・ ヴァン・ゴッホの最後の様子。 宿の娘アデリーヌの証言から

先回分家ブログの2部に取り上げた、

なぜかこういう時は不思議に、次の話題が自然に届くもので! 今回は、
ゴッホが人生の最後の2か月間を過ごした宿屋の娘、アデリーヌの証言 を。

実際の記事のタイトルは、
アデリーヌ、ヴァン・ゴッホの宿の娘:”画家の死について空想が多すぎる。私は見た。今あなた方に話します
Adeline, la figlia degli albergatori di Van Gogh: “Troppe fantasie sulla morte del pittore. Io ho visto e ora vi racconto”

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彼女は自分の父親が経営していたオーヴェル・シュル・オワーズのラヴー旅館
にヴィンセント・ヴァン・ゴッホが彼の人生最後の2か月間を過ごした時13歳。

毎日顔を合わせ、食事も共に。 そして規則的に写生に出かけるヴァン・ゴッホを
父親共々家族の一員の様に思い接していた人々には、

彼の悲劇の死は大きなショックで、記憶に刻み込まれた事でしょうし、
実際彼女の父は何度も彼の話を繰り返したので、明確に記憶していたのですね。

ヴァン・ゴッホが負傷し戻って来た1890年7月27日の夜を
ムッシュ・ヴィンセントの隣で一人で過ごした彼女の父親にとっては
それこそ忘れられない夜だったでしょうが、

当時はヴァン・ゴッホは画家としては土地の人々と、少ない画家の友人のみの
記憶にあり、それで年と共に次第に薄れて行った様子です。

そして63年の歳月が流れ、
その間に、「炎の人」として、ゴッホを描いた本が出版され、その後に
カーク・ダグラス主演の映画「炎の人」が上映され、アカデミー賞も受賞、
一挙にヴィンセント・ヴァン・ゴッホが蘇り、

様々な人々がオーヴェル・シュル・オワーズの村を訪れ、覗きまわり、
ヴァン・ゴッホの描いたアデリーヌの絵が発見された後は、彼女もインタヴュー
され、最初は正直に答えていた彼女も、その後の記事を見ると
なんともひどく捻じ曲げられたり、嘘だったりで、落胆したのだそう。


ヴァン・ゴッホの人生、作品の数々については、たくさん書かれたものがあり、
ヴァン・ゴッホの絵のファンの皆さんはshinkaiよりも知識が深いかもで、

今回ここに書くのは、アデリーヌが多分晩年になってのインタヴューで、
当時の記憶、父親が描写した想い出の記憶、で、
様々な謎があるヴァン・ゴッホの死、自殺、については真相を
探りませんので、よろしくご了承願います。

ですが、あちこちに描かれている経緯と、周囲の人物像は
やはりちょっと違う、と思われる部分があり、
その意からも今回取り上げました。


さて、ラヴー旅館の1890年の写真、から始めますね。

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ここは19世紀半ばにオーギュスト・クロスニエが居住用として
建てた建物で、大通りに面し、1876年所有者の娘ヴァレンタインと
夫のレバートがワイン小売業を始めたのだそう。

ちょうどこの宿の、現在の公式サイト「オーベルジュ・ラヴォー」を
見つけたので、
https://www.maisondevangogh.fr/fr/auberge-ravoux_histoire.php
ご案内も間違いなく出来ます!
日本語にも自動翻訳してくれるので、是非ご訪問を。


夫のレバートは、ビジネスの才覚を持つ男性で、店の正面を装飾した
エレガントな文字の看板の下、大きなガラス張りの素敵な正面が見える
1884年の写真を。

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道の向かい側には、数年後に市庁舎ができ、小学校も兼ね、
広場の周囲に商店が並び、毎週木曜には農民たちが牛の市に
集まる場所になり、

旅行者、芸術家たち、休暇中の都市居住者達に家具付きの部屋を
幾つか提供する様になり・・、

如何ですか、かっての良き時代の田舎の良き佇まいが頭に浮かぶ様でしょ?!


