皆さんは20世紀初頭のパリの画壇を駆け抜け、僅か35歳の
生を終えたイタリア出身の画家
アメデオ・モディリアーニの絵はよくご存じと思います。
生を終えたイタリア出身の画家
アメデオ・モディリアーニの絵はよくご存じと思います。
これはモディリアーニが描いた、ジャンヌの肖像

では、彼の絵のモデルを務め、その官能的なヌードの主役だった女性、
彼の最後の同棲者、彼との間に子供も生まれていた女性ジャンヌ。
彼が亡くなった後、後追い自殺までしたのはかなり知られていると
思うのですが、
彼の最後の同棲者、彼との間に子供も生まれていた女性ジャンヌ。
彼が亡くなった後、後追い自殺までしたのはかなり知られていると
思うのですが、
実は画家であった、というのはご存じだったでしょうか?
私めはこれを知らずにいたので、今回知り、彼らの生活状態にも
かなり驚き、短い3年程の嵐の様な2人の生活!
かなり驚き、短い3年程の嵐の様な2人の生活!
同性として、絵を描く仲間の1人として、哀憫の思い深く、
今回ここに取り上げさせて頂こうと思います。
今回ここに取り上げさせて頂こうと思います。
そしてその他ウィキペディアのイタリア版、日本版も大いに参考に。
アメディオ・モディリアーニ・Amedio Modigliani(1884-1920)
についてはたくさんの資料も記事もあるので、
についてはたくさんの資料も記事もあるので、
単純に、ジャンヌとの関係においてを、ここで書く事にしますね。
こちらは、ジャンヌが描いたモディリアーニ。

モディリアーニはイタリアのリヴォルノ生まれ。 トスカーナや
ヴェネツィアで絵画の勉強し、パリに到着したのは1906年。
最初は彼の願望であった彫刻に取り組んだものの、若くして結核を
患っていた彼には大理石の粉末やらの問題で諦めざるを得ず、
絵画に転向します。
当時のパリでの、モンパルナス周辺でのたくさんの芸術家との出会いがあり、
その1人藤田嗣二のモデルをしていたジャンヌと出会います。
ジャンヌ・エビュテルヌ・Jeanne Hebuterne(1898-1920)

写真でお分かりの様に大変美しく、白い肌、長い髪の毛は茶色、から、
「ココナッツ」と呼ばれていたそう。
「ココナッツ」と呼ばれていたそう。
非常に信心深いブルジョワで裕福なカトリック教徒の家庭生まれで、
兄アンドレ・André、後に風景画家となった大変愛着を持つ兄がおり、
彼がモンパルナスの芸術的環境に彼女を紹介したと。
兄アンドレ・André、後に風景画家となった大変愛着を持つ兄がおり、
彼がモンパルナスの芸術的環境に彼女を紹介したと。
彼女は絵を描き、優れた腕を持ち、女子が芸術を学ぶのを
認められているコラロッシ・アカデミー・Colarossi に入学を。
認められているコラロッシ・アカデミー・Colarossi に入学を。
勿論両親は、「多くの男達がヌードを描く」、おまけに「生きている
男性のヌードを描く」中に入る事には反対したものの、
彼女の目的ははっきりしており、果てしない喧嘩と主張の末、何とか勝ち、
1916年、遂にアカデミーに通う事になったのですね。
1916年、遂にアカデミーに通う事になったのですね。
ジャンヌがいつどこでモディリアーニにあったのか、正確には分かりません。
1917年の2月、仮装パーティでか、藤田嗣二の紹介か、
また1916年12月30日に、という説もあり、
つまり彼女が18歳か、19歳、彼は33歳の、多くの嵐の様な女性関係の
1つが終わったばかりの時で!
1つが終わったばかりの時で!

