今日のご案内は、中世に描かれたヨーロッパの町々の細密画を。
つまり中世期の街の構造は今も多くの街、村にその構造を
残しているので、今と似ている、またはほぼ同一、というのが多く、
残しているので、今と似ている、またはほぼ同一、というのが多く、
中世の細密画家は町の構造と形を詳細に説明する図を
作成、残している事が良くあり、
作成、残している事が良くあり、
今の時代にもその細密画を見ると、当時を偲び、辿る事が出来ます。
という事で、中世においての大きな街の細密画15点、から
10点を選んで、皆様にも知的に! 地理的な復習も兼ね!
10点を選んで、皆様にも知的に! 地理的な復習も兼ね!
というのもshinkai自身、あれ、正確に言うとどこにある?
と迷ったのが幾つもありましたので、へへへ、
と迷ったのが幾つもありましたので、へへへ、
を参考に、どうぞご覧に。
1. エルサレム 6世紀
ヨーロッパのキリスト教徒にとって、一番重要だった町の1つエルサレム。
この画像は、なんと「聖地の地図」と呼ばれる大きなモザイクの1部で、
ヨルダンのマダバ・Madabaの、サン・ジョルジョ教会がかっての
ビザンチン教会の跡に建設された時に発見されたのだそう。
ヨルダンのマダバ・Madabaの、サン・ジョルジョ教会がかっての
ビザンチン教会の跡に建設された時に発見されたのだそう。
紀元560年に遡るこのモザイクは、聖地エルサレム全体の完全な地図を
表しており、エジプト、パレスティナ、レバノンなどなど、
150を超える土地からエルサレムに到達する為の行程図が含まれているそう!
表しており、エジプト、パレスティナ、レバノンなどなど、
150を超える土地からエルサレムに到達する為の行程図が含まれているそう!
上のモザイク図でも、右と左、そして上にも見える町の門への到達、
なのでしょうね。
なのでしょうね。
素晴らしい作品と!
エルサレムの位置
高い城壁に囲まれ、この中何キロメートルか四方に、ユダヤ教、キリスト教、
イスラム教の聖地がある、という何とも不可思議、密な土地ですねぇ。
2. ロンドン 13世紀
細密画、という触れ込みでしたが、これは余り細密でなく、へへ、
おまけに13世紀とで、当時のロンドンがいかに田舎であったか・・!
おまけに13世紀とで、当時のロンドンがいかに田舎であったか・・!
ロンドンの地図は必要なし、と思ったのですが、後でヨーク・Yorkも
登場しますので・・。
登場しますので・・。
ハードフォードシャー・Hertfordshire・ロンドンの北、のベネデット派の
セント・オールバンズ・St. Albans修道院で人生の殆どを過ごした
重要な歴史家、細密画家、地図製作者であった
セント・オールバンズ・St. Albans修道院で人生の殆どを過ごした
重要な歴史家、細密画家、地図製作者であった
マシュー・パリス・Matthew Parisが、1250年頃に作成した
ロンドンの街の最初の描写、だそう。
ロンドンの街の最初の描写、だそう。
これは見つけたロンドンの地図ですが、15世紀かな、不明で済みません。
3. コスタンティノーポリ = イスタンブル 15世紀
地図製作者、地理学者、修道士、イタリア人(1386-1430)の
クリストフォロ・ブオンデルモンテ・Cristoforo Buondelmontiが
1422年に作成した地図。
クリストフォロ・ブオンデルモンテ・Cristoforo Buondelmontiが
1422年に作成した地図。
とてもすっきりした図で、色、彩も素敵と思われませんか?!