それを1889年運営するマネージャーを探していた所、
アルチュール・ギュスターヴ・ラヴーと出会い、賃貸契約を。


パリから北に30kmの距離にあり、1846年以来毎日十数本の電車が
町と連絡しており、

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1890年5月20日、パリからの客に交じりオランダの画家が降り立ち、
カミーユ・ピサロが、ヴィンセントの弟のテオに推薦した医師のガッシュ博士が
住んでいるオーヴェル・シュル・オワーズに暫く滞在すべくやって来たのでした。

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2階の踊り場を見下ろす小さなベッド・ルーム、天窓があり、
部屋料金は1日1フランのみ、食事が1日2,5フラン、という安さも
ヴィンセントは気に入ったのでした。

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さて、ヴァン・ゴッホが怪我をして戻った1890年7月27日
13歳だった宿の娘アデリーヌ・ラヴー・Adeline Ravourの証言を。

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その日曜日、ヴァン・ゴッホは昼食をすますとすぐに画材を背負い、外出。

そして夕暮れになってもまだ戻って来ず、彼は宿の皆との関係が非常に
正確だったので、これは皆がとても驚いたのだそう。
いつもは時間通りに食事の時間に到着したからです。

平日よりも忙しい一日の喧騒が終わり、日曜だけ、カフェ・テラスに
全員で座っており、
ヴィンセントが戻って来たのを見た時は既に夜、9時位だったのです。

彼は腰をかがめお腹を押さえ、一方の肩をもう一方よりも高く保つ
習慣を更に強調した姿勢で、

母親が彼に「ムッシュ、ヴィンセント、皆で心配していました。
貴方が戻って来て嬉しいです。何か不愉快な事でもありましたか?」

彼は苦しそうな声で、「いいえ。でも私は・・」 話し終えなかった。

そして部屋を横切り、階段を上り、自分の部屋に行きました。

私はこの光景を目の当たりにしましたが、ヴィンセントの様子が
とても印象的だったので、パパは立ち上がり、階段を上り、
何か異常があったのかを聞きに行きました。

私はうめき声が聞こえたと思い、すぐに立ち上がり(上に行き)
ヴィンセントがベッドにうつぶせに横たわり、膝を顎に付け、
大声でうめいているのを見ました。

「どうしました、 病気ですか?」 パパが尋ねました。

ヴィンセントはシャツを持ち上げ、心臓の辺りに小さな傷が
あるのを見せました。

我々の右側にある大変薄い壁は、ヴァン・ゴッホの部屋と、
オランダ人の画家トムの部屋を分けており、彼は仲間の救出に
大きな働きをしたのでした。

父は「なんと不幸な、何をしたのです?」と叫び、
「自殺したかった」とヴァン・ゴッホは答えました。


ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの悲劇的な死は、私たちの家族に
とっても、私の人生でも最も重要な出来事の1つであり続けたので、

父は私と私の妹の前で、何度もそれらについて言及し、
老後、失明した父は、嬉しそうに何度も想い出を辿りましたが、

ヴィンセントの自殺は、彼が最も頻繁に、そして非常に正確に語った
事実の1つだったのです。


時々父はカフェの顧客に1870年の戦争の思い出を話しましたが、
幾つかの事実は歴史問題の専門家であるル・プティ・パリジャンの
年代記の記者の注意を引き、

彼の名はド・サン・ティーヴ氏だったと私は信じていますが、
彼は父の行った事を確認し、彼が提供したすべての詳細が確認され、
誰もパパの行った事に疑問を呈する事は出来ず、

父の証言の価値は十分に確立しているので、私は偉大な画家の死に
関する父の思い出の物語を続けます。

・・・

日曜から月曜までの夜、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは彼と一緒に
過ごした父に、打ち明けた秘密についての説明を続けます。