そして2人とも一目惚れだったのです。
ジャンヌの両親は勿論この関係に激しく反対、というのも基本的には
当然の事で、
結核を患い生き残った男が、大理石と石の粉塵の為に、
望んでいた彫刻を離れ、その後は絵に専念しつつ、
多くの女性を持ち、アルコールとハシシに溺れ、短気で、
自由奔放な生活を送り、おまけにユダヤ人!
熱心なカトリックの家族にとっては小さな欠陥ではない、
14歳も年上の男。
ですが、彼に我を忘れたジャンヌは1917年7月、実家を離れ、
美術商のレオポルド・ズブロウスキー・Léopold Zborowskiが支払った、
ジャンヌが通うアカデミアからすぐ近くのグラン・ショミエール通りの
屋根裏部屋で一緒に暮らすように。
美術商のレオポルド・ズブロウスキー・Léopold Zborowskiが支払った、
ジャンヌが通うアカデミアからすぐ近くのグラン・ショミエール通りの
屋根裏部屋で一緒に暮らすように。
がジャンヌは、妊娠が明らかになった1918年3月迄家族には内緒に。
2人は大変な貧困の中で暮らし、彼の絵の販売とズブロウスキーの
援けで何とか生活し、
頻繁に訪れた人々は、お互いの絵を描いて日々を過ごしていると
伝えたそう。
援けで何とか生活し、
頻繁に訪れた人々は、お互いの絵を描いて日々を過ごしていると
伝えたそう。

モディリアーニも恐らくジャンヌに恋をしていただろうというのですが、
彼は彼なりにいつもの散らかった生活を続け、
彼女はただ彼と一緒にいる為に、静かに落ち着いて彼について行ったと。
彼女はただ彼と一緒にいる為に、静かに落ち着いて彼について行ったと。
何人かの友人は、カフェで彼の隣に、口を開かず、彼に無視されつつ、
そんな存在に満足して座っていた事を覚えていると。
そんな存在に満足して座っていた事を覚えていると。
若い女性の、本当に可哀そうな二人の生活の在り方、
本人は満足していても読む方が辛くなるような・・!
全てが彼の仕事の為に動き、ジャンヌはますます自分の絵を描く事が
少なくなり、彼の為にポーズを取り、
少なくなり、彼の為にポーズを取り、
こうしてモディリアーニは合計し20枚以上の、彼の作品の中で
一番評価されている絵を、この生活の中で生み出したのですね。
一番評価されている絵を、この生活の中で生み出したのですね。

一方ジャンヌの絵は、モディリアーニとの出会いの後、
内面の不快感を伝えるものとなり、
こんなにも若く美しかった女性が、

描く自画像はこんな風になり!


1918年夏、モディリアーニの肺結核が良くない状態をブロウスキーの
提案で、海が役立つことを期待し、ニースに引っ越し、
11月29日、娘のジャンヌが生まれ、母親には認められたものの、
結婚を約束したものの果たしていないモディリアーニには認知されず。
結婚を約束したものの果たしていないモディリアーニには認知されず。
ジャンヌの人生は根本的に変わり、フルタイムの母親となり、彼女は
子供と一緒に家に居り、とはいえ、両親は余り赤ちゃんの事をかまわずで、
雇われた乳母も一緒に。
モディリアーニの生活は変わらず、いつもカフェをうろつき、
いつも新しい女性と新しい冒険に満ち、
赤ちゃんの存在は仲間について行けないジャンヌを制限し、
絶え間ない裏切りに対する孤独と嫉妬の苦しみにねじれます。
絶え間ない裏切りに対する孤独と嫉妬の苦しみにねじれます。
そんな彼女から生まれる絵は、
男性、恐らくモディリアーニがベッドに横たわるジャンヌを観察する、
「ジャンヌの死」

そしてナイフで傷を負い、ベッドに横たわる妊婦 「自殺」

こんな自画像もあり、

見る方が恐ろしく! 可哀そう!!
多分若さのあまり、ただ彼を愛する事のみで他の生活は頭に無く、
貧しさもあり、選びようも無かったのかと思うと、哀れ!
貧しさもあり、選びようも無かったのかと思うと、哀れ!
1919年5月モディリアーニはパリに戻り、6月にジャンヌも一緒の
生活となりますが、
生活となりますが、
彼女は再び妊娠、グランショミエール通りのアパートに。
2人の生活費は絵を渡す事を条件に、ズブロスキーから毎月
渡されるもので生活していたものの、モディリアーニは自分の
渡されるもので生活していたものの、モディリアーニは自分の
カフェでの仲間付き合い、悪癖に多くを費やし、
ジャンヌは落ち込んではいたものの、彼のちょっとの思いやりで生き返り、
残念ながら、彼の魅力と彼への愛情にはまり込んだままになり、
残念ながら、彼の魅力と彼への愛情にはまり込んだままになり、
かってはこんなしっかりした絵を描いていたジャンヌも、