フィレンツェの重要な貴族家の生まれで、コスタンティノープルのみならず、
ロードス島、クレタ島、キプロス島、ダーダネルス海峡なども訪れ、
ダーダネルス海峡、ってどこだったっけ? と検索し、へへ、
エーゲ海と黒海に繋がるマルマラ海を結ぶ挟溢な海峡と。
エーゲ海と黒海に繋がるマルマラ海を結ぶ挟溢な海峡と。
ええとつまりです、イスタンブルの街をアジア側、ヨーロッパ側と分けて
通っているのがボスフォラス海峡で、
通っているのがボスフォラス海峡で、
ダーダネルス海峡はそこから南に下った所、マルマラ海とエーゲ海を
結ぶ海峡。
結ぶ海峡。
とね、このブログを読まれる方、お勉強になるでしょう?!
ははは、でも知らぬはshinkaiだけだったりしてね。
ははは、でも知らぬはshinkaiだけだったりしてね。
という事で、地図にもダーダネルスの位置を入れましたです。
上の地図が作製されたのは1422年。1453年のトルコによる征服前の
コスタンティノープルの地図、
現在も未だある都市のもっとも古い地図、となるのだそう。
コスタンティノープルの地図、
現在も未だある都市のもっとも古い地図、となるのだそう。
こちらはそれ以前、ローマ期のコスタンティノープルの姿、想像図。
素晴らしく立派で巨大な競馬場については
ヴェネツィア、 サン・マルコ聖堂入り口上の4頭の馬について
https://italiashinkai.seesaa.net/archives/20210524-1.html
ヴェネツィア、 サン・マルコ聖堂入り口上の4頭の馬について
https://italiashinkai.seesaa.net/archives/20210524-1.html
4. シエナ 14世紀
「都市における善政と悪政の効果」のフレスコ画は、1338、39年の間に
アンブロージョ・ロレンツレッティによって描かれたもので、
アンブロージョ・ロレンツレッティによって描かれたもので、
「善政」の方は良い統治のために調和がとれた秩序ある社会を示し、
「悪政」は、悪い政府による廃墟、という寓話が描かれている物。
「悪政」は、悪い政府による廃墟、という寓話が描かれている物。
シエナと、相克のフィレンツェの位置も。
シエナの中心にあるカンポ広場。 奥に政府が置かれていたプッブリコ宮
があり、その前に広がるカンポ広場は、当時政治を司っていた
「9人政府」にちなみ、
があり、その前に広がるカンポ広場は、当時政治を司っていた
「9人政府」にちなみ、
貝殻状に広がったカンポ広場が、9つに区切られているのが分かりますか。
その他のシエナのご案内は、こちらから
https://www.italiashiho.site/article/473810580.html
https://www.italiashiho.site/article/473810580.html
5. ヨーク・York 15世紀
これは15世紀の初め、イギリス北部のヨークの様子を描いた手稿本の1部と。
としか説明が無いのですが、
城壁に囲まれた町の中を川が流れ、教会や大きな館があり、
中では上層部の皆さん方が結構な生活をしておられる様子で・・!
かなり洒脱な筆さばき、と見ますが、
注文主か、または画家は、庶民生活には興味が無かったのかな?
ヨークの位置は。
現在のヨークの街。 やはり大きな教会、聖堂が見えますねぇ。
6. ニュールンベルグ 15世紀
「ニュールンベルグ年代記」と呼ばれる世界の図解歴史書は1493年に描かれ、
1800以上もの図解がこれに付随している、当時のもっとも重要な
印刷物の1つ。
1800以上もの図解がこれに付随している、当時のもっとも重要な
印刷物の1つ。
ヨーロッパのたくさんの街が描かれており、このニュールンベルクの街は
見開きの2ページに渡るものだそうで、見事ですねぇ!
見開きの2ページに渡るものだそうで、見事ですねぇ!