ヴィンセントは、後にパリのメッシーヌ通りに住んでいたゴスラン氏が
所有するオーヴェル城の城の裏にある、以前にも絵を描いた
トウモロコシ畑に行っていました。

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城は私たちの家から0,5km以上離れていて、背の高い木々に覆われた
かなり急な丘を上って行くことが出来ますが、
彼が城から離れたかどうかは分かりません。

午後、城壁に沿って走る深い小道で ー 父は理解した 
-ヴィンセントは発砲。(倒れ、気絶した、と)

夜の涼しさが彼を甦らせ、四つん這いになり、実際に自殺する為に
銃を探したが見つけられなかった。(翌日も見つかりませんでした)

で、ヴィンセントは起き上がり、丘を下り、私たちの家に戻りました。


勿論、私はヴァン・ゴッホの死期の苦しみを目撃しませんでしたが、
でもこれからお話しようとしている出来事の殆どを目撃しました。


父は心臓の辺りの傷を見た後、ヴィンセントがうめいていた部屋から
急いで出て、トム・ハーシッグ・Tom Hirschig(宿に住んでいたオランダ人画家)
に医者を探しに行くように頼みました。

オーヴェルに住み着いた、ポントワーズ出身の相談できる医者がいました。
が、不在でした。

で、父はトムをガシェ博士に送りました。 博士は町に住んでいましたが、
オーヴェルでは仕事をしていませんでした。


ガシェ博士はゴッホと接触していましたか?

父はこれには全く気が付いていませんでした。 博士は私たちの家に
来た事はなく、父が目撃した光景では、逆の事を推測する事は出来ませんでした。

(編集者注:テオ・ヴァン・ゴッホの友人であり、医師でコレクターでもある
ドクター・ガシェが別荘を持っていて、彼がモニターできる芸術家村オーヴェルで
ヴィンセントが休暇を過ごすよう招待していたのでした)

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でも、多分、ガシェは自分よりもクレイジーだと言ったゴッホの証言を含む
幾つかの証言で証明されている様に、
ドクターと芸術家は熱心にお互いに頻繁に会う事はなく、ラヴー旅館でも。

編集部注:アデリーヌがこの点について証言する理由は、ガシェ博士が、
長くベッド・サイドにいたと主張し、多くの証言を集めたガシェに反論する為です。


医師の診察の後、父は私たちにこう言いました。
ガシェ博士はヴィンセント氏を診察し、彼が持ってきた包帯を巻いた」と。
(彼は負傷者がいると知らされていた)

医師はこの事件は絶望的と看て、すぐに立ち去りました。
彼が戻って来なかったのは間違いありません。夜も、翌日も

父は私たちにこうも言いました。
「診察中、そして彼が目隠しをしたとき、ガシェ博士はヴィンセント氏に
一言も言わなかった」と。


医者を家まで送った後、父はヴィンセント氏の所に戻り、一晩中彼を
見守りました。 トム・ハーシッグも彼の傍にいました。

医者が到着する前、ヴィンセントは父にパイプを頼み、夜の間吸っていました。
彼はひどく苦しんでいる様で、時々うめき、
パパに、耳を近づけて内出血のうなりを聞くように頼みました。

夜の殆どを無言で、時にうとうとしていました。

翌朝、メリー旅団の憲兵2人が、おそらく大衆の非難に警告され、家に来ました。
そのうちの1人、名をリガモンという、が不愉快な口調で父を呼び、
「ここが自殺があった場所か?」

父はも少し優しく、と頼んだのち、瀕死の男性の所に行くように誘い、
彼は憲兵に先立って部屋に入り、
ヴィンセントに、フランスの法律ではこういう場合、憲兵による調査を
要するのでと説明し、憲兵たちは部屋に入りました。

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リガモンは相変わらず同じ口調で、ヴィンセントを呼び、
「自殺したかったのはお前か?」
「はい」 ーヴィンセントはいつもの通り柔らかい口調で答えたと思います。