モディリアーニの病同様、彼女の妊娠は、彼の長年の生活態度、
つまり長期に渡る自殺同様に進行し、
治療を拒否し、ほとんど働かなくなった彼に彼女は完全に献身的で、
他のすべてに注意を払わなくなり、
他のすべてに注意を払わなくなり、
当時彼らを訪ねた人々は、2人がまったくの腐敗、汚れの中で、
彼らが買える唯一の食糧であるイワシの空き缶、空のワイン・ボトル
に囲まれ、暖房の無い寒い部屋に住んでいるのを知りますが、
1920年1月22日友人達がドアをノックしに行ったものの応答がなく、
友人と燐人がドアを壊し入り、ベッドに横たわっている2人を見つけたものの、
精神錯乱状態のモディリアーニと、すでに妊娠9か月のジャンヌが。
モディリアーニはすぐに病院に運ばれたものの、既に昏睡状態にあり、
2日後1月24日、シャリテ病院にて結核性脳膜炎により死亡、35歳。
彼の死後、ズブロスキーは彼女を1人でアパートに残さぬようホテルを
手配したものの、
翌朝、メイドは枕の下にナイフを見つけたので、自殺を恐れ、
彼女の実家に連れていかれました。
が、既に彼女は唯一の生きる意味を失い、冷静に見えたものの
現実離れしており、兄も近くにいたものの安堵せず、
現実離れしており、兄も近くにいたものの安堵せず、
たぶん彼女は既に自分の人生を決めていたのでしょう。
1月26日朝の4時、ジャンヌは5階の窓から身を投げ、
産まれようとしていた子供と一緒に即死。
見張っていた兄は、居眠りをしていたそうで。
ジャンヌの遺体は、両親にショックを与えぬよう、手押し車で2人の
アパートに運ばれ、友人達に見守られました。
モディリアーニの葬儀は大勢の友人達が費用を負担した印象的なもので、
彼は彼なりの性格で、多くの友人達に愛されていたのでしょう、
1月27日にペール・ラシェーズ墓地に埋葬。
ジャンヌの両親は、彼女の没落と死の原因、生まれて来る筈だった
孫の死の原因であると信じている者の隣に、彼女が埋葬されるのを
望まず、私的な葬儀で、彼女をバニュー墓地に埋葬。
モディリアーニは遂に彼女と結婚せずだったので。
漸く10年後の1930年、エビテルニュ家は娘をモディリアーニと一緒に、
ペール-ラシェーズ墓地に移す許可を与えたのでした。
ペール-ラシェーズ墓地に移す許可を与えたのでした。
彼女の碑文はイタリア語で、「極度な犠牲までを捧げたパートナー」と。

ジャンヌの絵画、スケッチはすべて家族が保管し、両親は展示を拒否。
というのも、彼らにとって娘は家族の恥ずべき者であり、
自殺は反抗的な最後の行為だったのですね。
が、彼らの死後、兄のアンドレはそれらの展示を許可したのでした。
1歳2か月で両親を亡くした娘のジャンヌは父方の祖母と一緒に育ち、
後にモディリアーニの姉の養子となり、
父からは与えられなかった姓を受け継ぎ、
後には、彼女は画家の最も偉大な伝記作家となり、1984年に没。
後にモディリアーニの姉の養子となり、
父からは与えられなかった姓を受け継ぎ、
後には、彼女は画家の最も偉大な伝記作家となり、1984年に没。
2人の生活を支えた、彼の仕事でもあったのですが、
画商のレオポルド・ズブロフスキー(1889-1932)ポーランド人は、
画商のレオポルド・ズブロフスキー(1889-1932)ポーランド人は、

作家、詩人でもあり、当時の画家たちと付き合いがあり、様々に援助、
作品を世に紹介し、稼ぎもした様子。
作品を世に紹介し、稼ぎもした様子。
が、1923年の経済危機で財産を失い、1932年悲惨な死を、と。
最後にモディリアーニの描いた、ジャンヌの肖像を。


ジャンヌ・エビュテルヌは、遂に画家として認められぬまま亡くなり、
碑文の通り、死後も「モディリアーニの献身的な同伴者」のままに。
碑文の通り、死後も「モディリアーニの献身的な同伴者」のままに。
モディリアーニと知り合って後、わずか3年程の短い青春の日々。
じりじりと砂の城が崩れて行くのを、手も出せずに眺める様な、
心の底からの 「哀れ!」 の念が沸いたのでした。
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