初から画家、または複製画家を目指していた訳でなく、
生物学者であった彼女が数年間働いていた間の仕事は
余り彼女に生き甲斐をもたらさず、

ある時、家に置こうと絵を模写したものの、その最初の1枚は
大した事が無かった、と。

で、彼女が古典絵画の模写の世界に入ったのは、その仕事を失い、
経済的な問題を抱えた時で、その瞬間を掴む決心をしたのだと!

で、それまでの全てを放り出し、工房を開き、彼女を気遣う周囲の
人々を怖がらせましたが、

特定の研究をした事が無く、独学で学びつつ技術を磨き、キャリアを
積むのに20年かかった、と言います。


人々が彼女に、なぜそんなに一生懸命に努力するのか?
現在オンラインで、複製画は30エウロで買えるのに、と。

彼女の答えは、でもそれはプラスティック製のバッグをエルメスと
比較するようなものです、と。 それはそうですね?!



アトリエでは常にラジオはクラッシック音楽もチューナが合わせられ、
壁には古典絵画で覆われているので、別の時代にいる様な印象を。

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複写画の完成には約1年かかるので、注文主は少々忍耐が必要で、
その料金は実技と期間に一致し、小さい絵だと1500エウロから始まり、
複製の難しさと大きさにより数万エウロにも!

かといって、2,2mの高さのアトリエのドアを通過しない大きさの絵は
描けません。

これで思い出したのが、南仏のセザンヌの2階のアトリエの壁で、彼が描いた
大作の「水浴図」を運び出すのに、壁に細い縦長の穴が開いていましたっけ!

セザンヌのアトリエ ・ エクサン・プロヴァンス
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461110244.html



そして彼女は模写作品の販売と共に、パリのアトリエ・フェルメール
学生、一般者に模写技術、描画も教えていて、

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こちらで様々なコースと期間、費用も分かります。
https://www.ateliervermeer.com/


というのも、かっては複製画自体が芸術の一形態とみなされ、
教師から学生たちに受け継がれていた事、
各工房には独自の秘密があり、業界で認められるまでに
平均13年掛ったのだそうで、

やはり彼女なりの「複製画作り人」が消え去らない為に、の
目的からも始めたのでしょうね。


で、今の彼女の仕事に対する情熱にも拘らず、ずっとアーチストに
なる事を夢見ていたわけでない事は既に上記しましたが、

現在複製品を描くだけで満足しているのかと質問されると、
その質問は芸術世界での永遠の議論を反映していると。

複製する人を単なる技術者と見なす人もいれば、
彼らは全てアーチストだと答える人もおり、

実際問題として注文が多すぎる為、自分の絵に専念する為の
十分な時間がなく、

複製は創造的な芸術では無いものの、全て、作品を描くには
自分自身を再発明する必要があり、

それに、しっかり稼ぐことが出来ます!

というのも、芸術の為に飢えて死ぬ、という芸術家のロマンチックな
概念は、私には決してロマンチックに感じられなかったです、
と笑いながら!!

これは本当に正直な、健全な考え方ですねぇ! 立派!! ははは。



これは彼女のアトリエの壁に見えた、アーニョロ・ブロンズィーノの
描いた「私に触れるな」の一部分ですが、

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彼女アンドレア・ドゥルーアのサイトを見て、ルーブル美術館での
作品進行経過を見ることが出来、大変興味深く眺めました。

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各作品部をクリックすると、大きくしてみることが出来ます。


と、もう1つ大変に興味深く読んだのは、

かっての職業画家は、5つの主要な色のみを使っており、それらを
パレット上で混ぜ合わせて描いていたので、

それで各色が調和し、決して明るすぎない絵画になった方法であると。


これはいつも古典画展を見る時に感嘆し、その画面全体の色の
調和に深い印象を受けていたshinkaiには、
ああ、そういう事だったのか、と! なるへそねぇ!!


彼女がアトリエ・フェルメールで教えているのに使っている、
かって画家が使っていた材料、またはそれに一番近い材料を
使っている、というのをあれこれ知ることが出来、
大変興味深いので、今回分家ブログの方で一緒にご案内しますね。


という様な、現代残る少ない複製画家についてのお話でした。

これは芸術の都パリだから成り立つのかも知れず、
日本で芸術を志す方には羨ましいお話かもですね。
頑張れ、美学生!!


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