「お前は権利を持っていない事を知っているな」
「憲兵、私は自分の体の支配者であり、自分の体を好きな様に自由に
 使うことが出来ます。
 誰にも責任はありません。自殺したかったのは私でした」

で、父は憲兵たちに、これ以上主張しないよう、少し厳しく懇願しました。


明け方、父はヴィンセントの弟であるテオに知らせようと気を付けていましたが、
負傷者はうとうとしていて、正確な情報を(テオの自宅住所)提供できず、
というのも、憲兵の訪問でエネルギーを消耗し、疲れ切っていたのでした。

しかし、ヴィンセントの弟がパリのモンマルトル大通りにある
ブソ・ヴァラドンで絵画販売をしているのをパパは知っており、
郵便局が開いた時、この住所に電報を送り、

テオは午後半ばに電車で到着しました。

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彼が走っているのを見たのを覚えていますが、実際の所、駅は
私たちの家からかなり近い所にありました。

彼はヴィンセントよりも少し背が低く、手入れも行き届き、容姿も良く、
とても親切そうに見えました。

が、彼の顔は苦しみでぐしゃぐしゃになっており、
急いで階段を上り、母国語で話しかけながら、兄にキスをしました。

私の父は引き取り、会話中は一緒せず、夜になる迄彼らに加わりませんでした。


弟を見た感動の後、ヴィンセントは昏睡状態に陥り、
テオと父は負傷した男性が7月29日午前1時に亡くなるまで、見守りました。

その日の朝、テオと一緒に市役所に死亡宣告所を提出したのは、パパでした。


家は私たちの1人の死を悼み、バールのドアは開いていましたが、
シャッターは下ろされていました。
午後、棺に入れられた後、遺体は「画家の部屋」に運ばれました。

トムはその部屋を飾る為に緑を集めに行き、テオはヴィンセントが残した
キャンバスを、その周囲に配置しました。
(画家の部屋はキャンバスと画材の保管場所だったのです ー 編)

オーヴェル教会、菖蒲、ドービニー庭園、ランファン・ドランジェ等などの絵。

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棺の足元には、パレットと筆を並べました。


架台(棺が置かれた ー 編)は、私たちの隣人である大工のレヴァート氏
から貸与されたものでした。

彼の2歳の子供は、ヴァン・ゴッホが「オレンジと子供」で描いたもので、
棺を作ったのは、いつもムッシュ・レヴァートでした。

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埋葬は、彼の死の翌日に行われ、約20人の芸術家たちが棺に従い
村の墓地に向かいました。

父は葬式に出席し、同様にトムとマルティネス、そして毎日ホテルを出て絵を
描きに出かけるヴィンセント氏を見ていた隣人たちも出席しました。

葬式からの戻りに父は、テオ、トム、ガシェ博士と彼の息子ポール、
当時16歳位だったろう、を同伴していました。

彼らは棺が出て行ったばかりの、絵が展示されていた「芸術家の部屋」
に入り、

テオは、兄の世話をしてくれた人々に感謝したく、思い出として、
亡くなったばかりの芸術家の絵を提供しました。



父は私の肖像画と、ヴィンセント氏が生前に与えてくれたオーヴェール市庁舎に
満足していました。 (テオの提案を断ったのでした ーshinkai)

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提案がガシェ博士にされた時、彼は多くのキャンバスを選び、息子のポールに
渡し、「巻け、ココ」と言い、つまり束にして縛りました。

そしてテオは私の妹ジャーメイン・Germaineにおもちゃを選びましたが、
それは鉄の鍋の小さなセットが入ったバスケットでした。


最後に、テオは兄の所有物を持ち去り、二度と彼を見ませんでした。

かなり後になり、兄の自殺の後にじきに彼が重病となり、数か月後に
亡くなった事を知りました。


ー ヴィンセントの自殺の理由は何ですか?