位置をどうぞ。
人口50万を超える、ドイツ全体では14番目、バイエルン州では2番目の、
中世から続く伝統あるドイツ史にとって極めて重要な街なんだそう。
中世から続く伝統あるドイツ史にとって極めて重要な街なんだそう。
ナチス政権の要人を裁いた「ニュルンベルク裁判」がこの街で開かれたのも、
歴史的に重要な街であったことからナチス政権は政権掌握後一貫して
ナチ党党大会をこの街で開いていた事、などから象徴的に行われたのだと。
歴史的に重要な街であったことからナチス政権は政権掌握後一貫して
ナチ党党大会をこの街で開いていた事、などから象徴的に行われたのだと。
現在の街の姿を探し、その重厚な美しさに驚きましたが、
この水辺の風景は本当に見事ですねぇ。
この水辺の風景は本当に見事ですねぇ。
余りドイツの街に興味を持ったことが無かったのですが、
少し興味が開けたような・・。
7. フィレンツェ 14世紀
この洗礼堂が美しいフレスコ画は、ビガッロ博物館にある
マドンナ・デッラ・ミゼルコルディアに捧げられた物、と。
あれ、ビガッロ博物館てどこにあったっけ?と探しましたら、
はは、何のことは無い、ドゥオーモの文字通りおひざ元、正面左向い角、
これをご覧になると即お分かりですね、この博物館にあり、
画家の名が分からないこのフレスコ画は1342年に描かれており、
既に当時のフィレンツェの街の並外れた概観を示します。
既に当時のフィレンツェの街の並外れた概観を示します。
こちらも。
フィレンツェの街のご案内あれこれは
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460834440.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460834440.html
8. ロードス島 15世紀
1487年頃に書かれた、ドイツの騎士コンラッド・フォン・グリューネンベルク・
Konrad von Grünenbergによる、コスタンツ・Constanceからエルサレム
への巡礼日記には、旅の途中で出会った幾つかの街についての説明があり、
Konrad von Grünenbergによる、コスタンツ・Constanceからエルサレム
への巡礼日記には、旅の途中で出会った幾つかの街についての説明があり、
歴史地理学の本としても、旅行文学に先駆ける作品としても、手稿本と
しても大変に意義があり、1700年代に大変に流行したのだそう。
しても大変に意義があり、1700年代に大変に流行したのだそう。
エーゲ海にあるロードス島の港は、巡礼旅の段階の1つだったと。
という事で、大変に繫栄している港町の様子ですが、
ロードス島の港の位置を。
現在の港、多分旧港と思いますが、なかなか趣があるでしょう?
かっては、港の入り口に、アポロ神の大彫像が脚を広げて建っていた、
という言い伝えがあるそうで、繁栄を偲ばせます。
shinkaiには巡礼の旅説明の、ドイツのコスタンツから、というのが
大変懐かしい思い出を引き出し、というのも、
大変懐かしい思い出を引き出し、というのも、
ヴェネト州のカステルフランコ・CasterFrancoの町は、画家ジョルジョーネ・
Giorgioneの生地、生家とされる博物館もあり、
Giorgioneの生地、生家とされる博物館もあり、
彼の描いた素晴らしい祭壇画もすぐ隣のドゥオーモにあるのですが、
左のマルタ騎士団の鎧の若者、マッテオの父親トゥーツィオ・コスタンツォ、
その父親ムーツィオはキプロス島の副王であり、
トゥーツィオはヴェネツィア共和国で傭兵隊長として働いていたのが、
その父親ムーツィオはキプロス島の副王であり、
トゥーツィオはヴェネツィア共和国で傭兵隊長として働いていたのが、
キプロス島の関係からも、キプロス女王であったカテリーナ・コルナーロと
信頼関係を結び、いや、もうちょっと進んだのかも、などなどのあれこれを
かなり調べた事がありましたが、はぁ、
信頼関係を結び、いや、もうちょっと進んだのかも、などなどのあれこれを
かなり調べた事がありましたが、はぁ、
カテリーナ・コルナーロ・Caterina Cornaro(1454-1510)について
アーゾロを彩る女性ふたり ・ アーゾロ市立博物館 n.2
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463693935.html
アーゾロを彩る女性ふたり ・ アーゾロ市立博物館 n.2
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463693935.html
ジョルジョーネ、トゥーツィオ・コスタンツォについて
カステルフランコの町 ・ ジョルジョーネ展
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462522712.html
カステルフランコの町 ・ ジョルジョーネ展
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462522712.html
その時に、コスタンツォ家はドイツのコスタンツから来た、という事も知り、
そんなこんなが一度に思い出され、懐かしかったのでした。
そんなこんなが一度に思い出され、懐かしかったのでした。
地図を。
コスタンツの街を。
9. パリ 15世紀
フランスの歴史家ジャン・フロワサール・Jean Froissartの「年代記」
これは中世の最も重要なものの1つから取られたこの画、
これは中世の最も重要なものの1つから取られたこの画、
パリの街で歓迎された「フランスのイザベラ女王」、という説明で!
