・ リュドミーラ・パヴリチェンコ  ロシア赤軍最高の女性狙撃手

リュドミーラ・パヴリチェンコ・Ljudmila Michajlovna Pavličenko
(1916-1974)をご存じでしょうか?

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先日ウクライナ兵の事を少し書いた後、なぜか頭から離れなくなった
狙撃手・スナイパー、という言葉。 伊語ではチェッキーノ・二。

なぜというに、ウクライナへのロシア侵入戦争で大きな影響を
持っているというドローンもですが、

正面だっては取り上げられないものの、ちらちらとほの見える影が
外国人志願兵、傭兵、狙撃手、スナイパー。

この言葉はかってのボスニア-ヘルツゴヴィア内戦の時も、ニュースに
しばしば出て来た記憶があります。

私めは戦争賛美者でも、賛成者でもありません。 でも、
怖がりのくせに、どんなものかはっきり、なるべく正確に知りたい性質で、

例によりあれこれ検索をかけ、様々な事を芋づる式に知り、

彼女は第2次大戦下のロシア赤軍における、最高の狙撃者だった事を。

女性兵士であった事、そして過酷な狙撃手だった事等など、
彼女の挙げた成果から国の英雄としての名声を得たものの、
晩年の活躍の底には、やはり厳しい心的外傷後ストレス障害に
苦しんだという事も知り、大変だったんだろうなという、

戦争下の1人の女性の生涯、という面からご紹介をと思いますので、
よろしくお読み下さる様、お願い致します。

彼女について最初に知ったのは、
ウクライナ最高のスナイパー、リュダとして知られるリュドミーラの物語
Storia di Ljudmila detta Ljuda, miglior cecchino d'Ucraina

そして、あれこれたくさんあるのですが、元はロシアの記事の、
リュドミーラ・パブリチェンコ。 最も有名な女性狙撃兵
Lyudmila Pavlichenko. Il cecchino femmina più famoso
こちらが大変詳細で、

と、例によりイタリア版、日本版ウィキペディア、にはいつもお世話に!
はい、年2回少額献金させて頂いてま~す。

で、彼女の若い時期の私生活については記事がそれぞれが違うので、
オリジナルがロシア記事、の内容を取り上げた事をここに。


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彼女は現在のウクライナの首都キーウ・キエフから数キロ離れた
ビラ・ツェルクヴァ・Bila Cerkvaで生まれており、

もしもっと後に生まれて来たのであれば、今の祖国の戦争では、
きっと違う旗の下で戦っていたのでしょうね!


14歳の時ウクライナ・ソヴィエト共和国首都キエフに両親共に移り、
そこで射撃協会に参加し、優れた射撃能力を発揮。
恐らく内戦で戦い、内政機関で働いていた父親が射撃を教えたのだろうと。

大変に頭も良く、国立高校卒業後キエフ兵器廠で働き始めたものの、
夜間学校に通い、工場で働いていた1932年リュドミラは、
ダンスで知り合ったアレクセイ・パヴリチェンコに恋をし、
早く結婚式を挙げたものの新婚夫婦には即息子、
のちにKGBに入った・ロスティスラフが!

子供の誕生にもかかわらず、結婚はすぐに破綻し、彼女は両親の元で
暮らすようになったのですが、元夫の姓パヴリチェンコをそのままにし、

その後の活躍でリュドミーラ・パヴリチェンコとして、世界的に有名となった
のですが、元の姓はベロヴァ・Belova.


1941年ドイツ、ルーマニア、ハンガリー、イタリアによるソ連領
侵攻開始となると、当時子供を両親に預け、黒海のオデッサ博物館に行き、
そこで卒業を予定していた24歳の彼女は、

戦争開始のニュースを聞き、短期の狙撃兵のコースを受け、即必要と
され、最前線のボランティアとして登録。

歩兵部隊への参加申請をし、その後の狙撃手適性試験に合格し、
第54歩兵師団の狙撃連隊に二等兵として配属。

彼女は当時の全ロシアで発掘された最高の射手を生み出した研究所、
キエフのオソルヴァチム・l’Osoaviachimuの発行した射手証明書も
持っており、

きっと若い彼女は国のために働ける、と意気高く出かけたものと。

当時2000人の女性狙撃者の1人で、そのうち生き残ったのは
500人だったそう!