父の意見はこうでした。 テオには赤ちゃんが生まれたばかりで、
ヴィンセントは甥を可愛がっていました。

が、ヴィンセントは弟が結婚し、今迄の様に追加費用が掛かる彼を
サポート出来なくなるのではないかと恐れていました。

これが、テオが父に、ヴィンセントが書いた最後の手紙は、
この意味であると語った理由です。

(以下、アデリーヌは基本的にねじれた方法で公開された手紙には、
弟の意見ではヴィンセントは自殺したであろう理由が現れていない、と。 
ー 編)

後悔されたものには番号652が付けられていて、(ヴィンセントが
持っていた未完の血まみれの手紙の下書きには、
テオが 「7月29日、彼が持っていた手紙(判読付加)」と注釈を。

・・・

私たちは、彼の人生における恋への失望や、彼の絵の成功の欠如については
何も知りませんでした。

テオがヴィンセントを見守っていた時に私の父に話さなかったら、彼の経済的
困難を確実に無視していたでしょう。

彼は私たちに宿代を定期的に支払っていたので、彼が財政難に陥っている事を
私たちは知りませんでした。

・・・

私の話は終わりです。 文章を変更せず、そのまま掲載して頂きたい
と思います。

・・・

1890年7月27日の悲劇的な夜をヴィンセントの隣で1人で過ごした父から
聞いた事を良心に基づいて話しました。

美術史家との論争は絶対に避けたい。

しかし、これは保管しておくと便利な文書であり、ヴィンセント・ヴァン・
ゴッホのオーヴェル・シュル・オワーズ滞在の実話を書く際に
参照する必要があると確信しています。

アデリーヌ・キャリー (元ラヴー)

・・・

以上がアデリーヌが語った、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの最後の様子で、
文中 ・・・ と間隔を置いた所は、彼女が自分の言った事を明確に
説明する為の、例を挙げているので、ここでは省きました。


最初に書いた通り、ヴァン・ゴッホの自殺の謎については様々な
憶測があり、書かれていますし、それは簡単に探して読めますので、
ここではしません。

ただ私がふうむ、と思ったのは、ガシェ博士の人柄、
ヴァン・ゴッホへの対応、怪我人に対する配慮、埋葬後の彼の絵の
テオからの受け取り方、等などに尽きます。

これは今迄知らずにいて、今までは書かれた事を読み
単純に信じていたので、ふうむ、だったのでした。


ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは37歳の若い死で、ここに滞在中に
80枚以上の油絵と64枚のスケッチ制作を。

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上に使ったヴァン・ゴッホの写真は記事に載っていたものですが、
別に見つけたこの写真で、上の写真が鏡式に顔の左右が逆だった
と分かりましたので、ここにオリジナルを載せます。



弟のテオは、「ゴッホの手紙」を読んでも辛くなる程に兄を支え続け、
兄が亡くなると、自分も後を追うように、6か月後に亡くなりました。

1914年になり、テオの未亡人ヨーは、テオの遺骨をオーヴェルに
埋葬し、兄弟の墓は現在この様に並びます。

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ラヴー家には1892年6月19日に最後の娘オルガレジャンが生まれ、
8か月後に彼ら一家はオーベルジュを去り、ムーランで大きな醸造所を
経営する事に。

その後この宿は何度も経営者が変わり、時が流れ、幸運にも1952年に
良き経営者に引き継がれ、1954年に子供の頃の場所に戻ったアデリーヌの
お蔭で、ヴァン・ゴッホの寝室を再建でき、

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またその後、1992年の修復工事が始まるまで待ち、

現在は、博物館兼レストランとなり、画家の部屋だった5号室が
一般公開されているとの事。

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夢を追う芸術家たち、また若くして亡くなる人々の死は、
いつも何かを、彼らを知る人々に、また我らの胸にも熱く残ります。

そんな時いつも、この感じた気持ちをなんとか保ち続けたいもの、
と願うのです。


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posted by shinkai at 06:52Comment(0)・欄外