はい、おフランスのパリ、の位置にてござります。
で、調べましたが、この「イザベラ・オブ・フランス」なる方(1295頃ー1358)
フィリップ4世(美男王)の王女、イングランド王エドワード2世の王妃、
フィリップ4世(美男王)の王女、イングランド王エドワード2世の王妃、
その美貌は「ヨーロッパ一」と謳われた、とあるものの、です、
夫王を押しのけ、愛人の貴族と組み実権を握り、15歳の息子を即位させ、
云々と続き、
「フランスの雌狼」と呼ばれた方らしゅうございまして・・!
云々と続き、
「フランスの雌狼」と呼ばれた方らしゅうございまして・・!
ご興味のある方、ウィキペディアに詳しくありますので、どうぞ!
10. 理想の街 15世紀
架空の都市の広場は、ルネッサンス期の都市計画の理想を示し、
この1480年の絵は、アメリカはボルティモアのウォルターズ美術館・
Walters Art Museum di Baltimoraに所蔵。
Walters Art Museum di Baltimoraに所蔵。
多くの仮説、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、フラ・カルネヴァーレ等の
名が挙がっているものの、誰の手になるものかは分かっていないと。
名が挙がっているものの、誰の手になるものかは分かっていないと。
◆ 訂正 ◆
こちらも、「理想の街」として知られる、ピエロ・デッラ・フランチェスカ作で
あろうとされる作品で、
あろうとされる作品で、
シニョレッリさんからコメントを頂き、教えて頂きましたのでここに訂正を。
ピエロ・デッラ・フランチェスカ作、というのは既に訂正され、
ウルビーノのドゥカーレ宮の設計をしたルチャーノ・ラウラーナ作(1420-1479)、
というのが定説になっていたのが、そうでない、という証拠が出て、
現在は作品のあるドゥカーレ宮の美術館でも、作品紹介板にも
「中部イタリアの無名作家」と出ているそうです。
shinkaiは、如何にも怜悧な色形、遠近法、というのがピエロらしいなぁ、と
好きだったので、違うとなると少し残念です。
マルケ州ウルビーノの、ドゥカーレ宮の美術博物館に。
ウルビーノのドゥカーレ宮に、フェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロは
ルネッサンスの宮廷文化を持ち込み、今もその素晴らしい宮廷と、
ルネッサンスの宮廷文化を持ち込み、今もその素晴らしい宮廷と、
文化の香りを残す町が残ります。
ウルビーノはまた、ラファエッロの生地としても有名で、生家博物館も。
ウルビーノの、パラッツォ・ドゥカーレ・Palazzo Ducale di Urbino
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463304758.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463304758.html
ラッファエッロの生家、そして、殺人的坂道のウルビーノ!
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463304481.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463304481.html
今回の記事は、中世期の街の構造、地図に焦点を当てたものが多く、
その分人間社会の色々が少なく、それが少し残念でしたが、
またしっかり取り戻し、御覧に入れれる様に頑張りま~す!
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