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当時のロシア赤軍内の規律、古兵たちの横暴についてはかなり絶望した
様子もあった様子ですが、

モルダヴィア自治ソヴィエト社会主義共和国領土での戦いに参加し、
ウクライナ南部のオデッサとセヴァストポリの防衛に参加を。

注目に値する彼女の働きは1941年8月、ルーマニア軍がドニエストル河口に
到着し、一時的に第12軍に止められた時のことで、
オデッサからの8月13日までのソヴィエト軍の英雄的な防御にも関わらず、
地上ではナチス軍に完全に囲まれていたものの、

オデッサ近郊での10週間の戦闘で、リュドミーラは公式に179人、
または187人のルーマニアとドイツの兵士と将校を!

オデッサへの遠方の接近でも狙いを定めたショットで、最初の戦いで
2人のルーマニア兵を倒しているのですね。

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1941年10月までにソ連司令部はオデッサの防衛はもはや現実的で
ないと判断、10月1日から16日までに市の守備隊を撤退。

数千人の兵士、将校約86人、1万5000人の民間人、大砲弾薬が
セヴァストポリに輸送され、
街の守備隊を強化し、街の英雄的な防衛に参加。

同時に第25歩兵師団は分れて避難出来たのも、最後の1人、
つまりリュドミラの活躍によりの意と、 により避難出来、
ナチスの最初の攻撃を撃退する事に成功したのだと。 


彼女リュドミーラ・パヴリチェンコの公式敵兵殺害数を309人としたのは、
セヴァストポリの近くで、その中には、敵の狙撃兵36人が含まれると。


このセヴァストポリ近くの戦いで、リュドミーラは個人的な強いショック、
つまり1941年12月、狙撃兵でもあった中尉アレクセイ・キッセンコ・
Alexei Kitsenkoとの出会いがありました。

2人は近づき、関係を築き、一緒に任務を遂行し、
遂に2人は結婚登録を願い出ます。

彼女のたくさんの写真の中で、唯一の、男性とのショット。
若く美しく、うるんだ瞳をこちらに向ける彼女25歳。1942年2月。

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この彼の名を少尉レオニード・クッツエンコ・Leonido Kutsenko と
している記事もあるのですが、姓が同じ、多分名前の順番の違い?
かと思うのと、年月日が同じですので、同一人物と。


戦場は「愛」にとって最上の場所でない事は勿論でも、時は選べず、
そして自分の周囲で勝利の凱旋を上げている「死」に、人生に乾き、
愛情を欲していたのでしょう。

が、彼らの幸せは短く、1942年2月、上の写真のすぐ後、次の狙撃兵の
出撃中に、ドイツ軍は彼らの位置を突き止め、迫撃砲で覆いました。

アレクセイは座って、腕をリュドミーラの方に回しており、砲弾がすぐ近くで
爆発した時に、全て7つの破片を彼が受け止める結果に!

破片の1つは殆ど彼の腕を、彼女の肩に置いていた腕をもぎ取っており、
もしこの瞬間、彼が肩に腕を回していなかったら、リュドミーラの脊椎を
へし折っていただろうと。

怪我は余りにも深く、数日後彼は病院で彼女の腕の中で亡くなり、
愛する人を失くしたリュドミーラの両手は震え、暫くの間銃を打てなかったと。


そして1942年6月初旬に彼女自身が重傷を負い、兵士たちはなんとか
包囲されたコーカサスの街から、最後の負傷者の1人である彼女を
避難させることが出来たのでした。


こうして1942年6月7日に始まったセヴァストポリへのナチスの攻撃は
成功裏に終わり、多くの重要な砲兵陣地地域を支配する高地サプン山に接近。

7月1日、セヴァストポリでの組織的な防御は停止し、抵抗は孤立した
グループのみとなり、守備隊は封鎖され、
リュドミーラの働いた25-1ライフル師団は存在しなくなったと。


セヴァストポリの陥落は、第2次世界大戦の歴史の悲劇的な一幕となり、
上層部と中部司令部の一部のみが避難出来、
数万人のソヴィエト兵士が捕虜となりました。

同時に、侵略ナチス軍は都市戦で非常な大きな損失を蒙り、というのも、
先進ドイツ軍の攻撃の間、多くの場合、25人以下の精力的な戦闘員が
残り、最後の決死の戦いをしたのだそうで。



コーカサスでの長期治療の後、リュドミーラ・パヴェリチェンコはモスクワに
召喚され、赤軍の主要政治行政機関(GPU)に配属されます。

というのも、モスクワでは「勇敢な女性」リュドミーラを侵略者との戦いの
象徴とすることを決定し、
彼女を英国、アメリカ、カナダに派遣するソヴィエト代表団に含める事を
決定したのですね。 

代表団の1人として。

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ソヴィエト代表団はジャーナリストや国民だけでなく、政治家とも会うと
想定され、
これは重要なプロパガンダと啓蒙活動であり、西側住民、主にアメリカ人に
ソヴィエト連邦の領土で起こった戦争の恐怖に目を向けさせる事でした。



と、読んだ事をここに書いていると、つい同じ状況を現在逆の立場で
ロシアが起こしているではないかと、空しくもなるのですが、

ここは現ウクライナ生まれの女性が、当時は祖国であったロシア軍として
戦ったのだから、と思い慰めるしかなく・・。



こうして代表団の一員として各国訪問をした彼女が、
歴史に残る一節を発したのはアメリカでのスピーチの1つで、

  私は25歳です。 最初に、309人のファシストの侵略者を倒すことが
  出来ました。
  皆さん、長い間私の後ろに隠れていたと思われませんか?

会場はこの後一瞬凍り付いたようになり、そして満場起立の拍手となったそう。

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旅行は大成功をおさめ、ジャーナリストはリュドミーラに付けられた
形容詞で競い合い、
「ミス・コルト」 「ボルシェビキ・ヴァルキリー」「レディ・デス」等など。

世界的な認識と名声であり、多くのアメリカ人が以前は非常に遠い考えを
持っていたソヴィエト連邦での戦争に新たな見方を。

英語が堪能だったリュドミーラは、アメリカ大統領ルーズベルトの妻エレノアと
会い、ホワイトハウスにもしばらく滞在したりで、友情をはぐくみ、
終戦後冷戦となった後も、友好関係を続け、文通を続けたそうで、
1957年にエレノア・ルーズベルトがソ連を訪問した時は、モスクワで再会も。

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今日、リュドミーラ・パヴリチェンコが本当に、自分が倒した敵の兵士と将校の
数を309人と書いているかについて、多くの議論があるそうで。

実はこの数に疑問を投げる間接的な証拠は、1941年に赤軍兵士と将校に
政府のメダルが渡され、彼女は1942年4月24日に最初の軍巧勲章のみを。

セヴァストポリからの避難後、彼女はレーニン騎士団に紹介され、
有名な女性狙撃兵としての、ソヴィエト連邦の英雄称号は、約1年半後の
1943年10月、セヴァストポリ近郊での戦闘が終結した時に授与されましたが、

先に授与された男子勢は、同様のランクのソヴィエト狙撃兵としては
はるかに低いヒット数で授与されているそうで。

という事で、狙撃されたナチスの数については、疑問が続くであろうと。

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現在の平和の中で、少なくとも戦争に直接関与していない場合、
狙撃兵が国の戦争で、祖国の為に行う事に関しては、
我らが日本の特攻隊、ゼロ戦飛行士に対して抱く思いと同じと思い、

リュドミーラ・パヴリチェンコの勇敢さに対し、尊敬の念さえ覚えます。


前線にいた時、彼女は4回ひどいショックを受け、3回負傷したと言い、

彼女に降りかかった怪我、脳震盪、そして厳しい試練、愛する人を失くし
常にうつ病に苦しみ、心的外傷後ストレス障害、そしてアルコール依存症
にも苦しんでいたそうで、
 

それらが58歳の若い死、1974年10月10日、脳卒中の要因と
なったと考えられるとも。


切手に肖像が描かれ、それも2種類も、彼女の事を書いたたくさんの本、
映画も、という英雄としての生涯を終えましたが、

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私生活を知ると、大変な時代に生きた女性だったんだ、と思い、
本当にご苦労様でした! と頭が下がります。


昨日は長い間エリザベス2世のお葬式の中継を見ましたが、
やはり大変にお偉く、そして大変な人生だったろうと思いました。
あのお美しさ、あの威厳、あの姿勢をずっと70年保たれた立派さ!

いずれの世にも、やはり立派な方がおられ、自分の姿勢を変えずに
生き抜かれる素晴らしさ、凄さに、

そういう女性の先輩がいる事に頭が下がり、有難うございます! と
せめてものお礼の言葉を言う私めです。


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posted by shinkai at 06:20Comment(0)・欄外